2025/12/13 - 2025/12/13
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gianiさん
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この旅行記のスケジュール
2025/12/13
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アビニョン捕囚で有名な都市を、今回はじっくり訪問。前回はフィルムカメラ持参だったので、とにかく記録が少ない。しかも海外慣れせず、記憶は視覚的インパクトばかりが先行しましたが、今回は前回よりも知識が増した分だけ、教皇庁宮殿をゆっくりと見学できました。スマホで1000枚撮ってもノープロブレム、デジカメには本当に感謝です。一人旅だと、相手のペースに気を遣わないのがメリットだと感じます。
アビニョンがフランスに編入されたのが1791年ということもあり、殆どの出来事が宗教改革前ということも加わって歴史が複雑かもしれませんが、どうぞお付き合い願います。
※リヨンの司教座が特別な立場のように感じますが、カトリックでは西フランクを代表する立場にあったからです。
- 旅行の満足度
- 5.0
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マルセイユからBlaBlaCar(バス)でアヴィニョンへ移動。高速A7でひとっ走りです。アビニョンは交通の要所で、リヨン~マルセイユを結ぶA7、アビニョンで分岐してスペインへ至るA9が接続します。旧市街北東側のLe Pontetで下車、人口17000人ほどのコミューンで、1925年にアヴィニョンから分離します。
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池が目印です。今晩の宿の位置を確認しつつアヴィニョンまで、のんびり歩きます。
アヴィニョンはフランス王国から事実上独立していたトゥールーズ伯領で特権を享受する都市でしたが、ルイ8世の政略結婚(懲罰)で1226年にフランス領へ編入されました。1274年に孫のフィリップ3世がアヴィニョン市周辺(ヴネサン伯領)を教皇へ寄進します。 -
一本道を20分ほど歩くと、14世紀の城壁に囲まれた市街地が現れます。霧の先にあるのは、アヴィニョン大学です。教皇ボニファティウス8世によって1303年創立、フランス革命中の1792年に廃止され、1968年に復活。現在は大学都市です。
城壁 (アヴィニヨン) 史跡・遺跡
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城壁を時計回りに進むと、突起部分が現れます。パッサージュ・ピラミッドという抜け道(人道)を潜り、城壁内部へ。
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振り返るとこんな感じで、水路が城壁外へ通じていました。鉄壁の守りです。
旧城壁は1226年のルイ8世征服時に破壊されましたが、教皇によって外側に再建、現在に至ります。 -
水路沿いには水車が幾つも廻り、タンチュリエ通りは情緒ある景観です。染めるという意味から、染色業者が並んでいたと推測されます。
タンチュリエ通りは、現在の城壁のアンベール門から旧城壁のアンベール門を結ぶ路地です。旧門は7つの罪源が描かれていることで有名でした。タンチュリエ通り 散歩・街歩き
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(想像上の動物)ガーゴイルのある 2 つの望楼に囲まれたこの城壁のある家は、アヴィニョンに残る最後のゴシック様式の住宅の 1 つです。現在はプレートが無くなっていますが、そこには1493年築と書かれていました。正面の盾に刻まれモノグラムから「4つの数字の家」と呼ばれているが、その意味は現在も謎のままで、古い商標ではないかと解釈されます。
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灰色苦行会礼拝堂
1226年にルイ8世がアヴィニョンを包囲攻略後、王立敬虔懺悔者灰色同胞団(灰色苦行会)を設立したことで知られる記念碑的な場所に礼拝堂は建ち、15-19世紀の様式が共存します。この組織は、アルビジョワ派の異端に対抗して生まれ、毎年11月30日には、1433年11月30日のローヌ川大洪水の際に礼拝堂内の浸水が2つに分かれて聖体のための通路できた奇跡を祝います。
※ルイ8世はカトリックの異端アルビジョワを討伐するアルビジョワ十字軍の盟主で、アルビジョワに味方したトゥールーズ伯レイモン6世を破り、1226年にアビニョンを獲得ました。最初の悔悛者兄弟団は、1226年9月14日にフランスのアヴィニョンで、ルイ8世によって創設されました。彼らは灰の色である灰色のリネンの修道服を着て、カタリ派への改宗を悔い改めて市内を行進しました。 -
もう少し進むと
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コルドリエ修道院および附属礼拝堂
アヴィニョンのコルドリエ修道院は1226年に(旧城壁の)ランベール門近くのソルグ川沿いに建てられました。最初の教会は1233年に建設され、14世紀には教皇ヨハネス22世によって1350年に壮大な改築工事が始まり、クレメンス6世も資金援助を続けます。 -
1791年には、アビニョン教皇領のフランス編入を進めたアビニョン市長ニコラ・レスキュイエが当教会の祭壇で斬殺された(写真)。容疑者として教皇派の60余名が、刑務所として革命政府に接収されていた教皇庁宮殿に収監/処刑された。「氷室(身の毛もよだつ的ニュアンス)の虐殺」として、フランス革命末期の血なまぐさい歴史が広く知られている。
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タンチュリエ通り
1580年にインディアン布地がマルセイユから輸入されたのを機にプロヴァンス地方を席巻する。アヴィニョンの染色業者も模倣するようになり、17世紀には人口の3割が繊維業に従事するほどになった。多くの水を要する染色業は水路沿いに展開し、紡績/毛梳/染色ギルドが形成されタンチュリエ通りと呼ばれるようになった。
インディアン布地は17-19世紀に貴族/ブルジョアジーに人気を博した。布地の決め手となる茜色を出すために、アルメニアから亡命した植物学者ジャン・アルテン(1709-74)がアヴィニョンで茜の栽培を成功させた。1813年には、水路沿いに23の水車が林立した。1868年に化学染料で表現できるようになると染色業は衰退し、アブサン(プロヴァンスの地酒で苦ヨモギを漬けた蒸留酒で幻覚等の中毒が伴う)製造へシフトした。 -
水路が潜伏する十字路で左折してリス通りを進むと、慈善団体が1610年に建てた立派な建物が現れます。1669-1778年にかけて増築され、4層アーケードのU字型をしていましたが、リス通りに面した部分が取り壊され現在に至ります。中庭は礼拝堂によって男性用/女性用スペースに隔てられた。リス(Lice)通り側には低層の調理スペースとなっており、特に貧しい女性が生活/従事していた。ギャレー/礼拝堂部分は取り壊され、19世紀半ばからは陸軍宿舎、1890年には東側が美術学校となる。1998年に市に売却され修復された。
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聖マルティアル教会
この土地は、1348年に教皇クレメンス6世がアヴィニョン市内を買い取るまで領主だったプロヴァンス伯兼ナポリ女王ジョバンニ1世の宮殿が建っていた。クレメンス6世はベネディクト修道会へ与え、クリュニー修道院が所有する修道/教育施設が1388年に建設された。フランス革命で荒廃し、19世紀以降カルベ美術館/自然史博物館/郵便局/観光局として使用され、1881年には建物の一部がプロテスタント教会に渡され現在に至る。サン マルティアル寺院 寺院・教会
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建物のジャン・ジョレ通り側には観光案内所があり、地図等の入手やアヴィニョンシティパス(24h=24EUR/48h=32EUR)の購入ができます。購入時には、メールアドレスの申告が必要で、バウチャーがメールで届きます。紙に印刷してほしい場合は、その旨を申告するとプリントアウトしてくれます。
※プロテスタント教会にはégliseではなくtempleを当てるため、寺院と誤訳されることが多いです。アヴィニヨン観光案内所 散歩・街歩き
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目抜き通りを歩いて法王庁宮殿へ
シティパスを見せて、12ユーロ分を回収。10時開館(冬季)と同時に踏み込み、シティパスの元を取ろうと奮闘します。
そもそもローマ教皇がなぜバチカンからフランスへ来たのでしょうか?バランス通り 散歩・街歩き
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中庭の回廊を経て展示の順路を進みます。旧宮殿と呼ばれるエリアです。
フランス国王フィリップ4世(在1285-1314)はカペー朝で一番のやり手でした。教会財産への介入を強化すると、1302年に教皇ボニファティウス8世はフィリップを破門、一方のフィリップは教皇の弾劾を要求して両者は決裂します。1303年に出身地のアナーニに滞在していた教皇を襲って捕らえ、その後教皇は憤死します(アナーニ事件)。
次の教皇は在位8カ月で急逝、フィリップは教皇選に介入し、(枢機卿でもない)ボルドー大司教を教皇クレメンス5世として擁立、且つ枢機卿もフランス人で固めて、リヨンで戴冠させます。フィリップの強い影響下に置かれた教皇は、1308年に教皇庁をアビニョン周辺へ遷します。 -
クレメンス5世(在1305-14)
本名ベルトラン・ド・ゴット(1264-1314)ボルドー大司教を経て、教皇に選出。リヨンでの戴冠後4年間の放浪を経て、ヴィエンヌ公会議の準備とフランス国王との関係改善のために1309年3月にアヴィニョンに入るも在位9年間定住することなく移動し続けた。即位時には癌を患っていました。 -
ヴィエンヌ公会議(1312)
リヨン近郊のヴィエンヌで公会議を開き、国王フィリップ4世の意向通りテンプル騎士団を解散/処刑させるが、教理面では何の進展もなかった。
※テンプル騎士団:聖地エルサレムへの巡礼者護衛のために設立され、ヨーロッパ各地の支部で金融業務を営み莫大な資金を運用する。巨大な資産を手に納めるべく、無実の罪で騎士団長らを逮捕、教皇に断罪させることでフランス国庫を潤した。 -
教皇がローマを離れた理由
先程はフランス国王目線でしたが、教皇目線で見ると(神聖ローマ皇帝との緊張ゆえに)ローマは危険な場所でした。教皇領やイタリアでは教皇派と皇帝派に分かれて争いが絶えませんでした。13世紀の教皇は、教皇領内を転々としたりリヨン等の自由都市で避難生活を送りました。ヴィエンヌ公会議の準備中に神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ7世がローマを占領するに及び、クレメンス5世はフィリップ3世が寄進した旧ヴネサン伯領から出られなくなります。ヴネサン教皇領の周囲は教皇派プロヴァンス伯の領地で、身の安全を確保できました。 -
ヨハネ22世(在1316-34)
本名ジャック・ドゥーズ(1244-1334)、リヨンで戴冠。2年間紛糾した教皇選で枢機卿の意見が割れ、老い先短いヨハネを「暫定的に」据えたつもりだったが、90歳で死去するまで18年間在位した。教皇庁の組織改革/財政改革を成し遂げ、教会法整備でも多くの成果を遺した。 -
アヴィニョン司教館の拡張
1316年12月23日付の書簡/羊皮紙 鉛で封印
教皇領を転々としていた前教皇とは対照的に、アヴィニョンに落ち着くことを決め、教会隣接の司教館を整備します。1310-12年にアヴィニョン司教を務めたので、地理に詳しかったことが大きく影響しています。アビニョンは国際交易の十字路に位置し、サンベネゼ橋を渡ればフランス領という便利さもありました。 -
1322年の姿。ロシェ・ド・ドムと呼ばれる巨大な岩塊の上に建ちます。ノートルダム・ド・ドム教会の隣の司教館を教皇庁として整備しました。ローマでは教皇庁職員は200名程度でしたが、アビニョンでは1000人が働く官僚機構に変えました。
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右手前には、裁判を行うロタ法廷の建物も建築します。ヨハネ22世は教皇庁の裁判制度を専門の心審訣官に扱わせる改革を行います。
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ベネディクト※12世(在1335-42)
本名ジャック・フルニエ(1285-1342)、アヴィニョンで戴冠。法王庁宮殿の「旧宮殿」と呼ばれる部分を建築、同郷の建築家ピエール・ポワソンに指揮させます。
※フランス語では、ブノワというメジャーな名前。 -
ヨハネ22世の建築を土台に、高層かつ威厳のある建物を築きます。裁判所法廷のみが残されます。
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現在も、教会の横に教皇宮殿が建つ構図はしっかりと確認できます。
ノートルダム デ ドン大聖堂 寺院・教会
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新宮殿礼拝堂を訪れる信者への免罪符、1336年6月23日
建設費を工面するために発行したようです。以前は教会慈善事業の資金源として発行されましたが、免罪符は、より世俗的な理由で乱発されるようになります。
建設費は年間支出の25%を占め、毎月850人が動員されました。石灰石は地元で採石され、最初の数年は支出の65%を占め1336年には537名が従事しました。 -
建築群の肝は、天守閣のようにそびえる教皇の塔です。教皇居住区の中心である教皇の塔は、教皇の神聖さと教会の富の象徴です。
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教皇の塔と枢機卿の間のある東翼を繋げる部分も教皇の居住部分です。図では白抜きになっている礼拝堂(聖ヨハネ)の塔も増設します。
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白抜きの城壁で囲まれた旧庭園、その先のトイレ塔、一番奥のトルイヤ塔が建てられます。
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居住棟/客間/礼拝堂/枢機卿の間で四方を囲って、中庭も設けます。
旧宮殿の1階を覗いてみます。 -
枢機卿会議の間(Consistoire)
名前の通り、教皇が枢機卿と宗教/政治/司法に関する会議を行う場です。謁見の間でもあり、教皇はここで君主/使節/大使と接見しました。列聖の審査や特殊な裁判も行われました。殺風景ですが、1413年の火事まで壁は装飾されていました。 -
北側の壁には、シエナ派のシモーネ・マルティーニ(1284-1344)のフレスコ画が残っています。1336年にアヴィニョンに招聘され、客死しています。
キリストは、天/地/海をあらわす地球儀を持っています。 -
聖母子画には、幼いイエスが「私は世の光です」と書かれた本を持っています。発注主が聖母の横に膝まずいています。
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南向きの構図
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チケット売り場で配布される追加料金不要のタブレットは、位置情報に呼応して当時の姿を画面に映し出します。部屋の奥に教皇が座り、両翼に枢機卿が並びます。後年には、教皇座に光が差すよう、壁に窓が開けられました。ARは南を向いています。
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枢機卿はビレッタ帽を被り、教皇へ発言する際は帽子を取りました。枢機卿を意味するcardinalはラテン語cardo(軸)から派生し、教皇を支える中心的存在であり、教皇選挙(コンクラーベ)も行います。リシュリュー/マザランは宰相であるだけでなく、枢機卿でもありました。
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枢機卿の間に付属するサン・ジョヴァンネッティ礼拝堂は、壁と天井が洗礼者ヨハネと福音記者ヨハネの生涯を描いたフレスコ画で装飾されています。マッテオ・ジョヴァンネッティによって1346~48年にかけて制作されました。ローマのサン・ジョヴァンネッティ大聖堂でよく見られる主題を取り上げ、アヴィニョンを「新しいローマ」と位置付ける上で、象徴的かつ政治的な意味合いを持つものでした。
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礼拝堂内は撮影が禁止されていますが、ARや解説があります。マッテオ・ジョヴァンネッティはシエナ派の著名な画家で、1からは技術力、2は自然主義、3は遠近法を含めた構成力があらわれています。
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イエスの間
枢機卿会議の間と教皇の塔の間に位置する私的空間の入口です。壁面に描かれた円盤状のフリーズにIHS※のモノグラムが名前の由来です。このモチーフは、淡黄色の漆喰に描かれ、石積みを模した黒色の擬似切石模様で装飾されていました。16,17世紀にかけて改装され、ローマ教皇とそのアヴィニョン駐在の代表者である教皇使節(レガトゥス)と副教皇使節(アヴィニョン駐在の教皇使節)を称える紋章や碑文で新たな装飾が施されました。
※ラテン語のIesus Hominum Salvator(人類の救世主イエス)の略語 -
現在は、殺風景。
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教皇着替えの間
教皇が、枢機卿会議用の祭服を着脱するためのスペースです。500冊を所蔵する小さな図書館としても使用されました。利便性を考えて教皇書簡は、聖職者会議場(枢機卿の間)の近くに保管しました。1369年の目録によると、この部屋には、クッションと金糸の絹布が張られたモミ材の説教壇、そしてライオンの頭部で飾られた教皇座が置かれました。 -
衣装を着替えている様子
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旧侍従室
教皇居室の真下に位置するこの部屋は、1348年に高位聖職者棟に新しい部屋が割り当てられるまで、侍従が使用していた部屋です。侍従は首相のような存在で、使徒室(財政)も監督していました。職務上、この部屋に様々な文書や貴重品を保管していました。 -
1989年に石板の下から発見されました。
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侍従は1名でしたが、後代に数十人で構成される侍従団に成長します。
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室内装飾は動物、幾何学模様、植物のモチーフで彩られ、非常に豪華です。2つの連子窓から光が差し込み、出窓からは換気が行われていました。 17世紀には総督が謁見を行う場となり、賓客をもてなす祝宴も催されました。中世のフレスコ画は幾層にも重ねられた壁面装飾によって覆われました。しかし、どの層も同等の歴史的価値を持っていたため、この部屋は考古学的な状態のまま保存されることになりました。
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クレメンス6世(在1342-1352)
本名ピエール・ロジェ(1291-1352)、教皇庁の新宮殿と呼ばれる部分を建設し、装飾のために各地から画家を呼び集めて、アビニョンを文化/政治の中心地へ躍進させる一方で贅沢を好んで散在し、あらゆる悪徳にまみれた。1348年にはプロヴァンス女伯ジョバンナ(兼ナポリ/シチリア女王)からアヴィニョン市を買い取った。 -
プロヴァンス伯爵夫人ジョアンヌ王妃からのアヴィニョン市購入。1348年6月9日 羊皮紙、かつてジョバンナとルイ・ド・タラントの印章が押印されていた
アビニョンは特権都市なので、フランス王から寄進された旧ヴネサン伯領には含まれておらず、プロヴァンス伯領のドーナツ状の飛び地になっていました。 -
建て増し部分(白抜きの部分)
まず、トルイヤ塔の頂部を建て増して塔を完成させます。教皇塔の横に衣装塔を増設します。トイレ塔の横に厨房塔を増設します。 -
新宮殿(白抜きの部分)
広場からチケット売り場/入場口へ向かう際に、最初に対面するエリアです。観る人たちに壮麗なイメージを与える必要があります。右下の壮大な棟は大礼拝堂です。 -
ファサード部分は高位聖職者塔でシャンボー門を伴います。旧侍従室は、1348年に移転しました。屋上の回廊は、銃眼等の防衛装備がなされています。塔は重要な軍事拠点です。一方で、動線を重視したり塔を四角形にする等、快適さ/美しさを重視しています。
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インノケンティウス6世(在1352-62)
本名エチエンヌ・オベール(1295-1362)、野心的な政策を実行し、新宮殿の完成、市内の城壁を建設し、財務に大きな打撃を与えた。 -
増設部分(白抜き)
大礼拝堂の外側にサンローラン塔を増設し、飛び梁で大聖堂を支えます。ファサードにガッシュ塔を戴きます。 -
大回廊と来客棟を結ぶインノケンティウス6世連絡橋などを増設し、往来を便利にします。
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ウルバヌス5世(在1362-70)
本名ギヨーム・グリモアール(1310-70)、教会法の専門家かつ修道士としてのキャリアを持ち、百年戦争でフランス国王の力が弱まったこともあってローマへ帰還するが、荒廃に耐えられずアヴィニョンへ戻る。 -
ヨハネ22世が建てた法廷は取り壊され、大きな井戸が掘られました。
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教皇の塔の横に、ローマの歩廊(儀式用)とカッシュ塔、旧庭園の外側に新庭園を増設し城壁で囲みます。
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下階の宝物庫
宝物の中でも最も貴重な品々、そしてベネディクト12世によってローマから移管された教会文書が収蔵されています。これらの文書は、アルファベットで識別された1つまたは2つの錠が付いた鉄製の箱に保管されています。 -
教会の物質的な富の保管庫ということもあって、窓は細くて小さく壁は分厚くなっています。
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床の下には4つの隠しスペースがあり、発見されたのは1985年でした。教皇の私物などが保管されていました。
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滑車システムで動かす取り外し可能な板で覆われた地下室には、金細工/食器、/貴重な織物/金貨や銀貨の入った袋が収められています。宝物庫への立ち入りは教皇/侍従長/財務官のみに限定されており、厳重に警備されています。
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大宝物庫
教皇庁の財務部門が置かれ、多数の職員が会計帳簿を管理し、領収書や支出、債券や領収書の写しを作成していました。徴税人によって集められた金銭もここで記録され、目録が作成されました。階段右下の木箱は、主に帳簿が保管され、湿気から守るために床と木箱の間に木片を挟んで浮かせています。 -
部屋はカーテンで2つに仕切られました。その奥には、事務官/書記/公証人/特使を監督する高官の為の机と椅子があり、全体を管理していました。
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中世の書斎に特徴的な大きな暖炉が部屋を暖め、照明を兼ねていました。
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現在は殺風景です。
以下に、当時の教皇庁の財源を記します。
教皇庁への納付税
一般サービス:司教および修道院長が任命時に支払う手数料。
小手数料:新任の司教および修道院長が教皇庁職員および枢機卿の側近に支払う贈与または謝礼。
聖職/副助祭職/受領手数料:教皇庁における司教および修道院長の叙階または祝福の際に支払う手数料。
教区事務局手数料:恩恵状および正義状を送付、封印、登録するために必要な手数料。
アド・リミナ(ad limina):教皇庁/聖ペトロと聖パウロの墓への巡礼の際に支払う手数料。5年毎に課され、司教/修道院長が対象。
パリウム手数料:教皇勅書の送付のために支払われる金額。
地代:カトリック教会の属国であるナポリ王国、シチリア王国、アラゴン王国、イングランド王国、アイルランド王国が支払う
教皇への遺贈および自発的な贈与/教皇庁への罰金/その他の少額収入。
教皇庁の代理人によって納税者の自国で徴収される税金
十分の一税:教皇が聖職禄保有者に課す税金で、十字軍と教皇領の征服の資金源となった。
年賦税:聖職禄が新たな保有者に授与された後の最初の1年間に得られる収入で、教皇庁に留保される。
調達料:元々は、司教や下級聖職者が聖職禄を訪問する際の宿泊権であったが、後に訪問義務のない聖職者が徴収する金銭となった。
財産没収権:聖座が、修道者か世俗者かを問わず、亡くなった聖職者の財産を分配する権利。
慈善補助金:金額が定められておらず、聖職者の善意に頼って徴収される貢納金。重大な事情がある場合、教皇は聖職者の寛大さに訴えた。
セント(Cens)グロ・セント(Gros cens):教皇庁に属する土地の実際の使用料として徴収されるもの。プティ・セント(Petits cens):教皇の保護を維持または獲得するために提供されるもの。
空席聖職禄:教皇が授与権を持ち、宮廷で空席とされている聖職禄からの収入。
イタリア/コンタ・ヴネサン/ヴィニョンの各教皇領からの収入。
ペトロの税(Peter's Pence):イングランド、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、ポーランドで徴収される直接税。 -
財源の源泉
教皇の課税対象であったキリスト教世界の領域。東方正教会は分離していますが、プロテスタントは誕生していません。新大陸等も到達していません。 -
教皇庁
教会を束ねる組織で、450~650名の職員を擁した。教皇は教会の最高統治者として君臨し、4つの機関で構成されました。
①財務局:教皇庁の収入を管理する最重要機関。財政資源の徴収/予算の管理/裁判所の物的ニーズの対応/通貨の発行等を行いました。最高責任者は侍従長で、その下に会計/出納係、書記、事務職員(書記官/公証人/秘書/使者)、その他職員(正副監査役/財務担当官/弁護士/印章官)が連なります。造幣局は局長をトップに、地方行政官/徴税官/特別財務官らが勤務しました。
②事務局:請願書の審査と訂正/封印/書簡の発送/聖職辞任届を受理。
③訴訟審理局:行政裁判所で審理されない事件を扱う常設の司法機関。
④Pénitencerie apostolique(適切な訳語が見つかりませんでした):特免状を与え、破門を解除し、罪を赦します。 -
両替係の天秤は、硬貨の重さを測って価値を見極めるために用いられました。
机のクロスの上に引かれた升目は、硬貨を数えるために使用されます。縦軸にはX,C,M(十,百,千)と桁数が書かれます。国や時代ごとに違いの生まれる硬貨を処理しました。 -
ローマ教皇を家長とする行政組織
主教座:礼拝堂長/私設礼拝堂の司祭(聖務日課と教会法上の時課の執行)/共同司祭(名誉職)/教皇の告解司祭
神学部:神学修士課程/教授陣
近衛兵と儀仗兵:近衛兵(侍従/門番)/儀仗兵(教皇護衛)
宮廷警察:司法長官(書記官とその使用人を除く宮廷関係者および廷臣に対し、秩序維持と司法執行を行う。)/巡査/訴追官/民事裁判官/刑事裁判官
秘密のチャプレン活動:祝祭日に貧しい人々への衣食提供のため、托鉢修道会の修道院へ資金を分配。
教皇の私的奉仕:チャーマーズ(家事全般を行い、交代で教皇の睡眠中の安否を気遣う)/チャーマーズ・プレラテス(教皇の私的秘書。ミサで教皇に仕え、聖務日課を唱え、祭服の着付けを補助する)/薬剤師/理髪師
厨房:購買担当者(書記/食料管理担当者の補佐を受けて食料を調達/配給)/料理長/調理師/給仕
ワイナリー:瓶詰め担当者/書記/使用人/セラーでのワインの保管/配給/給仕/果物の供給
パン屋:パン職人/使用人/小麦・塩・チーズ・ペストリーの仕入れ。
蹄鉄工所:工長/馬丁/使用人/厩舎と世話係/手綱・鞍・毛布の仕入れ。
水:水運び
照明:蝋細工長の責任下
メンテナンス -
外へ出ます。
ベネディクト12世の城壁に囲まれた旧庭園へ降りられます。ベネディクト12世からクレメンス6世にかけて、司教宮殿の東側に植えられていた果樹園と庭園の跡地2000平方メートルを整備(1334~52年)されます。旧庭園は2つの部分に分かれていました。 -
一つは、浴場近くの教皇塔の麓にある下庭で、上の写真では左枠外になります。クレメンス6世は1345年にグリフォンの泉(写真)を建設し、散水のみならず教皇専用風呂場の水源にもなりました。
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もう一つは、聖ヨハネ塔(写真中央)近くの装飾庭園と城壁近くの菜園から成っていたと思われる高台部分です。これらの庭園の形状は、敷地の岩だらけの地形と宮殿の敷地面積に合わせて設計されていました。
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財務部の会計帳簿を紐解くと、いつ何をしたかが克明に再現されます。菜園では、キャベツ/ほうれん草/葱/玉葱/空豆/エンドウ豆等が、ハーブ園ではフェンネル/マジョラム/セージ等が栽培され、食卓に上りました。城壁沿いには、ブドウも栽培されています。果樹園では林檎/洋梨/オレンジ/イチジク/胡桃が植えられました。
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ウルバヌス5世(1262-70)の時代に庭園は完成します。グリフォンの泉の左側には、1264年に、ローマ歩廊という棟が増築され、庭園が二分されています。
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写真は階段を降りてすぐの景色で、今歩いているのは1839年に取り壊されたローマ歩廊の跡で、土台の石だけが残っています。動物園も敷設され、熊/ライオン/ラクダ/珍鳥が飼育されました。
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庭園は、中世の囲い庭園に特徴的な見張り台を備えた堅固な壁で囲まれていました。ベネディクト12世の城壁もフランス革命以降に取り壊され、旧庭園と新庭園は一体となっています。
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階段を上り、枢機卿の間の上階の部屋へ向かいます。
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グランド・ティネル(大食堂)
ティネルはプロバンス語で食堂を意味し、ここで晩餐会が催されました。1413年の大火災以降、焼けた広間とも呼ばれました。屋根とテラスは1419年に修復されました。 -
上の写真は、晩餐会の時の下座を向いています。真ん中には、飲み物のサーバーが置いてあります。1352年12月30日のインノケンティウス6世戴冠を祝う晩餐会を再現しています。
左前には、厨房へ通じる階段があります。風除けと事故防止のために、階段には木造の扉/壁/屋根で囲まれていました。 -
サーバーは噴水仕掛けになっており、香りの付いた水またはワインが噴き出ていました。噴き出る際には鈴を鳴らし、金銀メッキで目を、鈴で音を楽しみました。
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1342年に、クレメンス6世はトイレ塔の横に新たに厨房塔を建設しました。下の2層は食料貯蔵庫で、最上階が厨房で高さ18mの八角錐のレンジフード兼煙突で覆われています。
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炉床のグリルは複数の段に重ねられた格子に網や串を並べて、大量の食材を同時に調理することが可能でした。串の下には肉汁受けがあり、きれいな焼き色が付くよう定期的に肉汁を肉に掛けます。煮込み鍋用の脚立も見えます。戴冠の晩餐会では、1万人が招待されました。左の壁には、2枚の網に挟まれた魚が焼成を待っています。
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クジャクは権力と不滅性の象徴で、上流階級のための特別な食材です。この晩餐では鶏2400羽/山鶉1432羽が供されましたが、クジャクは僅か11羽です。ロースト後に再び羽根で飾り付け、生きているときと変わらない姿で提供されました。
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食堂長は食事の円滑な進行を監督し、給仕/パン運び/給水係はいつでもサーブできるよう待機し、料理を切り分ける係は切り分けに専念していました。教皇以外でナイフを携えていたのは、この係だけでした。これらの職員は全員、食事の円滑な進行を確保するために食堂内を巡回しました。
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食材の仕入
ラ・ロシェル/モンペリエ/トゥールーズ/ボルドー/ブルターニュ/ディエップ/ブローニュ・シュル・メールを経由して:海水魚(マグロ/メルルーサ/ニシン/クジラ)
ボーケール/サンジル/ニーム/ユゼス/ポンサンテスプリ:ワイン
ブルゴーニュ:淡水魚
輸入品
アルプス: 家畜
マルセイユ/マルティクス: マグロ/ウナギ/ボラ/スズキ
ベネチア:東洋から香辛料/砂糖 -
教皇は南側壇上の司教座(カテドラ)に着席しました。貴重な食器が教皇のテーブルに並べられ、執事は毒物の有無を判定するためのプロバ法を用いて、料理を系統的に検査しました。右側は枢機卿の食卓で、個別の椅子が用意されました。それ以外の招待者は、長椅子に座りました。
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上の写真と同じ部分を見ると、アーチの下が塞がれています。実は、コンクラーベ(教皇選挙)の際に穴が開けられ、晩餐会の後に塞がれます。なので、塞がれているのが通常モードです。
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壁の奥はパレマンと呼ばれる応接室でした。公的空間である食堂と私的空間である教皇居室をつなぐ役割を果たし、特別に謁見を許された人がここで待機しました。教皇と枢機卿たちはここで秘密委員会を開き、新任枢機卿への指輪と枢機卿帽の授与、そして教皇が栄誉を与えたい人物への黄金のバラの授与等の儀式が行われました。パレマンは壁や座席を飾るタペストリーを指し、往時はタペストリーで彩られていた様子を想像させます。
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上の写真と同じ構図。壁が取り払われ、木の階段が取り付けられています。食堂との段差は1.9mあります。写真は晩餐会の様子で、庭園側の壁です。
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反対側の壁には、小食堂へ通じる扉があります。教皇が普段食事を摂るための部屋でした。壁には暖炉も取り付けられていました。これらの部分は、19世紀に塞がれてしまいました。
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階段を上って食堂へ出ると、左側(客間棟)にもアーチがあります。こちらもコンクラーベの際に壁が取り壊され、晩餐会が終わると塞がれます。
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1274年のリヨン公会議は、教皇選出期間中の枢機卿の完全隔離を規定しました。この規定がコンクラーベの語源であり、ラテン語のcum clave(閉じ込められた)に由来します。枢機卿たちはコンクラーベ中に死亡した場合に備えて財産目録と遺言状を作成し、それぞれ書記と召使いを伴って隔離されました。ベネディクト12世の死後、大食堂と客間/応接室を隔てる2箇所の壁を壊して、大きな隔離部屋にしました(写真)。外部の介入を防ぐために扉/窓は塞がれ、食料搬入用の窓だけ残されました。新しい教皇が選出されると隔離(監禁)は解除されます。
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聖マルティアルス礼拝堂
食堂脇に付設し、コンクラーベ中も使用されました。1345年にクレメンス6世がフランスの聖人マルティアルスへ奉献し、マッテオ・ジョヴァンネッティによるフレスコ画で装飾されました。日曜日毎に教皇が使用しました。カトリックの祝祭で使用する大礼拝堂と対比して小シャペルと呼ばれました。サンマルシャル(フランス語読み)はキリストやペテロ/パウロからアビニョン等への布教を託され、アビニョンの教皇は彼らの後に続くという正統性をアピールしています。クレメンス6世はリモージュ地方のチュール出身なので、特に推したい聖人です。彼の生涯を描いたフレスコ画にはA~Uまでアルファベットが振られ、順番を追う助けとなっています。 -
天井から反時計回りにリモージュのマルシャルの生涯が描かれます。250年頃の聖人ですが、8世紀以降キリストや使徒の生涯(1世紀)とクロスするストーリーが誕生しました。。
①キリストの説教を聴いたマルシャルは改宗を決意し、ペテロから洗礼を受けます。キリストは12使徒の前でマルシャルを祝福します。
②キリストの要望により、ローマ司教ペテロはマルシャルをガリアへ布教のために派遣します。道中に供の一人が亡くなりますが、マルシャルはペテロから与えられた杖を使って復活させます。
③チュールでは若い女性に取り付いた悪魔を追い出し、市長の息子を復活させます。マルシャルは市民の前で彼に洗礼を施します。
④アジャンでは異教の祭司たちに撃ち叩かれますが、彼らを盲目にする奇跡を行います。キリストに導かれてリモージュへ向かいます。
⑤リモージュではスザンヌ/ヴァレリー母娘に洗礼を施しますが、マルシャル一行は反対者に投獄されます。しかし反対者は雷に撃たれて死に、奇跡によって牢の扉が開きます。
⑥リモージュ公爵のエティエンヌはヴァレリーに求婚するも断られたので、彼女を斬首します。彼は天使に撃たれますが、死後に悔い改めたので復活されます。
⑦エティエンヌは神の赦しを得るためにローマのペテロの許を訪れます。帰途ウィーンで供の一人が悪魔によって溺死しますが、マルシャルが復活させます。 -
⑧改宗したエティエンヌは領内の異教の偶像を破壊します。ボルドー伯爵夫人ベネディクトは、マルシャルの杖で夫の麻痺を癒し、更には杖で火事を鎮めます。
⑨ポワティエで、マルシャルはキリストからペテロとパウロの殉教を知らされます。 -
⑩マルシャルの弟子オーレリアンは、リモージュの司祭に叙任されます。右には、マルシャルがガリア南西部に建てた13の教会が描かれています。
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⑪⑫キリストは、マルシャルがまもなく死ぬことを啓示します。マルシャルはリモージュへ戻りミサの最中に亡くなります。2人の天使が彼を天の神の御許へ運んでいます。
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⑬⑭マルシャルの葬儀の間、麻痺患者が奇跡で立ち上がります。右側では、マルシャルの骸布は数々の奇跡を起こします。
※客観的な奇跡は、列聖されるうえで重要な要素です。新約聖書の使徒行伝に出ているペテロやパウロに起きた出来事などをかなりパクった生涯です。 -
階段を降りて応接室へ戻ります。左壁の奥(緑点)には、書斎があります。
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ベネディクト12世の書斎
ベネディクト12世(在1335-42)の書斎は書斎塔の最上階に位置し、南側には教皇居室へと続く狭い通路があります。ウルバヌス5世(在1262-70)が庭園にローマ歩廊を建設(1364,1839年取り壊し)した際に開口部が設けられました(写真奥)。19世紀に壁に漆喰が塗られましたが、1906年に14世紀の壁画が発見され、1971年に一部が復元されました。 -
1963年には14世紀のタイル床が完全な形で発掘されました(写真)。装飾タイルのモチーフは、壁を飾る絵画と調和していました。これらは、ユゼス近郊のサン=カンタン=ラ=ポテリーの職人によって大量生産されたものです。
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教皇の居室へ入ります。
この先は撮影禁止です。オリジナルのフレスコ画が残っている部屋は、プロテクトが掛かっているようです。 -
教皇塔の旧侍従の間の上のフロアです。
壁にはフレスコ画で、青地にブドウの蔓と樫の木、下には赤茶色のドレープのある布が掛かっています。1338年にベネディクト12世が装飾しました。床は、1972年にタイル張りの状態に復元されました。 -
壁には、駕籠から逃げた様々な鳥が飛んでいます。これは身体から解き放たれた魂をあらわしています。
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動物たちは写実的に描かれ、同時代のフランスの装飾としては大変珍しいスタイルです。
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此方は新宮殿(1352-62年)で使用されたタイル。なんか愛嬌があって、妙に引き付けられます。
居室の奥には鹿の間があります。 -
鹿の間
この書斎は、クレメンス6世(在1342-52年)の寝室としても使われていました。
1701年に床を高くして、南側に開口部が設けられ、西側には漆喰の暖炉が追加されました。壁に描かれた鹿が、名前の由来です。鹿は、中世において最も高貴な猟の獲物でした。鹿の角は毎年落ちても再び生えてくるので、キリスト復活の象徴でした。ザクロは、キリストの受難の死を象徴します。 -
中央では魚獲りをしています。教皇たちは市内に養魚池を建設し、カワカマスなどの魚が養殖され、教皇の食卓に供されていました。右では、農民が鳥を誘き寄せるために鳴き声に真似た笛を使って猟をしています。
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右下では、隼を使用した狩りを行います。猛禽に獲物を獲らせる狩りは、高貴な人物が行う狩のカテゴリーとみなされ、日本の鷹狩に呼応します。大勢のスタッフや猟犬等を総動員して軍勢を動かすのは、軍隊と指揮官に通じます。
中央では農民が鳥笛や罠を使って、野鳥を獲っています。左下では鳥籠を使用しています。窓の左側は、作者が座った人を描いた上に犬を描いており、修正の跡が残っています。 -
左では子供たちが水浴びしている等、牧歌的な光景が描かれます。1701年に暖炉を設置する等の改装が行われ、貴重な絵が破壊されました。
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階段を伝って、下へ降ります。
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礼拝堂隣接室
リブヴォールトの広範な使用と彫刻装飾といったクレメンス6世(在1342-52)による新宮殿の主要な建築的特徴が見られます。 -
インノケンティウス6世橋
1360年にインノケンティウス6世によって、小食堂と北の聖具室を結んでいました。この橋のおかげで、大礼拝堂へのアクセスが容易になり、鹿の間から降りる古い階段よりも行列に適した通路となりました。19世紀に破壊されたこの建造物は、陸軍工兵隊による設計図と測量によってその存在が明らかになっています(図赤色の部分)。全長15m幅2m、9mの高さがありました。
※彼がリューマチを患っていたことも大きく関係しています。 -
大礼拝堂
4年の歳月をかけて1351年に完成したこの大聖堂で、クレメンス6世は生前に諸聖人の日を祝うことができました。その並外れた規模(52m×19m)は、荘厳で厳粛な礼拝を可能にしました。使徒ペトロとパウロに奉献された礼拝堂では、教皇臨席の下で戴冠式/葬儀/年間58の儀式が執り行われました。 -
写真は1252年のインノケンティウス6世の即位式の様子で、中央に祭壇等が設置され、左の黄金の天蓋に教皇が座っています。
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壁自体は装飾されず、儀式の際には緑地に赤いバラが描かれたタペストリーが掛けられ、床には絨毯が敷かれました。教皇の横には枢機卿が着席しました。枢機卿の前には、聖歌隊が立ちました。
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金属製の内陣仕切りより向こう側は、高官たちが座りました。
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南の聖具室
枢機卿の聖具室とも呼ばれ、新宮殿の南東隅を要塞化するためにインノケンティウス6世によって建てられたサンローラン塔の4階に位置しています。リブヴォールト天井で覆われ、その要石の一つにはインノケンティウス6世の紋章が刻まれています。この空間は、教皇と枢機卿が儀式の際に祭服を着替えるために使用されました。16世紀以降はアヴィニョン・ロタ会計監査官の住居となり、5つの部屋に分割されました。東側の広いサロンを照らしていた窓には、ピウス5世(在1566-72)の紋章とキビの穂の間を飛ぶ鳥を描いたオリジナルの装飾が残されています(写真奥)。南側の2つの小さな扉からは、塔の外側の控え壁の間に作られた2つの小部屋に通じています。南側の天井には、ヴォールトに正義の寓意像、壁には枢機卿を務めたボルゲーゼ家の紋章であるハヤブサと鷲が装飾として施されています。
グレゴリウス11世(1370-1378)の墓碑銘 グレゴリウス13世の教皇在位中の1584年に刻まれた碑文は、教皇の承認と、資金を提供したローマ市民の元老院の承認を証するものです。
1. ステンドグラスの断片
2. コンパスで図形を描く幾何学者
3. 14世紀のステンドグラスの断片、 -
侍従室
1348年、侍従長は高位聖職者棟にあるこの新しい居室に移りました。これは、告解師/秘書/書記官といった新たな信頼を得た人物に権力が移り、教皇庁における侍従長の地位が低下したことを示しています。ユグノー戦争中は拘留場所として使われ、壁にウルガタ訳聖書の一節が書き写されました。翌世紀には、大礼拝堂と繋がる開口部が設けられました。 -
公証人室
木造の骨組みで覆われた10m四方の立方体の中に、使徒座公証人の執務室があります。彼らは日常的な財務処理を担当し、ここで契約書や書簡を作成し、徴税官の会計監査を行っています。1750年頃、パスカル・アクアヴィヴァが副使節を務めていた時代に、当時流行していたポンペイ様式のフリーズが部屋の壁に描かれました。神話と天使が交互に展開します。 -
謁見塔(ガッシュ塔)
サンローラン塔と同時期にインノケンティウス6世の治世下で建設されたこの塔は、宮殿内で最も高い展望台でした。プロヴァンス語のgacho(番人)に由来し、塔の上にそびえる見張り塔を指します。侍従長の居室の上に増築されました。 -
屋上まで上がれます。
大中庭/栄誉の中庭と呼ばれる新宮殿によってできた中庭を囲んでいます。右が大礼拝堂/正面が教皇塔です。その後のアヴィニョンは、どうなるでしょうか? -
グレゴリウス11世(在1370-78)
本名ピエール・ロジェ・ド・ボーフォール(1329-78)、クレメンス6世の甥で、教皇のローマ不在で混とんとした教皇領の平定に苦心する。1377年にローマへ帰還し、アビニョン捕囚は終焉する。 -
教会大分裂(シスマ:1378-1417)
ローマとアヴィニョンそれぞれに教皇が立ち、妥協/脅迫を伴う政治活動で自らの正当性を立証しようとする。1409年のピサ公会議では第3人の教皇まで誕生するが、1417年のコンスタンツ公会議で並列する教皇が順次廃位され、ローマが擁立した系統が正統とみなされる。 -
対立教皇
クレメンス7世(在1378-94)
ローマでウルバヌス6世が選出されたことを快く思わないフランス人枢機卿らが擁立、1379年にローマ攻略を試みるも失敗する。イタリア国内の教皇領を失うことで深刻な財政難に陥り、修道院にも課税する。
ベネディクト13世(在1394-1423)
フランス国王シャルル6世と対立し1398年にアヴィニョンを包囲されるも1403年に脱出に成功し、出身のアラゴン王国を頼るも事実上の廃位となる。 -
最大の庇護者だったフランス王と対立で、アビニョンは5年に渉る包囲(1398-1403)を受けます。脱出後、甥のロドリゴ・デ・ルナが率いるカタルーニャ軍が奪還し、留守を預かります。1409年のピサ公会議ではローマ/アヴィニョンの教皇に退位勧告が出され、新たにヨハネス23世が選出されますが、どちらも応じず3人の教皇が林立する事態となります。拠点のないヨハネス23世は、1409-11年にかけてアヴィニョンを攻撃(カタルーニャ戦争)してカタルーニャ軍は降伏します。フランス国王の支持の下でヨハネス23世はアヴィニョンを支配します。ベネディクト13世が亡命先で教皇を自称するだけとなります。宮殿内には、投石器で使用した砲弾や弩で射た矢が刺さった頭蓋骨等が展示されています。
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教皇使節団の駐在
1418年にマルティヌス5世がローマで即位することで対立教皇は消滅します。フランスの教皇領の統治は、cardinalis nepos(羅:甥の枢機卿)と呼ばれる現職教皇の甥である枢機卿が教皇公使として遂行しました。対立教皇時代のブランクを経て、1433-1691年はローマから派遣され、外交権も行使しました。1541年以降は副公使も派遣され、専ら内政を担当しました。公使撤収後は教皇領のトップとして、1790年にフランス領へ編入されるまで統治しました。 -
1506年にローマで創設されたスイス衛兵は、1573年にアヴィニョンの教皇宮殿の衛兵に代わってその地位に就きました。バチカンのスイス衛兵と同じ制服を着用しており、彼らは常に公使/副公使に同行しました。
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副公使アレクサンドル・コロンナは、1665年にトゥルイヤ塔/カンパーネ塔/ガッシェ塔の上部を取り壊し、シャンポー門の前に要塞を建設するための資材にしまた。フランス革命中の1791年、アヴィニョン市民は教皇副公使を追放し、アヴィニョンとコンタ・ヴネサンをフランスに併合しました。その後は、監獄として使用されます。
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1810年にナポレオンは、宮殿を兵舎として接収します。1811年にはインノケンティウス6世の橋や小食堂の棟、1839年にはローマ歩廊などを取り壊し、動線を改善しました。
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天井が高いので、床板を敷いて中1階、中2階というように多層化して増床しました。フレスコ画で聖人の顔等が剥ぎ取られているのは、兵士たちが剥がして売って換金したためです。宮殿は1906年に返還され、改装を経て1907年以降は国立博物館として一般公開されています。
大聖堂横の入口へ移動します。 -
メインゲート
浅浮彫で彫られた四葉飾りと、その上に載せられた小さな三つ葉飾りのアーチの相互作用や、ライオンの仮面/猿やセイレーンといった誘惑の象徴で構成された幻想的な動物図像は、リヨンのサン・ジャン大司教教会でも見られる装飾要素です。兵舎として使用された際に損なわれました。 -
ロッジ(免罪の窓)
教皇は大礼拝堂でミサを執り行った後、戴冠式では枢機卿助祭の長から三段櫂を授けられ、有名なハベムス・パパム(我らに教皇が誕生した)と唱えられます。名誉の中庭を見下ろす免罪の窓を通して、新しく選出された教皇は信徒たちの群衆に姿を現し、祝福と免罪を授けます。元の窓は19世紀に軍によって破壊され、ロッジアは大聖堂に設けられた寮への階段へ改築されました。左:グレゴリウス11世の戴冠式/右:ボニファティウス8世の祝福 -
音楽の革新Ars nova
クレメンス6世(在1342-52年)の下でアヴィニョンは西欧における音楽革新の中心地として確立され、アルス・ノヴァと呼ばれる様式が隆盛を極めました。1320年代にフランス北部とフランドル地方で発展したこの運動は、高度に複雑な記譜法に支えられた多声歌唱の台頭を象徴するものでした。教皇のために作曲された数多くの多声ミサ曲は、アヴィニョンのレパートリーの豊かさと影響力を物語っています。また、これらの作品は教皇権の栄光をも示しています。3声のモテット「ペトレ・クレメンス」は、神話的な言及を多用することで芸術の庇護者でもあった人物を称賛する肖像を描き出しています。抜粋:苦しむ者の目は乾き、老人は拍手喝采し、子供たちは死の影から喜びを得る。なぜなら、彼らの住む地域に、神によって確証された、世界の驚きであり、美徳の模範となる鏡である、輝かしい幻影、精神の光線、クレメンス六世が生まれたからである。(…) ペトロよ、あなたは最初のペトロのような不幸に見舞われることはないだろう。なぜなら、あなたは公正に統治するからである。あなたは慈悲深く、これからもそうあり続けるだろう、とクレメンスは言う。ペガサスの泉の賜物を発見したあなたよ。(…) 私の唯一の願いは、あなたの行いを歌うことである。長生きせよ、長生きせよ、世界にとって最も有益な人よ、あなたに匹敵する者はこの世に見当たらないのだから。 -
栄誉の階段
栄誉の中庭から大礼拝堂へ通じるこの階段は、広く明るく盛大な儀式の際に行列がスムーズに移動できるよう設計、近代的なイタリア様式のデザインが特徴です。1659年、ルイ14世の訪問前夜、副公使ガスパール・ド・ラスカリスはこの階段を修復させ、銘板が写真正面に嵌められています。 -
栄誉の中庭は、アビニョン祭の準備でステージが設営されていました。
右側には小食堂の棟やインノケンティウス6世の橋がありました。 -
ARで見ると、こんな感じでした。正面がゲストの宿泊棟で、右下は大宝物庫。
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左側には、マジュール門が。
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後ろは、こんな感じ。上階のロッジから戴冠式を終えた新教皇がバラ窓から顔を出し、栄誉の中庭にいるギャラリーが新教皇を見上げて祝福する構図です。
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大礼拝堂の下は、大謁見室です。聖母戴冠と預言者たちを描いた2つのフレスコ画がかすかに残っています。
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階段を降りると、最下層。
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ミュージアムショップになっています。
神学室と呼ばれ、ドメニコ会の修道士が神学の授業を行いました。一般の聴衆も受け入れ、彼らのための出入口がミュージアムの出口となっています。壁には基盤の岩が見えます。兵舎時代は、上級将校の厩舎として使用されました。 -
外へ出ました。南側です。
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大礼拝堂を支える飛び梁もバッチリ見えます。
次は、アビニョンの街を探検します。
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