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2022年4月5日(火)1時半過ぎ、岸城神社のすぐ南西にある岸和田城へ。別名千亀利(ちきり)城。本丸および西側の二の丸一帯は千亀利公園として岸和田市が管理している。本丸庭園は国の名勝、城跡は大阪府の史跡に指定されている。<br /><br />かつては建武新政期(1333~36年)に楠木正成の甥の和田高家が築城したと云われていたが、これはどうやら江戸時代の楠木氏崇拝の風潮による創作らしい。現在は14世紀末の応永年間に和泉守護山名氏清の家臣の信濃泰義によって現在地に築城されたと云う説が主流となっている。<br /><br />建武新政期の1336年の湊川の戦いで楠木正成の部下として活躍した岸和田治氏という武将がおり、おそらくその一族によって1400年までに岸和田が開拓されたと見られているが、その頃はまだ城廓と呼べるものはなかったと考えられている。<br /><br />室町時代から戦国時代に掛けては細川氏や松浦氏、三好氏の支配下に置かれ、織田信長の台頭により配下の織田信張や蜂屋頼隆が治めるが、この時代にはまだ天守はなかった。<br /><br />秀吉の時代になると、岸和田城は中村一氏の配下に置かれ、根来衆、雑賀衆、粉河衆などの一揆衆討伐の拠点とする。1984年の岸和田合戦では一揆連合軍3万人に囲まれるが、城兵8000兵で守り切る。翌年には秀吉自身が岸和田城に入城し、紀州征伐を完遂させた。<br /><br />この合戦の後、秀吉は叔父(叔母婿)の小出秀政を岸和田城の城主とし、小出秀政は関ヶ原の戦い後に岸和田藩の初代藩主となる。この時代に本丸に5重天守を上げる本格的な構えの城郭設備が行われ、城下町建設に開始された。この当時の城下町は町曲輪のみで二の丸の西側、現在の本町に中町。<br /><br />江戸時代に入り、小出家から松平家を経て1640年に岡部宣勝が入城。以後、明治維新まで岡部氏13代が岸和田藩を統治した。岸和田城には岸和田藩の藩庁が置かれたが、一説には徳川御三家の一つではあるが、紀州藩の監視の役割も持っていたと云う。1871年(明治4年)廃城。<br /><br />岸城神社の一の鳥居から50m足らず南に歩くと、岸和田城内堀の北東角に出る。内堀越しの天守と満開の桜がむちゃくちゃ綺麗。この季節に来るのは大正解やね。内堀の北側を西に向かうと、北西角辺りからの桜と天守も見事!<br /><br />内堀を北西部から西側に回り込んでいくと二の丸公園。文字通り二の丸が置かれていたところ。小出秀政が城郭設備で天守を建築するまでは本丸だった。広さは約8千平方mあり、(二の丸)御殿が置かれ、北隅には伏見城から移築されたとされる伏見櫓があった。<br /><br />かつては二の丸広場になっているところに1957年に市民から寄贈されたアカゲザルの猿舎があり、1975年頃には40頭まで増えたが皮膚病などで減少し、2011年に最後の1頭が岸和田市中央公園に移送されて猿舎は終焉を迎えた。なお、移送された最後のアカゲザルはその翌年に同公園で死亡した。<br /><br />二の丸公園の北東部の入口には二の丸多聞と呼ばれる立派なトイレがある。形状は多聞櫓じゃないそうだ。広場の中央には2012年に国連の協議資格を持つ女性による国際ボランティア奉仕組織、国際ソロプチミストから寄贈された時計台がある。高さ約4mのソーラー式電波時計で、岸和田市が進めてきた「石畳と淡い街灯まちづくり事業」により整備された岸和田城周辺の景観に沿ったデザインとなっている。<br /><br />また、1948年に採択された世界人権宣言の45周年を記念した記念碑が本丸側に建つ。南側には1961年に建てられた市民武道場の「心技館」と、2012年にオープンした二の丸広場観光交流センターが並んで建つ。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.24188303510813012&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />天守に向かうが、続く

大阪 岸和田城 二の丸公園(Outer citade,Kishiwada Castel,Kishiwada,Osaka,Japan)

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2022/04/05 - 2022/04/05

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旅行記グループ 泉南

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ちふゆ

ちふゆさん

2022年4月5日(火)1時半過ぎ、岸城神社のすぐ南西にある岸和田城へ。別名千亀利(ちきり)城。本丸および西側の二の丸一帯は千亀利公園として岸和田市が管理している。本丸庭園は国の名勝、城跡は大阪府の史跡に指定されている。

かつては建武新政期(1333~36年)に楠木正成の甥の和田高家が築城したと云われていたが、これはどうやら江戸時代の楠木氏崇拝の風潮による創作らしい。現在は14世紀末の応永年間に和泉守護山名氏清の家臣の信濃泰義によって現在地に築城されたと云う説が主流となっている。

建武新政期の1336年の湊川の戦いで楠木正成の部下として活躍した岸和田治氏という武将がおり、おそらくその一族によって1400年までに岸和田が開拓されたと見られているが、その頃はまだ城廓と呼べるものはなかったと考えられている。

室町時代から戦国時代に掛けては細川氏や松浦氏、三好氏の支配下に置かれ、織田信長の台頭により配下の織田信張や蜂屋頼隆が治めるが、この時代にはまだ天守はなかった。

秀吉の時代になると、岸和田城は中村一氏の配下に置かれ、根来衆、雑賀衆、粉河衆などの一揆衆討伐の拠点とする。1984年の岸和田合戦では一揆連合軍3万人に囲まれるが、城兵8000兵で守り切る。翌年には秀吉自身が岸和田城に入城し、紀州征伐を完遂させた。

この合戦の後、秀吉は叔父(叔母婿)の小出秀政を岸和田城の城主とし、小出秀政は関ヶ原の戦い後に岸和田藩の初代藩主となる。この時代に本丸に5重天守を上げる本格的な構えの城郭設備が行われ、城下町建設に開始された。この当時の城下町は町曲輪のみで二の丸の西側、現在の本町に中町。

江戸時代に入り、小出家から松平家を経て1640年に岡部宣勝が入城。以後、明治維新まで岡部氏13代が岸和田藩を統治した。岸和田城には岸和田藩の藩庁が置かれたが、一説には徳川御三家の一つではあるが、紀州藩の監視の役割も持っていたと云う。1871年(明治4年)廃城。

岸城神社の一の鳥居から50m足らず南に歩くと、岸和田城内堀の北東角に出る。内堀越しの天守と満開の桜がむちゃくちゃ綺麗。この季節に来るのは大正解やね。内堀の北側を西に向かうと、北西角辺りからの桜と天守も見事!

内堀を北西部から西側に回り込んでいくと二の丸公園。文字通り二の丸が置かれていたところ。小出秀政が城郭設備で天守を建築するまでは本丸だった。広さは約8千平方mあり、(二の丸)御殿が置かれ、北隅には伏見城から移築されたとされる伏見櫓があった。

かつては二の丸広場になっているところに1957年に市民から寄贈されたアカゲザルの猿舎があり、1975年頃には40頭まで増えたが皮膚病などで減少し、2011年に最後の1頭が岸和田市中央公園に移送されて猿舎は終焉を迎えた。なお、移送された最後のアカゲザルはその翌年に同公園で死亡した。

二の丸公園の北東部の入口には二の丸多聞と呼ばれる立派なトイレがある。形状は多聞櫓じゃないそうだ。広場の中央には2012年に国連の協議資格を持つ女性による国際ボランティア奉仕組織、国際ソロプチミストから寄贈された時計台がある。高さ約4mのソーラー式電波時計で、岸和田市が進めてきた「石畳と淡い街灯まちづくり事業」により整備された岸和田城周辺の景観に沿ったデザインとなっている。

また、1948年に採択された世界人権宣言の45周年を記念した記念碑が本丸側に建つ。南側には1961年に建てられた市民武道場の「心技館」と、2012年にオープンした二の丸広場観光交流センターが並んで建つ。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.24188303510813012&type=1&l=223fe1adec


天守に向かうが、続く

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