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12月初旬、有楽町の出光美術館に「トプカプ宮殿 名宝のの競演」を観に行き、そこで三の丸尚蔵館を知りました。<br />公家の書として所蔵している古文書などが公開されていて、会期もあとわずかだったので訪れてみました。<br /><br />予定ではそれを観たら帰ろうと思っていたのですが、お天気にも恵まれ散歩日和でもありましたので、皇居東御苑も散歩してみました。<br />昔、二重橋を渡って長和殿には行ったことがありますが、東御苑は初めてです。<br />江戸城の面影を探しながら散策しました。<br /><br />

令和6年末「公家の書」「皇室の美術振興」を観に皇居へ

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2024/12/15 - 2024/12/15

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noel

noelさん

この旅行記のスケジュール

2024/12/15

  • 東京駅:10時25分→大手門:10時45分頃

  • 大手門:10時45分頃(手荷物セキュリティ・チェック)

  • 大手門:10時47分頃→皇居三の丸尚蔵館:10時50分頃

  • 大奥跡→12時30分頃→丸ビル:13時10分頃

この旅行記スケジュールを元に

12月初旬、有楽町の出光美術館に「トプカプ宮殿 名宝のの競演」を観に行き、そこで三の丸尚蔵館を知りました。
公家の書として所蔵している古文書などが公開されていて、会期もあとわずかだったので訪れてみました。

予定ではそれを観たら帰ろうと思っていたのですが、お天気にも恵まれ散歩日和でもありましたので、皇居東御苑も散歩してみました。
昔、二重橋を渡って長和殿には行ったことがありますが、東御苑は初めてです。
江戸城の面影を探しながら散策しました。

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
ショッピング
4.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
JRローカル 私鉄 徒歩
  • 皇居三の丸尚蔵館については、平成5年11月3日より一般展示公開が始まったようですが、全然知りませんでした。<br />さっそく予約して行きました。

    皇居三の丸尚蔵館については、平成5年11月3日より一般展示公開が始まったようですが、全然知りませんでした。
    さっそく予約して行きました。

  • 公家の書<br />13作品ありました。<br />藤原公任 「古今和歌集賀歌首三首」<br />藤原定信 「金沢本万葉集」<br />高階隆兼 絵 一乗院良信 詞 「春日権現験記絵 第十七」<br />他、使用されていた料紙等、気になりました。<br /><br />撮影はできましたが、個人で使用するものに限ってです。<br />SNS等への掲載は禁止です。

    公家の書
    13作品ありました。
    藤原公任 「古今和歌集賀歌首三首」
    藤原定信 「金沢本万葉集」
    高階隆兼 絵 一乗院良信 詞 「春日権現験記絵 第十七」
    他、使用されていた料紙等、気になりました。

    撮影はできましたが、個人で使用するものに限ってです。
    SNS等への掲載は禁止です。

  • 皇室の美術振興<br />25作品ありました。<br />その中でも荒木寛畝 「孔雀図」は羽を広げて迫力がありました。<br />お見せできないのが残念です。<br />個人的には橋本雅邦 「竹鳩之図」が好みでした。<br /><br />こちらは建物も綺麗で、特に洗面所のシンク1つ1つに大きめの鏡がついていて使いやすかったです。

    皇室の美術振興
    25作品ありました。
    その中でも荒木寛畝 「孔雀図」は羽を広げて迫力がありました。
    お見せできないのが残念です。
    個人的には橋本雅邦 「竹鳩之図」が好みでした。

    こちらは建物も綺麗で、特に洗面所のシンク1つ1つに大きめの鏡がついていて使いやすかったです。

  • 大手門から行きました。<br />当然荷物のチェックも行われましたが、11時前で比較的空いていましたのでスムーズでした。<br />しかも時間には少し早かったのですが、館内も空いていたので早目に入館できました。<br />第二展示室の「公家の書」にはビデオでの説明などがあり、料紙の説明などもあってわかりやすかったと思います。<br /><br />ちなみに向かいの売店で、印鑑ケースと扇子と一筆箋を購入しました。

    大手門から行きました。
    当然荷物のチェックも行われましたが、11時前で比較的空いていましたのでスムーズでした。
    しかも時間には少し早かったのですが、館内も空いていたので早目に入館できました。
    第二展示室の「公家の書」にはビデオでの説明などがあり、料紙の説明などもあってわかりやすかったと思います。

    ちなみに向かいの売店で、印鑑ケースと扇子と一筆箋を購入しました。

  • 博物館のすぐ隣には「同心番所」がありました。<br />江戸城には3つの番所があり、こちらは「同心」と呼ばれる武士が詰め、登城者の監視にあたっていました。<br />屋根瓦には、皇室の菊の御紋のあるものや、徳川家の葵の紋があるものが見られます。

    博物館のすぐ隣には「同心番所」がありました。
    江戸城には3つの番所があり、こちらは「同心」と呼ばれる武士が詰め、登城者の監視にあたっていました。
    屋根瓦には、皇室の菊の御紋のあるものや、徳川家の葵の紋があるものが見られます。

  • 石垣をよく見ると色々な石が使われています。<br />右の下の部分には、結構大きな石が使われています。<br />

    石垣をよく見ると色々な石が使われています。
    右の下の部分には、結構大きな石が使われています。

  • こちらには大きな銀杏の木がありました。<br />黄金色に輝いていました。

    こちらには大きな銀杏の木がありました。
    黄金色に輝いていました。

  • こちらは百人番所です。(警備の詰所です。)<br />こちらは二の丸にあたります。<br />本丸を厳重に守っていました。<br />甲賀組、伊賀組、根来(ねごろ)組、二十五騎組という4組の鉄砲百人組が交替で警備していました。<br />20人の与力(よりき)と100人の同心で構成されていたようです。<br /><br />※ 江戸幕府の与力は、旗本の補佐でした。御家人身分でしたが袴着用・騎乗が許されていました。(江戸幕府では代表的な職ですが、時代によって意味が異なるようです。)

    こちらは百人番所です。(警備の詰所です。)
    こちらは二の丸にあたります。
    本丸を厳重に守っていました。
    甲賀組、伊賀組、根来(ねごろ)組、二十五騎組という4組の鉄砲百人組が交替で警備していました。
    20人の与力(よりき)と100人の同心で構成されていたようです。

    ※ 江戸幕府の与力は、旗本の補佐でした。御家人身分でしたが袴着用・騎乗が許されていました。(江戸幕府では代表的な職ですが、時代によって意味が異なるようです。)

  • 苑内の地図です。

    苑内の地図です。

  • こちらは二の丸の庭園・・・雑木林になっています。<br />下草や落葉は肥料として集められているようです。<br />木も20年ごとに燃料として伐採されるのだそうです。<br />コナラやクヌギなどの落葉樹や花植物などがあります。<br />

    こちらは二の丸の庭園・・・雑木林になっています。
    下草や落葉は肥料として集められているようです。
    木も20年ごとに燃料として伐採されるのだそうです。
    コナラやクヌギなどの落葉樹や花植物などがあります。

  • 紅葉がまだ綺麗です。<br />右手に見えるのは休憩所です。

    紅葉がまだ綺麗です。
    右手に見えるのは休憩所です。

  • ゆっくり庭園内を見ていてもいいのですが、苑内には食事できる所がなさそうなので、まずは本丸へ向かってしまいます。

    ゆっくり庭園内を見ていてもいいのですが、苑内には食事できる所がなさそうなので、まずは本丸へ向かってしまいます。

  • 今回は本丸に向かいますが、そのまま行くと梅林坂そして平川門へと通じます。

    今回は本丸に向かいますが、そのまま行くと梅林坂そして平川門へと通じます。

  • 汐見坂です。<br />この右側が坂になっています。<br />

    汐見坂です。
    この右側が坂になっています。

  • こちらは汐見坂の石垣です。この右方向には梅林坂があります。<br />切込み接ぎ(はぎ)という石垣です。(この写真の下部は違いますが)<br />方形に整形した石材を密着させ、積み上げる方法だそうです。<br />

    こちらは汐見坂の石垣です。この右方向には梅林坂があります。
    切込み接ぎ(はぎ)という石垣です。(この写真の下部は違いますが)
    方形に整形した石材を密着させ、積み上げる方法だそうです。

  • 本丸です。<br />広~い芝生になっていました。<br />この日はお天気が良かったので、芝生で寛いでいる方々もいました。<br />

    本丸です。
    広~い芝生になっていました。
    この日はお天気が良かったので、芝生で寛いでいる方々もいました。

  • 天守台が見えます。

    天守台が見えます。

  • 本丸の様子です。<br />今は残っていませんが、この広々とした芝生いっぱいが江戸城本丸御殿だったことがわかります。<br />御殿は表・中奥・大奥と3つの空間に分かれていました。<br />表:将軍の謁見などの公的儀式や行事、幕府の諸役人の執務の場でした。<br />中奥:将軍の日常生活、政務を執る場でした。<br />大奥:説明しなくても大丈夫かと思いますが、御台所(みだいどころ)と呼ばれた将軍の正妻はじめ家族や女性たちの場でした。

    本丸の様子です。
    今は残っていませんが、この広々とした芝生いっぱいが江戸城本丸御殿だったことがわかります。
    御殿は表・中奥・大奥と3つの空間に分かれていました。
    表:将軍の謁見などの公的儀式や行事、幕府の諸役人の執務の場でした。
    中奥:将軍の日常生活、政務を執る場でした。
    大奥:説明しなくても大丈夫かと思いますが、御台所(みだいどころ)と呼ばれた将軍の正妻はじめ家族や女性たちの場でした。

  • 北の丸公園方向です。<br />実際にはよく見えるのですが、武道館がちょこっと見えます。

    北の丸公園方向です。
    実際にはよく見えるのですが、武道館がちょこっと見えます。

  • 徳川家康の入城以来、江戸城では3度天守が建てられました。<br />最も規模が大きかったのは3度目です。(1638年の寛永度天守)<br />地上からの高さは58mでした。<br />ただ、残念ながら明暦の大火により焼失してしまいました。<br />その後、天守の再建を目指して建てられたのですが、幕府内で、天守不要との結論が下されたため、建てられないままになりました。<br />天守があったのは50年間で、天守がない状態は210年も続いたそうです。<br />江戸城には天守がずっとあるものだと思っていました。<br />ちょっと不思議な感じがします。

    徳川家康の入城以来、江戸城では3度天守が建てられました。
    最も規模が大きかったのは3度目です。(1638年の寛永度天守)
    地上からの高さは58mでした。
    ただ、残念ながら明暦の大火により焼失してしまいました。
    その後、天守の再建を目指して建てられたのですが、幕府内で、天守不要との結論が下されたため、建てられないままになりました。
    天守があったのは50年間で、天守がない状態は210年も続いたそうです。
    江戸城には天守がずっとあるものだと思っていました。
    ちょっと不思議な感じがします。

  • 竹林です。

    竹林です。

  • 石室です。<br />位置的には大奥の脇になります。<br />この石室の用途は諸説あるようです。<br />火事などの非常事態の際に、大奥用の調度などをここに避難させた場所であると考えられているようです。<br /><br />古墳の石室かと思ったので、何かが埋葬されているのかと思いました。<br />よくよく考えると、居城のすぐ横にあるというのも考えものですね。<br />やはり違いました。(-_-;)

    石室です。
    位置的には大奥の脇になります。
    この石室の用途は諸説あるようです。
    火事などの非常事態の際に、大奥用の調度などをここに避難させた場所であると考えられているようです。

    古墳の石室かと思ったので、何かが埋葬されているのかと思いました。
    よくよく考えると、居城のすぐ横にあるというのも考えものですね。
    やはり違いました。(-_-;)

  • 富士見多聞<br /><br />西縁の中央に建てられました。長屋型の防御施設です。<br />かつては本丸の縁辺各所に多聞がありました。<br />ただ、現存するのは富士見多聞のみです。<br />建築年代は不明ですが、1659年(万治2年)頃の可能性があるようです。

    富士見多聞

    西縁の中央に建てられました。長屋型の防御施設です。
    かつては本丸の縁辺各所に多聞がありました。
    ただ、現存するのは富士見多聞のみです。
    建築年代は不明ですが、1659年(万治2年)頃の可能性があるようです。

  • 多聞とは、戦国時代末期から城郭に採用された長屋型の施設で、塀よりも強固な機能を持っていました。<br />平時には武器、諸道具、文書等の収蔵庫、女中の住居など、多様な用途に使用されていたようです。<br />「多聞」「多聞櫓」「渡櫓」「続櫓」「長屋」「廊下」などと呼ばれた例もあるようです。<br /><br />富士見多聞が築かれた頃は、徳川将軍の地位は安定しており、江戸城本丸が攻撃に備える必要性はあまりありませんでした。<br />富士見多聞は、本丸御殿内の将軍の日常生活の場の「御休息」の近くに位置しており、「御休憩所前多聞」という名前も残っています。<br />はっきりした用途は不明ながら、襖が備えられていた形跡があるなど、倉庫以外の用途に使われていた可能性もあります。

    多聞とは、戦国時代末期から城郭に採用された長屋型の施設で、塀よりも強固な機能を持っていました。
    平時には武器、諸道具、文書等の収蔵庫、女中の住居など、多様な用途に使用されていたようです。
    「多聞」「多聞櫓」「渡櫓」「続櫓」「長屋」「廊下」などと呼ばれた例もあるようです。

    富士見多聞が築かれた頃は、徳川将軍の地位は安定しており、江戸城本丸が攻撃に備える必要性はあまりありませんでした。
    富士見多聞は、本丸御殿内の将軍の日常生活の場の「御休息」の近くに位置しており、「御休憩所前多聞」という名前も残っています。
    はっきりした用途は不明ながら、襖が備えられていた形跡があるなど、倉庫以外の用途に使われていた可能性もあります。

  • 松の大廊下跡<br />残念ながら何の痕跡も残っていません。<br />長さ約50m、幅4mほどの畳敷の大廊下でした。<br />襖に松と千鳥の絵が描かれていたことから松之大廊下と呼ばれたようです。

    松の大廊下跡
    残念ながら何の痕跡も残っていません。
    長さ約50m、幅4mほどの畳敷の大廊下でした。
    襖に松と千鳥の絵が描かれていたことから松之大廊下と呼ばれたようです。

  • 富士見櫓です。<br />櫓は城の隅など重要箇所に造られる防御施設の役割をもった建物です。<br />かつて江戸城には多くの櫓がありましたが、現存する櫓は、富士見櫓、伏見櫓、巽櫓の3つだけとなりました。<br />富士見櫓は、明暦の大火(1657年)で焼失しましたが、その後まもなく再建され、天守の代用としても使われていました。将軍が富士山や領国の花火、品川の海を眺めたと言われています。

    富士見櫓です。
    櫓は城の隅など重要箇所に造られる防御施設の役割をもった建物です。
    かつて江戸城には多くの櫓がありましたが、現存する櫓は、富士見櫓、伏見櫓、巽櫓の3つだけとなりました。
    富士見櫓は、明暦の大火(1657年)で焼失しましたが、その後まもなく再建され、天守の代用としても使われていました。将軍が富士山や領国の花火、品川の海を眺めたと言われています。

  • この櫓は、江戸城の本丸の南隅の高さ15mの石垣の上に設けられた重要な防御施設でした。各階の窓は、鉄砲や矢で攻め手を攻撃するための拠点でした。さらに、以下のような隠れた防御施設もありました。<br />ただし、江戸城は攻撃を受けたことがないので、富士見櫓が、実際に戦いに使われたことはありません。<br /><br />狭間や石落としもありました。

    この櫓は、江戸城の本丸の南隅の高さ15mの石垣の上に設けられた重要な防御施設でした。各階の窓は、鉄砲や矢で攻め手を攻撃するための拠点でした。さらに、以下のような隠れた防御施設もありました。
    ただし、江戸城は攻撃を受けたことがないので、富士見櫓が、実際に戦いに使われたことはありません。

    狭間や石落としもありました。

  • 文旦です。<br />これはエガミブンタンです。<br />大きな実がなっていました。

    文旦です。
    これはエガミブンタンです。
    大きな実がなっていました。

  • 江戸城天守復元模型です。

    江戸城天守復元模型です。

  • 大嘗宮

    大嘗宮

  • ジオラマですが、逆光のため正面からの写真を撮れませんでした。

    ジオラマですが、逆光のため正面からの写真を撮れませんでした。

  • 舞楽 萬歳楽(左舞)<br />なんだか実際に舞を見ているようです。

    舞楽 萬歳楽(左舞)
    なんだか実際に舞を見ているようです。

  • 大奥跡<br />多くのドラマの舞台となった場所ですが、今は何もありません。<br />

    大奥跡
    多くのドラマの舞台となった場所ですが、今は何もありません。

  • 現在は広々とした芝生です。大奥があったなど想像もできません。

    現在は広々とした芝生です。大奥があったなど想像もできません。

  • こちらは汐見坂です。<br />昔はこの先に海が見えたのでしょう。<br />現在では想像もできない景色だったことでしょう。

    こちらは汐見坂です。
    昔はこの先に海が見えたのでしょう。
    現在では想像もできない景色だったことでしょう。

  • こちらは白鳥濠です。<br />この石垣は家康の時代に積まれたものです。<br /><br />実は、明暦の大火の際には、本丸御殿や大奥から金銀財宝を、この濠に放り込んだとか・・・・。<br />その後、どうなったんでしょうか・・・。<br />気になります。

    こちらは白鳥濠です。
    この石垣は家康の時代に積まれたものです。

    実は、明暦の大火の際には、本丸御殿や大奥から金銀財宝を、この濠に放り込んだとか・・・・。
    その後、どうなったんでしょうか・・・。
    気になります。

  • あの銀杏が見えてきました。

    あの銀杏が見えてきました。

  • こちらは白鳥豪です。

    こちらは白鳥豪です。

  • 戻ってきました。三の丸尚蔵館です。

    戻ってきました。三の丸尚蔵館です。

  • 大手門です。<br />帰りには誰もいませんでした。(*^-^*)<br />ゆっくり撮影できました。<br />鉤手(かぎのて)となった先にある渡櫓門です。<br />

    大手門です。
    帰りには誰もいませんでした。(*^-^*)
    ゆっくり撮影できました。
    鉤手(かぎのて)となった先にある渡櫓門です。

  • こちらは2つの門がある枡形になっています。<br />こちらは渡櫓門で、この右手は高麗門になっています。<br />

    こちらは2つの門がある枡形になっています。
    こちらは渡櫓門で、この右手は高麗門になっています。

  • 鯱がありました。「明暦三丁酉」の銘があります。

    鯱がありました。「明暦三丁酉」の銘があります。

  • セキュリティチェックに列ができていました。<br />こちらは高麗門です。(大手門、大手町方向です。)

    セキュリティチェックに列ができていました。
    こちらは高麗門です。(大手門、大手町方向です。)

  • こちらは桔梗濠です。

    こちらは桔梗濠です。

  • 巽櫓(桜田二重櫓)

    イチオシ

    巽櫓(桜田二重櫓)

  • パレスホテルです。<br />この後は丸ビルでランチしましたが、写真を撮り損なってしまいました。<br />散策して感じたのですが、海外の方々がほとんどでした。<br />まずは、12月のお散歩でした。<br /><br />令和6年も残すところ、あとわずかになりました。<br />旅行記をご覧いただいた皆様、今年1年ありがとうございました。

    パレスホテルです。
    この後は丸ビルでランチしましたが、写真を撮り損なってしまいました。
    散策して感じたのですが、海外の方々がほとんどでした。
    まずは、12月のお散歩でした。

    令和6年も残すところ、あとわずかになりました。
    旅行記をご覧いただいた皆様、今年1年ありがとうございました。

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