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龍瓢寺から県道29号線を西進、新前田橋を渡り庄内堤右岸に鎮座する「ヒラメキさんぽ」最終チェックポイント前田速念寺を目指します。

前田速念寺・薬師堂・秋葉神社・神明社土之宮合殿・助光城跡

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2024/02/14 - 2024/05/14

5514位(同エリア5910件中)

おやじさん

龍瓢寺から県道29号線を西進、新前田橋を渡り庄内堤右岸に鎮座する「ヒラメキさんぽ」最終チェックポイント前田速念寺を目指します。

旅行の満足度
2.5
観光
2.5
交通
2.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
徒歩
  • 橋を渡り下りきった先で右に進むと龍瓢寺の鐘楼門に続きます<br />鐘楼門から境内方向の眺め<br />右に梅鉢紋の入った「前田速念寺」の寺標<br />前田利家所縁の地を巡るルートに組み込まれているだけに、利家の生誕地(諸説あり)とされ、前田家と所縁のある寺<br />かつてこの地には前田城があった場所として城址碑も建てられています

    橋を渡り下りきった先で右に進むと龍瓢寺の鐘楼門に続きます
    鐘楼門から境内方向の眺め
    右に梅鉢紋の入った「前田速念寺」の寺標
    前田利家所縁の地を巡るルートに組み込まれているだけに、利家の生誕地(諸説あり)とされ、前田家と所縁のある寺
    かつてこの地には前田城があった場所として城址碑も建てられています

  • 寺標の左側面には「前田利家郷御遺跡」とも刻まれています<br />庄内川右岸のこの辺りは中川区前田西町になり、古くは尾張国海東郡前田村で寺号にも前田の名が入るように前田家の領地だったのが伝わってきます

    寺標の左側面には「前田利家郷御遺跡」とも刻まれています
    庄内川右岸のこの辺りは中川区前田西町になり、古くは尾張国海東郡前田村で寺号にも前田の名が入るように前田家の領地だったのが伝わってきます

  • 前田速念寺はかつて前田城が築城され、前田氏発祥の地<br />城の築城時期や築城主など詳らかになっていないようですが、城は庄内川右岸のこの地に築城された平城だったされます

    前田速念寺はかつて前田城が築城され、前田氏発祥の地
    城の築城時期や築城主など詳らかになっていないようですが、城は庄内川右岸のこの地に築城された平城だったされます

  • 上は大正初期の地図で鎮座地は庄内川右岸にあたり当時の西前田の東に位置します<br />現在の地図から速念寺を中心に前田城があった範囲を見ると、北は下之島公園、南は県道、西は長須賀小学校付近の範囲に広がっていたと思われます<br />現状から城があった名残は感じられませんが、前田一族はこの城を拠点として、南の下之一色城、東の荒子城、西の蟹江城を出城として一帯を治めていたようです<br /><br />蟹江合戦(天正12年)以降廃城となり、その後の城址に建立されたのが前田速念寺とされます<br />建立時期は定かではなく、一説では平安時代に遡るとも云われ、当初は天台宗の寺だったようです<br />その後、前田利家の叔父 前田利則が出家して意休法師と号し、寺を中興し初代住職となったと云われます<br />この際に天台宗から現在の真宗に改宗したようです<br /><br />寛政期(1789~1801)に作られたとされる愛知郡村邑全図から前田・助光・伏屋村を見るも、天正12年(1584)に廃城となった城はともかく、意休法師が中興した寺が絵図では見つけられなかった

    上は大正初期の地図で鎮座地は庄内川右岸にあたり当時の西前田の東に位置します
    現在の地図から速念寺を中心に前田城があった範囲を見ると、北は下之島公園、南は県道、西は長須賀小学校付近の範囲に広がっていたと思われます
    現状から城があった名残は感じられませんが、前田一族はこの城を拠点として、南の下之一色城、東の荒子城、西の蟹江城を出城として一帯を治めていたようです

    蟹江合戦(天正12年)以降廃城となり、その後の城址に建立されたのが前田速念寺とされます
    建立時期は定かではなく、一説では平安時代に遡るとも云われ、当初は天台宗の寺だったようです
    その後、前田利家の叔父 前田利則が出家して意休法師と号し、寺を中興し初代住職となったと云われます
    この際に天台宗から現在の真宗に改宗したようです

    寛政期(1789~1801)に作られたとされる愛知郡村邑全図から前田・助光・伏屋村を見るも、天正12年(1584)に廃城となった城はともかく、意休法師が中興した寺が絵図では見つけられなかった

  • 山門額は梅廼寺<br />ここ前田城は利家(1539~1599)出生の地とされ、利家7歳のときに荒子城に移ったとされています<br />先に立ち寄った冨士大権現天満天神宮が鎮座する荒子城では、ここで生まれ育ったとあり<br />どちらにも根拠がありそうです

    山門額は梅廼寺
    ここ前田城は利家(1539~1599)出生の地とされ、利家7歳のときに荒子城に移ったとされています
    先に立ち寄った冨士大権現天満天神宮が鎮座する荒子城では、ここで生まれ育ったとあり
    どちらにも根拠がありそうです

  • 鐘楼門左の前田速念寺の由来<br />「速念寺は加賀百万石の太守前田利家公寄進になる阿弥陀如来を本尊としている<br />ここはもと海東郡前田村と言い、前田城があり、 前田氏発祥の地である<br />利家公も前田で生まれ、 幼少にして前田城の出城、新設の荒子城に移って成長したとするのが寺伝である<br />前田氏は菅原道真公を祖と仰ぎ、梅鉢の紋を用いる<br />前田氏は織田信長に属し、 西に蟹江城、東に荒子城、南に一色城等を支配し、 前田城はその中心であった<br />前田城は、天正十二年長久手の合戦ののち、秀吉方についたため、 家康方の攻撃を受け落城、城主与十郎は蟹江で討死、その子 長種は北陸に逃れて利家に仕え、一万石(のち二万石)を得た<br />利家の長女幸を妻とした<br />利家の叔父前田利則は、出家して意休と号し、浄土真宗速念寺初代となり、速念寺は前田氏の鎮魂の寺となった<br />境内には、前田家古墳や最後の城主与十郎の墓がある<br />また明治に建立された利家公の記念碑や、中部石川県人会の シンボル碑がある<br />平成十三年十一月 前田 速念寺」<br /><br />「前田・戸田ふるさとコース」の解説は以下<br />「当寺はもと天台宗に属していたが、天文12年(1543)、中興の意休法師の時、真宗に転宗した<br />意休は俗名前田利則といい、加賀公前田利家の叔父にあたる<br />また、当寺は前田氏発祥の地で、境内には前田古城跡の石碑がある<br />当時の前田氏は蟹江、一色、荒子を傘下に収めていた<br />寺伝によると、天文6年、前田城にて利家出生、7歳頃荒子に移る<br />天正12年(1584)小牧長久手の戦で前田城落城<br />前田一族城主ら三基の墳墓の脇に速念寺は移り鎮魂の寺となる<br />その後、利家は金沢城に入るが生まれ故郷を偲び、前田一族先祖の墳墓と土地を守る速念寺に本尊となる阿弥陀如来を寄進<br />その蓮台には「聖徳太子御作、前田又左衛門尉利家」の銘がある」

    鐘楼門左の前田速念寺の由来
    「速念寺は加賀百万石の太守前田利家公寄進になる阿弥陀如来を本尊としている
    ここはもと海東郡前田村と言い、前田城があり、 前田氏発祥の地である
    利家公も前田で生まれ、 幼少にして前田城の出城、新設の荒子城に移って成長したとするのが寺伝である
    前田氏は菅原道真公を祖と仰ぎ、梅鉢の紋を用いる
    前田氏は織田信長に属し、 西に蟹江城、東に荒子城、南に一色城等を支配し、 前田城はその中心であった
    前田城は、天正十二年長久手の合戦ののち、秀吉方についたため、 家康方の攻撃を受け落城、城主与十郎は蟹江で討死、その子 長種は北陸に逃れて利家に仕え、一万石(のち二万石)を得た
    利家の長女幸を妻とした
    利家の叔父前田利則は、出家して意休と号し、浄土真宗速念寺初代となり、速念寺は前田氏の鎮魂の寺となった
    境内には、前田家古墳や最後の城主与十郎の墓がある
    また明治に建立された利家公の記念碑や、中部石川県人会の シンボル碑がある
    平成十三年十一月 前田 速念寺」

    「前田・戸田ふるさとコース」の解説は以下
    「当寺はもと天台宗に属していたが、天文12年(1543)、中興の意休法師の時、真宗に転宗した
    意休は俗名前田利則といい、加賀公前田利家の叔父にあたる
    また、当寺は前田氏発祥の地で、境内には前田古城跡の石碑がある
    当時の前田氏は蟹江、一色、荒子を傘下に収めていた
    寺伝によると、天文6年、前田城にて利家出生、7歳頃荒子に移る
    天正12年(1584)小牧長久手の戦で前田城落城
    前田一族城主ら三基の墳墓の脇に速念寺は移り鎮魂の寺となる
    その後、利家は金沢城に入るが生まれ故郷を偲び、前田一族先祖の墳墓と土地を守る速念寺に本尊となる阿弥陀如来を寄進
    その蓮台には「聖徳太子御作、前田又左衛門尉利家」の銘がある」

  • 鐘楼門(築年代不明)から上を見上げると梵鐘と龍の姿がある

    鐘楼門(築年代不明)から上を見上げると梵鐘と龍の姿がある

  • 境内から個性的な屋根の本堂の眺め

    境内から個性的な屋根の本堂の眺め

  • 前田利家が身につけたとされる烏帽子型の兜をモデルにして作られたもので、前田家発祥の地に鎮座する速念寺を象徴するもの

    前田利家が身につけたとされる烏帽子型の兜をモデルにして作られたもので、前田家発祥の地に鎮座する速念寺を象徴するもの

  • 本堂に掲げられる寺号額<br />本尊は阿弥陀如来で製作年代は不明ですが、鎌倉時代以前のものとされるようです<br />一説には聖徳太子の作とも云われるようです

    本堂に掲げられる寺号額
    本尊は阿弥陀如来で製作年代は不明ですが、鎌倉時代以前のものとされるようです
    一説には聖徳太子の作とも云われるようです

  • 正面から見る姿もなかなかですが、斜めから見上げる姿も烏帽子兜の趣がある<br />構造は主にコンクリートが多用された造りで、木の温もりが伝わる落ち着いた佇まいではないかもしれません<br />しかし、この前衛的な建物は前田家発祥の地、利家を輩出した前田の地を象徴するものだと感じる

    正面から見る姿もなかなかですが、斜めから見上げる姿も烏帽子兜の趣がある
    構造は主にコンクリートが多用された造りで、木の温もりが伝わる落ち着いた佇まいではないかもしれません
    しかし、この前衛的な建物は前田家発祥の地、利家を輩出した前田の地を象徴するものだと感じる

  • 当日は夕方だったため、本堂内扉は施錠されていましたが、運が良ければ内部も見られそうです<br />菅原道真を祖と仰ぐ前田家、赤い外扉の中央には紋梅鉢紋が入る

    当日は夕方だったため、本堂内扉は施錠されていましたが、運が良ければ内部も見られそうです
    菅原道真を祖と仰ぐ前田家、赤い外扉の中央には紋梅鉢紋が入る

  • 本堂左の半鐘<br />この位置からして現在使われているのか分かりません

    本堂左の半鐘
    この位置からして現在使われているのか分かりません

  • 境内左側の前田與十郎の墓と前田家古墳墓<br />加賀百万石の礎を築いた利家、この左側には石川県人会の石碑が建てられており、発祥の地に対する思いが伝わってきます<br />利家が加賀に移り、最後の前田城主の前田與十郎が没し、前田城廃城にともない利家を頼ってこの地から多くの者が加賀に移り住んだとされ、金沢にはそうした者が集まってできたであろう尾張町の地名が残ります

    境内左側の前田與十郎の墓と前田家古墳墓
    加賀百万石の礎を築いた利家、この左側には石川県人会の石碑が建てられており、発祥の地に対する思いが伝わってきます
    利家が加賀に移り、最後の前田城主の前田與十郎が没し、前田城廃城にともない利家を頼ってこの地から多くの者が加賀に移り住んだとされ、金沢にはそうした者が集まってできたであろう尾張町の地名が残ります

  • 本堂から鐘楼門の眺め、瓦には至る所に梅の紋が入れられています<br />「ヒラメキさんぽ」のチェックポイントは速念寺をもって終了、各所で得られたヒントから得られた回答は「ウメバチモン」になりました<br /><br />ゴールの速念寺からの帰路は、県道29号線に出て、西に少し歩いた先にある市バス「助光住宅停」から地下鉄高畑駅に戻ります<br /><br />前田 速念寺<br />宗派 / 真宗大谷派<br />山号 / 岡部山<br />創建 / 不明<br />本尊 / 阿弥陀如来 本尊聖徳太子御作<br />境内社 / ・・・<br />参拝日 / 2024/02/14<br />所在地 / 名古屋市中川区前田西町1-904<br />龍潭寺から前田速念寺 / 龍瓢寺から県道29号線を西進、新前田橋を渡り右折、長須賀小学校方向の速念寺まで徒歩15分前後

    本堂から鐘楼門の眺め、瓦には至る所に梅の紋が入れられています
    「ヒラメキさんぽ」のチェックポイントは速念寺をもって終了、各所で得られたヒントから得られた回答は「ウメバチモン」になりました

    ゴールの速念寺からの帰路は、県道29号線に出て、西に少し歩いた先にある市バス「助光住宅停」から地下鉄高畑駅に戻ります

    前田 速念寺
    宗派 / 真宗大谷派
    山号 / 岡部山
    創建 / 不明
    本尊 / 阿弥陀如来 本尊聖徳太子御作
    境内社 / ・・・
    参拝日 / 2024/02/14
    所在地 / 名古屋市中川区前田西町1-904
    龍潭寺から前田速念寺 / 龍瓢寺から県道29号線を西進、新前田橋を渡り右折、長須賀小学校方向の速念寺まで徒歩15分前後

  • 前田利家出生の地とされる速念寺から、帰途に着くため、西方向の助光住宅バス停に向かいます<br />速念寺から南に向かい二筋目を右に向かった左に前田西 薬師堂・秋葉神社が鎮座していました<br />徒歩で2分程、距離にして200㍍もないでしょう<br /><br />前方に見えてくる入母屋瓦葺の小堂が前田西に鎮座する薬師堂・秋葉神社になります

    前田利家出生の地とされる速念寺から、帰途に着くため、西方向の助光住宅バス停に向かいます
    速念寺から南に向かい二筋目を右に向かった左に前田西 薬師堂・秋葉神社が鎮座していました
    徒歩で2分程、距離にして200㍍もないでしょう

    前方に見えてくる入母屋瓦葺の小堂が前田西に鎮座する薬師堂・秋葉神社になります

  • 薬師堂全景<br />堂前に献灯台を備え、一間の向拝が付くもので、入口の格子戸以外は板壁の堂<br />軒下の三方に濡縁があり、手前の献灯台には蝋燭が灯された形跡もある<br />季節のせいもあるだろうが境内は雑草もなく、日々手入れされているように見受けられます<br />周囲の街並みは建替も進み、今どきの住宅が多い街並みです<br />ひと昔前の古い町並みにこうした堂が佇む光景は身近にあったものです

    薬師堂全景
    堂前に献灯台を備え、一間の向拝が付くもので、入口の格子戸以外は板壁の堂
    軒下の三方に濡縁があり、手前の献灯台には蝋燭が灯された形跡もある
    季節のせいもあるだろうが境内は雑草もなく、日々手入れされているように見受けられます
    周囲の街並みは建替も進み、今どきの住宅が多い街並みです
    ひと昔前の古い町並みにこうした堂が佇む光景は身近にあったものです

  • 薬師堂正面<br />視線を引く装飾は少なく、頭貫先端の木鼻は獅子や獏の原形になるシンプルな意匠のもの

    薬師堂正面
    視線を引く装飾は少なく、頭貫先端の木鼻は獅子や獏の原形になるシンプルな意匠のもの

  • 光背の蟇股には輪宝紋が施されている<br />周辺には先の速念寺(天台宗から浄土真宗に改宗)の他、圓盛寺(真宗)、称円寺(真宗大谷派)の寺院が狭い範囲に鎮座しており、それらの寺と所縁がありそうです<br /><br />薄暗い堂内を覗き込んで見ました(不審者そのものか)、正面に金色の厨子らしき姿が見られました<br />恐らく本尊の薬師如来像が安置されているのだろう<br />左には火焔光背を持つ不動明王像が祀られているようです<br />ダメもとでレンズを向けで見ましたが、結果はやはり載せれるものではなかった

    光背の蟇股には輪宝紋が施されている
    周辺には先の速念寺(天台宗から浄土真宗に改宗)の他、圓盛寺(真宗)、称円寺(真宗大谷派)の寺院が狭い範囲に鎮座しており、それらの寺と所縁がありそうです

    薄暗い堂内を覗き込んで見ました(不審者そのものか)、正面に金色の厨子らしき姿が見られました
    恐らく本尊の薬師如来像が安置されているのだろう
    左には火焔光背を持つ不動明王像が祀られているようです
    ダメもとでレンズを向けで見ましたが、結果はやはり載せれるものではなかった

  • 大棟の鬼には「薬」の文字が入る<br />この薬師堂の建立時期がいつ頃なのか新旧地図・村絵図などから探しましたが、建立時期につながるものに出逢うことはできなかった

    大棟の鬼には「薬」の文字が入る
    この薬師堂の建立時期がいつ頃なのか新旧地図・村絵図などから探しましたが、建立時期につながるものに出逢うことはできなかった

  • 薬師堂の左に鎮座する秋葉神社<br />比較的綺麗な石で作られた境内には年輪を重ねた楠とイチョウの樹が植えられている<br />何れも上は押さえられ、枝もバッサリと剪定されているが太い主幹の勢いは衰える事はない<br />いつから祀られていたものか、寛政期(1789~1801)に作られた愛知郡村邑全図の前田・助光・伏屋村絵図からは特定できず、地史に目を通していないので創建は定かではありません<br />確かなのは手前の幟立てが昭和56年(1981)寄進のものでした

    薬師堂の左に鎮座する秋葉神社
    比較的綺麗な石で作られた境内には年輪を重ねた楠とイチョウの樹が植えられている
    何れも上は押さえられ、枝もバッサリと剪定されているが太い主幹の勢いは衰える事はない
    いつから祀られていたものか、寛政期(1789~1801)に作られた愛知郡村邑全図の前田・助光・伏屋村絵図からは特定できず、地史に目を通していないので創建は定かではありません
    確かなのは手前の幟立てが昭和56年(1981)寄進のものでした

  • 秋葉神社本殿<br />板宮造りで、本殿域の玉垣も昭和56年(1981)に寄進されたものでした<br />参拝当日気付かなかったが、本殿域の右奥に古い灯篭があったようで、こうして見ると寄進年は昭和よりもう少し古いのかもしれません<br /><br />前田西 薬師堂・秋葉神社<br />薬師堂<br />創建 / 不明<br />本尊 / 薬師如来像<br />秋葉神社<br />創建 / 不明<br />本尊 / 火之迦具土神<br />参拝日 / 2024/02/14<br />所在地 / 名古屋市中川区前田西町1-1301 <br />速念寺から薬師堂・秋葉神社 / 南に向かい二筋目を右に進んで左側、徒歩2分程

    秋葉神社本殿
    板宮造りで、本殿域の玉垣も昭和56年(1981)に寄進されたものでした
    参拝当日気付かなかったが、本殿域の右奥に古い灯篭があったようで、こうして見ると寄進年は昭和よりもう少し古いのかもしれません

    前田西 薬師堂・秋葉神社
    薬師堂
    創建 / 不明
    本尊 / 薬師如来像
    秋葉神社
    創建 / 不明
    本尊 / 火之迦具土神
    参拝日 / 2024/02/14
    所在地 / 名古屋市中川区前田西町1-1301 
    速念寺から薬師堂・秋葉神社 / 南に向かい二筋目を右に進んで左側、徒歩2分程

  • 前田西町の薬師堂から、西方向にある助光住宅バス停に向かう<br />その途中、土之宮神明社の前を通りかかり、金山行きのバスの時間を気にしていたかみさんですが、一本遅らせてもらい立ち寄らせてもらう<br />前田西町の薬師堂から西に2分程進むとそこは中川区助光1丁目<br />助光の町名は鎌倉時代から続くもので、尾張国地名考によれば地名は人の名によるものと云う<br />往古のこのあたりには助光氏の所有田がありその名が残ったようです<br /><br />戦国時代から安土桃山時代には、現在土之宮神明社が鎮座するこの場所に、織田信長を支えた赤母衣衆の一人だった福留左近将監の居城 助光城があった場所<br />境内一帯が助光城の跡で、城の痕跡は見られませんが、境内の秋葉社左に「福留将監古城跡」と記された三角の石碑がそれを伝えています

    前田西町の薬師堂から、西方向にある助光住宅バス停に向かう
    その途中、土之宮神明社の前を通りかかり、金山行きのバスの時間を気にしていたかみさんですが、一本遅らせてもらい立ち寄らせてもらう
    前田西町の薬師堂から西に2分程進むとそこは中川区助光1丁目
    助光の町名は鎌倉時代から続くもので、尾張国地名考によれば地名は人の名によるものと云う
    往古のこのあたりには助光氏の所有田がありその名が残ったようです

    戦国時代から安土桃山時代には、現在土之宮神明社が鎮座するこの場所に、織田信長を支えた赤母衣衆の一人だった福留左近将監の居城 助光城があった場所
    境内一帯が助光城の跡で、城の痕跡は見られませんが、境内の秋葉社左に「福留将監古城跡」と記された三角の石碑がそれを伝えています

  • 境内は南北に長く、南向きに社頭を構えています<br />社頭右手に土之宮神明社の社標と由緒があり、一対の常夜灯とその先に神明鳥を構えています<br />鳥居は大正12年(1923)、社標は昭和2年(1927)に寄進されたもの

    境内は南北に長く、南向きに社頭を構えています
    社頭右手に土之宮神明社の社標と由緒があり、一対の常夜灯とその先に神明鳥を構えています
    鳥居は大正12年(1923)、社標は昭和2年(1927)に寄進されたもの

  • 神明社土之宮合殿 由緒概要、内容は以下<br />「御本社 神明社土之宮合殿(通称 土之宮神明社)<br />境内社 秋葉神社<br />鎮座地 名古屋市中川区助光1丁目106番地<br /><br />神明社土之宮合殿<br />御祭神 <br /> 天照皇大神 <br />  概要 皇室の祖神、伊勢神宮の主祭神で日本の神様の代表<br />  御神徳 国土安泰、家内安全、開運招福、農工業等全産業振興<br /> 埴安比咩神 (埴安姫神)<br />  概要 火の神、男神の埴安比古神と共に祭器を司る土の神様<br />  御神徳 農地豊潤、肥料開発、農耕進展等五穀豊穣、陶磁器産業・鉱工業の繁栄<br /><br />秋葉神社<br />御祭神<br /> 迦具土神 (軻遇突地尊) <br />  概要 伊邪那美命が最後に生んだ火の神、秋葉山本宮の祭神、鎮火・防火の神様<br />  御神徳 工業・鉱業・窯業の発展、就労安全、金運招福 <br /><br />由来<br />創立年代 正確には不明<br /> 尾張志の神社の項に<br />「神明の社助光村にあり、土宮神明と云う、文明11年9月の棟札あり」と古くより助光の氏神として尊崇あつく明治5年村社に列格する<br /> 古書の助光城の項に<br />「当村土宮神明社の 右棟札に奉建立御柱一宇 大檀群助光郷 福富宮内左衛門尉光親 文明11卯閏9月8日と見えたり当所居住の人也」と記載在り<br /> 尾張徇行記には「神明社境内年貢地三畝十八歩」とある<br />文明11年(1479)の干支は亥であり、卯と亥を誤って伝承したと推定される<br /> いずれにせよ、今から500年以上前の創立である<br />祭典・行事 <br /> 春季大祭 5月第一土曜日、祈年祭 <br /> 秋季大祭 10月第二土曜日 例祭・収穫祭」<br /><br />地史をもとに分かりやすく記載されています 

    神明社土之宮合殿 由緒概要、内容は以下
    「御本社 神明社土之宮合殿(通称 土之宮神明社)
    境内社 秋葉神社
    鎮座地 名古屋市中川区助光1丁目106番地

    神明社土之宮合殿
    御祭神 
     天照皇大神 
      概要 皇室の祖神、伊勢神宮の主祭神で日本の神様の代表
      御神徳 国土安泰、家内安全、開運招福、農工業等全産業振興
     埴安比咩神 (埴安姫神)
      概要 火の神、男神の埴安比古神と共に祭器を司る土の神様
      御神徳 農地豊潤、肥料開発、農耕進展等五穀豊穣、陶磁器産業・鉱工業の繁栄

    秋葉神社
    御祭神
     迦具土神 (軻遇突地尊) 
      概要 伊邪那美命が最後に生んだ火の神、秋葉山本宮の祭神、鎮火・防火の神様
      御神徳 工業・鉱業・窯業の発展、就労安全、金運招福 

    由来
    創立年代 正確には不明
     尾張志の神社の項に
    「神明の社助光村にあり、土宮神明と云う、文明11年9月の棟札あり」と古くより助光の氏神として尊崇あつく明治5年村社に列格する
     古書の助光城の項に
    「当村土宮神明社の 右棟札に奉建立御柱一宇 大檀群助光郷 福富宮内左衛門尉光親 文明11卯閏9月8日と見えたり当所居住の人也」と記載在り
     尾張徇行記には「神明社境内年貢地三畝十八歩」とある
    文明11年(1479)の干支は亥であり、卯と亥を誤って伝承したと推定される
     いずれにせよ、今から500年以上前の創立である
    祭典・行事 
     春季大祭 5月第一土曜日、祈年祭 
     秋季大祭 10月第二土曜日 例祭・収穫祭」

    地史をもとに分かりやすく記載されています 

  • 上は寛政期(1789~1801)に描かれた海東郡村邑全図の助光村<br />ほぼ中央に土之宮神明社らしき鳥居と社地を取り囲む様に水路が巡らされているのが描かれています<br />これを助光城の名残と捉えてもいいのかも知れない

    上は寛政期(1789~1801)に描かれた海東郡村邑全図の助光村
    ほぼ中央に土之宮神明社らしき鳥居と社地を取り囲む様に水路が巡らされているのが描かれています
    これを助光城の名残と捉えてもいいのかも知れない

  • 参道から境内の眺め<br />左に手水舎、常夜灯とその先に狛犬、社殿と連なり<br />左奥に境内社の秋葉社の姿がある

    参道から境内の眺め
    左に手水舎、常夜灯とその先に狛犬、社殿と連なり
    左奥に境内社の秋葉社の姿がある

  • 拝殿はコンクリート造りで四方吹き抜けのもの

    拝殿はコンクリート造りで四方吹き抜けのもの

  • 社殿全景<br />拝殿・幣殿・覆殿と連なり本殿域は透塀で囲われています<br />拝殿の鬼には五三桐と破風飾りにが木瓜らしき紋が入れられています

    社殿全景
    拝殿・幣殿・覆殿と連なり本殿域は透塀で囲われています
    拝殿の鬼には五三桐と破風飾りにが木瓜らしき紋が入れられています

  • 拝殿前の狛犬は大正10年(1921)寄進のもの

    拝殿前の狛犬は大正10年(1921)寄進のもの

  • 拝殿内額の「土之宮神明社」は元名古屋市長を務めた杉戸清氏の揮毫

    拝殿内額の「土之宮神明社」は元名古屋市長を務めた杉戸清氏の揮毫

  • 幣殿両脇の狛犬(寄進年未確認)

    幣殿両脇の狛犬(寄進年未確認)

  • 覆殿・幣殿ともにコンクリート造りで、神明造りの覆殿の棟には外削千木に5本の鰹木が飾られています

    覆殿・幣殿ともにコンクリート造りで、神明造りの覆殿の棟には外削千木に5本の鰹木が飾られています

  • 境内左の秋葉神社<br />左の三角形の石碑が「福留将監古城跡 是より西南壱丁余」、台座には「助光二村」と刻まれた碑があります<br />因みに一丁は約100㍍なので南西壱丁というと、現在の助光住宅バス停辺りまで城もしくは居館が広がっていた事になりますが、城については築城・廃城時期など不明な所が多く定かではないようです

    境内左の秋葉神社
    左の三角形の石碑が「福留将監古城跡 是より西南壱丁余」、台座には「助光二村」と刻まれた碑があります
    因みに一丁は約100㍍なので南西壱丁というと、現在の助光住宅バス停辺りまで城もしくは居館が広がっていた事になりますが、城については築城・廃城時期など不明な所が多く定かではないようです

  • 板宮造りの秋葉社本殿<br />手前の常夜灯の竿には秋葉社の社名と昭和4年の寄進年が刻まれていた<br />助光集落の火伏の神として今日まで受け継がれてきた<br />創建時期等の詳細は不明

    板宮造りの秋葉社本殿
    手前の常夜灯の竿には秋葉社の社名と昭和4年の寄進年が刻まれていた
    助光集落の火伏の神として今日まで受け継がれてきた
    創建時期等の詳細は不明

  • 拝殿から社頭の眺め<br />正面の鳥居は大正12年(1923)寄進のものでした<br />偶然通りかかった神社ですが、助光城など色々と知る機会を与えてくれた古くからの神社です<br /><br />さて寄り道してばかりの「ヒラメキさんぽ」でしたが、ここまで来れば助光住宅バス停も目と鼻の先だ<br /><br />神明社土之宮合殿・助光城跡<br />創建 / 不明<br />祭神 / 天照皇大神、埴安比咩神<br />境内社 / 秋葉社<br />参拝日 / 2024/02/14<br />所在地 / 名古屋市中川区助光1-160<br />薬師堂から土之宮神明社 / 西に向かい突き当りを左折、一筋目を右に進んで左側、徒歩2分程

    拝殿から社頭の眺め
    正面の鳥居は大正12年(1923)寄進のものでした
    偶然通りかかった神社ですが、助光城など色々と知る機会を与えてくれた古くからの神社です

    さて寄り道してばかりの「ヒラメキさんぽ」でしたが、ここまで来れば助光住宅バス停も目と鼻の先だ

    神明社土之宮合殿・助光城跡
    創建 / 不明
    祭神 / 天照皇大神、埴安比咩神
    境内社 / 秋葉社
    参拝日 / 2024/02/14
    所在地 / 名古屋市中川区助光1-160
    薬師堂から土之宮神明社 / 西に向かい突き当りを左折、一筋目を右に進んで左側、徒歩2分程

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