2025/12/14 - 2025/12/14
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アビニョン史はウェブ等で簡単に接することができますが、現地の写真を歴史順に並べてみました。日本人に分かりにくい部分に少しでも光が当たればと思います。できるだけ網羅するよう努めましたが、専門サイトでは無く、厭くまでも旅行記なので欠落部分があることは予めご容赦願います。楽しく読み進められれば、それが何よりの悦びです。
アヴィニョンと切っても切れない関係にある、対岸のヴィルヌーヴ・レザヴィニョンも対等に取り上げています。
前編はコチラ↓
https://4travel.jp/travelogue/11954296
- 旅行の満足度
- 5.0
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ドム岩塊
古代から通商路であったローヌ川の左岸に位置するドム岩塊は、地域で最古の人類が定住し、各時代の遺跡が揃います。ローヌ川の氾濫/外敵侵入を阻む天然の要塞でした。教会や教皇宮殿もドム岩塊の上に建設されました。1974年に岩塊を刳り抜いて道路を通しています。左の塔は、岩の塔と呼ばれます。ロシェ デ ドン公園 広場・公園
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カルヴェ博物館には、ドム岩塊で発掘された人型石碑 BC3500-2000(新石器後期~銅器時代)石灰岩製が展示されています。
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ローマ帝国では属州ガリア・ナルボネシスのアヴェニオという都市でした。教皇宮殿サンローラン塔の向かいには、1世紀ローマ劇場のアーチが残っています。
中世はメロヴィング朝/カロリング朝/プロヴァンス王国/アルル王国を経て、1032年に神聖ローマ帝国の領邦となります。プロバンス伯、加えてトゥールーズ伯が領主となり、1129年にアヴィニョン市には大幅な自治権が与えられ、城壁も建設されます。 -
ドム岩塊には、アビニョンの司教座が置かれたノートルダム・デ・ドム教会が12世紀に建設されます。長年にわたって建設が続き、現在の姿となっています。1475年には大司教座へ昇格します(2002年よりサフラガン)。
ノートルダム デ ドン大聖堂 寺院・教会
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サンベネゼ橋
交通の要衝として発達したアビニョンで1177~85年にかけて建設された橋で、ローヌ川を横断する全長900mの大構築物です。長年、最下流の橋として重要な存在でした。教皇宮殿と共に世界遺産を構成する物件です。サン ベネゼ橋 史跡・遺跡
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聖ベネゼ(1165-84)
1177年、ベネゼ(プロヴァンス語:年若いベネディクト)という名の12歳の羊飼いが、神託によりアヴィニョンに橋を架け始めました。障碍者を癒す奇跡を18回も行い、信用を得て労働力/資金を調達しました。前人未踏のプロジェクトのリーダーが弱冠12歳というのは奇跡であり、19歳で夭折後も聖人として信仰の対象となりました。
※列福/列聖はされていません。 -
橋と周辺図
旅行記1枚目のドム岩塊の写真のすぐ右側に位置していることが分かります。岩の塔から走る城壁と橋の入口が交わっています。そしてホスピス跡があります。 -
ホスピス
サンベネゼは、弱者に優しい存在でした。橋の建設と並行して、1181年には建設者宿舎に併設するホスピスの建設を始めます。日没後に城壁の門が閉じられると、辺りは無法地帯になります。病人や巡礼者に寝床/食事等を提供する慈善施設が必要となりました。 -
1189年には架橋兄弟団という資金団体が結成され、完成後の橋のメンテナンスやホスピス等の巡礼施設経営、職人の確保にあたりました。寄付/喜捨だけでは必要を賄えないので不動産経営を行い、テナントの賃料などを収入としました。サンベネゼ橋の上流40kmの地点にサンデスプリ橋を架設し、こちらは現役で使用されています。
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アビニョン包囲戦(1226)
アルビジョワ十字軍(1209~29年)の一環で、カタリ派を支援するトゥールーズ伯を懲らしめるべく、ルイ8世が伯領アビニョンを3か月間包囲して陥落させます。カタリ派を支持した懲罰として城壁を破壊、5年間の謹慎が明けて3年かけて再建されます。。写真は、当時の古い城壁が唯一残っている場所で、白いプレートにその旨が書かれています。 -
旧城壁の跡は、カンパーヌ通り/リス通り/ジョゼフ・ヴェルネ通り等となっています。グーグルマップで84 Rue Joseph Vernetで検索すると、ビューモードで上の写真の場所が写ります。
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1229年のパリ条約でローヌ川右岸がフランス領となり、ローヌ川を挟んで(フランス)王国と帝国が対峙する構図が生まれます。帝国とは、神聖ローマ帝国領邦プロバンス伯領のことです。
アビニョンはイタリアからスペインへ抜ける東西の道と、地中海から大西洋/スイスへ通じる街道/河川の十字路に位置し、政治経済の十字路でした。 -
アビニョンにもフランスの痕跡が刻まれます。フランス南部に残る灰色苦行会はルイ8世が1226年にアビニョンに設立した団体で、灰色の修道服を着てカタリ派を支持した過去を悔い改めたのが起源です。ソルグ川沿いに、現在も礼拝堂等が現役で活動しています。
※旧約聖書時代に悲しみ/悔い改めを表現するために灰をかぶったことから、灰色は悔い改めのシンボルカラーです。 -
アビニョン包囲戦ではサンベネゼ橋も被災し、1234年に復興が始まり、木造橋は総石造りに改築されました。パリ条約ではローヌ川の帰属が抜けていたために、サンベネゼ橋と通行料の徴収権は王国/帝国どちらのものか紛争になります。ローヌ裁判と呼ばれる法廷闘争が18世紀末まで続きます。
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土木技術
夏場、ローヌ川の水位が最も低い時期には、約100人の作業員で橋脚を1,2本建設しました。砂利や石の層除いて、川底まで1~2m掘り下げます。川底に木製の基礎を敷き(写真左)、その上に石造りの橋脚を建設しました。橋脚の外側は成形された石で、内側は砕石とモルタルを充填します(写真右)。橋脚が完成すると、周囲に小石や砂利を敷きました。 -
川の水位が高い場合は、仮締切堤防を築いて囲みました。堤防壁の間には、土と堆肥を充填しました。堤防が完成するとポンプで排水して乾燥させ、重い杭打ち機を使って、木杭を川底に深く垂直に打ち込みました(写真)。木杭の上に橋の木製基礎を敷き、その上に橋脚が築かれました。 係留した船を使って構築しましたが、流れが速く、船が沈む危険性もあるため困難を極めました。仮締切工法は現在も使用されています。
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橋のアーチは、巨大な木製型枠を用いて杭間に構築されました。この型枠の上に、丁寧に切り出された石材が積み上げられ、橋の構造を支え、荷重を分散させることで、バランスが維持されました。
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アーチを2連分進むと、橋桁に付属する礼拝堂があります。
その手前に、下へ降りる階段があります。 -
階段を降りて、振り返った構図です。結構な高低差(4.5m)があることは分かっていただけたでしょうか?階段の先に聖ベネゼ(サンベネゼ)礼拝堂があります。アビニョン攻囲戦が終わった1230年頃に橋の再建と共に築かれた土台です。13世紀の橋は、この高さで築かれました。
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サン・ベネゼ礼拝堂はプロヴァンス・ロマネスク様式で、聖遺物を安置し巡礼地となりました。身廊とヴォールト天井を持つ半円部分で構成され、6本の柱に支えられたアーチが唯一の装飾要素となっています。17世紀に橋が放棄されたため、聖遺物はサン・ディディエ教会に安置されています。
フランス王国側へ移動します。 -
サンベネゼ橋南側にあるバス停からヴィルヌーヴ行の路線バスに乗って、ローヌ川を渡ります。シティパスでは、この路線もフリーです。
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ローヌ川を渡ると、ヴィルヌーヴレザヴィニョンです。川を挟んで県と地方も変わりますが、経済圏/生活圏は一緒です。関門海峡みたいな感じです。
Pont Édouard Daladier 観光名所
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Tour Le Belバス停で下車。大文字固有名詞なので、美男王の塔と訳せます。
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フランス国王フィリップ4世美男王(在1285-1314)は、1292年に右岸の聖アンドレ修道院周囲にヴィルヌーヴ・レザヴィニョンという都市を建設して、帝国/教皇/イタリアを牽制します。名称は、アヴィニョンの新しい都市(英:New~city)という意味です。サンベネゼ橋の所有権を主張すべく、1302年にフィリップ美男王の塔を建設します。
フィリップ美男王の塔 建造物
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1307年にはサンベネゼ橋に門楼を築き、美男王の塔と城壁で結んで橋の実効支配を狙います。対岸のプロバンス伯は脅威を感じ、工事の中止を要求します。CGのように、右岸を門楼と塔でしっかりと防御しました。
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塔の2階部分の様子
これは窓ではなく、中庭を囲むために計画された城壁上の通路へ通じる扉の開口部でした。しかしプロバンス伯兼ナポリ王の圧力で城壁の建設は中止され、安全上の理由から壁で塞がれました。 -
20世紀初頭の修復工事で原状復帰してガラス張りになりました。さりげない部分に、フィリップ4世の未完の野望が痕跡として残ります。
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フィリップ4世(端麗王/美男王)はフランス史上初の近代君主で、徴税システム整備による財政強化/金本位制度/会計検査院/議会/三部会/高等法院開設等で、法曹の積極起用/中央集権化を実現しました。至上の権威を巡って教皇ボニファティウス8世と対立し、教皇が破門を宣告しようとすると、フィリップは教皇の弾劾/退任を画策して応戦、遂には派兵して教皇を拘束/侮辱/憤死させます(1303年 アナーニ事件)。
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教皇のアビニョン捕囚(1309-78)
左岸へ戻りました。フィリップは教皇選挙にも介入し、新教皇をアビニョンへ遷座させ、キリスト教の中心地を移動する荒業を成し遂げました。現在の教皇宮殿は1335-63年にかけて構築されました。アヴィニョン歴史地区:法王庁宮殿、司教関連建造物群及びアヴィニョン橋 旧市街・古い町並み
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テンプル騎士団の解体(1308-12)
中東/ヨーロッパ各地に支部を展開し、巨大な金融システムを構築したテンプル騎士団団員を一斉逮捕し、異端審問にかけて火刑に処すことで、莫大な資産を没収して国庫を潤します。フィリップは、教皇に圧力をかけて騎士団の異端宣告/解散命令を出させました。写真は、オック語詩人ジョゼフ・ルーマニユが創業した旧書店近くにある旧テンプル騎士団アビニョン支部です。 -
奥には、1273年に建てられたテンプル騎士団礼拝堂の4連アーチが残っています。南フランス最古のゴシック建築とされています。1312年にクレメンス5世によって騎士団が解散された後、聖ヨハネ騎士団によって使用されました。
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フランス革命で国家に接収され、1862年にはオック語詩人アンセルム・マチューが経営するホテル・デュ・ルーヴルとして利用されていました。 現在はイベントホールとなっていますが、ルーヴルの名称は継承されます。美男王は敬虔なクリスチャンでしたが、教皇やテンプル騎士団が神の僕に相応しくないなら躊躇せずに鉄槌を下しました。
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教皇庁が移されると、ヨハネ22世(在1316-34)は1317年にサンベネゼ橋を補修します。1320年以降、枢機卿たちは対岸のヴィルヌーヴの町に別荘を建て、橋を渡って教皇庁と往来しました。
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橋の幅は欄干を含めて4mで、荷馬車は通行できず、徒歩か馬による通行に限られ、物資輸送は渡船が主流でした。有名な民謡で、アビニョンの橋で輪になって踊るよ♪とありますが、不可能な描写です。
※実際は川岸で踊っていたようです。 -
橋は22のアーチからなり、中洲を伝ったために曲がりくねったルートとなりました。ローヌ川は、上流で大雨が降ると倒木が川に流れ込み、流木が橋桁を破壊するので、修復の繰り返しでした。また、アヴィニョン市街は低地に発展したため、頻繁かつ壊滅的な洪水との闘いに特徴づけられました。
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ヨハネ22世の影響は、各所に見られます。1321年には、アヴィニョン司教だった聖アグリコルが建てた教会を改築します。最初の礼拝所は4世紀まで遡り、カテドラルに次ぐ格式を持ちます。ファサードと階段は1485年に加えられました。
サンタグリコール教会 寺院・教会
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ヨハネ22世は、1226年にソルグ川沿いに建てられたコルドリエ修道院をアヴィニョン最大級の施設にします。工事はクレメンス6世が1350年に完成させます。現在は1棟だけが残っています。修道会は教皇の承認を以て発足するので、教皇直属の組織とも言えます。各会は膨大な傘下と寄進地を抱える一大世俗領主の一面もあるために、各会派を掌握するのは重要です。
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クレメンス6世(在1342-52)は、1348年にアビニョン市をナポリ女王兼プロバンス伯から買い取ります。市街地は旧城壁を超えて広がっていたので、新しい城壁建設に着手し1373年に完成します。全長4,330m/高さ8m、12の門/92の塔で構成されていました。殆どの都市の城壁はフランス革命後に取り壊されますが、ここでは今も文豪スタンダールが絶賛した城壁のスケールを体感できます。
城壁 (アヴィニヨン) 史跡・遺跡
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枢機卿のリブレ(livrée)
教皇を補佐するためにアビニョンで暮らす枢機卿たちの住居が数多く現れます。リブレは、枢機卿に徴用され「引き渡された」ことに由来する言葉です。そのうちの幾つかを紹介します。
サン・マルシャルのリブレは教皇宮殿に最も近いリブレで、クレメンス5世の甥アルノー・ド・ペルグル枢機卿(在1305-31)に始まり、名称はユーグ・ド・サン・マルシャル枢機卿(在1361-1403)に由来します。現在は、ホテル兼レストランとなっています。ラ ミランド ホテル
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フィレンツェのリブレ
クレメンス5世の甥レイモン・ギレム・ド・ファルグ(在1310-46)に始まり、名前はフィレンツェ司教を兼ねたピエール・コルシーニ枢機卿(在1370-1402)に由来します。建物は1893年の広場拡張で破壊され、ニコラ・ド・ベス枢機卿(1344-69)が建てたサン・ジャン・ル・ヴィユー(旧聖ヨハネ)の塔のみが遺っています。塔の名称は、旧テンプル騎士団支部へ移るまで聖ヨハネ騎士団が支部にしていた歴史に因みます。 -
チェッカーノのリブレ
教皇ベネディクト12世の叔父アルノー・ノベル枢機卿(在1310-17)を始まりとし、名前の由来であるアンニバル・ド・チェッカーノ枢機卿(在1327-50)が完成させました。現在は図書館となり、1階の閲覧室は入室可能です。 -
カンブレーのリブレ
最後の居住者であるピエール・ダイイ枢機卿(在1411-20)が司教を兼任した地名にちなんで名付けられました。初代教皇庁駐アヴィニョン大使(在1318-20)も務めています。現在の建物は1741~53年にヴィルヌーヴ=マルティニャンが再建したもので、1833年に市が邸宅を購入し、現在はカルヴェ美術館となっています。カルヴェ美術館 博物館・美術館・ギャラリー
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ジャンヌ王妃のリブレ
1346年にアビニョン領主のナポリ女王兼プロバンス伯ジャンヌの宮殿として建設されますが、1348年にアビニョン市が教皇へ売却されたのに伴い、教皇庁の持ち物となります。1362年にウルバヌス5世は、クリュニー修道院長のラ・ロッシュ枢機卿(在1361-69)に宮殿を贈り、ロッシュの死後はクリュニー修道院となります。フランス革命で国家に接収され、現在はプロテスタントのサン・マルシャル教会となっています。サン マルティアル寺院 寺院・教会
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アルバーノのリブレ
現在の市役所がこの場所を占めています。エティエンヌ・オーベール枢機卿(在1342-52,後の教皇インノケンティウス6世)に始まり、名前はアルバーノ枢機卿ニッコロ・ブランカッチョ(在1378-1412,ウルバヌス6世の甥)に由来します。オードワン・オーベール(在1353-63,インノケンティウス6世の甥)が拡張し、塔(礼拝堂)も建てました。 1447年に教皇庁駐アビニョン大使(在1433-64)ピエール・ド・フォワ枢機卿(在1414-64)の命令で市議会に買い取られ、市庁舎に改装されました。市庁舎 (アヴィニヨン) 建造物
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塔の礼拝堂は18世紀に市の文書保管に使用されました。写真は1845年の様子で、塔を残して、現在の市庁舎が建てられました。
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プチパレ
1317年に教皇クレメンス5世の甥ベランジェ・フレドル枢機卿(在1305-23)が北側に二階建ての宮殿を建て、1323年には教皇ヨハネ22世の甥ジャック・ド・ヴィア枢機卿(在1316-35)が東側(写真右)の建物の購入、1335年に教皇ベネディクト12世が司教宮殿として購入しました。アビニョン司教は枢機卿が兼任します。
※教皇宮殿(grand palais)に対し、小宮殿(petit palais)と呼ばれます。徴用ではなく購入なので、リブレではなくパレが用いられます。プチ パレ美術館 (アヴィニヨン) 博物館・美術館・ギャラリー
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ヨハネ22世は、アウグスティヌス修道院に市内最大級の附属教会を建設します。現在は、1377年の間に建てられた高さ31mの鐘楼のみが残ります。1497年に公共の時計が設置され、1562年には尖部に鐘が設置されました。1909年の地震で僅かに傾斜し、妖しい傾きを振り撒きます。教皇は多くの宗教施設を整備し、旧市街には14世紀の遺物が多く残ります。
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サンピエール教会
7世紀から存在し、1358年に現在の教会が建てられます。ファサードはプロヴァンス・ゴシック様式で、洗練された姿が印象的です。サンピエール教会 寺院・教会
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鐘楼は1495年に建てられました。2012年にはバシリカへ昇格しています。ところで対岸のヴィルヌーヴは、どうなったでしょうか。
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フランス王国ではカペー朝が断絶し、1328年に傍系のヴァロア朝が成立しました。王位継承を巡って百年戦争が勃発します。第2代国王のジャン2世(在1350-64)善良王は、ヴィルヌーヴの防衛を強化します。1362年にイングランドに大敗した直後、教皇と会見するためヴィルヌーヴに滞在します。
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ジャン2世は、フィリップ美男王の塔を建て増しします。写真は3階の床面で、かつての屋上です。足元の中央部が盛り上がっているのが分かるでしょうか。ジャン2世は、ここに滞在して教皇との交渉にあたりました。
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フランス史におけるジャン2世は、お人好しでダメな王の代表ですが、ヴィルヌーヴには大きな痕跡を残します。アンダシオン山の聖アンドレ修道院を囲むように、全長750mの城壁で囲まれた聖アンドレ要塞を建設します。写真左は、最高峰に位置する仮面の塔です。
サン タンドレ要塞 建造物
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双子の塔の間に門があります。フランス革命後に、永らく陸軍駐屯地として使用されたのも納得です。
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聖アンドレ修道院
980年頃開設されたベネディクト会の修道院で、235の傘下修道院/教会を持つ地域の一大領主でした。アルビジョワ十字軍ではルイ8世に組みし、アンダシオン山周辺を共同統治する協定を結びます。この共有協定に基づいて、要塞や美男王の塔等を築かれました。修道院は、フランス革命時に廃院となります。ちなみに1226年のアビニョン攻囲戦でルイ8世は、3カ月間ここから陥落を待ちました。 -
レザヌーヴには、枢機卿宮殿が14か所ありました。枢機卿たちはアビニョンの邸宅を手狭に感じ、ヴィルヌーヴに広大な豪華な邸宅を建てました。ヴィルヌーヴの宮殿は枢機卿自身が費用を負担して建てたため、枢機卿宮殿と呼ばれます。 チェッカーノ宮殿は、先述のアンニバル・デ・チェッカーノ枢機卿が1344年から住んでいたことに因みます。ヨハネ22世の弟ピエール・デュエーズ枢機卿(在1316-24)が最初に購入し、現在は、ピエール・ド・リュクサンブール美術館となっています。
ピエール ド リュクサンブール美術館 博物館・美術館・ギャラリー
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Aは中世宮殿のエントランス棟、Bは主棟です。美術館の名前のリュクサンブール枢機卿は1386年に叙階されましたが、翌年に15ないしは17歳で亡くなりました。貧民のように埋葬されましたが、彼にまつわる数々の奇跡が起こったので地元では聖人とみなされ、教皇クレメンス7世が1527年に列福しました。ファサードは17世紀のもので、奥行きが2倍に拡張されます。各階の高さが低くされ、内部空間は完全に改修されました。
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ヴィア宮殿
教皇ヨハネ22世の甥であるアルノー・ド・ヴィア枢機卿は、1320年にヴィルヌーヴで最初に宮殿を建てました。チェッカーノ宮殿と写真奥の参事会聖堂の間の建物の部分です。車の奥のアーチを潜ると回廊へ通じ、壁にはヴィアの紋章が残ります。 -
ノートルダム参事会聖堂
落ち着いた街並みで、ちょっとだけ背の高い太っちょの塔が印象的です。1327~33年に、ヴィアが宮殿南側の土地を整理して礼拝堂を建て、教皇ヨハネ22世によって献堂されました。ヴィアの墓所があり、付属の回廊は落ち着いた雰囲気です。12名の参事会員によって運営されます。 -
教会の横には、年季の入ったアーケードも。
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情緒を感じます。向かいは参事会教会です。
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予見の家
エリー・ド・タレーラン枢機卿とジャン・ド・ラ・グランジュ枢機卿にちなんで名付けられましたが、1814年に取り壊され、現在のジャン・ジョレ広場となりました。中庭にあった井戸は、この宮殿の唯一の遺構です。 -
ブローニュ宮殿
クレメンス6世の甥ギー・ド・ブローニュ枢機卿(在1342-73)が最初に居住しました。数世紀にわたり分割され、中庭には1758年築の灰色苦行会礼拝堂があります。
枢機卿宮殿には、枢機卿の親族(甥/兄弟/いとこ等)/侍従/司祭/秘書/公証人/医師/侍従たちが暮らします。教皇庁がローマに戻った後は、次第に放棄/売却/分割されていきました。 -
ベルトラン・デュ・プージェ宮殿
ヨハネ22世の甥ベルトラン・デュ・プージェ枢機卿(在1327-52)が隠居先として1342年に建てました。その後、インノケンティウス6世の甥オードアン・オーベール枢機卿(在1353-63)等が居城としました。写真左の光で潰れている部分です。 -
石と漆喰で埋められた嘗ての正門の上には、ベルトラン・デュ・プージェの紋章が残っています。通りに面した四角い塔の両側に棟が広がります。ジャンジョレ広場から数軒先、モンテデュフォール通り沿いにあります。
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エティエンヌ・オーベール宮殿
エティエンヌ・オーベール枢機卿が1342年に建設した宮殿です。1352年に教皇インノケンティウス6世として即位すると東側の土地を買い足し、1356年にカルトジオ会(仏:シャルトリュー)修道院へ寄進します。現在は旧祝福(豊穣)の谷ノートルダム・シャルトリュー修道院として一般公開され、ヴィルヌーヴ最大の観光資源となっています。少し、見学します。 -
ファサード
1649年に完成し、街の喧騒と修道院の静寂な瞑想の境地の境界線となっています。門は2本の付柱に縁取られ、三角形のペディメント屋根があり、パネルにはラテン語で修道院名が記されています。アーチの下には、聖母マリアを中央に、聖ブルーノと修道院の模型を持つインノケンティウス6世が挟んでいます。 -
バロック様式の華やかさが強調された表側に対し、裏側は落ち着いた雰囲気です。3頭のライオンの目からは、カーテンが涙のように出ており、ザクロなどの果物も写実的です。パネルには、1649年の銘があります。
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修道院教会
1353年築で、フランス革命時に破壊が進みました。インノケンティウス6世がカルトジオ会へ寄進したのは、教皇選挙に起因します。当初、カルトジオ会総長ジャン・ビレルが推薦されましたが、本人が辞退したことで教皇になれたことへの恩返しです。 -
側廊の聖三位一体礼拝堂には、遺言に従ってインノケンティウス6世が埋葬されています。礼拝堂もフランス革命中に分割売却され、1834年には貧しいブドウ栽培農家の小屋と化し、霊廟が建つ小さな部屋には、樽やオリーブの木の幹、巨大な梯子が積み上げられていたそうです。
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小回廊:修道院の中心で、修道士が集まる境界/参事会室/食堂などに隣接しています。
カルトジオ会は、4世紀に遡る砂漠での隠遁生活がルーツです。西洋では森が砂漠に相当し、シトー会とベネディクト会の共同生活修道制が発展するにつれ、10世紀に隠遁生活への関心が再び高まりました。ケルンで生まれたブルーノは孤独と禁欲の実践を確立し、弟子たちが修道会を設立しました。 -
参事会室
参事会で発言権を持つのは、修道院長たちのみでした。彼らは修道院の運営に関する事柄を審議したり、修道士たちの告解を聞いたりするために集まりました。 -
中庭の井戸は、この教会の主要な水源です。
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大食堂では、日曜日のみ修道士が集まって食事をしました。一般公開されておらず、小さな劇場に改造されています。
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その先は大回廊です。回廊の周りには、庭付きの2階建てコテージが12棟建ち並んでいます。修道士たちの独房で、隠遁/孤独を実現するスペースです。
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入ってすぐに、寝室であるキュービクルムがあります。
修道師の生活は、内なる祈り、学問と読書、肉体労働から成ります。 -
奥は、祈りのためのアヴェ・マリアと呼ばれる部屋です。
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2階の広い部屋は、肉体労働をするための作業場です。祈りや読書も大切ですが、無為/放蕩を避けるためには、肉体労働が欠かせません。2階にはテラスもあり、中庭に面しています。
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カルトジオ会修道士は、日曜日と喪の日を除き全ての食事を一人で摂ります。回廊に面したドアの右側にあるハッチは、修道士に食事や仕事に必要な書類を届けるために使われていました。このように孤独を貫くための環境が整えられます。
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コテージの間には中庭があり、薬草栽培などが行われ、農業にも従事しました。
カルトジオ会修道院特有のコテージは、見学用1棟を除いて、現在芸術家のアトリエ兼住居として使用されます。孤独な環境で集中する時間と、人との交流する時間の両方を必要とするアーティストたちにとって、まさに理想的な滞在環境と言えます。
修道院は17区画に分割され、建物は住宅や農業・畜産用途に改装されました。19世紀末には150区画以上が古いフェンスの中にあった。 -
大回廊の内側は修道士の墓地となっていたので、死の回廊とも呼ばれました。フランス革命後は、17の区画に分けて土地が売られ、19世紀末には150区画以上に分割されました。1990年の時点で、敷地の7割は国有地でしたが、残りの部分が住居となっていました。
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回廊の右奥には、洗濯場があります。大きな井戸や湯沸かし用の暖炉があります。病人や囚人のための独房が、1階には3つ、2階には4つあります。これは七つの大罪を連想させます。独房は12平方mで、テーブルとベッドを自由に使うことができました。各独房には、2階の祭壇に面した小さな窓があり、囚人は部屋を出ることなく礼拝を見守ることができました。
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フランス革命後は、監禁権は裁判所のみに認められるようになり役割を終えます。重大な戒律違反を犯すと監禁対象となり、無断外出/礼拝への遅刻/錬金術/金銭の所持/女性との関係などが挙げられます。最長刑期は1年で、懺悔と断食が伴いました。その後、修道士は誓願から解放され、俗世間に戻って懺悔を行いました。
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大食堂に隣接した礼拝堂には、教皇インノケンティウス6世がマッテオ・ジョヴァネッティに描かせたフレスコ画があります。浸礼者ヨハネの生涯を描いています。カルトジオ修道会は質素を是としますが、それと相容れない空間があるのは、教皇の政治的思惑があったからです。
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左上は、聖所で奉仕する祭司ゼカリヤが、天使ガブリエルから子供を授かったことを告げられるシーンです。夫婦共に年老いていたために信じられず、ゼカリヤは口がきけなくなります。子供はヨハネと呼ばれ、キリストに先立つ業を行うと予言されます。
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右上:ゼカリヤの妻エリサベツは妊娠し、そこへ従妹のマリア(イエスを身籠っている)が訪問します。エリサベツは聖霊に満たされて、マリアのお腹の中の子供が世を救う存在となると預言します。
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左下:ヨハネが誕生し、召使が沐浴させています。なぜかマリアも立ち会っています(福音書には記述無)。
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右下:生後八日目に割礼を施し、名前を付けます。皆は父と同じゼカリヤが良いと言いますが、エリサベツはヨハネと言います。皆がゼカリヤに訊ねると「ヨハネ」と答えます。すると、ゼカリヤは再び声を出せるようになります。
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左上:浸礼者ヨハネがイエスにバプテスマ(浸礼)を施す場面は、殆ど判別不可能です。
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右上:ヘロデ王とヘロデアの不義な結婚関係を糾弾すると、ヨハネは投獄されます。イエスはヨハネの弟子にメッセージを送り、体の不自由な人を癒し、悪霊を追い出していると告げます。
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下中:ヘロデは誕生日に宴会を開き、娘のサロメの踊りを気に入り、何でも褒美を与えると約束します。サロメは母ヘロデアに相談すると、ヨハネの首を望みます。死刑執行人が首を斬るシーンは、ヨハネの手が硬直し、顔には生気が無い等リアリティがあります。サロメは、皿に載せたヨハネの首をヘロデアに見せます。
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ヨハネの遺体は弟子たちが引き取り、埋葬します。
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教皇インノケンティウス6世が、聖母子に膝まずいて祈りを捧げる場面です。
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聖浸礼者ヨハネ回廊
1372年、インノケンティウス6世の甥ピエール・ド・モンテリュック枢機卿(在1356-85)によって創建されたこの回廊は、枢機卿宮殿の中庭だった部分です。大回廊の西側に建てられ、12の新しいコテージに囲まれます。1750年には、貯水池の上にドームが建設されました。 -
ピエール・ド・リュクサンブール美術館には、カルトジオ修道院に飾ってあった絵画が展示されています。白眉は、アングラン・クアルトン作の「聖母戴冠」(1454年)です。父と子と聖霊(鳩の姿)の三位一体による戴冠を中心とする構図が、絶妙です。
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シモン・ド・シャロンの「キリストの埋葬」(1552年)も、プロヴァンス派の秀作です。修道院教会のサン・ブルーノ礼拝堂を飾っていました。 前景には、教皇インノケンティウス6世と、甥のピエール・ド・モンテリュック枢機卿がひざまずいて祈りを捧げています。
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オルシーニ宮殿
フィリップ美男王の塔の近くに、ナポレオン・オルシーニ枢機卿(在1288-1342)が1334年に隠居先とした宮殿があります。教皇クレメンス6世(在1342-52)が買い取り、豪華な宮殿と美しい庭園を整備して賓客接待に使用しました。写真右の緑地部分は、当時のローヌ川(旧流路)です。 -
クレメンス6世は、枢機卿時代を含めてフランス宮廷でフィリップ6世幸運王を補佐していました。フィリップ6世は、1342年の教皇選挙では彼が教皇となるよう王太子(後のジャン2世)を政治工作のためにアビニョンへ派遣しました。教皇としては贅沢を好む浪費家として知られ、教皇宮殿の新宮殿部分の建設、アビニョン市の購入と城壁建設開始、イタリアから多くの芸術家を呼び寄せ、アビニョンを美しくしました。
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カトリック教会の大分裂(1378-1417)
グレゴリウス11世はローマの治安回復に伴い、教皇庁を伴ってローマへ帰還して亡くなります。1378年にウルバヌス6世が選出されますが、多くの枢機卿と対立し、彼らは新たにクレメンス7世を擁立してアビニョンへ戻ります。こうしてローマとアビニョンそれぞれに教皇が即位する事態が発生します(対立教皇)。
フランス側は1395年に両者が同時に退位して新しい教皇を選出することを要求し、両者の退位を促すために教会税を没収して教皇の収入源を断ちます。そして1398年にアビニョン教皇宮殿を包囲します。1403年にベネディクト13世はアビニョンを脱出して、親派のプロバンス伯に匿われます。周辺国も教会税没収を撤回し、1407年にはフランスも撤回します。 -
1409年のピサ公会議でも対立教皇問題は解決せず、フランスは再びアビニョンを包囲します。ベネディクト13世の甥ロドリゴ・デ・ルナは、カタルーニャ軍を率いて17ヶ月抵抗しますが、1411年に降伏します。1417年にローマでマルティヌス5世が即位することで分裂は終わります。
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教皇庁広場
ロドリゴ・デ・ルナは、フランス軍の攻撃に備えてプチパレ~教皇宮殿の間に建つ家を取り払い、家並みに敵軍が紛れないようにします(1410)。更に、敵の進路を塞ぐためにサンベネゼ橋の一部を焼き払いました。このような経緯で、今に続く教皇庁広場が誕生します。法王庁広場 広場・公園
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カニヤックのリブレ
教皇宮殿の向かいにある故に、最初の包囲戦(1398-1408年)の間、フランス軍ブシコー元帥の本陣に徴用されました。第二次包囲戦(1410-11年)では、塔の上から教皇宮殿へ砲弾を発射するために使用されました。
元々はクレメンス6世の甥レイモン・ド・カニヤック枢機卿(在1350-73)が、1356年に庭園と回廊を囲む建物を建てました。現在、14世紀の名残はペンテ・ラピード通り沿いに、クレメンス6世/カニヤック枢機卿の紋章が刻まれたリブヴォールトと、攻撃にも使用されたカニヤック塔が残ります。 -
サンベネゼ橋
第二次包囲戦で最初の門楼は敵に破壊され、現在の塔の礎石は1414年に据えられました。再建された門楼は3階建てで、矢狭間/出し狭間/四隅に持ち送り式の小塔が設けられていました。 -
門楼の先は跳ね橋で、有事は畳んで橋を分断しました。上には、インノケンティウス8世とジュリアーノ・デラ・ロヴェーレ枢機卿(後の教皇ユリウス2世)の紋章が付いていました。
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橋の修復は続けられ、橋桁も嵩上げされます。1411年にはサン・ベネゼ礼拝堂の4.5m上に、サンニコラ礼拝堂が建てられました。
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サン・ニコラ礼拝堂
聖ニコラウスは船乗り/はしけの船頭/水夫たちの守護聖人で、礼拝堂は架橋兄弟団の本部として使用されました。1513年には上礼拝堂にゴシック様式の柱を持つ五角形の後陣が追加されました。Chapelle Saint-Nicolas 建造物
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費用の面から、橋の修復は度々木造となりました。その点は、1410年にロドリゴ・デ・ルナが「焼き払った」という表現からもわかります。
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ローヌ川の水運
地中海からリヨンまでは、曳舟道に沿って川を遡上しました。アレージュと呼ばれる平底の小型船で、沿岸航行と河川航行の兼用でした。船団は、規模に応じて12~30頭の馬に曳かれました。主な積荷は、フォス(ローヌ川河口)の塩、アヴィニョンで仕入れた小麦です。更に、染料/金属/香辛料/羊毛/布地/家畜が輸送されました。通行料に加えて、貨物の荷揚げにも税金が課せられました。 -
アビニョン市と周辺の教皇領はローマ教皇の配下になり、イタリア半島から見ると飛び地であるがゆえに、教皇庁の大使を旧教皇宮殿に駐在させ、教皇領の管理(内政)を委ねます。例えば、初代大使ピエール・ド・フォワ枢機卿は1447年にアルバーノのリブレを市議会に買い取らせ、市庁舎に改装させました。大使は枢機卿から選ばれ、アビニョン大司教も兼ねました。
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ゲットー(ユダヤ人街)
1229年以降、ユダヤ教の礼拝所であるシナゴーグは現在地にありますが、建築は1787年のものです。ユダヤ人は1215年の第四ラテラノ公会議以降、敬虔なフランス王によって度々国外へ追放されます(1394,1498etc.)。その際の受け皿となったのが教皇領の4つのゲットーで、アビニョンもその一つです。 -
1656年にアビニョンのユダヤ人共同体は壁で囲まれ、3か所の門を通してのみ出入りができ、夜間はゲットー外での滞在が禁じられました。写真はシナゴーグに隣接するカランダ門の跡で、唯一残る門跡です。
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プチパレ
教皇宮殿の第一次包囲戦ではフランス軍の軍隊の兵舎として、第二次包囲戦ではロドリゴ・デ・ルナが要塞として使用することで大きな損害を受けました。修復は1457年から始まり、ジュリアーノ・デラ・ロヴェーレ枢機卿(後の教皇ユリウス2世)が南ファサード(写真)等を築きます。ロヴェーレは教皇シクストゥス4世の甥でもあり、1474-1503年の間アヴィニョン大司教および教皇庁駐アビニョン大使を務めました。彼はイタリア・ルネサンス様式の新しい南と西のファサードに(オクルス/窓の滴下型モールディング)を施しました。 -
1487年には回廊に円塔を建設しました。現在は、ルーヴル美術館から移設されたコレクションとしては最大規模、ルネサンス初期のイタリア各会派の作品とアヴィニョン派の作品が揃う美術館となっています。
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教皇庁がローマへ移ると、アヴィニョンは衰退し始めます。ビッグニュースは、1660年に教皇大使がルイ14世訪問を盛大に歓迎したことで、主体性を失ったことをはっきりと示します。教皇宮殿の向かいには、1619年に建てられた旧造幣局があり、教皇パウルス5世ボルゲーゼの紋章が彫刻された印象的なファサードが目を引きます。南側には、1789年に建てられた旧カルヴェ・パラン邸があります。
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サン・ベネゼ橋の終焉
1669年の損傷を最期に放棄され、どんどん朽ちていきます。写真は1758年の様子です。 -
1482年にプロバンス伯領はフランスへ編入され、教皇領はフランス王国に囲まれた飛び地となります。フランス革命が起きると、革命政府との駆け引きが始まり、1791年には住民投票で教皇領とアビニョン市はフランスへ帰属することになります。教皇宮殿は教皇副大使が追い出され、監獄として使用されます。その後は兵舎となります。アビニョンは、ヴォークリューズ県に組みこまれます。
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近代化が進められ、1847年にはアビニョン~マルセイユ間の鉄道が開通、アヴィニョン中央駅は1860年に開業し、城壁のすぐ外側に位置します。
アヴィ二ヨン中央駅 駅
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リパブリック門
駅前には、リパブリック門があります。交通の流れを良くするために、城壁が切り取られています。2つの塔に挟まれた警備厳重な門だったようです。ここから教皇宮殿まで、リパブリック通りが建設されました。リパブリック門 建造物
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第二帝政時代のパリ大改造に呼応して、アビニョンにも真っ直ぐなリパブリック通りや公園が整備されました。その先は時計塔広場。市役所の時計塔が左上にあります。
時計台広場 広場・公園
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クリスマスシーズンの夜は、こうなります。一応、県で一番賑やかな場所です。広場には、劇場等の文化施設が並びます。
オペラ劇場 劇場・ホール・ショー
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最後に、プチパレのコレクションから。15~16世紀初頭のイタリアコレクションが中心で、特記が無い限りルーヴル美術館のものです。
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ジャコモ・パッキアット昨「ダニエルの裁き」シエナ。1510年頃
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テセウスとミノタウロス
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フランチェスコ・ボッティッチーニ「聖母子」フィレンツェ1498年
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サンドロ・ボッティチェリ「聖母子」
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ザノビ・ストロッチ「聖ヒエロニムスの祭壇画」フィレンツェ
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作者不明 音楽を奏でる天使に囲まれる聖母子
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アンサーノ・ピエトロ 受胎告知の天使 シエナ
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トマッソ・デル・マッツァ 聖クリストファーと幼子イエス
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第5室 フィレンツェ…豊かな絵画制作(1370-1420)
1348年、黒死病はフィレンツェの人口の半数を死に至らしめ、深い傷跡を残しました。絵画の世界では、図像表現の革新が、不安に苛まれる人々の信仰心に応える形で展開されました。 -
トリノのヴァンニ 聖母被昇天 ピサ
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バルトロ・ディ・フレディ「羊飼いの礼拝」シエナ
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タッデオ・ディ・バルトロ「聖母子」シエナ
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作者不明「最後の晩餐」フィレンツェ 13世紀
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コネリアーノのチーマ「浸礼者ヨハネと聖フランチェスコに挟まれた聖母子」コネリアーノ(ヴェネト州)
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ピエール・フランチェスコ「聖母子」トスカーナ
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バルトロメオ・カポラーリ「受胎告知」ペルージャ
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天井の装飾
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おまけ
夕暮れのヴィルヌーヴ・レザヴィニョン -
静かな街です。
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