2025/09/11 - 2025/09/11
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Rolleiguyさん
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ヨーロッパの地質学に関心のある私はアルプスについては少し勉強したのですが、オーストリアには地表に出たマグマの上に城があるということは、割と最近知りました。それで次回オーストリアに行くときには最優先で行ってみたいと思っていました。今回、日程がきつい中で何とかウィーンから日帰りで行って来ました。シュタイアーマルク州はVulkanland (volcano region)と呼ばれていて、千数百万年前にアフリカプレートがユーラシアプレートにぶつかった場所にあるため、マグマが地上まで達して、隣のブルゲンラント州とともに火山の痕跡が残っています。このため温泉や鉱泉がいくつかあることでも知られています。リーガースブルクは中でも最も規模が大きく、一見してマグマ由来の岩石であることが分かるため、有名なのだそうです。知らなかった。この地域はグラーツから1時間くらいのところで、美しいことで有名なシュタイアーマルク・ワイン街道に沿った場所です。城内には魔女博物館があり、これにも興味がありました。
城の見学を済ませてからグラーツまで走り、短時間でしたがいくつか見ることが出来ました。ウィーンに住んでいた三十数年前はこの地域に行くことはあまりなかったのでそれなりに新鮮でした。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 交通手段
- レンタカー
- 航空会社
- スイスインターナショナルエアラインズ
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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レンタカーの運転は今日も娘に任せて窓外の景色を見るだけ。
南アウトバーンで出発。 -
小一時間走るとアルプスのほぼ東端にあたるシュネーベルクやラックスが遠望出来ました。スイスと違い気軽に行ける近場には本格的な山が少ないので、昔ハイキングでここには何度か行きました。
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更に走るとRiegersburg城が見えて来ました。デーンと盛り上がったマグマの上にある立派な城です。
お城は1122年に出来たそうですが、ヨーロッパのお城は12世紀に出来たものが大変多く、何故だろうと長年疑問に思っていたのですが、それまでの築城術による城は平城か、せいぜい少し高台に砦レベルのものしかなかったのが、十字軍の遠征においてイスラムの築城術を学び、それを取り入れて出来たのだそうで、いわば流行のようにこの時期に集中的に出来たようです。 -
お城は険しい山の上にあるのでエレベーターで登ります。歩いて登る道もあります。
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着いたところから見下ろす。
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眼下にはワイン畑が広がっています。もう少し南に行くと南シュタイアーマルク・ワイン街道というのがあり、まるでトスカナのような風景で感激してしまいます。今日は時間がないのでここで我慢しますが、秋に紅葉したブドウ畑の美しさが想像される風景です。
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早速見学。
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このお城のことが記された最古の記録は1138年で、当時の名前はRuotkerspurchというもので、その時の所有者だったRuediger von Hohenbergという人の名前が由来のようです。von Hohenbergという家系で思い出すのは、ハプスブルク家の皇太子で第1次世界大戦勃発の契機となったサライェボで暗殺された、フェルディナント大公妃ソフィーとその子どもたちに皇帝フランツ・ヨーゼフから与えられていた名前です。ハプスブルクを名乗ることを認められなかった子どもたちはこの古い家系の名前を用いました。
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お城の入り口。1249年に、ドナウ河畔のデュルンシュタイン城主だったキューンリング家の所有になりました。1400年ころに、Walseer家がゴシック様式の礼拝堂を作ったそうです。
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お城は数世紀に亘り所有者を替え、再建、拡張を繰り返したため、時代による建築様式の変遷があり、それぞれの特徴が残されているそうです。
16世紀の終わりころにStadl家が豪華な居住区とルネサンス様式の騎士の間を改築。 -
1637年にグラーツの資産家貴族であったFreiherr Seyfried von Wechslerが購入し、彼には子どもがいなかったので妹のElisabeth Katharinaが相続した。リーガースブルク城を語るときに必ず言及される人物が、所有者だったエリーザベット・カタリーナ・フライフラウ・フォン ガラー(Elisabeth Katharina Freifrau von Galler 1607-1672)です。このお城の所有者だった彼女は結婚に際して、当時は女性の権利が制限されていたものの、財産権を夫に譲らないことを結婚契約書に定めたほか、数々の社会規範を変えることで事業、経済、法律面で大きな変革をもたらしたと言われています。このお城をバロック様式の国内最大の城にしたのも彼女の仕事でした。遣りて女性だった彼女は他人とのいさかいを気にせず、そのためもあって芳しくないあだ名("Schlimm Liesli")をつけられたそうです。
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お城の入り口には彼女の家系Wechslerを示すワッペンが見えます。
書かれているのは、「イエスとマリアが私とともにおられますように。カタリーナ・エリーザベット・ガラー旧姓ヴェクスラー 云々」
"JESVS VND MARIA SEY MIT MIR. CATHARINA ELISAWETH FRAV GALLERIN FREYIN GEBORENE [WEC]HSLERIN FREYIN FRAV ZV STAIN RIEGKHERSPVRG VND LIECHTENEGK [...]B ANNO 1653. -
Elisabeth Katharina von Gallerの肖像画
最初の夫とは死別し、2回目の結婚をしましたが、この夫はトルコとの戦いで戦死し、65歳のときに35歳も若い貴族と3回目の結婚しましたが、その後離婚しました。
離婚理由として37点も挙げ、夫が週に5-6日一緒にいないこと、下僕を殴ったこと、毎日酔っぱらっていること、断食日に肉を食べたことなどが書かれていたそうです。 -
17世紀のトルコとの闘いではこのお城は住民の避難場所にもなったとか。トルコの支配地までは30キロ足らずだったそうで、さぞ落ち着かなかったことでしょう。
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1822年に城は競売に付されてリヒテンシュタイン家が購入し、現在に至っています。
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城の中から入り口方向を見たところ。丁度人が少なくなった。
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長閑な昼下がりの城内
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さてここからが魔女博物館。魔女はドイツ語でHexeヘクセと言いますが、必ずしも女性とは限りません。魔法を使ったり悪魔と親しくしたりすると魔女と看做されたようですよ。疑わしい場合は両手を縛って水の中に沈めて、抜け出たら魔女とみなされ、抜け出られなかったら魔女と縁を切ったと見なされ、いずれにしても死んでしまったようです。英語では魔女はwitch、男の魔術師はwizardと区別されています。今はwizardといえばコンピュータ用語ですね。
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魔女と言えば裁判。シュタイアーマルクの魔女裁判は1546年から1746年までの間に数多く行われました。
これはこの近辺の町村ごとの魔女裁判の件数です。驚くほど多く、無実の人も多かったと思われます。集団心理による攻撃性の高まりの結果だったのかもしれません。 -
これはシュタイアーマルク州の17-18世紀の魔女裁判の場所を示した地図です。
18世紀になってもあったことに驚きます。 -
どんな種類の魔術を使ったのか羅列してあります。曰く、悪魔との結束、空を飛ぶこと、魔女ダンス、天気を操ること、他人を傷つけること、子どもを殺すこと、家畜を傷つけること、占い、魔術の用具の売買、死者を呼び戻すこと。うーん、出来そうもないことが出来ると見なされると魔女にされてしまうのか。しかし犯罪に過ぎないこともあったようだし、要は善人で居続けないと魔女扱いされる恐れがあったようですね。
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魔女裁判で特に有名になったのが「フェルトバッハ魔女裁判」です。実に95人が魔女と告発されました。(日本語では魔女としか書けませんが、この裁判では男の魔女も告発されました)。告発された罪状は、冷害を引き起こしたこと、悪魔との契約、魔女の集会への参加、空を飛んだこと、黒ミサを行ったことなどでした。どれも言いがかりのようにみえるけどね。
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この裁判で告発された人には近在の司祭であったGregor AgricolaやElisabeth KatharinaのメイドであったKatharina Paltaufなどがいます。
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リーガースブルクのバラの魔女と呼ばれたカタリーナ・パルトアウフ。
「フェルトバッハ魔女裁判」の被告の一人だった彼女は最初は罪を否定していたが、後に獣の姿の悪魔が夜に彼女を訪れることや、魔女の集会への参加、天気を操ることを白状し、更に悪魔の酒宴に参加したとして3人の聖職者の名前をあげた。裁判で死刑と宣告され、斬首の後、灰と塵になるまで火で焼かれたという。 -
1487年にドミニコ会のHeinrich Kramerが書いた魔女についての本が、その後の魔女裁判に大きな影響を与えたと言われています。この本には、魔術を証明する方法や、魔術の有害性、魔女裁判の進め方などが書かれていたそうです。他方、イエズス会のFriedrich Speerは一貫して魔女裁判に反対し、その廃止を訴えました。
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博物館には魔女以外の火あぶりの記録もありました。
この女性はマリア・ファン・ベックムというオランダ貴族の女性で、16世紀にドイツ圏で広がったアナバプテスト(当時一般的だった幼児洗礼から成人後の再洗礼を主張した)という信仰者の群れがあり、プロテスタントからもカトリックからも疎まれて異端とされていました。その信仰の故に彼女は火あぶりの刑に処せられましたが、このことはアナパプテストの群れを一層団結させたそうです。
絵はJan Luikenによるもので原画はオランダ国立美術館にあります。 -
マリア・ファン・ベックムと同じアナバプテストの信仰者の火あぶり。
ザルツブルク 1528年。この絵もJan Luikenによるものです。
こうした絵が沢山残されているのは、それだけ裁判が身近にあったのかもしれません。 -
火あぶりにはいろいろなやり方があったようですが、絞首、斬首の後に火あぶりにされたこともあったようです。これはやはりJan Luikenによるもので、1569年の
Anneke Hendriksの殉教。彼女はアナバプテスト信仰者で、同胞の名前を明かすことを拒み、為政者の怒りを買って口に火薬を詰められて火あぶりにされました。そのようなやり方は当時であっても異例だったそうです。 -
魔女とされた人が火あぶりにされたのは、キリスト教でいう最後の審判の日に復活しないようにという理由だそうです。この絵はウィーンで最初かつ唯一の魔女とされた人の火あぶり。
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これは地獄か?
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この絵の説明を記録しておかなかったので内容は分かりませんが、女性が聖職者から首を絞められそうになっているように見えます。
魔女裁判は訴えられた人の社会的地位により裁かれ方が違っていたようです。
多くは庶民だったでしょうが、「フェルトバッハ裁判」のように、聖職者が裁かれることもあり、その場合は世俗の裁判所ではなく、異端審問のような宗教裁判になり、このケースではザルツブルクの大司教が招集したそうです。 -
悪魔はこんなイメージだったようですよ。
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魔女は拷問にかけられました。ここは拷問具を展示してありました。拷問は1776年にマリア・テレジアが廃止し、死刑にすることはヨーゼフIIの時代1787年に廃止されました。
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これはヨーロッパのお城でよく見かける「鉄のマドンナ」と呼ばれる拷問・処刑道具です。捕虜を中に押し込めて蓋を閉じると身体中を釘が貫くという恐ろしい道具です。どこのも同じ顔をしているので相当人気があって沢山製造されたのかもしれません。
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拷問具がいろいろ取り揃えてあります。
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魔女や拷問の展示ばかり見て気分がいまひとつになったのでお城の様子を再度みることにしました。
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お城の窓から見下ろす下界。
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これは天水を貯めておくための装置で、1640年製造。26メートルの深さがあり、そこまでは砂利と砂が入れてあって、濾過した水がたまる仕組み。
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結構な大きさです。
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上部のパビリオンには蹄鉄が隠されていて、それを見つけた人には幸運が訪れ、それが未婚の女性であればその年のうちに伴侶を見つけることが出来るという伝承があったそうです。見つけられましたか? 上が開いた蹄鉄で、三日月形、中ほどの高さのところに見えます。
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説明書とQRコードまでありました。一寸味気ないと思うのは年寄りだけか?
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長閑な下界
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これはエレベーターを使わず、昔の人と同じに歩いて城内に入る道です。
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城の外にはこのように牧歌的なアプローチがありました。
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ブドウ畑。ワインづくりは気候変動もあってなかなか厳しいようです。
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空が高い
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リーガースブルク城は現在リヒテンシュタイン家の所有です。一族であちこちにお城を持っているのですね。オーストリアでは第一次世界大戦後に貴族制度は廃止され、公的には称号もありませんが、元貴族たちは今でも何とかプリンスとかプリンセスとか自称している人が少なくありません。仲間内での自己満足に過ぎませんが。アイゼンシュタットのエステルハージの当主を「領主」と呼ぶ取り巻きが今でもいるようです。
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人は高いところに住みたいのでしょうかね。
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こちら側から見るとマグマを感じさせません。
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この色彩感は暗い中世ではなく、南国的ですね。
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このアングルでの写真は撮れなかったので、お城のショップで買った絵葉書を載せます。これを見るとまさにマグマの上に建っていますね。
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このアングルもきれいです。ドローンでもないと撮れませんが。
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可愛い魔女が飛んでいます。こうしたことが出来る人はすぐ魔女に認定されていまいますから、注意が必要です。
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借りたレンタカーのオペル。昔はドイツで存在感を示していましたが最近はすっかり影が薄くなってしまいました。日本への輸入も大分前になくなった。
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今日は忙しい。リーガースブルクを発って1時間ほどで州都のグラーツヘ。
シンボルの時計塔。 -
シュロスベルクへ上る道
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ここにも井戸がありました。
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トルコ井戸という名前。高台にあるので94mも掘って作ったもので、地下水脈まで達しているそうです。
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この場所自体はそれほど見どころがありません。
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こんな階段をゆっくり歩いて下ります。
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チューブ滑り台。
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見下ろしたグラーツの街
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雰囲気はウィーンよりも南欧的ですね。
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第2次世界大戦において、連合軍がイタリアに上陸後は比較的近かったグラーツは爆撃を受けて市街地の半分が破壊されました。こうした古い建物は再建されたのかもしれません。
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世界遺産のエッゲンベルク城。閉館時間に間に合わず外から見るだけになってしまった。
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もっと時間があれば市内見学をして、この城もゆっくり過ごしたかった場所です。
午後6時近くなったので門のすぐそばにあるレストランで夕食にして、
ウィーンには遅くに戻りました。昔はなかった山岳地方を通るアウトバーンで真っ暗闇のなかを走りました。途中にミュルツツーシュラークという町の表示が出てきて、ああここはピアニストのクラウディオ・アーラウが滞在中に亡くなった町だと思い感慨深いものがありました。1989年だったと思いますが、近くをドライブしていてラジオのニュースで知りました。アーラウの弾くショパンの遺作ノクターン20番は他のピアニストと比べて非常にゆっくりとしていて、一つ一つの音を噛み締めながら聴くと自分でも弾けたらいいなといつも思います。脱線。気忙しくはありましたが、楽しみにしていたお城を見ることが出来て満足の一日となりました。
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