2023/12/02 - 2023/12/02
320位(同エリア353件中)
BO/Mさん
姪の結婚式で八芳園に行きました。
お開きから日没までその周辺(白金台・白金高輪)を歩き倒しました。
八芳園を出て徒歩でものの5分くらいで明治学院に行き着きます。
最近、随分と入れ込んだ幕末・明治初期のアメリカ人宣教医・宣教師たちによる教育や布教、医療等についての興味関心を広げる中で、ヘボン博士の名前が頻出する事から、書物を読み漁ったりしていました。
https://meijigakuin.jp/about/history/ (明治学院による学院の歴史)
明治学院の沿革は1863年のへボン博士による英語塾に始まるとされます。
結果的に3校を纏めて1886年白金に土地を購入して明石町(築地)などから移り現在の場所での教育が開始されます。(その資金はヘボン博士の長年の辞書編纂版権を丸善に売った事で得たお金の寄付によります)
1889年から2年間、ヘボン博士は初代総理を務めました。
1859年10月20日に横浜神奈川宿に在る成仏寺での仮寓生活が始まって以来、ヘボン博士は44歳と言う年齢での来日にも関わらず非常に精力的に活躍しました。
始めは神奈川宿で無償での医療施術、同時並行して日本語の修得と辞書編纂作業(散歩が日課で、「コレハナンデスカ?」と日々聞きまくってそれをメモするところから始まっています)、それから出来上がった辞書を基礎としての聖書翻訳へ、そして日本での最後の数年間を明治学院創成から白金台での開校、また横浜での指路教会創設に注力しました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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正門を入って真っ直ぐ行った正面左手にチャペルが見えます、ヴォーリズ設計によるものだそうです。
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その反対側にあるインブリ―館です。
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更にその向かって右隣りには現在資料館にもなっている建屋が続きます。これら3つの建屋が明治学院の歴史的建造物として遺されています。
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このチャペルが明治期に建てられたヴォーリズ設計によるものです。
ヴォーリズは滋賀から発して主として日本国中の近代建築設計(特に教会設計)で活躍しました。近江兄弟社(メンターム)として実業家としても日本で多大な功績をのこしました。(結婚した一柳家が近江兄弟社でのメンタームで大成功をした事もありロート製薬に日本での販売権を買われてから一時期大いに困窮しましたが、その後盛り返して財力が潤沢に有ったようです)因みに、メンソレータムがロート製薬、メンタームが近江兄弟社、と違う商標です。今では並んでドラッグストアに陳列販売されていますね。そんな歴史があったとは興味深いですね。
https://jpreki.com/hitothuyanagi/
このあたりを読むと内容が繋がります。 -
この先にヘボン博士銅像があるので会いに行きます。
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明治学院初代総裁ヘボン博士です。
ヘボンさんは1859年10月20日、横浜神奈川宿本覚寺に居を構えたアメリカ領事館で成仏寺を仮寓として住まい始めるよう紹介され、その後3年間成仏寺に住まい、徒歩圏内での診療所も大人気でした。散歩は日々の日課で、横浜に移り住んだ後も欠かさなかったようです。
その後、中華街端の今でいう新山下へ向かう交差点近く、旧庁舎跡バス停後ろ側の幼稚園そばに居を移し、診療所兼住居として結果的に77歳で帰任されるまでの33年間中の大半を横浜で過ごす事となりました。今でもバス停後ろ側には記念碑があります。
33年間の前半は日本語辞書を作り、聖書の翻訳に軸足を置きました。結果、旧約新約共に全体の約6割にわたる翻訳作業に携わりました。これだけの広範囲に携わったのは多数居た宣教師仲間の中でも一人ヘボン博士のみです。教派の違いによる分裂なども在ったようですが、日本基督教団の基礎となる教派を越えてのプロテスタントを束ねようとした動きはヘボン博士によるところが大きかったのではないかと思います。 -
最後、77歳の時に婦人の体調を気にかけ米国に帰任の決断をしました。
ヘボン博士は97歳の生涯を遂げる迄のその後の20年間を米国で過ごしました。
妻・クララは帰国14年後の1906年3月4日、長い闘病生活の果ての88歳に召天されました。 -
有隣新書「ヘボン伝」(有隣堂書店の新書番号:88番)に詳しく和英辞典・聖書翻訳・西洋医学の父としてのヘボン氏が描かれています。岡部一興氏著書ですが、氏は明治学院大学卒で横浜プロテスタント史研究会代表として指路教会(ヘボン氏が創成した教会であり現存、横浜海岸教会に次ぐ2番目に横浜で古いプロテスタント教会)などで活躍。関東学院大学でもキリスト教と文化研究所客員研究員。
明治学院、関東学院、頌栄女子、立教、青山学院、聖路加など東京明石町を発祥の地とするプロテスタント系学校法人は多いですね。明石町の外国人居留区や学校発祥の地石碑群については別途アップしています、宜しければ見て行って下さい。 -
チャペルに戻って来ました、プロテスタント教会ですから質素で華美過分を避けて装飾は控えめです。
ご存知の通り、11世紀に東西分離、16世紀にカトリックとプロテスタントに分離したのが大きなキリスト教の流れですが、カトリックとの違いは以下。
【カトリック】
豪奢・華美・装飾的・磔のイエスキリスト像・ミサ・司祭・聖教者は結婚不可
【プロテスタント】
質素・華美過分を嫌気・簡素な十字架のみ・礼拝・牧師による説教・聖書・偶像崇拝禁止
信仰を広めて行く過程は世界の成長と発展と同軸でもあり、徐々に国が形成され権力や支配が形作られて行った中で、チカラ=財力でもある世の中に進み、衆目を集める為には美や豪奢なども有用であると権力者は気付いて行きます。芸術は宗教と大きく関りをもって成長発展して行きますが、ルネサンスなどで知られるように西洋では芸術が宗教や貴族金持ちなどに重用され、カネが掛かる世の中になって行った訳です。金持ちになると自分の徳を積む為に教皇や教会への献金などが進み、教会側も装飾を華美にする事で衆目を集め、更に信仰・信者を増す流れに向かいます。石彫や油画、建築も例外では無く、より荘厳な様式を採用する事で人々は平伏し祈る世の中が進みました。
それを更に、更にと進めて行く為にはカネが必要なので、教会はおふだ(贖宥状=しょくゆうじょう≒免罪符)を売り始めます。これがバカ売れして資金源として欠かせない状態になり大流行します。理由は簡単で、人は召天すると先ずは現世での悪事などを煉獄を通じて悔い改め、そこで浄化された後に召天出来る、と言う教えがある訳ですが、その苦しい過程を、おふだ(贖宥状・しょくゆうじょう≒免罪符)購入度合いによってチャラに出来ますよ、とした訳です。大衆は当然その流行に乗ってガンガン教会へおふだを買いに来るのですからぼろ儲けとなります。
でかした、良いぞ、やれ、と言う勢いに対して、え?、それっておかしくね?、と言い出したのが世界史の宗教改革で出て来る、マルティン・ルターです。
95か条の質問状を教会に対してラテン語で提出しました。(日常言語である母語のドイツ語で出した訳では無く=当時宗教言語はラテン語であり、当初ルターはラテン語で書いている=最初から問題を起こそう、民衆を煽ろう、としたわけではないと言われている根拠)追って、それはドイツ語に訳され、民衆が宗教に対しての疑念などを共有できるようになりました。
まあ、結局はカネで免罪されるなんておかしくねえか?、と言う純粋な疑問符を投じたルターは異端児となり生命の危機すら何度も感じながら教皇側と討論の場を設ける訳ですが、最後はカトリックから追放され、分離してプロテスタントが生まれた訳です。
それは聖書と向き合う事だけが本来のキリスト教である、と言うような考え方です。(すごくシンプルに言うと) -
斜め後ろからです
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ヴォーリズは滋賀で当初活躍していましたが徐々に西洋建築の走りとして布教活動よりも建築設計に軸足を置き、日本全土でヴォーリズ建築を広めて行きました。
擬洋式、と言う日本の大工が作ったナンチャッテ西洋式模倣建築も時代の中で流行りましたが、それらは日本の木造建築の基本の上に表面上の様式を変化させて擬洋式とするものであり根本的に構造が異なるとされます。 -
インブリー館の説明書き
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チャペル
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礼拝堂(チャペル)説明書き
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インブリ―館向かって右側にある記念館についての説明
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礼拝のご案内
プロテスタントでは「ミサ」は無く礼拝です。
牧師など信徒と同じく一般人のメンターとしての役割を果たす方々が聖書の教えに基づく説教などをする、聖書を読んでその意味を共に考えるなどをする訳です。
マルティン・ルターによる宗教改革でカトリックが華美過分に走り、お札を売って莫大な集金をしている事に疑義を持った彼が異を唱え死を賭して95か条の提題を庶民でも分かるドイツ語で行い、また聖書のドイツ語翻訳などで普通の民も神の教えが自分らの言葉で理解出来るようにしました。抗う者、抵抗者、としてのプロテスタントと呼ばれ異端視されたのですが民衆に大きく支持され、また当時の活版印刷技術の台頭によるところにも支えられ、ドイツ語訳が大きく世に広まり、聖書と個人との対話で学びを深める事こそがキリスト教である、と言う一派が生まれ、それがプロテスタントとして分かれて行きました。その後、プロテスタントの中でも様々に分派して行くのですが、大きなキリスト教の流れとしては11世紀の東西分裂以来、16世紀のカトリックとプロテスタントに分かれた事が大きな動きと言われています。昨今、キリスト教は大きくもう一度一緒になってゆこうよ、と言う流れが来ている様です。 -
本当はこちらにお邪魔したかったのですが休館中でした。残念。
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チャペルを資料館側から臨むと銀杏の木がキレイでした。
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資料館の建築様式は外部装飾が結構特徴的です。
レンガも変化をつけて配置されています。 -
チャペルを振り返ります。
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正門前
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東村山に中高があるんですね
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ローマ字で
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正門前の広告掲示板
明治学院大学の名誉教授によるご説明会があるようです
プロテスタント教会建築とカトリック(カソリック)、或いは東正教会などとの違いも語られると興味深いものになるかも知れませんね。残念ながら日程が合わず行けません。 -
ヘボンさんがもととなっている事が分かります
44歳で一念発起、若い頃に一度行ったアジアへの布教はマラリア罹患などで短く頓挫し、長い年月を経てNYで成功した診療所を運営していたヘボン夫妻がアジアでの布教の機が熟し、教会による募集に応じて中年期での再訪、その後77歳に至る迄の大半を日本で過ごし、布教、翻訳、教育、医療にささげた事はキリスト教伝道と言うミッションを別にしても尊い人生だったと私は感じています。 -
築地にあった東京一致神学校画像です、プロテスタントの各派を統一してプロテスタントの神学校を作った、といわれています。
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大通り側から見た明治学院です
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五反田方面から日本橋方面に向かう方角で左手に明治学院は校舎が広がります。ヘボン氏の思いや生き方が教育を通じて今に生きている事は素晴らしい事だと感じます。
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幕末の混乱期から日本に来て、危険を顧みず日本語を学び、辞書を作り、聖書を翻訳し、無償で医療行為をしたヘボンさんは例えキリスト教布教を心からのミッションとして持って来日し、その目標に向かって様々に動いていたとしても、強い信念で誠実に日々を重ねた生きざまに強い感動を覚えました。
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ENEOS東神奈川に車両点検を出した日に、成仏寺へ行きあたりヘボンさんが来日後最初に投宿した場所であると知り、深みにはまっていったこの2カ月程を過ごし、プロテスタントとは何か、どう始まったのか、ヘボンさんとは誰で何をしたのか、その周辺からバラさんの自伝なども求め読了しました。有難い事です。ちなみに私は親世代は仏教であり私もその流れから特段の信心は無いのが実態ですが仏門であるという事にはなっています。が、ヘボンさんの生きざまからは大いに刺激を受け、そこから新しい学びが出来た事に感謝しています。
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大分画像処理をして読み難いものを読めるようにしてみたのですが・・・以下判読した内容を記し、ヘボン博士についてを復習しておきます。
明治学院初代総理(現在の学院長)医学博士・法学博士。
1815年3月13日アメリカ合衆国ペンシルヴァニア州ミルトンに生まれ、プリンストン・ペンシルヴァニア両大学に学び、1841年から45年まで東洋伝道に従事。帰米後、ニューヨークで病院を開業。日本の開国を知り、1859年(安政6年)神奈川・横浜に施療所を開いて近代医術による治療を実施。
1863年(文久3年)にはヘボン塾を開設し、さらに1867年(慶応3年)、いわゆるヘボン式ローマ字を用いて「和英語林集成」を完成した。
ヘボン塾はその後築地大学校、東京一致英和学校となり1886年(明治19年)に東京一致神学校と合流して明治学院となった。
日本のキリスト教界への博士の貢献は、聖書和訳にあったが、また横浜指路教会創建に尽力するところも大であった。
1889年(明治22年)明治学院総理に選ばれ、在任2年、1892年(明治25年)帰米した。
ニュージャージー州イーストオレンジに隠棲したが、1911年(明治44年)9月21日その地に置いて召天した。
博士は「和英語林集成」の版権を丸善に譲渡し、その所得を明治学院に寄付し、その寄付金を基金として、この場所に学生寮ヘボン館が1887年(明治20年)に建てられた。奇しくも博士が召天した同日早朝ヘボン館より出火全焼したが、半世紀後の1966年(昭和41年)に新築したこの研究棟を「ヘボン館」と命名した。
とありますが、補足説明を以下。
先ずヘボンは16歳でプリンストン大学3年に編入し、ギリシャ、ラテン、へブルなど後に聖書翻訳に欠かせない語学習得し、法学を修め卒業しました。更に医学を学ぶ為にもう一つペンシルヴァニア大学で医学を学び医者になります。宣教医として海外伝道をしたいと言う気持ちを持っていましたが、海外伝道の考えを父親に反対され悶々とした日々を送っていました。
そんな時に妻となるクラリッサ・マリア・リートと出会いました。クラリッサの家庭環境は複雑で妹の出産時に妹と母を亡くしています。
事業に成功した父は、聖公会から長老教会に教会籍を移し亡くなるまで教会長老だったのですがクラリッサが5歳の時に再婚して家庭内ではあまり恵まれない幼少期を過ごしたようです。
若い二人は出会うと海外伝道の働き人として生きたいと言う思いで一致し、結婚。1840年10月27日にノース・カロライナ州ファイエットヴィル第一長老教会で結婚式を挙げ、生涯を通じて最良の理解者となりました。結婚式を挙げた後に新婚旅行を兼ねて航海に出て、ボストンで一旦空振り(船が出帆してしまっていた)しますが、1841年3月15日、捕鯨船ポトマックと言う小さな船でボストン港を出て、シンガポールに向かいました。(ボストン港からパタビア=現・ジャカルタに向かう航海日記が残っている)ヘボン26歳、クラリッサ(クララ)23歳。
4カ月の航海中、クララは第一子を流産、遺骸は大海に葬られました。小さな捕鯨船だったとのこと、大海では木の葉が舞うように激しく揺れ、船酔いが苦手なクララにとっては体力を削ぐ航海だった事は想像に難くないものでした。
その後、ジャワを経由してシンガポールへとたどり着き上陸逗留。マレー語の研究を始めました。その時にS.R.ブラウンと出会います。なんと13年後に日本で再度一緒に伝道をする運命となり、その後日本で20年間を過ごすことになるとはその時には思いもしなかった事でした。
1843年10月、ヘボン夫妻は厦門(アモイ)へ移動、病院と施療所の経営を開始し、1844年4月9日、二人の間にサミュエルが生まれました。その後、高温多湿な厦門でマラリア熱が猛威をふるったことでサミュエルとクララをマカオに避難させましたがあまりにもマラリア熱の猛威が酷いのでニューヨークに帰る決断をし、1845年11月30日、パナマ号に乗船してマカオを離れ、1846年3月15日、失意のうちにニューヨーク港に到着、その後13年間ニューヨークで病院を開いて評判の医者として献身的な施療所治療生活を送り、再度14歳になったサミュエルを米国に残し、全てを金にかえて夫婦だけでアジア伝道に応募、日本へ赴く事となります。(多く「ヘボン伝」有隣新書より)
向学心、努力、生き様、意志など全てに強い信仰に基づいた真っ直ぐな心があった方なのだろうな、と感じます。そして頭脳明晰、医師でありプロテスタントとして質素堅実に生き、伝道により神の教えを未開の地の人々に与えよう、など色々と意思を持って臨み、刻苦困難を乗り越えて神に仕えた方なのだろう、と門外漢としても感じます。
現代を生きるアメリカ人はと言うと、英語しか出来ないのに他人が英語を出来ない事を不思議がり世界は自分たちが回している、と勘違いしている人々であると言う様に皮肉を込めて感じてしまいますが(海外駐在時などでの個人的な印象も含め、また自身の語学コンプレックスによる歪んだ思いも含めて、でしょう・・・反省・・・)日本で30余年を過ごす初期に語学に専ら励み、自ら辞書を作ってその後の正確な聖書翻訳の為とした、また若い頃にはジャワ語、或いは中国語(当時の場所から見て福建語や広東語など地方方言を学び、北京官話も学んだのだと思料)を学び、布教伝道の為には先ずは現地語への短期間での習熟が必須である、として凄い勢いで外国語・現地語に長けて行く姿勢は私などが経験したアメリカ人一般とは全く異なるものを感じました。へブル、ギリシャ、ラテンなどは聖書の原典を自ら読み、理解した上で正確な日本語訳をする為には確実に必要な古典でありアメリカ人にとってはとても難解な言語習得だった筈です(自身勉強した事が無いのでイメージに過ぎませんが)。多くの外国語に長け、日本語は辞書が作れる程に習熟し長年住んで日本語でも意思疎通・説教もしたであろう事は想像を絶する語学力であり、単に複数語学力に終わらず超絶高度なレベル迄それを駆使して目的達成の為に使う事が出来た訳ですから素晴らしいですし、更に医者でもある(ペンシルヴァニアは眼科が強かったようです)のですから海外伝道と言う志を持って真っ直ぐに進んだヘボンさんはレベルがはるかに違います。そうした思いを少しでも自身の刺激として生きて行かないとならない、と感じたりします。
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