2025/04/07 - 2025/04/07
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bunbunさん
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この旅行記は「島根 足立美術館庭園」(https://4travel.jp/travelogue/12026902)の続きです。
山陰地方唯一の現存天守で、2015年に国宝5城の1つとして5番目に国宝指定(その他は、姫路城(1951年指定)、犬山城(1952年指定)、彦根城(1952年指定)、そして我が故郷の松本城(1952年指定))、都市景観100選に選定(1992年)、日本100名城に選定(2006年)、城跡が国の史跡に指定(1934年)、日本さくら名所100選にも選定(1990年)された松江城を見学してきました。
1600年(慶長5年) 関ヶ原の戦いでの戦功で、堀尾忠氏は出雲隠岐24万石を得て山城・月山富田城に入城しました。この時が松江藩の成立で*)、初代藩主は堀尾忠氏です。堀尾忠氏は1604年(慶長9年)27歳で亡くなり、後継者となった彼の子・堀尾忠晴はまだ6歳だったため、堀尾吉晴が堀尾忠晴の後見人となりました。もともと山城は近世城下町形成に不利であったことから、1607年(慶長12年)堀尾吉晴は堀尾忠氏が提案していた亀田山に平山城の建設を始め**)、1611年(慶長16年)正月に松江城が落成し、堀尾吉晴と堀尾忠晴は松江城に移って、堀尾忠晴が初代城主となりました。堀尾吉晴は入城半年後の1611年6月に亡くなり、堀尾忠晴は1633年(寛永10年)に亡くなりましたが、嗣子が無くて改易となり、その跡を京極忠高が継ぎ(1634年(寛永11年)~1637年(寛永14年))、さらにその跡を松平氏が継ぎました(1638年(寛永15年)~1871年(明治4年))。
*) 「藩」という名称はこの当時はなく、この名称は、江戸時代の後半(18世紀後半〜19世紀)に知識層によって使われ始め、幕末(19世紀半ば)に知識層の間で広く使われるようになりました。しかし、依然として幕府の行政文書では「藩」は正式名称ではありませんでした。「藩」を、大名が支配した領域と、その支配機構を指す歴史用語として正式に採用したのは明治政府で、1869年のことです。現在の歴史学はこれを基に記載していますので、ここでは「松江藩」と言った表現を使いますが、当時の呼称は「出雲国」等です。
Wikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B1%9F%E8%97%A9)にはこの時「出雲富田藩(いずもとだはん)が立藩した。」、「慶長16年(1611年)に吉晴は松江城に移り、松江藩が成立した」と記載されていますが、現在の歴史学においてこれは間違いです。
**) Wikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B1%9F%E5%9F%8E)には、松江城の築城主は、堀尾忠氏であると書かれていますが、堀尾忠氏は1607年の築城開始3年前に亡くなっているので、これは間違いです。
松江城の別名:千鳥城の由来
1644年~48年の絵図「出雲国松江城絵図(正保城絵図)」には天守の2、3層目に計6カ所の千鳥破風が描かれており、天守の内部調査の結果、2階東側の柱4本に直径約20 cmの穴があり、絵図にある千鳥破風と位置がほぼ一致することが分かりました。この結果から、松江城は1611年の築城当時は千鳥破風を有しており、これが千鳥城の由来と考えられています。本文の写真からわかるように、現在の松江城は千鳥破風を有しておりませんが、これは、1738~43年の天守大修理の際、千鳥破風の撤去をはじめ、天守が大きく姿を変えたためであろうと考えられています。
1871年(明治4年)廃藩置県の行政改革、1873年(明治6年)廃城令の発令により、天守や一部の櫓を除く建造物は4円から5円(当時の価格)で払い下げられ、撤去されました。天守も180円で売却されることとなりましたが、出雲郡の豪農の勝部本右衛門や元藩士の高木権八が同額の金を国に納める形で買い戻されて、保存されることになりました。
1950年(昭和25年~1955年(昭和30年)には天守の解体修理が行われ、1960年(昭和35年)には本丸一之門と南多聞の一部が復元、1994年(平成6年)には三之丸と二之丸を結ぶ廊下門(千鳥橋)と二之丸下段の北惣門橋(旧眼鏡橋)が復元、2000年(平成12年)には二之丸南櫓と塀(40m)が復元、2001年(平成13年):二之丸に中櫓・太鼓櫓と塀(87m)が復元されて、現在に至っております。
松江城はその独特な構造にも拘わらず、他の国宝4城よりも国宝指定が大幅に遅れた理由は、築城年が明確にならなかったためです。しかし、本文で詳述するように、2012年に1911年築城の決定的証拠が発見されたことから、国宝に指定されました。
本旅行記では説明板の写真とその説明文を多用しますが、本旅行記の著者は管理者である松江城山公園管理事務所より、2026年1月21にその使用許可を得ております。
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大手木戸門跡脇(現在地と書かれた場所)にあった案内図を最初にここで示します。
上が北です。 -
1つ上の案内図に「現在地」と書かれた南の道路を南(下)から北へと進み、市営大手前駐車場を目指します。
西(左)に千鳥橋、大きな石垣とその上の南櫓、中櫓が見えます。
南櫓や中櫓は、廃城令にもかかわらず、撤去されずに残されていましたが、現在の櫓はそれぞれ2000年(平成12年)、2001年(平成13年)に復元されたものです。
サクラが満開ですねえ。 -
カメラを少し北(右)振ると、右端に外曲輪(馬溜)も見えてきました。
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1つ上の写真の中央部分をズームイン。
2つの櫓をつなぐ瓦屋根の塀には大小二種類の孔が等間隔で並んでいます。
後で裏側から見ますが、この塀は骨組みのある土塀で、外側は板張りとなっています。
大きい(縦長)孔は矢狭間、小さい孔は鉄砲狭間です。
これらの孔から、攻めてくる敵を弓や鉄砲で攻撃することができます。 -
中櫓、ズームイン。
両側の壁は斜めで下が飛び出していますが、これは石落しです。
石垣を上ってくる敵を、石を落として攻撃します。
石落しの間には格子窓があり、その外側には突き上げ戸がついています。
この格子窓からも攻めてくる敵を弓や鉄砲で攻撃することができます。
突き上げ戸を閉じれば防御となります。
石垣は角の部分が算木積、角の両側が打込接(うちこみはぎ)の乱積です。
石垣については、後で説明板がありましたので、そこで説明します。 -
市営大手前駐車場に車を置いて、城に向かいます。
途中堀川遊覧船乗場から見た北方。
内堀と、右手奥に見える橋は北惣門橋です。 -
駐車場と大手木戸門跡の間にある、松江城を築いた堀尾吉晴公の像。
後ろが市営大手前駐車場です。 -
堀尾吉晴公の像の西側にある大手木戸門跡。
門構え状の看板がありますね。
上部には「お城まつり」と書かれています。
これは全く知りませんでした。
右側面にはその期間が「令和7年3月26日(水)~4月9日(水)」であること、3月29日(土)、30日(日)、4月5日(土)、6日(日)には馬溜ステージイベントが開催されること、左正面には、5日(土)に堀尾吉晴公・松江武者行列が行われることが書かれています。今日7日(月)はお城まつり期間中ではありますが、残念ながら主だったイベントは無いようです。
銅像やこの祭りの存在から、堀尾吉晴が郷土の誇りとして、この地の人々にいかに崇められているかがわかります。 -
右手(北)あった、「松江城保存につくした人たち」の説明板です。
「明治4年(1871)4月、 松江城の廃城が決まり、明治8年(1875)に、利用できる釘や鎹鍵など釜物が目的の入札が始まりました。木材は燃やし、石材は壊されるしかありませんでした。松江城の姿は失われる寸前でした。
この危機を救ったのが、元松江藩士髙城権八と出雲郡東村(現斐川町坂田)の豪農勝部本右衛門家の人たちでした。 髙城は銅山方役人、勝部家は当時、銅山経営をおこなっていましたので、本右衛門栄忠と、息子の景浜は、髙城と公私にわたる親しい間柄でした。
そのとき、松江城を管理していたのは陸軍広島鎮台でした。入札で松江に来ていた責任者の斉藤大尉と会い、入札額と同金額を納めるから、せめて、天守閣だけでも残してほしいと懇願しました。
天守閣の入札額は180円だったと伝えています。
こうして、髙城権八と勝部本右衛門の努力で松江城天守閣は残り、全国に現存する十二天守*) のーつとして、今も、戦国の威風をただよわせて松江の町を守っています。」
―説明文より―
*) 弘前城・松本城・丸岡城・犬山城・彦根城・姫路城・松江城・備中松山城・丸亀城・伊予松山城・宇和島城・高知城です。 -
大手木戸門跡のお城まつりの看板をくぐって外曲輪(馬溜)に入りました。
広いねえ。「馬溜」という名称は、馬に乗って出撃する兵が一度この広場は集まったことによります。
お城まつりのテントやイベントのステージ、観客席もまだ残っています。
石垣の上、右側は太鼓櫓、その左には中櫓とつなぐ瓦屋根の塀があります。
左下の四角の枠は井戸跡です。
石垣の石は、写真左のやや明るい部分が松江市美保関町で産出する森山石の砂岩・礫岩、右の黒っぽい部分が松江市忌部町で産出する忌部石の安山岩です。この忌部石は新第三紀中新世(2300万年前~530万年前)の大森層を形成しています。
両産地とも海岸や湖岸に近く、船で石材を松江城に運搬するには便利だったと思われます。 -
近づいて見た石垣と塀。
石垣の高さは13 mです。
その石垣の上に、先ほどと同様矢狭間と鉄砲狭間が交互に等間隔で並んだ塀があります。
後で裏側から見ますが、大きい(縦長)孔は矢狭間、小さい孔は鉄砲狭間です。
石垣は打込接の乱積です。 -
1つ上の写真の右手(北)方向。
中央上部の石垣上の太鼓櫓の両側にはやはり石落しがあります。
太鼓櫓直下の石垣の石はその下の石に比べて表面が綺麗にみえますが、これは1996年~1997年に石垣が修復されたことによります。
右下に壁のない瓦屋根の建物があります。
その手前の石と溝は石組水路です。後で掘削時の写真を示します。 -
中を覗いてみる。
何も無いですね。
「井戸跡
3.0 m×2.1 mの長方形の井戸で、割石を積んで造っていました。保護のために遺構の上に厚さ50 cm程の土を盛っています。」
―説明板より―
後で掘削時の写真を示します。 -
外曲輪(馬溜)を東に戻って、北に見た大手門跡。
石垣の石は忌部石ですが、左側は1963年、1996年に、右側は1997年~1998年に修復されています。
おまつりですから、出店がたくさんあります。
大手門跡の向こう(北)は、松江城外曲輪跡 (二之丸下ノ段跡)です。
左下に碑と説明板がありますねえ。 -
伯爵松平直亮撰并篆額松江城碑。
この碑は松江松平家第13代当主で伯爵の松平直亮(1865年-1940年)によるもので、茶、和菓子、工芸品、庭園等、松江の文化の礎を築いた松平家松江藩の第7代藩主・松平治郷の功績を称えるものです。 -
碑の横の説明板「史跡松江城馬馬溜」の説明板。
A 松江城郭絵図/元文3(1738)年
B 松江城縄張図/元禄5(1692)年頃
C 松江亀田千鳥城図/明治42(1909)年
「ここは、馬溜と呼ばれるー辺46 mほどのほぼ正方形の平地です。入ロには大手柵門、右へ曲がるとしゃちほこをつけた壮大な大手門がありました。西側にある高さ13 mの高い石垣や、南・東側の石垣の堀、さらに内側の高さ1 mほどの腰石垣による土塁でこの平場を四方から守っていました。この入ロの形態は桝形と呼ばれるもので、敵兵の直進を防ぎ、侵入の勢いを弱める機能と、出撃の際にこの馬溜に城兵を待機させ隊形を整える機能を果たしていたようです。発掘調査より、 江戸時代のものと思われる井戸が2箇所と内堀へ通じる石組水路などの遺構面が現在の地面より約50 cm下に見つかりました。」
―説明文より―
番号の説明は以下に示します。 -
1つ上の図の番号の説明図。
②はさっき一部を見ました。
③は後で写真を示します。
④はさっき枠だけ見ました。
⑤はさっき見た井戸跡ですね。 -
大手門跡を外曲輪跡 (二之丸下ノ段跡)に入ってすぐ東(右)にあった、「二之丸下ノ段地区説明板」。左が北です。
「二之丸下ノ段
東西100 m、南北200 mの広大な平地で江戸時代には米蔵がたくさんありました。北には屋敷地、南には幕末の頃、御破損方.寺社蓚理芳(城や神社仏閣の建物修理事務所)がありました。
堀尾時代の米蔵跡は、調査後平面整備しました。
御破損方・寺社修理方跡は発掘調査の結果、二棟の礎石建物跡が確認されたので同じ大きさの上屋を建て内部を茶店、売店に利用しています。」
―説明文より―
後に示しますように、この図の米蔵は松山城の初期のものです。 -
上の写真の撮影位置から見た外曲輪跡 (二之丸下ノ段跡)の東(右)側。
手前の建物はぶらっと松江観光案内所、その隣はちどり茶屋です。
左奥の南北方向の園路の右(東)から、直角に折れて左(西)に延びる園路の手前(南)が米蔵跡です。
右端に綺麗なシダレザクラがさいてますねえ。 -
と言うことで、シダレザクラ。
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ちどり茶屋の前から、北西方向に望遠で見た天守。
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ちどり茶屋の西側にあった「史跡松江城二之丸下の段の遺構」説明板。
右が北です。
「このニ之丸下の段一帯は、江戸時代に米蔵や屋敷などのあったところである.
米蔵に貯えられた米は主として藩士の扶持米に供されていたが、洪水や飢きんが、しばしば発するようになったので、米蔵を増築し.より多くの備蓄米を貯えるようになった。
城郭図によれば、築城時(17世紀)にはL字型に建つ2棟の米蔵と門や塀が存するだけであった.
延宝7年(1679)には、越後騒動により配流された高田藩の忠臣荻田本繁(主馬)と その子民部,久米之助のためにこの地の一角に萩田配所 が建造された.
さらに18世紀以降になると「荻田稲荷社」をはじの米蔵が新たに五棟も新造されたが、この内3棟は天保年間に建てられたものである。やがて明治維新となり不要となった建造物群は明治8年に至り天守閣を除いてことごとく取り壊されてレまった.その後、一帯は運動場となり明治33年には島根一中と鳥取中により両県初の野球試合が行なわれたり、諸種の建物、施設も出来て文化やスポーツの場にも使われたりした。
松江市では、昭和47年度から三次にわたり米蔵を中心に発堀調査を実施した結果、今見るような石積基壇の遺構が発見され、ほぼ縄張図や城郭図どおりの規模であったことが確認された。
昭和51年3月
松江市教育委員会」
―説明文より(漢数字は適宜アラビア数字に変換してあります)― -
中央は三之門跡に通じる階段、左上は太鼓櫓です。
左端に5および4つ上の写真に示した、③石垣内部より発見された石組階段の一部が見えます。 -
三之門跡への階段を上りはじめました。
北西方向に見えた天守。
サクラとのコラボがいいじゃないですか。 -
南西側。
石垣の角部分とその上の太鼓櫓。
石落し、格子窓、突き上げ戸がよく見えます。 -
階段をまた少し上がりました。
石垣は左の角の算木積、右側の忌部石(安山岩)の打込接乱積と続きます。
左上部は1996年~1997年に修復されています。 -
1つ上の写真の右側。
右下は野面積ですねえ。 -
階段をさらに上って三之丸跡下にある鉤型の踊り場にきました。
北北東に見た中曲輪と、その右奥下に見える外曲輪跡 (二之丸下ノ段跡)。 -
サクラが綺麗なんで、ズームインしとこ。
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踊り場の角に石垣の説明板がありました。図はこの「石垣刻印の種類」のみです。
説明板の文章は以下の通りです。
「石垣
松江城の石垣は、打込(うちこみ)はぎといって石切り場で切り出した石の平坦な面の角をたたきつき合わせやす<した積み方がほとんどで、慶長年間に築かれた城によ<見られます。又、自然石やその割石を積んだ野面積(のずらづみ)や石を全面加工した切込(きりこみ)はぎも一部に見られます。*)
ここの石垣台にはよ<見ると分銅の形をした記号がのみでた<さん刻まれています。これは松江城を築いた堀尾家の紋です。また、二之丸下ノ段の西側石垣にも△印などたくさんの刻印を見つけることが出来ます。
刻印は、工事の分担や石切り場の区別、合わせ印など土木工事を円滑かつ組織的に行うために付けられた記号と考えられています。**)」
*) 野面積、打込はぎ、切込はぎは石の加工程度の分類法で、積み方の分類には、大きさの違う自然石の平石や加工した平石をさまざまな方向に組み合わせて積み上げる乱積や、方形に整形した石を目が横に通るように積み上げる布積等があります。
**) 石垣刻印は松江城だけでなく、他の城郭の石垣でも見られます。刻印を記す意味は、城郭によっても異なりますが、天下普請で石垣を築いた城郭では、石垣普請に協力した大名が、それぞれ担当した持ち場の石垣に自分の家紋や由来する記号を付けたり、採石場で目印として付けられたものもあるとされています。
松江城で見られる刻印は、これまでの調査の結果、2021年(令和3年)時点で31種類、1,168個が確認されています。図に示された刻印はそのうちの15種類ですが、大名の家紋を示す刻印は堀尾家の分銅文だけで、他は堀尾家の下でそれぞれ石垣普請に携わった工人集団が記したものではないかと考えられています。 -
脇の石にあった堀尾家家紋である分銅文の刻印。
ちょっとわかりにくいですかね。 -
踊り場から階段を少し上って三之門跡に来ました。
後方の石垣の石は、松江市街東の嵩山、和久羅山に分布する約600万年前の大海埼石と呼ばれる淡褐色のデイサイトで、大橋川を使って松江城まで運搬されたと考えられています。 -
三之門跡から南東に進み、二之丸跡に入りました。
ソメイヨシノが満開ですねえ。 -
二之丸跡東側にあった「史跡松江城二の丸」説明板。
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南に大きく移動して見た北方。
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中櫓 (御具足蔵)。
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中櫓の説明板中の図面。
中櫓の説明文。
「中櫓は、二之丸の東側に建てられた平屋建ての櫓です。
江戸時代前期の文献や絵図には「中櫓」または「東ノ矢蔵」という名前が見られ、幕末には「御具足蔵」とも呼ばれ ていました。
この櫓の用途は分かっていませんが、「御具足蔵(おんぐそくぐら)」という名前のように、中に武具などを保管する倉庫であったことが 考えられます。」 -
北北東に見た二之丸の塀。
土塀の転倒防止のために、地面と垂直に控柱を打ち込み、これと土塀の柱を貫と呼ばれる角材で接続した骨組みが、等間隔に並んでいます。
この骨組みの場合、貫が水平になっており、臨戦時に貫の上に足場板を渡すことで、土塀の狭間と足場板上の、上下二段での攻撃や、広い外曲輪(馬溜)の状況を目視で確認することが可能となります。*)
*) NHK BS 「絶対に行きたくなる!ニッポン不滅の名城 、松江城」 -
塀に空いた矢狭間。
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塀に空いた鉄砲狭間。
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太鼓櫓に戻って来ました。
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太鼓櫓の説明板中の図面。
太鼓櫓の説明文
「太鼓櫓は、二之丸の北東角に建てられた平屋建ての櫓です。
中櫓と同規模の櫓ですが、入口に庇が付くところが異なります。
江戸時代前期から幕末までの文献や絵図には、いずれも 「太鼓櫓」という名前で記されているように、城内に時刻や号令を告げる太鼓が置かれていた櫓であったことが考えられます。*)」
*) この太鼓の音は城下町の住民にも聞こえたと思いますが、幕府より1615年に一国一城令が発令されたため、城から離れた場所の住民が時刻を知る手段は、寺の鐘、時の鐘等です。 -
太鼓櫓内部。
中央にある太鼓はその新しさからわかるようにレプリカで、実際に使われていた太鼓は、後で写真を示しますが、天守の2階に保存されています。
太鼓の右側の壁には鉄砲狭間、左の壁には矢狭間がついています。
左端は格子窓、その外側には突き上げ戸が見えます。
格子窓の格子は四角柱でできていますが、角柱面は窓枠面と45度傾いています。
これは鉄砲を広角に撃てるようにするためです。
このような構造は、図面からわかるように、中櫓も同様です。 -
太鼓のレプリカ。
桶胴太鼓です。巴紋は和太鼓によく用いられます。 -
太鼓櫓西から北に見上げた天守。
石垣の石は、忌部石(安山岩)です。 -
公衆トイレ。
左端になにやら説明板があります。
二之丸番所跡の説明板です。
説明板の説明文。
「二之丸番所跡
松江城二之丸は松江藩松平家二代藩主綱隆の時代《寛文六年(1666)~延宝三年(1675)まで藩主の居住した御殿があった場所ですが、その御殿の入ロを警備する人々が詰めていたのが、「二之丸番所」です。
『松江城縄張図』《元禄五年頃(1692)》という古絵図を見ると、この付近には東西十二間半(22.875 m)・南北三間半(6.405 m)の建物(番所跡) が記載されています。
平成四年に松江市教育委員会で発掘調査を実施したところ、南北約三間半(6.3 m)の台状の貼床(はりゆか)が検出されたので、ここには確かに番所跡があったものと考えられます。*)」
*) 漢数字は適宜アラビア数字に変換してあります。 -
二之丸井戸跡。
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出雲侍従源直政朝臣奉納石鳥居と松江神社。
「松江神社
御祭神
主祭神 松平直政公(松江松平家初代藩主)
合祀神 徳川家康公(東照宮)
配祀神 松平治郷公(松平家七代藩主)
配祀神 堀尾吉晴公(松江開府の祖)
松江神社は、松江の有志により松平直政公を御祭神として明治10(1877)年に西川津村楽山(現松江市西川津町)に楽山神社として創建されました。
明治31(1898)年、朝酌村(現松江市西尾町)にあった東照宮の御神霊を合祀し、翌年現在地の松江城山二之丸に遷座して、社名を松江神社と改めました。
現在の社殿は、堀尾忠晴公が朝酌村に祀られた東照営の社殿です。
昭和6(1931)年には、松江藩中興の明主として仰がれた七代藩主松平治郷(不昧)公と、松江開府の祖堀尾吉晴公の遺徳を称えて御神霊を配祀し、今日に至っています。
御神徳 家業繁栄、厄除開運、交通安全の御加護が特に顕著です。」
―説明文より(漢数字は適宜アラビア数字に変換してあります)― -
鳥居をくぐって進みます。
両側には、腰を上げて今にも飛びかかろうというポーズの構え型(出雲構え型、構え獅子型、勇み型)狛犬があります。
構え型狛犬は出雲地方が発症の地で、北前船で日本海沿岸に運ばれたため、日本海側に多いようです。
その先は灯篭、そして正面に松江神社拝殿です。 -
右(北)側の阿の狛犬。
前足の間に子供がいるので、こちらは雌でしょう。
子供は「子孫繁栄」や「家内安全」を象徴しているとされているそうです。 -
左(南)側の吽の狛犬。
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手水舎。
「手水舎の説明
この屋舎は元西尾村(市内西尾町)照高山に鋲座せる東照宮の手水舎にして寛永16年 (1639)藩祖松平直政公の命によって建築されたもので大工棟梁渡辺加共ヱ尉.藤原好真の作と伝う。明治30年10月現在ある本殿拝殿と共に.この地に移築したものであリます。
昭和10年京都御所離宮御写真及び実測図、 謹製所勤務古建築庭園研究家川上邦基氏外一名松江城並に公園視察の時当神社に参拝せられその時この屋舎を注目これは頗る名作で相当古い稀れな築造で大切に保存を要す貴重な建物であると参考資科として写真並に実測図を持ち帰られたほどの屋舎であリます
当時の案内人松平家々伕
原熊太郎
松江市建築技師
金関喜三郎」
―説明文より(漢数字は適宜アラビア数字に変換してあります)― -
拝殿で参拝します。
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松江神社本殿。
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松江神社北(右)側の福徳稲荷神社前にきました。
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鳥居をくぐって、福徳稲荷神社。
狐は稲作の守り神とされていることから、稲荷神社は狛犬に代わって狛狐が神域をまもっています。
狛狐は狛犬と異なって、柔らかそうで滑らかな体となっており、他の稲荷神社の狛狐と異なってにこやかな顔をしています。
右の狛狐は先の狛犬と同様子供がいるので母親でしょう。母親が左手で子供を抱えており、子供がその母親の顔を見上げているのは何とも微笑ましい。
その意味するところは、先の狛犬同様「子孫繁栄」や「家内安全」でしょう。
左の狛狐は父親でしょうが、右手の下には球体がありますが、これは蹴鞠と思われます。
だとしたら、その意味する所は「芸事の上達」や「運動能力の向上」、さらには「魔除け」といったところでしょうか。 -
興雲閣
「興雲閣は、明治36年(1903)に松江市が松江市工芸品陳列所として建てた建物です。当初、明治天皇の行在所に使用する目的でつくられたため、装飾・彫刻を多く用いた華麗な仕上げとなっています。結果的には天皇の巡幸は実現しませんでしたが、明治40年(1907)、皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇) の山陰道行啓にあたって、同年5月22日から25日まで御旅館となり、迎賓館としての役割を果たしました。
その後、明治45年(1912)に正面の階段を奥に移動するなどの改修が行われ、松江市の公的な歓迎所として、また、各種の展覧会場・会合に使用されました。昭和48年(1973)から 「松江郷土館」として活用してきましたが、平成23年(2011) 3月に閉館し、建物そのものの持つ歴史と魅力を生かした新たな活用のため平成25年度から平成27年度にかけて保存修理工事を行いました。」
―説明文より― -
二之門跡の西側の階段を、天守を目指して上ります。
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見下ろした二之丸跡のサクラ。
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南多聞櫓跡の下の石垣。
この石垣の石は、大海埼石(淡褐色デイサイト)です。 -
一之門をくぐって本丸に入ります。
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見えました!サクラ咲く本丸に威風堂々たる天守が。
一之門に至る階段の横に天守の説明板がありましたので、その説明文を以下に示します。
「国宝 松江城天守
松江城天守は、四重五階地下一階の構造で、高さは約30 mあり、貴重な現存天守のひとつとして、昭和10年に国宝指定を受けました。その後、 文化財保護法の施行により、重要文化財に指定されましたが、平成27年 7月8日、改めて国宝に指定されました。
特徴は、前面に附櫓(つけやぐら)を設け、最上階から四方を見渡せる複合式望楼型天守であり、白壁は少なく、黒く厚い板でおおわれた下見板張りで、石垣はごぼう積み*)と呼ばれる方式がとられています。
軸組は、長さ2階分の通し柱と周囲に包板を鎹(かすがい)や帯鉄で取り付けた柱が多用されるなど独自の構法が用いられており、近世城郭最盛期を代表する城郭建築物として、極めて高い価値があります。
平成24年5月に再発見された2枚の祈祷札から、慶長16年(1611)の完成が明らかとなりました。
国宝附(つけたり)指定:祈祷札2枚、鎮宅祈祷札4枚、鎮物(しずめもの)3点(松江歴史館所蔵)」
*) 野面積の一種で、奥行のあるごぼうのように胴長の石を選び、内側に長く押し込む形で積み上げていく積み方で、より頑丈な石垣となります。 -
天守に近づきました。
天守の説明を以下に示します。
「① 望 楼…最上階の5階は、壁のない360度の展望が広がる望楼で、松江城天守は初期形態の望楼型に分類されます。
② 鯱……木造銅板貼りで高さは210 cm、現存12天守では最大のものです。
昭和の解体修理で外された古い鯱が天守地階で保存展示されています。
③ 花頭窓…3階の南北の張出部中央にある寺院様式の窓で外観に風格を与えています。
④ 下見板…白漆喰の壁は少なく、大部分は黒色の下見板で覆われています。
黒を基調とした古色で質実な印象を醸しています。*)
⑤ 鬼 瓦…屋根の隅々には鬼面の鬼瓦が載っています。他城では家紋や吉祥紋様が用いられることが多く、松江城の例は珍しいものです。
⑥ 附 櫓…天守入口の防御を固めるための櫓で鉄延板貼りの大扉をもち、中へ入ると2段構えの枡形の小広場が備えられています。」
―現地で頂いたパンフレットの説明文より―
*) 後で示すように、黒い壁は攻撃装置を隠すためのカモフラージュです。
黒い色は墨汁(煤と膠を混ぜたもの)を塗っては乾かす工程を何回も繰り返し、その上に柿渋(渋柿の未熟な実を絞って発酵させた液体)を塗り重ねる、黒渋塗りによってだします。
ここで膠は板の表面を保護し、柿渋は雨をはじく役目をしてて風化を妨げます。
漆喰壁に比べて工期も短くて済みます。
石垣の石は、大海埼石(淡褐色デイサイト)と松江市矢田町の大橋川付近付近に産する矢田石(角閃石粗面玄武岩)が混在しています。 -
望楼上の2つの鯱。
これらは昭和の修繕の際に造られた物で、古い鯱は天守地階に展示されています。 -
西側の鯱。
-
花頭窓(左下)、附櫓上部の入母屋破風と蕪懸魚(右下)、4階の入母屋破風と蕪懸魚(左上)。
「質実な造りの松江城天守において、3階の南北張出部にある花頭窓は外観上の大きなアクセントとして風格を与えています。
花頭窓自体に実用性はなく装飾を目的としたもので、寺社建築に多用されていたものが、 やがて天守にも取り入れられるようになったものです。」
―この後行く天守3階にあった説明板の説明文より―
懸魚は水に強い魚の飾りを屋根にほどこして木造建築を火災から守るために火除けのまじないとして取り付けられており、ここにつけられている懸魚は、野菜のかぶに形が似た蕪懸魚(かぶらげぎょ)です。
懸魚の上部にある六角形の飾りは、日本独自の6枚の葉を意味する「六葉」、両側にハの時に広がる飾りは「草花鰭(ひれ)」と呼ばれます。 -
附櫓上部の入母屋破風の蕪懸魚。
-
4階の入母屋破風の蕪懸魚
-
外曲輪跡 (二之丸下ノ段跡)から望遠で撮った4階東側の入母屋破風と、蕪懸魚3つ組み合わせた形の「三花蕪懸魚」です。
-
屋根の隅の鬼面の鬼瓦。
-
附櫓入口面の石落し。
-
附櫓入口面の格子窓と突き上げ戸。
松江城内の建物には多くの格子窓がついています。太鼓櫓のところで、格子窓の格子は四角柱でできており、角柱面は窓枠面と45度傾いています、と説明しましたが、写真では良く分からなかったかもしれません。この格子窓ではその様子が良く分かります。 -
おや、ここには石落しがありませんねえ。
石落しは多くの城で用いられる定番の防御設備で、接近戦で大きな力を発揮します。
実は松江城の天守1階には石落しがありません。
後で1階の図面を示しますが、1階はどこにも石落しはありません。
その理由は次に示します。
石垣については、天守の説明板に「ごぼう積み」と書かれていましたが、近くでみると一般的なごぼう積みとは違うようです。石垣自体奥行のあるごぼうのように胴長の石が使われているのかも知れませんが、表面上は打込はぎの乱積に見えます。 -
離れて見ると分かりますが、実は石落しは2階に付いています。
後で2階の図面を示しますが、石落しは2階の4角に付いています。
1階を見て石落しは無いと油断した敵は天守を上ろうとします。
その時を狙って、2階の石落しから攻撃する仕組みになっているのです。
また、よく見ると、1階の壁には蓋をされた大小の狭間が付いていることもわかります。 -
この後附櫓を通って天守に入りますが、ここで天守の内部構造が分かるように、頂いたパンフレットにあった天守の断面図を示します。
天守はそれに附属する附櫓や小天守等との接続方式から、独立式、複合式、連結式、連立式の4種類がありますが、松江城天守は、附櫓が直接接続された「複合式」となります。
また、天守本体の構造は、積層する各階の屋根の形から、望楼型と層塔型の2種類ありますが、松江城天守は、最上部の望楼が入母屋造の下階に載っていることから「望楼型」です。入母屋破風のない階を規則的に積み上げた天守が層塔型となりますが、これは関ヶ原の戦い以降に誕生した新しい形式で、1964年に復元された島原城天守(https://4travel.jp/travelogue/11466797)はそのいい例です。
さらに、松江城天守は、二階分の通し柱を各階に相互かつ均一に配した「互入式通し柱」(右上の色で示された柱)と、上層の荷重を下層の柱が直接受けず梁を通して横方向にずらしながら伝える二つの工法をあわせて用いて強固な構造とし、地震の多い日本の高層天守を守ります。
このような、「互入式通し柱」を用いた天守は松江城だけです。五重塔に用いられる、「心柱」を用いて地震に対する強度を高める天守もあり、その代表例として姫路城が知られています。ただ、大きな天守に用いる巨木を入手することは容易ではなく、そもそも松江城が「互入式通し柱」を用いた最大の理由は、後述する「包板」の柱同様、「心柱」とする巨木を入手できなかったことによるものと思われます。 -
次に、この先(「現在地」と書かれた場所)にあった説明板の「附櫓・地階」の図面をここで示します。
「付櫓:入口を固める防御のかなめ
地階:石垣に囲まれた籠城の備え
‘、し うち だな
◇1 石打棚
安定した姿勢で狭間や窓から鉄砲や矢を放つための棚状の台。松江城天守では附櫓南東面と地階南東・南西繭の3箇所の石垣の上に設けられていて、天守の防御力を高めています。
◇2 井尸
地階中央の井戸は深さ約24 m。現存天守で井戸があるのは松江城だけで、実戦を強く意識し周到に備えたことがうかがえます。
現在は崩落防止のため途中まで埋め戻されています。
◇3 旧鯱と古材
昭和25~30年(1950~1955)の解体修理工事で再用できた部材のうち、旧鯱や墨書の残る部材などの資料性の高いものは地階において保存展示しています。
④ 石落とし
⑤ 祈祷札
⑥ 鎮物(しずめもの)出土地点」
―説明文より― -
附櫓に入りました。
正面にあった石垣。
ここは2つ上の南北断面図からすると、天守の地階より1階分低い位置に相当します。直進を阻んでおり、クランク上に石垣横の階段を上って天守の地階に相当する位置まで進みます。 -
石打棚。
-
古材。
この写真と次の写真はそれぞれ、古材と旧鯱です。
「昭和25~30年(1950~ 55)の解体修理工事で再用できた部材のうち、旧鯱や墨書の残る部材などの資料性の高いものは地階において保存展示しています。」
―説明板、「附櫓・地階」の説明文より― -
旧鯱
「天守第五層大棟の東西にとりつけてあったもので、松厚板箱さし造り銅張り、高さ6尺8寸5分(2.08 m)である。
現在のものは、昭和30年天守修理完成と共に新しいものととりかえた。」
「現存天守では最大である。」
―説明文より― -
井戸。
-
上から覘いた井戸の底。
井戸は籠城するさい、飲料水を確保するためのものです。 -
説明板の祈祷札写真。
「2枚の祈祷札は、昭和12年(1937)に城戸久(きどひさし)博士が天守内で確認されて以降、所在がわからなくなっていましたが、平成24年(2012)松江城地内の松江神社で再発見されました。天守落成の際に天台、真言の二宗による祈祷が行われた可能性を示すもので、後の調査で祈祷札と柱に残る釘穴の位置が一致したことなどから、地階の2本の通し柱に打ち付けられていたことが明らかとなりました。「嵐萇十六」や「正月苦祥目」の墨善文字から天守完成が慶長16年(1611)正月以前であることが確定したもので、国宝指定の要因のひとつとなりました。国宝松江城天守に附(つけたり)指定され、地階ではレプリカ*) による再現展示を行っています。」
―説明文より―
*) 実物は松江歴史館にあります。 -
説明板の祈祷札赤外線写真とその翻刻文。
「二つの崇旅により執り行われた祈祷
左の大般若経祈祷札には隣国、伯耆国(ほうきのくに)の天台宗別格本山大山寺(鳥取県大山町)の銘があります。右の如意珠経祈祷札は地元の真言宗寺院によるものと推察され、二宗による祈祷が行われたと考えられます。」
―説明文より―
文字が小さくて読めないと思いますので、書かれている内容を横書きにして示します。
左の天台宗別格本山大山寺の銘。
「「奉轉讀大般若経六百部武運長久処」祈祷札
慶長拾六年 辛亥 大山寺 敬
(梵 字)奉轉讀大般若経六百部 武運長久処
正月吉祥
(意味)大般若経六百部を転読申し上げ、武運長久を祈る。慶長16年(1611)1月。大山寺 」
右の地元の真言宗寺院の銘。
「「奉讀誦如意珠経長栄処」祈祷札
慶長16暦 歓
(梵 字)奉讀誦如意珠経長栄処
正月吉祥日 言
(意昧)如意珠経を読誦申し上げ、長く栄えることを析る。慶長16年(1611)1月」 -
地階北東部分と、柱に取り付けられた真言宗寺院の「奉讀誦如意珠経長栄処」祈祷札のレプリカ。
-
天台宗別格本山大山寺の祈祷札と、柱に残る釘穴の位置が一致することを示す説明板。
-
塩蔵の説明板の塩札の写真。
「地階は領内から納められた塩が蓄えられ、別名塩蔵と呼ばれていますが、昭和の解体修理工事の際にここから塩札が発見されました。生産地で塩俵にくくりつけられた荷札用と考えられるものが36枚、塩蔵での管理用と考えられるものが4枚の計40枚です。荷札用の片面には郡名と浦名、更に庄屋名や年寄名が記されており、もう一面には塩の重さと生産者名などが記されています。管理用には嘉永3年(1850)、同5年(1852)などの年号と「塩二十五俵」と記されていて、塩蔵に塩俵25俵があることを2年ごとに確認していた可能性を示しています。井戸とともに有事に備えたもので、実戦を重視した松江城の特徴を示しています。)
―説明文より― -
塩蔵の説明板の、塩の生産と流通のー端を示す塩札の写真。
「左が荷札用のー例、片面には島根郡北浦の年寄(村役人)の官助が 荷主であり、もう片面には塩の重さが八貫目、塩主(作製者)の名は伝市と記されている。右が管理用の塩札で「塩弐拾五表 嘉永三戌七月五日」と記されている。」
―説明文より― -
階段を1階に上がります。
-
階段を上がったところにあった1階の説明板の一階図面。
「一階
現存天守で2番目の平面規模*)
◇1 天守最大柱
地階~1階の東西2本の通し柱は包板を持たない松江城天守最大の柱で、祈祷札もこの柱の地階部分に打ち付けられていました。 天守の軸組構造の中で最も大切な柱として、 重要視されていたことがわかります。
◇2 彫込番付
番付は、木造建築で建物を効率よく組み立てるために予め部材につける符号です。松江城天守の番付には彫込と墨書の二種類があり、彫込番付は地階から2階で柱の根元等に刻まれているのを9ケ所で確認することができます。
◇3 階段の引き戸
1階と4階の階段開口部は、水平の引き戸をスライドさせることにより開口部を塞ぐ構造になっています。戸締りのための管理用、あるいは籠城用のものと考えられています。
天守の番付には彫込と墨書の二種類があり、彫込番付は地階から2階で柱の根元等に刻まれているのを9ケ所で確認することができます。」
―説明文より―
*) 最大は姫路城です。 -
1階から下方に見た階段開口部。
-
開口部についている階段の引き戸。
-
天守最大柱。
-
包板技法で造られた柱。
「地階から4階の柱には、柱の周囲を板で包んだものがあります。柱の一面だけ、あるいは二面、 三面、四面に板を張ったもので、包板と呼ばれる技法です。天守内の柱総数308本のうち現在は 103本にこの技法が使われています。板は柱に鎹で固定され、さらに鉄輸で締められていますが、通し柱に施された包板も二階分を貫いておらず各階ごとの施工となっています。粗悪材や柱の割れ隠しなど体裁を整えることを目的としながら補強効果も期待したものと考えられますが、包板は築城時ではなく、後年の天守修復の際に順次加えられたものと考えられています。
現存天守では松江城だけに見られる技法です。」
―包板の説明板の説明文より―
包板が必要になった理由は、「互入式通し柱」と同様、築城時に十分な強度の木材が得られなかったことによるものと思われます。 -
包板技法で造られた柱の模式図。
―包板の説明板の図より― -
包板から見つかった墨書(ぼくしょ)。
「包板の衷箇などからは、修理年紀や大工名などを記した多くの墨書が稚誌されています。包板の技法を用いながら天守の修復が繰り返し行われてきたことが裏付けられました。」
―写真、説明文とも包板の説明板より― -
鎹
「松江城独特の 包板を支えた鉄製品
松江城天守の柱には、各面に厚板を張る包板と呼ばれる特徴的な技法が用いられている。
厚さが二寸~二寸五分(約6~10 cm)ある板を、 鉄製の釘、鍵や帯鉄で柱と固定してしいる。
鎹(松江市天守旧部材、松江四蔵)」
―説明文より― -
松江城天守に葺かれた鬼瓦
「松江城天守の屋根の大棟や降棟(くだりむね)・隅棟などの側端に葺かれていた鬼面の鬼瓦である。
鬼面でないものも鬼瓦と呼ぶが、松江城天守には現在も鬼面の鬼瓦が載る。
他城では家紋や吉祥文様の鬼瓦が多く、鬼面を用いる松江城の例は珍しい。
鬼瓦(松江城天守旧部材、松江市蔵)」
―説明文より― -
分銅文(ふんどうもん)と「富」字を刻む天守古材
「昭和25~30年(1950-55)の修理工事で解体された松江城天守の古材で、1階の床梁に使用されていた。
分銅文は松江城を築城した堀尾氏の家紋。「富」の字は「富田城」を意味するのではないかと推測されている。
―階床梁(松江城天守旧部材、松江市蔵)」
―説明文より― -
刻印をもつ松江城天守の古材の説明板の写真。
1つ上の写真の天守古材の奥側断面です。
「昭和の解体修理工事において、新材に取り替えられ不要となった古材の中に、分銅文と「富」の字の刻印をもつ部材があります。分銅文は、松江城を築城した堀尾氏の代表的な家紋です。 「富」は、慶長5年(1600)の関ケ原合戦後、堀尾氏が出雲国へ入部した際に居城とした富田城 (安来市広瀬町)を意味するのではないかとの考えがあります。
展示している部材は、天守1階の床梁に使用されていたものです。いかだを組んで蓮搬されたとみられる痕跡(いかだ穴)もあることなどから、松江城天守の築城の際に富田城から運んだ部材を転用したのではないかとも推測されています。」
―説明文より― -
カバー板を持つ矢狭間
-
カバー板を持つ鉄砲狭間
「標的の位置を想定し、真下や左右に鋭角に銃眼が開いたものも多い。実戦を意識して作られ、周到に配置されていることがわかる。」
―説明板の説明文より― -
2階に上がってきました。
説明板の二階図面。
「① 2階分を通る様子を 見ることができる通し柱
② 彫込番付
◇3 石落とし
主に石垣に取りついた真下の敵を石や熱湯などを使って攻撃するために設けられたのが石落としです。2階の四隅と東・西・北面の中央に設けて天守の防御を固めています。 松江城の石落としは2階の床面に設けてあることから、ー重の屋根の軒に隠れ外部から見つけにくい構造であるのが特徴です。」
―説明板の説明文より― -
石落し。
蓋を外せば、幅30 cm長さ3 m程度の孔が開きます。 -
刻(とき)を知らせた太鼓
先ほど太鼓薬のレプリカを見ましたが、こちらがオリジナルとなります。
「この太鼓は、松江城二之丸の太鼓櫓にあり、毎日登城の時刻を知らせ、非常呼集の際にも使われていた。
明治初年、廃城に際し有志が買い取り、城下の阿羅波比(あわらい)神社に寄進したため現在に残る。
太鼓(阿羅波比神社蔵)」
―説明板の説明文より― -
大坂の陣で初陣を飾る松平直政
「真田信繁(幸村)が守る真田丸を攻める14歳の松平直政の初陣姿で、信繁は、その勇ましい姿に軍扇を投げ与えたという。
島根県安来市出身の彫刻家・米原雲海(1869~ 1925)製作の原型を彫刻家・得能節朗氏が写した「松平直政公初陣之像」である。
(松江市蔵)」
―説明板の説明文より― -
木橋として復元した北惣門橋(きたそうもんばし)の模型
(縮尺1/10、松江市蔵) -
北惣門橋復元の上部構造と擬宝珠
「北惣門橋の木橋復元で採用した梁から上部の構造と擬宝珠(ぎぼし)。
北惣門橋復元上部構造・擬宝珠(実物大、松江市蔵)」
―説明板の説明文より― -
北惣門橋上部断面図(実物大)
「北惣門橋の復元に使った材料(青森県産ヒバ材)を用い、梁から上部をふくげんしたものです。江戸時代に用いられた木造橋の様子が模型(「縮尺1/10」と比べるとその大きさと共にわかります。)
―説明板の説明文より― -
北惣門橋復元に使用した材の原木
「北惣門橋の木橋復元の桁材などに使った原木の輪切り。樹齢約300年の青森県産のヒバ材 (ヒノキアスナロ)で、平成5年(1993)に伐採されたものである。
北惣門橋復元使用材原木(松江市蔵)」
―説明板の説明文より― -
また階段を上って3階にきました。
「現在地」と書かれた位置にあった説明板の三階図面です。
「◇1 二階分を通る様子がわかる通し柱
天守内の96本の通し柱のうち、実際に通し柱が上下 2階を貫いている様子を見ることができるのは2~3階の階段開口部だけです。
◇2 花頭窓 (かとうまど)」
―説明板の説明文より― -
「明治の大修理」の説明板。
-
「危機を救った人々」の説明板。
-
また階段を上って4階にきました。
「現在地」と書かれた位置にあった説明板の三階と四階の図面です。
「◇1 梁の上から立ち上がる柱
4階の四隅の梁からは5階の隅柱が立ちあがっています。こうすることで上階の荷重を下階の柱が直接受けずに、梁を通して横方向にずらしながら下に伝える構造となっています。通し柱をバランスよく配置することと合わせて長大な部材を用いずに大規模な天守の建築を可能としたもので、松江城天守の構造上の大きな特徴のひとつです。
◇2 国宝指定書
天守 5階には国宝指定の証である指定書の写しが展示されています。原本は、国宝に附(つけたり)指定された祈祷札2枚、鎮宅祈祷札4枚、 鎮物(しずめもの)3点とともに松江歴史館に収蔵されて
います。
③ 階段の引き戸
④ 箱便所
⑤ 階段の二種類の上り口
⑥ 手摺の装飾」 -
「四階・五階に特有な意匠など」の説明板。
文字が小さくと4トラさんの写真では読めないかも知れませんので、以下に説明文を示します。
「実戦本意に築かれた松江城天守の内部は、全体的に荷素なつくりとなっていますが、4階と最上 階である5階には登議した藩呈を蓮えるための下階には見られないいくつかの蒋薇弱な意匠が見られます。
□4階へ至る階段のニ種類の上り口… 4階へ至る階段の上り口には装飾的な部材が用いられており、その横には藩主に従う小姓用と考えられる上り口が別に設けられています。
□4階の箱便所…………………………西側大破風の内側を利用して藩主用の箱便所が設けられています。
□5階へ至る階段の手摺………………5階至る階段や5階の階段開口部の手摺材には曲線や彫り込みなどの意匠が施されています。
□5階の住宅風な意匠…………………5階の柱は綺麗に製材され、太さも均一に揃えられています。また、敷居の痕跡や鴨居が残されており建具があったと考えられます。」
写真の説明は上が「5階 住宅風な意匠」、下の左が「4階 階段の2種類の上り口」、下の右が「5階 装飾手すり」です。
下部の「◆藩主登城のための通り道」の説明文は、
「江戸末期の絵図には附櫓の入口から5階まで、藩主が登城する通路に畳が敷かれていたことが記されています。 5階は全面畳敷きで、4階の箱便所に向う通路にも畳が敷かれていたことがわかります。(朱線が畳敷きの部分)」
となります。
右下の図面の説明は「御殿守上ヨリ下迄地絵図面写(松江歴史館蔵)」です。 -
上の説明板にあった、「4階へ至る階段のニ種類の上り口」。
「4階へ至る階段の上り口には装飾的な部材が用いられており、その横には藩主に従う小姓用と考えられる上り口が別に設けられています。」
―説明板の説明文より― -
最上階の5階にやってきました。
東方の風景。 -
東方の風景の説明板。
4トラさんの写真サイズでは文字が読めないかも知れませんので、簡単に説明します。
遠方の山は、左から、嵩山(だけさん)、和久羅山、大山ですが、上の写真では大山は霞んで見えません。左の川は北田川、その左したに架かる橋は北堀橋です。左下の大きな建物は松江歴史館です。 -
北方の風景。
-
北方の風景の説明板。
中央遠方の山は、真山、その手前が白鹿山です。 -
北北西の風景。
手前高台は本丸、中央付近は北ノ門跡です。 -
南方の風景。
下部は本丸。
本丸上、左下の建物は南多聞櫓、その右の一之門、中央やや右は公園管理事務所です。
遠方には宍道湖が見えます。
左上、宍道湖に浮かぶ島は嫁ヶ島(よめがしま)です。 -
南方の風景の説明板。
-
西南西方の風景。
-
西方の風景の説明板。
2つ上の写真は、中央のビル(タワーマンション)から左側です。 -
最上階の5階から下りて天守から出ます。
-
天守から出ました。
南多聞櫓の前でロンドンブーツ1号2号の田村淳が松山城のロケをやっていました。
その模様は5月15日に東海テレビ「おしろツアーズ 絶対行きたくなる!おもしろ名城旅」で放映されたようです。
彼は2016年から松江観光大使だそうです。 -
本丸東端から東北東に見た中曲輪(手前)と外曲輪(二之丸下ノ段)。
-
南南東に見た二之丸。
-
一之門から本丸出て、二之門跡、三之門跡、中曲輪を通り、馬洗池にやって来ました。
-
馬洗池の説明板です。
文字が小さくて4トラさんの写真では読めないかも知れませんので、以下に説明文を示します。
「ここ「馬洗池」は、築城当初から馬を洗ったり、馬の体を冷やすために使われていた池だったと伝えられ、史跡松江城の貴重な遺構のひとつです。しかしながら知名度も低く、 隠れた存在となっていました。そこで、「馬洗池」の存在を知っていただくために、専門家からご意見をいただきながら、外来種などの生き物を捕獲し環境を整備する事で、 本来の「馬洗池」の魅力を引き出し、新たな観光スポットへと輝かせるための活動を行いました。
5月13日はあいにくの雨模様となりましたが、市民や関係団体など約80名の参加のもと、池の水を抜き調査を行いました。池の中には、貴重なニホンイシガメやフナ、メダ力などの在来種の他、大多数を締めていたのが、ドイツコイ、アカミミガメ、アメリカザリガニ、ウシガエルなどの外来種であることが分かりました。また、長年の蓄積物により、 ヘドロは深さ約80cmにも達していました。今後は、在来種のみを池に戻し、環境修復作戦を継続していきます。」 -
松江城北西にある、サクラが満開の稲荷橋で内堀を渡って一旦松江城の外に出までました。
振り返った見た稲荷橋。 -
内堀となっている京橋川沿いの道路を北に進み、武家屋敷を見学して(後日ご報告します。)、宇賀橋と北惣門橋を渡って、脇虎口ノ門跡からまた松江城に入りました。
この西側の石垣にも刻印のある石が多いとのことで、探します。 -
はっはー、ありました。
はっきりした輪違です。
これで松江城見学は終わりです。 -
国道431号線を通って、今日の宿泊ホテル:松江しんじ湖温泉 夕景湖畔すいてんかくにやってきました。
-
ホテルから見た宍道湖。
手前は国道431号線です。
今回のご報告はこれで終わりです。
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