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今も昔もフランス第一級の軍港として機能するトゥーロン。前回は軍港に焦点を当てましたが、今回は旧市街を歩きながら街の歴史を辿ります。無名の貴族士官ナポレオンが救国の英雄、ヨーロッパの覇者として国民に認知/支持を得るきっかけとなったトゥーロン攻囲戦/イタリア遠征/エジプト遠征は、みなトゥーロンが舞台でした。<br />ほかにもトゥーロンの歴史を紐解くと、必ず世界史が絡んでくることを実感する内容でした。ガイドブックで取り上げられない魅力的な街をぜひ堪能してみてください。<br />前編はコチラ↓<br />https://4travel.jp/travelogue/11965501<br />

旧市街と歴史博物館を堪能:トゥーロン紀行② ナポレオンが躍進した痕跡も

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2024/12/19 - 2024/12/19

4位(同エリア10件中)

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gianiさん

この旅行記スケジュールを元に

今も昔もフランス第一級の軍港として機能するトゥーロン。前回は軍港に焦点を当てましたが、今回は旧市街を歩きながら街の歴史を辿ります。無名の貴族士官ナポレオンが救国の英雄、ヨーロッパの覇者として国民に認知/支持を得るきっかけとなったトゥーロン攻囲戦/イタリア遠征/エジプト遠征は、みなトゥーロンが舞台でした。
ほかにもトゥーロンの歴史を紐解くと、必ず世界史が絡んでくることを実感する内容でした。ガイドブックで取り上げられない魅力的な街をぜひ堪能してみてください。
前編はコチラ↓
https://4travel.jp/travelogue/11965501

旅行の満足度
5.0
交通手段
徒歩
  • 海軍博物館を後にします。

    海軍博物館を後にします。

    トゥーロン海洋博物館 テーマパーク・動物園・水族館・植物園

  • 12月なのに、テラス席が心地よい空気。<br />

    12月なのに、テラス席が心地よい空気。

  • ヴォーバンの設計した要塞の一部分(旧港)は、漁港となっています。<br />

    ヴォーバンの設計した要塞の一部分(旧港)は、漁港となっています。

  • イメージ通りの南仏の世界です。<br />

    イメージ通りの南仏の世界です。

  • 海沿いのアパルトマンもモダンでおしゃれ<br />

    海沿いのアパルトマンもモダンでおしゃれ

  • 昭和40年代に建てられた日本の団地が、様々な面で劣化しているのとは対照的です。

    昭和40年代に建てられた日本の団地が、様々な面で劣化しているのとは対照的です。

  • 海岸通り沿いの広場に面したサン・フランソワ・ド・ポール教会<br />現在の建物は1744年に建てられたもので、かつてはレコレ派修道院の礼拝堂でした。レコレ派修道会は、フランシスコ会の改革一派で、労働者階級の地域で説教/慈善活動を行っていました。<br />ファサードの繊細な曲線はイタリアバロック様式を彷彿とさせ、内部では控えめな身廊/平らな天井/三方を囲むように高く伸びる手すり付きの広い回廊が印象的で、劇場のような雰囲気を醸し出しています。<br />※教会名称の由来は、パオラの聖フランチェスコと呼ばれる(水の上を歩く/フランシスコ会ミニム修道会派を創設)イタリア出身の聖人で、主に南仏/イタリアで信仰されます。

    海岸通り沿いの広場に面したサン・フランソワ・ド・ポール教会
    現在の建物は1744年に建てられたもので、かつてはレコレ派修道院の礼拝堂でした。レコレ派修道会は、フランシスコ会の改革一派で、労働者階級の地域で説教/慈善活動を行っていました。
    ファサードの繊細な曲線はイタリアバロック様式を彷彿とさせ、内部では控えめな身廊/平らな天井/三方を囲むように高く伸びる手すり付きの広い回廊が印象的で、劇場のような雰囲気を醸し出しています。
    ※教会名称の由来は、パオラの聖フランチェスコと呼ばれる(水の上を歩く/フランシスコ会ミニム修道会派を創設)イタリア出身の聖人で、主に南仏/イタリアで信仰されます。

  • 礼拝堂の右側には、かつて3階建ての修道会の家が建ち、半円形の玄関、井戸のある細長い中庭、食堂、図書室、応接室、そして約15の小部屋がありました(写真左上)。フランス革命で廃院となり、建物は一時期トゥーロン市の所有となります。その後礼拝堂は教区教会へ昇格し、住民の希望で1803年にサン・フランソワ・ド・ポール教会と改名されました。修道会の家だった方は、無知の兄弟団が運営する小学校として使用され、労働組合の拠点も兼ねていました。1929年に空家になり、1943年に取り壊されました。(真ん中の写真は1916年の様子)<br />※レコレ修道会は、南仏とりわけニース近郊で多く見られる灰色苦行会(かなり強引な訳)とかなり類似しています。<br />

    礼拝堂の右側には、かつて3階建ての修道会の家が建ち、半円形の玄関、井戸のある細長い中庭、食堂、図書室、応接室、そして約15の小部屋がありました(写真左上)。フランス革命で廃院となり、建物は一時期トゥーロン市の所有となります。その後礼拝堂は教区教会へ昇格し、住民の希望で1803年にサン・フランソワ・ド・ポール教会と改名されました。修道会の家だった方は、無知の兄弟団が運営する小学校として使用され、労働組合の拠点も兼ねていました。1929年に空家になり、1943年に取り壊されました。(真ん中の写真は1916年の様子)
    ※レコレ修道会は、南仏とりわけニース近郊で多く見られる灰色苦行会(かなり強引な訳)とかなり類似しています。

  • 現在は、旧修道院の3階建ての建物跡にオレンジの壁の建物が建っています。<br />現在地には、フランス王の別邸が建っていました。1570年の様子を描いた絵画の右側には(上の写真の左下)、王の別邸だった頃の姿が描かれています。<br />現在は、広場でマルシェが開かれます。

    現在は、旧修道院の3階建ての建物跡にオレンジの壁の建物が建っています。
    現在地には、フランス王の別邸が建っていました。1570年の様子を描いた絵画の右側には(上の写真の左下)、王の別邸だった頃の姿が描かれています。
    現在は、広場でマルシェが開かれます。

    トゥーロンの魚市場 市場

  • 教会の向かいには観光案内所があり、観光地図等がもらえます。2時間ほど昼休みを取るので悪しからず。

    教会の向かいには観光案内所があり、観光地図等がもらえます。2時間ほど昼休みを取るので悪しからず。

    トゥーロン観光案内所 散歩・街歩き

  • ラファイエット広場を曲がると、カテドラルが出現します。<br />説明を読むと、1096年の建設当初から今も変わらず他の建物に埋もれているそうです。<br />4本の美しいコリント式の柱が大扉を縁取る現在のファサードは1701年に完成し、教会の南面を飾ります。ファサードの東隣(右側)には鐘楼があります。

    ラファイエット広場を曲がると、カテドラルが出現します。
    説明を読むと、1096年の建設当初から今も変わらず他の建物に埋もれているそうです。
    4本の美しいコリント式の柱が大扉を縁取る現在のファサードは1701年に完成し、教会の南面を飾ります。ファサードの東隣(右側)には鐘楼があります。

    サント マリー マジュール大聖堂 寺院・教会

  • 建物の拡張<br />A=1096年原始の建物。<br />B=15世紀初頭に建てられた聖遺物礼拝堂。<br />D=15世紀初頭に建てられた時計/鐘楼となるフォス塔<br />C=1654-59,1688年の拡張部分。<br />D=1822年に取り壊されたフォス塔<br />原始の建物は西側にファサードを配します。中央部が飛び出た凸型です。今とは90度ズレる配置です。<br />中央軸線上に聖域と主祭壇、西側に1688年に拡張された聖母礼拝堂、東側に聖体礼拝堂が配置されました。

    建物の拡張
    A=1096年原始の建物。
    B=15世紀初頭に建てられた聖遺物礼拝堂。
    D=15世紀初頭に建てられた時計/鐘楼となるフォス塔
    C=1654-59,1688年の拡張部分。
    D=1822年に取り壊されたフォス塔
    原始の建物は西側にファサードを配します。中央部が飛び出た凸型です。今とは90度ズレる配置です。
    中央軸線上に聖域と主祭壇、西側に1688年に拡張された聖母礼拝堂、東側に聖体礼拝堂が配置されました。

  • ファサードの先(内部)は、こんな感じ。<br />奥(北側)にある大きなバラ窓は、建物により多くの光を取り込むために1864年に開設されました。

    ファサードの先(内部)は、こんな感じ。
    奥(北側)にある大きなバラ窓は、建物により多くの光を取り込むために1864年に開設されました。

  • 南半分は分厚い壁と小さい窓が特徴のロマネスク様式建築です。東に向かって幅がが短くなり、聖歌隊席への遠近感が増し南方ロマネスク様式の伝統に倣った力強さが強調されています。

    南半分は分厚い壁と小さい窓が特徴のロマネスク様式建築です。東に向かって幅がが短くなり、聖歌隊席への遠近感が増し南方ロマネスク様式の伝統に倣った力強さが強調されています。

  • フォス塔<br />現在のファサードの西側(左側)には、フォス塔が建ちました。原始ファサードの左側に相当します。町が攻撃を受けると、町の特権書をこの塔の中へ移動して金庫の役割を果たしました。塔の下部は現在も残っており、聖具室として利用されています。この塔には、15世紀初頭に設置された町の鐘楼と時計が残されていましたが、1822年に破壊され、東側の現在の鐘楼に移設されました。

    フォス塔
    現在のファサードの西側(左側)には、フォス塔が建ちました。原始ファサードの左側に相当します。町が攻撃を受けると、町の特権書をこの塔の中へ移動して金庫の役割を果たしました。塔の下部は現在も残っており、聖具室として利用されています。この塔には、15世紀初頭に設置された町の鐘楼と時計が残されていましたが、1822年に破壊され、東側の現在の鐘楼に移設されました。

  • 左奥には、15世紀に建てられた旧聖遺物礼拝堂が。天井のドームが目印です。現在は聖母礼拝堂になっています。

    左奥には、15世紀に建てられた旧聖遺物礼拝堂が。天井のドームが目印です。現在は聖母礼拝堂になっています。

  • 入口から見ると、こんな感じ。左奥に旧姓遺物礼拝堂、中央奥にバラ窓のある祭壇と並びます。これ等の手前に1096年築のファサード左側のロマネスク様式の分厚い壁が存在しましたが、司教区座(カテドラル)へ昇格した頃には人口増加に追いつけず、1653年に壁を壊して北側への拡張工事が行われました。

    入口から見ると、こんな感じ。左奥に旧姓遺物礼拝堂、中央奥にバラ窓のある祭壇と並びます。これ等の手前に1096年築のファサード左側のロマネスク様式の分厚い壁が存在しましたが、司教区座(カテドラル)へ昇格した頃には人口増加に追いつけず、1653年に壁を壊して北側への拡張工事が行われました。

  • 手前2本の柱はロマネスク期のオリジナル、三本目からは1653年以上の拡張工事で新設されたものです。右奥の聖体拝領堂は足場が組まれてよく観察できません。巨額の寄付巨額の寄付/サント・クルー墓地(現イタリア広場)の土地売却によって、拡張工事の資金が調達されました。

    手前2本の柱はロマネスク期のオリジナル、三本目からは1653年以上の拡張工事で新設されたものです。右奥の聖体拝領堂は足場が組まれてよく観察できません。巨額の寄付巨額の寄付/サント・クルー墓地(現イタリア広場)の土地売却によって、拡張工事の資金が調達されました。

  • 鐘楼<br />東側にはもう一つの塔がありましたが1729年に破壊され、1737年に現在の鐘楼に建て替えられました。この鐘楼は南面ファサードに対称性をもたらし、全体のバランスを保つ役割を果たしました。<br />西(フォス)塔が存在した頃のファサードは、こんな感じでした。200年前に失われた光景です。<br />

    鐘楼
    東側にはもう一つの塔がありましたが1729年に破壊され、1737年に現在の鐘楼に建て替えられました。この鐘楼は南面ファサードに対称性をもたらし、全体のバランスを保つ役割を果たしました。
    西(フォス)塔が存在した頃のファサードは、こんな感じでした。200年前に失われた光景です。

  • 現在の姿

    現在の姿

  • 処女なる聖母マリアよ。<br />祖国のために亡くなった<br />トゥーロンの人々を思い出してください...<br />この町の背負った歴史の重みを感じさせる文言です。<br />今更ですが、教会名のサント・マリー・マジュールの直訳は「メジャーな方の聖人マリア」です。マリアという名を持つ聖人は多くいるので、聖母マリアを指すカトリック的表現です。イタリア語では、サンタマリアマッジョーレ(教会名称でお馴染み)です。

    処女なる聖母マリアよ。
    祖国のために亡くなった
    トゥーロンの人々を思い出してください...
    この町の背負った歴史の重みを感じさせる文言です。
    今更ですが、教会名のサント・マリー・マジュールの直訳は「メジャーな方の聖人マリア」です。マリアという名を持つ聖人は多くいるので、聖母マリアを指すカトリック的表現です。イタリア語では、サンタマリアマッジョーレ(教会名称でお馴染み)です。

  • パサージュを抜けて歴史博物館を目指します。<br />午後2~6時開館、日曜閉館です。<br />オープンの瞬間を激写(無意味)。<br />無料です

    パサージュを抜けて歴史博物館を目指します。
    午後2~6時開館、日曜閉館です。
    オープンの瞬間を激写(無意味)。
    無料です

    トゥーロン歴史博物館 博物館・美術館・ギャラリー

  • 展示物の番号に対応したガイドを渡してくれます。<br />フランス語も選べますが、迷わず学習期間の長い英語を選択します。

    展示物の番号に対応したガイドを渡してくれます。
    フランス語も選べますが、迷わず学習期間の長い英語を選択します。

  • トゥーロン前史<br />ローマ時代には、テロ・マルティウスという町が存在しました(写真)。<br />中世<br />フランク王国分割時に、プロヴァンス地方は神聖ローマ帝国の流れを汲むプロヴァンス伯爵領となります。その後はマルセイユ子爵の領地となり、再びプロヴァンス伯領(アンジュー家)となります。1481年にプロヴァンス伯領はフランス王国領に編入されます。<br />この時期、トゥーロンを含めた地中海沿岸はイスラム教徒による襲撃/海賊行為に度々悩まされます。略奪/誘拐のみならず、破壊も伴います。

    トゥーロン前史
    ローマ時代には、テロ・マルティウスという町が存在しました(写真)。
    中世
    フランク王国分割時に、プロヴァンス地方は神聖ローマ帝国の流れを汲むプロヴァンス伯爵領となります。その後はマルセイユ子爵の領地となり、再びプロヴァンス伯領(アンジュー家)となります。1481年にプロヴァンス伯領はフランス王国領に編入されます。
    この時期、トゥーロンを含めた地中海沿岸はイスラム教徒による襲撃/海賊行為に度々悩まされます。略奪/誘拐のみならず、破壊も伴います。

  • トゥーロンの貴婦人シビル<br />トゥーロン最後の貴婦人という異名でも知られ、1239年から1261年までトゥーロン領主を務め、プロヴァンス伯シャルル・ダンジューに領主権を遺贈しました。この町の恩人である女性は、今もなお伝説に彩られた人物です。<br />

    トゥーロンの貴婦人シビル
    トゥーロン最後の貴婦人という異名でも知られ、1239年から1261年までトゥーロン領主を務め、プロヴァンス伯シャルル・ダンジューに領主権を遺贈しました。この町の恩人である女性は、今もなお伝説に彩られた人物です。

  • 中世の経済活動<br />農業:オリーブ栽培<br />鉱業:1180年より銀鉛鉱山<br />工業:マルブスケ地区とサラン通り付近の塩沼があり、製塩は大きな収入源でした。船でジェノヴァへ運ばれ、そこから陸路でオート・プロヴァンス(山間部)へ供給されました。<br />1443年より石鹸工場が操業し、1489年の新工場稼働以来花形産業となるも17世紀にマルセイユにその地位を奪われます。<br />※写真はダム・シビルが記念に建てた墓碑です。トゥールーズ十字の刻印から、マルセイユ子爵がトゥールーズ伯の配下にあったことが分かり、バルセロナ伯との対立が読み取れます。

    中世の経済活動
    農業:オリーブ栽培
    鉱業:1180年より銀鉛鉱山
    工業:マルブスケ地区とサラン通り付近の塩沼があり、製塩は大きな収入源でした。船でジェノヴァへ運ばれ、そこから陸路でオート・プロヴァンス(山間部)へ供給されました。
    1443年より石鹸工場が操業し、1489年の新工場稼働以来花形産業となるも17世紀にマルセイユにその地位を奪われます。
    ※写真はダム・シビルが記念に建てた墓碑です。トゥールーズ十字の刻印から、マルセイユ子爵がトゥールーズ伯の配下にあったことが分かり、バルセロナ伯との対立が読み取れます。

  • トゥーロンの城壁<br />サラセン人の海賊行為に備えるため、1285年以降に町を土壁で囲います。1323年には石壁に置き換えられ、1336年には南側に新たな城壁が築かれました。1442年の陸地測量局の後にオクターヴ・テシエによって境界が定められました。

    トゥーロンの城壁
    サラセン人の海賊行為に備えるため、1285年以降に町を土壁で囲います。1323年には石壁に置き換えられ、1336年には南側に新たな城壁が築かれました。1442年の陸地測量局の後にオクターヴ・テシエによって境界が定められました。

  • 大塔(トゥール・ロワイヤル)<br />建設資金を王室(ルイ12世/フランソワ1世)が提供して完成後に軍へ譲渡したため、王家の塔という通称で広く知られます。1514年着工、24年完成。設計はジャン・アントワーヌ・ド・ラ・ポルタ(ミラノ出身)で、第4次イタリア戦争でルイ12世がフランスへ連れてきました。トゥーロン湾(錨泊地)の入口に当たるマネグ岬に位置し、砲兵隊が駐屯し、洋上敵艦のマストを破壊できる強力な大砲/砲弾(射程1000m)を備えます。基部の直径52m/高さ20m/壁の厚さは7mで、これを機にプロバンス沿岸に砲台を築いて行きます。

    大塔(トゥール・ロワイヤル)
    建設資金を王室(ルイ12世/フランソワ1世)が提供して完成後に軍へ譲渡したため、王家の塔という通称で広く知られます。1514年着工、24年完成。設計はジャン・アントワーヌ・ド・ラ・ポルタ(ミラノ出身)で、第4次イタリア戦争でルイ12世がフランスへ連れてきました。トゥーロン湾(錨泊地)の入口に当たるマネグ岬に位置し、砲兵隊が駐屯し、洋上敵艦のマストを破壊できる強力な大砲/砲弾(射程1000m)を備えます。基部の直径52m/高さ20m/壁の厚さは7mで、これを機にプロバンス沿岸に砲台を築いて行きます。

  • 第5次イタリア戦争<br />プロヴァンス伯領編入には、イタリア領の相続権も含まれました。イタリア戦争は相続権の主張と行使で、フランスにとって不毛の戦いでした。写真は1543年にトルコ艦隊が描いたものです。<br />フランソワ1世は、異教徒のオスマン帝国と同盟を組むことまでして、元海賊のバルバロス・ハイレッディンを提督とするトルコ軍が越冬できるよう1543~44年(半年間)にトゥーロンを明け渡しました。婦女が辱められることの無いよう、市民は10家の当主を除いて退去させられました。

    第5次イタリア戦争
    プロヴァンス伯領編入には、イタリア領の相続権も含まれました。イタリア戦争は相続権の主張と行使で、フランスにとって不毛の戦いでした。写真は1543年にトルコ艦隊が描いたものです。
    フランソワ1世は、異教徒のオスマン帝国と同盟を組むことまでして、元海賊のバルバロス・ハイレッディンを提督とするトルコ軍が越冬できるよう1543~44年(半年間)にトゥーロンを明け渡しました。婦女が辱められることの無いよう、市民は10家の当主を除いて退去させられました。

  • アンリ4世による城壁<br />1552年にタンド伯クロード(フランソワ1世の従兄)が堡塁建設を提案しましたが、資金不足で実現しませんでした。フランス王アンリ4世の下で、サヴォワ公カルロ・エマヌエーレ1世により全長800mの中世城壁が壊され、1589-95年にかけて5つの堡塁が建設されました。城壁内の面積は3haから13haに拡大しました。<br />1644年の図(写真)には、旧城壁と矢印のような5つの堡塁が描かれています。

    アンリ4世による城壁
    1552年にタンド伯クロード(フランソワ1世の従兄)が堡塁建設を提案しましたが、資金不足で実現しませんでした。フランス王アンリ4世の下で、サヴォワ公カルロ・エマヌエーレ1世により全長800mの中世城壁が壊され、1589-95年にかけて5つの堡塁が建設されました。城壁内の面積は3haから13haに拡大しました。
    1644年の図(写真)には、旧城壁と矢印のような5つの堡塁が描かれています。

  • アルセナーレの誕生<br />1590年には水辺の防衛も追加され、要塞化された防波堤の建設が1609年にかけて行われました(写真)。城壁内の南西区画は、軍の造船と工場建設のために確保されました。これがアルセナールの起源です。<br />1644年の図(上の写真)には港を囲う防波堤が描かれ、外敵から保護された港の海域は15haあります。正面の軍港は、全長700ft(210m)あります。

    アルセナーレの誕生
    1590年には水辺の防衛も追加され、要塞化された防波堤の建設が1609年にかけて行われました(写真)。城壁内の南西区画は、軍の造船と工場建設のために確保されました。これがアルセナールの起源です。
    1644年の図(上の写真)には港を囲う防波堤が描かれ、外敵から保護された港の海域は15haあります。正面の軍港は、全長700ft(210m)あります。

  • 沿岸防衛<br />バラギエ岬には1634~36年にかけて大砲を備えた塔が建設されます。高さ15m直径20m、壁の厚さは底部4m/頂上3m。台座には、砲門には8門の大砲と砲弾製造用の工房が設置されていました。幅1380mの湾の入口の両側に砦が建ちます。<br />しかしバラギエ塔の威力が不十分なため、1674~85年にかけて南側にエギエット砦を建設します。1692~97年にサンルイ砦を要塞化しました。<br />図では、左下にバラギエ/エギエット砦、右にトゥールロワイヤル/サンルイ要塞が配置されています。フランスでは1636年に海軍が組織され、レバント艦隊の本部がトゥーロンに置かれたことが大きく関係しています。

    沿岸防衛
    バラギエ岬には1634~36年にかけて大砲を備えた塔が建設されます。高さ15m直径20m、壁の厚さは底部4m/頂上3m。台座には、砲門には8門の大砲と砲弾製造用の工房が設置されていました。幅1380mの湾の入口の両側に砦が建ちます。
    しかしバラギエ塔の威力が不十分なため、1674~85年にかけて南側にエギエット砦を建設します。1692~97年にサンルイ砦を要塞化しました。
    図では、左下にバラギエ/エギエット砦、右にトゥールロワイヤル/サンルイ要塞が配置されています。フランスでは1636年に海軍が組織され、レバント艦隊の本部がトゥーロンに置かれたことが大きく関係しています。

  • 17世紀(1591~1715年):都市の躍進<br />漁師/職人/農民の町は17世紀末には王国初の軍港の一つとなり、地中海で唯一の重要な兵器廠となります。兵器廠の建設により造船業が盛んになり、町の拡張に伴い、多くの職人、労働者、職人技師、彫刻家、芸術家、職人、鋳造工、鍛冶屋、車輪屋、大工、ロープ職人などが集まります。<br />あらゆる階層で商業が発展し、海軍、聖職者、囚人、そしてイタリアへ向かう航海者が加わりました。特に1660年以降、観光客にとってトゥーロンは文化の中心地であり、オリーブ/ケッパー/ブドウ/オレンジ等の樹木が生い茂る光景に魅了されます。マルセイユから多くの観光客がトゥーロンに滞在し、イタリアへ向かう海が凪ぐのを待ちました。彼らはラ・クロワ・ドールホテル、ヴァンドームホテル、マルトホテル、サント・カトリーヌホテルに滞在し、羊肉やジビエといった南仏料理を堪能しました。<br />

    17世紀(1591~1715年):都市の躍進
    漁師/職人/農民の町は17世紀末には王国初の軍港の一つとなり、地中海で唯一の重要な兵器廠となります。兵器廠の建設により造船業が盛んになり、町の拡張に伴い、多くの職人、労働者、職人技師、彫刻家、芸術家、職人、鋳造工、鍛冶屋、車輪屋、大工、ロープ職人などが集まります。
    あらゆる階層で商業が発展し、海軍、聖職者、囚人、そしてイタリアへ向かう航海者が加わりました。特に1660年以降、観光客にとってトゥーロンは文化の中心地であり、オリーブ/ケッパー/ブドウ/オレンジ等の樹木が生い茂る光景に魅了されます。マルセイユから多くの観光客がトゥーロンに滞在し、イタリアへ向かう海が凪ぐのを待ちました。彼らはラ・クロワ・ドールホテル、ヴァンドームホテル、マルトホテル、サント・カトリーヌホテルに滞在し、羊肉やジビエといった南仏料理を堪能しました。

  • ピエール?ピュジェ(1620-94)<br />17世紀の著名な彫刻家で、軍船の装飾/彫刻を担当するためにトゥーロンのアルセナールにアトリエを持ちました。1655年には、トゥーロン市役所の装飾(写真)も請け負っています。バルコニーを支える張り出しの部分のアトラス(建築を支える部分に装飾する男性像)も芸術的です。

    ピエール?ピュジェ(1620-94)
    17世紀の著名な彫刻家で、軍船の装飾/彫刻を担当するためにトゥーロンのアルセナールにアトリエを持ちました。1655年には、トゥーロン市役所の装飾(写真)も請け負っています。バルコニーを支える張り出しの部分のアトラス(建築を支える部分に装飾する男性像)も芸術的です。

  • ヴォーバンによる軍港拡大(1679-91)<br />1650年以降アルセナールは手狭となり、拡張が必要となりました。ルイ14世は、ヴォーバンの案を採用します。都市は西側に拡張され、面積は24haに拡がりました。海軍専用の新しい港(20ha)を建設、従来の港(旧港)は商船に割り当てられました。中央の乾ドック付近に連絡水路があります。

    ヴォーバンによる軍港拡大(1679-91)
    1650年以降アルセナールは手狭となり、拡張が必要となりました。ルイ14世は、ヴォーバンの案を採用します。都市は西側に拡張され、面積は24haに拡がりました。海軍専用の新しい港(20ha)を建設、従来の港(旧港)は商船に割り当てられました。中央の乾ドック付近に連絡水路があります。

  • 写真は、新港建設の様子。1680年にルイ14世は「TOLONII PORTUS ET NAVALE(トゥーロン商港と軍港)」と刻印された記念硬貨を鋳造しました。

    写真は、新港建設の様子。1680年にルイ14世は「TOLONII PORTUS ET NAVALE(トゥーロン商港と軍港)」と刻印された記念硬貨を鋳造しました。

  • トゥーロン攻囲(1707)とその教訓<br />スペイン継承戦争(1701-13)でトゥーロンは墺/英/蘭/サヴォワ家/ドイツ諸侯の連合軍の攻撃を24日間受けました。敵はアルティーグ、サント=カトリーヌの高地、そしてラ・マルグ高原を占領し、砲台を設置してトゥーロンを砲撃しました。英蘭ガリオット(小型ガレー船)艦隊は、アルセナールと港へ向けて砲撃しました。<br />戦後に沿岸部以外にも堡塁が築かれ、オーストリア継承戦争(1740-48)で効果を発揮します。<br />※スペイン継承戦争以降イギリスはジブラルタルを占領/領有することになり、地中海艦隊には大きなネックとなります。

    トゥーロン攻囲(1707)とその教訓
    スペイン継承戦争(1701-13)でトゥーロンは墺/英/蘭/サヴォワ家/ドイツ諸侯の連合軍の攻撃を24日間受けました。敵はアルティーグ、サント=カトリーヌの高地、そしてラ・マルグ高原を占領し、砲台を設置してトゥーロンを砲撃しました。英蘭ガリオット(小型ガレー船)艦隊は、アルセナールと港へ向けて砲撃しました。
    戦後に沿岸部以外にも堡塁が築かれ、オーストリア継承戦争(1740-48)で効果を発揮します。
    ※スペイン継承戦争以降イギリスはジブラルタルを占領/領有することになり、地中海艦隊には大きなネックとなります。

  • ガレー船隊の解体とバニュ(準強制労働施設)<br />1748年に王室直属のガレー船艦隊が(時代遅れになって)解体され、漕ぎ手2000名がマルセイユからトゥーロンへ移送されます。彼らは囚人以下の扱いを受け、昼間は重労働を課され、係留されたガレー船内で寝泊まりします。後にバニュと呼ばれる収容施設へ移されますが、著しく人権を侵害された生活を送ります。赤色の服装をしていたので、容易に識別できました。<br />覇権を賭けた七年戦争(1756-63)やアメリカ独立戦争(1775-83)では、対英戦の先鋒として地中海艦隊は大きな役割を担いました。

    ガレー船隊の解体とバニュ(準強制労働施設)
    1748年に王室直属のガレー船艦隊が(時代遅れになって)解体され、漕ぎ手2000名がマルセイユからトゥーロンへ移送されます。彼らは囚人以下の扱いを受け、昼間は重労働を課され、係留されたガレー船内で寝泊まりします。後にバニュと呼ばれる収容施設へ移されますが、著しく人権を侵害された生活を送ります。赤色の服装をしていたので、容易に識別できました。
    覇権を賭けた七年戦争(1756-63)やアメリカ独立戦争(1775-83)では、対英戦の先鋒として地中海艦隊は大きな役割を担いました。

  • フランス革命(1789-)<br />共和制の革命政府が樹立され、1793年に国王ルイ16世は処刑されます。一方で長年の王政への愛着が強い王党派も根強く、勢力は二分されます。周辺国の君主は危機を感じ、王党派を支援する形でフランスへ干渉します。<br />トゥーロンでは海軍司令官不在を機に王党派が、英西連合艦隊13000名を軍港に招き入れ、王政復古を画策します。<br />

    フランス革命(1789-)
    共和制の革命政府が樹立され、1793年に国王ルイ16世は処刑されます。一方で長年の王政への愛着が強い王党派も根強く、勢力は二分されます。周辺国の君主は危機を感じ、王党派を支援する形でフランスへ干渉します。
    トゥーロンでは海軍司令官不在を機に王党派が、英西連合艦隊13000名を軍港に招き入れ、王政復古を画策します。

  • ルイ17世(1785-95)<br />フランスにおける王位継承法は、ランス大聖堂での戴冠式で正式発効しました。しかし1270年に、フィリップ3世は前任者の死を法令の起点と定め、継承の即時性を付与します。この成法令は、①王統は血統によって長男に継承される②長男は誕生時に継承権が発効し、③王は幼少であっても成年とみなされ、治世中に行われた法令は直接その名において継承されるという慣習法が形成されます。<br />王党派は、ルイ16世の処刑後、その息子であるルイ17世を(捕虜の状態とはいえ)王位継承の原則に基づき国王(君主)とみなし服従を誓いました。<br />※後継者はランス大聖堂で戴冠するまでは正式な王ではないので、前任者の死から戴冠式まで王権の空白期間が生じ、政治的空白(反乱の可能性)が発生しました。また聖職者(ランス大司教)の政治力も問題になります。<br />※ルイ16世の長男は革命前の夭折したので、次男のルイ・シャルルがルイ17世として継承します。

    ルイ17世(1785-95)
    フランスにおける王位継承法は、ランス大聖堂での戴冠式で正式発効しました。しかし1270年に、フィリップ3世は前任者の死を法令の起点と定め、継承の即時性を付与します。この成法令は、①王統は血統によって長男に継承される②長男は誕生時に継承権が発効し、③王は幼少であっても成年とみなされ、治世中に行われた法令は直接その名において継承されるという慣習法が形成されます。
    王党派は、ルイ16世の処刑後、その息子であるルイ17世を(捕虜の状態とはいえ)王位継承の原則に基づき国王(君主)とみなし服従を誓いました。
    ※後継者はランス大聖堂で戴冠するまでは正式な王ではないので、前任者の死から戴冠式まで王権の空白期間が生じ、政治的空白(反乱の可能性)が発生しました。また聖職者(ランス大司教)の政治力も問題になります。
    ※ルイ16世の長男は革命前の夭折したので、次男のルイ・シャルルがルイ17世として継承します。

  • トゥーロン攻囲戦(1793)<br />国民議会は、反乱鎮圧のために軍を派遣するも、難航します。砲兵大尉ナポレオン・ボナパルトも従軍しました。無能な上司ゆえに、威力を発揮しきれないこともありましたが、最終的に自由を得てトゥーロンを解放します。

    トゥーロン攻囲戦(1793)
    国民議会は、反乱鎮圧のために軍を派遣するも、難航します。砲兵大尉ナポレオン・ボナパルトも従軍しました。無能な上司ゆえに、威力を発揮しきれないこともありましたが、最終的に自由を得てトゥーロンを解放します。

  • 内港と外港を隔てる海峡部分を守るバラキエ/エギレット要塞を制圧するために、ナポレオンは背後の丘(通称カイロの丘)に位置するマルグレイブ砦を占領し、最終的に連合軍を追放、市内を解放します。<br />写真は、激戦となったマルグレイブ砦(現ナポレオン砦)の攻防戦を描いており、要衝ゆえに小ジブラルタルと呼ばれています。バラキエ/エギレット要塞を結ぶ海岸通りは、ボナパルト通りと呼ばれています。

    内港と外港を隔てる海峡部分を守るバラキエ/エギレット要塞を制圧するために、ナポレオンは背後の丘(通称カイロの丘)に位置するマルグレイブ砦を占領し、最終的に連合軍を追放、市内を解放します。
    写真は、激戦となったマルグレイブ砦(現ナポレオン砦)の攻防戦を描いており、要衝ゆえに小ジブラルタルと呼ばれています。バラキエ/エギレット要塞を結ぶ海岸通りは、ボナパルト通りと呼ばれています。

  • 12/19にトゥーロンを解放すると、王党派は海外へ一斉亡命します(写真)。<br />トゥーロン攻防戦の僅か3か月で、ナポレオンは大尉から将軍(准将)に昇進し、救国の士としてフランス国民に認知され、躍進を開始します。

    12/19にトゥーロンを解放すると、王党派は海外へ一斉亡命します(写真)。
    トゥーロン攻防戦の僅か3か月で、ナポレオンは大尉から将軍(准将)に昇進し、救国の士としてフランス国民に認知され、躍進を開始します。

  • トゥーロンへの制裁<br />反逆の制裁として1793年12月25日の法令により、都市の名称はポール・ド・ラ・モンターニュ(山に面した港を意味する無機質な名称)に置き換えられました。新しい市章が付与され、翼を広げた不死鳥が月桂樹と樫の木の枝に止まる図柄となりました。蛇が、モットー「La loi assure la liberté(法は自由を保障する)」を囲んでいます。帽子は、自由を象徴(解放奴隷に与えられる)します。

    トゥーロンへの制裁
    反逆の制裁として1793年12月25日の法令により、都市の名称はポール・ド・ラ・モンターニュ(山に面した港を意味する無機質な名称)に置き換えられました。新しい市章が付与され、翼を広げた不死鳥が月桂樹と樫の木の枝に止まる図柄となりました。蛇が、モットー「La loi assure la liberté(法は自由を保障する)」を囲んでいます。帽子は、自由を象徴(解放奴隷に与えられる)します。

  • ちなみに、こちらがトゥーロンの市章です。ロベスピエールの処刑を経て、1795年4月にはトゥーロンへ戻されます。とはいえ、1790年に制定されたヴァール県の県庁は域内の主都トゥーロンからドラギニャンへ移され、再び県庁所在地となったのは1974年の事でした。

    ちなみに、こちらがトゥーロンの市章です。ロベスピエールの処刑を経て、1795年4月にはトゥーロンへ戻されます。とはいえ、1790年に制定されたヴァール県の県庁は域内の主都トゥーロンからドラギニャンへ移され、再び県庁所在地となったのは1974年の事でした。

  • ナポレオンの遠征拠点<br />ナポレオンは、1796年にイタリア方面軍の司令官に任命され、トゥーロンを起点に陸路でアルプスを越えてイタリア遠征に出ます。<br />1798年のエジプト遠征は、トゥーロンを母港として出発します。ナポレオンの輝かしいキャリアとトゥーロンは、いつも一緒でした。皇帝となったナポレオンによる第一帝政期には海軍の増強が図られ、トゥーロンも対英戦に参加しますが、大きな恩恵は得られませんでした。

    ナポレオンの遠征拠点
    ナポレオンは、1796年にイタリア方面軍の司令官に任命され、トゥーロンを起点に陸路でアルプスを越えてイタリア遠征に出ます。
    1798年のエジプト遠征は、トゥーロンを母港として出発します。ナポレオンの輝かしいキャリアとトゥーロンは、いつも一緒でした。皇帝となったナポレオンによる第一帝政期には海軍の増強が図られ、トゥーロンも対英戦に参加しますが、大きな恩恵は得られませんでした。

  • 復古王政(1815-48)<br />ナポレオン失脚後、ルイ18世/シャルル10世/ルイ・フィリップによる(ブルボン家の)王政が復古したウィーン体制下では、アルジェリア侵攻が始まり海軍のバニュの定員は封建時代の2倍に膨れます。彼らは労働/就寝時間以外は自由が伴い、服役前の職業を活かして様々なものを製作/販売して現金収入を得ました。写真は、バニュの扉。

    復古王政(1815-48)
    ナポレオン失脚後、ルイ18世/シャルル10世/ルイ・フィリップによる(ブルボン家の)王政が復古したウィーン体制下では、アルジェリア侵攻が始まり海軍のバニュの定員は封建時代の2倍に膨れます。彼らは労働/就寝時間以外は自由が伴い、服役前の職業を活かして様々なものを製作/販売して現金収入を得ました。写真は、バニュの扉。

  • バニュ市場<br />これらはアルセナール機械工作業場近くのバニュ市場で売られ、好評を博しました(写真)。

    バニュ市場
    これらはアルセナール機械工作業場近くのバニュ市場で売られ、好評を博しました(写真)。

  • 写真は、バニュバザールで売られた商品。<br />バニュは、第三共和制下の1873年に閉鎖されます。

    写真は、バニュバザールで売られた商品。
    バニュは、第三共和制下の1873年に閉鎖されます。

  • 第二共和制/第二帝政下(1848-70)<br />二月革命でウィーン体制が崩壊すると、ルイ・ナポレオンをトップとする第二共和制が発足し、1852年には国民投票で皇帝に選出されナポレオン3世による第二帝政が発足します。フランスは海外領土獲得へ向けて積極的に活動し、海軍施設はアルセナールから反時計回りにラセーヌまで拡張し、造船所はラセーヌ・シュールメルへ移転し世界初の装甲艦グロワール号(1859)等が製造されます。市街南東方向のムリヨン地区も海軍施設が建ち、トゥーロンは一大(海軍)製造業の中心になります。

    第二共和制/第二帝政下(1848-70)
    二月革命でウィーン体制が崩壊すると、ルイ・ナポレオンをトップとする第二共和制が発足し、1852年には国民投票で皇帝に選出されナポレオン3世による第二帝政が発足します。フランスは海外領土獲得へ向けて積極的に活動し、海軍施設はアルセナールから反時計回りにラセーヌまで拡張し、造船所はラセーヌ・シュールメルへ移転し世界初の装甲艦グロワール号(1859)等が製造されます。市街南東方向のムリヨン地区も海軍施設が建ち、トゥーロンは一大(海軍)製造業の中心になります。

  • 鉄道開通(1859)<br />パリと鉄道で繋がり、陸路でイタリアへ移動する際の経路となります。また、パリや英国等の上流階級の避寒地として、第二帝政下で華やぎ始めます。

    鉄道開通(1859)
    パリと鉄道で繋がり、陸路でイタリアへ移動する際の経路となります。また、パリや英国等の上流階級の避寒地として、第二帝政下で華やぎ始めます。

  • 第三共和制下(1870-1940)<br />フランスの植民地は最大になり、1869年に開通したスエズ運河によりトゥーロンの重要性は増します。特に独露の軍事協定が解消されると海軍は露仏親善の舞台となり、1893年にはバルチック艦隊がトゥーロンへ寄港し、熱烈な歓迎を受けます。この後、仏露同盟が成立します。

    第三共和制下(1870-1940)
    フランスの植民地は最大になり、1869年に開通したスエズ運河によりトゥーロンの重要性は増します。特に独露の軍事協定が解消されると海軍は露仏親善の舞台となり、1893年にはバルチック艦隊がトゥーロンへ寄港し、熱烈な歓迎を受けます。この後、仏露同盟が成立します。

  • 仏露同盟(1891-94)<br />段階的に進展し、1891年にフランス艦隊がバルチック艦隊司令部(クロンシュタット)へ寄港したのを皮切りに親善ムードが高まります。写真は1893年のトゥーロン寄港時の式典一覧。なぜか日本の瓦版の上に印刷されているのが、ミステリーです。仏露同盟は1907年の三国協商に結実し、第一次世界大戦の勝利に繋がります。

    仏露同盟(1891-94)
    段階的に進展し、1891年にフランス艦隊がバルチック艦隊司令部(クロンシュタット)へ寄港したのを皮切りに親善ムードが高まります。写真は1893年のトゥーロン寄港時の式典一覧。なぜか日本の瓦版の上に印刷されているのが、ミステリーです。仏露同盟は1907年の三国協商に結実し、第一次世界大戦の勝利に繋がります。

  • 文化の開花<br />第一次世界大戦後に訪れたベルエポックの期間には、芸術/スポーツが花開きます。トゥーロンは、20世紀初頭からパリで一世を風靡した歌手/エンターテイナーのFelix Mayol(1872-1941)を排出しました。彼はFCトゥーロン(ラグビーチーム)のための競技場を寄付し、余生を地元で過ごしました。

    文化の開花
    第一次世界大戦後に訪れたベルエポックの期間には、芸術/スポーツが花開きます。トゥーロンは、20世紀初頭からパリで一世を風靡した歌手/エンターテイナーのFelix Mayol(1872-1941)を排出しました。彼はFCトゥーロン(ラグビーチーム)のための競技場を寄付し、余生を地元で過ごしました。

  • ベルエポック(1920s)のトゥーロンの光景<br />馬車が普通に走っています。

    ベルエポック(1920s)のトゥーロンの光景
    馬車が普通に走っています。

  • ヴィシー政権(1940-44)<br />第二次世界大戦中ドイツはフランスへ侵攻し、第三共和制政府は降伏します。国土の北側はドイツ軍の占領下に置かれ、南部は傀儡のヴィシー政権が樹立されます。1942年11月に連合軍のトーチ作戦が実行されてフランス領アルジェリアを侵攻すると、現地の(ヴィシー政権下の)軍司令官は休戦協定を結びます。それに対する報復として、ドイツ軍はヴィシー政権下の非占領区に侵攻し、トゥーロンも占領されます。

    ヴィシー政権(1940-44)
    第二次世界大戦中ドイツはフランスへ侵攻し、第三共和制政府は降伏します。国土の北側はドイツ軍の占領下に置かれ、南部は傀儡のヴィシー政権が樹立されます。1942年11月に連合軍のトーチ作戦が実行されてフランス領アルジェリアを侵攻すると、現地の(ヴィシー政権下の)軍司令官は休戦協定を結びます。それに対する報復として、ドイツ軍はヴィシー政権下の非占領区に侵攻し、トゥーロンも占領されます。

  • 艦隊の自沈(1942年11月27日)<br />トゥーロンに停泊していた艦船には自沈が命じられ、排水量合計23万5000トン分の艦船が沈没/転覆/使用不能となりました。しかし5隻の潜水艦は機雷と砲撃をかわして脱出、損傷の少なかった3隻がアルジェリアで連合軍に合流します。<br />自沈の内訳は、戦艦3隻/巡洋戦艦4隻/軽巡洋艦3隻/旧航空輸送艦1隻/駆逐艦15隻/水雷艇13隻/哨戒艇および掃海艇9隻/支援艦19隻/練習艦1隻/タグボート28隻/浮きドック4隻。

    艦隊の自沈(1942年11月27日)
    トゥーロンに停泊していた艦船には自沈が命じられ、排水量合計23万5000トン分の艦船が沈没/転覆/使用不能となりました。しかし5隻の潜水艦は機雷と砲撃をかわして脱出、損傷の少なかった3隻がアルジェリアで連合軍に合流します。
    自沈の内訳は、戦艦3隻/巡洋戦艦4隻/軽巡洋艦3隻/旧航空輸送艦1隻/駆逐艦15隻/水雷艇13隻/哨戒艇および掃海艇9隻/支援艦19隻/練習艦1隻/タグボート28隻/浮きドック4隻。

  • 海軍がドイツ軍に協力したことで、軍港は連合軍の空爆対象になります。トゥーロンの市街も、空爆のとばっちりを受けて破壊されます。トゥーロンとマルセイユを解放することは、フランス全土を奪還する上で重要な任務でした。そのため、連合軍はプロヴァンス上陸作戦(ドラグーン作戦)を決行します。

    海軍がドイツ軍に協力したことで、軍港は連合軍の空爆対象になります。トゥーロンの市街も、空爆のとばっちりを受けて破壊されます。トゥーロンとマルセイユを解放することは、フランス全土を奪還する上で重要な任務でした。そのため、連合軍はプロヴァンス上陸作戦(ドラグーン作戦)を決行します。

  • 海軍博物館では、ドラグーン作戦の企画展が行われていました。13枚の写真に要約してみました。この作戦は、1943年11月のテヘラン会談(ルーズヴェルト/チャーチル/スターリン)で合意に至りました。

    海軍博物館では、ドラグーン作戦の企画展が行われていました。13枚の写真に要約してみました。この作戦は、1943年11月のテヘラン会談(ルーズヴェルト/チャーチル/スターリン)で合意に至りました。

  • フランス解放までの道のり<br />1942年11月の北アフリカ上陸(トーチ作戦)、1943年にはシチリア/イタリア半島上陸、サルディニア島/コルシカ島上陸によって周囲の安全を確保し、1944年7月6日のノルマンディ上陸作戦、8/15のプロヴァンス上陸作戦(ドラグーン作戦)で南北から挟み撃ちしてフランス全土を解放しました。

    フランス解放までの道のり
    1942年11月の北アフリカ上陸(トーチ作戦)、1943年にはシチリア/イタリア半島上陸、サルディニア島/コルシカ島上陸によって周囲の安全を確保し、1944年7月6日のノルマンディ上陸作戦、8/15のプロヴァンス上陸作戦(ドラグーン作戦)で南北から挟み撃ちしてフランス全土を解放しました。

  • 偵察任務<br />700回にわたる偵察飛行で50万枚の空中写真を撮影し、敵の配置や上陸に危険な浅瀬の把握などが行われ、ふさわしい上陸地点の決定が行われます。正確な写真撮影のために、速度/高度を一定に保ちつつ機体が揺れないように飛行する必要がありました。敵の攻撃を警戒しつつ、寒い機内での操縦は大きな負荷でした。偵察飛行は、第二次世界大戦中におけるインテリジェンス(≒情報収集)の80%を占めました。写真は、トゥーロンの航空写真です。

    偵察任務
    700回にわたる偵察飛行で50万枚の空中写真を撮影し、敵の配置や上陸に危険な浅瀬の把握などが行われ、ふさわしい上陸地点の決定が行われます。正確な写真撮影のために、速度/高度を一定に保ちつつ機体が揺れないように飛行する必要がありました。敵の攻撃を警戒しつつ、寒い機内での操縦は大きな負荷でした。偵察飛行は、第二次世界大戦中におけるインテリジェンス(≒情報収集)の80%を占めました。写真は、トゥーロンの航空写真です。

  • 航空写真の判読<br />パイロットの任務が完了すると、判読員の任務が始まります。注目すべき地点や地形の変化を見つけたり、パラシュート降下や爆撃の跡地を詳細に調査したりします。<br />判読員は、断片から推論する能力を持つ考古学者/地質学者、限られたデータで推論することに慣れている物理学者/数学者、そして創造性を活かしてシナリオを組み立てる芸術家/音楽家/作家等の多様な人材で構成されました。また、女性の割合が高いことも特筆すべき点です。

    航空写真の判読
    パイロットの任務が完了すると、判読員の任務が始まります。注目すべき地点や地形の変化を見つけたり、パラシュート降下や爆撃の跡地を詳細に調査したりします。
    判読員は、断片から推論する能力を持つ考古学者/地質学者、限られたデータで推論することに慣れている物理学者/数学者、そして創造性を活かしてシナリオを組み立てる芸術家/音楽家/作家等の多様な人材で構成されました。また、女性の割合が高いことも特筆すべき点です。

  • 南壁<br />ドイツ軍は、プロヴァンスに「南壁/地中海の壁」を築き、沿岸守備隊を配置しました。マルセイユ/トゥーロン/ニースの3要塞の周囲に、掩蔽壕/砲台/地雷原/機関銃陣地/高射砲による対空防衛線を連続配置しました。<br />1944年春にドイツ空軍機が東部戦線/ノルマンディーへ移動後、連合軍機は地中海沿岸の制空権を掌握して爆撃を開始しました。通信路/対空防衛線/トゥーロン港のドイツ艦艇が標的でしたが、トゥーロン/アヴィニョン/ニース/マルセイユの住宅街も被災しました。

    南壁
    ドイツ軍は、プロヴァンスに「南壁/地中海の壁」を築き、沿岸守備隊を配置しました。マルセイユ/トゥーロン/ニースの3要塞の周囲に、掩蔽壕/砲台/地雷原/機関銃陣地/高射砲による対空防衛線を連続配置しました。
    1944年春にドイツ空軍機が東部戦線/ノルマンディーへ移動後、連合軍機は地中海沿岸の制空権を掌握して爆撃を開始しました。通信路/対空防衛線/トゥーロン港のドイツ艦艇が標的でしたが、トゥーロン/アヴィニョン/ニース/マルセイユの住宅街も被災しました。

  • 決行10日前から、空襲はヴァール県/ローヌ地方の道路に集中しました。沿岸砲台は度重なる攻撃を受け、敵レーダーはコルシカ島沖に集結する艦隊を守るための最重要攻撃目標となりました。南壁は規模は縮小したものの、上陸を目前に控えた連合軍兵士にとって依然として最大の試練であり、3万人のドイツ兵が彼らを海へと押し戻そうと準備を整えていました。

    決行10日前から、空襲はヴァール県/ローヌ地方の道路に集中しました。沿岸砲台は度重なる攻撃を受け、敵レーダーはコルシカ島沖に集結する艦隊を守るための最重要攻撃目標となりました。南壁は規模は縮小したものの、上陸を目前に控えた連合軍兵士にとって依然として最大の試練であり、3万人のドイツ兵が彼らを海へと押し戻そうと準備を整えていました。

  • 8月14日に英国BBC放送を通して、作戦開始を告げる暗号文が流されます。イタリアを中心にコルシカ島/アルジェリアから出航した2,000隻以上(空母10隻/戦艦5隻)の艦艇が待機、そして12,000隻の上陸艇が動員されます。地中海連合軍航空隊は約2,000機の航空機、地上軍はアメリカ第7軍の指揮下に集結します。総勢35万人のうち26万人がフランスB軍で、フランス解放に大きく寄与します。

    8月14日に英国BBC放送を通して、作戦開始を告げる暗号文が流されます。イタリアを中心にコルシカ島/アルジェリアから出航した2,000隻以上(空母10隻/戦艦5隻)の艦艇が待機、そして12,000隻の上陸艇が動員されます。地中海連合軍航空隊は約2,000機の航空機、地上軍はアメリカ第7軍の指揮下に集結します。総勢35万人のうち26万人がフランスB軍で、フランス解放に大きく寄与します。

  • 先行部隊<br />8月14日午後10時、上陸地点の確保のために数百名の特殊部隊がトゥーロン東方90kmに位置するフレジュス周辺に夜間展開します。<br />アメリカ/カナダのレンジャー部隊(シトカ部隊)は、イル・デュ・ルヴァンとポール・クロに上陸してカヴァレール海岸へのアクセスを遮るドイツ軍の砲台制圧を目指します。アフリカの特殊部隊(ロメオ部隊)は、カップ・ネーグルの155mm砲台を破壊する任務を負います。フランス海軍突撃部隊(ロージー部隊)67名が、ドイツ軍の反撃を阻止するためテウル・シュルメール近郊で上陸を試みます(想定外の機雷原に遭遇し壊滅)。

    先行部隊
    8月14日午後10時、上陸地点の確保のために数百名の特殊部隊がトゥーロン東方90kmに位置するフレジュス周辺に夜間展開します。
    アメリカ/カナダのレンジャー部隊(シトカ部隊)は、イル・デュ・ルヴァンとポール・クロに上陸してカヴァレール海岸へのアクセスを遮るドイツ軍の砲台制圧を目指します。アフリカの特殊部隊(ロメオ部隊)は、カップ・ネーグルの155mm砲台を破壊する任務を負います。フランス海軍突撃部隊(ロージー部隊)67名が、ドイツ軍の反撃を阻止するためテウル・シュルメール近郊で上陸を試みます(想定外の機雷原に遭遇し壊滅)。

  • 落下傘部隊<br />主軍上陸の4時間前、9000名の兵士がレザルク~ラ・モット付近にパラシュート/グライダーで降下し(写真)、背後のル・ミュイーを制圧します。

    落下傘部隊
    主軍上陸の4時間前、9000名の兵士がレザルク~ラ・モット付近にパラシュート/グライダーで降下し(写真)、背後のル・ミュイーを制圧します。

  • 上陸開始<br />8月15日午前8時、上陸用舟艇がサン=ラファエルとカヴァレールの間の海岸数か所に着水、橋頭保を確保するため英米軍9万5000人がヴァール県の海岸に攻撃を開始します。地元のレジスタンス活動家の支援で、サントロペ湾沿岸の市町村は解放され、作戦は速やかに目的を達成します。翌日、今度はフランスB軍がトゥーロン/マルセイユ奪還のために上陸、一方の英米軍はローヌ渓谷を北上します。<br />

    上陸開始
    8月15日午前8時、上陸用舟艇がサン=ラファエルとカヴァレールの間の海岸数か所に着水、橋頭保を確保するため英米軍9万5000人がヴァール県の海岸に攻撃を開始します。地元のレジスタンス活動家の支援で、サントロペ湾沿岸の市町村は解放され、作戦は速やかに目的を達成します。翌日、今度はフランスB軍がトゥーロン/マルセイユ奪還のために上陸、一方の英米軍はローヌ渓谷を北上します。

  • 最初の上陸作戦は英米軍が指揮しましたが、沿岸都市の解放を担ったのはフランスB軍でした。兵の3分の2は、植民地の民族で構成されました。写真は、ダシニー将軍が率いたB軍第3アルジェリア歩兵師団(DIA)がサントロペに上陸する様子。

    最初の上陸作戦は英米軍が指揮しましたが、沿岸都市の解放を担ったのはフランスB軍でした。兵の3分の2は、植民地の民族で構成されました。写真は、ダシニー将軍が率いたB軍第3アルジェリア歩兵師団(DIA)がサントロペに上陸する様子。

  • 迅速な勝利に決定的な役割を果たしたのはフランス国内軍(FFI 写真)と、内陸部でマキが用いたゲリラ戦術でした。<br />レジスタンスには幾つかの系列があり、ドゴール率いる自由フランスと傘下のマキが代表的です。ノルマンディ上陸作戦後、連合国はレジスタンスの統合を計画し、自由フランスのケーニング将軍の指揮下でフランス国内軍という組織に再編します。フランス解放後、FFIはフランス陸軍に編入されます。

    迅速な勝利に決定的な役割を果たしたのはフランス国内軍(FFI 写真)と、内陸部でマキが用いたゲリラ戦術でした。
    レジスタンスには幾つかの系列があり、ドゴール率いる自由フランスと傘下のマキが代表的です。ノルマンディ上陸作戦後、連合国はレジスタンスの統合を計画し、自由フランスのケーニング将軍の指揮下でフランス国内軍という組織に再編します。フランス解放後、FFIはフランス陸軍に編入されます。

  • トゥーロン解放<br />ヒトラーは軍の撤退を決定しますが、トゥーロン/マルセイユだけは死守するよう命じます。トゥーロン奪還は8/20~28まで続き、翌日にはマルセイユも奪還します。<br />トゥーロンでは、アルジェリア兵/モロッコのタボル大隊/スパヒ騎兵連隊/西インド諸島/ポリネシア/フランス国内軍/自由フランス軍が、ストラスブール大通り沿いにラトル・ド・タシニー将軍の指揮下で行進しました(写真)。

    トゥーロン解放
    ヒトラーは軍の撤退を決定しますが、トゥーロン/マルセイユだけは死守するよう命じます。トゥーロン奪還は8/20~28まで続き、翌日にはマルセイユも奪還します。
    トゥーロンでは、アルジェリア兵/モロッコのタボル大隊/スパヒ騎兵連隊/西インド諸島/ポリネシア/フランス国内軍/自由フランス軍が、ストラスブール大通り沿いにラトル・ド・タシニー将軍の指揮下で行進しました(写真)。

  • 9月中、フランス軍は東部へと進軍しました。9月12日にはノルマンディーから上陸した部隊とディジョンで合流しました。正式には自由フランス第一軍と改称されたB軍は、ライン川を越えドイツ中心部へと進撃を続けます。<br />プロヴァンス上陸を果たしたラトル・ド・タシニー将軍は、1945年5月8日ベルリンでフランス代表としてドイツ降伏文書に署名します。ノルマンディー上陸作戦/パリ解放ばかりがクローズアップされますが、僅か1ヶ月で国土の3分の2を解放し、ド・ゴール将軍の政治的地位確立/国際舞台におけるフランスの地位を回復させた立役者はドラグーン作戦でした。

    9月中、フランス軍は東部へと進軍しました。9月12日にはノルマンディーから上陸した部隊とディジョンで合流しました。正式には自由フランス第一軍と改称されたB軍は、ライン川を越えドイツ中心部へと進撃を続けます。
    プロヴァンス上陸を果たしたラトル・ド・タシニー将軍は、1945年5月8日ベルリンでフランス代表としてドイツ降伏文書に署名します。ノルマンディー上陸作戦/パリ解放ばかりがクローズアップされますが、僅か1ヶ月で国土の3分の2を解放し、ド・ゴール将軍の政治的地位確立/国際舞台におけるフランスの地位を回復させた立役者はドラグーン作戦でした。

  • 艦隊の帰還<br />再び歴史博物館の展示に戻ります。自由フランス海軍(FNFL)は、9月13日に旗艦ジョルジュ・レイグを筆頭にトゥーロン港へ帰還します。新たな艦隊の到着は兵器廠の活動を活性化させます。<br />ジョルジュ・レイグ<br />7600トン級巡洋艦で、建造中に逝去した海軍大臣の名前を冠します。ノルマンディー/プロヴァンス上陸作戦に参加しました。ジョルジュ・レイグ(1857-1933) は海軍大臣を複数回務め、艦隊の発展に大きな役割を果たしました。

    艦隊の帰還
    再び歴史博物館の展示に戻ります。自由フランス海軍(FNFL)は、9月13日に旗艦ジョルジュ・レイグを筆頭にトゥーロン港へ帰還します。新たな艦隊の到着は兵器廠の活動を活性化させます。
    ジョルジュ・レイグ
    7600トン級巡洋艦で、建造中に逝去した海軍大臣の名前を冠します。ノルマンディー/プロヴァンス上陸作戦に参加しました。ジョルジュ・レイグ(1857-1933) は海軍大臣を複数回務め、艦隊の発展に大きな役割を果たしました。

  • 再建<br />プロヴァンス上陸作戦は爆撃と戦闘による破壊を伴い、トゥーロンは47%が破壊されました。フランス共和国臨時政府(GPRF)は復興都市計画省を設立し、再建に必要な補助金を出しました。

    再建
    プロヴァンス上陸作戦は爆撃と戦闘による破壊を伴い、トゥーロンは47%が破壊されました。フランス共和国臨時政府(GPRF)は復興都市計画省を設立し、再建に必要な補助金を出しました。

  • 旧港周辺の伝統的な建物は、爆撃によって完全に消失してしまいました。 ルイ・マドレーヌの下で再建が開始され、ローマ大賞受賞者ジャン・ド・マイリーが引き継いで近代的な設計を採用しました。写真は1947年の様子。

    旧港周辺の伝統的な建物は、爆撃によって完全に消失してしまいました。 ルイ・マドレーヌの下で再建が開始され、ローマ大賞受賞者ジャン・ド・マイリーが引き継いで近代的な設計を採用しました。写真は1947年の様子。

  • マイリーのプランに沿って街はより開放的になり、レピュブリック通りは幅8mから20mに拡がり、海岸リゾート地として繁栄の時代を享受します。写真は1952年の様子。この街並みは、20世紀遺産に指定されています。

    マイリーのプランに沿って街はより開放的になり、レピュブリック通りは幅8mから20mに拡がり、海岸リゾート地として繁栄の時代を享受します。写真は1952年の様子。この街並みは、20世紀遺産に指定されています。

  • 同じ場所の現在

    同じ場所の現在

  • レピュブリック通りと旧港<br />経年と共に風化しないモダンさは、マイリーの設計による計画的な復興だったと知り、妙に納得しました。この後コルシカ行きの船に乗りましたが、後ろ髪を引かれる思いでトゥーロンを後にしたのを思い出します。

    レピュブリック通りと旧港
    経年と共に風化しないモダンさは、マイリーの設計による計画的な復興だったと知り、妙に納得しました。この後コルシカ行きの船に乗りましたが、後ろ髪を引かれる思いでトゥーロンを後にしたのを思い出します。

  • カテドラル広場(1959)

    カテドラル広場(1959)

  • 現在のカテドラル広場

    現在のカテドラル広場

  • Pl. Vincent Raspail<br />ヴァンサン・ラスパーユ広場にある共同洗濯場は、現在は屋根が取り払われ、泉として情緒を醸し出しています。

    Pl. Vincent Raspail
    ヴァンサン・ラスパーユ広場にある共同洗濯場は、現在は屋根が取り払われ、泉として情緒を醸し出しています。

  • ルイブラン広場とレピュブリック通り<br />通りが拡張前の状態なので、第二次世界大戦よりも前の様子です。

    ルイブラン広場とレピュブリック通り
    通りが拡張前の状態なので、第二次世界大戦よりも前の様子です。

  • 現在の様子<br />今も変わらないのは、サンフランソワ・ド・ポール教会だけです。<br />

    現在の様子
    今も変わらないのは、サンフランソワ・ド・ポール教会だけです。

  • ラファイエット通り(1947)

    ラファイエット通り(1947)

  • 現在も旧市街の中心として、マルシェが展開します。

    現在も旧市街の中心として、マルシェが展開します。

  • ギャラリーラファイエット百貨店から海軍博物館へ通じる路地

    ギャラリーラファイエット百貨店から海軍博物館へ通じる路地

  • ラファイエット通りには歴史博物館の別館があり、都市交通の企画展が行われていました。

    ラファイエット通りには歴史博物館の別館があり、都市交通の企画展が行われていました。

  • トラム<br />1886年に馬車軌道として営業開始し、1897年に電車に切り替わります。1955年に廃止されました。写真は、ストラスブール大通りを走る様子。

    トラム
    1886年に馬車軌道として営業開始し、1897年に電車に切り替わります。1955年に廃止されました。写真は、ストラスブール大通りを走る様子。

  • トロリーバス(1947-86)<br />架線から集電してモーターで駆動するバス。<br />渡し船(1836-1938)<br />対岸のラセーヌ・シュールメルまで運行していました。

    トロリーバス(1947-86)
    架線から集電してモーターで駆動するバス。
    渡し船(1836-1938)
    対岸のラセーヌ・シュールメルまで運行していました。

  • テレフェリーク(1959-)<br />麓とファロン山頂を結ぶロープウェイ。要塞や動物園へアプローチする手段です。

    テレフェリーク(1959-)
    麓とファロン山頂を結ぶロープウェイ。要塞や動物園へアプローチする手段です。

  • 微妙な仕上がりの模型が、なんとも愛おしいです。

    微妙な仕上がりの模型が、なんとも愛おしいです。

  • ラファイエット通には、噴水もあります。フルーツバスケットをモチーフにしたルスタンによる1912年の作品。

    ラファイエット通には、噴水もあります。フルーツバスケットをモチーフにしたルスタンによる1912年の作品。

  • フランソワ・ルスタン(1845-?)<br />主にトゥーロンの公共建築をデザインし、都市計画の一環として上の写真を始め4つの噴水をデザインしました。

    フランソワ・ルスタン(1845-?)
    主にトゥーロンの公共建築をデザインし、都市計画の一環として上の写真を始め4つの噴水をデザインしました。

  • 旧市街の東側には、イタリア門が。1796年にナポレオンがトゥーロンを起点にイタリア遠征へ出発したことを記念した凱旋門です。

    旧市街の東側には、イタリア門が。1796年にナポレオンがトゥーロンを起点にイタリア遠征へ出発したことを記念した凱旋門です。

  • その向かいには、巨大なショッピングモールのマイヨール・サントル・コメシアルが。フェリックス・マイヨールが寄贈したスタッド・マイヨール(マイヨール競技場)の隣に位置します。<br />サントル・コメシアルは、繁華街のショッピングモールを意味し、観光中に欠かせないアイコンです。

    その向かいには、巨大なショッピングモールのマイヨール・サントル・コメシアルが。フェリックス・マイヨールが寄贈したスタッド・マイヨール(マイヨール競技場)の隣に位置します。
    サントル・コメシアルは、繁華街のショッピングモールを意味し、観光中に欠かせないアイコンです。

    マイヨル ショッピング センター ショッピングセンター

  • 目的は、もちろんカルフール。<br />航海に備えて、水と食料を調達します。

    目的は、もちろんカルフール。
    航海に備えて、水と食料を調達します。

  • マイヨールスタジアムの横には、トゥーロン港が。<br />ここからコルシカ島へ渡航します。

    マイヨールスタジアムの横には、トゥーロン港が。
    ここからコルシカ島へ渡航します。

  • 夕方発朝着の便を宿代わりに使用します。<br />マルセイユ/ニースと違い、トゥーロン港は市街から数分の所に位置し、徒歩で容易にアクセスできる特異な港です。コルシカ島バスティア市へ向かいます↓<br />作成中

    夕方発朝着の便を宿代わりに使用します。
    マルセイユ/ニースと違い、トゥーロン港は市街から数分の所に位置し、徒歩で容易にアクセスできる特異な港です。コルシカ島バスティア市へ向かいます↓
    作成中

  • 追記<br />第二次世界大戦後も、インドシナ戦争/スエズ動乱(1956)/アルジェリア戦争(1954-62)/アフガン戦争(2001)/アラブの春(リビア攻撃 2011)等、トゥーロン軍港は様々な軍事作戦で重要な役割を果たしています。スエズ運河の開通がトゥーロンに大きなアドバンテージとなりました。

    追記
    第二次世界大戦後も、インドシナ戦争/スエズ動乱(1956)/アルジェリア戦争(1954-62)/アフガン戦争(2001)/アラブの春(リビア攻撃 2011)等、トゥーロン軍港は様々な軍事作戦で重要な役割を果たしています。スエズ運河の開通がトゥーロンに大きなアドバンテージとなりました。

  • おまけ<br />フェリーから見たスタッド・マイヨールとファロン山

    おまけ
    フェリーから見たスタッド・マイヨールとファロン山

  • トゥーロン旧港

    トゥーロン旧港

  • 海から見たトゥールロワイヤル<br />冬季の半年間は中へ入れないので、お預けです。

    海から見たトゥールロワイヤル
    冬季の半年間は中へ入れないので、お預けです。

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