2025/02/15 - 2025/02/15
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殊に吉川英治の「宮本武蔵」を読むと小倉藩=細川氏というイメージが強くなります。実際に統治したのは僅か30余年ですが、幕末/現在に至るまで多大な影響を与えました。そんな痕跡を、展示資料と現地へ足を運ぶことで辿ってみます。
ほぼ一筆書きの位置情報も、ぜひ参考になさって下さい。
- 旅行の満足度
- 5.0
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まずは北九州市立いのちのたび博物館でお勉強。
藤原博嗣の乱(740)
小倉が日本史と絡む最初の出来事です。大宰府長官へ左遷された藤原博嗣は朝廷へ反逆し、小倉西端を流れる板櫃川を挟んで官軍と対峙し、敗北/処刑されます。 -
2008年の小倉駅西側での発掘調査で弥生/古墳/奈良/平安時代の遺物も見つかりましたが、発掘物が多くなるのは14世紀以降です。
小倉という地名が記された最古のものは1375年で、小蔵と表記されました。 -
中世
武士が台頭すると、小倉は長野氏の配下になります。支配の中心は行橋市等で、小倉は領土の北端になります。室町時代には、大内氏/毛利氏/大友氏の順に守護大名系の傘下に入り、最終的に黒田氏の配下として中津へ移動します。
小倉南区にある長野城(写真)は長野氏の防衛線の一つで、1565年に大友氏との戦いで激戦を広げ、一カ月後に陥落しました。 -
長野城は里城と山城から成り、山城は石垣を使わずに斜面に凸凹(畝状空堀群)を作って、登る攻め手を弓矢/鉄砲で狙い撃ちしました。1565年に長野氏は旧小倉市域から撤退します。
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鋳物師の町
室町時代には大規模な鋳物師集団が存在し、各地で小倉で製造された梵鐘が見つかっています。最古のものは、1215年(健保3年)のものです。 -
小蔵鋳物師の梵鐘には龍頭の作風等が見られ、簡単に見分けがつきます。写真は1385年に制作されたもの。
リバーウォーク北九州の建つ室町に小倉の町が築かれました。 -
写真は、小蔵鋳物師の安宗が1385年に製造したものです。見事な龍頭です。
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小倉城の建築
1569年に大友宗麟と争っていた毛利元就は、1569年に物資輸送の中継点として小倉に城を築いたのが始まりです。しかし年内に大友宗麟の配下となり、高橋鑑種/元種親子が入ります。
写真は「高橋鑑種一族肖像画」で、上段が高橋鑑種。 -
1587年に秀吉が九州を平定すると、城主は毛利勝信に代わります。豊前国2郡6万石を支配しました。小倉城は、新たに進出した豊臣政権の威光を示す役割も担い、重厚な造りとなりました。
関ヶ原の合戦では、黒田如水の計略であっさり小倉城を引き渡します。
※のちに長州藩主となる毛利氏とは何の関係もありません。 -
江戸時代:小倉藩
関ケ原合戦の後、1600年に細川忠興が丹後宮津12万国から栄転します。豊前国と豊後国2郡計30万石を受領し、最初は中津へ入府しますが小倉へ移り、1602~10年にかけて小倉城を大改築します。1632年に細川氏は、肥後54万石へ栄転します。 -
要塞都市
現在は開発が進んで本丸付近しか面影が残りませんが、かつては周囲を家臣団の屋敷や藩の建物が二の丸/三の丸にも建ち、城下町は土塁やと外堀に囲まれ、主に街道に面した4つの門で出入りを監視していました。 -
細川忠興はキリシタンが好きではありませんでしたが、妻ガラシャのミサが教会で営まれた際に感銘を受け、見方を変えています。写真は、小倉城内で使用された細川家家紋入りの鐘(チャペル)です。
家康から朱印船貿易に携わることを許され、小倉の湊は南蛮貿易でもにぎわいます。
※世相を考慮して1614年にキリシタンを弾圧しています。 -
巌流島の決闘(1612)
剣豪宮本武蔵vs佐々木小次郎の決闘は、小倉藩の領地で行われました。佐々木小次郎は小倉藩の剣術指南役でした。 -
文化素養も高い忠興は、1617年に八坂神社を鋳物師町に勧請します。小倉祇園として継承される祭りのルーツです。
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九州に睨みを利かす(1632~)
細川氏の後には、家康の曾孫で宗家の2代目である小笠原忠真が15万石(豊前6郡)で入府します。譜代大名を小倉に配置したのは、九州の玄関口(喉元)を押さえるためです。九州探題を自負した小笠原家は、幕末に並外れた忠義を示します。 -
初代小倉藩主小笠原忠真妻の千代姫は徳川秀忠の養女ですが、血縁上は熊本へ栄転した細川忠利の妹です。なので、細川氏と小笠原氏は姻戚関係で結ばれていました。
関ヶ原合戦で小倉を占領した黒田家と細川家は犬猿の仲だったのに対し、細川家と小笠原家の関係は終始良好でした。 -
交通の要所/軍事都市
東九州と西九州の分岐点として、小倉は賑わいます。19世紀末に鉄道が開通すると、特にそうなります。軍事都市として、駐屯/軍需工場を抱えます。北九州工業地帯の一角を担いますが、戦後は斜陽化し現在に至ります。福岡市と東京に活力を奪われる状態です。
では、野外へ出ます。 -
板櫃川
城下町の西の境界線でした。
丘を切り拓く直線的流路は1953年の西日本水害で甚大な被害を与えたことに起因し、1970年に現在の流路になりました。 -
JRとR199が立体交差する辺りから遊歩道があります。実は、板櫃川の旧流路です。位置情報には近似スポットを入れてあります。
板櫃川の流路は大きく変化し、城下町部分はJR小倉工場~鹿児島本線沿いに流れていました。旧流路の右岸は、帯曲輪と呼ばれ、鋳物師町などが置かれました。だんだん亭 グルメ・レストラン
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6,7分歩くと西部ガスの建物に挟まれ、現流路にぶつかります。
とうふの鶴我 グルメ・レストラン
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現在の板櫃川河口付近
では、再び板櫃川を遡ります。 -
しばらく遡り、橋があってカーブする辺りに板櫃川古戦場の掲示があります。
大宰府で挙兵した藤原広嗣率いる兵5000人と、朝廷軍6000人が川を挟んで対峙しました。思いのほか朝廷軍の進行が早く、広嗣方の別動隊5000名が参戦できませんでした。 -
権勢を謳歌する藤原家のお坊ちゃんによる政敵への私怨ゆえの挙兵だったので、朝廷軍が投降を呼びかけると総崩れになります。逃げた広嗣は肥前で捕らえられ、処刑されます。
板櫃川古戦場 名所・史跡
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直ぐ近くには、到津八幡神社があります。
三韓征伐を果たした神功皇后が豊浦宮へ戻る際に、御座船を当地に着けたとされます。大友義鎮が宇佐八幡宮を焼き払い23年後に再建されるまで、神璽は到津社に避難しました。
到津という苗字は、北九州市を連想させるアイコンです。到津八幡神社 寺・神社・教会
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都市高速の愛宕ジャンクションの麓には、
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菜園場窯跡があります。
2代目小倉藩主細川忠利のお楽しみ窯として開かれました。
元々は、お城へ供給する野菜を栽培するエリアでした。 -
全長16mの登り窯で、先端側の第3室/第4室が遺っています。
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窯から出土した陶片や土は、かなりの高級品です。
初代藩主細川忠興は朝鮮出兵の際に陶工尊楷を連れて帰り、上野焼を藩の特産品にしようとしました。菜園場窯は、新製品の試験にも用いられたようです。 -
併せて平安時代の焼土坑も遺り、直径4m深さ1mで底は擂鉢状で、出土物から12世紀前半のものとされます。
続いて小倉城へ移動します。 -
旧大手門
西小倉駅から南へ延びる清張通り沿いの松本清張記念館(二の丸跡)の横には内堀を渡る土橋があり、その先には西ノ口門があります。細川藩時代は、ここが大手門(正式な玄関)でした。正面には石垣があり、右へ曲がると門がありました。北九州市役所 ふれあい展望室 名所・史跡
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旧大手門を越えると、右側は松の丸、左側は一段高くなっていて本丸です。
松の丸には、忠興の父幽斎の屋敷が建ちました。 -
本丸と松の丸を隔てる石垣には凹みがあり、そこには井戸が設けられています。なぜ凹ませたかは解明されていませんが、細川氏が築城した他の城にも観られる特徴です。
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本丸へ登ると、西側に内堀、旧大手門へ通じる土橋、その奥には二の丸(松本清張記念館)があります。
松本清張記念館 美術館・博物館
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本丸の北東角には、天守閣があります。
1837年に焼失し、1959年築の復興天守閣です。小倉城 名所・史跡
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内部はエレベータ付きの博物館になっています。
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天守基部の床面積に注目すると、1610年の落成時に小倉城天守閣は(大坂/姫路を抜いて)西日本最大規模でした。高さは、石垣18.8m天守22.8m合計41.6mでした。黒塗りの最上階が直下階よりも大きく間に庇がない唐風造りでした。
細川忠興は築城の名手で、文化人だけあって外見の美しさも大事なアイコンでした。津山城(森忠政)/高松城(松平頼重)の天守は、小倉城を手本に建築/改修されました。 -
細川忠興(1563-1645)
京で生まれ育ち、信長/秀吉/家康に仕えます。小倉には京由来の地名や行事が多いのは、城下町を整備した忠興によるものです。
一流の文化人であることは、利休七哲に数えられることからも分かります。 -
写真は1601年に家康へ謁見した時に小倉へ宛てた書簡で、秀忠から利休が所有していた中国の名器「唐物茶入利休尻ふくら」を拝領した喜びを表現した部分です。武家のたしなみである茶道を極めたことは、大きなアドバンテージでした。朱印船貿易を行って藩を潤しました。
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一方で、武勇にも秀でる文武両道の人物でした。関ケ原では163の首級を挙げ、丹後宮津12万石から豊前小倉30万石(検地で40万石と評価)へ栄転します。写真は関ケ原合戦で着用した鎧兜(複製)で、細川家の家宝になりました。佐々木小次郎を藩の剣術指南役として引き抜きます。
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人生は順風満帆とはいかず、溺愛した妻の玉(細川ガラシャ)は明智光秀の娘だったので、本能寺の変では窮地に立たされます。その後玉は大坂で洗礼を受け、信仰ゆえに夫婦に軋轢も生じます。関ケ原前夜には石田三成に人質として取られることを拒み、ガラシャは事実上の自害によって命を絶ちます。
忠興は、玉に洗礼を施したセスペデス神父を小倉に招き1601年に教会を設立、忠興の命で追討ミサは神父が没する1611年まで毎月行われます。 -
1620年には隠居/剃髪し、1645年に82歳で生涯を終えます。
長男の廃嫡や、次男は大坂夏の陣で豊臣方に就いたので切腹を命じ、跡継ぎの三男にも先立たれる悲しみも味わいました。 -
細川忠利(1586-1641)
忠興の三男で、目安箱の設置や農民救済といった善政で知られます。優しい気質には、母ガラシャの影響が見られます。1632年に熊本へ移封されます。徳川秀忠/家光の信任篤く、九州諸大名時の動向を監視/報告する譜代大名的役割も担いました。 -
1622年には、呼野で金山奉行所を設置し、300名体制で金山開発を行いました。残念ながら、現在は場所が比定できていません。
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ワイン製造
1627-30年にガラミで葡萄酒を製造していた史料が見つかりました。 -
細川家が小倉に遺したもの
綿織物の小倉織は丈夫で風合いも良く、武士の袴等に使用されて全国に名を知られます。他にも糠味噌でイワシやサバを炊き込む糠炊き、上野焼等は、いずれも小笠原家入府後も受け継がれます。 -
最上層からの眺め
南側の眺望で、左右に通る道路が内堀跡で、勝山公園の部分は重臣の屋敷でした。 -
反時計回りに目を移すと、市役所本庁舎がそびえます。
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本庁舎北側には、再建された下屋敷と庭園が遺り、東側には紫川が流れています。
では、天守を後にします。 -
多聞口門跡
本丸の北側には多聞口門がありました。このようにクランクしていて、防衛上の配慮がなされています。 -
多聞口門から土橋を渡ると北の丸になります。
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土橋からは、上下に走る斜めの石垣の境目ラインが見えます。
1587年に小倉城に入った毛利勝信時代の石垣に、細川忠興が石垣を継ぎ足したためにできたものです。高さも大きさも増していることが分かります。 -
北の丸
藩主正妻の屋敷が建ちました。正妻を北の方と呼ぶ習慣からも、一般的な配置だと分かります。
北の丸には1934年以来、八坂神社が鎮座します。八坂神社 寺・神社・教会
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北の丸の東側には、北口門がありました。現在は、神社の入口になっています。
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北口門の先は土橋で内堀を跨ぎます。
写真では左側が北の丸、中央が内堀です。奥が内堀とリバーウォーク北九州です。 -
北の丸の北側には城門跡に沿う形で神社の楼門が建ちます。現在も残る幅13mの内堀を越えると二の丸で、重臣の屋敷が東西方向に並びました。二の丸は、現在はリバーウォーク北九州になっています。北の丸は四方を堀で囲まれています。
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内堀沿いに東方向へ歩くと、下屋敷と二の丸を結ぶ虎ノ門があります。十二方位で寅の方角に位置するためです。
リバーウォーク北九州 ショッピングモール
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虎ノ門へ通じる土橋から西側を向くと、こんな感じです。
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虎ノ門の通路には、とりわけ大きな鏡石が填められています。鏡石は、藩主の威光をあらわすアイコンです。この門は、二の丸に屋敷を構えた家老格の重臣が通行しました。
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門の配置
現在48の門が確認されていますが、コアなエリアはこんな感じです。西ノ口門/多聞口門/北口門/虎ノ門を写真で紹介済みです。 -
虎ノ門を進むと、左には筆頭家老松井家の屋敷、八坂神社一の鳥居は北口門へ通じるエリア、左奥に天守閣が見えます。
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一の鳥居の先には、2つの巨石があります。
内堀に沿って手前を左折します。 -
料金を払って、下屋敷に入ります。
回遊式庭園の南側には、市役所本庁舎が見えます。小倉城庭園 名所・史跡
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池を眺める風流な建物です。1998年に再建されました。
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堀を挟んで天守の東側に位置するこの場所には、細川家小倉藩の筆頭家老を務めた松井家の屋敷でした。松井康之は細川幽斎と旧知の仲で、幽斎の旧姓である長岡姓を名乗ることが許されました。
息子の興長は熊本で八代3万石を与えられ、幼い4代目藩主の後見人も務めます。松井家は、長岡佐渡守(官職)としても知られます。 -
小笠原家入府後は藩主の下屋敷となり、回遊式の大名庭園が整備されました。
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城下町(赤線の内側)
紫川河口部を中央に、おおまかに左岸の西曲輪は小倉城と武家町、右岸の東曲輪は町人を住まわせました。地図左上部分は、帯曲輪と呼ばれます。北は海、西は板櫃川、南は寒竹川、東は堀に囲まれています。
城下町に通じる街道は4本(後に5本)で、門が設けられ(桃色)出入りを監視しました。城下町の外郭(赤線)には、10の門がありました。 -
江戸時代の地図を見ると、紫川は入り江という体を為していました。
城は、本丸の周りを家老クラスの屋敷が取り囲み、その外側は武家屋敷が囲みました。さらに外側は城下町で、専ら町人が済みました。それぞれの境界線には堀が巡らされ、三重四重の堀で守られていました。城下町全体を堀で囲むことを、総構えと呼びます。
東西を結ぶ紫川の橋は、常盤橋と豊後橋のみでした。紫川 自然・景勝地
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常盤橋
九州の道路の基点、九州版日本橋という位置づけでした。
では、現地を歩いてみます。 -
全長50m幅8mの往時の姿が、木造で再現されました。
常盤橋 名所・史跡
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西詰
今回は渡れないみたいです。 -
橋を渡ると木戸があり、通行を取り締まっていました。
木戸の先は西勢溜で、半円状の広場となっていました。高札が掲げられ、事実上の長崎街道始点でした。 -
現在は、江戸時代の橋桁(石造)が引き揚げられ、展示されています。
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西勢溜の北側は埋立てられて健診センター等が建ちますが、元々は入り江になっていて上の絵のように船着場(小倉湊)になっていました。ここから各地と船が行き交いました。船番所が、航行者を監視していました。
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橋を渡ると長崎街道です。
宿屋が多かったそうです。
左枠外に国道199号線が通っています。 -
オレンジのアーケードの建物の場所には、村屋という本陣が建っていました。間口/奥行共に27mで、薩摩藩/肥後藩が利用していました。
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室町遺跡
その先の左側には、41階建てのタワマンがあり、建設工事中に見つかった遺跡の出土品がウィンドウ越しに展示されています。かなりのボリュームです。町名は、京都由来です。 -
地図の緑色の部分がタワマンで、国道199号線を挟んで向かいにはリバーウォークが建ちます。リバーウォークは二の丸跡で、重臣の屋敷が並んでいました。国道部分は外堀でした。
長崎街道沿いは町屋ですが、外堀に面した部分は武家屋敷が並び、防衛を兼ねていました。 -
上の図の赤矢印が長崎街道で、写真では左右に通る太い道へ右折して凸状に通っています。
児玉製作所 グルメ・レストラン
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赤枠で囲った部分が大門跡で、幅15m奥行6m高さ12mの総櫓造りだったようです。
長崎街道は、軽トラックの写っている部分から凸状に通っていました。
右折矢印の斜め前には、敷石で丸く囲んだものが。大門の隅石が発掘された地点です。 -
現地にある陶器パネルに描かれた大門(おおもん)のイメージ。
元々は唐津街道が通じていましたが、1635年迄に長崎街道が整備されて分岐しました。元々は波打ち際で、大きな海藻が打ち上げられることから大藻(おおも)、転じて大門となりました。 -
大門の左手前の土塁の基部は、写真左下のガラス下に眠っています。西小倉駅前ロータリーに面した場所です。
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最初の十字路を直進するして突き当りを右に曲がると、
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日豊本線の踏切を渡ります。テキサス1000の看板が見える辺りに溜池口門がありました。これは唐津街道に位置する門です。
長崎街道へ戻ります。 -
2つ上の写真の十字路を左折すると、すぐに国道199号線を横断します。これが旧長崎街道です。
位置情報には、国道を横断した地点のスポットを入力してあります。無想屋 グルメ・レストラン
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ちなみに199号線は柄にもなく太い道で、非常に緩い傾斜でJRを跨ぎます。これは路面電車が走っていた名残です。
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空き地が写っている十字路は、1年前はこんな光景でした。
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曲がった先もこんな感じ。
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左斜め前へ逸れて数十メートル進むと、その先は外堀跡(内堀から数えて3本目)です。写真の左側は堀内側に面した三の丸土塁跡です。
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R199を渡って右へ屈折すると、先ほどの踏切から延びる大通りと斜めに交差します。安国寺の手前の道を左へ屈折します。傘を差した人が歩いてくる道です。
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屈折すると暫く直進し、突き当りでクランクします。
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暫く直進です。長崎街道を指すプレートが埋め込まれます。
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田町交差点で交差する高速高架の南側には、神明社が。
細川忠興が伊勢神宮を勧請したことがルーツで、農民たちのお伊勢参りの予約や参拝の連絡、宿屋の世話といった旅行業者のような役目も果たしました。 -
高速高架沿いに西進して左折すると、ローソンがあります。
ここは到津口門跡で、門の内側には勢溜と呼ばれる1000坪ほどの三角形の広場があり、有事は兵が待機できるようになっていました。リカーキッチン とりあえず グルメ・レストラン
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隣の西小倉公園には説明板が。
到津口門は24時間通行可能で、番所には20名が交代で詰めていました。周囲には5つの寺があり、有事には砦として機能する設計になっていました。
外堀を越えると、金田村です。 -
新小倉病院の南にあるUR住宅の前をクランクすると、長崎街道と書かれたプレートが歩道に埋め込まれ、清水口門跡の説明が。
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最初から存在の薄い門で、開かずの門として知られ、その後は土で塞がれてしまったそうです。ここで長崎街道を離れ、外郭(外堀)を追求します。足元には、長崎街道のプレートが埋め込まれています。
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清張通りに面したスピナガーデン大手町には、外堀の遺構が発掘されたことが掲示されています。
平四郎 大手町店 グルメ・レストラン
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位置関係を示す地図が付いています。
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篠崎口門跡
清張通りを挟んでスピナガーデンの向かいには、篠崎口門があったことを示す説明が。門の東には小倉新田藩の屋敷があり、外堀の深さは8mで、底部の60cmは障子堀と呼ばれる珍しい様式で、左右の移動の自由が利かない構造でした。 -
蟹喰口門跡
豊後橋西詰付近にありました。豊後橋は江戸時代初期に農民が架けた橋です。 -
豊後橋
常盤橋と共に江戸時代に紫川に架かる2つの橋の一つでした。外郭付近に掛かります。 -
豊後橋から香春口北交差点までは、所々でくねくねした道です。これは、城下町を囲む外郭(外堀)跡に道路を通したからです。
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香春口北交差点で、秋月街道を横断します。
左枠外には、街道沿いに城門がありました。外堀は、タクシーの写っている部分へ続きます。 -
香春口門跡
秋月街道沿いに設置され、開門時間は4-24時で、時間外は手形所持者だけが通行できました。長崎街道が整備されるまでは、こちらが九州のメインルートでした。小倉 揚子江の豚まん 本社工場 グルメ・レストラン
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当時の地図
矢印が香春口門、その先が外堀。左右に流れるのが寒竹川、両側に分岐するのが砂津川(外堀)。
香春口北交差点へ戻ります。 -
香春口北交差点から先は、とても細いドブ川になっています。
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おゆみ橋
外堀を渡る小橋です。橋の向こうが城下町の外です。上の地図を見ると、橋の手前は円照院となっています。 -
橋の右側
篠崎口門へ通じる外堀です。埋立と護岸が進んで、往時の面影は感じられません。 -
水門橋から上流を眺めると、寒竹川(神嶽川)から右に砂津川が分流しています。左は旧外堀が寒竹川へ流れ落ちる姿になっています。
駐車場部分は、地図では祇園御休所(藩主別邸)となっており、左岸を結ぶ橋が架かっています(赤線)。 -
矢印の部分が、外堀の注ぎ口です。水門橋の反対側(写真右)は、現在の寒竹川は神嶽川と表記し、旦過市場を通って紫川へ注ぎます。
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砂津川は寒竹川から分流する人工水路で、城下町の東側の境界として掘削されました。直線的な水路を北上すると、中津街道に架かる中津口橋に到着します。
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中津口橋の先で、砂津川は右へクランクします。写真右の中津口公園には、
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中津口門跡
中津街道は常盤橋から豊後中津へ通じる街道で、細川家時代の小倉藩は中津まで領地でした。中津は、城下町の歴史としては小倉より古く、秀吉の参謀黒田如水が中津に鎮座しており、細川忠興も九州移封時は中津に入府しており、隠居すると中津城へ移っています。 -
細川藩の2大拠点(小倉/中津)を結ぶ街道に面していることもあり、忠興は4m四方/3×5mの巨石を門に使用して威厳を示しました。1901年に解体される際に移設され、2000年以降は小倉城下屋敷に面した高倉稲荷神社境内(八坂神社一の鳥居の手前)に設置されています。
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細川の大石/小笠原の割石とも呼ばれる巨石は、門から2km離れた場所から運ばれましたが、あまりの重さに往生すると(短気で有名な)忠興は現場監督を斬り殺します。恐れを為した人足は力を振り絞り、無事(?)に運ばれたそうです。逸話を訊いた後の藩主小笠原忠総は「2つに割って運べば、人を斬らずに済んだのに…」とボヤいたそうです。
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小文字通りに架かる小文字橋の南西詰めには、日銀北九州支店。門司港編で紹介したように、斜陽化した門司港からこちらへ移転しました。その隣は、毎日新聞西部本社です。
毎日新聞西部本社 名所・史跡
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小文字橋の北には、1937年架設の寿橋。
半花 グルメ・レストラン
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真ん中にはライオンの彫刻が。
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その先には上砂津橋。西詰は、富野口門がありました。
右の西鉄バス営業所と観覧車の見えるチャチャタウン砂津は、路面電車の車庫跡です。チャチャタウン小倉 ショッピングモール
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上砂津橋には水道橋が併設されています。1910年に上水道が供用開始した時の年代物。菱形の旧小倉市の市章が並んでいるのもおしゃれ。小倉は1900年に市に昇格し、1963年に北九州市小倉区となります。
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チャチャタウン沿いの河岸には、ていたん/ブラックていたんを描いた看板が。
ていたんは北極生まれの白熊で、低炭素社会が名前の由来。ブラックていたんの口はエゴでしたが、改心して首都環境検定合格したのでエコになっています。
小倉弁が、、 -
JRの踏切と貨物線高架を通過して、新幹線高架真下の長浜町第2公園に門司口門跡の説明がありました。
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門司口門
常盤橋から大里(現在の門司)へ通じる門司往還上に鎮座し、到津口門と同じく24時間開門していました。 -
門の横は響灘でしたが、現在は埋め立てが進み、海岸線は後退しています。長浜という地名から、当時は海岸線だったことが窺えます。
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門の内側には幾つもの寺が並び、有事には砦として機能しました。現存するのは、門司往還沿いの西顕寺のみです。境内には 、白洲灯台を設置した岩松助左衛門の墓があります。
岩松助左衛門の墓 名所・史跡
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門司往還は、セントシティのど真ん中を横断します。
建物はそごうとしてオープン、流転の末に現在の名前になります。
位置情報には、先代のアイムを越えて、先々代の井筒屋コレットの名前で登録されていることからも分かります。コレット ショッピングモール
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その先は、小倉中央商店街となっています。
小倉中央銀座商店街 市場・商店街
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その先は、京町銀天街。
門司往還は、長崎街道の一部とみなされることも多々あります。小倉京町銀天街 市場・商店街
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アーケードを抜けると常盤橋です。
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おまけ
香春口北交差点には、揚子江豚まんの店頭販売があります。蒸したもののほかに、冷蔵や冷凍も販売しています。 -
1個260円で、凄い肉汁です。向きを90度変えてかぶりつくと、こぼさずに食べられます。
次は、1632年の小笠原忠真入府後の小倉を辿ってみます↓
https://4travel.jp/travelogue/11958588
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