2025/02/19 - 2025/02/19
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gianiさん
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長崎街道最大の難所冷水峠を越えると、山家宿です。西構口や郡屋には、江戸時代の建築が遺されており、非常に稀な体験をできます。
一方の原田宿は、最近宅地開発されて全く情緒がありません。
ふるさと館ちくしのでは、長崎街道に関する資料が展示されており、時間があれば立ち寄ることをお勧めします。
- 旅行の満足度
- 5.0
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筑前内野駅からJRで移動します。
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冷水峠は、全長3286mのトンネルで越えます。
並行する国道200号線のトンネルは全長2891m。
飯塚市と筑紫野市の境界です。江戸時代は、穂波郡と御笠郡の境界でした。冷水峠 (長崎街道) 自然・景勝地
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蒸気機関車の煙を強制排気するための換気装置が、開通当時から取り付けられていました。
この後、丹那トンネル/関門トンネル等では(全長/交通量を鑑みて)換気が不可能なので、最初から電化して開通しています。 -
峠茶屋のおこわ
煮込んだ鶏肉とだし汁を合わせたもので、冷水峠の名物料理でした。
「ふるさと館ちくしの」の展示資料。 -
車内はのんびり
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筑前山家駅に到着。
筑前山家駅 駅
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構内には、西鉄の路面電車
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昔のガソリンカー
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なんか不思議な墓場でした。
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駅前から小倉方面へ数分戻ります。
山家宿の東構口跡の標示が。ここがスタートです。現在も国道200号線として機能しています。 -
小さな関所のようなもので、門という物理的障害と福岡藩の門番による手形のチェックが行われました。結構厄介です。
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筑前六宿
長崎街道で、福岡藩内に所在する宿場の総称。交通量が最も多い区間で、筑前六宿(むしゅく)と呼ばれました。
長崎へは福岡城下を通過する唐津街道→薩摩街道が幹線でしたが、城下を他国の者が往来することを嫌った福岡藩主が、最短距離のバイパス路を建設します。木屋瀬/飯塚宿は幹線へ昇格し、内野/冷水峠/山家宿は新たに建設されました。 -
巨大なえびす様が。
長崎街道らしさを感じさせるアイコンの一つです。 -
えびす様の左隣には長屋門跡の標示が。
長屋門は長屋の真ん中に門がある構造で、防衛上優れた設計です。一般に中級武士以上の邸宅で見られます。 -
東構門を入ると、まず大庄屋宅が構えていたことが分かります。東構門と連携して長屋門も防衛を担っていたことが想像できます。
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大庄屋は複数の庄屋を束ねる地位にあり、地役人と呼ばれる藩の官僚/統治機構の一部として機能します。農民ですが、名字帯刀も許されています。明治維新後は、初代山家郵便局として使用されます。
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後ろから大庄屋宅を振り返ると、こんな光景。
現在はT字路になっていて、L字型に走る県道77号線と合流します。 -
長崎方向へ進むと、西福寺の案内が。
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境内には、冷水隧道(トンネル)工事殉職者弔魂碑と刻まれた石碑が。鉄道トンネルの建設は、難工事だったようです。
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その先には、エビス屋さんが。宿場時代は、新町長崎屋でした。向かいには、油屋がありました。
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振り返ると、こんな感じ。路線バスが、西鉄筑紫駅まで、毎時運行されていました。終点まで行くと、熊本藩細川家本陣跡まで直ぐです。それを知っていれば、、、後悔です。
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郵便局の向かいには、問屋場跡の標示が。
宿駅の「駅」にあたる機能を果たす建物で、人足/牛馬を揃えて長崎街道の物流を支えました。守備範囲は両隣の宿場(山家宿なら原田/内野)までで、公儀飛脚にも対応しました。最大の流通業務は、参勤交代(大名行列)と長崎奉行の往来です。 -
郵便局には、前島密が整備した近代郵便制度の恩恵を最初に受けたのが、長崎街道でした。1871年に東海道に郵便制度が始まり、12月(当時は旧暦)には長崎街道にも及びました。宿場には郵便取扱所が設けられました。当初の郵便取扱場は、大庄屋だった近藤家の宅内に開設されました。
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後ろを振り返ると、郵便局の壁には古めかしいプレートが。壁の先には角屋、道路の向かいには亀屋/柳川屋という旅籠がひしめいていました。
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R200は真っ直ぐ続きますが、当時の長崎街道は右へ折れる一本道でした(現在はT字路になっています)。写真右のブロック塀の敷地には、川口屋が営業していました。
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直角へ折れる部分には、下茶屋の薩摩屋が営業していました。下茶屋は脇本陣のことで、商業目的の宿屋としては最高位の格付けでした。山家宿の脇本陣は、薩摩屋の他に長崎屋もありました。
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当時の宿場の地図。
右下部分で、街道が折れています。 -
右折してしばらく進んだところで後ろを振り返ります。ブロック塀に隠れていた、郡屋跡入口の標示が目に入ります。
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向かい側には、旭化成離合所の標示が。
小学生の集団登下校の集合場所みたいです。 -
川口屋と松尾屋の間の細い道を奥へ進むと、郡屋がありました。母屋は現在も私邸として使用していることを喚起する看板が建ちます。
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いざ、母屋に付属する門を潜ります。古図では、巽方向の門と記されています。
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郡屋跡
村々を束ねる郡という行政単位を纏める地域の役所で、地元住民の手で運営されました。筑前六宿には、各宿場に配置されました。大庄屋/庄屋組頭といった地役人(身分は農民)が、年貢の徴収/保管、藩の通達を各村に伝えるといった業務を行いました。参勤交代時の段取(人馬徴収/配置/交通規制)は、宿場内の郡屋独特かつ最重要業務でした。 -
1862年の間取り
郡屋守の住居となる主屋の他に、様々な蔵が建っています。 -
門を潜ると、建物の基礎部分が残っています。右に蔵、左に郡屋が並んでいました。
郡屋は、地役人や代官所役人の打ち合わせなどに使用されました。間取りは、8/6/8/16/8/12畳の6部屋です。 -
右に目を向けると、穀蔵跡の標示が。手前には稲家が。各農家が年貢として納めた農産物を各村の庄屋が運んで、郡屋の蔵に一時保管しました。藩の役人がチェックして運び出しました。蔵の先には、先ほど歩いた長崎街道が見えます。
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突き当りには、灰屋(堆肥小屋)と裏門。裏門は、江戸時代から残るものです。裏門の右には牛馬小屋がありました。
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突き当りを左へ曲がると、土蔵があります。江戸時代から続く建築物で、郡屋の建物が今に残る貴重な物件です。右手前には、薪屋/材木小屋がありました。
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大名たちの旅支度品、街道の補修用具などを収納していました。基礎は60cmほど自然石を積み上げ、にがりを混ぜた厚さ50cmの土壁で囲まれ、桁を使用せず直接梁を渡して屋根を載せています。柱がない特殊な構造で、床面積は52平方メートルです。
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1835年に藩主が5日間滞在した際には郡屋に53名が詰め、諸道具の出し入れに従事しました。他にも街道の清掃/宿の警備等の雑役が伴い、宿場や郡の村々に大きな負荷がかかりました。郡屋は、倉庫施設とも言い換えられます。
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御上が領民に重い負担を掛けたので、明治6年の筑前竹槍騒動の際には、圧政の象徴として山家宿郡屋は焼き討ちに遭いました。現存するのは土蔵/灰屋/裏門のみとなっている背景には、そんな歴史が潜んでいます。
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郡屋の機能について学べた日本唯一のスポットを後にします。
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松尾屋跡の建物も味があります。
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松尾屋の隣は、脇本陣の長崎屋跡。筑前六宿の脇本陣は各宿場に2軒ずつ、屋号は薩摩屋と長崎屋でした。
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長崎屋の横には、恵比寿石神像が。寛永10年(1633年)の作品です。
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暫く進むと、十字路があります。長崎街道は左へ折れました。右には御茶屋跡、左には下代屋敷跡の標示があります。ここで街道を逸れて、これらの施設が並ぶ路地を進みます。
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御茶屋跡
藩主の別宅で、宿場では本陣としても機能します。宿泊できるのは、福岡藩主、参勤交代中の西国大名、大名格の幕府高官(長崎奉行等)で、必要に応じて特別営業する公的宿泊施設でした。宿場内に御茶屋守(管理人)が任命され、宿泊時のサービス提供/警備は郡内の領民が負担しました。 -
向かいには、下代屋敷跡が。路地に沿って4軒ほど並びました。下代とは代官のもとで諸事務にあたった宿場役人で、諸大名や幕府役人が休憩宿泊する場合、問屋場に1名が出張し宿内の監督取締を行い、予備の人馬についても1名が指図監督にあたりました。
写真は高嶋家の下代屋敷跡地で、代々原田宿の下代を勤めていましたが1870年に山家宿下代として転勤し、1872年まで勤めました。家屋は原田宿から移築して使用しましたが、1994年に解体されました。 -
こんな感じで、情緒ある民家が並びます。
長崎奉行/日田郡代が宿泊する場合は、下代2名が御進物の運搬について指揮監督にあたり、長崎町年寄/漂着した異国人の付添役人には代官の代理として挨拶に出ました。御状箱/御用物運搬の行列が町茶屋に宿泊する場合は、不寝番に立つ庄屋/組頭の監督にあたりました。唐銀/公納銀運搬の行列が宿泊する場合は、不寝番を行いました。 -
1862年の図面を見ると、建坪190坪です。明治初期に解体されました。1826年に実際に宿泊したシーボルトによると、天井は上等な杉材、壁には貝殻石灰、襖は金紙が用いられたきれいな部屋だったそうです。
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1871年の図によると、御茶屋の敷地は900坪、赤塗りで4軒の下代屋敷の位置が描かれています。展示資料は、以下ふるさと館ちくしの。
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参勤交代出立の日の朝食の一例
鯛のそぼろ/椎茸/牛蒡/金糸卵/三つ葉をご飯の上に乗せ、だし汁をかけて食べます。細かくするのは、お茶漬けのように一口で食べられるようにするためです。 -
左の民家の敷地内には、下代屋敷のもやい井戸が残っています。ちなみに道を奥まで進むと、旭化成筑紫野工場が建ちます。
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下代屋敷の先には、代官所がありました。郡内に設置され、御笠郡は山家/原田/二日市宿に設置されました。管轄地域の年貢徴収/藩命の通達/大名行列が恙なく通過できるよう郡屋に通達/段取することでした。
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さらに山道を進むと、
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山家宿を整備した桐山丹波(1554-1625)の墓があります。
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黒田二十四騎の筆頭で、内野宿を建設したとは、黒田長政の命で義兄弟の契りを交わしました。初代山家代官を務め、退官後も山家村に住んで命を終えます。黒田氏4代にわたって仕え、黒田騒動の際は解決へ向けて大きな働きをしました。
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400年以上経つ墓碑は小ぶり、右手前の百回忌供養碑/左奥の二百五十回忌供養碑の方が遥かに立派です。
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来た道を引き返します。下代屋敷跡を進んで、
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高嶋家跡の辻を曲がると、
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長崎街道を進みます。人工的な塀で道幅が狭められています。これが西構門跡です。名前の通り門を構えて、門番は不審者の通行を許しませんでした。
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街道に張り出して、門を構えた様子が見事に残っています。
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反対側
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石垣と土塀の部分の中でも、特に古い部分は県の文化財に指定されています。写真では、漆喰が塗られる前の粘土が写っています。
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壁を見ると、古い部分とその後に補修された新しい部分の境目がはっきりとわかります。
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長崎方向からアプローチした場合の西構口の眺め
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もう一度復習すると、こんな感じの宿場でした。
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街道を進みます。
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直進すると旧街道、右折すると新街道です。
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右折して、柵の続く道へ左折します。
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地図を見ると、第16方面軍司令部地下壕が存在するようです。
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溜池先の宮地嶽の南山麓にあったようです。
1945年に本土決戦に備えるべく軍を再編成し、第16方面軍は九州全体を担当しました。6月の福岡大空襲で司令部は、ここの洞窟内へ移動します。 -
結構凄い話でした。
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まもなくT字路です
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左から旧道が合流、長崎方向は右折します。
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さりげなく歴史を感じさせる道筋です。
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先ほどの分岐点へ戻って、直進して従来の長崎街道筋を歩きます。
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県道77号線に合流する地点で、長崎街道は右折します。
番所跡と書かれています。関所は幕府が設置したのに対し、番所は藩が設置するもので、通行人の手形を改めてチェックしました。 -
追分石とも書かれています。分岐点の事で、左折すると日田往還が続いていました。追分石は、ふるさと館ちくしのに展示してあります。
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後ろを振り返るとこんな感じ。
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新ルートの建設(1864)
従来はデルタ型(Δ)の道でしたが、間に新道を通してT字路にしました。沿道に溜池や陸軍司令部があったのが旧道で、番所跡/追分石があるのが新道です。 -
山家関番所の設置(1864)
浪人取り締まりのために、大又の追分に臨時で設置されました。図を見ると、日田往還(日田方面)の部分に設置され、長崎街道はフリーだったことが分かります。また、新道を建設してデルタ型からT字路へ変更したのは、防衛上の理由だったことが読み取れます。 -
1864年の文書
下は新ルート建設を願い出たもので、上は関番所の新設を願い出たもの。山家村の庄屋等の地役人が、郡代へ嘆願しています。 -
山家の関番所役人が出した手紙
原田宿で藩内の関番所の合同会議が開かれることになったが、関番所が手薄になるので出席できない旨を伝えています。 -
長崎街道を外れて日田往還を進むと、すぐにJR筑豊本線の踏切を渡ります。大又踏切とあるように、分岐点だったことが地名に残っています。
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こんな感じで2kmほど進むと、熊本を経由する薩摩往還が分岐します。幹線道路が集中している地域です。
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道を引き返し、長崎街道との合流点へ。この先は長崎街道と日田往還(福岡城下方面)が重複します。
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沿道には、古い恵比寿像が。
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旧福岡藩士が明治維新後に開いた私塾跡。公立学校教育が普及するまで重要な役割を果たしました。
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直進が日田往還で、長崎街道は左折します。
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日田往還を数分進むと、郡の境界石が。
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従是西御笠郡/東夜須郡と刻まれています。
先ほどの分岐点へ戻り、長崎街道を西進します。 -
県道77号線と合流し、JR筑豊本線の踏切を渡ります。
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後ろを振り返ると、こんな光景。
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暫く進んで後ろを振り返ると、天山がそびえます。山家宿に沿った山で、長崎で有事の際、江戸へ緊急連絡する狼煙台が設置されました。戦争末期には、帝国陸軍の司令部も置かれた山です。
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宝満川に架かる宝満橋の一つ手前の道を左折すると、
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下見の案内図があります。
原田代官が、馬市の下見のために詰所屋敷を築いたことが地名のルーツとされます。 -
原田宿と山家宿の中間地点として商業/手工業が盛んでした。大正~昭和初期にかけては商店が軒を連ね、銀行/医院までありました。
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中世まで宝満川には中洲があり、侍島と呼ばれました。
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界隈は、大友氏と毛利氏の決戦となる侍川の合戦(1559)の舞台で、供養塔もあります。昔から、要衝だったということです。
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大友宗麟は大敗し、毛利元就の九州進出に弾みが付きました。
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宝満橋付近には西鉄筑紫駅があり、JR原田駅行のバスが出ています。2kmほどの区間なので、徒歩で移動しても悪くはありません。
筑紫駅 駅
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原田(はるだ)宿
長崎街道の宿場で、福岡藩の筑前六宿と呼ばれる最重要宿場の一つでした。さらに久留米藩(筑後国)/対馬藩田代領(肥前国)に面し、藩に3つしかない国境宿場の一つで、防衛上も重要なポジションでした。 -
上の絵を地図にプロットすると、こんな感じになります。丘に囲まれた地形でした。長崎街道(赤線)がクランクしているところには、筑紫神社があります。
現在は、国道3号線が並行しています。 -
旧長崎街道は、小麦冶の手前を右折してクランクします。
筑紫神社 寺・神社・教会
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筑紫神社のある山を登って左折して参道を下ります。山を下りて写真奥の二の鳥居を潜り、左に御池を臨んで一の鳥居(写真手前)を潜る道が旧長崎街道でした。
はるだ茶屋 グルメ・レストラン
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参道の先は住宅街です。
歩道に立つ電柱付近に東構口があったと推定され、構口の先から宿場になります。写真の左側には、名物はらふと餅を売る店があり、右枠外の丘には代官所がありました。 -
はらふと餅屋
東構口手前に位置し、原田宿の名物でした。塩餡を薄皮で包んだ、掌サイズのボリュームでした。長崎方面には三国峠/小倉方面には冷水峠という難所に挟まれていたので、エネルギー補給に最適の場所でした。 -
小河内蔵充(1575-1639)
1602年に原田村を知行地として与えられ、宿場整備を行い、初代原田代官を務めます。母方の叔父が黒田二十四騎のひとり小河信章で、彼に養子入りして家督を継ぎます。様々な軍功を立てるだけでなく、黒田騒動の際には家老として藩主を助けました。
母親は隣の山家宿を整備した桐山丹波と再婚しているので、義父に当たります。 -
小川を渡ると伯東寺が見えます。
地図では伯東寺を越えてから小川を渡るので、川か寺が移動しています。 -
地図を見ると、東構口の手前に餅屋(黄緑)、その先に東構口があり、宿場の中央に伯東寺、その先に郡屋が街道を横断する小川沿いに建ちます。代官所は餅屋の向かいの街道から離れた丘の上に有ります。
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伯東寺
オリジナルの位置か、移転したかは不明です。 -
本堂の右手前には、はらふと餅を搗いた直径60cmの石臼が保存されています。鉄道開通と国道建設で三国峠が開削されたことでニーズがなくなりました。
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郡屋跡
普請(公共工事)/要人の通行(参勤交代等)の際に、宿場の所属する郡の村々には人足を提供する義務があり、割り当てられた各村の村役人(庄屋等)と藩役人が段取りの打ち合わせをする役所です。年貢を納める際も使用します。
川が移動しているとすると、この辺りに郡屋がありました。 -
現在は突き当たって右に曲がっていますが、長崎街道は真っ直ぐ通じていました。
突き当りには西構口がありました。 -
西構口の左手前には、関番所がありました。原田宿場跡という石碑が立っている場所です。
寛永の武家諸法度改正で各藩が勝手に関所を設けることを禁止されたために、番所と呼ばれました。島原の乱以降、通行を取り締まる必要が生じ、国境の黒崎/前原/原田宿の西搆口に設置されました。
関所番士6名が交代で任務に当たり、通行手形(写真)を改めました。
関番は往路の入国者に添手形を発行しました。復路で再入国する際に添手形に宿代官の代官に裏書してもらい、出国する宿の番所で添手形を返却しました。 -
西構口の左手前には、御茶屋がありました。藩主別邸を指す言葉で、幕府高官/参勤交代で大名が宿泊する際にも使用され、いわゆる本陣としても機能しました。
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原田と黒崎の代官所には、要人等を宿場から国境まで送り届ける郷足軽が3名ずつ配置されました。
写真は諸通執行定というマニュアルで、九州の諸大名/長崎奉行/日田郡代/長崎町年寄/漂着異国人が通行する際の扱い方が記されています。 -
廃藩置県で原田宿は寂れますが、1929年に筑豊本線が伸張することで石炭輸送の恩恵を受けます。筑豊炭田の閉山と篠栗線の開通で、再び静かな街に戻っています。
原田駅 (福岡県) 駅
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原田のかけ汁
鶏肉と三つ葉を乗せたご飯にだし汁をかけた料理。
引き続き、長崎街道を下ります↓
https://4travel.jp/travelogue/11942129ふるさと館ちくしの 美術館・博物館
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