![デュッセルドルフで開催された国際会議に出席する機会があった。会議の前後数日間は休暇をとり、オランダのアムステルダムを振り出しに鉄道でドイツのアーヘン⇒デュッセルドルフ⇒ツェレ⇒アイゼナッハと廻り、フランクフルトから帰国。おりしもアムステルダム郊外のキューケンホフ公園ではチューリップが満開の花に囲まれて一日を過ごす。翌日、アーヘン経由で会議の開催前日にデュッセルドルフに入って3日間、会議の「おつとめ」が終われば後は晴れて自由の身。<br /> 「北ドイツの真珠」と言われる美しいツェレの町で途中下車してホテル泊り。郊外にあるナチスドイツに捉われたアンネフランク姉妹が拘留中に亡くなったベルゲンベルゼン強制収容所の見学に赴いた。<br /> そのあとアイゼナッハでカトリック教会と対立したマルチンルターが、ザクセン選帝侯の賢公フリードリヒ3世にかくまわれて新旧約聖書の翻訳をなしとげたヴァルトブルク城の見学。9日間の旅路を終えて、フランクフルトで一泊後日本に戻った。<br /> 本編の一部はすでに4Travel.jpで公開済だが、今回新たな画像を追加・加筆した改訂新版として発表。](https://cdn.4travel.jp/img/thumbnails/imk/travelogue_album/11/90/36/650x_11903659.jpg?updated_at=1716680273)
2007/04/13 - 2007/04/22
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PETERtnさん
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デュッセルドルフで開催された国際会議に出席する機会があった。会議の前後数日間は休暇をとり、オランダのアムステルダムを振り出しに鉄道でドイツのアーヘン⇒デュッセルドルフ⇒ツェレ⇒アイゼナッハと廻り、フランクフルトから帰国。おりしもアムステルダム郊外のキューケンホフ公園ではチューリップが満開の花に囲まれて一日を過ごす。翌日、アーヘン経由で会議の開催前日にデュッセルドルフに入って3日間、会議の「おつとめ」が終われば後は晴れて自由の身。
「北ドイツの真珠」と言われる美しいツェレの町で途中下車してホテル泊り。郊外にあるナチスドイツに捉われたアンネフランク姉妹が拘留中に亡くなったベルゲンベルゼン強制収容所の見学に赴いた。
そのあとアイゼナッハでカトリック教会と対立したマルチンルターが、ザクセン選帝侯の賢公フリードリヒ3世にかくまわれて新旧約聖書の翻訳をなしとげたヴァルトブルク城の見学。9日間の旅路を終えて、フランクフルトで一泊後日本に戻った。
本編の一部はすでに4Travel.jpで公開済だが、今回新たな画像を追加・加筆した改訂新版として発表。
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羽田発ヨーロッパへの第1歩はアムステルダム(オランダ)
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アムステルダムにあるアンネ・フランクの家は、アンネの一家8人が1942年から約2年間、ナチスの迫害から逃れる隠れ家として住んでいた家を利用した博物館。アンネ・フランク財団が運営している。
1944年8月4日にアンネと隠れ家の住人は警察に発見・逮捕され、アンネと姉マルゴットはいったんアウシュビッツへ送られたあと、家畜を運ぶ貨車にぎゅうづめに押し込まれて、ベルゲンベルゼン収容所に送られた。1945年2月姉妹は相次いでチフスのため亡くなった。 -
アンネハウス3階の隠れ家から、ハウス前のプリンセン運河の向こうに見える西教会を、彼女は毎日そっと見て暮らしていたのだろう。
西教会の詳細についてはこちらが詳しい(オランダ語)⇒https://www.iamsterdam.com/uit/agenda/attracties-en-bezienswaardigheden/bezienswaardigheden/westerkerk-amsterdam -
私たち夫婦が到着当日の午後アンネハウスに出向いたときは、すいていて楽に見学ができたが翌朝、前を通ったら開場を待つ人たちが長い行列になっていた。
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アンネフランク(1929~1945)ユダヤ系ドイツ人。フランクフルト生まれ。ナチスのユダヤ人狩りを逃れて一家でオランダのアムステルダムに移住。庇護者に2年間かくまわれて生活していたが、1944年8月にナチスニ発見され、翌年3月のチフスのために15歳で生涯を閉じた。姉もそのころ相次いでチフスに感染して亡くなった。アンネフランクの詳細については下記のURLが詳しい(ドイツ語)https://www.annefrank.de/anne-frank/ueber-anne-frank
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ロイヤルパレスアムステルダムについては下記が詳しい(ドイツ語)https://de.wikipedia.org/wiki/Paleis_op_de_Dam
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旧教会の解説(オランダ語)⇒https://nl.wikipedia.org/wiki/Oude_Kerk_(Amsterdam)
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ニコラス教会の説明(オランダ語)はこちらを⇒https://nl.wikipedia.org/wiki/Basiliek_van_de_Heilige_Nicolaas_(Amsterdam)
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キューケンホフ公園の開園は1949年。当時の市長が、オランダの輸出産業を伸ばす意味を込めて、ヨーロッパ全域から造園家を招いて屋外球根展示会を開き、園芸種の球根のコンペの開催を決めた。⇒https://keukenhof.nl/en/
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15世紀の猟場を敷地にしたキューケンホフ公園は、かつてここで栽培したハーブがジャクリーヌ・ド・ナノー(Jacqueline de Hainaut 1401 - 1436)の居城に運ばれたことから「キューケンホフ」 (城の台所に花を届けた敷地) という名前がついたという。
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キューケンホフ公園の面積は0.32平方㎞、代々木公園は0.54平方㎞だから、およそ0.6倍の広さ、正方形で考えれば570メートル四方の敷地である。
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花・樹木・水辺のコントラストが絶妙だ。
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赤いチューリップの品種名:メモリーズ【以下品種名は確定ではない!】
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手前のチューリップの品種名はユアン
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路上のチェス盤はヨーロッパ各地でみられる
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公園内からフト見えた塔は百年前に建設された給水塔でした。
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お顔が見えないのがご愛敬。後姿の美人と競うチューリップたちはアレキサンドラ(右下)、ジャグジー(右上)、ウェディングベール(左)
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下向きに咲く花はインペリアルリリーか?
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品種名:ピンクダイヤモンド
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品種名:マウントタコマ
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品種名:ライトピンクプリンス
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品種名:カリビアンパロット
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公園内に風車があった。手前のチューリップたちの品種未同定。google lensで探ってみても?? もしここまでのチューリップたちの品種名をご存じだったら、乞ご一報。
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総面積32 ヘクタールの園地に植えつける球根は毎年700万球にのぼる。
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今回の旅行、会議開催地(デュッセルドルフ)の宿泊は社費でそれなりの宿だが、後の自費負担のホテルは現地についてから適宜決めながらの旅。アムステルダムのホテルもふところに負担はかからなかったが、一応満足。
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アムステルダムから鉄道でドイツのアーヘンへ。
持参したEuropean Rail Timetableではアムス~アーヘン間には複数の経路がある。どのルートを取るか迷ったので。アムステルダム中央駅で駅員に相談してルートを決めた。 -
アムステルダムから鉄道でドイツのアーヘンへ
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Achen(アーヘン)の原意はドイツ語で「泉」を意味する。古代にはすでに温泉が知られていた。 8世紀末、フランク王国のカール大帝がこの地に王宮を造ったことから、事実上の首都として発展した。
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英国教会や東方教会(正教会とも)そしてロマカトリック教会の聖職位は上から順に司教・司祭・執事の3種の位階がある。それと関連して教会には一種の行政単位として地域別に教区が存在する。教区の長は司教で、司教はいわば市長のような立場である。市や県に市役所や県庁があるように教区を代表する教会があり、そこには教区の長である教区司教が定在している。
特にロマカトリック教会では教区司教の定在する教会は大聖堂と呼ばれている。大聖堂は教区司教の定在する教会の呼称なので、教区内には大聖堂よりも規模の大きな教会があることもまれではない。教区司教の定在する教会であればどれほど小さな教会でも大聖堂と呼ばれる。英国教会(聖公会)や東方教会では司教のことを主教と呼んでいるが英語ではどちらもBishopである。https://whc.unesco.org/en/list/3/ -
アーヘンは1166 年にカール大帝特権によって、フリードリヒ 1 世から皇帝直属の権限を与えられ、神聖ローマ帝国の自由帝国都市として宣言された。11世紀に制作されたPala d'oro(黄金の祭壇)は、アーヘン大聖堂の主祭壇の前面で、前祭壇の役割を果たしている。エンボス加工を施した17枚の金板の精巧な浮き彫りのパネルで構成されており、ザクセン帝国皇室からの寄贈とされている。バーゼルのアンテンペディウム、サン・マルコ大聖堂にあるヴェネツィアのパラ・ドーロと並んで、中世初期の金属製祭壇パネルである。
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ヨーロッパでは先史時代から伝わる伝説に悪魔との取引で悪魔との取引で、生贄に人間を要求する話が各地に伝わっている。アーヘンでも大聖堂の建設資金不足で、悪魔が最初にはいった者の魂と交換で資金を負担するとの契約を結んで完成した。
ところが住民たちが聖堂に最初に送り込んだのは狼であったので悪魔が歯切りして悔しがったという話がある。 -
カール大帝(742~814)は長身で髪は銀髪、声は少し甲高かったという。アーヘンでは宮廷に大きな温泉プールを設けるほど水泳を愛好したが、その水泳術には誰も及ばなかったらしい。この時代には珍しいことではないが読み書きは不得意で、懸命な努力の結果ラテン語やギリシャ語も理解するほどに上達した。
「平和なくして、神を喜ばせることはできない」、「余の務めは、聖なるキリストの教会を作ること」などの名言を残している。 -
アーヘン市庁舎1330年に神性ローマ帝国の教皇庁がアーヘンからアビニオンに移転した跡地のアウラ レジア(下記注)の基礎壁の上に、ゴシック様式で建造が開始された。1656 年にはアーヘン大火で失われた屋根と塔の一部が、バロック様式に置き換えられた。1727 年から 1732 年にかけて、アーヘンの主任建築家ヨハン・ヨーゼフ・クーヴェンは、構造、特に正面ファサードと入り口の階段の基本的なバロック様式に改変した。窓を飾っていたゴシック様式の人物や組子は撤去され、内部もバロック様式に改装。今でも、リビングルームと「ホワイトホール」の両方がこのスタイルの変化を伝えている。
注:アウラレジアは右記を参照⇒https://en.wikipedia.org/wiki/Aula_regia -
プッペンブルンネン(人形の噴水)は、人物や仮面を通してさまざまな特徴を表現している。
蛇口、馬と騎手、市場の女性、ファッションドール、教授・学者、道化師、カーニバルマスクなどだが、多くはアーヘンの特徴や歴史的関連性のあるものである。
雄鶏が人物の上にそびえ立っており、フランス占領時代を思い出させることが意図されている。 -
大聖堂の外壁にあった十字架像。いわれを調べたが発見できなかった。ある資料にはWayside crosses in Aachen(アーヘンの路傍の十字架)とだけあった。
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温泉を愛したカール大帝は、今でいえば温泉遊興施設のような「エリーゼの温泉」を遺した。今は温泉施設はないが円形のホールは残されていて、多くの市民がダンスに興じていた。詳しくは(ドイツ語)⇒https://de.wikipedia.org/wiki/Elisenbrunnen
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マルシアート門(行進門)はアーヘンの第二(外側)城塞の一部で、13世紀半ばに完成した。
現在は市警の本部となっているこの城門は、西ヨーロッパに現存する最も強力な城門のひとつである。マーチング・ゲートは、アーヘンにあった合計11の城門のひとつで、市兵と市民民兵(アーヘンでは「グラーフシャフテン」と呼ばれた)によって守られていた。これらの門のうち、ポントールとマルスキエルトールの2つが現在も残っている。マルシアート門は、その建物とともに、昔は主要な武器庫として機能していた。数世紀にわたる波乱に満ちた歴史の中で、マルシアート門は様々な兵士たちに占拠され、包囲されただけでなく、様々な用途に使われた。例えば、ジャンクルーム、ホームレスのためのシェルター、ユースホステル、そして最終的にはBDM(ドイツ連盟)のホームとなった。
1943年の火災による爆撃で大きな被害を受け、主に屋根構造に影響が出たため、当初は仮復旧にとどまった。1959年、アーヘンの企業2社の資金援助により、歴史的な城門の屋根トラスがようやく新しくなった。詳しくはこちら(ドイツ語)⇒https://oecherpenn.de/verein/hauptquartier/ -
アーヘンはオランダとの国境駅で3方向に路線が伸びる交通の要衝なので、車両を待機させるヤードもそれなりに大きい。
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一夜を明かしたアーヘンを後に今回の旅行の主目的地、国際会議の会場デュッセルドルフへ。会議は明日から、今日一日はボンとケルンに立ち寄って夕刻にデュッセルドルフ到着の予定である。
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デュッセルドルフに直行はせず途中下車でボンに立ち寄る。
現在は旧市庁舎協会と呼ばれている。ボンが西ドイツの首都の時代、ボン市は多くの国賓や戴冠した国家元首をゴブランの間に迎え、市のゴールデンブックに署名し、階段から市場の人々に挨拶をした。
2009年以来、旧市庁舎協会はこの建物を歴史的建造物として保存・維持することを使命としている。その結果、タペスト リーや油絵の修復、紋章、市場広場の手すり、ステートルームの照明器具の購入に資金を提供することが可能になった。 -
ボン大学の設立は1777年。啓蒙主義的な新しい学術機関で、伝統的なケルン大学と対照的である。1784年、神聖ローマ帝国皇帝のヨーゼフ二世は修士号、博士号を授与する権利を与え、大学化した。1815年、ナポレオン戦争後のウィーン会議でラインラントがプロイセン領となり、この大学もその一部となった。1818年、プロイセン王のフリードリヒ・ヴィルヘルム三世はこの機関を新しい州の大学として位置付けた。 1918年のヴァイマル共和政設立以降、また、1949年のドイツ連邦共和国設立以降も、自然科学、人文科学を中心とした大学として国際的評価を得ている。
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ボン大聖堂の詳細(ドイツ語)⇒https://www.bonner-muenster.de/start/
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ボンを満喫したらついでにケルンにも立ち寄って・・・。
ケルン大聖堂(Kölner Dom)は、ゴシック様式の大聖堂。正式名称はDom St. Peter und Maria(聖ペテロとマリア大聖堂)と称する。
右のステンドグラスは聖堂正面にある、救い主イエスの誕生を知った東方の3賢者が救い主の前にぬかづいて3種の宝物(黄金・乳香・没薬)をささげる図。
塔高157メートルは群を抜いて高く、列車がライン川を渡るころ大聖堂が眼前に迫る。大聖堂前の広場Dom Platzでカメラを向けるとあまりの高さに持参のカメラでは塔頂まで収めきれない。仕方なく左の写真は上下別々に2枚撮った継ぎ足し写真!‥継ぎ目はどこに?Wissen Sie, wo das Bild zusammengeklebt ist? -
デュッセルドルフ到着の翌日はいよいよ本番のお仕事!
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会議の合間を縫って市内の公園・ホフガルテンで息抜き。ホフガルテンの詳細(ドイツ語)⇒https://de.wikipedia.org/wiki/Hofgarten_(D%C3%BCsseldorf)
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ホーフガルテンの歴史は、ウィリアム・ザ・リッチの時代に遡る。16世紀、城壁の外にあった王侯の宮廷庭園は、18世紀に公共の遊歩道である旧宮廷庭園として設計し直され、19世紀の初めにマクシミリアン・フリードリヒ・ヴァイエによって新宮廷庭園として現在の形になった。20世紀、特に第二次世界大戦による破壊の後、都市計画によって庭園の敷地に最後に大きな変更が加えられた。
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ゲーテ博物館は、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749-1832)を紹介する文化歴史博物館。アントン・キッペンベルク&カタリーナ・キッペンベルク財団とデュッセルドルフ市によって運営されている。このコレクションは、出版人アントン・キッペンベルク(1874-1950)が収集した、ゲーテとその時代に関する当時最大の個人コレクションに基づいていて、写本、書籍、美術品、工芸品、研究図書館で構成されている。
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ドイツのバリアフリー対策は行き届いている。300年前の建物でも螺旋階段の円柱状の空間を利用したエレベーターを発見した。
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デュッセルドルフの聖ランベルトゥス大聖堂の北側にあるカルバリー。十字架にかけられたイエスのもとには聖母マリアと聖ヨセフが寄り添っている。この直後、息を引き取ったイエスは、大急ぎで十字架から降ろされた。イエスの十字架刑は金曜日に執行されたが、ユダヤ教の習慣で安息日(土曜日)には一切の労働を禁じられているので、十字架上のイエスも金曜日のうちにおろさなければならなかった。
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聖ランベルトゥス教会の詳細⇒https://www.visitduesseldorf.de/en/attractions/basilika-st.-lambertus-catholic-church-e400ddfe39
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ライン川のほとりに建つ海洋博物館は城郭のシュロストゥルム (宮殿の塔) として、16 世紀に建てられた城の唯一の残骸である。19 世紀のブルク広場の火災後で取り壊されたのち、ドイツ最古の内陸航海博物館として 1984 年に開館した。
この博物館では、造船の歴史、貿易と川の旅、ライン川の生態系に関する展示が行われている。最上階は特に実用的で鮮やかな体験を提供していて、カフェからはライン川を行く船の景色を楽しむことができる。
海洋博物館を名乗っているが、ライン川を運行する船は外洋に出ることは珍しく、実際はライン川に特定した「内海博物館」である。 -
ヨハン・ヴィルヘルム(1658 - 1716)は、プファルツ選帝侯。フィリップ・ヴィルヘルムと2番目の妃でヘッセン=ダルムシュタット方伯ゲオルク2世の娘エリーザベト・アマーリア・マグダレーネの長男。弟にカール3世フィリップ、姉に神聖ローマ皇帝レオポルト1世妃エレオノーレ・マグダレーネ、妹にポルトガル王ペドロ2世妃マリア・ソフィア、スペイン王カルロス2世妃マリア・アナ、パルマ公子オドアルド2世妃ドロテア・ゾフィーがいる。
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”Haus des Karnevals” つまりは「カーニバル会館」
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デュッセルドルフでの会議を無事終えて、後はアソビの旅行に切り替えて、一路ツェレへ
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ツェレは中世の美しい町並みが残されていることで名高いが、近郊にあるナチスドイツの強制収容所があったことでも知られていて、ドイツ敗北の数か月前にはここに収容されていたアンネフランク姉妹が所内で猛威をふるっていたチフスのため、相次いで亡くなっている。
ナチスドイツはユダヤ民族を中心としてナチスドイツの思想にそぐわない人たちをドイツに限らず周辺諸国の住民をKZ(Konzentrationslager)と称する強制収容所に拘束した。KZは1945年のドイツ降伏までヨーロッパ全土に2万か所もあった。私は1998年のミュンヘンのダッハウ収容所をかわきりに、ブーヘンワルト(ワイマル)、ツェレ(ベルゲンベルゼン)、クラクフ(ポーランド)のアウシュヴィッツとビルケナウと折を見て5か所の収容所を見て回ることができた。
列車は正午にツェレについた。車内で昼食を済ませていたので、駅前のタクシーを借り切ると妻と二人で収容所に向かった。1時間ほどの見学時間後に待たせてあったタクシーでツェレに戻り。運転手の紹介で今夜のホテルに向かった -
ツェレ訪問の目的はナチスドイツの強制収容所「ベルゲンベルゼン強制収容所」の見学。
アムステルダムの隠れ家で拘束されたアンネと姉のマルゴットは、アウシュビッツに連行されたのち、再び家畜運搬貨車に押し込まれてベルゲンベルゼンに移送され、ドイツ敗戦の直前にチフスのため二人とも相次いで亡くなった。
ベルゲンベルゼン強制収容所の詳細は(ドイツ語)⇒https://de.wikipedia.org/wiki/KZ_Bergen-Belsen -
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1943 年から 1944 年にかけて、合計約14,700 人のユダヤ人捕虜がベルゲン・ベルゼン強制収容所の「居住キャンプ」に連行された。このうち約2560人は捕虜交換で釈放された。しかし、収容所は絶滅収容所と言われたアウシュヴィッツなどに向かう途中の、中継地であり、市民権の証明や入国証明書は認められなかった。
1945年4月6日から11日までの間、残りの約7,000人の「交換ユダヤ人」は、英国および米国との交渉に使用するために、3本の輸送列車でテレージエンシュタット強制収容所に送られたが、目的地に到着した列車は1本だけだった。 -
アウシュビッツ-ビルケナウ強制収容所に保存されている収容者移送用の家畜運搬車。アンネと姉マルゴットはアウシュビッツからこの移送車に乗せられて、ベルゲンベルゼンまで移動したが、1両に100人以上の収容者がぎゅうづめで、3日間立ったままだった。車内には排泄用の小さな桶があったが、満員の移送車内では用を足すどころか、その桶のところまでも行きつくのが困難だった。やっと桶のある所にたどり着いても囲いも何もない車内での用足しは難しい。ようやく思いを達しても紙もないので、そのままその場を立ち去るしかなかった。
(この貨車の写真は2012年アウシュビッツ収容所訪問時に撮影) -
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前の写真の中の右下がアンネ姉妹の記念碑。
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ツェレは木骨造りの旧市街が最大の魅力である。第二次世界大戦の被害も受けず、16 世紀から 19 世紀にかけての木骨造りの家が多数残っていて、主にメインストリートのシューシュ通り、ツェルナー通り、ノイエ通りに位置している。ツェレの木骨造りの家は、数多くの碑文があることで有名で、(南ドイツの木骨造りの町とは対照的に)過度に華美な装飾が施されているわけではない。際立っているのは、マウエルン通りの角からポスト通りにある 1532 年建造のホッペナー ハウスで、比喩的な彫刻があるのが特徴。 20 世紀初頭以来、ツェレは木骨造りの建物の維持と公開に特に力を入れており、1907 年には木骨造りの建物の保存に関する地方条例を採択した最初のドイツの都市の 1 つとなった。今日でも、ツェレ市はドイツ木骨造り都市作業部会で重要な役割を果たしている。
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ツェレ城の詳細(ドイツ語)⇒https://www.celle.de/Tourismus/Schloss-Celle/
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ツェレのラーツケラーの案内(ドイツ語)⇒https://www.schlemmer-atlas.de/restaurants/deutschland/celle/der-ratskeller-celle/
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ツェレの案内(ドイツ語)⇒https://de.wikipedia.org/wiki/Landkreis_Celle
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聖マリア教会(ツェレ)の詳細⇒https://www.stadtkirche-celle.de/
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ハーメルンの詳細は⇒https://qr.paps.jp/IiQ0o
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ツェレでベルゲンベルゼン訪問後、再び列車の客となってルターの活躍の舞台となり、バッハの生地でもあるアイゼナッハにやってきた
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アイゼナッハを後に最終地フランクフルトに向うがここも途中下車で寄り道。
フルダ大聖堂の詳細(ドイツ語)⇒https://de.wikipedia.org/wiki/Fuldaer_Dom -
大聖堂につながって広大なフルダ城館庭園がある
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フルダ城館庭園(宮殿庭園)は、18世紀初頭にバロック式庭園として造られたが、その後100年ほどして、他の都市と同じように、流行に合わせて、より自然でワイルドな風景式庭園に変更された。1990年代に、フルダ市はUターンを決意した: 第1回ヘッセン州立庭園博覧会の準備の一環として、この花壇は再びバロック風の外観となった。中央の水盤、パビリオン、建物間の軸線上の連絡通路は1990年代に作られたものである。
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シルン美術館の詳細はこちらで⇒https://de.wikipedia.org/wiki/Schirn_Kunsthalle_Frankfurt
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レーマー広場に面したレストラン「レーマーベンベル」でフランクフルト名産のリンゴ酒を賞味しながらゆったりとドイツ最後の午餐を楽しんだ。
看板に書かれたRömer Bembelを強いて訳せば「ロマの水差し」。この場合のロマはジプシーを表す。Bembelはフランクフルト地方特産のリンゴ酒を注ぐための容器で卵型に膨らんだ陶製の口の広い形をしている。看板の中央に斜めにはめ込まれているのがBembelである。・・Prost! -
あとは空港に行って帰路便を待つだけ。
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ご愛読感謝、Auf Wiedersehen!
https://4travel.jp/travelogue/11630688/ を開くと私のWeb旅行記が開けます。
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