2023/09/17 - 2023/09/17
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BO/Mさん
台湾・台北の港南橋で1947/3/16なにがあったか?
8人の銃殺死体が橋の下に遺棄されているのが見つかった。
いわゆる台湾人知識人らだったと言われております。
場所は「南港展覧館」駅下車徒歩数分。
記念碑も痕跡も無いが、来台の機会に訪れたい場所の一つだった。
そもそも、「台湾・二二八事件」と言っても、何? ですよね。
二二八事件とは、占領軍である中華民国軍が占領地の台湾人に対して行った虐殺の事を指します。
歴史とは複雑で、「語り手が誰か」によりその見え方、見せ方は大きく変わります。
日本植民地時代(1895/1945)では為政者日本帝国により「日本語を国語」とされましたが、それ以前には台湾語7割以上、その他客家語や原住民族語が縄張りを緩く守りながら生きてきたと言われています。
第二次世界大戦で日本が敗戦し撤退すると共に、清から近代に向かう中国の二大勢力、中華人民共和国側と中華民国側(国民党軍と共産党軍)と言う2つのチカラは、時に協力し時に敵対しつつありましたが、西側諸国の見立てと希望に反し、中国共産党軍が長い行軍(長征)の末、力を増し毛沢東側が蒋介石側を押しやり、結果蒋介石側は
「絶対再度我々が勝つが、今は一時台湾に退避して時を待とう!」
と大勢の中華民国軍とその子女、関係者らと財宝を手に台湾に飛来、結果的に亡命先である台湾で、台北を臨時の首都として今日に至る、と言う文脈で語られる中華民国側の言い分となります。日本から中華民国側支配に実質的な為政者が変わると、国語は中国語となり、半世紀に亘り育まれた日式教育や日本語を母語とする日常は否定され、支配者側からすると何を言っているのか分からない、且つ知識人が多い日本語話者はいわれも無い罪名を着せられ反体制分子として強く取締られました。
そんな時代の発端に二二八事件があり、この八仙橋事件(南港橋)も当時の数多い悲惨な出来事のうちの一つとなります。
- 旅行の満足度
- 3.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 鉄道 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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台北市内中心からMRT BR線に乗って南港展覧館(終点)下車、私が投宿したサンルート台北からは30分前後でした。(民権西路からO線で4駅目の忠孝新生でBL線へ乗り換えて終点=合わせて30分程度)
MRTは台北市交通網で、基本地下鉄であり、都心を離れると地上に線路は出ます。
O線=オレンジライン(線)
BL線=ブルーライン(線) -
台北市内のMRT網は充実しており、現在13路線+猫空ロープウエイ。
全ては上述の通り、英語表記での「色」略語と線色で分かり易くなっています。
B/BR=ブラウン線、R=レッド線、等々。大体の場所にMRTで行けるし、仮にちょっと駅から離れている場所でも基本台北市内なら駅から歩けます。 -
駅に表示されている地図を見れば、どの出口で地上に出れば良いか、可視化出来る点では日本同様に親切な作りです。今回は「6番出口」から地上に降り立ち、そのまま進めば目的地、南港橋となります。
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6番出口を出ると進行方向直ぐ、この先に南港橋は在ります。周りには中古車販売店、車の修理屋さんなどがまばらに在るだけでした。
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歩いて行く先の歩道は一旦狭まりますが南港橋に近づくと一応歩道は存在していました。橋に向かって右側から近づき、Uターンして反対側へ回り、戻るつもりで行くと、南港橋の名前が橋にあるだけでした。この場所の記憶は消され、よくよく調べないと此処でいつ、何が起こったか、と言う事は見えなくなって行きます。
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6番出口を出てせいぜい徒歩6-7分で橋に到着しました。
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南港橋の名が橋のそれぞれ端に合計4箇所確認できました。一回りしましたが他には何の石碑も看板も残されてはいません。行き交うのは車とバイク、サイクリングの人々程度でした。
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ここにわざわざ来てどうするの?いえ、どうもしません。2023-1947=75年ほど前を思い、心の中で手を合わせました。それは誰かに味方し誰かに敵対する、或いはしたいからでしょうか?いいえ、当時、台湾知識人であると言うだけで訳も分からないうちに逮捕され、罪名を着せられて新たな支配者、為政者に亡き者とされてきた方々の人生が在った事を何かに留めておきたかったのかも知れません。
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台湾は、冒頭にも書いた通り長きに亘り日本も含め為政者が何度もかわり、それがかわる度に「国語」が変わり、それに対して抗う者や為政者側が勝手に危険分子だ、こそこそと読書会をやっていただろう、或いは誰かが誰かを陥れたいだけの密告により反政府のレッテルを貼り、そうして決めつけた者をいとも簡単に逮捕し、その多くを亡き者としてきました。
日本統治時代の対原住民族の粛清にも凄惨なものがありましたが、それについては、「霧社事件」を調べて頂くと詳しいですがここでは割愛します。 -
1895年に日本が「拡大」して行った時代、台湾は下関条約を経て植民地・台湾として日本統治下に組み込まれ、第二次世界大戦で日本が敗戦する迄、日本の一部として存在しました。勿論、当時台湾での「国語」は日本語であり、それを使う家庭は優等とされましたが、それに従わず、或いはついて行けず台湾語や客家語、原住民族各言語のみを使う家庭や地域は野蛮・危険分子などと目を付けられ、劣等扱いや、抵抗すると「粛清」対象となりました。
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中華民国(蒋介石)が「正統な中国」を争い中共との国盗り合戦をした挙句、劣勢となり台湾へ 「一時的に」 逃げ込んだ時は、台湾は日本敗戦撤収直後で、日本語教育=国語だったので、中華民国軍が力での台湾支配を開始して強権発動をし始め馬脚をあらわすと、台湾側は、あれ? 何か変だな、と感じ始め、それが堆積した結果、二二八事件に発展しました。それが冒頭で書いた「二二八事件は占領軍である中華民国軍が、占領地の台湾人に対して行った虐殺です」、に繋がります。
そうした時代の中での一コマが、八仙橋事件なのですが、為政者側はそんな歴史には蓋をしたがります。 -
つまるところ、台湾は誰のものか?、と言うそれぞれの立場での主張が喧しく聞かれる中、ウクライナとロシアの軍事による現状変更は、台中間関係に重ねて考えられる機会を増やしました。
1.台湾問題は中国の国内問題、とする中華人民共和国の主張
2.中華民国は中国の統一を未だに追及している、と言う中華民国側の主張
3.一つの中国にしようとする中華民国側の立場は諦めたが台湾は中華民国・台湾である、とする国民党側の考え方
4.台湾は支配され続けて来たが台湾のものである、と言う主張
などがあります。
では、「台湾は台湾のものだ」と言うその主体は誰になりましょうか? マジョリティである台湾語を話す人々「のみ」のものでしょうか? いや、原住民たちも「日本統治より前から居た」のだから彼らのもの「でも」あるでしょう。
そうした様々な主張があり、また一方では約80年と言う長い時間を掛けて現在に至る現実が存在します。 -
そうした様々な事を考える時、先ずは歴史の現場や記念館などを見て回りたいと僕は考えます。そこで実際に自分で何かを感じ、考えを纏める一助にしたいのです。今回の南港橋行きは、その為の一つの行動記録となります。
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十分に発展し、日本の物価と大差ない部分が多くなった台湾の一般生活。
モスバーガー、セブンイレブン、ファミマ、松屋、すき屋、吉野家、スシロー、はま寿司、ココイチ、大戸屋・・・今回投宿しているサンルート台北(燦路都大飯店)から徒歩圏内にコンビニ8-9軒と上述日系店舗が立ち並びます。
台湾は日本文化を好み、アメリカの傘の下を求める方が多い様に僕は感じます。
2024年1月の選挙に向けて政治の季節に入り始めた台湾。毎日、中国空軍が飛来する行為は、選挙が近付くに連れ増して行く事でしょう。
台湾は誰のものか、そして日本は今後どうなるのか?
台湾有事、と言う言葉が多く使われる今日、アメリカで行った中国の台湾侵攻軍事シミュレーションでは、24回の擬似軍事作戦中、19回は日本にも中国からのミサイルが飛来し駐日米軍基地を中心として破壊工作が行われると言う結果になったとか。(2023年9月情報)
僕は決して政治的人間ではありません。そしてこの場を利用して何か多くを主張したり宣伝したい訳では無いと言う考えで旅の記録をUPしています。ですが、台湾の中でも多様な背景を持ち、今を生きる人々が居る事は理解しておきたいのです。直接に見聞きしたものを此処に記録する事で、ちょっと毛色の変わった台湾旅行記としてご覧いただけるのなら幸いだと感じています。
なお、政治的な立場や考え方の違いにより様々にご意見を賜る事も有ろうかと拝察しますが、敢えて言い合いに参じる積りは有りませんので、ご容赦下さいね。
但し、仮にファクト誤認などがありましたらご指摘は承ります。宜しくお願い致します。
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