2025/02/16 - 2025/02/16
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gianiさん
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加藤清正公の子息改易に伴い、熊本へ移った細川氏の後に入った小笠原忠真は、家康の曾孫でした。小笠原家は九州探題を自負し、宮本武蔵の息子伊織の家系が代々筆頭家老を世襲しました。九州に目を配っていたら、関門海峡を挟んで隣接する長州藩が明治維新を成し遂げる際に小倉藩が辿った運命を辿る旅です。
前編(細川氏)はコチラ↓
https://4travel.jp/travelogue/11936261
- 旅行の満足度
- 5.0
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まずは小倉城内の展示でお勉強。
小倉育ちの草刈正雄さんのナレーションによる歴史ムービーも見ごたえがあります。今回は、1632年の小笠原忠真小倉移封から始まります。
※熊本藩主加藤忠広(加藤清正の三男)の改易に伴い、細川忠利が熊本/小笠原忠真が小倉へ加増移封となりました。小倉城 名所・史跡
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小笠原家は、武田家が滅びた際に家康に仕えた家系で、武家礼法の指南役として知られる家系でした。小笠原秀政は初代松本藩主です。関ケ原以前からの徳川家の家臣、いわゆる譜代大名です。大坂夏の陣で戦死し、跡を継いだ忠真は、明石10万石へ加増されます。
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小笠原忠真(ただざね 1596-1667)
小笠原秀政の次男で、1632年に明石10万石から5万石の加増で小倉入りします。九州の咽頭と呼ばれる小倉で、九州の外様大名を監視する重大な立場に就きました。 -
こちらは、忠真が1650年にしたためた書簡。宛先は肥後藩の筆頭家老松井興長です。薩摩藩の動向をしっかりと監視するようにという内容です。
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相関図
小笠原忠真は、曽祖父に信長と家康というサラブレット家系です。先に小倉藩主だった細川忠利は忠真の妹を娶っているので、義弟の関係にあります。忠利は肥後へ発つ際に城内の薪等を残したので、後に入った忠真はとても感謝しています。
※細川忠興が小倉入りする際、黒田長政は年貢米を根こそぎ福岡へ持ち去ったので、両家には260年間因縁が遺りました。 -
大坂夏の陣(1615)
豊臣家が滅亡した戦いで、歴代の小倉庵主が相見えます。松本藩主小笠原秀政と長男忠脩/次男忠真が参戦しますが(青丸)、毛利勝永隊(赤丸)によって秀政と忠脩は命を落とします。毛利勝永の父勝信は、豊臣政権で小倉城主でしたが関ケ原で西軍に組して改易されていました。
細川忠興隊は毛利隊を追跡するも、無事大坂城まで逃げ切ります。忠興の次男興秋は、弟が家督を継いだことが不満で豊臣方として参戦し、戦後忠興の命で切腹します。 -
交通都市
1635年に参勤交代が定められると街道整備に拍車がかかります。小倉の常盤橋は5つの街道の基点となり、九州のハブとなります。5つの街道とは、時計回りに門司往還/中津街道/秋月街道/長崎街道/唐津街道です。 -
長崎街道
江戸と長崎を結ぶルートの一翼で、小倉も多くの外国文化が通過します。その一つが砂糖です。写真は落雁/羊羹で名を馳せた福田屋の暖簾で、1975年まで製造していました。 -
小倉縮
小倉織が綿織物で庶民にも広まったのとは対照的に、小倉縮は絹織物で進物に用いられた高級品で忠真が明石から持ち込んだ名産品です。 -
黄檗宗
中国伝来の禅宗で、明の滅亡で長崎へ亡命した隠元の高弟の即非を忠真が引き留め、1665年に福聚寺を開きました。小笠原家の菩提寺になっています。 -
右は忠真の書で、為政の難しさを謙虚に認める内容で、仏教への素養の深さを反映する文章です。有名な肖像画は死後に描かれたもので、添え書きには善政を施し、仏教を保護したことが記されています。
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宮本伊織
宮本武蔵の養子で、1626年に明石で小笠原忠真に仕官、20歳で家老になります。島原の乱の軍功で、筆頭家老となります。家光も絶大な信頼を寄せた人物です。武蔵も彼を頼って1632-39年に小倉へ滞在しました。
幼少の細川綱利が肥後藩を継いだ際には伊織が後見人を務めるなど、細川家との関係にも大きな役割を果たしました。 -
小笠原騒動
第5代藩主小笠原忠苗(ただみつ)は、ひっ迫した財政を立て直すべく犬甘知寛を起用して借金を完済しますが、領民は過重な負担に耐え切れず犬甘罷免と減税を直訴します。藩は犬甘を獄死させ、藩主忠苗隠居という事態になります。一揆に近い内容から改易は必死でしたが、大坂夏の陣で秀政/忠脩が命を懸けて家康を守った過去ゆえに不問とされました。
お家騒動は、これだけではありませんでした。 -
白黒騒動(1814)
第6代藩主小笠原忠固は若くて有能な藩主で、幕閣の頂点を目指すべく猟官運動を展開します。工作資金で貯蓄を使い尽くしたうえに、藩士の給料を減俸します。関係した五人の家老と藩士の利害が激突し、4家老/藩士360名が黒崎(福岡藩領)へ脱藩するあるまじき事態に進展します。この度も、秀政の勲功を引き合いに改易は免れ、藩主の謹慎100日で片が付きました。
※白は城を変換、黒は黒崎をあらわします。 -
1837年には出火で城が焼け、財政難から天守閣は再建されませんでした。
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1865年
第9代藩主小笠原忠幹(ただよし)の頃、関門海峡を挟んで隣接する長州藩は倒幕路線を進み、小倉藩も海防強化のために3月に中古の蒸気船(軍艦)を5万両で購入します。飛龍丸と名付け、翌年に実戦投入されます。
9月には藩主忠幹が死去しますが、跡継ぎの忠忱(ただのぶ)が4歳だったために死を伏せます。 -
小倉口の戦い(1866年)
幕府の第二次長州征討では4方向から長州藩を攻撃しますが、その一つが小倉口の戦いでした。老中小笠原長行(唐津藩)をトップに九州諸藩が小倉に集結し、小倉藩領が戦場となりました。 -
田野浦では長州軍の上陸を許し、大里の戦闘では飛龍丸が活躍するも、小笠原直行の指揮が悪く長州軍上陸を許します。赤坂の戦闘では細川藩が善戦しますが、長行が援軍を拒否すると細川藩は撤退、総大将の徳川家茂死去すると長行も行方をくらまし諸藩も撤兵します。
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小倉城焼失
孤立した小倉藩は降伏せず、家老の小宮民部は自ら小倉城に火をつけて香春まで戦略的退却を選択します。
小倉城に一番乗りした山縣有朋は、小倉藩の幕府への忠義に感銘を受けます。 -
家老の島村志津摩が軍を指揮し、一時は小倉城を奪還しますが、朝廷の命令で1867年1月に終戦を迎えます。講和で小倉周辺(企救郡)は長州藩の占領が決定し、小倉を失ったので香春藩と改称します。そして藩主忠幹の死を公にし、忠忱を擁立します。
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戊辰戦争(1868)
朝廷から戊辰戦争へ従軍するよう命令が下り、小倉藩も奥羽諸藩との戦争に参加しました。 -
1870年には香春から豊津へ藩庁を移し豊津藩となりますが、1871年に廃藩置県を迎え、小倉県となります。写真は、歴代の藩印。
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行政の中心
1876年に小倉県は福岡県に編入され、現在に至ります。その結果、豊前(小倉)/筑前(福岡)/筑後(久留米)という大きく異なる3つの地域が存在するようになりました。小倉は、各種行政機関が揃う豊前の地域行政の中心地となります。
1888年に市制/町村制が施行されると、福岡/久留米は市に対し小倉は町で、大きく出遅れました。門司に1年遅れた1900年に、小倉は市へ昇格します。
1963年には小倉を含む5市が対等合併して北九州市が誕生、市役所は小倉に置かれます。九州初の政令指定として小倉区となり、1974年には小倉北区/小倉南区に分かれます。 -
軍事都市
明治以降の展示は、超薄口です。徴兵令が施行されると、1875年に熊本鎮台隷下の歩兵第14連隊/陸軍病院が設置されます。1885年には歩兵第12旅団本部、1898年には第12師団が置かれ熊本の隷下から独立します(~1925)。
1916年には兵器製造所が小倉から移転し、1933年には小倉陸軍造兵廠が供用を開始します。
1956年には、陸上自衛隊第40普通科連隊が小倉駐屯地に配備されます。 -
交通都市
大分宮崎方向へ通じる日豊本線/国道10号線の分岐点として繁栄します。1975年には山陽新幹線も開業します。都市交通は路面電車が担っていましたが、現在はモノレールが1路線営業しています。往時は複数の百貨店が営業していましたが、現在は井筒屋のみです。
では外を歩いてみます。 -
道路は内堀の跡で、土橋を渡ると現在の大手門広場で、小笠原時代のメインルートでした。撮影地点は重臣の屋敷が並ぶ旧三の丸、大手門広場は二の丸になります。
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現在、小倉城として保存されているエリアの南入口の石垣には「小倉城を走る白い忍者の塀」と呼ばれる穴場スポットがあります。傷んだオリジナルの石垣と交換した新しい石が白く浮いているのが原因です。
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大手門広場を中央まで進み、幟に沿って左折すると大手門です。
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大手門跡
上の写真で突き当りを右折すると大手門がありました。真っ直ぐ門を潜れず90度折れて入るのは防衛上の理由で、内枡形門と呼ばれます。
大手門は正面入り口の名称で、当時は追手門と表記しました。
※細川時代の大手門は、西ノ口門です。 -
大手先門跡
大手門広場を左折せずに直進すると、大手先門がありました。写真の青線部分です。大手先門跡と刻まれた石碑が不正確な場所にあり当惑しましたが、古地図を観ると青線の部分になります。
大手門へ戻ります。 -
槻門跡
大手門を潜ってヘアピンカーブすると、右側に槻(けやき)門がありました。
藩主/家老/菩提寺の住職/英彦山の座主のみが通行を許された格式高い門です。
櫓門で、門の上は渡り廊下になっていました。門の先は本丸です。 -
鉄(くろがね)門跡
槻門をスルーして更に進むと右へ折れて、その先に一般の家臣が本丸へ登る際に使用した鉄門があります。 -
後ろを振り返ると、こんな感じです。
左に写る鉄門の反対側(右側)は松の丸で、鉄門へ右折せずに真っ直ぐ進むと(手前枠外)細川時代に大手門だった西ノ口門があります。西ノ口門は搦手門(大手門の反対側の門のこと)になります。 -
鉄門を登って本丸を北進すると、突き当りに天守閣へ通じる建物があります。石垣の茶色い部分は、1837年と1866年の火災で焦げた跡です。
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本丸の右奥には、天守閣があります。
本丸御殿は、藩主邸宅エリアと政務エリアから成りました。
本丸の左奥には多聞口門があり、北の丸へ通じます。 -
細川時代の北の丸は正妻の居住スペースでしたが、小笠原時代には本丸の藩主邸宅の増築部分となりました。
現在は八坂神社の境内となっています。 -
北の丸と内堀を隔てて、二の丸が位置します。現在はリバーウォーク北九州が建つ部分です。当時は家老の屋敷が5軒並んでいました。
写真は、北の丸/内堀/二の丸の北西角から撮影したものです。 -
北を上向きに直した当時の地図を見ると、二の丸と書かれた辺りがリバーウォークで、堀を挟んで北の丸/本丸の西側にも細長く南北に続いているのが分かります。
左下に思永館と書かれているエリアは三の丸で、現在は清張通りとなっています。 -
清張通り
東側歩道/車道が旧二の丸と重なります。
写真は南方向の構図で、左に内堀と北の丸、右側に西日本工業大学大学院キャンパスが写ります。 -
歩道に面した西日本工大の建物の1階部分を見てみると、
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このように二の丸と三の丸を隔てる中堀の石垣が遺されています。
西日本工大のキャンパスに面した歩道は中堀を埋めた部分で、キャンパスは堀に面した三の丸跡に建っていることが分かります。 -
超穴場スポットですが、少し前にブラタモリで放送されたので今は有名かもしれません。
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清張通りをR199と交差する西小倉駅前交差点まで北上すると、
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二の丸から三の丸へ通じる大坂門がありました。
写真は左右に清張通りで、左が南側です。
寄り道しましたが、西日本工大まで戻ります。 -
西日本工大の西隣は西小倉市民センターで、ここに説明板が立っています。
三の丸にあった下條守衛屋敷跡です。 -
説明板の地図を見ると、下條守衛屋敷は道路を挟んで堅町口門に面していたことが分かります。堅町口門は、三の丸と城下町(西曲輪)を隔てる外堀に面していました。
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説明板を後に西へ進んで十字路を南へ折れると、こんな感じです。大門緑地と歩道と車道は、三の丸と城下町(西曲輪)を隔てる外堀を埋め立てた部分です。
そして緑地から一段高くなっている部分は三の丸の土塁跡で、左手前は堅町口門跡になります。その先は、筆頭家老宮本伊織の屋敷が建ちました。 -
こんな感じで、土塁が遺っています。現在も土塁が観られるのは、この区画だけです。
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リバーウォークまで戻ります。
北側は、国道199号線に面しています。江戸時代の地図を見ると中堀跡だということがわかります。リバーウォーク北九州 ショッピングモール
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中堀の北側は城下町(西曲輪)の一角で、長崎街道が常盤橋~大門まで横切っていました。長崎街道沿いの室町は、京町と共に城下町で最も栄えた地区です。室町の北は魚町/八百屋町でした。
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獄屋跡は、車庫と通路になっています。
鉄道用地は、江戸時代には海でした。 -
駐車場になっている部分は、船着場と海でした。
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海岸線に面した埋門は、ローソンの辺りにありました。
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長崎街道の二本裏の道が、豊臣時代までの海岸線だったようです。
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西小倉駅前ロータリーに面した道は、
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江戸時代の西曲輪(大門~溜池門)海岸線の石垣が南側歩道の地下に埋まっています。
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帯曲輪
東/西曲輪よりも遅れて整備されました。完全に面影が消えていますが、赤線で示しました。細い部分は、板櫃川旧流路として、遊歩道となっている部分です。緑線を挟んで右側の鋳物師町(町人町)と左側の平松町(武家町)から成りました。 -
三の丸土塁の残る大通りを北上すると踏切と交差します。その辺りが帯曲輪へ通じる溜池門跡でした。
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唐津街道が帯曲輪を横断し、極楽橋で板櫃川を渡ると、城下町の外へ出ます。
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続いて、小笠原家の菩提寺へ向かいます。
福聚寺へは、戸畑駅から小倉を経由する93系統が便利です。山門町で降りましたがフライングで、広寿山バス停が最寄りです。 -
総門には、第一関(門)という額が。
小笠原家御廟所の石碑もあります。 -
第一関門を入ると参道はクランクして、不二門に至ります。
廣壽名山福聚禅寺と額に書かれています。 -
本堂は1802年に再建されたもので、上層には隠元(黄檗宗の祖)の筆で海西法窟、下層には即非の筆で吉祥宝殿とあります。
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色遣いや桃など、中国を感じさせます。
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本堂の右斜め後ろには祠堂があり、歴代藩主の位牌が納められています。
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足立森林公園の公道を通って数百メートル進むと、小笠原忠真廟所があります。鍵がかかり、中へは入れません。
足立森林公園 公園・植物園
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歴代藩主の廟所も入れなくなっています。
続いて、手向山へ向かいます。 -
手向山
小倉と門司を隔てる海へ突き出た山で、現在は小倉北区に属します。こちらは、門司側から撮ったもの。手向山公園 公園・植物園
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手向山の頂上には、宮本武蔵の碑が建ちます。
1654年に、宮本伊織が父武蔵の事跡を伝えるために建てました。二刀流を編み出した経緯や吉岡一門との決闘、佐々木小次郎との決闘まで書かれています。 -
碑文は、熊本泰勝寺の春山和尚が起草し、古くから北九州地方第一の名碑とうたわれます。なぜ手向山かというと、小笠原忠真が宮本武蔵の石塔山および薪山として手向山周辺を伊織に与えたことによります。
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という訳で、宮本家代々の墓があります。本当は、山頂の石碑のそばにありましたが、明治時代に陸軍に接収されて砲台が建設されたために、山腹へ移動しました。
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こちらは伊織の墓です。1612年生まれで武蔵の養子となり、明石藩主だった小笠原忠真に仕官します。島原の乱の後には譜代を追い抜いて筆頭家老となり、以降世襲します。
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こちらの息子の墓碑は読みやすい状態でした。
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こちらは、石碑のある山頂からの眺めです。
小倉城の北側を埋め立てた日本製鐵小倉製鉄所が良く見えます。手向山は小倉城の東側の要害で、筆頭家老に委ねるのは自然の成り行きでした。 -
第二次長州征討:小倉口の戦い(1866)
幕府に盾突く長州藩を懲らしめるべく、幕府は九州諸藩の軍勢を小倉に集結させます。先手を打ったのは長州藩で、6/17に門司の田野浦を攻撃して人家に火を付けます。小倉藩は17世紀から脱皮できない甲冑姿に弓矢と火縄銃で臨み、軽装で最新兵器を駆使する長州軍に完敗します。
7/3には長州軍が門司浦に上陸し、大里宿に火の海にします。写真の大里宿仏願寺も全焼しました。仏願寺 寺・神社・教会
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赤坂の戦い
7/27に長州軍は白木崎に上陸して大里で小倉藩軍対峙し、鳥越峠まで侵攻します。手向山南麓の鳥越峠では新式大砲を揃えた肥後熊本藩が待ち構え、激戦となりました。奇兵隊第一隊は山上から敵の側面を突こうとしましたが、場所を間違え敵の正面に出てしまいました。
※門司往還は手向山北岸の岩場を通っていましたが、南麓の鳥越峠を通るルートもありました。 -
現在の鳥越峠は都市高速が通り、今も交通の要所であることが窺えます。写真は肥後細川藩の陣からの目線で、右の斜面が奇兵隊の目指した山上です。長州軍は、奇兵隊(萩藩)と報国隊(長府支藩)が先鋒を務めました。
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赤坂東公園には、激戦地であったことを示す石碑が設置されています。沖合では、小倉藩の飛龍丸を含む艦隊が大活躍します。
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熊本藩は善戦しましたが、指揮官小笠原長行に援軍要請を拒否され、堪忍袋の緒が切れて帰国してしまいます。長行は将軍家茂(総大将)が大坂で急死した報を受けて7/30に逃げ出し、久留米/唐津/柳川諸藩も撤兵します。小倉城の鬼門を守る延命寺も焼失しました。
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今までゲリラ戦を繰り返した長州軍は、小倉藩が孤立したことで腰を据えて攻撃できるようになりました。家老の島村志津摩らは講和へ向けて動きますが、8/1に家老の小宮兵部が独断で小倉城に火を付け徹底抗戦へ舵を切ります。
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小倉城に一番乗りした奇兵隊軍艦の山縣有朋らは、戦利品として小倉城の時を告げる大太鼓を持ち帰りました。現在も、下関の厳島神社に安置されています。
厳島神社(山口県下関市) 寺・神社・教会
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小倉藩は秋月街道沿いの田川郡香春まで撤退し、翌67年1月に長州藩と講和を結びます。小倉のある企救郡は長州が占領し続けました。
熊本へ避難していた5歳の小笠原忠忱を当主として擁立し、香春藩を設立します。小宮兵部は切腹を命じられます。藩庁は豊津へ移り、廃藩置県を迎えます。香春駅 駅
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一方の島村志津摩は1876年に亡くなり、小笠原家の菩提寺である福聚寺に改葬されます。
長州藩の占領下で明治維新を迎えた小倉は、新たな模索を繰り返します↓
https://4travel.jp/travelogue/11962671豊津駅 駅
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