2025/11/15 - 2025/11/15
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学生時代に何年も通った東急東横線の日吉駅 東口のノスタルジック散歩。
この旅行記は、最近読んだ一冊の本『キャンパスの戦争 慶應日吉1934-1949』阿久澤武史氏著に啓発されての日吉再訪でもある。
日吉の丘は、標高が30~35mほどで、周囲の鶴見川流域よりの30mほど高い。海が迫っていた古代には住みやすかったのか古代住居跡も発掘され、北の矢上台には日吉神社も鎮座した。
だが、江戸時代から明治・大正期までは、農業利用を考えると、水利が悪い台地の上は周囲の水田地帯よりもきっと価値が低かったのであろう。
1世紀近く前の1930年(昭和5年)に、現在の東急電鉄は、継続的な電車利用客確保のために、日吉駅前の台地上の土地7万坪余を、三田キャンパスが手狭になって郊外に進出を企画していた慶應義塾に提供したとされる。
慶應義塾は、日吉の丘に第一校舎、第二校舎、さらに理工学部の前身である藤原工業大学校舎などを整備したが、第二次世界大戦が勃発、帝国海軍の大拠点になり敗戦、さらに米進駐軍による接収と解除を経て、戦後の整備、矢上台への拡張の時代に入った。
そのような歴史を経た日吉の丘を巡り、今日では緑が多く残されたキャンパスを核に、ステイタスが高い街に成長を遂げた姿を見た。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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今日のミニトリップは、メトロ副都心線Fライナー/東横線内特急電車が多摩川を渡り、武蔵小杉駅で各駅停車に乗り換えるところから始まる。
武蔵小杉駅 駅
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武蔵小杉駅で各駅停車に乗り換える場合、昔は東横線を走る桜木町駅行きの各駅停車だけであった。(大昔は特急はなく、頻繁に走る急行に乗れば日吉駅で降りられたが。)
今は、「目蒲線」から改修強化された「目黒線」が田園調布駅から日吉駅まで線増されて複々線になり、乗り換えた各駅停車は何と「海老名駅」行き。 -
昔は日吉駅は、切通し状の中に地上ホームがある普通の駅であったが、駅と線路上にショッピングセンターなどの巨大な建物が建ったため、地下駅のような感じの空間に入って行く。
本当の横浜市営地下鉄は、東横線の下に駅をつくった。 -
改札口を出ると、正面は「日吉東急アベニュー」というショッピングセンター的な商業施設が待ち構えている。
「日吉東急アベニュー」というショッピングセンターは、改札口の両側B1~3Fに多数の店舗がある。日吉東急アベニュー 百貨店・デパート
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ちょっと日吉駅西口も見てみようと、西口側に出てみると、駅を中心に5本の放射状に配置された道路そのものは変わらないが、華やかな商店街に変っている。
今考えると、駅前広場が自動車時代には狭く感じられるのが玉に瑕にだが、歩行者として考えれば、見通しが良い放射状道路は便利そう。日吉駅 駅
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半世紀前には東口側には一切なかった、喫茶店、飲食店、雀荘などが、西口側に住民の買い回りの店と軒を並べていたものであるが。
今では、横浜市営地下鉄も乗り入れ、交通の要衝になっているので、学生以外の客も多いのであろう。 -
東口の前を走る綱島街道を渡ると、その先はすぐ慶應義塾大学のキャンパスになる。
1930年(昭和5年)に東急電鉄から提供された7万2000坪の駅前土地をもとに、追加の買収分等も含め計13万坪(43ヘクタールくらいか)もある広大な日吉キャンパス。
門はなく、正面の銀杏通りを始めとする主要通路が、近隣住民の通勤や散歩に開放されているのもユニーク。通学者にとっては、駅に近いことはこの上なく便利。
日吉キャンパスが開設された頃は、目蒲線経由で三田に直結の地下鉄がつくられるなど想像する人もいなかったであろう。先生も両キャンパス掛け持ち可能であろう。慶應義塾大学 日吉キャンパス 名所・史跡
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日吉キャンパスは後ほどの訪問にして、綱島街道を北側に坂を降りて行くと、正面の武蔵小杉方向にはタワーマンション何棟もが聳え、風景が変わっている(学生時代には多摩川の土手まで往復のトレーニングがあって、最後のこの登り坂がきつかった。)。
武蔵小杉といえば、電機会社の工場などが建ち並んでいたが、1区画1ヘクタールくらいの容積率が甘い敷地は、タワーマンションの敷地に最適であったのであろう。 -
日吉の丘を降りきり、右手(東)に入ると「日吉神社」がある。
武蔵國矢上村の総鎮守で、創立年代は不詳であるが、往古よりあるとされる(昔は神明社)。
場所的には、独立した矢上台と呼ばれる残丘の西側部分。
車で日吉神社まで登れるようだが急坂。 -
急坂を登りきると、矢上川(多摩川の支流ではなく、下流で鶴見川に合流)の谷越しに、元住吉の中高層マンシションと、武蔵小杉の超高層マンシションを見渡せる。
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日吉神社は、今日が七五三なので、賑わっている。
記念撮影の家族で、写真が撮れないほど。日吉神社 寺・神社・教会
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こちらが本来の参道で、百段近い石段を登るので、人気がない。
因みに、矢上台の日吉神社の東側(写真の右)は、慶應義塾大学の理工学部の校舎群が建つ。 -
日吉神社の階段下から、矢上台と日吉の丘の間を抜け、東海道新幹線の高架の手前を右に回り込むと、通称「蝮(マムシ)谷」と呼ばれる地区に入る。
前の東京オリンピック開催直前(昭和39年)に2つのトンネルで新幹線が開通するまでは、静かな谷間であった。と言っても、開通当初は、1時間にひかりとこだま各1本だった記憶で、上り下りで計4本が通過のときだけの騒音であった。
三方を台地に囲まれたこの地帯は、明治期までは水田などがある湿地帯で、その周囲には雑木林があり、そこに多くのマムシが生存していたのが名称の由来らしい。
「蝮谷」のメインは慶應大学体育会庭球部が使っている試合もできるグランドで、谷の中には、体育会の他の部の練習場や部屋も多い。
(馬術部は先ほどの日吉神社方向に馬場がある) -
「蝮谷」の西側は、合気道部の道場周辺で、近年は「一の谷」と呼ばれているらしい。昔は、こんな地名は聞かなかった。
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これが「蝮谷」の全体図(上が南=綱島方向)で、谷の崖部分(緑色)は森林や雑木林が保全されている。
丘の頂上部の平らな分は校舎(水色)やグラウンド等(薄緑)。 -
丘の上の第一校舎の東側の崖下が湧水を集めた「ひよ池」とされ、第一慶應義塾大学・日吉丸の会という環境団体の、森を守る環境保護活動の状況が展示されている。
時代を感じる。 -
蝮谷の谷底から、丘の上の第一校舎に一気に約30メートルも登る石段がある。
登山が学生に人気があった昔は頂上部のコンクリート以外は山道のような土の階段で、登山系の部活動で歩荷(ボッカ)訓練に使われていた記憶。 -
階段の中腹を台地の形から「イタリア半島」とも呼ばれた宮前台地方向に進むと、鉄扉がある地下倉庫入口のようなものがあるが、日吉台地下壕の戦争史蹟。
以前は、戦時中に海軍が掘った防空壕の出入り口や換気口が、あちこちに残っていた。これは海軍の連合艦隊司令部が、東京湾上の軽巡洋艦大淀からこの上の第一校舎周辺に移転してきたためで、司令部要員などが空襲時も勤務できるようにするために掘られたとされる。総延長は5,000メートルもあるらしい。日吉台地下壕 名所・史跡
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こちらが日吉の丘の上で一番古い第一校舎。最初に書いた阿久澤武史氏の本に詳しい経緯が書かれているが、曾禰中條建築事務所の網戸武夫氏の設計とされる、外壁が50センチ厚以上もありそうなRC造り3階(一部4階)建て。
竣工直後の戦前は大学予科の校舎で、敗色が濃くなった昭和19年からは海軍の連合艦隊司令部が使用していたことで有名(実際は連合艦隊司令部はより南側の寄宿舎3棟が中心)。黒い塗料で迷彩されて、最初に移転した海軍軍令部第三部のほか、海軍省航空本部・人事局・経理局なども移転してきたとされる。
大学予科時代で有名なのは「きけわだつみのこえ特攻隊手記の上原良治氏」が通学し、海軍時代は留学先の米国から交換船で帰国した「評論家の鶴見俊輔氏」が勤務していたらしい。 -
戦後の米軍接収時代を経て、昭和23年に新制高校の慶應義塾高等学校が設立されてからは、一貫してこの校舎が使われている。3階までの各階に1学年18クラスの高校生約2,200人が通っているとされるマンモス校舎。
写真は、第一校舎の北西端にある、知る人ぞ知る「装飾物」。
世界を象徴する地球儀の地図を、大きなトロフィー型カップの表面に浮き彫りにしてある。
正面が太平洋で北にアリューシャン列島、左にカムチャッカ半島から千島列島、日本列島が見える。
最初に書いた阿久澤武史氏の本によると、設計者たちが『世界地図のカップで海外への飛翔の夢を実現させよう』としたらしい第一校舎の象徴だったのかとも感じられる作品。校舎の外部にあるので、誰でも見学可能。 -
第一校舎北側の台座には「2594」の数字が刻まれている。
こちらは比較的に有名で、神武天皇が即位したとされる紀元前660年から数える「皇紀(こうき)」で、第一校舎が完成した西暦1934年(昭和9年)を表したもの。
第一校舎が建築されたころは、皇紀2600年に東京オリンピックを誘致する運動で盛り上がっていたらしい。戦中派の人が「皇紀2600年」という歌詞を口ずさんでいたような記憶。
他のビルでは見かけたこともなく、こんな物にに出会わないと「皇紀」を実感する機会はないであろう。 -
右が第一校舎で、正面は創立150周年記念事業で2020年に建替えられた記念館(演壇、アリーナ、観客席を持ち、アリーナに席をつくれば講堂になる。)。
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北西側の校舎群の中にある、1939(昭和14)年に「藤原工業大学」(現在の理工学部の前身)が開校した記念碑。福澤諭吉の門下生で、慶應義塾正科を卒業後、三井銀行、三井物産などを経て王子製紙の社長になり製紙王と呼ばれた有名な藤原銀次郎が創始者で理事長とされる。因みに学長は慶應義塾大学小泉信三学長が兼務。
「私財で工業大学を作りたい」という思いでつくられたとされるが、戦時中に慶應義塾に吸収された。
戦後は小金井市の多磨霊園西側に「工学部」としてあった。その頃は、日吉にこんな記念碑はなく、昭和33年に慶應義塾創立100年記念事業として藤山記念日吉図書館が近くの東端につくられていた(現在は建物は用途変更)。
昭和47年に工学部が前述の矢上台に移転し、さらに昭和56年に「理工学部」に発展している。この記念碑は、2014年に理工学部創立75周年記念事業の一環でつくられたもの。 -
昔から400m公認トラックであった陸上競技場も、近代的な全天候型に。
奥の建物は、昔の屋外プール跡に創立150周年事業の一環で建てられた「協生館」で、室内プール、図書館、クリニック/薬局から、喫茶店、コンビニ、パブ、保育施設まである。昔のキャンパス内は大学生協や食堂くらいであったが、最近の学生さんの暮らしは便利になったと感心する。
低層部は学生以外も利用可能。 -
便利さを味わうべく、協生館のタリーズコーヒー店に寄って登り降りで疲れた足を休ませ、日吉駅に戻る。
日吉駅は、改めて見ると、駅というよりも商業施設という外観。
1995年に日吉東急百貨店として開業したが、2004年に業態転換し「日吉東急」に改称され、さらに現在の名称「日吉東急avenue」に変更となったよう。
確かに、綱島駅(左)側の上部は、百貨店的な雰囲気。
追記;この旅行記巻頭に、「最近読んだ一冊の本『キャンパスの戦争 慶應日吉1934-1949』阿久澤武史氏著に啓発されての日吉再訪でもある」と書きました。
旅行後に、さらにもう一冊『日吉台地下壕 大学と戦争』阿久澤武史氏と津倉武之氏、亀岡敦子氏、安藤広道氏の共著を読んで、戦争遺産の校舎などを生かして保存を図っていることの意義を再確認できた感想です。日吉駅 駅
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