2024/12/18 - 2024/12/18
1位(同エリア10件中)
gianiさん
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この旅行記スケジュールを元に
フランス人がトゥーロンと訊くと、まず軍港を思い浮かべます。
横須賀の軍港は、トゥーロンを参考に選定されました。
マルセイユから鉄道で1時間の移動で到着する多彩な面を併せ持つ都市を訪れます。まずは海軍ミュージアムを訪問します。
日本の軍港を擁する都市との大きな違いは、中世から軍事都市として歩んだ歴史の重みです。
- 旅行の満足度
- 5.0
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マルセイユのサンシャルル駅から出発します。
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ホームはF。専用改札を抜けます。
在来線を走行しますが、TGVの車両です。 -
1時間でトゥーロンへ到着。
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トゥーロン駅
1859年に開業しています。 -
駅向かいのアルベール1世広場。
南仏感全開です。 -
リベルテ広場の南側には、百貨店のギャラリーラファイエット。都会のアイコンです。
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向かいの投資信託銀行
中流層以上が資産運用でお世話になる場所。ファサードが立派です。 -
冬でも常緑樹が葉を広げる広場は、地中海全開です。オテルボナパルトを経て、
ホテル ボナパルト ホテル
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海軍基地の東端にある海軍博物館へ到着。入場料11ユーロです。
海軍(Marine nationale)は、海洋と誤訳されることが多いです。英訳ではnavy,形容詞はnavalです。marineには様々な意味があり、商船と区別するためにla Royale(王立海軍)と今も呼んだりします。
※英米でMarinesは海兵隊を指します。 -
博物館の入口は、元々はアルセナール(英:アーセナル 軍造船所/兵器工場/武器庫)の入口として1738年に建てられたものです。1954年まで東門として使用された後、直角に移動させて1974年以来現在の用途で使用されています。高さ13.5m/幅11.5mのローマ寺院風の建物で、中央にドームを配置しています。ファサード左側のレリーフには、戦争の神マルスが描かれています。この画角より右側は撮影禁止エリアで、現在の東門があります。
トゥーロン海洋博物館 テーマパーク・動物園・水族館・植物園
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フランス海軍(本国)はパリ総司令部の下、ブレスト:大西洋艦隊司令部/トゥーロン:地中海艦隊司令部/シェルブール:海峡司令部に大別されます。
海軍は1626年にリシュリューが創設し、トゥーロンは聖ヨハネ騎士団の流れを汲むレバント艦隊、ブレストはノルマンディ公国の流れを汲むポナント艦隊が設置されます。 -
トゥーロンの歴史
先住民族のケルト人は泉の女神テロ(Telo)を崇拝し、トゥーロンの語源となりました。ローマ帝国時代(2c)にはテロ・マルティウス(Telo Martius地図-黄)と呼ばれ、ブドウ栽培と(巻貝から抽出した超高級)紫染料の貿易で栄えました。港に泥が堆積すると市街域は12haから2haへ縮小します。
中世13世紀頃には城壁が築かれ、港に木製の防波堤も築かれました(地図-橙)。1481年のプロヴァンス併合でフランス領になると、トゥーロンの戦略的重要性は殊にイタリア戦争で明白になります。1514-24年に建設されたトゥール ロワイヤル(地図-黄丸)は、最初の主要な防衛施設でした。 -
軍港の創設と拡張(1589-1679)
北西の風から守られた広くて深い停泊地(rade)、マルセイユ/ローヌ渓谷/アルプス山脈へ通じる街道は、戦略的な軍港となる要因でした。
アンリ4世の治世中(1589-1610)の1594年に中世の城壁(図:白枠210m四方)を取り壊し、都市と8つの村を囲む要塞化された城壁が新たに建設されました(図:橙)。
港が掘られ、防波堤と大砲を配置した凹角堡で囲んで保護しました(図:橙)。港の入口は、夜間には重い鉄の鎖を張って安全を確保しました。 海を埋め立てて埠頭が建設され、その一部にはスリップウェイのある造船所も含まれました。
ルイ13世(在1610-43)の下で宰相リシュリューは、ブレストとトゥーロンにフランス初の常設海軍部隊を設立しました。トゥール・ロワイヤルに加えて、1636年にラ・セーヌ=シュル=メールのバラギエ要塞(橙点)、1680年にはエギエット要塞が建設され、停泊地の防御が完成します。 -
アンリ4世下(1610年頃)のトゥーロン
中世の長方形に囲った城壁とは対照的に、洗練されています。
市街地と軍港は、九稜郭で囲まれています。陸上部分は五稜、軍港部分は四稜です。 -
王立の軍港(1679-1798)
王立海軍はルイ14世(在1643-1715)の征服欲に資すべく、財務大臣コルベールがトゥーロン軍港拡張を立案し、軍事技術者ヴォーバンの指揮で1679-91年に整備されます。
18世紀前半には、歴戦での国家財政枯渇/人口が半減したペスト(1720-21)の影響を受けますが、1740年代に英仏間の緊張が高まると再び活性化します。 1748年のガレー艦隊併合を経て、アルセナールは自己完結する工業団地へと発展しました。
フランス革命期の1793年に、王党派住民がスペインとイギリスの艦隊に港を占領することを許可しますが、弱冠23歳の砲兵指揮官ナポレオンによって追い出されました(トゥーロン攻囲戦)。 -
植民地帝国の軍港(1798-1911)
トゥーロンは、フレシネ(1817)/デュモン デュルヴィル(1827/37)/アルジェリア(1830)/アジア(1850s~)等植民地探検の出発点にもなりました。1869年にスエズ運河が開通すると、この港の重要性はさらに高まりました。
トゥーロンは近代海戦に革命をもたらした技術進歩の拠点でもありました。 世界初の装甲艦グロワール号(1859)、フランス海軍初の実用潜水艦ジムノート号(1887)等です。ラ・セーヌ=シュル=メールの造船所は、フランス最大の軍用艦建造施設でした。
1893年の露仏同盟、1907/11年に起きた爆発事故の舞台でもありました。 -
ヨーロッパ有数の軍港(1911-)
1927年には、当時世界最大の乾ドック(2レーン)が完成するも、第二次世界大戦でドイツ軍に占領されます。終戦後は、艦隊と港の両方を再建する必要がありました。港は艦隊が自沈したときの残骸でいっぱいで、建物は空襲で廃墟となっていました。
1950年代、トゥーロンは深海潜水の進歩に積極的に関与し、FNRS3等がここで建造されました。 1960年代、グラン バッサン ヴォーバン ドライ ドックは、アメリカの航空母艦とフランスの新しい航空母艦であるフォッシュとクレマンソーを収容するために拡張されました。同時に、海軍は東地中海と南半球での海軍作戦の増加に対応して水上艦隊を再配置しました。
現在2万人以上の従業員を抱えるこの港では、船舶の建造ではなくメンテナンスを行っています。また、原子力空母シャルル ド ゴールとその護衛艦を含むフランス艦隊の3分の2の基地でもあります。 -
ヴォーバンのアルセナール
ルイ14世の野望を推し進めるため、要塞総監ヴォーバンは城壁の西側に新港を建設しました。最大40隻の船を収容できるだけでなく、ロープ工場/鋳造所/木工所/倉庫といった艦隊維持に必要な全機能を備えました。本人曰く「トゥーロンの港は、全ての国々が認めるように地中海で最も美しく最も優れた港です」。 -
Sébastien Le Prestre, Seigneur de Vauban(1637-1707)
ヴォーバンは建築家/戦略家として国王ルイ14世に仕えました。生涯で150以上の要塞を建設、53の包囲戦を指揮、理論と実践を組み合わせた防衛理論と築城法を確立します。 その功績から1703年に元帥の称号を授けられます。
彼が手掛けた12の要塞等は、ヴォーバンの防衛施設群として世界遺産に登録されています。 -
ヴォーバンの都市計画に基づくトゥーロン改造(1679-91)
アンリ4世の稜郭の西側を崩し、城壁内の面積が倍増しています。
アンリ4世期の軍港は旧港(Port vieux)、西側にはヴォーバンによる新港(Port neuf)と呼ばれます。
全長402mのロープ工場(黄線)はアルセナールの北境界、赤丸が現在地です。
黄線の右(東端)のファサード前 -
現在の地図
画角の真ん中に旧港がほぼ原形をとどめています。現在は民間開放されています。新港部分は今も海軍基地で、旧ロープ工場が境界線となっています。 -
ライオンマスク(1683)
新港/旧港の狭い出入口は、夜間にチェーンが張られ、外敵の侵入を防ぎました。写真の輪は防波堤両端の塔に設置され、チェーンのリングの両端と繋がっていました。 -
王立ロープ工場(縮尺1:75)
全長402m幅20mの建物は、アルセナール北側の境界を兼ねます。建築家ゴンベールの設計で、1686-92年にかけて建設されました。一度に400人以上が従事し、王立海軍のみならず民間需要にも応えましたが、19世紀末に操業を停止、現在も海軍によって使用されています。 ロープ工場の先には、タール工場とタール保管庫が建ちました。 -
ロープ製造の様子
丈夫で長いロープは、航海においても造船/修理過程においてもマストアイテムです。 -
実際の光景
旧ロープ工場の短辺(幅20m 東側)のファサードで、この先402mも続く広大な建物です。この南東にミュージアムがあります。 -
ルイ15世(在1715-1774)は、国内の主要軍/商/漁港を絵画として記録するために、海洋画家ジョゼフ・ヴェルネを用いました。トゥーロンを描いたものは3枚で、他の港よりも多い数です。写真は東側から眺めた旧港(1756)です。
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こちらは新港(1755)。
下の方では、様々な作業風景が描かれます。
左端:4人の銅細工師が青銅製の大砲を掘削(穴開け)しているのを、熟練工がしゃがみながら繊細な作業を監督しています。背景の練習用大砲では、取扱や装填方法を学んでいます。大砲を操作するには少なくとも 8人が必要です。
その右では、3連装大砲2門が台車に搭載されています。
隣では迫撃砲弾の点検が行われています。背景には鉄製の大砲に穴を開け、大砲の直径を大きくしている様子です。
後ろでは、クレーンで重さ2トンの砲身を砲台に載せています。
砲兵将校が、視察団を案内しています。
作業員が鉄製の大砲の内部を検査しています。
仮設礼拝堂の前を歩く囚人に掛かる鎖は、刑務所が併設されていることを思い出させます。 -
背景
左より、造船所ではフリゲート艦3隻が建造中です。
旧港に面した敷地では、2隻造船が始まります(ヘクター号(大砲76門)/ヴェラント号(大砲64門))。
大砲と索具の一部が取り外された船が並んでいます。右側には、倉庫の前にフリゲート艦が配置されています。 -
トゥーロン市と港の眺め(1756年)
高台から市街と軍港を一望しています。 -
1676年のトゥーロン港(縮尺1:1000)
全面をアンリ4世の要塞で囲まれ、軍事施設≒港の様相です。 -
1701年のアルセナール(縮尺1:1000)
※1676年の模型と同じ縮尺です
ヴォーバンの拡張事業(1679-91)に伴いアンリ4世による要塞は取り壊され、新しく作り直されています。アルセナール北壁を兼ねるロープ工場が印象的です。旧港/新港は、水路で繋がっています。 -
アルセナールにおける模型製作
海軍大臣を兼任したコルベールは、早くも1678年に主要な船舶の模型製作を命じました。これ以降、建造と同時に模型が製作されるようになりました。当時は設計図なしで作業していたため、模型は設計/形状を後世へ伝える手段となりました。大規模な模型は、訓練中の士官に理論と技術を教えるために使用されました。 -
トゥーロンにおける模型修復の光景(1947年)
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右手前:26門フリゲート艦ラ・スルタン号(1765年製作 縮尺1:10)
1765-93年にかけて就航した艦の模型は、将来の船員を兵器庫で訓練するために使用されました。右舷側(壁側で見えない)には、水平軸を備えた2組のローラーがあり、砲兵や装備の収納時の索具の転がりの影響を体験しました。史上初のシミュレーターです。
左奥:デュケーヌ号(1787年製作 縮尺1:12)
1788-1805年にかけて就航しました。模型は、索具と兵器を搭載した状態で教材使用さました。 -
アーセナルズ模型工房で製作された4スプーン、単輪浚渫船模型
18 世紀前半 木と金属
浚渫機は、囚人によって動かされる車輪装置を備えたポンツーンから構成され、巨大なスプーンを操作して海底の泥を除去することを目的としています。機械が水から引き上げられると、バネの仕組みでスプーンが開き、「フラップトップバージ」と呼ばれる船に泥が注ぎ込まれる。このタイプの浚渫船は 19 世紀中頃に完全に姿を消しました。 -
建造/艤装/修理
軍港は、国家が軍艦の建造/修理/整備を行う場所です。
主な施設は以下のとおりです。
1.船舶のための安全な港湾
2.スリップウェイ/マストクレーンを備えた造船所
3.修繕用の機械設備と構造物(乾ドック等)
4.大工/ロープ製造/帆造/彫刻工場/鍛冶場/鋳造所
5.船に積み込む食料/装備/兵器の保管庫
6.原材料/製品の保管庫
7.乗組員/兵士/工兵の兵舎、病院/事務所/学校 -
造船
第一帝政時代期に全長60mの軍艦を建造している様子です。竜骨の周りには、赤い服を着た囚人たちが材木を運んでいます。 -
船大工の工具
コーキング工は、船体と甲板を防水する役割を担う作業員です。麻の糸を板と板の間に挟み込んで、隙間を埋めます。その後、タールを塗って防水処理されます。
木槌、釘、麻糸、水掻き、溝鉋が展示されています。 -
船体が完成すると、スリップウェイを滑って進水します。
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マスト、索具、装備を取り付け、その後武器(大砲等)を装着します。30mもあるマストの設置は壮観かつ繊細な作業で、高さ約40mのマストクレーンを使用します。
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乾ドック建設(1774-78)
技師グロワニャールの設計した100×30×10mの木造ドックは大型戦艦も収容でき、修繕/艦隊の維持に重要な役割を果たします。ミュージアムのすぐそばに立地し、今も現役です。
大潮時の潮差が10m以上あるブレストとは対照的に、完全な排水システムを構築する必要がありました。 -
1839年、タヒチでフリゲート艦アルテミス号が沈没
フリゲート艦アルテミスは、1837-40年にかけて世界一周航海を行った。サンゴ礁に座礁するという事故に遭い、パペーテ湾(タヒチ)で手元にある手段を使って修理する必要があった。このために、船体の損傷部分を水から取り除く「ハルリング」が行われます。マストをてこの代わりに使用し、岸にしっかりと固定された 6 つのキャプスタンを使用して船を横倒しにします。一方、大砲とカロネード砲は砂の上に設置されており、作業中は船をその位置に維持することができます。 -
彫刻工房
ルイ14世の時代に、船舶彫刻は頂点に達しました。船体装飾は太陽王の栄光を物語る完璧な装飾となりました。船尾には船名板が設置され、広大な装飾面が確保されています。船首前部に設置された立体的な船首像は、船尾に記された船名を体現しています。
装飾は、シャルル・ルブラン(1619-90)やジャン・ベラン(1640-1711)といった著名な芸術家によって制作されました。トゥーロンでは、ピエール・ピュジェ(1620-1694)が、54人から成る彫刻工房を率いて装飾に大きな影響を与えました。
これらの装飾は費用がかさむため徐々に衰えて行き、19世紀には姿を消しました。 -
トゥーロン造兵廠彫刻工房所蔵の船尾装飾
左上:2人の半人半魚の精が支える盾には(ナポレオン1世)皇帝の鷲が描かれる
左中:四季の妖精
左下:牧神の胸像
中下:フランスを勝利へと導くマルス神(戦争の神)
マルスの盾にはブルボン家の家紋であるユリが描かれる。
右上:盾形紋章
右上の下:若い男
右下の上:アフリカ人女性
右中:トリトン(半人半漁の海神)
右枠外:ルイ17世 -
船艦ネプチューン号に取り付けられたネプチューン(海神)像
ネプチューン(ポセイドン)は、海軍彫刻で最もポピュラーなモチーフです。
そのほかには、ヘラクレスの12の偉業もモチーフとして好まれました。 -
ガレー船と強制労働収容所
古代からガレー船は、地中海を往来してきました。ルイ14世の下、犯罪者/新教徒/マグリブ海賊/有給の志願兵が国王の40隻のガレー船を漕ぎ、キウルムchiourmeと呼ばれました。
ガレー船部隊は海軍とは別の組織でしたが、操縦が困難かつ武器の搭載量が少ないため18世紀には時代遅れになり、1748年に海軍に吸収されます。大勢のキウルムが海軍基地へ移送され、彼らの収容所(bagne)が誕生します。 -
ガレー船ドーファン号
1736-92年にかけて就航し、ドーファンを襲名した最期の船です。29対の櫂があり、354名(58×6)で漕ぎました。側面は櫂で占められ、大砲は船首のみに搭載、銃火器時代に取り残されています。川船のように底が浅いので、波が穏やかな夏季の地中海のみで運用でき、海が荒れる冬季や大西洋等の外洋はNGでした。右後ろには、ベルサイユ宮殿の池に浮かべたガレー船の装飾板が飾られており、浅瀬が得意な一方で外洋での安定感に欠ける(細長く喫水量が少ない為)ことが分かります。 -
王立ガレー船艦隊はマルセイユに本部を置きましたが、1748年に廃止され、トゥーロンの地中海艦隊司令部に吸収されます。
バニュ送りになった囚人は鎖の付いた首輪に繋がれて、パリの刑務所からリヨンまで行進させられ、道中で各地の囚人が合流します。アルルまではローヌ川を航行し、トゥーロンまでは再び徒歩です。海軍基地に着くと、馬車で運ばれ(写真右)、首輪を解かれて髪を剃り、テントの中で入浴させられます(写真中央)。囚人服と鎖を着けられてバニュへ運ばれます(写真左)。 -
囚人服
赤い上着と帽子を支給されます。緑帽は終身刑、赤帽は有期刑(3-20年)でした。
ズボンは裾にもボタンが付いており、足枷を外さなくても着脱ができます。
※軍法会議で有罪になった人(軍刑務所)は、茶色い服を着用しました。 -
逃亡を防ぐために、左足首と左手首に鎖が掛けられます。鎖は18連で全長1.5m、7.2kgの重さがありました。素行が悪い囚人は二人ずつ繋がれました(写真)。
模範囚は繋がれる鎖の重さは僅か1.5kgで、釈放間近に至っては足枷のみでした。 -
バニュの登録簿(製本 1828-32年)
囚人番号26400の項で、姓/名/年齢/職業/家族の出身/身体的特徴などが詳述されます。この頃は、異教徒/異端(プロテスタント教徒等)の人権が保障され、重罪犯/政治犯等に絞られています。
ガレー船漕手は重労働で、奴隷に近い生活環境でした。18世紀の海戦は大砲如何だったのでガレー船は用を為さなくなり、漕手からアルセナールでの重労働(荷役等)へシフトしました。 -
1821-27年までバニュの所長を務めたオーギュスト・レイノーの日誌は重要資料です。
キウルムは長時間(13-15h)労働させられる上に給与も不要なので、アルセナールでは重宝されます。しかし管理費がかさむようになり、世論は重犯罪者を海外植民地へ追放する方向へ傾き、1873年に廃止されます。新設されたヌメア(ニューカレドニア)のバニュは、1945年まで存続します。 -
囚人を監視する職員は、青い制服を着用し、バニュ内ではサーベル、外ではライフルを帯びました。市民にとっては汚職のシンボルで、嫌われものでした。
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囚人は、トラールと呼ばれる少し傾斜した木の床に24連の鎖で繋がれて眠りました。模範囚は、マットレスを敷いて、毛布を掛けて寝ました。
1748年当時は、狭くて過密で不衛生なガレー船内が宿舎でしたが、1774年に陸上へ移されます。1783年にはグランランと呼ばれる全長200mの収容所が完成し、1階は病院として使用されます。 -
何人もが脱獄を試みます。
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脱獄には、イマジネーションが欠かせません。
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殊に終身刑を宣告された者にとって、イマジネーションは欠かせません。
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終身刑を宣告されたジャン=バティスト・ボネは、警備員の一人の制服を盗んで逃げ出し、アルセナールから脱出することに成功しますが、警報が鳴り再逮捕されます。
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終身刑を宣告されたセデスとルーは、1821年7月2日にセメント工場から脱走。
彼らは海側の壁を突き破ろうと井戸を伝って水槽へ入るも、他の囚人から密告されて翌日に引き揚げられます。24時間以上も水の中にいたため足は腫れ上がっていました。 -
フィションは、仲間が看守の前に立ちはだかっている間に、鉄のこぎりで足枷を切断します。服を着替え、半年前に用意したヘアバンドを着け、頭にはハンカチを巻いて、標識や片側だけ剃られた髪型を隠します。靴を履き替え、ズボンの「GAL」の文字を消します。ところがプロヴァンス語を解さなかったので住民に怪しまれて通報され、再逮捕されます。
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1793年のトゥーロン造兵廠
兵器庫の外形と全体的な配置は、1682年にヴォーバンによって定義されたものと同じでした。最も注目すべき建物は、アルセナールと町を隔てるロープ工場です。新しいドックの南東角には、1778年に完成したアントワーヌ・グロワニャール(1727-99)による乾ドックと囚人用の宿舎があります。2つの埠頭を隔てる桟橋には、1785年に着工された200mの建物があり、1815年にバニュの病院となるも、1944年の爆撃により破壊されました。 -
ナポレオン・ボナパルト(1769-1821)
1799年にナポレオンが権力を掌握した当時、フランス海軍は衰退の一途を辿っていました。艦艇は不足し、武器は時代遅れで、貴族階級がこぞってフランスから逃亡したため、優秀な将校が不足していました。
ナポレオンは、実利主義、断固たる決意、そして想像力をもって、永遠のライバルであるイギリスに対抗できる海軍の再建に尽力しました。統領時代と帝政時代には、海軍行政の組織化と合理化のための措置が講じられました。1800年には沿岸県が設置されました。ブレストがイギリスに封鎖されたことで、トゥーロンはジェノヴァ/ヴェネツィア/ラ・スペツィアといった二次的な海軍基地の支援を受け、フランスの主要な軍港となりました。
トゥーロンでは、特に110門砲を搭載した3層艦を中心とする新造艦の建造に向けた野心的な計画が開始されました。 -
ナポレオンは陸軍士官学校で砲兵科を専攻し、1793年に英海軍に占領されたトゥーロン奪回(トゥーロン攻囲戦)で大きな役割を果たし、僅か3か月で大尉から少将へ昇進します。まだ24歳でした。
封建体制では将校=貴族/兵卒=平民と身分で固定されたために、フランス革命期に経験を積んだ海軍将校の殆どが処刑/罷免されたので瀕死の状態でした。トゥーロンは、1798年のエジプト遠征の母港となりました。1805年のトラファルガー海戦では英国海軍に完敗するなど、課題は山積でした。 -
ローラン・トルゲ(1752-1839)
アメリカ独立戦争に従軍し、フランス革命が始まると英国海軍の組織等を学習した後、帰国。貴族出身でありながら革命政府海軍で大尉から少将へ昇進します。ナポレオン総統の下で海軍大臣を務め(1795-97)て軍制改革に奔走、第一帝政から7月革命まで勤めて、1830年に海軍提督(大将)の名誉を贈られます。
第二次王政復古(1815-30)以降、政府は植民地獲得に奔走し、海軍/トゥーロンの重要性は増していきます。 -
産業革命
19世紀、技術の進歩は航海術を一変させました。蒸気機関とスクリューが推進手段に革命をもたらしました。風力に頼ることなく、船は一定の速度を維持できるようになりました。
特に平射砲と施条(ライフル)砲の導入により、艦砲の威力は飛躍的に向上しました。1859年、フランス海軍は初の装甲戦艦「ラ・グロワール」を進水させ、外国海軍もこれに倣いました。
トゥーロン港は、ヴォーバン以来最大の変貌を遂げます。西側にはカスティニョー港とミシエシー港、東側にはムリヨン造船所が拡張されました。1856年には、ラ・セーヌ=シュル=メールに地中海造船所が設立されました。 わずか数年のうちにフランス最大級の造船会社の一つに成長し、数多くの受注を獲得するようになりました。 -
チェーンボール「エンジェルズ」
大砲から発射された砲弾は空中で旋回し、敵艦マストに巻き付いて倒すと操縦能力を失い、簡単に制圧できました。
鉄鋼製サーベル(1842)
1830年代に冶金学が進歩し、武器製造が近代化された証です。
ピストル
海軍が専用のピストルを導入したのは1837年で、サーベルに取って代わります。 -
スフィンクス号(1829-1845)
エンジンが常時稼働できるフランス海軍初の蒸気外輪船、 ロシュフォールで建造。3本マストのコルベット艦に分類。 1830年のアルジェリア侵攻、1832年にルクソールからコンコルド広場へオベリスクを輸送しました。 -
ナポレオン号(90門砲艦 1850-1876)
トゥーロンで建造され、900馬力の蒸気エンジンにより当時としては驚異的な速度である13.5ノット(25km/h)での航行が可能となった。帆ではなく蒸気を主な推進力とした最初の船であり、フランス海軍と海軍技術に革命をもたらしました。 フリゲート艦よりも大きい戦列艦に分類。 -
ラ・グロワール号(1859-1882)
世界初の装甲艦で、海軍に革命をもたらします。デュピュイ・ド・ロム(1816-1881)による設計、トゥーロンで建造。コルベット艦よりも大きいフリゲート艦に分類。 -
解体可能砲艦
1862年のコーチシナ遠征のために建造。バラバラにされて出荷され、現地で組み立てられました。両端に操舵装置が装備されており、狭い水路でも転舵せずに簡単に方向転換できます。 -
ヴォーバンウェッジ
アドルフ・ゴーセン(1871-1957)
ヴォーバンの船台は囚人によって建設され、民間企業によって覆われた。工事は1818年頃に始まりました。それらを統合する中央の建物は、応接室、事務所、店舗を収容するために1849年に建てられました。建物全体は1929年に取り壊されました。 -
トゥーロン港(1854年)
モレル=ファティオ作で、1756年のヴェルネ作と同じ構図のために、1世紀後のトゥーロン港を比較することが可能です。 -
船上生活
18世紀の船には約750人の乗組員が乗船しており、全員に食事/訓練/寝る場所を与えなければなりませんでした。配給は簡素で、生鮮食品はほとんどなくビタミンも不足しました。劣悪な衛生状態、窮屈な環境、とりわけ湿気が病気の蔓延を招きました。戦闘よりも、船内の生活環境が原因で命を落とす水兵の方が多く、海軍近代化後も解消されませんでした。
今日の海軍では、船上での栄養、健康と体力、快適さ、レクリエーションが最優先事項となっています。 -
船用ビスケット
パンに相当する船上生活の主食でした。イースト不使用で、水分がなくなるまで焼き上げられたので何年間も保存でき、長い航海/大規模軍事作戦に最適(安定品質/コンパクト)でした。小麦粉には10%以上のタンパク質(グルテン)とビタミンB群が豊富に含まれています。
ワインは水分補給も兼ね、毎日525㏄支給されました。水は腐敗防止のために、酢が混ぜられました。 -
食品は樽で保存されました。単位:リットル
左奥よりワイン(500)/ワイン(750)/ワイン(1000)/ワイン(250)/ワイン(166)
左手前より水(酢入り)/塩漬け肉/小麦粉/肉の塩抜き用容器/配給用の水入れ
最前列は個人用容器:左よりワイン容器(0.525)/おかず用容器/ビスケット用容器 -
1980-90年代の船室
ベッドの幅は70×180cmです。 -
祝祭と悲劇
トゥーロンはフランスで13番目に大きな都市であり、第三共和政下(1870~1940年)では軍事都市として重要な地位を占めていました。
トゥーロンは数々の式典を開催し、世界中から要人を迎え入れました。1893年には露仏同盟の締結を機に2,580人のロシア人がトゥーロンに到着、地元住民は16日間続いた祝賀行事に参加するよう招待されました。
海軍の存在は、悲劇の舞台ともなりました。極東から運ばれたコレラは、民間人にも蔓延しました。わずか5年の間に、1907年と1911年には2隻の戦艦が爆発し、全土が震撼しました。 -
露仏同盟は、三国同盟(ドイツ帝国/オーストリア=ハンガリー帝国/イタリア)に対抗するため、19世紀末に締結されました。1891年、ジェルヴェ提督率いるフランス艦隊はクロンシュタットで皇帝アレクサンドル3世に温かく迎えられました。 1893年には、アヴェラン提督率いるロシア艦隊もトゥーロンへ上陸、この訪問は大きな反響を呼び、マスコミでも広く報道されました。この訪問の後、両政府により露仏同盟が批准されました。
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1907年3月12日、トゥーロンのミシエシー ドックで修理中だった戦艦レナが爆発し約150人が死亡しました。1911年9月25日、戦艦リベルテ号が爆発し300人以上が死亡した。これらの爆発は、B火薬の自然発火が原因です。議会による調査と陸軍省火薬局への尋問を経て、海軍は第一次世界大戦前夜に安定した火薬を入手します。
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地中海における大戦争
フランス人は第一次世界大戦を陸上での戦争と考えがちですが、フランス海軍は連合国と共に、特に地中海において戦争の帰趨に決定的な役割を果たしました。戦争中、海軍の護衛部隊は、原材料/軍需品/民間人への食料を運ぶ船団を護衛しました。海軍は戦略海域の封鎖を維持し、対潜水艦戦力を強化しました。
1915年にダーダネルス海峡で、そして10月にテッサロニキで開始された海軍作戦は、バルカン半島に新たな戦線を開きました。1918年の決定的な勝利は、ブルガリア/オスマン帝国/オーストリア=ハンガリー帝国/ドイツの降伏をもたらしました。
トゥーロンでは、男性が軍隊に徴兵される一方で、女性も労働力として活躍し、火薬工場では火薬袋/薬莢/弾丸/砲弾/魚雷を製造しました。1917年10月には、4,445人の「軍需工」が工場で働いていました。 -
破線:主な戦闘地域
緑:三国同盟陣営
緑破線:Uボートのルート
青:三国協商陣営
青破線:三国協商の護送船団
赤破線:1917年の前線
赤線:1918年の前線
赤星:主な戦闘 -
1913年のトゥーロン軍港
ヴォーバン兵器廠の南側では、世界最大となるヴォーバンドックの建設が始まっており、4 基セットのうち最初の鋼製ケーソン(潜函)が設置されています。大戦はこの巨大事業に水を差し、完成は1927年にずれ込みます。 -
フランスの地方を想起させる名前を持つ戦艦プロヴァンス、ブルターニュ、ロレーヌは、船員たちから「田舎のおばさん」という愛称で親しまれていた。第一次世界大戦中、ラ・プロヴァンスは地中海艦隊の旗艦でした。第二次世界大戦中、この戦艦は1940年にイギリス軍によるメルス・エル・ケビールへの攻撃で損傷を受けた。修理後トゥーロンに到着し、1942年11月27日に自沈した。
この模型はそれが運用開始された当時を再現したものです。プロヴァンスは当時、5基の二連装砲塔に340mm砲10門を搭載していた。 -
第二次世界大戦におけるトゥーロン
フランスは海軍大臣レイグ(在1917‐20,25-33)の下で近代化が推進され、1939年に大戦が勃発した時には英米日に次ぐ世界第4の艦隊を保有していました。1940年6月の休戦協定により、ほぼ無傷の艦隊がドイツ傀儡のヴィシー政権支配下に置かれました。地中海艦隊は、連合国と共に戦い続けるべきかペタン元帥のヴィシー政府に従うべきかというジレンマに直面します。
1940年7月3日、イギリス軍はアルジェリアのメルス・エル・ケビールに駐留していたフランス艦隊を攻撃しました。イギリス軍への合流も武装解除も拒否したためです。1942年11月にドイツ国防軍は未占領の自由地帯に侵攻、地中海艦隊は艦隊を自沈させました。トゥーロンは連合軍による度重なる空襲の標的となり、町と港は廃墟と化しました。連合軍が南フランスに上陸した後、1944年8月27日に町は解放されました。 -
上:ダンケルクとその姉妹艦ストラスブールは、主武装が前部にある 2 基の 4 連装砲塔に集中している 2 隻の高速戦艦です。世界で最も近代的な建物の一つとされ、第二次世界大戦の初めにはフランス艦隊の先鋒でした。ダンケルクは1940年7月3日と6日にメルス・エル・ケビールでイギリス軍の攻撃を受け、深刻な損害を受けた。その後トゥーロンに戻り、1942年11月27日に艦隊の自沈の際にヴォーバンのドックの一つで沈没した。
左:1937年6月にロリアンで進水したモガドールは、駆逐艦の究極の進化形であり、以前のファンタスク級の駆逐艦よりも強力で武装も充実していました。モガドールは1940年7月のメルス・エル・ケビールへのイギリス軍の攻撃で大きな損害を受け、修理のためにトゥーロンに曳航され、1942年11月27日にフランス艦隊の自沈の際に沈没した。
中:潜水艦ダントルカストーは1940年9月のダカール防衛に参加、1943年に連合軍へ加わります。
右:戦艦リシュリュー(1939年進水)。フランス最後の戦艦で、前方に位置する2つの砲塔には380ミリ砲8門が収納されており、約35kmの射程範囲を誇ります。
下右:カサブランカ級潜水艦は1931~36年にかけて建造(1500t級)。カサブランカはドイツ軍の攻撃をかわしてトゥーロンを出港して連合軍に加わり、コラエの解放にも参加、解放されたアジャクシオ港に入港した最初の連合軍船でした。1947年に退役。 -
潜水艦
トゥーロンはアンリ・デュピュイ・ド・ロームとギュスターヴ・ゼデによって、1888年に世界初の電気推進潜水艦ジムノート(電気鰻)を進水させました。マキシム・ロブフが設計したナルヴァル(1899 シェルブール)は、水上は内燃機関/水中は電動モーターと2種類の推進方式を採用した最初の潜水艦となりました。 -
トゥーロンでは1953年にFNRS-3潜水艇が建造され、ダカール沖で水深4050mに到達しました。実物は、トゥールロワイヤルの前に展示されています。
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ドック入りするダフネ
ダフネ級の最初の潜水艦であり、フランス海軍で11隻、外国海軍用に14隻が建造されました。ヴォーバン第3乾ドックに入渠している様子です。このドックは1842年に建造され、全長74メートル、全幅23.5メートル、水深8メートルです。 -
リュビ級攻撃型原子力潜水艦
1983-93年にかけて6艦が製造され、いずれもトゥーロンに配備。2000t級で、原水としては極小型。前方は魚雷/中央は居住区/後方は原子炉と駆動部。
※核弾道ミサイルを搭載した戦略的原子力潜水艦は、大西洋艦隊に配備されます。 -
シュフラン級攻撃型原子力潜水艦
リュビ級に取って代わるもので、全長99.5m排水量5,300t。60名の乗組員を擁するこれらの艦は、大型魚雷、対艦ミサイル、さらには巡航ミサイルを搭載することができ、深海攻撃も可能になりました。また、着脱式格納庫を装備して、特殊部隊(15名)の展開能力を強化しています。 -
航空母艦:1世紀の歴史
最初の航空母艦は1918~22年にかけて英米で開発されました。フランス海軍は1927年、戦艦の船体を改造して建造された空母ベアルンを進水させました。日米海戦は、近代海軍における航空母艦の優位性を確固たるものにしました。
第二次世界大戦後、フランスは英米から航空母艦を購入し、1960年代初頭には、フォッシュ/クレマンソーという2隻の近代的な航空母艦を進水させました。2001年には原子力空母シャルル・ド・ゴールがこれらに代わりました。 -
ベアルン(1923-67)
フランス初の空母。戦艦として計画されていましたが、第一次世界大戦中に建造が中断されました。1920年、まだ船体建造段階にあったベアルンに、格納庫と飛行甲板を増設し航空母艦に改修することが決定されました。ベアルンは空母搭載型航空機揺籃の地であり、着艦訓練の場でした。1944年に輸送艦に改造。この模型は、インドシナ戦争においてフランス軍の物資輸送に従事した姿です。 -
クレマンソー(1961-97)
艦載機は、蒸気カタパルトで発艦します。全長265m、126,000馬力/27ノットという機動力が驚異的。インドシナ戦争で空母の重要性を経験し、初の国産空母として設計。フォッシュと2艦体制のため、効率的に運用できた。フォッシュはブラジル海軍で2017年まで就航。 -
飛行甲板員「イエロー・ドッグ」
甲板上で航空機を誘導します。騒がしい甲板上で指示を叫んだり「吠え」たりする任務と、視認性を高めるために着用する黄色いベストにちなんで名付けられました。 -
原子力空母シャルル・ド・ゴール
2001年に就役。フランス海軍の10番目の空母(軽空母/未完を含む)であり、米海軍以外では唯一の原子力空母。全長261.5m、飛行甲板1.2ha,総出力83,000馬力、最高速度27ノット、搭載航空機:ラファール30機/空中偵察機2機/ヘリコプター5機、乗員1,950名、上陸部隊700名を便乗可能。予算の関係で単艦運用となり、作戦に大きな制限が生じている。 -
ラファール
1999年から製造が開始された単座の艦載機です。多用途戦闘機として、制空権確保任務ではクルセイダー、強襲および核兵器任務ではシュペルエタンダールの後継機となりました。着陸フック、カタパルト発射用の強化されたノーズギア、そして単座型という点で、空軍使用のラファールと異なります。最大速度マッハ2。 -
海上での航海
目印が見えない時、船の方向/速度/座標を知るために様々な計器を用いました。14世紀以降、羅針盤は磁北極を示していました。16世紀の船乗りたちは、等間隔に結び目のあるロープに取り付けられた丸太を用いて、船の速度を時速海里(ノット)で測定しました。アストロラーベから六分儀まで、様々な計器が星の位置を測定し、南北軸上の船の緯度を決定しました。18世紀後半にマリンクロノメーターが開発されたことで、赤道に平行な東西軸上の経度を計算できるようになりました。 -
これらの機器の高度化と、より正確な海図や地図の発達は、探検航海、軍事遠征、そして貿易ルートの開拓に大きな恩恵をもたらしました。
第二次世界大戦後にレーダーが開発された後は電子機器、特に衛星ナビゲーションシステムによって行われており、最もよく知られているのは全地球測位システムGPSです。 -
今日の海軍基地
トゥーロンは地中海で最も重要な海軍基地の一つです。フランス海軍艦隊の3分の2の母港であり、その総トン数には、シャルル・ド・ゴール空母、その護衛艦、揚陸部隊を含む水上艦隊の大部分、そしてすべての原子力攻撃型潜水艦が含まれます。造船所は建造を行っておらず(ブレスト/ロリアン/シェルブールで行われています)、整備と修理の大部分を担っています。フランスの国益に資することを目的とした大規模な工業団地であると同時に、軍事力投射の拠点でもあります。海軍基地は220haの広さを誇り、約2万人を雇用しています。ヴァール地方最大の雇用主であり、地域経済の重要な貢献者です。 -
現在のトゥーロン
ヴォーバンの要塞跡の地割が海岸線に残っています。 -
海軍の広報映像が流れます。
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かっこいい海軍をイメージしています。
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博物館を出て海岸を歩くと、良い天気です。
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観光案内所で資料を集めます。
トゥーロン観光案内所 散歩・街歩き
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向かいでは、魚市場が開かれています。
トゥーロンの魚市場 市場
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旧市街のカテドラル
このあと街歩きと歴史博物館を訪問します↓
https://4travel.jp/travelogue/12004715サント マリー マジュール大聖堂 寺院・教会
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