2025/06/06 - 2025/06/06
618位(同エリア4544件中)
ベームさん
森鷗外の小説「雁」を読み返していて、主人公東大生岡田青年の日常の散歩道を辿って歩いてみようと思いました。すなはち、明治13年頃東大医学部学生だった鴎外の好んで歩いた散歩道です。
話は岡田の友人で、同じ下宿にいた「僕」が35年前を回想して語る形を取っています。
岡田は東大鉄門の近くに下宿をしていて、毎日のように決まった道順を散歩します。無縁坂を下りて、不忍池の北側を巡って上野の山をぶらつき、上野山下、松源や雁鍋のある広小路や池之端から仲町通りを歩いて湯島天神に入る。さらに枳殻寺(麟祥院)から東大構内を通って下宿に帰るルートです。時には赤門から神田明神、眼鏡橋(万世橋)までも足を延ばしました。
無縁坂の途中に侘びしげなしもた屋があって、そこには高利貸しの妾のお玉が囲われて住んでいました。岡田の散歩の都度顔を合わす二人、いつしか二人は挨拶を交わすようになります。そのうちお玉は岡田に惹かれていきます。ある日、高利貸しが一日遠方へ出かける日、お玉は意を決して岡田を家に招き食事を共にして、思いを打ち明けようとします。然しその日に限って岡田は友人と一緒だったのです。お玉は声を掛けられず、目の前を通り過ぎる岡田を茫然と見送ります。その美しく見張った目の底には、無限の残惜しさが含まれていました。その翌日岡田はドイツ留学に旅立ってしまうのです。
なぜその日に限って岡田が一人でなかったのか、この話と雁がどんな関係があるのか、それを話すと長くなるので端折ります。
ちょっと時代は下りますが、大正時代の上野山下界隈の様子が佐多稲子の「私の東京地図」に詳しく描かれています。
私は岡田青年になった気持でその道筋を歩きました。ただ岡田と違うのは、途中私に思いを寄せてくれるようなはかなげな美人はいなかったことです。
やたら「雁」や「私の東京地図」からの引用が多くて退屈と思います。ご勘弁ください。
表紙の写真は不忍池(ボート池)。
-
行程です。
左下の地下鉄本郷三丁目駅から出発して、東大の鉄門、無縁坂、不忍池を廻り、上野の山、上野広小路、池之端をうろついて、仲町通りで終わりとなりました。 -
8か月ぶりの東京、スタートは地下鉄丸ノ内線本郷3丁目駅。9時半ころです。
足の痙攣防止の薬を飲んで歩き始めました。
梅雨入り寸前の暑くなる予報の出ていた日です。 -
本郷通りへの改札口。
-
なんと本郷三丁目かどの「かねやす」が柏餅屋になっています。「本郷も かねやすまでは 江戸の内」の看板はあります。いつの間にか不動産賃貸業になっていたのですかね。調べてみると、数年前から閉店していたそうです。
向かい角の大学もなかの三原堂はありました。夏目漱石や森鷗外など文人墨客が好んだ羊羹の藤むらはとっくに無くなっています。
「雁」より:お玉は小鳥を助けて貰ったのを縁に、どうにかして岡田に近寄りたいと思った。最初に考えたのは、何か品物を梅(女中)に持たせて礼に遣ろうかと云う事である。さて品物は何にしようか、藤村の田舎饅頭でも買って遣ろうか。それでは余り智慧が無さ過ぎる。
鴎外は藤むらの田舎饅頭をご飯の上に乗せて、お湯をかけて食べるのが好物でした。 -
南北の本郷通りと東西の春日通りが交差する大きな本郷三丁目交差点。
真中に小さく本郷薬師の赤い鳥居が見えます。 -
本郷通り、お茶の水方面。
左角に三原堂、右角にかねやすビル。 -
春日通りを少し東に歩くと、道端に富士浅間神社というのがありました。。
-
由緒。
ここは元加賀藩前田家上屋敷があったところで、椿山という小高い丘があり、富士塚があり、祀られていたのが富士浅間神社だそうです。 -
春日通りの反対側には夏目漱石の「三四郎」で、三四郎と美禰子の別れの場となったプロテスタントの教会中央会堂です。
なんでも外国の文化を取り入れた明治時代、若いインテリ男女にとって、耶蘇教会は男女交際のきっかけを得る絶好の場所でした。神父や牧師の説教を聞きに行くのか、交際相手を見つけに行くのか。キリスト教にかぶれ、一度はクリスチャンになった文士も多かった中で、さすが(?)鴎外、漱石、露伴、荷風など大文豪は違いました。 -
本富士警察署の角を左に曲がると、東大の竜岡門があります。
本郷通りの赤門や正門ほどには有名ではありませんがバスも通る大きな門です。
門と言っても2本の柱だけで門扉がありません。 -
竜岡門に入らずに、手前の道を右に左に行くと鉄門があります。
この門の先には東大医学部、東大病院などの医学部関係の施設があります。
東大医学部の前身、種痘所の門が鉄製だったため、種痘所は鉄門と呼ばれました。 -
鉄門。
現在の鉄門は医学部誕生150年を記念して2006年(平成18年)に再建されたものだそうです。デザインは当初の物だそうです。
今でも鉄門は東大医学部の通称となっています。 -
岡田が下宿していた鉄門の近くの下宿屋はこの辺りだったのでしょうか。
実際、鴎外は鉄門の近くの上条という所に下宿しています。しかし明治14年、その下宿が火事になり、焼け出されたそうです。 -
鉄門の前から無縁坂は始まり、不忍池の方に下っています。
「雁」より:その頃から無縁坂の南側は岩崎の邸であったが、まだ今のような巍巍(ぎぎ)たる土塀で囲ってはいなかった。きたない石垣が築いてあって、苔むした石と石の間から、歯朶や杉菜が覗いていた。
岩崎とは今の旧岩崎邸庭園のことです。今の壁は土塀ではありません。また今の人には「無縁坂」と云えば、鴎外の「雁」よりもさだまさしの歌の「無縁坂」を思い浮かべるでしょう。 -
「雁」より:坂の北側はけちな家が軒を並べていて、・・・、店は荒物屋に煙草屋位しかなかった。中に往来の人の目に付くのは、裁縫を教えている女の家で、昼間は格子窓の内に大勢の娘が集まって仕事をしていた。・・・、我々学生が通ると、いつもべちゃくちゃ盛んにしゃべっている娘どもが、みな顔を挙げて往来の方を見る。
明治の初め、大学生は希少価値でした。年頃の娘を持つ親、特に未亡人の母娘の家は競って大学生に部屋を貸しました。夏目漱石の「こころ」はそう言った家庭に下宿している二人の大学生の、その家のお嬢さんを巡る心の葛藤の物語です。 -
「雁」より:その隣に一軒格子戸を綺麗に拭き入れて、上り口の叩きに、御影石を塗りこんだ上へ、折々夕方に通ってみると、打水のしてある家があった。寒い時は障子が締めてある。暑い時は竹簾が卸してある。そして仕立物師の家の賑やかなために、この家はいつも際立ってひっそりしているようの思われた。
この家が老父を養うため高利貸の末造に囲われているお玉の住まいです。 -
その跡は今はマンションなどが建っています。
「雁」より:夕食後に例の散歩に出て、・・・、ぶらぶら無縁坂を降り掛かると、偶然一人の湯帰りの女がかの侘しい家に這入るのを見た。・・・。丁度家の格子戸の前まで帰って、戸を開けようとしていた女が、岡田の下駄の音を聞いて、ふいと格子に掛けた手を停めて、振り返って岡田と顔を見合わせたのである。
この坂の下ったところに実際に湯屋があったそうです。 -
坂の途中にある講安寺。
「雁」より:右の手を格子に掛けたまま振り返った女の姿が、岡田には別に深い印象をも与えなかった。しかし結いたての銀杏返しの鬢(びん)が蝉の羽のように薄いのと、鼻の高い、細長い稍(やや)寂しい顔が、どこの加減か額から頬に掛けて少し扁(ひらた)いような感じをさせるのとが目に留まった。 -
「雁」より:それからは岡田が散歩に出て、この家の前を通る度に、女の顔を見ぬことは殆ど無い。二週間も経った頃であったか、ある夕方例の窓の前を通るとき、無意識に帽を脱いで礼をした。その時ほの白い女の顔がさっと赤く染まって、寂しい微笑みの顔が華やかな笑顔になった。それからは岡田は極まって窓の女に礼をして通る。
-
鴎外は「雁」の中で妾を描いていますが、実は鴎外にも妾がいたと云われています。鴎外の長男森於菟(おと)が「鴎外の隠し妻」の中で触れていますし、明治31年7月、当時の暴露新聞「万朝報」が報じています。さしずめ今の「週刊文春」です。しかし政財界の要人、伊藤博文でさえ堂々と妾を抱えていた時代ですから、あまりスキャンダルにはならなかったのでしょう。
幸田露伴は、実際にその女に会ったことがあると述べています。
当時鴎外は妻登志子と離婚して独身だったので、妾というより隠し妻という方が正確かも知れません。独り身の息子鴎外の女遊び、性欲の捌け口を心配した母の峰が
もと士族の末裔で身元の確かな未亡人(児玉せき)を当てがったとも云われています。鴎外は母峰に極めて柔順で、今で言うマザコンだったのではないでしょうか。後日鴎外が荒木しげを後妻に迎えたあと、鴎外があまりにも母峰に孝養を尽くすので、才女で気位の高いしげがヒステリーを起こし、姑の峰と対立することになるのは必然でした。
児玉せきの写真がありますが、後妻の荒木しげやお玉を彷彿させるような細面の美人です。昭和16年、75歳で亡くなっています。 -
坂の途中に一軒古い家がありますが、とてもお玉が住んでいた”格子戸を綺麗に拭き入れて、上り口の叩きに、御影石を塗りこんだ上に、折々夕方に通ってみると、打水のしてある家”を思わせるものではありません。
-
無縁坂の下から。
今の無縁坂は春日通りと不忍通りの抜け道になっているのか、車の結構通る何の風情も感じられない坂でした。
鴎外は結婚して僅か1年半、長男が生まれた直後嫡男が生まれるのを待っていたかのように、その長男を連れて家を飛び出し、一方的に妻登志子を離縁します。その理由を鴎外は生涯黙しています。いや、真実を言えなかったのでしょう。私はその大きな理由が鴎外の見栄っ張りだったと思います。鴎外は周りの勧めに従い、見合いもしないで男爵赤松則良の娘登志子と結婚します。登志子は姑である鴎外の母峰が「鼻が低く、笑うと大きな歯茎が丸見えだ」と言っているように、確かに美人ではなかったようです。しかし和漢の書を読み、歌、書ほか芸事にも優れた女性でした。まあ世間を知らない、深窓の令嬢だったのでしょう。 -
無縁坂を下りきった不忍通り西交差点。
右に曲がると切通の方です。
鴎外は自己顕示欲が強い人物でした。全てに自信満々でした。その頃、高位高官の令室には美人が多かった。自分の将来の栄達をを思うと、その時自分の妻が美人でなかったら恥ずかしいと思ったのでしょう。鴎外はよく言っていたそうです。「俺の弟の嫁は美人だ。」「友人誰それの妻は美人だ。」「今日は彫刻でない生きた美人を見た」なんてよく口にしていたそうです。後妻志げを貰った時は友人に手紙で「美術品らしき妻を迎え・・・」なんてその実自慢しています。これなら上司、同僚、文学仲間にも自慢できる、と思ったでしょう。然し何の落ち度もない子供を産んだばかりの妻から子供だけを取り上げて一方的に離縁するとは、鴎外は怪しからん男ですね。 -
左角には東天紅の大きな建物があります。
ただ一つ、鴎外が前妻登志子のことを記している日誌があります。鴎外が小倉の師団軍医部長の職にあった時、登志子の死が伝えられます。鴎外は「小倉日誌」に記しています。
「嗚呼、これ我が旧妻なり、於菟の母なり。・・・。同棲一年の後故ありて離別す。」
どんな「故」でしょう。その後一年して鴎外は再婚しています。 -
不忍池の畔に出ました。
夏の花立葵(ホリホック)があちこちで咲いていました。
美人好みで選んだ才媛の後妻の志げと、家事を取り仕切り、鴎外を猫っ可愛がりする志げの姑である母峰との間の板挟みにあって、鴎外はその後長く苦労をすることになるのでした。 -
不忍池のボート池です。
散歩の途中、この池で友人にけしかけられて岡田が投げた石がたまたま雁に当たり、友人の下宿で雁鍋を囲むことになるのです。 -
弁天堂とボート乗り場。
しかし今、不忍池に鴨はいても雁は飛来しているだろうか? -
不忍通りに面して横山大観記念館があります。
大観終焉の住居です。 -
その前は福地桜痴(源一郎)の住まいだったそうです。
福地桜痴と言っても、いまでは知らない人も多いでしょう。
明治時代の評論家、劇作家で言論界、政界、演劇界の大御所でした。
1841年~1906年(明治39年)。
彼が亡くなった時、夏目漱石がこう言っています。「早晩忘れ去られる人物だ。」
漱石は人や物を見る目があったようです。尾崎紅葉の「金色夜叉」を評して、「あれは三四十年後には忘れられる本だ。」と言ったそうです。今の時代「金色夜叉」を読む人がどれほどいるでしょうか。同年生まれながら、言文一致の試みがようやく始まった学生時代に作家生活のスタートを切った紅葉と、高校、大学教師を経て明治後期にようやく作家として自立した漱石との違いと言えばいえるでしょう。 -
「雁」でお玉を囲う高利貸し末造の住まいはこの隣に設定されています。無縁坂の妾宅と目と鼻の先です。
「雁」より:隣の福地さんなんぞは、己の内より大きな構えをしていて、数奇屋町の芸者を連れて、池之端をぶらついて、書生さんを羨ましがらせて、好い気になっていなさるが、内証は火の車だ。学者が聞いてあきれらあ。
末造のセリフです。「雁」を書いた当時、福地桜痴は既に亡くなっていたので、鴎外は実名を挙げてこんなセリフを末造に吐かせたのでしょう。漱石も鴎外も桜痴の俗物根性を見抜いていたのです。 -
一本裏通りに境稲荷と言う神社がありました。
-
街歩きをしていて、ふとこんな社に出くわすと気が休まります。
-
不忍池の西南一帯は池之端という町名です。
-
一軒の古本屋があります。
「雁」より:この散歩で岡田が何をするかと言うと、ちょいちょい古本屋の店を覗いて歩くくらいのものであった。上野4丁目と仲町との古本屋は、その頃のが今も二三軒残っている。・・・。岡田が赤門から出て右へ曲がることのめったにないのは、一体森川町は町幅も狭く、・・・当時古本屋が西側に一軒しかなかっのも一つの理由であった。
大学の周辺に古本屋が少ないとは不思議なことです。調べてみると、東大前の本郷通りに古書店街が出来たのは明治20年頃で、鴎外が学生だった当時はありませんでした。 -
東大池之端門。
鉄門とか池之端門は東大の裏門と言ったところでしょうか。 -
不忍池に戻りました。
ビオトープ浮島。 -
-
ボート池の北縁を木の桟橋が走っています。
勿論鴎外はこの桟橋を知りません。 -
岡田(鴎外)は鵜の池の北側を廻って上野の山の方に歩いたのです。
-
ここら辺には昔藍染川が流れ込んでいました。
藍染川は駒込を水源に、最初は谷田川といい、田端、根津、谷中を通って不忍池に注いでいた川です。
「雁」より:藍染川のお歯黒のような水の流れ込む不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 -
今日はボートの出番が少ないようです。
-
鵜の池。
不忍池は堤で蓮池、ボート池、鵜の池に分かれています。 -
弁天堂の裏に出ました。
-
「雁」には弁天堂の前を通ったとしか描かれていませんが、きっとここにも寄っているでしょう。
-
正式名称は東叡山寛永寺辨天堂と云うようです。
-
提灯でお堂が見えませんね。
-
平日のせいか、思ったより人は少ない。
-
弁天様には琵琶が欠かせません。
琴筝の組合の奉納です。 -
弁天堂の手水舎。
-
豊大公護持大黒天堂。
徳川将軍に縁の深い寛永寺辨天堂と豊臣秀吉が隣り合わせです。 -
弁天島から突き出している聖天島の大聖歓喜天。
-
大聖歓喜天。
-
弁天堂の周りにはいくつもの業界団体が寄進した碑があります。
包丁塚。
調理業者。 -
鳥塚。
食肉鶏卵業者の建立。 -
スッポン感謝の塔。
碑文の周りはスッポンの形です。 -
ふぐ供養塔。ふぐ料理業者。
-
めがね之碑。眼鏡業者。
眼鏡の型は徳川家康愛用のものだそうです。 -
上野の山に登ります。
「雁」ではただ、上野の山をぶらつく、東照宮の石段を登る、としか書かれていません。それでおそらく岡田青年が廻ったであろう所を歩きました。
明治維新時の上野戦争で、上野の山は焼け野原になっており、岡田の歩いた明治13年頃はまだその跡が残っていたでしょう。 -
五条天神社。
-
手水舎。
-
医薬祖神で、無病息災にご利益があります。
-
-
隣接する花園稲荷神社は五条天神社の境内です。
-
明治維新時の上野戦争最後の激戦地となった所です。
-
折れ曲がった鳥居を抜けると、公園に出ます。
-
-
花園稲荷神社。
上野公園側の鳥居。 -
その横にある懐石料理の韻松亭。
明治8年創業とか。 -
時の鐘です。
江戸時代、時計の無い時代に江戸市内になんか所かあり、定時に時を知らせていました。
「花の雲 鐘は上野か浅草か」、芭蕉の句は有名です。 -
上野精養軒。
明治9年開業の西洋料理の草分け。
貧乏書生の岡田が利用したかどうかは分かりませんが、鴎外、漱石など文人、政財界人がよく利用しました。 -
摺鉢山の大仏パゴダ。観光目的で昭和42年建立。
薬師如来、日光・月光菩薩を祭っています。 -
上野大仏。
もともとこの地には大仏、釈迦如来像がありました。関東大震災で頭部が崩落、胴体部分は先の大戦で供出されました。いま頭部だけが残っています。 -
大きな灯篭が立っています。
お化け灯篭と呼ばれます。 -
信濃の武将佐久間氏が東照宮に寄進したもの。1631年。
京都南禅寺、名古屋の熱田神宮のとならんで、日本3大灯篭と言われます。
内田魯庵の小説「くれの二十八日」より:ちょうど鐘楼で一時を撞き出して間もなく、精養軒を出て大仏の背後(うしろ)を裏枯れの小山伝に佐久間大膳の大石燈籠の傍へ抜けた若い男女(おとこおんな)の二人連れがある。 -
上野東照宮です。
大石鳥居。 -
神門。
-
徳川家康を祭神とする東照宮は日光とか久能山、東京芝など各地にあるため地名を冠して、上野東照宮と呼ばれます。
1627年創建。現在の建物は1651年、3代将軍徳川家光の寄進。 -
参道の両側には全国の諸大名寄進の石灯篭が並んでいます。
-
-
旧寛永寺五重塔です。
隣接する上野動物園の中にあり、動物園に入らないとそばへ行けません。 -
1631年建立。火事により焼失、1639年再建。高さ36m.
-
神楽殿。
-
青銅灯篭。
-
手水舎。
-
明治7年、釣鐘と思いきや、石屋が寄進した大きな鈴です。
-
銅灯篭。
-
唐門。
-
唐門。
-
-
精緻な彫り物です。
-
扉の左右には左甚五郎の竜の彫り物があります。
右に下り竜。 -
左に昇り竜。
-
唐門の左右にひときわ大きな灯篭が三基ずつ並んで立っています。
-
-
尾張、紀伊、水戸の御三家の寄進だそうです。
-
-
上野動物園入り口。平日でここも人は少ない。
-
清水観音堂です。
-
下から見上げた月の松。
松の枝を丸く仕立てて、月に仕立てています。 -
清水の舞台は修復中でした。
-
江戸時代のものが明治に入り台風で消失、これは平成24年に復活したものです。
-
清水観音堂、側面。
-
手水舎。
-
-
王仁(わに)博士の碑。
-
4世紀、応神天皇の時代に朝鮮の百済から渡来した。日本に漢字とか儒教、論語を伝えたとされる。
古事記、日本書紀に王仁についての記述があります。当時この地は未開の地で、なぜ上野の山に碑があるのか分かりません。 -
遠足か修学旅行か、西郷さんの前で記念写真。
銅像は明治31年造られたもので、鴎外が医学生だった明治13年にはありませんでした。 -
そこから下ったところにかえるの噴水があります。
-
この付近に寛永寺の黒門がありました。1868年7月の上野戦争で、旧幕府残党の彰義隊と新政府軍の戦いの最大の激戦地になった所です。
-
いまその黒門は三ノ輪の円通寺に保存されています。
無数の弾痕の跡があります。 -
上野公園から降りてきました。上野公園前の大きな交差点です。
上野(下谷)広小路、上野松坂屋方面。 -
上野駅方面。奥の白い建物はヨドバシカメラ。
昼はこの辺りの大衆食堂で済ませました。 -
アメ横入り口。
-
さすが、平日でも人が多い。
-
上野広小路、松坂屋方面。
ここからは佐多稲子の「私の東京地図」から多く引用させていただきます。佐多稲子は娘時代、この近所の料亭に奉公していて、大正時代のこの辺りに詳しい。
「私の東京地図」より:東京の街の中で、ここは私の縄張り、とひそかに独りぎめしている所がある。上野山下の界隈で、池之端、仲町、せいぜい黒門町から御徒町まで。
佐多稲子:1904年(明治37年)~1998年(平成10年)、長崎生まれ。
作家、女性地位向上運動家。作品に「キャラメル工場から」、「夏の栞」、「くれない」など。 -
上野交差点の向い側に三角屋根の白いビルと、その横に赤い庇の小さな店があります。
ビルは永藤ビルです。
「私の東京地図」より:公園下の停留所の前は「永藤」パン店。ミルクと砂糖の焼ける匂いが何かを憧れさせるような新しさで、いつも客が店の中に詰めていた。・・・。永藤パン店には殆ど毎日、餡パンや甘食パンや、ビスケットやキャラメルを買いに走った。
玉子パンと甘食(あましょく、臍パン)というのが特に人気だったそうです。 -
永藤はこんな立派なビルを建てて、商売は変わってもいまも繁盛しているようです。
与謝野晶子・鉄幹夫妻の長男、与謝野光の文章にこんなのがあります。
「高村光太郎さんはとってもやさしい人でね・・・。うちで歌会があると大きな袋にあんパンやジャムパンとかを持って来てくれたんです。嬉しいことにはですよ、持って来てくれるのは、広小路で今でもありますなんていったか・・・永藤。そのパン屋なんですが、わざわざそこへ寄って買ってきてくれた。」
よっぽど評判だったようです。
先ほどの「かねやす」といい「永藤パン店」といい、老舗の転身先はなぜか不動産業が多い。 -
その横にあんみつのみはしがあります。戦後の創業ですが、「私の東京地図」にこんな一文があります。「永藤パン店の右となりは洋食屋の三橋亭。・・・。ガラス戸のある洋食屋の三橋亭には、たまに「洋食が食べたい」と言い出す主人の子供たちの使いで、シチュウをあつらえにゆく。」
三橋亭とあんみつのみはしは関係ないでしょうが、この界隈を昔三橋といった名残が窺えます。
この付近には「雁鍋」という料理屋もありました。したがってかっては不忍池に雁が飛来していたのでしょう。それをとっ捕まえて鍋にする、野蛮なことです。 -
永藤ビルの広小路の向い側に朝日生命、大和証券があります。
この辺りに料亭「松源」がありました。当時松源は上野界隈一の料亭でした。「雁」ではここでお玉が高利貸の末造の妾になるべくお目見えしたのです。
「雁」より:上野広小路は火事の少ない所で、・・・、どこか静かな、小さい一間をと誂えて置いたので、南向きの玄関から上がって、・・・、左へ這入る六畳の間に、未造は案内せられた。 -
「雁」より:廊下に二三人の足音がして、「お連れ様が」と女中が顔を出して云った。・・・。未造ははっと席を起った。そして廊下に出てみると、・・・、おくれた様子もなく、物珍しそうにあたりを見て立っているのがお玉であった。ふっくらした丸顔の、・・・。さっぱりとした銀杏返しに結って、厚化粧なんぞはせず、ほとんど素顔と言っても良い。未造はその姿を目に吸いこむように見て、心のうちに非常な満足を覚えた。
松源の跡はみやこ座、上野日活館など映画館になったようです。ビルの裏には今もアダルト映画館がありました。 -
そこから動物園通りをちょっと入ったところにホテル観月荘があります。
この裏、不忍池側に佐多稲子が働いていた料亭「清凌亭」がありました。
佐多稲子は、大正5年、12歳の時小間使い、大正9年16歳の時お座敷女中としてそこで働いていました。その時稲子は芥川龍之介に会ったことがあるのです。
ある日、芥川は菊池寛、久米正雄らと清凌亭に遊びました。稲子が芥川を見て、芥川さんだわ、と他の女中に言いました。この事が芥川の耳に入り、こんな料理屋の女中が俺のことを知っているとは、と興味を覚えて座敷に稲子を呼んだそうです。
ほかの女中とは一味違うきりりとした容姿の稲子に芥川は好感を持ったそうです。 -
こんな後日談があります。佐多稲子の「年譜の行間」によると、すでに作家としてスタートを切っていた稲子にある日芥川から来てほしいとの連絡がありました。稲子が田端の芥川家を尋ねると、いきなり芥川が尋ねました。「あなたは自殺を試みたことがあるそうですが、なにを飲んだのですか?」「あたしはジアールを飲みました。」「生き返ったあと、また死のうと思いませんか。」「いいえ、思いません。」変なことを聞かれると私は思いました。
稲子が自殺未遂の経験があることを、芥川は知っていたのでした。
それから三日後に芥川がベロナールを飲んで自殺したのです。稲子の驚きはいかがなもんだったでしょうか。 -
広小路に戻り、上野4丁目の交差点です。
-
この辺り昔上野三橋町と言いました。
不忍池の南端から忍川と云う川が東に流れ出て、御成道(広小路)を横切って、末は隅田川まで流れていました。御成道とは徳川将軍が上野寛永寺に参詣する通り道です。そこに3本の橋が掛けられていました。それで三橋(みはし)と呼ばれたのです。真ん中の橋は将軍しか通れず、それ以外は両側の橋を渡りました。
忍川は昭和の初めに埋め立てられ、橋も無くなりました。 -
上野4丁目交差点。
奥の四角い建物がもと松源のあった朝日生命ビル。手前、左のかどに「揚げ出し」がありました。
「東京地図」より:池の水の落ちる忍川には三橋の形も標ばかりにもついていた。忍川は「揚げ出しの」裏でちょっと水の姿を見せて、そのあとは広い道の下にくぐって隠れ、御徒町の方に見え隠れしつつ流れ落ちていた。 -
広小路上野駅方面。
ここを川がよぎっていて、橋が3本も掛かっていたなんて、想像もつきませんね。
上野公園一帯の台地を江戸時代は忍岡(しのぶがおか)、池を不忍(しのばず)、川を忍川(しのぶかわ)、しのぶ尽くしです。 -
広小路松坂屋方面。
-
池之端にあるしたまちミュージアムに寄りました。
たしか前は下町風俗資料館と言っていました。その名前の方が良いのにね。
先ほどから足腰の調子がおかしくなりつつするので、先を急ぎましたが、ゆっくり見るととても面白い所です。 -
映画のスクリーンのような面白い展示です。このような展示なら、ミュージアムの名称もおかしくありません。
-
市街電車が行き来します。
-
ある下町の風景です。
-
山の手は富裕層の多い町、下町は貧困層の多い町のことと理解されることがありますが、全くの誤りで、単に地形上の高い低いの区別です。
上野台地、本郷台地、小石川台地、牛込台地、白金台地などが山の手で、その間に挟まれた地域が下町です。隅田川を東に渡ると、そこはもう全体が下町です。 -
路地ですね。
-
昔の家の中の再現。
-
東芝の電気釜。
私の子供の頃、家で最初に買った電気釜がこれでした。
東芝は本来重電メーカーなので、家電製品を最初に開発しても商売が下手で、ナショナル、サンヨー、シャープなどの家電メーカーにやられてしまいます。 -
路地の風景。
-
今は不忍池に川の流出入はありませんが、昔は北から藍染川が流れ込み、池の南東部から東に忍川が流れ出て、末は隅田川に流入していました。
池そのものも1884年の競馬場開設(1892年まで行われた)の際に大きく埋め立てられています。競輪も行われました。
今の水は少量の湧水と、JR,京成電鉄の地下から湧き出る水の注入で賄われているそうです。
でもそれでは池の水が溢れてしまうのでは?いったいどうやって調整しているのでしょうね? -
江戸時代。
-
3階からの眺め。
今はびっしり蓮の葉で覆われています。 -
展示品。
鼻緒をすげ替えてもらって、足の指にピッタリはまった時は嬉しかったものです。
私の高校時代でも白い鼻緒の高下駄を穿いて、蛮からぶって歩きました。 -
湯たんぽ、塵取り。
-
その後トースターはパンが焼けると上にポンと飛び出るようになりました。
アイロンを使う家庭は今は少ないでしょうね。 -
ちゃぶ台。
使わない時は4本の脚は折りたたんでおきます。場所を取らない合理的な道具でした。こんな小さな卓袱台に私たち親子5人が座って食事していました。 -
戦時中ゴム製の防毒マスクは各家庭にありました。防空頭巾には住所姓名、血液型を書いた布端が縫い付けてあります。
-
館内風景。
-
-
真多呂(またろ)人形。
-
-
-
-
ちゃぶ台。
使わない時は脚を折りたたんで、部屋の隅に立てておくので、場所を取りません。 -
食事風景。
私の子供時代もこうでした。 -
痩せてあばら骨の出た胸を洗濯板みたいだ、と言います。
栄養不良の戦後時代、そんな子供が多かった。 -
母がお湯を入れてくれた湯たんぽを、兄と二人で抱き合って寝ました。
-
井戸端会議は格好の情報交換の場でした。
お釜から吹きこぼれた汁がオブラートのようになってこびりついているのを兄弟で争って食べました。 -
私の子供の頃、戦中戦後、には各家庭にお風呂は普及していたのでしょう。日常で銭湯に行った記憶はありません。大きな楕円形の桶のような風呂に父と入った記憶があります。底は鉄で熱いので、簀の子のような板を沈めていました。
-
浅草の賑わい。
奥に十二階(凌雲閣)が見えます。 -
凌雲閣。通称十二階。
1890年(明治23年)、浅草に建てられた12階建ての展望塔。
日本最初のエレベーターがあった。
関東大震災で倒壊。 -
凌雲閣。
この下一帯は銘酒屋が並び、十二階と言えば私娼窟を指しました。石川啄木は金が入るとここに行ったそうです。 -
外に出ると梅酒祭りが行われていました。
-
今頃は梅の実の熟する時ですね。
-
そのあたりからの眺め。
蓮池、弁天堂と上野精養軒が見えます。 -
不忍通り、池之端のウナギの老舗「伊豆栄」。
昔は書生なども気易く出入りできる店でしたが、今は高級化して懐具合を確かめないと。
「雁」ではこの辺りにお玉の父親が住んでいることになっています。無縁坂に囲われているお玉が、父親も近くに住まわせてほしいと懇願するので、末造が住まわせたのです。 -
その隣に櫛の十三(じゅうさん)や。
創業1736年だそうです。くし、九・四、苦死に通じるのを嫌って九+四=十三
だそうです。
「雁」より:それから夕方になると、女中が台所でことこと音をさせているのを聞きながら、肘掛窓の外の高野槇の植えてあるところに打ち水して、・・・、上野の山で鴉が騒ぎだして、中島の弁天の森や、蓮の花の咲いた池の上に、次第に夕靄が漂って来るのを見ていた。
お玉の父親です。父親は孝行娘のお陰で楽隠居の身分になったのですが、かえって退屈で無聊を囲っていました。 -
伊豆栄の並びに星乃珈琲店があったので休憩しました。
医者から糖分は控えるよう脅されているのでブラックです。
砂糖の無いコーヒーなんて美味しくない。 -
伊豆栄のある不忍通りから一本裏の仲町通りに入りました。
佐多稲子の「私の東京地図」によると、この通りは小間物屋とか指輪屋、三味線屋、薬屋などの並ぶ粋で綺麗な町だったそうです。
切通の無いころ、この通りは本郷から上野に通じるメイン通りでした。 -
今は何ともいかがわしい店舗の並ぶ薄汚れた通りになっています。
-
猥雑な商店街です。
-
-
悪貨が良貨を駆逐する、
何年か前、久しぶりに大阪の心斎橋筋を歩いて驚きました。老舗の呉服屋、履物屋。茶舗などが消え失せて、安っぽい俗悪なショッピング、レジャー街に変貌していました。 -
その中で上野の蕎麦はここ、と云われた老舗の蕎麦や「蓮玉庵」が周りのけばけばしい建物に挟まれて、貧相な姿で残っています。
「雁」より:「蓮玉へ寄って蕎麦を一杯食って行こうか」と、岡田が提議した。僕はすぐに同意して、一緒に蓮玉庵へ引き返した。その頃下谷から本郷に掛けて一番名高かった蕎麦屋である。
暖簾が掛かっていなかったら、廃屋にしか見えません。 -
薬種屋「守田宝丹」が残っていました。
「私の東京地図」より:仲町の角の薬種屋宝丹では、夏になると、間口の広い店先に、大きな樽に冷たい水を用意して、それに宝丹をそえて、暑気はらいに通行人の飲むにまかせてあった。
胃が弱かった夏目漱石は宝丹の愛用者でした。飼い猫がお腹をこわした時、水に溶かした宝丹を飲ましています。
「吾輩は猫である」にも登場します。"寒月と上野、池之端、神田あたりを散歩。池之端の待合の前で芸者が裾模様の晴れ着を着て羽根を突いていた。衣装は綺麗だが、顔はすこぶるまずい。・・・。宝丹の角を曲がると、また一人芸者が来た。これは背のすらりとした撫で肩の格好良く出来上がった・・・。白い歯を出して笑いながら・・・つい忙しかったもんだから、と言った。ただしその声は旅鴉のようにしゃがれていたので、折角の風采も下落したように感ぜられたから・・・。” -
「東京地図」より:芸者家町へ入る角の大きな小間物屋はちづかや、と言ったかしら。二階に有名な髪結いがいて、下谷の芸者がみんなこの二階に通った。私は小間物屋の飾窓に、鼈甲のかんざしをつけた鬘だの、花かんざしだの、半襟などにガラス越に見とれたものだ。
日和下駄をつっかけた買い物途中の小娘の稲子の可愛い姿が思われます。 -
堺屋も当時からある酒屋です。仲町は「雁」にも登場します。
「雁」より:さいわい夫が内にいるので、・・・、お常(末造の正妻)は女中を連れて広小路まで行った。その帰りに仲町を通り掛かると、背後から女中が袖をそっと引く。・・・。女中は黙って左側の店に立っている女を指さす。お常はしぶしぶその方を見て、覚えず足を駐める。そのとたん女は振り返る。お常とその女(お玉)とは顔を見合わせたのである。 -
組紐の道明(どうみょう)です。
「雁」より:お常が四五歩通り過ぎたとき、女中が囁いた。「奥さん、あれですよ。無縁坂の女は」・・・。酒屋の角を池の方へ曲がるとき、女中が機嫌を取るように云った。「ねえ、奥さん。そんなに好い女じゃありませんでしょう。顔が平べったくて、いやに背が高くて」「そんな事を言うものじゃないよ」と云ったきり、相手にならずズンズン歩く。女中は当てがはずれて、不平らしい顔をして附いて行く。 -
組紐。
ここで私の「森林太郎の散歩道」は終わります。だいぶ前からおかしくなりつつあった足腰ですが、腰の骨が突っ張って来て、今なら上野駅も近いので、止めるのなら今のうちだと思ったのです。毎回午後2時ころになるとこうなります。
岡田の散歩はこの先、湯島天神、切通し、麟祥院と続きます。 -
上野駅。
予報程には暑くならない一日でした。
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
上野・御徒町(東京) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
177