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朝鮮王朝(李氏朝鮮)は、統一国家として1392年から500年以上朝鮮半島を統治しました。多分に漏れず、長期政権の後半は腐敗にまみれた満身創痍の体で、ロシア等に付け込まれ最期は日本の保護国を経て植民地となります。<br />腐敗した宮廷/官僚機構にメスを入れて改革を行ったのが、第22代李祘(正祖)でした。政争に巻き込まれた父を暗殺された背景を持ち、父の名誉回復/軍事改革の一環として水原に要塞都市を建設し、遷都も考えていました。<br />世界遺産に登録された華城は、一見の価値ありです。<br />一筆書きの位置情報も参考にしてみて下さい。<br />

水原華城:朝鮮王朝の最期の輝きを感じられるスポット

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2025/02/27 - 2025/02/27

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gianiさん

朝鮮王朝(李氏朝鮮)は、統一国家として1392年から500年以上朝鮮半島を統治しました。多分に漏れず、長期政権の後半は腐敗にまみれた満身創痍の体で、ロシア等に付け込まれ最期は日本の保護国を経て植民地となります。
腐敗した宮廷/官僚機構にメスを入れて改革を行ったのが、第22代李祘(正祖)でした。政争に巻き込まれた父を暗殺された背景を持ち、父の名誉回復/軍事改革の一環として水原に要塞都市を建設し、遷都も考えていました。
世界遺産に登録された華城は、一見の価値ありです。
一筆書きの位置情報も参考にしてみて下さい。

  • ソウル/仁川から水原(スウォン)へは、各駅停車で1時間ほど。<br />水仁線は地下ホームに到着、駅前地下街を抜けて1kmほど歩くと華城に到着です。

    ソウル/仁川から水原(スウォン)へは、各駅停車で1時間ほど。
    水仁線は地下ホームに到着、駅前地下街を抜けて1kmほど歩くと華城に到着です。

  • 水原華城について学べる博物館<br />日本語解説は皆無ですが、辛うじて英語部分で幾分理解できます。<br />水原華城を建設したのは、李氏朝鮮第22代国王・正祖(在1776-1800)です。ハングルの祖である世宗と並ぶ学問好きかつ改革者です。

    水原華城について学べる博物館
    日本語解説は皆無ですが、辛うじて英語部分で幾分理解できます。
    水原華城を建設したのは、李氏朝鮮第22代国王・正祖(在1776-1800)です。ハングルの祖である世宗と並ぶ学問好きかつ改革者です。

    水原華城博物館 博物館・美術館・ギャラリー

  • 正祖は、横死した父思悼世子(国王ではない)の墓を1789年に水原へ移して、その周囲に5kmの城壁を築いて都市を造りました(1794-96)。<br />宮中の旧勢力排除を込めて遷都が計画されましたが、完成直後に正祖が死亡したために実現しませんでした。

    正祖は、横死した父思悼世子(国王ではない)の墓を1789年に水原へ移して、その周囲に5kmの城壁を築いて都市を造りました(1794-96)。
    宮中の旧勢力排除を込めて遷都が計画されましたが、完成直後に正祖が死亡したために実現しませんでした。

  • 中国から伝わった西洋の建築技術を輸入し、城郭の築造に石材とレンガが併用した実学重視の理想都市で、父親の命を奪い永らく言論政論を支配した老論派と真逆のものでした。実学を集大成した丁若鏞が、華城を設計しました。

    中国から伝わった西洋の建築技術を輸入し、城郭の築造に石材とレンガが併用した実学重視の理想都市で、父親の命を奪い永らく言論政論を支配した老論派と真逆のものでした。実学を集大成した丁若鏞が、華城を設計しました。

    水原華城 城・宮殿

  • 残念ながら展示室の撮影は禁止されています。<br />築城過程を全般的に見ることができる「華城築城室」と、「華城文化室」「屋外展示」より成ります。写真奥は、屋外展示のクレーン。城壁の石垣を築くために用いられた機械です。<br />では、現地を歩いてみます。

    残念ながら展示室の撮影は禁止されています。
    築城過程を全般的に見ることができる「華城築城室」と、「華城文化室」「屋外展示」より成ります。写真奥は、屋外展示のクレーン。城壁の石垣を築くために用いられた機械です。
    では、現地を歩いてみます。

  • 長安門<br />水原華城には東西南北4大門がありますが、北門の当たるこちらが正門です。ソウルから続く街道沿いに位置します。

    長安門
    水原華城には東西南北4大門がありますが、北門の当たるこちらが正門です。ソウルから続く街道沿いに位置します。

    長安門 史跡・遺跡

  • 外郭を潜ると、木造2階建ての門楼が。<br />永遠の平和を意味する長安の文字が。

    外郭を潜ると、木造2階建ての門楼が。
    永遠の平和を意味する長安の文字が。

  • 後ろを振り返ると、半円状のレンガ壁が。

    後ろを振り返ると、半円状のレンガ壁が。

  • 長安門を潜ると、城壁内の旧市街です。

    長安門を潜ると、城壁内の旧市街です。

  • こんな造りです。<br />曲線を組み合わせて、敵を窮地へ陥れます。<br />写真は「城役儀軌」という築城記録の挿絵です。

    こんな造りです。
    曲線を組み合わせて、敵を窮地へ陥れます。
    写真は「城役儀軌」という築城記録の挿絵です。

  • 内側から見ると、こんな感じ。

    内側から見ると、こんな感じ。

  • 門楼は朝鮮戦争で破壊され、1975年に再建されました。 写真は、休戦前年(1952年)の光景。

    門楼は朝鮮戦争で破壊され、1975年に再建されました。 写真は、休戦前年(1952年)の光景。

  • 横の階段を上ります。

    横の階段を上ります。

  • 長安門の外側にある半円城壁も歩けます。城門を二重に守る施設です。<br />朝鮮戦争で入口の上の壁と屋根がひどく損傷し、1975 年に修復されました。<br />

    長安門の外側にある半円城壁も歩けます。城門を二重に守る施設です。
    朝鮮戦争で入口の上の壁と屋根がひどく損傷し、1975 年に修復されました。

  • 五星池(図)<br />上の写真で屋根の部分には、五星池と呼ばれる水槽を設置しました。水槽には5つの穴が開いていて、火災が起きると穴から放水できる構造です。 長安門だけに見られるユニークな構造です。

    五星池(図)
    上の写真で屋根の部分には、五星池と呼ばれる水槽を設置しました。水槽には5つの穴が開いていて、火災が起きると穴から放水できる構造です。 長安門だけに見られるユニークな構造です。

  • 城壁の上からは、ソウルから長安門へ通じる街道が見えます。<br />韓国では南門が正門になりますが、華城では北門が正門という点も珍しいです。

    城壁の上からは、ソウルから長安門へ通じる街道が見えます。
    韓国では南門が正門になりますが、華城では北門が正門という点も珍しいです。

  • 城壁内は、南北にメインロードが通じていました。

    城壁内は、南北にメインロードが通じていました。

  • 精緻に復元されています。

    精緻に復元されています。

  • 北西敵台<br />長安門西側から門に接近する敵を監視して攻撃する防御施設で、城壁から張り出した配置です。 <br />

    北西敵台
    長安門西側から門に接近する敵を監視して攻撃する防御施設で、城壁から張り出した配置です。

    北西敵台 史跡・遺跡

  • 内部には、銃眼と大砲が設置されます。<br />先端の足元には、懸眼と呼ばれる穴が3つ並んでいます(後述)。

    内部には、銃眼と大砲が設置されます。
    先端の足元には、懸眼と呼ばれる穴が3つ並んでいます(後述)。

  • 北東敵台<br />北西敵台と対称で、左右から長安門を守ります。<br />隣(写真右奥)には、北東雉が付属しているのが特徴です。

    北東敵台
    北西敵台と対称で、左右から長安門を守ります。
    隣(写真右奥)には、北東雉が付属しているのが特徴です。

    北東敵台 史跡・遺跡

  • 懸眼<br />北東敵台/北西敵台の正面壁には、3本の窪みが縦方向へ走ります(「城役儀軌」の挿絵)。上部には穴が開いていて、敵台から攻撃ができるようになっています。現在は敵台の排水口になっています。<br />

    懸眼
    北東敵台/北西敵台の正面壁には、3本の窪みが縦方向へ走ります(「城役儀軌」の挿絵)。上部には穴が開いていて、敵台から攻撃ができるようになっています。現在は敵台の排水口になっています。

  • 北東敵台から見た長安門<br />北方向の最前衛まで張り出していることと、門の側面を完全にガードしていることが分かります。

    北東敵台から見た長安門
    北方向の最前衛まで張り出していることと、門の側面を完全にガードしていることが分かります。

  • 北東雉<br />地形の都合で北東敵台の部分で城壁が直角に折れているため、死角をカバーする目的で併設されました。「雉」は堡塁のことで、華城に10か所設置されました。キジが、隠れたり覗いたりするのが得意なことに由来します。左右の側面(左…北東敵台/右…城壁側面)の防衛を担当しました。懸眼も1本設置されています。<br />

    北東雉
    地形の都合で北東敵台の部分で城壁が直角に折れているため、死角をカバーする目的で併設されました。「雉」は堡塁のことで、華城に10か所設置されました。キジが、隠れたり覗いたりするのが得意なことに由来します。左右の側面(左…北東敵台/右…城壁側面)の防衛を担当しました。懸眼も1本設置されています。

    北東雉 史跡・遺跡

  • 城壁の下から見ると、北東雉と北東敵台の関係が分かります。右方向が北です。

    城壁の下から見ると、北東雉と北東敵台の関係が分かります。右方向が北です。

  • 南へ屈折した城壁が、再び東方向へ折れます。<br />

    南へ屈折した城壁が、再び東方向へ折れます。

  • 時計回りに城壁を一周します

    時計回りに城壁を一周します

  • 北東砲楼<br />砲楼は、外側に突き出た構造物の上に楼閣があり、屋根は左右非対称です。<br />内部には敵を攻撃するための大砲が設置されています。

    北東砲楼
    砲楼は、外側に突き出た構造物の上に楼閣があり、屋根は左右非対称です。
    内部には敵を攻撃するための大砲が設置されています。

    北東砲楼 史跡・遺跡

  • レンガで作られた3階建ての構造で、下の2階は大砲や銃を撃つことができるようにし、上層は敵を監視/攻撃できるように楼閣が建ちます。

    レンガで作られた3階建ての構造で、下の2階は大砲や銃を撃つことができるようにし、上層は敵を監視/攻撃できるように楼閣が建ちます。

  • 内部は、こんな感じ。<br />水原華城には、5つの砲楼があります。

    内部は、こんな感じ。
    水原華城には、5つの砲楼があります。

  • 地上から見ると、こんな感じ。<br />敵台や雉よりもしっかりとしています。

    地上から見ると、こんな感じ。
    敵台や雉よりもしっかりとしています。

  • 華城は、水原川も跨いでいます。

    華城は、水原川も跨いでいます。

    華虹門 (ファフォンムン) 史跡・遺跡

  • 北水門(華虹門)<br />7つの石造アーチがあり、中央のアーチは他のアーチよりも幅が広く、構造全体の中心を強調しています。橋の両端には八角形の石柱があり、その上には韓国語でイムギと呼ばれる神話上の龍のような生き物の像があります。アーチの上には、川を渡れるように石橋が架けられ、橋の上には木製の東屋が増築されました。

    北水門(華虹門)
    7つの石造アーチがあり、中央のアーチは他のアーチよりも幅が広く、構造全体の中心を強調しています。橋の両端には八角形の石柱があり、その上には韓国語でイムギと呼ばれる神話上の龍のような生き物の像があります。アーチの上には、川を渡れるように石橋が架けられ、橋の上には木製の東屋が増築されました。

  • 都市の北から南方向へ水が流れるのは、縁起の良い方向に運気が流れるようにという風水上の配慮です。ソウルの景福宮では、わざわざ人工の川を造っているくらいです。

    都市の北から南方向へ水が流れるのは、縁起の良い方向に運気が流れるようにという風水上の配慮です。ソウルの景福宮では、わざわざ人工の川を造っているくらいです。

  • 楼閣は1848年と1922年の洪水で流されましたが、1932年に再建されたものが今も残ります。

    楼閣は1848年と1922年の洪水で流されましたが、1932年に再建されたものが今も残ります。

  • こちらは、1922年の洪水後の光景。

    こちらは、1922年の洪水後の光景。

  • 龍淵<br />城壁の外にある池で、池の横にある龍頭岩に由来します。 水原川が水源で、 池の水が水原川へ流れる場所にはイムギが刻まれています。<br />イムギ:龍となれずに、川底に潜んでいる大蛇。

    龍淵
    城壁の外にある池で、池の横にある龍頭岩に由来します。 水原川が水源で、 池の水が水原川へ流れる場所にはイムギが刻まれています。
    イムギ:龍となれずに、川底に潜んでいる大蛇。

  • 北東隅亭(訪花随柳亭)<br />龍淵の写真で分かるように華城の高台に建てられており、軍事上の司令部の役割を果たしました。隅亭は、華城の四隅に配置されました。

    北東隅亭(訪花随柳亭)
    龍淵の写真で分かるように華城の高台に建てられており、軍事上の司令部の役割を果たしました。隅亭は、華城の四隅に配置されました。

    訪花随柳亭 (パンファスリュジョン) 史跡・遺跡

  • L字型の建物で、屋根のデザインが洗練された美しい姿です。

    L字型の建物で、屋根のデザインが洗練された美しい姿です。

  • 時経つうちに軍事的用途から景色を楽しむ場所へ変化し、訪花随柳亭と呼ばれるようになります。特に、龍淵に映る月は、華城で最も美しい景観とされます。<br />

    時経つうちに軍事的用途から景色を楽しむ場所へ変化し、訪花随柳亭と呼ばれるようになります。特に、龍淵に映る月は、華城で最も美しい景観とされます。

  • 華虹門から訪花随柳亭にかけては、城壁の上を歩けない構造になっています。周囲の公道には、1386年に昌城廃寺に建てられた板碑が移設されています。1965年に現在の場所に移され、それ以来保護用の楼閣に保管されています。板碑には、高麗時代の著名な仏教僧天熙(1307-82)が顕彰されています。

    華虹門から訪花随柳亭にかけては、城壁の上を歩けない構造になっています。周囲の公道には、1386年に昌城廃寺に建てられた板碑が移設されています。1965年に現在の場所に移され、それ以来保護用の楼閣に保管されています。板碑には、高麗時代の著名な仏教僧天熙(1307-82)が顕彰されています。

  • 北暗門 <br />暗門とは秘密の出入口で、敵に気づかれずに物資や食料を要塞内に運び込むための緊急通路でした。華城に5つある暗門は、すべてレンガ造りです。

    北暗門
    暗門とは秘密の出入口で、敵に気づかれずに物資や食料を要塞内に運び込むための緊急通路でした。華城に5つある暗門は、すべてレンガ造りです。

    北暗門 史跡・遺跡

  • 高台に築かれ、内外に石の階段が設けられていました。これらのレンガ壁は1796年に建てられた当時の構造をそのまま残しており、入口は1972年に修復されました。<br />

    高台に築かれ、内外に石の階段が設けられていました。これらのレンガ壁は1796年に建てられた当時の構造をそのまま残しており、入口は1972年に修復されました。

  • 暗門の上には半円状の壁と長方形の壁があり、敵に隠れて兵士が監視できる構造でした。<br />ここを以て北エリアは終わりです。

    暗門の上には半円状の壁と長方形の壁があり、敵に隠れて兵士が監視できる構造でした。
    ここを以て北エリアは終わりです。

  • 東北舖楼<br />城壁から張り出した部分に、兵士の見張り台として機能する楼閣が設けられています。全部で5ヶ所ある舗楼の中で、東北舖楼は、屋根の姿が船頭が被った「角巾」に似ているので、角巾台とも呼ばれます。

    東北舖楼
    城壁から張り出した部分に、兵士の見張り台として機能する楼閣が設けられています。全部で5ヶ所ある舗楼の中で、東北舖楼は、屋根の姿が船頭が被った「角巾」に似ているので、角巾台とも呼ばれます。

    東北舗楼 史跡・遺跡

  • 屋根の両端に載せた龍頭型の装飾瓦および壁と楼閣の間にあるレンガ造りの基壇は、ここだけの特徴です。東北舗楼は高台に位置し遠くを見渡せるので、舗楼の中でも最も重要なものでした。

    屋根の両端に載せた龍頭型の装飾瓦および壁と楼閣の間にあるレンガ造りの基壇は、ここだけの特徴です。東北舗楼は高台に位置し遠くを見渡せるので、舗楼の中でも最も重要なものでした。

  • 東北舗楼から下り坂です。下り切ったところに東暗門があり、再び上ります。

    東北舗楼から下り坂です。下り切ったところに東暗門があり、再び上ります。

  • 東暗門<br />秘密裏に物資や食糧を補給するために造られました。このように城壁から奥まったところにあります。

    東暗門
    秘密裏に物資や食糧を補給するために造られました。このように城壁から奥まったところにあります。

    東暗門 史跡・遺跡

  • 暗門の背後に道路が通ったために、1976年に階段と壁が作られました。オリジナルでは存在しない地形/構築物です。

    暗門の背後に道路が通ったために、1976年に階段と壁が作られました。オリジナルでは存在しない地形/構築物です。

  • 練武台<br />練武台は、軍事演習や戦闘において軍司令官が兵士を指揮する中枢です。華城には、西部と東部に各々1つずつ、計2つあります。

    練武台
    練武台は、軍事演習や戦闘において軍司令官が兵士を指揮する中枢です。華城には、西部と東部に各々1つずつ、計2つあります。

    練武台 (東将台) 史跡・遺跡

  • 練武台では日常的な軍事訓練が行われました。頂上に司令官が閲覧/指示するための楼閣、その下に3段の練武場がありました。最下層と中層の間には、馬や騎馬兵のためのスロープが設置されていました。

    練武台では日常的な軍事訓練が行われました。頂上に司令官が閲覧/指示するための楼閣、その下に3段の練武場がありました。最下層と中層の間には、馬や騎馬兵のためのスロープが設置されていました。

  • 1796年に華城が完成した際には、この中庭で2,700人以上の建設関係者のために盛大な宴会が開かれました。

    1796年に華城が完成した際には、この中庭で2,700人以上の建設関係者のために盛大な宴会が開かれました。

  • スケールの大きな施設だと感じます。

    スケールの大きな施設だと感じます。

  • 麓には、当時の弓射を体験できるスポットもあります。<br />遠くに物見の塔も見えます。

    麓には、当時の弓射を体験できるスポットもあります。
    遠くに物見の塔も見えます。

    弓道広場 アクティビティ・乗り物体験

  • 東北空心墩<br />字義は空洞の前哨地で、監視塔として用いられました。内部の階段と壁の矢狭間以外には設備がないため、このような名前が付けられました。

    東北空心墩
    字義は空洞の前哨地で、監視塔として用いられました。内部の階段と壁の矢狭間以外には設備がないため、このような名前が付けられました。

    東北空心ドン 史跡・遺跡

  • レンガ造り3階建ての円筒形で、上部には楼閣が設けられています。

    レンガ造り3階建ての円筒形で、上部には楼閣が設けられています。

  • 内部の螺旋階段の形状から、ほら貝の塔とも呼ばれます。朝鮮戦争で大部分が破壊され、1976年に再建されました。

    内部の螺旋階段の形状から、ほら貝の塔とも呼ばれます。朝鮮戦争で大部分が破壊され、1976年に再建されました。

  • 東北弩台<br />弩(機械式の弓)を撃つための施設で、北東/西の2箇所に設置されました。城の東側は広く平坦なため、この弓場からは周囲の景色を一望できます。周辺が平坦で十分な視界が確保できたので、高台を築かずに運用されました。

    東北弩台
    弩(機械式の弓)を撃つための施設で、北東/西の2箇所に設置されました。城の東側は広く平坦なため、この弓場からは周囲の景色を一望できます。周辺が平坦で十分な視界が確保できたので、高台を築かずに運用されました。

    東北弩台 史跡・遺跡

  • 敵の動向を知らせるために、旗信号を使用しました。

    敵の動向を知らせるために、旗信号を使用しました。

  • 東門が見えてきました。

    東門が見えてきました。

    蒼龍門 (華城東門) 史跡・遺跡

  • 東門<br />蒼龍門とも呼ばれ、東の守り神です。<br />門の真上にある木造楼閣と、門の周囲に巡らされた半円形のレンガ塀で構成されています。門の石壁には、建設に携わった人々の名が刻まれています。<br />四神:東…蒼龍/西…白虎/南…朱雀/北…玄武

    東門
    蒼龍門とも呼ばれ、東の守り神です。
    門の真上にある木造楼閣と、門の周囲に巡らされた半円形のレンガ塀で構成されています。門の石壁には、建設に携わった人々の名が刻まれています。
    四神:東…蒼龍/西…白虎/南…朱雀/北…玄武

    水原ワールドカップ競技場 スタジアム・スポーツ観戦

  • 門から続く道はソウルの東側と繋がっていましたが、交通の便は良くありませんでした。東門の北側の平地は練兵場として利用されました(現在はワールドカップ競技場<br />となっています)。

    門から続く道はソウルの東側と繋がっていましたが、交通の便は良くありませんでした。東門の北側の平地は練兵場として利用されました(現在はワールドカップ競技場
    となっています)。

  • 門の木造楼閣は、朝鮮戦争で破壊され、1976年に再建されました。 半円状の外壁の開口部分は端に位置し、動線を悪くすることで防衛力を高めました。

    門の木造楼閣は、朝鮮戦争で破壊され、1976年に再建されました。 半円状の外壁の開口部分は端に位置し、動線を悪くすることで防衛力を高めました。

  • 日本統治下の光景

    日本統治下の光景

  • 東一舖楼<br />兵士の見張り台として機能する楼閣が設けられています。防衛力よりも周囲の見晴らしを優先したので、壁がないのが特徴です。

    東一舖楼
    兵士の見張り台として機能する楼閣が設けられています。防衛力よりも周囲の見晴らしを優先したので、壁がないのが特徴です。

    東一舗楼 史跡・遺跡

  • 後ろを振り返ると、蒼龍門/東北弩台/東北空心墩/練武台などが見えます。

    後ろを振り返ると、蒼龍門/東北弩台/東北空心墩/練武台などが見えます。

  • 東一雉<br />敵を監視し、側面から攻撃するために設けられました。全部で10か所ありますが、ここは平野部に位置するために北東雉に次いで大きなスペースとなっています。

    東一雉
    敵を監視し、側面から攻撃するために設けられました。全部で10か所ありますが、ここは平野部に位置するために北東雉に次いで大きなスペースとなっています。

    東一雉 史跡・遺跡

  • 東砲樓<br />屋根のある3階は監視、1階と2階は大砲や銃で攻撃するために使用されました。

    東砲樓
    屋根のある3階は監視、1階と2階は大砲や銃で攻撃するために使用されました。

    東砲楼 史跡・遺跡

  • 中は、こんな感じになっています。

    中は、こんな感じになっています。

  • 東二雉<br />オリジナルの部分の石垣は経年で赤茶っぽい色で、1979年に復元された部分は白くなっています。

    東二雉
    オリジナルの部分の石垣は経年で赤茶っぽい色で、1979年に復元された部分は白くなっています。

    東二雉 史跡・遺跡

  • 東二雉からの眺め。<br />教会が見えます。

    東二雉からの眺め。
    教会が見えます。

    水原ジェリ教会 寺院・教会

  • 烽墩<br />狼煙台は山上に設置されるのが普通ですが、華城では見晴の良い東側に設置し、華城行宮ですぐに確認することができました。建物全体がレンガで作られ、五つ並ぶ烽火台は、南端は常に稼働し、状況に応じて数を増やし、非常時には五箇所とも煙を上げました。<br />日中は煙、夜は松明を使用して、ソウルに連絡する軍事通信制度。

    烽墩
    狼煙台は山上に設置されるのが普通ですが、華城では見晴の良い東側に設置し、華城行宮ですぐに確認することができました。建物全体がレンガで作られ、五つ並ぶ烽火台は、南端は常に稼働し、状況に応じて数を増やし、非常時には五箇所とも煙を上げました。
    日中は煙、夜は松明を使用して、ソウルに連絡する軍事通信制度。

    烽墩(のろし台) 史跡・遺跡

  • この烽火塔はレンガ造りの5本の煙突で構成されています。通常、南端の煙突は夜間に点灯し、無事を知らせていました。緊急事態が発生した場合は、5本すべての煙突に火が灯されることになっていましたが、実際にそうなることはありませんでした。

    この烽火塔はレンガ造りの5本の煙突で構成されています。通常、南端の煙突は夜間に点灯し、無事を知らせていました。緊急事態が発生した場合は、5本すべての煙突に火が灯されることになっていましたが、実際にそうなることはありませんでした。

  • 東二舗楼<br />狼煙台を守るために設置されました。東一舗楼と同じく、壁がなく柱だけなのが特徴です。<br />

    東二舗楼
    狼煙台を守るために設置されました。東一舗楼と同じく、壁がなく柱だけなのが特徴です。

    東二舗楼 史跡・遺跡

  • 東三雉<br />雉の中では最も幅が広く、懸眼が2つある唯一の雉で、突き出る長さが最も短い雉です。これらは、真下が急峻な崖という立地に起因します。

    東三雉
    雉の中では最も幅が広く、懸眼が2つある唯一の雉で、突き出る長さが最も短い雉です。これらは、真下が急峻な崖という立地に起因します。

    東三雉 史跡・遺跡

  • 東南角楼<br />四隅にある見張り施設で、下層は兵士/上層は士官が使用し、オンドルを備えていました。壁に弓を射る穴が開いています。南門や南方向を見下ろせる高台に位置し、それゆえに眺望を楽しむためにも使用されました。風水では安山の方角に位置します。

    東南角楼
    四隅にある見張り施設で、下層は兵士/上層は士官が使用し、オンドルを備えていました。壁に弓を射る穴が開いています。南門や南方向を見下ろせる高台に位置し、それゆえに眺望を楽しむためにも使用されました。風水では安山の方角に位置します。

    東南角楼 史跡・遺跡

  • 南水門<br />9つの石造アーチの上にレンガ造りの部屋を設置し、数百名の兵士が詰められるようにしてあります。アーチ部分は鉄柵を填めて、敵の侵入を防いでいます。

    南水門
    9つの石造アーチの上にレンガ造りの部屋を設置し、数百名の兵士が詰められるようにしてあります。アーチ部分は鉄柵を填めて、敵の侵入を防いでいます。

    南水門 史跡・遺跡

  • 写真は、1907年の光景。<br />1848年/1922年の洪水で流され、その度に修復されました。

    写真は、1907年の光景。
    1848年/1922年の洪水で流され、その度に修復されました。

  • 後ろを振り返ると、東南角楼が高台にあることが良く分かります。

    後ろを振り返ると、東南角楼が高台にあることが良く分かります。

  • 南水門と八達門の間は、様々な市場が林立する賑やかなエリアです。

    南水門と八達門の間は、様々な市場が林立する賑やかなエリアです。

    八達門市場 市場

  • 南東区画の断絶部分<br />八達門の東側にある全長184メートルの城壁は、1920年代に道路拡張のために撤去されました。八達門の東49mには南東舗楼、その26m先には南暗門、その東36mには南空心墩が建ちました。

    南東区画の断絶部分
    八達門の東側にある全長184メートルの城壁は、1920年代に道路拡張のために撤去されました。八達門の東49mには南東舗楼、その26m先には南暗門、その東36mには南空心墩が建ちました。

  • 壁が撤去される前の光景

    壁が撤去される前の光景

  • 八達門(南門)<br />1794年に建設されたものが残っています。四通八達へ通じるという意味を持つ八達門という名前で呼ばれます。北門(長安門)と対を為し、歴代の王が顕隆園へ参拝する際に通過しました。<br />

    八達門(南門)
    1794年に建設されたものが残っています。四通八達へ通じるという意味を持つ八達門という名前で呼ばれます。北門(長安門)と対を為し、歴代の王が顕隆園へ参拝する際に通過しました。

  • 門の外側には、半円状のレンガ壁で覆われ、防衛が強化されました。<br />内門と外門が直線上に配列されているのは、朝鮮では長安門と八達門だけです。通行量が多かったために、防衛力よりも利便性を重視したためです。

    門の外側には、半円状のレンガ壁で覆われ、防衛が強化されました。
    内門と外門が直線上に配列されているのは、朝鮮では長安門と八達門だけです。通行量が多かったために、防衛力よりも利便性を重視したためです。

    八達門 史跡・遺跡

  • 八達門は、華城では市街地(水原駅)から最もアクセスの良い場所で、近くには観光案内所があります。実は、ここでパンフレットを貰って観光を開始しました。

    八達門は、華城では市街地(水原駅)から最もアクセスの良い場所で、近くには観光案内所があります。実は、ここでパンフレットを貰って観光を開始しました。

    八達門観光案内所 散歩・街歩き

  • 南雉<br />斜面に設置されたために、10か所ある雉の中で幅と長さ共に最も短いです。

    南雉
    斜面に設置されたために、10か所ある雉の中で幅と長さ共に最も短いです。

    南雉 史跡・遺跡

  • 急斜面を登ると、南砲楼が見えます。

    急斜面を登ると、南砲楼が見えます。

  • 南砲楼<br />大砲を備えた施設で、5か所ある砲楼の中で一番小さく原形をとどめています。<br />大砲を据えて砲兵が詰めた下層の高さは1.7m、中層は1.25m、見張りと砲台を守るための射手/鉄砲手が詰めた上層(楼閣)は高さ3m以上あります。

    南砲楼
    大砲を備えた施設で、5か所ある砲楼の中で一番小さく原形をとどめています。
    大砲を据えて砲兵が詰めた下層の高さは1.7m、中層は1.25m、見張りと砲台を守るための射手/鉄砲手が詰めた上層(楼閣)は高さ3m以上あります。

  • 華城の外側から見ると、こんな感じ。

    華城の外側から見ると、こんな感じ。

  • 階段に沿って進んでいくと、楼閣の側面に突き当たります。右へ折れて、階段を下ります。

    階段に沿って進んでいくと、楼閣の側面に突き当たります。右へ折れて、階段を下ります。

  • 西南暗門の上に、西南舗楼が建つ特殊な構造です。<br />華城は右方向へ直角へ折れ曲がります。本線とは別に、左方向へ直角に支線が延びます。暗門と舗楼は分岐点に位置し、暗門は本線の防衛/舗楼は支線の見張りを強化しています。

    西南暗門の上に、西南舗楼が建つ特殊な構造です。
    華城は右方向へ直角へ折れ曲がります。本線とは別に、左方向へ直角に支線が延びます。暗門と舗楼は分岐点に位置し、暗門は本線の防衛/舗楼は支線の見張りを強化しています。

  • 西南暗門を潜って、支線(甬道)を進みます。

    西南暗門を潜って、支線(甬道)を進みます。

  • 甬道には左右に雉が張り出されて、防衛が強化されました。甬道東雉と甬道西雉です。<br />

    甬道には左右に雉が張り出されて、防衛が強化されました。甬道東雉と甬道西雉です。

    甬道東雉 史跡・遺跡

  • 終点が見えてきました。

    終点が見えてきました。

    甬道西雉 史跡・遺跡

  • 西南角楼<br />角楼は四隅に設置され、指揮官が状況を把握できるよう見晴らしの良い場所が選ばれました。床も一段高くなり、煉瓦敷です。ここは支線上に造られた5つ目の角楼です。<br />

    西南角楼
    角楼は四隅に設置され、指揮官が状況を把握できるよう見晴らしの良い場所が選ばれました。床も一段高くなり、煉瓦敷です。ここは支線上に造られた5つ目の角楼です。

    西南角楼 史跡・遺跡

  • 計画当初は甬道を建設する予定はありませんでしたが、八達山の地形を鑑みて追加で計画されたようです。正祖が完成した華城を視察した際には、ここからスタートしました。先端には、右端は正面へ、左端は左方向へ張り出しています。

    計画当初は甬道を建設する予定はありませんでしたが、八達山の地形を鑑みて追加で計画されたようです。正祖が完成した華城を視察した際には、ここからスタートしました。先端には、右端は正面へ、左端は左方向へ張り出しています。

  • 道を引き返します。

    道を引き返します。

  • 西南暗門を潜ると、本線です。

    西南暗門を潜ると、本線です。

  • 西三雉<br />比較的平坦な地形なので、4mほど城壁から突き出ています。

    西三雉
    比較的平坦な地形なので、4mほど城壁から突き出ています。

    西三雉 史跡・遺跡

  • 西舗楼<br />本線上に5か所あり、4か所が現存します。

    西舗楼
    本線上に5か所あり、4か所が現存します。

    西舗楼 史跡・遺跡

  • 西暗門<br />西将台に近いので、物資補給上重要な場所でした。<br />五星池などを設置し、他の施設の助けを借りることなく自衛できました。

    西暗門
    西将台に近いので、物資補給上重要な場所でした。
    五星池などを設置し、他の施設の助けを借りることなく自衛できました。

  • 城壁の外側から見た暗門。<br />外から門の存在が見えないように、巧みに隠されていました。

    城壁の外側から見た暗門。
    外から門の存在が見えないように、巧みに隠されていました。

    西暗門 史跡・遺跡

  • 西将台と西弩台(機械式の弓を射る場所)が設けられています。

    西将台と西弩台(機械式の弓を射る場所)が設けられています。

    西弩台 史跡・遺跡

  • 八達山の頂上に位置し、軍司令官が華城を見渡すのに最適の地です。<br />額の字は、正祖直筆です。

    八達山の頂上に位置し、軍司令官が華城を見渡すのに最適の地です。
    額の字は、正祖直筆です。

    西将台 史跡・遺跡

  • 眺めの良さが分かります。

    眺めの良さが分かります。

  • 弩台は八角形で、このように高い建物で、将台を護衛する役目も兼ねていました。

    弩台は八角形で、このように高い建物で、将台を護衛する役目も兼ねていました。

  • 城壁は、頂上から下降します。<br />この階段が、華城ウォークの中で一番ハードです。

    城壁は、頂上から下降します。
    この階段が、華城ウォークの中で一番ハードです。

  • 西二雉<br />当時の様子が良く残っており、壁部分は改修されていますが、土台部分はオリジナルのものです。<br />

    西二雉
    当時の様子が良く残っており、壁部分は改修されていますが、土台部分はオリジナルのものです。

    西二雉 史跡・遺跡

  • 西砲楼<br />斜面に位置するため、他4か所の砲楼よりも小ぶりになっています。

    西砲楼
    斜面に位置するため、他4か所の砲楼よりも小ぶりになっています。

    西砲楼 史跡・遺跡

  • 西一雉<br />通常は他の防衛施設とは100m以上離して設置しますが、隣の北西角楼までは僅か55mの距離です。これは、北西角楼の部分で城壁が大きく屈折しているからです。

    西一雉
    通常は他の防衛施設とは100m以上離して設置しますが、隣の北西角楼までは僅か55mの距離です。これは、北西角楼の部分で城壁が大きく屈折しているからです。

    西一雉 史跡・遺跡

  • この通り、近い距離関係です。

    この通り、近い距離関係です。

  • 西北角楼<br />下層部分は兵士が詰める部分で、レンガ造りでオンドルがありました。<br />上層は監視室で、当時は木壁があり、矢や銃のための穴が開いていました。<br />時経つうちに眺望を愛でる目的で使用され、壁が撤去されます。

    西北角楼
    下層部分は兵士が詰める部分で、レンガ造りでオンドルがありました。
    上層は監視室で、当時は木壁があり、矢や銃のための穴が開いていました。
    時経つうちに眺望を愛でる目的で使用され、壁が撤去されます。

    西北角楼 史跡・遺跡

  • 華西門と西北空心墩が見えます。共に、1796年のオリジナルの姿です。門は半円状の城壁で守られ(1934年修復)、動線が悪いのは防衛上の理由です。

    華西門と西北空心墩が見えます。共に、1796年のオリジナルの姿です。門は半円状の城壁で守られ(1934年修復)、動線が悪いのは防衛上の理由です。

    華西門 史跡・遺跡

  • 実際は華城の北西方向にあります。長安門/八達門と比べると小ぶりです。

    実際は華城の北西方向にあります。長安門/八達門と比べると小ぶりです。

  • 門上の楼閣は平屋で、中も入れます。

    門上の楼閣は平屋で、中も入れます。

  • 西北空心墩<br />階段と矢狭間以外何もない空洞なので、このような名前が付きます。見張り塔で、3層目に楼閣があります。空心墩は3か所あり、2箇所が現存します。

    西北空心墩
    階段と矢狭間以外何もない空洞なので、このような名前が付きます。見張り塔で、3層目に楼閣があります。空心墩は3か所あり、2箇所が現存します。

    西北空心トン (ソブクコンシントン) 史跡・遺跡

  • 北舗楼<br />他4か所の舗楼と比べて大きな建物です。目の前が平坦で視界が良く、軍事上多くの兵士を詰める必要があったからです。

    北舗楼
    他4か所の舗楼と比べて大きな建物です。目の前が平坦で視界が良く、軍事上多くの兵士を詰める必要があったからです。

  • 北隠溝<br />城郭外への排水を容易にするために、目立たない場所に設置された水路/水門を指します。華城には、南北に1つずつ計2つの隠溝がありました。北隠溝は、北舗楼の東側の城壁の下に設置され、城郭内の排水を北池に集める目的でした。1970年代の発掘調査で北隠溝の位置と構造が確認されましたが、再建されませんでした。

    北隠溝
    城郭外への排水を容易にするために、目立たない場所に設置された水路/水門を指します。華城には、南北に1つずつ計2つの隠溝がありました。北隠溝は、北舗楼の東側の城壁の下に設置され、城郭内の排水を北池に集める目的でした。1970年代の発掘調査で北隠溝の位置と構造が確認されましたが、再建されませんでした。

  • 城内には、北池/上南池/河南池/上東池/河東池がありました。  「城役儀軌」によると、北地は城外溝の水を引き寄せた池で、干ばつでも干上がりませんでした。 北池は一辺の長さが36mの正方形で、深さは1.5mでした。

    城内には、北池/上南池/河南池/上東池/河東池がありました。 「城役儀軌」によると、北地は城外溝の水を引き寄せた池で、干ばつでも干上がりませんでした。 北池は一辺の長さが36mの正方形で、深さは1.5mでした。

  • 全体図の拡大部分<br />池と水路が描かれています。水原市は水原華城の旧景観を回復するために福祉復元事業を推進している。2020年の発掘調査で約1.5m下で黒褐色の粘土層と砂利が均等に敷かれた池底が確認されました。

    全体図の拡大部分
    池と水路が描かれています。水原市は水原華城の旧景観を回復するために福祉復元事業を推進している。2020年の発掘調査で約1.5m下で黒褐色の粘土層と砂利が均等に敷かれた池底が確認されました。

  • 北西砲楼<br />5つある砲楼の中で、一番高い建物。写真では、高層にある見張り台と矢/銃のための細長い穴が見えます。<br />これで、すべてのスポットを見て回りました。

    北西砲楼
    5つある砲楼の中で、一番高い建物。写真では、高層にある見張り台と矢/銃のための細長い穴が見えます。
    これで、すべてのスポットを見て回りました。

    北西砲楼 エンターテイメント

  • 華城行宮<br />遷都は叶いませんでしたが、離宮の一つであると同時に地方政府も置かれていました。

    華城行宮
    遷都は叶いませんでしたが、離宮の一つであると同時に地方政府も置かれていました。

    華城行宮 城・宮殿

  • 夜の八達門<br />ソウルの南大門/東大門と並ぶ美しさ。ライトアップも乙です。<br />観光案内所では、夜景がおすすめだから是非宿泊して!と熱く勧められたのも納得です。

    夜の八達門
    ソウルの南大門/東大門と並ぶ美しさ。ライトアップも乙です。
    観光案内所では、夜景がおすすめだから是非宿泊して!と熱く勧められたのも納得です。

  • 水原華城博物館の無料エリアには、正祖が母の還暦を華城で祝うために仕立てた大行列が描かれています。

    水原華城博物館の無料エリアには、正祖が母の還暦を華城で祝うために仕立てた大行列が描かれています。

  • 高麗に取って代わった朝鮮王朝は、国教を仏教から儒教へ変えました。<br />

    高麗に取って代わった朝鮮王朝は、国教を仏教から儒教へ変えました。

  • 徳の中でも、親へ示す孝は主君へ示す忠よりも重視されました。

    徳の中でも、親へ示す孝は主君へ示す忠よりも重視されました。

  • 正祖は水原に華城を建設するだけでなく、周囲の農村に溜池や用水路を整備することで一大穀倉地帯へ変え、水原を支える経済基盤を整備しました。思い付きの遷都ではなく、長期的視点で開発事業を進めました。華城築城室では、そんな展示が行われていました。

    正祖は水原に華城を建設するだけでなく、周囲の農村に溜池や用水路を整備することで一大穀倉地帯へ変え、水原を支える経済基盤を整備しました。思い付きの遷都ではなく、長期的視点で開発事業を進めました。華城築城室では、そんな展示が行われていました。

  • 正祖の前後の歴史を見ると、朝鮮が他国の植民地になったのは、身から出た錆だと痛感させられます。江戸幕府も行き詰っていたとはいえ、支配層が米を資本とするシステムに対し、社会が貨幣経済に代わったことが根本原因であり、幕府の官僚体制自体はそれなりに健全だったために、黒船襲来に対応し、明治政府へバトンタッチする余地を生み出したのだと感じます。<br />※植民地主義を肯定しているわけではありません。

    正祖の前後の歴史を見ると、朝鮮が他国の植民地になったのは、身から出た錆だと痛感させられます。江戸幕府も行き詰っていたとはいえ、支配層が米を資本とするシステムに対し、社会が貨幣経済に代わったことが根本原因であり、幕府の官僚体制自体はそれなりに健全だったために、黒船襲来に対応し、明治政府へバトンタッチする余地を生み出したのだと感じます。
    ※植民地主義を肯定しているわけではありません。

  • 正祖は西洋の技術を積極的に取り入れた半面、最終的にキリスト教徒を迫害したことは清や日本と共通しています。

    正祖は西洋の技術を積極的に取り入れた半面、最終的にキリスト教徒を迫害したことは清や日本と共通しています。

  • ソウルだけではわからない空気を感じられる旅でした。<br />次の旅行記↓<br />https://4travel.jp/travelogue/11973127

    ソウルだけではわからない空気を感じられる旅でした。
    次の旅行記↓
    https://4travel.jp/travelogue/11973127

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