ローテンブルク旅行記(ブログ) 一覧に戻る
 1ドル220円だった1981年2月、卒業を控えた春休み、大学のゼミの友人に誘われて初めての海外旅行に行くことになった。友人は帰国子女で海外慣れしていることもあり、初めての海外にしては大胆な欧州七か国をレンタカーで回るというものであった。ルートは香港、シンガポール経由で友人の叔母さんが日本料理店を経営するアテネに前後一週間滞在、そこからミラノに移動しレンタカーを借り、ジュネーブ、パリ、ブルージュ、アムステルダム、ローテンブルク、ザルツブルク、ミラノと周遊した。途中、パリでシベリア経由で来るもう一人の友人と合流し、パリ以降は三人で回った。<br /> 旅行に先立ち通過ルートの道路地図を書店で入手、宿は行き帰りの香港とミラノのみ事前予約し後は出たとこ勝負である。アテネは友人の叔母さん宅に居候になる。<br /> 2月某日、成田空港を出発、最初のフライトは日本航空の香港行きである。初めて乗る747の迫力に興奮しつつ、ほどなく軒先をかすめて香港に到着し一泊、海洋公園など一通り観光地を回り、翌日タイ航空でシンガポールへ。当時流行りのリバティベルのダウン(笑)を着たまま灼熱のシンガポールでシンガポール航空に乗り継ぎ、バーレーン経由でアテネに早朝到着した。空港からタクシーでブラカ地区の友人の叔母さん宅へ。友人は叔母さん宅は何度か来ているので勝手知ったるである。当時のアテネのタクシーはネズミ色の古い車、欧州というより中東色の濃いところであった。<br /> アテネ一の繁華街であるブラカ地区の中心にある友人の叔母さんの日本料理店は元貴族の屋敷を改装した古びてはいるが三階建の立派な家で、一、二階が店舗、三階が住居となっていた。当時娘さんと孫が一緒に住んでいたので友人のみ母屋に泊まり、私は隣の従業員用アパートに泊まる。2月のアテネは結構寒い。コンクリート打ちっぱなしのアパートは最初ラジエーターの使い方がわからないこともあって寒かった。シャワーもお湯が出るのは一瞬ですぐ水になってしまうのには閉口した。<br /> 友人の叔母さんは元大使付きの料理人でレバノンのベイルートで開業していたがレバノン内戦による治安の悪化に伴いアテネに移ってきた。豪放磊落な国際人で当地の日本人社会でも有名な存在だった。<br /> アテネではアクロポリス、リカベドスの丘、ピレウス港、スニオン岬、エーゲ海の島々などを訪れた。観光もさることながら友人の叔母さんの美味しい手料理をいただきながらいろいろな珍しい話を聞けたことがとても楽しい思い出である。<br /> アテネには一週間滞在した後、飛行機でミラノへ移動、一泊してちらっと観光した後ここでレンタカーを借りていよいよ長距離ドライブの開始である。ミラノの街中を抜けて高速道路に乗り一路スイスへ向かう。レンタカーは比較的新しいフィアットリトモというコンパクトカー。初めての左ハンドル、右側通行だがすぐに慣れる。勿論ナビもない時代だが周到に用意した道路地図のお陰で迷うことなく目的地に向かう。途中のサービスエリアの売店では水より安いワインを売っていてびっくり。イタリアからモンブラントンネルを抜けてフランスに入ると路面に雪が残っているので慎重に下る。ミラノから約400kmを走破しジュネーブに到着、一泊し観光する間もなく次なる目的地パリへ向かう。ジュネーブからパリは約600km、2日で1000km走行と強行軍だがパリは一週間ほど滞在しのんびりする予定である。宿はカルチェラタンの安宿に泊まる。パリでは定番の観光など、途中でソ連、ポーランド、チェコスロバキアなど共産圏を経由してきたもう一人の友人と合流した。当時はまだオルセー美術館はなく印象派美術館というのがあった。車があったので少し足を伸ばしてシャルトルの大聖堂を訪れることができたのは収穫であった。パリはその後何度も訪れることになるが、この時代に比べると年々つまらない街になってきている気がする。シャンゼリゼのショールームでタルボットのモンテカルロラリー出場車に遭遇したのは感激であった。近くにあるジョルジュサンクホテルの前を通った時、そのうちこんなホテルに泊まりたいものだと友人が言ったのを覚えている。<br /> パリにはその後十年ほど経って仕事で何度か訪れることになった。1992年にはパリ出張時に当時パリに駐在していたこの友人に会うことができた。2002年には当時住んでいたシカゴから家族で訪問、当時やはりパリに駐在していた大学のクラブの後輩に世話になった。2016年には娘が留学と何かと縁が深い。都合十五回くらいは訪れただろうか。<br /> 次の行程はパリからベルギーのブルージュまでの約300km。何故ブリュッセルでなくブルージュだったかと言えば、当時ブルージュは結構日本人の間で人気だったのである。ブルージュでは初めてユースホステルに泊まった。翌朝、たまたま同宿だった日本人の若い女性二人を途中まで車で送ろうとしたところ車がエンコ、最初で最後のトラブルであった。幸い近くにガソリンスタンドがあり事なきを得た。<br /> ブルージュからアムステルダムへ移動は約250kmと比較的短い。ツーリストインフォメーションで紹介してもらった運河沿いの安宿にチェックインした。アムステルダムはレンブラントなどの崇高なオランダ絵画と猥雑な飾り窓が同居する不思議な街であった。ブルージュにはその後訪れたことがないが、アムステルダムには縁あってその後何度か訪れることになる。訪れる度に印象が変わる不思議な街である。<br /> 翌日の行程はアムステルダムからケルンまでの約260km、ケルンの大聖堂を見た後、ロマンチック街道を下りローテンブルクまで行く。猥雑なアムステルダムから素朴なローテンブルクに移動しやや戸惑う。レストランの二階にある安宿に部屋をとり、中世の趣の残る町を散策する。観光シーズン外れということもあり町は閑散としていた。レストランで働いていた素朴な赤い頬っぺたの女の子を覚えている。<br /> 翌日はローテンブルクからフュッセン、ミュンヘンを経由してオーストリアのザルツブルクへ。雪のフュッセンではノイシュバンシュタイン城を訪れた。ザルツブルクではチロル料理のレストランへ。各国からの観光客が集まり和やかな雰囲気であった。翌日はマイクロバスでサウンドオブミュージックツアーに参加、映画のロケ地など巡り興味深かった。<br /> ザルツブルクからは最後の行程でインスブルックを経由してミラノへ。ミラノで一泊して飛行機でアテネに戻り、再び友人の叔母さん宅に滞在した。今回は一人増えたので何処に泊まったのか記憶にない。近くのホテルに滞在したのかも知れない。まだクレジットカードも持っていなかったのでトラベラーズチェックを現金化して日々の支出を賄っていたが、途中でお金が無くなり実家からお金を送ってもらった記憶がある。それも携帯もメールもない時代のこと、郵便局でコレクトコールを頼むとやがてボックスに呼ばれるという形であった。(古い映画のシーン(笑)<br />)また、当時のヨーロッパはまだ通貨統合前で毎日国境を越える度に通貨が変わり友人たちとの精算が大変だった。<br /> レンタカーでの長旅を無事終え、アテネでのんびりした後、来た時と同じルートでシンガポール、香港経由で帰国した。何はともあれ無事故、無違反で七か国約三千キロを走破できて幸運であった。ヨーロッパは道路が整備されており、標識も見易いので、全般的に速度が速いことに慣れれば旅行しやすい。ただドイツ語圏の地名は長くて走行中一瞬で読めないので要注意であった。<br /> このような貴重な機会を与えてくれた友人には今でも感謝している。友人はその後海外暮らしが長く今はハワイ在住と聞いている。また駆け足ではあったが、ヨーロッパの主要都市を巡った経験はその後の仕事や旅行で大いに役に立った。<br /> ギリシャでお世話になった友人の叔母さんにはその後83年、84年と二度程お会いした。99年に家族を連れてアテネを訪れた時はすでに亡くなっており店も廃墟となっており、まさに強者どもが夢の跡であった。今は地中海を望むベイルートの丘に眠ると風の便りに聞いた。

欧州7カ国ドライブ旅行

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1981/02/10 - 1981/03/20

367位(同エリア952件中)

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hanapapa

hanapapaさん

 1ドル220円だった1981年2月、卒業を控えた春休み、大学のゼミの友人に誘われて初めての海外旅行に行くことになった。友人は帰国子女で海外慣れしていることもあり、初めての海外にしては大胆な欧州七か国をレンタカーで回るというものであった。ルートは香港、シンガポール経由で友人の叔母さんが日本料理店を経営するアテネに前後一週間滞在、そこからミラノに移動しレンタカーを借り、ジュネーブ、パリ、ブルージュ、アムステルダム、ローテンブルク、ザルツブルク、ミラノと周遊した。途中、パリでシベリア経由で来るもう一人の友人と合流し、パリ以降は三人で回った。
 旅行に先立ち通過ルートの道路地図を書店で入手、宿は行き帰りの香港とミラノのみ事前予約し後は出たとこ勝負である。アテネは友人の叔母さん宅に居候になる。
 2月某日、成田空港を出発、最初のフライトは日本航空の香港行きである。初めて乗る747の迫力に興奮しつつ、ほどなく軒先をかすめて香港に到着し一泊、海洋公園など一通り観光地を回り、翌日タイ航空でシンガポールへ。当時流行りのリバティベルのダウン(笑)を着たまま灼熱のシンガポールでシンガポール航空に乗り継ぎ、バーレーン経由でアテネに早朝到着した。空港からタクシーでブラカ地区の友人の叔母さん宅へ。友人は叔母さん宅は何度か来ているので勝手知ったるである。当時のアテネのタクシーはネズミ色の古い車、欧州というより中東色の濃いところであった。
 アテネ一の繁華街であるブラカ地区の中心にある友人の叔母さんの日本料理店は元貴族の屋敷を改装した古びてはいるが三階建の立派な家で、一、二階が店舗、三階が住居となっていた。当時娘さんと孫が一緒に住んでいたので友人のみ母屋に泊まり、私は隣の従業員用アパートに泊まる。2月のアテネは結構寒い。コンクリート打ちっぱなしのアパートは最初ラジエーターの使い方がわからないこともあって寒かった。シャワーもお湯が出るのは一瞬ですぐ水になってしまうのには閉口した。
 友人の叔母さんは元大使付きの料理人でレバノンのベイルートで開業していたがレバノン内戦による治安の悪化に伴いアテネに移ってきた。豪放磊落な国際人で当地の日本人社会でも有名な存在だった。
 アテネではアクロポリス、リカベドスの丘、ピレウス港、スニオン岬、エーゲ海の島々などを訪れた。観光もさることながら友人の叔母さんの美味しい手料理をいただきながらいろいろな珍しい話を聞けたことがとても楽しい思い出である。
 アテネには一週間滞在した後、飛行機でミラノへ移動、一泊してちらっと観光した後ここでレンタカーを借りていよいよ長距離ドライブの開始である。ミラノの街中を抜けて高速道路に乗り一路スイスへ向かう。レンタカーは比較的新しいフィアットリトモというコンパクトカー。初めての左ハンドル、右側通行だがすぐに慣れる。勿論ナビもない時代だが周到に用意した道路地図のお陰で迷うことなく目的地に向かう。途中のサービスエリアの売店では水より安いワインを売っていてびっくり。イタリアからモンブラントンネルを抜けてフランスに入ると路面に雪が残っているので慎重に下る。ミラノから約400kmを走破しジュネーブに到着、一泊し観光する間もなく次なる目的地パリへ向かう。ジュネーブからパリは約600km、2日で1000km走行と強行軍だがパリは一週間ほど滞在しのんびりする予定である。宿はカルチェラタンの安宿に泊まる。パリでは定番の観光など、途中でソ連、ポーランド、チェコスロバキアなど共産圏を経由してきたもう一人の友人と合流した。当時はまだオルセー美術館はなく印象派美術館というのがあった。車があったので少し足を伸ばしてシャルトルの大聖堂を訪れることができたのは収穫であった。パリはその後何度も訪れることになるが、この時代に比べると年々つまらない街になってきている気がする。シャンゼリゼのショールームでタルボットのモンテカルロラリー出場車に遭遇したのは感激であった。近くにあるジョルジュサンクホテルの前を通った時、そのうちこんなホテルに泊まりたいものだと友人が言ったのを覚えている。
 パリにはその後十年ほど経って仕事で何度か訪れることになった。1992年にはパリ出張時に当時パリに駐在していたこの友人に会うことができた。2002年には当時住んでいたシカゴから家族で訪問、当時やはりパリに駐在していた大学のクラブの後輩に世話になった。2016年には娘が留学と何かと縁が深い。都合十五回くらいは訪れただろうか。
 次の行程はパリからベルギーのブルージュまでの約300km。何故ブリュッセルでなくブルージュだったかと言えば、当時ブルージュは結構日本人の間で人気だったのである。ブルージュでは初めてユースホステルに泊まった。翌朝、たまたま同宿だった日本人の若い女性二人を途中まで車で送ろうとしたところ車がエンコ、最初で最後のトラブルであった。幸い近くにガソリンスタンドがあり事なきを得た。
 ブルージュからアムステルダムへ移動は約250kmと比較的短い。ツーリストインフォメーションで紹介してもらった運河沿いの安宿にチェックインした。アムステルダムはレンブラントなどの崇高なオランダ絵画と猥雑な飾り窓が同居する不思議な街であった。ブルージュにはその後訪れたことがないが、アムステルダムには縁あってその後何度か訪れることになる。訪れる度に印象が変わる不思議な街である。
 翌日の行程はアムステルダムからケルンまでの約260km、ケルンの大聖堂を見た後、ロマンチック街道を下りローテンブルクまで行く。猥雑なアムステルダムから素朴なローテンブルクに移動しやや戸惑う。レストランの二階にある安宿に部屋をとり、中世の趣の残る町を散策する。観光シーズン外れということもあり町は閑散としていた。レストランで働いていた素朴な赤い頬っぺたの女の子を覚えている。
 翌日はローテンブルクからフュッセン、ミュンヘンを経由してオーストリアのザルツブルクへ。雪のフュッセンではノイシュバンシュタイン城を訪れた。ザルツブルクではチロル料理のレストランへ。各国からの観光客が集まり和やかな雰囲気であった。翌日はマイクロバスでサウンドオブミュージックツアーに参加、映画のロケ地など巡り興味深かった。
 ザルツブルクからは最後の行程でインスブルックを経由してミラノへ。ミラノで一泊して飛行機でアテネに戻り、再び友人の叔母さん宅に滞在した。今回は一人増えたので何処に泊まったのか記憶にない。近くのホテルに滞在したのかも知れない。まだクレジットカードも持っていなかったのでトラベラーズチェックを現金化して日々の支出を賄っていたが、途中でお金が無くなり実家からお金を送ってもらった記憶がある。それも携帯もメールもない時代のこと、郵便局でコレクトコールを頼むとやがてボックスに呼ばれるという形であった。(古い映画のシーン(笑)
)また、当時のヨーロッパはまだ通貨統合前で毎日国境を越える度に通貨が変わり友人たちとの精算が大変だった。
 レンタカーでの長旅を無事終え、アテネでのんびりした後、来た時と同じルートでシンガポール、香港経由で帰国した。何はともあれ無事故、無違反で七か国約三千キロを走破できて幸運であった。ヨーロッパは道路が整備されており、標識も見易いので、全般的に速度が速いことに慣れれば旅行しやすい。ただドイツ語圏の地名は長くて走行中一瞬で読めないので要注意であった。
 このような貴重な機会を与えてくれた友人には今でも感謝している。友人はその後海外暮らしが長く今はハワイ在住と聞いている。また駆け足ではあったが、ヨーロッパの主要都市を巡った経験はその後の仕事や旅行で大いに役に立った。
 ギリシャでお世話になった友人の叔母さんにはその後83年、84年と二度程お会いした。99年に家族を連れてアテネを訪れた時はすでに亡くなっており店も廃墟となっており、まさに強者どもが夢の跡であった。今は地中海を望むベイルートの丘に眠ると風の便りに聞いた。

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
ホテル
3.0
グルメ
3.0
ショッピング
2.0
交通
4.0
同行者
友人
交通手段
レンタカー 飛行機
航空会社
JAL オリンピック航空 シンガポール航空 タイ国際航空
旅行の手配内容
個別手配
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