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前回来た時は石室の中まで入った。石組みの下が半地下の空洞になっていて、入ることができる。幅1.5m程、奥行きは5m程か・・。この半地下の半トンネルのような坑道が石室だったのだ。・・ここが馬子の石室? 最初は何かこわごわ感もあったが、次第に新鮮さも薄れ、衝撃的な感動も消えて行った。洞穴に入った限りでは当時の最大権力者のお墓だった、とのイメージは湧かなかった。今回は外から坑道を眺めただけにして、中には入らなかった。尤も、ここへ来るまでの壷阪寺での長い歩行で、足の疲労も相当に重なっていて、僅かな石段の上り下りも億劫になったのだが・・。<br /><br />この近くには高松塚古墳もあり、そこはちょっとした小山というか、土地の盛り上がり程度であって、竹とか雑木が生い繁っている小規模の雑木林のような所だった。先ほどバスの中から見えたこんもりした林の丘よりも低い感じの小丘をくり抜いた所に石室があり、そこはちゃんとした空洞というか、空間になっていて、何か飛鳥時代の権力者を埋葬するに相応しい場所だった。3m程の小さなドーム型の小部屋で、壁面には薄っすらと彩色の跡が見られた。石舞台を見た後にここにやって来たから、粗野さと上等さの違いは鮮明だった。<br /><br />以前来た時も今回も同様に思ったが、この石舞台は建設途上で放棄されたのでは?と。歴史学者とか本などでは、建築当初はこの石組の上に土が盛られて、小山のようになっていたが、長い年月の間に上を覆っていた土が流れ落ちて、今のような裸の状態の石舞台になった、と言うのが通説だが、自分はそれを信じない。古墳の土が流れ落ちた、という例は聞いたことも無く、どこの古墳、箸墓にしても仁徳天皇陵の大仙古墳にしても、ワカタケルの剣が出土したサキタマ古墳にしても、建造当時の1500年前の姿をそのままの形で留めている。ここだけが特別に小山が消えてしまったという説は信じない。<br /><br />天皇家の外戚となった蘇我氏。聖徳太子も推古天皇、用明天皇も入内した蘇我氏の娘を通じて血縁関係にあった。馬子に厩の皇子。学者によっては、キリスト教の影響を指摘する人もいるが、自分はそれは信じない。京大、江上教授の騎馬民族ではないが、単純に当時の文明の利器、馬に着目した名前で、蘇我一族は馬と共にこの列島にやってきて、倭の地に住み着いた。又は馬を半島から移入し、重用した。自分はそう思っている。天皇家と結びつき、強い権力を手中にした蘇我一族もあっけなく歴史の舞台から消えて行った。敵対する二大勢力の一方、物部を打ち破り、一時は天下を手中にしたが、その蘇我も次に台頭してきた中臣⇒藤原に打ち負かされた。<br /><br />矢張りこの場所には馬子の棺は納められなかった。建設途上で蘇我一族は歴史舞台から消えてしまったのだ。誰が最初に名付けたのか「石舞台」。これも見事なネーミングだ。組み合わされた巨石自体が相互に牽引し、踊っているようにも見える。或いは平らな石の上部で、キツネや小動物が踊っているように遊んでいたのか・・。或いは蘇我を一掃した中大兄、中臣一族が勝利の宴でも張っていたのか・・。歴史の舞台から消え去った馬子の残した石舞台。1500年前の歴史が目の前に浮かんでいた。<br />

西国観音まほろば奈良の巡礼記(29)石舞台考。

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2023/06/28 - 2023/06/30

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ちゃお

ちゃおさん

前回来た時は石室の中まで入った。石組みの下が半地下の空洞になっていて、入ることができる。幅1.5m程、奥行きは5m程か・・。この半地下の半トンネルのような坑道が石室だったのだ。・・ここが馬子の石室? 最初は何かこわごわ感もあったが、次第に新鮮さも薄れ、衝撃的な感動も消えて行った。洞穴に入った限りでは当時の最大権力者のお墓だった、とのイメージは湧かなかった。今回は外から坑道を眺めただけにして、中には入らなかった。尤も、ここへ来るまでの壷阪寺での長い歩行で、足の疲労も相当に重なっていて、僅かな石段の上り下りも億劫になったのだが・・。

この近くには高松塚古墳もあり、そこはちょっとした小山というか、土地の盛り上がり程度であって、竹とか雑木が生い繁っている小規模の雑木林のような所だった。先ほどバスの中から見えたこんもりした林の丘よりも低い感じの小丘をくり抜いた所に石室があり、そこはちゃんとした空洞というか、空間になっていて、何か飛鳥時代の権力者を埋葬するに相応しい場所だった。3m程の小さなドーム型の小部屋で、壁面には薄っすらと彩色の跡が見られた。石舞台を見た後にここにやって来たから、粗野さと上等さの違いは鮮明だった。

以前来た時も今回も同様に思ったが、この石舞台は建設途上で放棄されたのでは?と。歴史学者とか本などでは、建築当初はこの石組の上に土が盛られて、小山のようになっていたが、長い年月の間に上を覆っていた土が流れ落ちて、今のような裸の状態の石舞台になった、と言うのが通説だが、自分はそれを信じない。古墳の土が流れ落ちた、という例は聞いたことも無く、どこの古墳、箸墓にしても仁徳天皇陵の大仙古墳にしても、ワカタケルの剣が出土したサキタマ古墳にしても、建造当時の1500年前の姿をそのままの形で留めている。ここだけが特別に小山が消えてしまったという説は信じない。

天皇家の外戚となった蘇我氏。聖徳太子も推古天皇、用明天皇も入内した蘇我氏の娘を通じて血縁関係にあった。馬子に厩の皇子。学者によっては、キリスト教の影響を指摘する人もいるが、自分はそれは信じない。京大、江上教授の騎馬民族ではないが、単純に当時の文明の利器、馬に着目した名前で、蘇我一族は馬と共にこの列島にやってきて、倭の地に住み着いた。又は馬を半島から移入し、重用した。自分はそう思っている。天皇家と結びつき、強い権力を手中にした蘇我一族もあっけなく歴史の舞台から消えて行った。敵対する二大勢力の一方、物部を打ち破り、一時は天下を手中にしたが、その蘇我も次に台頭してきた中臣⇒藤原に打ち負かされた。

矢張りこの場所には馬子の棺は納められなかった。建設途上で蘇我一族は歴史舞台から消えてしまったのだ。誰が最初に名付けたのか「石舞台」。これも見事なネーミングだ。組み合わされた巨石自体が相互に牽引し、踊っているようにも見える。或いは平らな石の上部で、キツネや小動物が踊っているように遊んでいたのか・・。或いは蘇我を一掃した中大兄、中臣一族が勝利の宴でも張っていたのか・・。歴史の舞台から消え去った馬子の残した石舞台。1500年前の歴史が目の前に浮かんでいた。

旅行の満足度
5.0

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  • 石舞台、石室。今回は中には入らなかった。

    石舞台、石室。今回は中には入らなかった。

  • 以前来た時は気が付かなかったが、丘陵の上は果樹畑になっている。その後開墾されたのか・・。

    以前来た時は気が付かなかったが、丘陵の上は果樹畑になっている。その後開墾されたのか・・。

  • 環濠も整備されていて、以前と比べ、随分と史跡公園らしい装いになっている。

    環濠も整備されていて、以前と比べ、随分と史跡公園らしい装いになっている。

  • 石舞台。良いネーミングだ。この石の上で、踊りでも踊ったのか・・。

    石舞台。良いネーミングだ。この石の上で、踊りでも踊ったのか・・。

  • 石室の中に棺があったとは思えない・・。インスピレーション、霊感は感じられなかった。

    石室の中に棺があったとは思えない・・。インスピレーション、霊感は感じられなかった。

  • 良い史跡公園だ。2度来て良かった。

    良い史跡公園だ。2度来て良かった。

  • 名残惜しいが次の岡寺に向かう。

    名残惜しいが次の岡寺に向かう。

  • バス停では長い時間待たされた。後方の山が多武峰。正面の建物が資料館。以前は無かった。

    バス停では長い時間待たされた。後方の山が多武峰。正面の建物が資料館。以前は無かった。

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