2007/08/10 - 2007/08/13
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chiaki-kさん
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昨年「47都道府県・北から南まで」という旅行記をUPしましたが、内容は古い写真集なのに200を越える”いいね”をいただき、ありがとうございました。で、ちょっと嬉しくなったこともあり(笑)2番煎じですが、2001年から2019年まで巡った40の国と地域で撮りためた、およそ1万枚以上ある写真の中から心に残った写真をUPしてみたいと思います。なお、国名は4トラに表記されている国及び地域名として、順番は日付変更線から東に向かった、おおよその順とします。また、トルコやフィンランドのようにトランジットだけの国も入れました。
表紙の写真は2007年8月に行ったアメリカ・マウイ島・ラハイナのキャナリーモールで撮影しましたが、ラハイナは2023年8月8日に発生した山火事により、ほぼ壊滅状態となってしまいました。なお、赤いマスタングはこの時借りたレンタカーです。このクルマでハレアカラ山に登ったりハナ・ハイウェイを往復しましたが、楽しかった思い出しかありません。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 4.0
- ショッピング
- 4.0
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 20万円 - 25万円
- 交通手段
- レンタカー
- 航空会社
- JAL
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行なし)
- 利用旅行会社
- JTB
PR
-
2007年8月 アメリカ・ハワイ・マウイ島
キャナリーモールは町外れで無事だったようですが、写真に写っているバニヤンツリーは焼けてしまったようです。
*Googlemap航空写真では現在の災害後の画像が、またストリートビューでは在りし日のラハイナの画像を見ることが出来ます。 -
2007年8月 アメリカ・ハワイ・マウイ島
歴史的建築物であるパイオニア・インも全焼してしまいました。ラハイナは今、復興中ですが早く元通りの賑やかな町に戻ることを祈ります。 -
2005年8月 アメリカ・ハワイ・ハワイ島
キラウェア火山から海岸線に降りたチェーン・オブ・クレーターズロードの終点から少し歩いた先から、キラウェア火山の溶岩が海に流れ込む水蒸気が上がっているのが見えました。 -
2012年6月 アメリカ・ハワイ・ハワイ島
コナの近くにあるドトール・マウカ・メドゥースのプールに浮かんだココナツ・ツリーです。 -
2013年6月 アメリカ・ハワイ・オアフ島
モアナルア・ガーデンにある日立のCMで有名な「この木、何の木」。答えはモンキーポッドの樹。なお、モンキーポッドはハワイ中に生えているので珍しくも何ともなく、この公園に来るのは99%日本人観光客です。 -
2017年6月 アメリカ・グランドキャニオン
アリゾナ州にあるグランドキャニオンを横断できるブライト・エンジェルトレイルを少し歩いてみました。右下や谷底に道が見えますが、ほんの入口に過ぎません。一番底を流れるコロラド川まで日帰りなどしたら超人以外は熱中症で死ぬか、遭難救助ヘリのお世話になるそうです。 -
2019年3月 アメリカ・ニューヨーク州・ニューヨーク
ブルックリン・ダンボ地区から見上げたブルックリン・ブリッジと、灯が点りはじめたマンハッタンのスカイ・スクレーパー達です。ツインタワーはもう見られませんが、新しい高層ビル達がひしめきあっています。 -
2019年3月 アメリカ・ニューヨーク州・ニューヨーク
ロックフェラーセンターは、NYマンハッタン・ミッドタウンにある複数のビルからなる複合施設ですが、最も高いビル(旧名 GEビル、今はコムキャストビル)の屋上が展望台”トップ・オブ・ザ・ロック”として一般に公開されています。
この写真は2019年3月31日に屋上から撮影した夕暮時のマンハッタンですが、手前がミッドタウンで、正面にエンパイアステートビル、その後方にはダウンタウン地区が控え、ワンワールド・トレードセンターが聳えています。 -
2016年11月 ポルトガル・ロカ岬
舞台はヨーロッパに移ります。「ここに地果て、海始まる」の詩で有名な、ヨーロッパ大陸の最西端ポイント、ロカ岬に到着。「思えば遠くへきたもんだ」を実感しました。 -
2016年11月 ポルトガル・ポルト
ポルトの街を流れるドウロ河と世界遺産ドン・ルイス1世橋。なお、ドウロ河に浮かぶ船は昔ワイン樽を運んだ船。現在はトラック輸送に代わってしまったので、観光用に係留されています。 -
2016年11月 ポルトガル・リスボン
ポルトガルの首都リスボンの名物は、この古いトラムです。何度も改修されてはいますが、基本構造はWW2以前に造られたものなので走るたびギシギシ・ガタガタと音がする、なんともレトロな車両です。 -
2014年4月 スペイン・カタルーニャ地方・バルセロナ
2004年の統計によれば、サグラダ・ファミリアはスペインで最も観光客を集めており、2008年には270万人を集めたそうです。生前のガウディが実現できたのは地下礼拝室と生誕のファサードだけですが、2005年にユネスコの世界遺産に登録されました。
教会の建築費用は入場料と寄付に頼っているので、作業は遅遅として進みませんでしたが、1992年のバルセロナオリンピックを契機に訪問者が飛躍的に増加し、建築作業環境を好転させました。9代目設計責任者のジョルディ・ファウリ氏は、2026年に完成予定と発表しています。 -
2014年4月 スペイン・カタルーニャ地方・バルセロナ
ハープを奏でる天使などは福岡市出身の彫刻家、外尾 悦郎氏(サグラダ・ファミリア主任彫刻家)が担当しており、同じ日本人として誇らしいです。 -
2014年4月 スペイン・カスティーリャ=ラマンチャ地方・トレド
トレドは西ゴート王国の首都であり、中世にはイスラム・ユダヤ・キリスト教の文化が交錯した地で「町全体が博物館」と言われています。1085年から1561年までカスティーリャ王国やスペイン王国の宮廷所在地だった古い街で、タホ川に囲まれた旧市街は世界遺産に登録されています。 -
2013年5月 イギリス・イングランド・リバプール
リバプールのマシューストリートは、ビートルズが無名の頃に出演していたキャバーンクラブのあるストリート。右の柱にリンゴ・スターの写真があったのね。 -
2013年5月 イギリス・イングランド・リバプール
ビートルズ・ストーリー(博物館)では、ビートルズが出演したキャバーンクラブが再現されていました。ただ、この頃のドラムス担当はピート・ベストでしたが。 -
2004年1月 イギリス・イングランド・ロンドン
ビートルズが歩いた世界一有名な横断歩道。堂々と4人で渡る観光客グループもいましたよ。 -
2003年12月 フランス・ノルマンディ地方・モンサンミッシェル
潮の満ち引きが大きいので、かつては多くの巡礼者が命を落としたモンサンミッシェルですが、1877年に地続きの道路が作られ、潮の干満に関係なく島へと渡れるようになりました。しかし、これによって潮流がせき止められ陸地化が進行してしまったで、かつての姿を取り戻すべく2009年に道路が取り壊され、2014年に新たな桟橋が完成しました。写真はまだ地続きだった頃ですが、この光景はもう見られません。 -
2012年4月 フランス・イルドフランス地方・パリ
ノートルダム大聖堂のバラ窓ですが、大聖堂は2019年4月に火災に見舞われ木造の尖塔や屋根が失われましたが、幸いファサードなどの石造り部分とバラ窓は無事でした。 -
2019年12月 フランス・プロヴァンスアルプコートダジュール地方・アルル
正式名はラングロア橋と言い、所謂「アルルの跳ね橋」です。ゴッホが描いた橋は既に無く、これは元の橋の近くに再現されたものです。 -
2018年5月 ベルギー・ブリュッセル
ベルギーの首都、ブリュッセルの旧市街にあるグラン・プラス広場では、ルイ14世によるフランス軍の攻撃で市庁舎を除いたほとんどの建物が破壊されてしまいました。しかし、ベルギーのギルド達は集会場を造るという名目で、現在の石造りの建物群を再建、ヴィクトル・ユゴーが”世界で最も美しい広場”と、賞賛したことで知られる広場となり、1998年にはユネスコの世界遺産に登録されました。写真はフランス軍の攻撃に耐えた市庁舎で、左右非対称です。 -
2018年5月 オランダ・キューケンホフ
キューケンホフとは ”城の台所に花を届けた敷地”という意味で、15世紀に、ここで栽培したハーブが当時の領主の居城に運ばれたことからつけられました。17世紀以降、オランダ東インド会社の提督や豪商の所有地になったりしましたが、今では世界最大級の花の公園として、シーズン中は世界中からの観光客で賑わっています。写真はエントランスから右(北側)へと進み、北側終点近くにある風車です。 -
2018年5月 オランダ・アムステルダム
レンブラント広場にはレンブラントの像と「夜警」に登場する17人の像があります。「夜警」はオランダ黄金時代の絶頂期であった1642年に完成しますが、題名となった市民隊(火縄銃手組合による市民自警団)が出動する瞬間を描いています。なお、この絵を発注した隊員たちが、支払った額と同じ様な平等さで各人を描かなかったレンブラントに不満を持ち、これが受注減や妻サスキアの死など、レンブラントの転落の始まりになったといわれています。 -
2019年12月 モナコ・モンテカルロ
モナコ公国はフランスの地中海沿岸地方のイタリア寄りに位置する世界で2番目に小さいミニ国家です。周囲を険しい山に囲まれ、平地は無く、上へ伸びるか、地下に潜るかしか無い場所に立地しています。モナコは所得税非課税であることなどから住民の84%が外国籍で、モナコ国籍者は16%しかいないそうです。写真は大公宮のある丘の展望台から撮影したモナコ港ですが、お天気に恵まれたので、コート・ダジュールの群青色がより深い藍色に見えました。 -
2002年12月 イタリア・ヴェネト州・ベネチア
年に何度かあるアクア・アルタのため、手前の岸壁が海に沈んでいます。近年地盤沈下のため満潮時にはこんな状態になってしまうとの説明でした。なお、ゴンドラの向こうに見えるのはサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会です。 -
2012年10月 イタリア・バジリカータ州・マテーラ
サッシと呼ばれる洞窟住居が続くマテーラは以前、”イタリアの悪夢 ”と呼ばれた不衛生な地区で、強制立退きにより荒廃しましたが、1993年に世界遺産に登録されてから住む人が増え始め、今では世界中から観光客が来る観光地に変身しています。 -
2012年10月 イタリア・シチリア州・チェファルー
チェファルー旧市街にあるマリーナ門は漁師が海に出るための門でした。門の向こうは旧港ですが、どこかで見た風景ですね。その答えは映画「ニューシネマパラダイス」です。映写技師の見習いになったトトが、ここで野外映画会を開催しますが、途中から雨が降りだし大騒ぎになりましたね。 -
2018年9月 イタリア・ラツィオ州・ローマ
映画「ローマの休日」のラストシーンで使われたコロンナ宮殿は、名門コロンナ家の宮殿で、現在も一族の住居ですが、毎週土曜日の09:00から13:15に限って一般公開されています。公開される宮殿の中心になるのがコロンナ・ギャラリー大広間ですが、映画ではこの大広間に各国の報道関係者を集め、「重病」だったはずの王妃が1日で回復し、記者会見まで開いてしまう、という現実にはありえないストーリーが、ここで展開されました。1日で夢見る少女から大人の女性に変貌する役を演じたオードリーには、うってつけの舞台でしたね。 -
2018年9月 バチカン
バチカン市国はローマ市内にあり、ローマ教皇によって統治される世界最小の国家です。中心にあるサン・ピエトロ大聖堂はカトリック教会の総本山となっています。写真はバチカン美術館新回廊にある「プリマ・ポルタのアウグストゥス帝」。 アウグストゥスの死後、妃のリヴィアが造らせたもので、1863年にフラミニア街道沿いのリヴィアの別荘で発見されました。
アウグストゥスは14年8月に75才で亡くなっていますが、世界中に残された像は皆、若い頃の物ばかりです。自分を「エンペラトール(皇帝)」とは言わずず、「プリンチェプス(第一人者)」と言い通して元老院を欺いたアウグストゥスなら、年齢詐称などお手の物だったのかも知れませんね。 -
2013年10月 ドイツ・ベルリン州・ベルリン
1949年5月、米英仏占領地域にドイツ連邦共和国が、ソ連占領地区にドイツ民主共和国が成立し、ベルリンは東西に分断されました。当初、東西間の行き来は自由でしたが、経済格差や政治体制の不満などにより西ベルリンへ脱出する東ドイツ人が増加し、このままでは国家存続の危機に陥るとして、1961年8月13日に東ドイツによりベルリンの壁が建設されました。写真の壁はソ連のブレジネフ書記長と東ドイツのホーネッカー議長との「兄弟のキス」という有名な画です。なお、このキスシーンは創作では無く実際にあったもので、映像も残っているそうです。 -
2013年10月 ドイツ・バイエルン州
ニュルンブルクからミュンヘンに向かうアウトバーン9号線。右端の車線は大型トラックなどのステージで、中央寄りの車線は高性能車のステージとなっています。後方からカッとんできたポルシェやベンツ等は一瞬で前方に消えて行きました。
なお、アウトバーンは速度無制限だと思われていますが、それは一部の区間(50%ほど)だけであり、無制限区間であっても、交通量の増大に伴い混雑が激しく、すぐに制限区間に到達してしまうことから交通量の少ない地方の路線を除いて、200km/hを超えるような超高速走行は難しくなっているようです。 -
2013年10月 ドイツ・バイエルン州・シュバンガウ
19歳でバイエルン王となったルートヴィヒ2世は幼い頃からの夢であった騎士伝説を具現化すべくノイシュヴァンシュタイン城など豪華な建築物に力を入れるようになりました。
ノイシュヴァンシュタイン城が完成間近になると、ルートヴィヒは首都ミュンヘンに戻らず、ノイシュヴァンシュタイン城に住むようになりましたが、国王の奇行や浪費に危惧を感じた家臣たちはルートヴィヒの廃位を計画、捏造された診断書をもとにルートヴィヒを逮捕し廃位しました。ルートヴィヒはベルク城に送られ、翌日シュタルンベルク湖で水死体となって発見されました。その知らせを受けたオーストリア皇后エリーザベトは「彼は決して精神病ではありません。ただ夢を見ていただけでした」と述べたそうだ。写真はマリエン橋から見たノイシュバンシュタイン城です。城も良いのですが背景も素晴らしかったです。 -
2014年8月 チェコ・チェスキークルムロフ
チェスキークルムロフというと中世の建物が多く残る平和で可愛い町というイメージが強いのですが、かつてはオーストリア=ハンガリー帝国や、ナチスドイツに支配された歴史もあった街です。写真はチェスキークルムロフ城から眺めた旧市街ですが、WW2後ドイツ系住民が追い出されたことが逆に作用して、古い建物等が残ったとも考えられます。 -
2014年8月 オーストリア・ハルシュタット
ハルシュタットはザルツブルク市に近く、オーストリア・アルプスの麓の湖水地帯ザルツカンマーグート地域の最奥に位置する景勝地です。
Wikipediaによると、2012年6月、中国広東省にある湖のほとりに、ハルシュタットの町をそっくりまね、ホテルや教会などの建物の大きさや壁の色、広場の石碑まで限りなく本物そっくりの「中国版」を、中国企業が建設して高級分譲地として販売を始めたそうです。 -
2014年7月 ハンガリー・ブダペスト
ドナウ川ナイトクルーズの船上から見た黄金色に輝くハンガリー国会議事堂です。1885年にハンガリー人の建築家により着工、1902年に完成。外側はネオゴシック様式、内部はバロック様式という美しい建物です。内部には、2人の兵士に守られるハンガリーの国宝というべき聖イシュトバーンの王冠があります。この王冠にはいろいろないきさつがあり第2次世界大戦中はアメリカ陸軍が保管していましたが、1978年ジミー・カーター大統領のときにハンガリーに返還されたそうです。 -
2014年7月 スロバキア・プラスチラバ
ドナウ川に架けられた橋を渡ると首都プラスチラバです。人口42万人ほどの街ですが、れっきとしたスロバキアの首都です。写真はドナウ河にかかる”新橋”から見たブラスチラバ城。それと橋の上にあるのはUFOの塔と呼ばれる展望台。高さは80mですがブラスチラバで最も高い建物だそうです。 -
2017年10月 スロベニア・ポストイナ
ポストイナ鍾乳洞は、スロベニアのポストイナ近郊にある鍾乳洞。総延長は20km以上で、200万年の間にピウカ川の地下水流が石灰岩を徐々に侵食し、形成されました。現在の観光コースは約5kmあり、そのうち3.7kmを電気機関車が引くトロッコが走っています。実際に乗ってみると頭のすぐ上をむき出しの岩が猛スピードで通過し、まるでディズニーランドのアトラクションのようでした。なおポストイナ鍾乳洞は人の手が入りすぎているので世界遺産ではありません。 -
2017年10月 ボスニアヘルツェゴビナ・ネウム
歴史的な問題によりクロアチアは海岸線の一部をボスニアヘルツェゴビナに割譲しており、ドブロブニクに入るには一旦このネウムの町を通過しなければなりませんでした。しかし、2019年7月にクロアチア本土と半島を隔てる海峡上に橋が架けられ、ボスニア・ヘルツェゴビナ領を通らず、クロアチア国内で移動が可能となりました。写真は橋が架けられる前のものですが、ネウム湾が綺麗です。 -
2017年7月 クロアチア・ドブロブニク
1980年にチトー大統領が死去するとユーゴスラビア国内は内戦状態となりました。ドブロブニクも戦場となり、ユーゴスラビア人民軍(ボスニアヘルツェゴビナ)によって1991年10月から7ヶ月間ドブロブニクは包囲され歴史的に貴重な建物などが多大な損害を蒙りました。一時危機遺産にも指定されましたが、戦後、ユネスコや住民の努力により以前と変わらない美しい町の再生に成功、1994年に再び世界遺産としてユネスコに登録されました。写真はドブロブニクを取り囲む城壁で最も高いミンチェタ要塞からの街の眺めですが、赤い屋根、教会、旧港、そして緑のロクルム島が見えます。 -
2017年10月 クロアチア・ドブロブニク
スルジ山頂から眺めたドブロブニクの街とロープウェイ。この時々強風で停止するロープウェイは往復140クーナ(約3000円:当時)なのでTAXIで登った方がオトク説があります。なお、クロアチアの通貨ですが、現在はユーロになったようです。 -
2017年10月 クロアチア・ドブロブニク
2013年にNHK・BSで放送された「岩合光昭の世界ネコ歩き・ドブロブニク編」に、ニャン達が大勢登場しましたが、その中でも純白でキリリとした目をもつ「ビリー」の存在が抜きんでていました。この日、総督邸前の通りをブラブラしていると、真っ白いニャンと遭遇。これはもしかして・・・
1年後に「世界ネコ歩き・ドブロブニク編」が見つかり、何度も見直してみましたが、ビデオに写っていたビリーは3年前の若いビリーで、この時に出会ったネコは3年後の中年になったビリーに間違いない結論に至りました。ビリー、ネコ間違いしてゴメンね。そして、いつまでも元気でいてね。 -
2001年11月 ギリシャ・アテネ
「エーゲ海ミニクルーズ」とうたってはいますが実際はサロニコス湾を半周する程度のツアーでした。しかし、好天にめぐまれればこのとおりです。写真は遠ざかるアテネをバックに記念撮影のワタシ(中央)です。 -
2014年4月 トルコ・イスタンブール・アタチュルク空港
スペインへ向かう途中、イスタンブール・アタチュルク空港でトランジット。ターミナルの窓の外には空港の駐車場、その向こうにイスタンブールの街が、そして空港の敷地内と思われる場所にモスクやミナレットが見えます。
なお、2018年には黒海近くに新しい空港が開港し、2019年には全ての国際旅客便は新空港へ移転したようです。新しいイスタンブール空港は現在4本の滑走路を有し、すべて黒海に向けて南北に設けられています。 今後の建設計画によると最終的に横風用滑走路を含めて6本の滑走路が設けられる予定であり、全施設が完成すると年間1億5000万人が利用でき、世界最大の国際空港となる予定だそうです。 -
2016年6月 ヘルシンキ・ヴァンター空港
フィンランドの首都ヘルシンキの北15kmに位置するフィンランド最大の空港で、北欧のみならず中欧や東欧や、アジア各都市へ向けた便のハブ空港として機能しています。また、日本と欧州を結ぶ最短飛行距離の空港である上に乗り継ぎ所要時間も短いため、毎年多くの日本人観光客が利用する空港でもあります。トランジットだけですが私も何度かお世話になりました。 -
2016年6月 ヘルシンキ・ヴァンター空港
ヴァンター空港で撮影した画像を眺めていたら、ウクライナ国際航空の飛行機を発見しました。今は戦時下なので飛んでいないでしょうね。 -
2016年5月 エストニア・サク市
タリンから30分ほどの処にあるサク市は1998年に長野県佐久市と交流を開始、2007年5月1日に友好都市提携を締結しました。以後、サク市と佐久市の間で市長や住民が互いに訪問し合うなどして交流を深めています。交流のきっかけは、長野オリンピックに出場する選手団が長野新幹線(当時)佐久平駅を通過したときSAKUという駅名を発見したのがきっかけと言われています。
サク市にはサクビールというエストニアを代表するビール醸造所(写真)がありますが、工場の敷地内に誰でも利用できるPUBI(パブ)があり、おいしいサクビール生を頂きました。ちなみに私は佐久市民です。 -
2016年10月 日本・長野県・軽井沢町
その年の10月に佐久市中学生交流事業の一環で、サク市から*リスという可愛い子が我が家に3日間ホームステイしましたが、英語が得意なとても頭の良い子でした。写真は*リスを連れて軽井沢・雲場池に遊びに行った時のものですが、紅葉がとてもきれいでした。 -
2016年5月 エストニア・タリン
エストニアをはじめバルト三国はロシア帝国&ソビエト連邦には何度も支配された歴史を持っています。そんな国々が真の独立を勝ち取ったのは21世紀直前に勃発した東欧革命の時でした。写真はタリン郊外にある「歌の広場」で、1988年9月11日エストニア各地から30万人以上(全人口の1/3)の人々がここに集まり独立への思いを歌にした場所です。 -
2016年 ラトビア・リガ
ツアーで泊まったホテル・イビススタイル・リガはリガ市郊外にあり、周辺は住宅街で店などは無くトラムの停留所も遠いまことに不便なホテルでした。寝るだけのつもりだったので、それは良いとして、部屋のエアコンがまだ冷房に切り替わっておらず、さらには風呂場の乾燥用ヒーターがこれでもかと暖房中というお粗末なホテルでした。仕方が無いので10cmしか開かない窓を開け、備えてあった扇風機を回して就寝しましたが、バスに酔うわ、エンジンはトラブルわで、さんざんでした。 -
2016年 リトアニア・ヴィリニュス
13世紀から建設が始まったゲディミナス城は、初めに丘の上の城が建てられ、16世紀までには下の城も完成しましたが、現在では塔と城壁の跡、一部の建物の遺跡しか残っていません。写真の塔はゲディミナスの丘の上にあるゲディミナス塔ですが、今は展望台と博物館になっています。塔の屋上にはためく3色旗はリトアニアの国旗です。なお、塔の左奥に「血の日曜日」の舞台となったTV塔が見えます。 -
2016年 リトアニア・ヴィリニュス
1993年1月13日、かねてからリトアニアの独立の動きを快く思っていなかったソ連共産党の保守派や軍部は、過去のハンガリー動乱やプラハの春の鎮圧と同様に、戦車を先頭にビリニュスの重要拠点であったTV塔に向かいました。そして、テレビ塔を守ろうとしていた非武装の民間人にソ連兵が発砲、13人が殺害されましたが、この事件が契機となりリトアニア政府は態度を硬化、リトアニア独立へとつながっていくことになりました。ソ連時代も今のロシア時代も、力で弱い物を屈服させようというやり方は変わりませんね。 -
2016年6月 ポーランド・ワルシャワ
ワルシャワ名物の文化科学宮殿は、1955年、スターリンによって、ソビエト連邦からポーランド人民への贈り物としてワルシャワ市内に建設されました。高さ237メートル、42階立て、総室数は3288室。全体の総床面積は2万3000平方メートルという巨大な建物ですが、ワルシャワ市民は、文化科学宮殿を揶揄して「ワルシャワの墓石」又は「スターリンの墓」と呼んでいるそうです。 -
2016年6月 ポーランド・クラクフ
クラクフ郊外にあるヴィエリチカ岩塩杭は1996年に採掘が中止されるまで700年以上、岩塩を掘り続けた世界最古の岩塩坑です。深さは地下 327 m 、坑道の全長は 300 km 以上に及びますが、特筆すべきは、坑道に歴史上や神話上の様々なモチーフを彫った彫像が並んでいることで、その殆どは、坑夫たちが信仰のために岩塩を彫り上げたものです。さらには礼拝堂(写真)までもが岩塩で造られ、さながら大聖堂のような景観を呈しています。そして今では年間100万人以上の観光客が訪れ、ポーランドを代表する観光地のひとつとなっています。 -
2016年 ポーランド・オシフェンチム(アウシュビッツ)
1939年、ナチス・ドイツがポーランドの西半分を占領しWW2が始まりましたが、占領に伴いナチスに反抗する大量のポーランド人の逮捕者を既存刑務所では収容しきれなくなってきていた為、SS最高司令官ハインリッヒ・ヒムラーはオシフェンチムにあったポーランド軍の兵舎を転用、強制収容所として使うこととしました。それ以後、オシフィエンチムはドイツ語読みでアウシュヴィッツと呼ばれるようになりました。
やがて、ヨーロッパのほとんどがナチスの占領下となると、ポーランド人、チェコ人、ロシア人、そしてユダヤ人などが収容されるようになり、被収容者の増加に対処するため、3kmほど離れた場所にビルケナウ第2強制収容所が造られました。そして、アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所は、ナチスの言う「ユダヤ人問題最終解決」に向けた絶滅収容所へと変貌していきます。写真はアウシュヴィッツ第2収容所となったビルケナウ強制収容所に現存する引込み線と中央監視塔。この死の門と言われた中央監視塔の下を、気が遠くなるほど大勢の人々を乗せた貨車が何台も通過しました。 -
2018年 インド・バナーラス(バラナシ)
舞台はアジアに移動します。最初はインドから。
ヒンズー教の聖地バラナシにあるダシャーシュワメード・ガートは、ガンジス川沿いに並ぶ84ものガート群のほぼ中央にある大きなガートです。常に多くの巡礼者が集まり、毎晩日没後に行われるヒンドゥー教の礼拝儀式プージャーでは、ドラと太鼓の音に合わせて祈りの声が響きわたり、僧侶が川にむかって蜀台の火を掲げて祈りをささげます。近くにあるマニカルニカー・ガートは、火葬場としての役割を果たしており、インド中から集まった死者はここで荼毘に付され、遺灰はガンジス川へ流されます。 -
2018年 インド・アグラ
アグラと言えば世界遺産タージマハル。タージマハルとは広大なインドを支配したムガール帝国第5代皇帝シャージャハン(在位1628-1658)が、36歳で亡くなった愛妃ムムターズ・マハルの為、22年の歳月を費やして建てた白大理石の世界一豪華なお墓のことです。ちなみに入場料金は外国人1000R(ルピー:2000円:考古学研究費負担金込み)、インド人はというと40R(80円)です。 -
2018年 インド・ジャイプール
この写真は「ラージャスターンの丘陵城塞群」として世界文化遺産に登録されたアンベール城に登るためバスから乗り換えたジープが、野良牛を避けながら、町の中を通過するシーンですが、クラシックなジープに加え、いかつい顔のインド人ドライバーが後ろから迫ってくると、まるでアクション映画の一シーンのようでした。 -
2016年9月 ミャンマー・バガン
パガンはカンボジアのアンコール・ワット、インドネシアのボロブドゥールとともに、世界三大仏教遺跡のひとつと称され、イラワジ川中流域の東岸の平野部一帯に、大小さまざまな仏塔をパゴダ(パヤー)が林立しています。パゴダは神聖な塔なので上まで登れるパゴダは少ないですが、このシュエサンドー・パゴダは登ることが出来ました。シュエサンドー・パゴダは階段式ピラミッドの上に円錐形のパゴダが乗っている造りで、1057年に初代アノーヤタ王が建立、仏陀の遺髪が納められているそうです。
バガンは域内に軍事政権を後ろ盾にする開発業者がゴルフ場を造ったり、おかしな展望塔を建てたりしたため、世界遺産登録は長らく見送られていましたが、2019年7月に、民主政権になった好影響もあり「バガン」の名で正式登録されました。 -
2016年9月 ミャンマー・ヤンゴン
ヤンゴンはかつてラングーンと呼ばれたミャンマーの旧首都ですが、街の道路はアルファードから軽トラックまで中古の日本車で埋め尽くされていました。写真はホンダ・アクティトラックですが何とTAXI用に改造されたものです。
なお、この写真を撮影した5年後(2021年2月1日)軍事クーデターが発生しミャンマー国軍が再び全権を掌握、民主化の象徴で国家顧問だったアウンサン・スーチーさんは再び捕らわれてしまいました。現在も少数民族を巻き込んだ民主勢力と軍との抗争が続いていますが、何とかこの当時の平和なミャンマーに戻ってもらいたいものです。 -
2013年3月 タイ・アユタヤ
バンコクの北55km、チャオプラヤー川の中州に立つバンパイン宮殿は、1632年にアユタヤ王朝の26代プラサート・トン王の命で建てられました。アユタヤ王朝滅亡後しばらく放置されていましたが、19世紀になってチャクリー王朝・ラーマ4世が再建に着手、再び王族の夏の離宮として、また各国の要人をもてなす迎賓館としても使われています。写真の宮殿はプラ・ティナン・アイサワン・ティパヤといい、ラーマ4世が建立した祠堂ですが、現在、中にはラーマ5世像が置かれています。 -
2011年4月 マレーシア・クアラセランゴール
クアラルンプールから1時間ほどの海岸近くにあるクアラセランゴールの名物はホタル。手こぎボートに乗り替えて音もなく進むと、遠くからは解らなかった対岸の樹木にびっしりとホタルが光っているのが見えました。樹木によっては、まるでクリスマスツリーのように輝いていますが、残念ながら写真撮影は無理でした。最近はスマホでもホタル撮影できるらしいのですが技術の進歩は素晴らしいです。写真はマレーシアのジャングルに沈む夕日。この日も暑かったです。 -
2009年4月 カンボジア・シェムリアップ・ベンメリア
ベンメリアはいつ、誰が造ったのか解っていないカンボジアの遺跡ですが、アンコールワットと類似点が多いので「東のアンコール」と呼ばれています。遺跡は深い森の中に800年の間埋もれており、崩壊がすすんでいるため歩ける範囲は限られています。地元の子供達が崩れた遺跡の上を遊んでいると思ったら、そうでは無く、見学コースをはずれて遺跡観光をする客の案内をして、小遣いを稼いでいるそうです。ちなみに、この子供達は学校へは行っていません。
現地ガイドのSさんが話してくれました。今カンボジアに必要なものは教育です。地雷の被害ひとつ教えるにも立ち入り禁止の看板が読めないことには話になりません。何か物を造ろうにも作り方を教える人がいません。遺跡を保存しようとしても、保存のやり方を知っている人がいません。国を振興させようにもノウハウを持っている人がいないのです、と。そしてこの国ではトラウマになっているポルポトのことも話してくれました。 -
2009年4月 カンボジア・シェムリアップ付近
1975年からカンボジアを支配した極端な毛沢東主義の信奉者であったポルポトは、まず都市を無人化し、農村への強制移住を行いました。さらに通貨の廃止、宗教活動の禁止、集団生活の強制など従来の伝統的価値観や社会体系を無視した政策を断行しました。国民はポルポトの奴隷と化し、全ての自由を取り上げられ、わずかな配給で朝から晩まで不毛の土地を耕す重労働に従事させられ、病死や餓死するものが相次ぎ、人口はみるみるうちに減少してしまいました。
国造りが進んでいないのはスパイがいるからだと決めつけたポルポトは、かつての知識層などを次々と連行し、強制収容所で残酷な拷問を与え、CIAやベトナムのスパイに仕上げたうえ、キリングフィールドと呼ばれる死刑執行所で虐殺しました。このようにして殺されたカンボジア国民は200万人とも300万人とも言われています。写真はベンメリアから戻る国道6号線にあった商店?民家?です。 -
2010年5月 ベトナム・ハロン湾周辺
ハロン湾は、ベトナム北部にある湾の名称で、大小3,000もの奇岩、島々が存在する観光名所で、1994年、ユネスコの世界遺産(自然遺産)に登録されました。ほとんど波が無いので海上ホテルのような豪華な船も浮かんでいました。なお、この頃から中国資本が入り始め、今では中国の観光地のようになっているそうです。 -
2012年1月 インドネシア・ジョグジャカルタ
世界遺産ボロブドゥールにて撮影。72基あるストゥーパ(仏塔)の中には釈迦如来の像があり、何カ所か像がむき出しになったストゥーパがありました。なお、現在は遺跡保護のため上部には登れないようです。 -
2011年7月 マカオ
1840年のアヘン戦争をきっかけにポルトガルに割譲されたマカオ(澳門)の行政管理権は、1999年12月20日に中華人民共和国へ返還され、マカオは特別行政区となりました。写真はマカオ世界遺産地区のシンボル、聖ポール天主堂跡。1602年、イエズス会によって建てられた教会ですが、1835年に火災で焼失し建物のファサード(前壁)だけが残りました。 -
2011年7月 香港
香港は1997年7月1日、イギリスから中華人民共和国に返還され、一国二制度の原理の下、中国最初の特別行政区になりました。写真はネイザンロードを行くオープントップバス。道路に突き出した看板が名物ですが高さは4.7mと、かなりギリギリなのでスリルがあります。 -
2009年9月 中国・陜西省 ・ 西安
写真の場所は西安市街から咸陽国際空港へ向かう途中の高速道路のランプウェイです。一方通行のはずなのに、いきなり前方から逆走トラックが! 写真を拡大して見るとドライバーはくわえタバコで運転していますね。 -
2011年1月 中国・北京直轄市・北京
1月15日朝の北京市内の環状線の状況です。中国はこれで3度目ですが1998年に上海で見たものは洪水のような自転車の大群でした。2009年に西安で見たのは自転車とバイクと自動車が混沌と流れる道路でした。そして2011年の北京で見たものは自転車やバイクは消え去り、道路を埋め尽くさんばかりに溢れる自動車の群れでした。現在、自動車の生産台数、輸出台数とも中国が世界一になりましたが、1998年の上海で見た自転車が自動車に置き換わる時代が来るのか半信半疑でしたが、本当に来てしまったようです。 -
2016年3月 台湾・台北
台北市にある「西門紅楼」は、1908年の日本統治時代に公衆衛生を管理するための施設として建設されましたが、日本が撤退してからは中国本土からの外省移民が借用し「紅楼劇場」いう名の劇場・映画館になりました。現在はカフェ、劇場、ショップの複合施設として、また広場を利用したイベントスペースとしても台北市民に愛されています。
外国人に自分たちの国を統治されることなど嬉しい訳がありません。そんな過去の苦い歴史にもかかわらず、総統府から始まり、迎賓館、中山堂、西門紅楼など日本統治時代の建造物をいつまでも修復しながら大切に使ってもらっている台北市民に、そして東日本大震災や能登半島地震へ多大な支援を頂いた台湾国民に、ただ、ただ感謝したいと思います。 -
2010年1月 韓国・ソウル
韓国では植民地時代に壊された門や建物などを復元する事業が進行中で、ソウル市内にある景福宮(キョンボックン)の正門である光化門(クワンファムン)も2010年1月当時はこんな状況でした。この日の最低気温は-10℃、積雪が一日解けない寒い日でした。 -
2010年8月 韓国・ソウル
再び景福宮の正門である光化門です。2006年より建て替え工事に入っていましたが、2010/8/15 一般公開されました。8/15は景福宮はじまって以来の見学者が訪れたようですが、私の行った16日も結構な賑わいでした。 -
2002年 グアム
グアム島ジーゴにある平和記念公園は1944年に日本軍グアム島守備隊が全滅した最後の地で、日本の遺族関係者の手により記念碑が建てられ、管理されています。
1944年7月21日、コノリー提督率いるアメリカ軍は艦砲射撃を開始、また数百機以上の飛行機で爆撃を加え、砲爆撃の間をぬって上陸を開始しました。対する日本軍は圧倒的に火力の勝る米軍の前にはなすすべもなく、ただ死者の山を築くだけでした。8月11日 日本軍司令部は米軍戦車に取り囲まれ、司令官小畑中将はピストルで自決し、生き残った2人の将校や数人の兵士も戦死しグアム島は陥落しました。
この戦いで米軍の戦死者は 1,290名 負傷者 5,648名 行方不明者 145名でしたが、これに対して日本軍の戦死者 19,560名 負傷者・行方不明者は不明となっています(この中に横井庄一さんもいました)。 -
2004年8月 北マリアナ諸島・サイパン
サイパン島の北部にあるプンタン・サバネタは、通称バンザイクリフと言われる断崖で、戦時中に多くの日本人がここから身を投げた悲劇の場所です。
1944年6月15日、カノアの海岸に上陸したアメリカ軍は、激しい砲爆撃の援護の下で前進を開始し、7月7日、アメリカ軍が「バンザイ突撃」と名付けた突撃後、日本軍は壊滅しました。7月9日にはサイパン島北端に追い詰められた日本兵や在留邦人の多くが自決したり断崖から身を投げました。この戦いで日本の民間人も10000人近く亡くなりましたが、これからの戦争では無差別爆撃や原爆投下などにより民間人や非戦闘員が犠牲となる先鞭となった悲惨な戦いでもありました。
2024年2月現在も世界中で戦火は絶えません。戦争で一番苦しむのは一般国民です。国民の幸せを第一に掲げ、為政者は戦争の無い世界を目指していただきたいものです。
これで「世界40ケ国:西から東まで」は終了です。最後はちょっと重い内容になってしまいましたが、旅行記とは言えないような写真集をご覧いただき、ありがとうございました。
2024年 2月 8日 chiaki-k 記す -
OMAKE1
2024年2月 東御市北御牧から眺めた北アルプス・後立山連峰です。
佐久地方は10年ぶりにまとまった雪が降りました。 -
OMAKE2
同じく東御市北御牧の調整池から見た浅間山です。
おしまい
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この旅行記へのコメント (2)
-
- ねもさん 2024/03/30 12:36:53
- お久しぶりです
- chiakiさん ご投票ありがとうございます。
私なら、ベストはドブロブニクかな。書かれているユーゴスラビア内戦の悲劇も印象深いですが、自由を重んじる街の由来も👍
あと、白い後立山連峰ありがとうございます。うれしい(^^;)
- chiaki-kさん からの返信 2024/03/30 14:11:56
- RE: お久しぶりです
- ・
ねもさん、お久しぶりです。私の旅行記(写真集?)にいいねを
ありがとうございます。
ドブロブニクは交通の便が悪いのでツアー参加でしたが、往きは
トランジット2回、ホテル到着が深夜の2時過ぎ、参加メンバーは
若い方が多くて歩数が多いので高齢者には結構しんどい旅行
でしたが、記憶に残る旅でした。
ユーゴスラビア内戦ですがセルビアをロシアに、クロアチアを
ウクライナに置き換えれば解りやすいかと思います。違いは
ユーゴスラビア内戦はNATOや国連の介入で収まったのですが、
ウクライナ戦争は下手に介入すると、余計悪くなりそうなこと
ですかね。
後立山・槍穂高連峰は私の家から50kmほど離れているのですが
天気の良い日には驚くほど近くに見えることがあります。
47都道府県の最後は富士山だったので、世界40カ国の最後は
北アルプスを持ってきましたが、お褒めの言葉をいただき
こちらこそ、ありがとうございます。
ではまた。
chiaki-k
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