2025/02/18 - 2025/02/18
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Yukinoさん
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広島1人旅の3日目は、1日中広島市内の被爆建物等を見に行きました。
1日乗車パスを利用して広電に乗りまくり(笑)
あらかじめ調べてあった被爆建物を順に巡りましたが、かなり広範囲で被害があります。
途中、広島市内で人気の尾道ラーメンを食べて、夕方には広島で有名なバターケーキを食べさせてくれる喫茶店へ行きました。
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【3日目】
おはようございます!
広島1人旅の3日目は、広島市内の被爆建物を巡りたいと思います。 -
1日使用できる乗車券を購入しました。
「MOBIRY TRAVEL」のデジタルチケット♪
2025年2月の段階では、24時間乗り放題で700円!
電波が悪かったり、Wi-Fi拾うと画面が出なくてワチャワチャするし、乗務員がいる出口しか降りられないけれど、とにかくお得です!
デジタルの良いところは、使用した時間から24時間使えるところ!紙のチケットですと、その日のみ有効なので…
その他、平日のみ安いチケットとかあるので、広島観光する方は使った方がいいと思います♪
早速、デジタルチケットを使用して最初の目的地へ行きたいと思います。 -
「平和の時計塔」
1967年(昭和42年)健立
原爆が投下された午前8時15分に毎日チャイムが鳴ります。
この時計塔は、第二次世界大戦中ほ労働力不足を補うため、勤労奉仕に動員され戦禍に倒れた学徒と、原爆の犠牲となった学徒を含めた約1万人の霊を慰めるため建立されました。
ここから少し歩いて移動します。 -
「広島原爆爆心地/島病院」
1933年(昭和8年)開院 -
【説明板】より
テニアン島から飛来した米軍機B-29「エノラ・ゲイ号」によって人類史上最初に投下された原子爆弾は、この上空約600メートルでさく裂しました。爆心直下となったこの一帯は約3,000度~4,000度の熱線と爆風や放射線を受け、ほとんどの人びとが瞬時にその生命を奪われました。時に1945(昭和20)年8月6日午前8時15分のことでした。
【原爆さく裂の瞬間】
T字型の相生橋を投下目標にしたとされる原爆は、島病院の上空約600mで炸裂しました。さく裂後、中心温度がセ氏数百万の小型の太陽ともいえる火球が発生しました。1秒後には半径200mを超える大きさとなり、爆心地周辺の地表面の温度は3,000~4,000度にも達しました。爆心地から100m地点での爆風は秒速約280mでした。(鉄の溶ける温度は約1,500度、太陽の表面温度は約6,000度)
【爆心地の推定】
熱線による影の方向を基礎データとし、その方向を地図上に落とし、交差する地点を爆心地としました。
【島病院の被災状況】
被爆当日、島病院の院長(島薫氏)は出張診療で不在だったため難を免れました。建物は瞬時に壊滅し、約80人と推定される患者・看護婦などの病院内にいた人は全員が亡くなり、姿は跡形もなかったといいます。
言葉になりませんでした。
次の場所に移動します。 -
「広島原子爆弾投下照準点/相生橋」
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広島市への原子爆弾投下の際には、この「T字型の橋」が目標点になりました。
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明治初期に架けられた橋で、1938年(昭和13年)から木橋の撤去を開始。1940年(昭和15年)に完了し、現在の「T字型」となりました。
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被爆当日は、この橋付近に居た人々がほぼ即死状態で大勢亡くなっており、元安川下流側で毎年8月6日夜に犠牲者を弔う灯篭流しが行われているそうです。
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2つの橋が「相合う」ことから「相生橋」と名づけられ、相生橋のT字型という特徴は上空からも非常に目立つことに加え、主要軍事施設近くということから、原爆投下の際に目標点とされました。
世界的に見てもT字型の橋は珍しいそうですね。
色々と考えさせられる旅になります。 -
右側の通りは電車が通っている通りで、左側に見える通りが、現在の平和公園へ続く橋になっています。
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下にも降りられそうですね。
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これ、もしかして昔の橋の1部でしょうか?
調べていないので分からないのですが… -
右側には最初に行った「平和の時計塔」が見えています。
次へ向かいます。 -
「被爆建物/原爆ドーム」
爆心地からの距離:160m
遠い記憶にある原爆ドーム。ようやく来る事が出来ました。 -
海外からの観光の方は、ここで説明を受けていましたね。
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原爆ドームの細かな説明書きがあります。
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夕方に見えますが、朝の8時過ぎでセピア色に写っていますね。
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少し雲があるからか、朝日が丁度そう見せているのかもしれません。
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生々しさが伝わります。
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中に入る事は出来ませんが、柵越しで撮影した原爆ドームはより生々しく感じます。
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鉄筋のお陰でかろうじて建物は残りましたが、ボロボロです。
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素敵な建物だったんだろうなぁ。
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当時の建物としては、かなりハイカラだったと思います。
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ドーム型の屋根も鉄筋を残して吹っ飛びました。
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私はこの真下で空を見上げていた記憶がありました。
空はもっと濃い青だった…
でも、中に入る事も出来ないし、何より初めて広島に来ました。 -
次は平和公園に行きますが、川沿いから見る原爆ドームはどこか寂しげに見えました。
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こちらにも原爆ドームの説明書がありました。
さて、平和公園内を見てまわりたいと思います。 -
「原爆供養塔」
1946年(昭和21年)健立 -
広島市の公式ホームページより
世界最初の原子爆弾の投下(昭和20年8月6日午前8時15分)による犠牲者数万柱の遺骨はここに納められました。爆心地に近いこの地では多数の遺体が収容され、火葬が行われた場所です。
被爆直後、爆心地に近い慈仙寺(現在の原爆供養塔付近)の境内は臨時火葬場となり、そこには、氏名、年齢、性別などほとんどわからない痛ましい無数の死体が運ばれ火葬されました。
この供養塔建設後の昭和22年頃から、次第に市内の復興が始まり、道路を設けたり家を建てたりするところから遺骨が発見され、それらの遺骨は供養塔に届けられました。 -
私には被爆した身内は1人もいませんが、人類史上初めて原爆の犠牲になった方々に手を合わせたくて向かいました。
原爆犠牲者のご冥福をお祈りいたします。 -
「広島平和都市記念碑/原爆死没者慰霊塔」
「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませんから」
原爆により亡くなった魂を雨から守るために、アーチ型の屋根になっています。
広島市へ行ったら絶対に訪れたい場所でしたが、それは観光と言うだけではなく子どもの頃からの記憶にあります。
現在はとても美しい場所で、80年前にこの場所が地獄と化したとは想像も付きませんでした。
現在の広島は大都会となって復興し、美しい街になっています。 -
「被爆樹木/アオギリ」
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爆心地から約1.3km離れた、中区東白島町の広島逓信局(現在の中国郵政局)の中庭にあった木で、ほぼ焼け落ちたのにも関わらず翌年の春に新芽をつけました。
これって凄い事です!!
この生命力に感動して見に行きました♪ -
「被爆建物/レストハウス」
爆心地から170m
1929年(昭和4年)竣工 -
レストハウスは、爆心地から2番目に近い現存する「被爆建物」です。
大正屋呉服店だったこちらの建物は、戦時体制によって1943年(昭和18年)12月に発令された繊維統制令により呉服店は閉鎖、1944年(昭和19年)6月に、経済活動を統制することを目的とした国策の統制会社である広島県燃料配給統制組合が建物を取得し、「燃料会館」と呼ばれるようになりました。 -
当時としては珍しい鉄筋コンクリートの建物だった為、内部や地下は全焼したものの基本的な形は残ったそうです。
レストハウスには地下から3階まで展示スペースがあります。 -
3階から見ていきたいと思います。
3階の展示室には「旧中島地区」の資料を見る事が出来ます。 -
呉服店の時の写真になります。
角が入口の建物は大正時代からの建造物に多く見られますが、オシャレですね。 -
レストハウスの展示室は、無料なのに人が少なくて静かに見学する事が出来ます。
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Vになった川の中央にあるのが、中島地区で現在の平和記念公園です。
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右側の直線道路とそこから中島地区に繋がるT字の橋が「相生橋」になります。
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2階には喫茶ホールがあり「被爆したピアノ」が展示してあります。
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このピアノは爆心地から2.5kmの、河本明子さんの自宅にあったものですが、明子さんは原爆投下時に爆心地から1kmのところに居た為、19歳で被爆死されました。
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爆風によりついた傷がありました。
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1階には、建物の建設当時につくられた地下へ通じる階段がそのまま残されています。
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降りることは出来ませんが、見る事は出来ます。
煤けて見えるのは、原爆の爆風の跡でしょうか。 -
そして地下ですが、被爆した当時の状況を出来るだけ残した「保存展示」を見学する事が出来ます。
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被爆直後の写真です。
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原爆投下時には、37名の方がこの建物で働いていましたが、偶然地下にいた野村英三さん(享年82年)だけが奇跡的に生き残りました。
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こちらも人が少ないので、ゆっくり見学する事が出来ます。
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地下というだけで、息苦しさはありますが、少し不思議な空間です。
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1階から見れる階段だと思いますが、隙間から見させてもらい、ここからは入る事は出来ません。
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床は貼り直しされていますが、当時の状態を見る事が出来ます。
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天井はそのまま見る事が出来ますね。
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爆心地から170mの距離での生存率はほぼ0だと思いますが、本当に奇跡ってあるんだなと思いました。
何でしょうね…色々と複雑な気分になります。
レストハウスで働いていた36名の皆様のご冥福をお祈りいたします。
一旦、ランチタイムにしたいと思います。 -
「原爆ドーム前駅」から「横川一丁目駅」まで来ました!
初めての尾道ラーメン!!を食べる為です♪ -
「尾道ラーメン 味億」
尾道まで行き、本場の尾道ラーメンを食べたかったのですが、時間的に難しい…
ならば!という事で、広島市内で人気の尾道ラーメンを食べに行きました。 -
気になるメニューもありますが、とりあえず初めてなので普通にラーメンをオーダー ♪
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おぉ~!!
もう、美味しそう!!
濃すぎない醤油味なのですが、どこかほんのり甘味を感じる優しい味に、ガツンと背脂が美味しいです!
背脂は、揚げてあるのかな?って感じの食感もあり、かなり好みです。 -
麺も細めで好みでした!
いやぁ~!大盛りでも良かったかも(笑)
かなりお気に入りになりました ♪ -
10分ほど広電に乗り、また「本川町駅」まで行き、午後も被爆建物をまわりたいと思います。
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「被爆建物/本川小学校平和資料館」
爆心地から410m
1928年(昭和3年)本川尋常高等小学校として開校 -
鉄筋コンクリート造の校舎は、原爆によって外形だけを残して完全に焼失し、被爆後は被災者の救護所として使われました。現在は校舎の一部が平和資料館として使用されています。
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慰霊碑もあります。
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1988年(昭和63年)に平和資料館として開館
原爆の被害を受けた校舎の一部がそのまま保存されており、この建物自体が戦争の悲惨さと平和の大切さを直接見る事ができます。 -
被爆建物内にある資料館は殆どが無料で開放されており、あの日何があったのかを知りたくて行ってみました。
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こんなに小さな子たちまで…と複雑な気持ちになります。
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建物の内部は、鉄筋コンクリートの部分がかろうじて残り、それ以外のものは跡形もなく一瞬で吹き飛んだので、約400人の児童、10人の教職員など多くが犠牲となりました。
犠牲になった方々にご冥福をお祈りいたします。 -
恐らく、写真では伝わらない悲惨さがここにはあります。
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焼け焦げた配電盤。
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焼けたような、溶けたような感じです。
次は「本川町駅」から「袋町駅」まで広電に乗って移動します。 -
「被爆建物/旧日本銀行 広島支店」
爆心地から380m
1936年(昭和11年)開業 -
被爆当日は、負傷者の臨時病室として使われ、被爆から2日後の8月8日には被災した市民の為に、支払い業務を開始しました。
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広島に現存する被爆建物の中でも抜群に保存状態がよい建物となっています。
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一部資料室となっている事と、中々銀行の内部を見る事が出来ないので寄ってみましたが、何だかとてもハイカラでオシャレです。
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この様な作りの階段はとても好きです ♪
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時代的なものなのか、銀行内部特有の物なのか、何のためにあるのか分からないものもありました。
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これもなんでしょうね?
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建物内は撮影禁止のところも多いので、写真は余りありませんが、支店長室には原爆により窓が飛び散り、それによってできた壁の傷が生々しく残っていました。
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これが、原爆の爆風によりガラスが飛び散って付いた傷です。
銀行内で亡くなられた犠牲者の方々に、ご冥福をお祈りいたします。
次は歩いて移動します。 -
「被爆建物/袋町小学校平和資料館」
爆心地から460m
1873年(明治6年)就将館として開校 -
開校から何度も名前を変えている学校ですが、原爆投下時の名は「袋町国民学校」
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広島市公式ホームページより
鉄筋コンクリート造3階建の校舎は、原爆によって外形だけ残して焼失しました。焼け残った校舎は、避難場所や救護所として使用され、児童・教職員や地域の人々の安否を尋ねる場となりました。 -
この学校は爆心地に最も近い学校の1つで、約160人の生徒と教師が巻き込まれ、建物は大きな被害を受けました。
1937年(昭和12年)に現存する校舎の西側に増築された鉄筋コンクリートの建物が残り、現在は平和資料館として無料で見学させて貰えるという事だったので伺ってみました。 -
原爆当時のまま残されています。
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これは、校舎で使用されていたドアですが、写真より実物の方が生々しいです。
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高熱を浴びたのが分かります。
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爆風により割れた窓。
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爆風で破けた太鼓です。
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ガラスで反射していて見えにくいですが、文字が彫られています。
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黒く焼けた壁は行方不明者を探すための掲示板です。
原子爆弾が投下されたのは8時15分
子供たちが登校している時間です。何とも言えない気持ちになりました。
被害に遭われた方々にご冥福をお祈りいたします。
次は、広電に乗って少し離れた場所に移動します。 -
「御幸橋駅」に到着しました。
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「御幸橋」
爆心地から2,270m
1931年(昭和6年)竣工
御幸橋にある写真は、8月6日の原爆投下後9時から11時頃のもので、当日の御幸橋より爆心地に近い写真はこれ以外に現存しないそうです。 -
京橋川に架かるこの橋は、広島で一番長い橋だったので通称「ながはし」とも呼ばれていました。
原爆投下後「御幸橋」には、負傷や大火傷をした大勢の人々が逃れてきた場所で、生と死が入り混じった場所でもあります。 -
髪の毛は縮れて服はボロボロ、体も火傷を負い、とにかく安息の地と水を求めて辿り着いた場所だったのかもしれません。
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何でしょう…想像出来ますかね。
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今は綺麗な橋と川があって、とても静かなんです。
多分、原爆が投下されボロボロになりながらも生き延びた人々が逃れてきた場所なんだと重く受け止めなければ、ここはただの橋で、私はわざわざ路面電車に乗ってまで見に行かないのです。 -
平和過ぎる…
今一度「生き抜くとは何か」と考えさせられました。
少し疲れたので、この後は市内に戻って、ティータイムにします。 -
「フルフル」
1975年(昭和50年)創業
「八丁堀駅」で下車して少し歩きました。 -
モーニングや自家製プリン、フルーツジュースで大人気の喫茶店
喫茶店と言っても、日本の純喫茶と違いヨーロッパ調でとても素敵なお店です。 -
今回、こちらにお邪魔したのは、広島で有名な「バターケーキ」が食べられるから!
広島には、朝一から並ばないと購入出来ないバターケーキ屋さんがありますが、ホール販売のみ…
味が分からない上に、そんなに食べられ無い&持って帰るの大変。
ってな訳で、珈琲と共に少し食べてみたいを叶えてくれるこちらのお店へ来てみました! -
バターケーキは、スポンジとも違うし、マドレーヌとも違うし、フィナンシェとも違う。
食感は、私が知る中で「治一郎のバウムクーヘン」に似ていて、そこから卵を引き算して、バターを足し算した感じかなぁ。
シンプルな洋菓子が好きな私には、とても美味しく感じました♪
ただ、朝から並んで購入するかと言えば…う~んどうでしょうか(笑)
さて、疲れたのでホテルに戻りたいと思います。 -
ホテルに戻り、小腹が空いたので前日購入した呉市の老舗パン屋「メロンパン」のパンを食べました。
1936年(昭和11年)創業
大人気の「ナナパン」と「メロンパン」を購入! -
ナナパンですが、パッと見は大きなコッペパン(笑)
-
実際に、コッペパンにチョコクリームが入っているかなりシンプルなパンでした。
うん…まぁ…普通に美味しいかな(笑) -
こちらは、メロンパンの「メロンパン」(笑)
形が昭和のオムライスを作る型(分かるかな?)です。 -
ってか、重っ!
-
重さの原因はクリームかな!
このクリームが、何というか…香料なのかなぁ…結構辛いです(笑)
後は、馴染みのない味という事と、私には甘すぎたので、一口でご馳走様です。明日食べます(笑)
今日も結構歩いたので、この後どこかに食べに行くという気力は出ませんから、近くのコンビニでご飯を買いに行こうと思います。 -
本日のコンビニディナー(笑)
廊下に電子レンジがあるので、温めて食べました。
お風呂に入って早々に寝たいと思います!
つづく
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旅行記グループ 広島4泊5日の旅!広島-呉を巡る1人旅 ♪
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