2023/09/29 - 2023/09/29
99位(同エリア389件中)
杏仁豆腐さん
昼食後は、護国寺、成瀬記念館、肥後細川庭園おろ、関口芭蕉庵と巡りました。高低差もあり、予想以上に疲れた散策となりました。
護国寺だけでもけっこう見るものもあり、墓地も歩きました。雑司ヶ谷から早稲田は見る所もたくさんあり、興味深い散策となりました。
☆前半はこちら
雑司ヶ谷から早稲田まで散策(前半)☆雑司ヶ谷霊園・雑司が谷旧宣教師館☆Cafe コアラとライオンときどきチーター☆2023/09/29
https://4travel.jp/tramvelogue/11857053
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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Cafe コアラとライオンときどきチーターを出て、首都高池袋線の下を通ると、小篠坂 (こざさざか)があります。
小篠坂 こざさざか (小笹坂)
豊島区と境を接する坂である。
この坂道は,江戸のころ,護国寺の北西に隣りあってあった“幕府の御鷹部屋御用屋敷”から,坂下の本浄寺(豊島区雑司が谷)に下る道として 新しく開かれた。往時は 笹が生い繁っていたことから,この名がついたものであろう。
坂下一帯は,文京の区域を含めて,住居表示改正まで,雑司が谷町 とよばれていた。近くの目白台に長く住んだ「久保田空穂」は,次のようによんでいる。
雑司が谷 繁き木立に 降る雨の
降りつのりきて 音の重しも -
仁王門です。
建立は、元禄10年(1697)造営の観音堂(本堂)よりやや時代が後と考えられています。両脇には金剛力士像、背面(北側)の両脇には二天像が安置されています。
八脚門、切妻造りで丹塗です。 -
唐銅蓮葉形手洗水盤
水がなみなみです。 -
私立獣醫學校発祥之地
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童謡「からすの赤ちゃん」の歌詞と音符、作詞・作曲「海沼 實」。
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音羽富士塚があります。
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文化14年(1817年)に築かれた富士塚です。
音羽富士と通称され、江戸八富士のひとつに数えられています。 -
富士山頂
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頂上から見下ろした景色
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護国寺の隣は、日本大学豊山高等学校・中学校。
音楽の授業でのリコーダーの合奏が聞こえてきました。 -
不老門
昭和13年(1938)建立。 -
額面「不老」の二字は徳川家達(とくがわいえさと)の筆によるものです。
奥に本堂が見えます。 -
金剛力士像が睨みをきかせています。
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六地蔵
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護国寺大師堂(旧薬師堂)
元禄14年(1701)に再営された旧薬師堂を、大正15年以降に大修理し現在の位置に移築して大師堂にしたものです。 -
一言地蔵
一言だけの願いを叶えていただけます。欲をかいてはいけません。 -
鐘楼
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多宝塔
昭和13年の建立、塔は石山寺の多宝塔(国宝)の模写です。 -
護国寺大仏
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月光殿(旧日光院客殿)
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傳法灌頂用 閼伽井(あかい)
仏前で供養するための閼伽(あか)を汲むための井戸を閼伽井と言うそうです。 -
象の供養塔があります。
大正15年4月15日に、「象牙の恩恵で生活が安定していることに感謝する供養」が初めて行われたことを記念して、建てられたそうです。 -
薬師堂
元禄4年(1691)の建立。
薬師如来を安置しています。 -
観音堂(本堂)
護国寺は、元和元年(1681)5代将軍綱吉の生母桂昌院の発願により、上野国 (群馬県) 大聖護国寺の亮賢僧正を開山として創建された真言宗豊山派の大本山です。
現在の本堂は、元禄10年正月に新営の幕命が下り、7月には落成を迎えて将軍綱吉、桂昌院が参詣し、8月に落慶供養が行われたと伝えられています。 -
お参りしました。
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本堂の裏側
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三条実美の墓
三条実美は、幕末から明治にかけての公卿、政治家です。 -
大隈重信の墓
明治15年に東京専門学校(早稲田大学)を創立し、内閣総理大臣(第8代・第17代)を務めた大隈重信。大正11年1月10日没。 -
山縣有朋の墓
内務大臣(初代)、内閣総理大臣(第3・9代)、司法大臣(第7代)、枢密院議長(第5・9・11代)などを務めた山縣有朋。
「椿山荘」は、山縣有朋が明治11年、私財を投じて築いた私邸の跡です。 -
日本女子大学に来ました。
日本女子大学の創立者、成瀬仁蔵の偉業をしのび、広く女子教育の進展に寄与することを願って、創立80周年の記念事業として昭和59年に開館しました。赤煉瓦のロマネスク調の建物が素敵です。 -
ロビーから2階の展示室に続く階段の風景は美しいです。円形のステンドグラスが印象的です。
成瀬仁蔵の生涯を紹介すると共に、ゆかりの品々を展示しています。 -
訪れている人は誰もいませんでした。
教会のような厳かな雰囲気に包まれています。 -
成瀬記念館分館(旧成瀬仁蔵住宅)
1901(明治34)年に教師館(教師用住宅)の一つとして建設されました。成瀬仁蔵が1919(大正8)年に没するまで居住しました。 -
当初はキャンパスの北西隅にあった建物を解体し、2年にわたり調査、移築作業が行われたそうです。
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豊坂を下ります。
坂の名は,坂下に 豊川稲荷社があるところから名づけられた。
江戸期 この一帯は,大岡主膳守の下屋敷で,明治になって開発された坂である。
坂を下ると 神田川にかかる豊橋があり,坂を上ると日本女子大学前に出る。
目白台に住んだ大町桂月(けいげつ)は『東京遊行記』に明治末期このあたりの路上風景を,次のように述べている。
「目白台に上れば,女子大学校程近し。さきに早稲田大学の辺りを通りける時,路上の行人はほとんど皆男の学生なりしが,ここでは海老茶袴をつけたる女学生ぞろぞろ来るをみるにつけ,云々」
坂下の神田川は井之頭池に源を発し,途中,善福寺川,妙正寺川を併せて,流量を増し,区の南辺を経て,隅田川に注いでいる。江戸時代,今の大滝橋のあたりに大洗堰を築いて分水し,小日向台地の下を素堀りで通し,江戸市民の飲料水とした。これが神田上水である。 -
肥後細川庭園に来ました。
この公園周辺は、江戸中期以降は旗本の邸地になり、江戸末期には清水家や一橋家の下屋敷となりました。そして幕末には熊本54万石の細川侯の下屋敷に、明治15年には細川家の本邸(現在の目白台運動公園敷地)となりました。その後は東京都が買収し昭和36年に「新江戸川公園」として開園し、昭和50年に文京区に移管されました。平成29年3月に「肥後細川庭園」に名称変更しました。 -
松聲閣(しょうせいかく)は、旧熊本藩細川家下屋敷のあったこの地で、細川家の学問所として使用されていたようで、一時期は細川家の住まいとして使用されていました。
松聲閣の中の喫茶「椿」で一服します。 -
アイスグリーンティーをいただきました。
加勢以多(かせいた)というお菓子が付いてきます。
もち粉で作ったおぼろ種でマルメロ羹(現在はマルメロではなくカリンのジャムを使用)をはさみ、細川家の家紋「九曜の紋」を焼き付けて、細川家秘伝のお菓子を再現したそうです。 -
冷たいアイスグリーンティーで、疲れを癒しました。
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肥後細川庭園は、目白台の台地(関口台地)の自然景観を活かした池泉回遊式庭園です。
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都心とは思えない景色です。
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階段を上ると、永青文庫につながっています。
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関口芭蕉庵に来ました。
松尾芭蕉が江戸時代の初めに住んでいた言われる場所です。 -
関口芭蕉庵の入口は、胸突坂の途中にあります。
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こちらが入り口です。
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案内図
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まだ無名だった頃の芭蕉が郷里伊賀より出て、34歳(1677)からのの3年間、当時の神田川治水工事の監督業の為、「竜隠庵(りゅうげあん)」という粗末な庵をこの地に構えました。後世、その史実を基に当地を「関口芭蕉庵」と呼ぶようになりました。
現在の建物は先の大戦後に再建されたものです。 -
瓢箪池です。
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芭蕉庵の池泉は湧水により作られたもので、『東京の名湧水57選』に選ばれています。
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ふる池や 蛙飛こむ 水のをと
瓢箪池の畔の芭蕉句碑です。昭和48年、芭蕉280回忌に建立。 -
伊藤松宇句碑
「喜翁松宇 真中に富士聳えたり国の春」 昭和10(1935)年
伊藤松宇は明治から昭和にかけての俳人、晩年はここに住んでいました。 -
訪れる人もなく、ひっそりとしています。
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夜寒碑
二夜鳴く 一夜はさむし きりぎりす 四時庵 慶紀逸
武玉川の撰者 四時庵慶紀逸の句碑 宝暦3年(1733)
慶紀逸(1695-1762)は、江戸中期の俳人です。 -
范石湖の詩碑
范石湖の詩碑 范石湖の碑を石摺により再刻せるもの。田中光顕氏之を建つ。
明治22年(1889) -
駒塚橋を渡ります。
神田川が下を流れます。 -
早稲田車庫からさくらトラムに乗り、帰宅しました。
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