2024/10/12 - 2024/10/12
59位(同エリア283件中)
ベームさん
暑さも落着き、6月以来久しぶりの「遠出」です。
今回は四ツ谷駅から大妻通りにかけて東北東に延びる番町文人通り及びその界隈を歩きました。この地域にはその名の通り、明治から昭和にかけて多くの文士が住んでいたので、その痕跡を訪ねるのが目的です。
番町の名の由来は、徳川家康が江戸入府に当たり江戸城警備のため四谷見附を設け、旗本御家人から成る大番組という警備組織を造り、甲州街道の入り口に当たるこの地に住まわせたことによるそうです。それで江戸時代から明治初期にかけてこの地域は広大な旗本屋敷が連なる陰気で暗いところでした。表札などは架けないのでどこが誰の屋敷かもわからなかったそうです。「番町にいて番町知らず。」
ジャーナリストで俳人の矢田挿雲の大正10年頃の一文に「番町の陰気で暗いのは昔も今もだが、今は化粧煉瓦の西洋館に門電燈がつらなり、辻々には交番があって、お菊(番町皿屋敷のお菊)など出たくても出られない。江戸時代の番町は今よりも樹木が多く、広大な士族屋敷に行燈が一つずつ、それも貧乏旗本などは燈心を二本くらいにして、油の節約をはかり、その暗さはまた格別であった。」と諧謔味たっぷりに書いています。
今は高級マンションとオフィスビルが櫛比し、明るいけど緑や寺社など皆目ない町になっています。
文人たちが住んでいた跡には ”ここに何時○○が住んでいた” との標識が立つのみで、往時をしのばせるものとては何もありませんでした。歩きなれない足を痛め、少々消化不良の街歩きでした。
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相鉄線弥生台駅です。
この電車で四谷迄相鉄、東急、東京メトロを乗り継いで(乗り換えなしで)行けます。もっとも乗り換えなしで行けるのは8時53分のこの1本だけです。 -
車内。
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とは言うものの、1時間15分ほど座り続けるとさすがにお尻が痛くなります。車窓風景も地下区間が多く退屈でした。
今日のスタート地下鉄南北線四ツ谷駅到着。10時10分ころ。 -
赤坂口改札口。
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地上に出ると、新宿通りを挟んでJR四ツ谷駅があります。
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黒い背の高い建物はコモレ四谷タワーだと思います。複合施設です。
右のかまぼこ型の建物はJR四ツ谷駅麹町口。 -
JR中央線、総武線を跨ぐ新宿通りの四谷見附橋。
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JR 線四ツ谷駅。
橋は四谷見附橋。 -
市ヶ谷方面。
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手始めに駅周辺を歩きました。
上智大学です。大正2年、尾張徳川家の中屋敷跡地に設立されました。日本最古のカトリック系大学だそうです。 -
聖イグナチオ教会。
1999年(平成11年)完成した楕円形の建物です。前身は1936年の設立。上智大学に隣接するので大学の一部のように見えますが、別の組織です。しかし大学の行事に様々にかかわっており、両者は密接な関係にあります。 -
交通量の多い新宿通りを渡ります。
JR四ツ谷駅麹町口。 -
駅の先に石垣の跡が見えました。
四ッ谷門、通称四谷見附の跡です。甲州街道の入り口でした。 -
江戸城三十六見附の一つで、1636年に造られましたが、1872年撤去されました。今は石垣の一部が残るのみです。
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四谷見附の石垣。
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山本松谷「明治東京名所図会」:三番町通りより不二を望む。明治32年。
これがこれから歩く番町の明治時代の風景です。随分賑わっていますね。江戸時代は暗い旗本の屋敷町でした。
風船売り、厨子を背負った勧進僧、威勢よく走る人力車、富士山まで見える。まさに明治です。 -
四ツ谷駅辺りから東北、大妻通りに向かって4本の通りがあります。
二七通り、番町学園通り、番町文人通りと番町中央通りです。ぐるっと一廻りして四ツ谷駅に戻る行程です。 -
まず学園通りから。
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番町学園通りの入り口にある主婦連(主婦連合会)の本拠主婦会館です。
主婦連は1948年、奥むめをを中心に結成された主婦の連合会。
身近な家庭生活から、社会・政治・経済問題の問題提起、改善に努めた。デモの時のしゃもじのプラカードが有名。 -
雙葉学園の校舎が続きます。カトリック系の女学校で、1909年設立の雙葉高等女学校がスタート。小・中・高等学校があります。
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雙葉高等学校。
桜蔭、女子学院と共に女子校の御三家と言われる。 -
同。
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少し先を右に折れると、日本基督教団番町教会です。1886年設立。
外から覗き込んでいると、わざわざドアを開けてくれました。好奇心だけの私は少々忸怩たる気持ちです。 -
プロテスタントの教会らしい簡素な堂内。
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振り返るとすっきりしたパイプオルガンがありました。2018年の製作。
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番町学園通りに戻ると千代田区立番町小学校です。
明治3年に東京府で初めて開設された小学校6校の一つ。日本最古の小学校と言えます。番町小学校の名称は明治12年より。 -
校庭。
ひところ、番町小学校・麹町中学校・日比谷高校・東大がエリートコースと言われたほどの名門小学校です。卒業生には、広津柳浪(作家)、狩野亨吉(一高、京大総長)、大町桂月(作家)、山川菊枝(女性運動家)、網野菊(作家)、中村伸郎(俳優)、吉行淳之介(作家)等々。寺田寅彦も一時在籍しています。 -
その角を左に曲がると二七(にしち)通りに突き当たります。
付近に二七不動尊があったのが名前の由来とか、2と7の日に縁日が立ったのが由来とか言われています。 -
外濠の内側を走る割と大きな通りです。
車の往来は少ないです。 -
番町小学校と背中合わせにマンションが建っています。
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その前の道端に内田百間旧居跡の看板が立っています。間は正しくは門がまえに月ですが、文字化けしてしまいます。名随筆家、別称百鬼園、本名内田栄造。1889年(明治22年)~1971年(昭和46年)。
岡山の酒蔵家の長男に生まれ、東大独文科卒。晩年の夏目漱石に師事。こよなく酒と借金貧乏生活と鉄道旅を愛した。法政大学教授。 -
百間は昭和12年から亡くなるまでこの界隈に過ごしていますが、3回住まいが変わっています。
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最初の住まいがあった所、今の番町会館。
合羽坂から移転し、昭和12年から昭和20年5月、B29の空襲で焼け出されるまで住んでいました。 -
番町会館。オフィスビルです。
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昭和20年5月26日未明の空襲で焼け出された後の2番目の住居跡。今は光文書院というビルが建っています。
松木男爵の庭の片隅に3畳ほどの広さの掘っ立て小屋があり、そこに住まわせてもらったのです。困ったのは厠(トイレ)で、塀の隅に穴を掘ってバケツを埋めて厠とします。周りをトタン板で囲い目隠しにしました。雨が降ると傘をさし、雪が降るとお尻に雪が積もり、風が吹くと落とし紙が風に飛んであわてて追っかけたそうです。 -
そんな所に昭和23年まで妻と3年間も暮らしました。3畳のうち1畳は物置。残りの2畳に夫婦二人、沢山の鳥籠(小鳥を飼うのが趣味でした)で一杯でした。客は中に入れず外で話したそうです。その様子は「東京焼盡」、「百鬼園戦後日記帳」という日記に詳しく述べられています。
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塀の外は外濠の土手で、省線(今の総武線)の警笛の音が良く聞こえたそうです。
昭和23年5月にようやく近くに3畳3間が続くいわゆる「3畳御殿」が作られました。そして終の棲家ともなったのです。 -
看板の建っていたマンションの角を曲がったところが3番目の住まい「3畳御殿」があった所。
百間は日記の中でこんな趣旨のことを言っています。「今度の住まいで一番自慢なのは、厠が屋根の下にあることだ。雨の日に傘をさす必要はないし、雪の日にお尻に雪が積もることもない。」またこんな愚痴も言っています。「今までの掘立て小屋では座ったままなんにでも手が届いた。今度の豪邸では何を探すにも歩き回らないといけない。」
私は百間の著作はほぼ全部読んだつもりですが、彼が夏目漱石に金銭上で迷惑をかけたような漱石の遺族の書いたものを読んで、少々熱が冷めました。 -
マンションの向いに東京中華学校というのがありました。
台湾系の小中高一貫教育です。生徒は日本人が一番多いそうです。 -
二七通りを歩きます。
ミュージックレインのビル。ソニー・ミュージック・エンタテインメントの子会社です。芸能事務所でしょう。 -
ここで昼にしました。
肉山菜そば、760円。
ここを左に下っていくと、JR市ヶ谷駅に出ます。 -
二七通り。
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マンションよりもオフィスビルが目立ちます。
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国立研究開発法人科学技術振興機構東京本部。
総本部は川口市にあります。 -
帯坂、というのがありました。説明が小さいので抄出します。
「江戸時代の怪談”番町皿屋敷”のお菊が髪を振り乱し、帯を引きずってこの坂を走った、という伝説から名付けられたと謂われますが、話しの中ではお菊は井戸に投げ込まれたことになっています。辻褄が合わないので、お菊では無く”東海道四谷怪談”のお岩だとも謂われています。」
そう言えばここは「番町皿屋敷」の舞台なのですね。 -
帯坂を左に下るとその先に、
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日本棋院会館がありました。
日本囲碁界の総元締めです。 -
いささかざる碁をたしなむものとしてちょっと敬意を表しました。
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二七通りに戻ると、角にあるのがルクセンブルク大使館。
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その紋章です。
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二七通り。
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道端に「御本丸大奥」と彫られた石碑がありました。なんじゃいな、こんな所に本丸だの大奥だのって。
ここは幕末、武家屋敷があった所だそうです。
表に、「御本丸大奥 御武運長久 西御丸大奥」、裏に「弘化四年(1847年)」と彫られています。大奥と江戸幕府の繁栄を願ったもののようです。 -
能美防災。
国内最大手総合防災設備メーカー。 -
その先に日露戦争の英雄東郷平八郎の居住跡が東郷公園となっていますが、居住部分は工事中で入れません。
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公園の隣にも小学校がありました。
千代田区立九段小学校。休日ですが大勢の父兄が出入りしています。 -
商店街でもないのにお肉屋さん。地元に密着したお店なのでしょう。
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東京家政学院です。
1923年、大江スミにより設立された「家政研究所」が母体です。 -
東京家政学院。
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学院の植え込みに建っています。
ここがあの「明星」発祥の地なんですね。そう言えば後で行く番町文人通りに与謝野晶子・鉄幹夫妻の居住跡があります。
1900年(明治33年)、東京新詩社を主宰する与謝野鉄幹(本名寛)はこの場所で同人機関誌「明星」を発刊した。それは当時の文壇、歌壇に多大な影響を与えました。同人には高村光太郎、北原白秋、石川啄木、鳳晶子(のちの与謝野晶子)、吉井勇、山川登美子等々。
しかし新詩社は翌明治34年には渋谷に移転しています。 -
東京家政学院の「明星発祥の地」。
与謝野晶子の有名な反戦歌「君死にたまふことなかれ」は1904年(明治37年)、日露戦争最中に「明星」には発表されたのです。国賊という非難に晶子は”忠君愛国、天皇のために死ね、という事の方が国を害するものだ。”と屈服しませんでした。よくぞ狂信的愛国主義者に暗殺されなかったものです。
明治34年という年は晶子・鉄幹にとってエポックメーキングキングな年でした。
この年鉄幹が妻と離婚して晶子と結婚し、晶子が結婚前の鳳晶子の名前で最初の歌集「みだれ髪」が新詩社から刊行されたのです。 -
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二七通りが大妻通りに交差するところです。大妻通りに入りました。
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塙保己一和学講談所跡。大妻通りを右折するとすぐです。
1746年~1821年。国学者。今の埼玉県本庄市生まれ。7歳の時失明。学問を志し江戸に出る。賀茂真淵に学ぶ。48歳の時、この場所に国学の学問所「和学講談所」を開く。平田篤胤、頼山陽も教えを乞うたと言われる。
国史に関する古書、記録を分類編纂した「群書類従」を刊行。
凄い人もいたものですね。あの3重苦のヘレン・ケラーは塙保己一を尊敬し、その生きざま、事績を頼りに生きたそうです。 -
大妻通りを下ります。
川柳に「番町に 過ぎたるものが二つあり 佐野の桜と塙検校」。
塙検校とは塙保己一、佐野の桜とはこの近くにあった旗本佐野善左衛門屋敷にあった見事な桜の木のことです。 -
通りの名の由来の大妻女子大学です。
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これが正門かな?
1908年(明治41年)大妻コタカが始めた家塾が母体。昭和24年、新制大学。 -
正門の脇に立つ看板。
旗本佐野善左衛門宅跡。
1784年(天明4年)、権勢を誇った老中田沼意次の息子で若年寄りの田沼意知を江戸城中で切りつけた。後日その傷で意知は死亡、佐野は切腹を命じられた。原因は私怨とみられる。その後田沼意次は失脚して行った。
田沼政治に嫌気をさしていた江戸市民は佐野を「世直し大明神」と讃えたそうです。 -
大妻通り。
その看板の建っている所。 -
ようやくここから番町文人通りに入りました。四ツ谷駅側と反対側です。四ツ谷駅方面に歩きます。
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千代田区ホームページより。
思ったより多くの文人が居住していたのですね。図の一番右端が大妻通りと番町文人通りが出会う所で、今私の立っている所です。 -
番町文人通り。
時代は様々ですが、多くの文人がこの通り沿いもしくは近辺に住んでいたのでした。 -
すぐ右手に長い塀に囲まれた和風建築がありました。
地図ではバチカン大使館となっていますが、それを示すものはなにもありませんでした。門標を剥がした跡がありました。移転したのでしょうか。 -
串田孫一旧居跡。1915年(大正4年)~2005年(平成17年)。
哲学者、詩人、随筆家。日本を代表する教養人。東大哲学科卒。 -
その標識が立つところ。マンションの一角です。昭和13年から数年間住んでいました。
山岳愛好家で、「山のパンセ」他山に関する多くの随筆があり、山の文芸誌「アルプ」を創刊、編集者を務めた。 -
二七通りと違って重厚なマンションが並んでいます。
高さ制限があって、高層マンションはありません。 -
途中東郷通り(行人坂)が交差します。
女流作家網野菊の旧居跡が坂の下にありますが、すでに何度も足に痙攣が起こっていて、諦めました。足が攣ると、暫く電信柱などに縋っているとまた歩けるようになります。
1900年(明治33年)~1978年(昭和53年)。志賀直哉に師事。幼少期からこの地に住み、この地に住む人を描いた作品が多い。番町小学校を出ている。 -
東京ビジュアルアーツアカデミー。
アーチスト、エンターテイナー、芸能人養成学校のようです。 -
千代田国際中学校、武蔵野大学付属千代田高等学院。
この地域では珍しい仏教(浄土真宗)系の学校のようです。 -
その隣のマンションの植え込みに看板が見えます。与謝野晶子・鉄幹夫妻が明治44年から大正4年まで住んでいたところです。いつも晶子・鉄幹と呼ばれるのは、才能、実績から言って晶子が上だからです。
与謝野晶子:歌人、作家。堺の生まれ。1878年(明治11年)~1942年(昭和17年)。
与謝野鉄幹(寛):歌人。京都の生まれ。1873年(明治6年)~1935年(昭和10年)。 -
商都堺の老舗和菓子屋に生まれた晶子は娘時代から文学、歌に馴染んだ。22歳の時堺で開かれた歌会で晶子は妻子ある鉄幹と知り合い、不倫関係になる。
明治34年、23歳、妻と離婚した鉄幹と結婚、その後12人の子供を儲けた。
同年最初の歌集「みだれ髪」。”やは肌の あつき血汐にふれも見で さびしからずや 道を説く君”
明治37年、反戦歌 ”ああ弟よ 君を泣く 君死にたまふことなかれ・・・”
情熱の歌人でした。 -
瀟洒なマンションが連なっています。
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番町文人通り。
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女子学院中学・高等学校。
1890年(明治23年)、3っの女学校が統合して発足したプロテスタント系の学校。初代学長が社会事業家としても有名な矢島楫子(徳富蘇峰、蘆花は甥にあたる)。進学校としても有名。 -
卒業者には、植村環(女性運動家、牧師)、鳩山薫(教育者、鳩山一郎の妻)、幸田文(作家、幸田露伴の娘)他多彩。女子アナウンサーも多い。
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丁度マグノリア(木蓮)祭りが開かれていて、大勢の父兄生徒が訪れていました。ここら辺りから四ツ谷駅方面に人通りが多かったのはこのせいでした。
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その先に日本テレビ番町スタジオ。
日本テレビ発祥の地です。 -
真っ白な建物。
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その横が緑地番町の森。
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ここで強烈な脚の攣りに襲われ、ベンチで暫くちじかんでいました。
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番町の森の向こう角一画が明治女学校並びに有島武郎兄弟が住んでいたところです。
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明治女学校跡。
1885年(明治18年)、アメリカ帰りの牧師木村熊二、巌本善治らが発起人となって今の飯田橋に設立。1892年この地に移転。教師に、星野天知、北村透谷、島崎藤村、馬場胡蝶、戸川秋骨など。卒業生に羽仁もと子、相馬黒光、野上弥生子、大塚楠緒子など。日本の女医第1号の荻野吟子は校医を務めたことがあります。 -
この左手です。
1896年火災で焼失し、巣鴨に移転。だんだん生徒数が減っていき、1909年(明治42年)廃校となる。
島崎藤村は既に許婚のある教え子佐藤輔子に恋心を抱き、失意のうちに教職を辞めて放浪の旅に出ました。 -
その並びに豪華なマンションが建っている所、有島武郎の父、大蔵官僚、実業家有島武が明治29年以購入した大きな元の旗本屋敷がありました。そこに有島武郎、有島生馬(画家)、山内英夫(里見弴、小説家)の兄弟が住んでいました。もっとも武郎は学習院中学卒業後札幌農学校進学、アメリカ留学、帰国後又札幌農学校勤務、北海道で農場経営などここにはあまり住んではいなかったようです。
生馬、英夫が独立し、武郎亡き後空き家になっていたこの家に、菊池寛が創刊した「文芸春秋」社(大正12年創刊)が小石川から移って来て、大正15年から昭和2年まで、1年間ほど有島邸に間借りていました。菊池寛は広い庭と樹木が多く、小鳥がよく飛んでくるこの屋敷が気に入っていたようです。 -
有島生馬が昭和2年に書いた「山の手麹町」という一文があります。当時のこの辺りの雰囲気が分かるので引用します。
「この恐ろしく古びて、時代遅れな旧旗本屋敷こそ、かく申す私の住宅なのである。・・・。何々の守といった小旗本の屋敷だったことだけは、古地図を見ても確かだが・・・。番町に軒並といってよかった旗本屋敷で、今日残存しているものは数えるほどしかなくなって終った。震災当時の業火は3日に亘って番町の半分を灰燼として終わったから。」 -
「私の屋敷の隣には兄(武郎)の住んでいた本家が今空き家になっている。この8月まで文芸春秋社の菊池寛君が1年余り住んで営業所にしていた。・・・。その先は空き地で、我々がベースボールをしてよく遊んだ処だ。その一部は明治とかいった女学校の跡だ。(明治女学校のこと)。文学界の連中が教えていた学校として、文学史上に記憶さるべき旧跡の一つだ。若い藤村氏が教科書を手にして、私の家のこの黒塀の前に佇み茂っていた桜の木の下で花を見上げていたなんて中々面白い。」
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「この本家にも旗本三千騎中の一つの長屋門が残っている。この間まで文芸春秋社が、それに小学生全集の恐ろしい色の広告看板を掲げていたが、その時代錯誤が甚だ奇抜な調子だった。往来の人がみな面白がって見て通った。・・・。私と同町内の裏通りに水上滝太郎君の住宅がある。その門がやはり黒い長屋門である。」
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旧有島邸跡を右に細い道に曲がると、ゴミ収集車が停まっている左が泉鏡花旧居跡です。
泉鏡花、1873年(明治6年)~1939年(昭和14年)、は1910年(明治43年)神楽坂からここに移り、1939年(昭和14年)亡くなるまでここに住んでいました。有島邸の斜め向かいです。未亡人すずはその後も1950年(昭和25年)の死までこの家に住んでいました。 -
ここです。
有島生馬「山の手麹町」より。
「去年、幸田露伴先生が裏の借家を見に来られた時、ここは文人町ですねと言って帰られたそうだが、なるほどその頃は菊池君や里見が西隣に住んでいたし、いまいった水上君、それに二十年も同じ貸家に定住していられる泉鏡花先生が横町の道一つ隔てた隣りにいられる。私が夏庭に出て、竜吐水で水をまきながら、先生の玄関先にもと思って、ちゅうちゅうやっていると、奥さんが格子窓から首を出して、あなた、座敷の中へ水が飛び込みますよ、と怒鳴られるちかさである。」 -
泉鏡花旧居跡。
先の終戦後の昭和26年頃この辺りを歩いた文芸評論家野田宇太郎氏の一文。
「今はすべて灰燼と化した。鏡花世を去り、藤村も亦逝き、滝太郎も亡く、里見、生馬の兄弟は夫々鎌倉の家に落着き、戦後まもなく若い武田麟太郎さえも世を去った。万物荒涼、復興の萌しはあるが、その完成は何時のことか。」
たしかに豪華マンションの立ち並ぶ街に変貌しましたが、同時に古いものは何もかも失われました。 -
その先のこの辺りの右手には歌人島木赤彦が大正7年頃住んでいたことがあります。
左の木立は番町小学校。 -
なお跡地を見つけられなかったが、武者小路実篤はこの近辺に生まれ、30年近くも住んでいました。明治43年に文芸誌「白樺」を志賀直哉らと創刊したのもここに住んでいる時でした。
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番町文人通りに戻り、飯田弥生美術館。
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そこから数本先の通りを右に入ると、緑の植え込みに中に島崎藤村の旧居跡のプレートがありました。
1937年(昭和12年)、国際ペンクラブ大会 から帰国した藤村は長年住んだ飯倉片町からここに転居しました。借家でない初めての持ち家です。昭和16年には神奈川の大磯に借家(のち購入)して、ここと大磯の二重生活を始めます。亡くなったのは昭和18年、大磯でした。明治大正昭和を生き抜いた71歳の生涯でした。この前後には、奇しくも同じころに生を受け同じ時代を駆け抜けた文人が相次いで亡くなっています。
泉鏡花昭和14年、徳田秋声昭和18年。 -
植え込みの枝で隠れていて、手で払いのけて写しました。
若いころ教鞭をとり、教え子にはかない恋心を抱いた明治女学校のあった地に舞い戻ってきた藤村、何か心に思うものは無かったでしょいうか。 -
おなじブロックの番町文人通りにカフェらしきものが有ります。
その横の植え込みに、藤田嗣治旧居跡の標識がありました。昭和12年から昭和19年まで住居、アトリエがあった所です。 -
藤田嗣治。1886年(明治19年)~1968年(昭和43年)。東京生まれ。
東京美術学校(今の東京芸大)卒業。当時の画壇の主流だった黒田清輝派に認められず、1913年(大正2年)フランスに渡る。1933年(昭和8年)帰国するも、日本は住みづらく1949年(昭和24年)フランスに行き二度と日本に戻ることは無かった。日本国籍を抜けフランス国籍を取得している。すなはちフランス人として亡くなったのです。
日本よりも海外で認められた画家だった。 -
浄土宗心法寺。
番町文人通りを終わり、新宿通りに出て左に曲がるとすぐです。 -
今日初めてお目に掛るお寺です。
この地域にこれ以外寺社を全く見ませんでした。東京のビル街でも建物の谷間にもせめて小さな社や祠が点在するのが普通ですが。
元々なかったのか、押し寄せるマンションの地上げに消えて行ったのか。街歩きしていて寺社に出合わないのは何か物足りないです。信心の有無は別として。 -
本堂。
徳川家康の関東入府に伴って三河の国から移ってきた僧侶が慶長2年(1597年)この地に開基したと伝えられています。千代田区最古の寺院です。 -
本尊阿弥陀如来坐像。
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塩地蔵。
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銅造り梵鐘。
1676年鋳造。 -
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鷹さ164cm、胴回り269㎝の立派なものです。ここに安置されているという事は、もう突かれてはいないのですかね。
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庚申塔。1752年の奉納。
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境内の裏千家の茶室。
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これで本日は終わりです。
まだまだ多くの文人が住んでいましたが、もうこれ以上歩けません。
日ごろ出歩かないのにいきなり長時間歩いて度々足の攣りに襲われ、天罰てき面でした。足の痛みが今も尾を引いています。そろそろ引退かな? -
地下鉄四ツ谷駅の長がーいエスカレーター。
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帰りも同じメトロ四ツ谷駅。2時ころでした .
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帰りは一度田園調布駅で乗り換えでした。
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