2023/05/05 - 2023/05/05
1792位(同エリア2166件中)
gianiさん
- gianiさんTOP
- 旅行記238冊
- クチコミ54件
- Q&A回答0件
- 806,350アクセス
- フォロワー16人
この旅行記のスケジュール
もっと見る
閉じる
この旅行記スケジュールを元に
中世~幕末の歴史が詰まった桂浜周辺を訪れます。
フリー切符の『MY遊バスチケット』を購入すると、桂浜へ単純往復するだけで元が取れます(とさでん交通部分は片道のみ利用可能)。
特に長宗我部カラーの強いエリアで、乙な旅でした。
- 旅行の満足度
- 5.0
-
スタートは高知駅。
高知駅バスターミナル 乗り物
-
まずは、四国を統一した長宗我部氏の足跡を追います。
長浜バス停で下車します。路線バス(とさでん交通) 乗り物
-
長宗我部元親(1539-99)
中世より続く土佐七雄の一つ、長宗我部氏第20代当主国親の嫡男です。ぼんやりした性格ゆえに、資質に疑問が付いて回ります。そのせいか初陣は21歳と、かなり遅いです。敵対する本山氏との決戦に臨みます。
像の建つ鎮守の森公園は、元親が陣を張った場所です。長宗我部元親初陣の像 名所・史跡
-
決戦の前日、篤信で有名な元親は、若宮八幡宮で夜を徹して戦勝を祈願します。
-
若宮八幡宮
源頼朝は1185年に、非業の死を遂げた祖父為義の慰霊のために京都の(左女牛)若宮八幡宮に神社領を寄進しました。寄進領がこの周囲で、これが縁で勧請されたのがこの神社です。頼朝ゆかりの神社です。
奉納された酔鯨(日本酒)が写っていますが、近所に酒蔵があります。若宮八幡宮 寺・神社・教会
-
それが桂月でおなじみの土佐酒造。
CEL24酵母は、県内の複数の蔵で使用されていますが、個人的にはこれが一番かと。 -
長浜の戦い(1560)
本山氏家臣の大窪弁作が守る長浜城は山城、簡単には落とせません。父親で当主の国親は、策略を用いて城門を開けさせ、あっさり長浜城を攻略します。決戦前夜の出来事です。長浜城跡 名所・史跡
-
戸の本の戦い
奇襲で長浜城を失った本山氏は、当主茂辰が自ら大軍を率いて出陣します。翌朝に戸の本に到着します。長宗我部軍は、長浜城の本隊と若宮八幡付近の元親隊が出陣し、戸の本で衝突。 -
予想に反し、元親率いる50騎は70の首を取り、元親自身も2騎の首を取ります。劣勢になった本山勢は、浦戸城へ退却します。古戦場には、古墳也勿掘いう文面の石碑が残ります(遺体を葬った塚と伝承)。勢いに乗った元親は、潮江城も奪取します。
戸ノ本古戦場跡 名所・史跡
-
周囲の景観
浦戸城包囲中に国親が急死しますが、元親は初陣の活躍もあり、21代目当主になります。1568年には本山氏、翌69年には安芸氏、1575年には一条氏を滅ぼして土佐を統一します。1585年には四国を統一しますが、数か月で秀吉に降伏し、土佐一国が安堵されます。翌86年には、秀吉の九州征伐に従軍します。 -
凋落
初陣での勝利以降、若宮八幡宮は元親の戦勝祈願社となりました。島津氏を征伐すべく九州入りする際も、戦勝祈願に訪れます。この時に軍旗が鳥居の笠木に引っ掛かって、落ちてしまいます。人々は不吉の兆しとしますが、元親は「敵を笠に掛けて討伐する吉兆」と判断します。 -
戸次川の戦い
豊後大分の大友宗麟と長宗我部軍は、現在の大分市で島津軍と対峙しますが、大敗を喫します。跡継ぎの信親も失い、命からがら土佐に帰国します。例の鳥居を不祥とみなし、破壊して海に沈めます。鳥居が再建されたのは明治に入ってからで、1980年に現在のものに替わりました。若宮八幡宮には、元親の愛憎が詰まっています。 -
長浜城下には、大分で戦死した信親の墓所があります。
僅か21年の人生でした。
父が21歳の時とは対照的に、跡継ぎとして皆の期待を集める存在でした。長宗我部信親墓所 名所・史跡
-
秀吉の死の翌年に、元親も死去します。跡を継いだ4男の盛親は、元親が復興した慶運寺に父を葬ります。元親の法号に因んで、寺号を雪蹊寺に改めます。臨済宗のお寺なのに四国八十八霊場の33番目、大師堂(写真)があります。
雪蹊寺 寺・神社・教会
-
元々は弘法大師が開いたお寺で、高福寺といいました。慶運寺に名称を改めた後に本山氏の配下で廃寺になっており、元親が自身の信仰する臨済宗の寺として再興したので、こんなスタイルになりました。ちなみに、山号は高福山です。
-
秦神社
雪蹊寺が明治の廃仏毀釈により廃寺となったため、長宗我部氏を供養を続けるために創立しました。秦氏は、長宗我部の祖先とされます。
※その8年後に、雪蹊寺は再興されます。秦神社 寺・神社・教会
-
長宗我部元親の墓
雪蹊寺の境内から離れた天甫寺山に埋葬されています。長宗我部元親の墓 名所・史跡
-
宝篋印塔の基部
-
愛馬の塚
長宗我部元親が、秀吉から拝領した内記黒という馬の墓であるとされます。
戸次川合戦では、最後は馬を捨てて戦い、敵陣に斬り込む覚悟でした。その時、内記黒が駆けつけたので、元親は敵中を突破し、大分城下まで逃れることが出来たと言われます。愛馬の塚 名所・史跡
-
長浜地区には、鶴田塾もありました。
-
鶴田塾(1854-58)
吉田東洋が、蟄居を命じられた時期に開設。後藤象二郎、岩崎弥太郎らが学んでいます。時期や背景も、松下村塾と似ています。 -
浦戸一揆(1600)
関ケ原で西軍に味方した長宗我部盛親は、領地没収の処分が下されます。ところが家臣たちは、せめて土佐郡だけでも盛親に!と訴え、浦戸城に立て籠ります。そして、幕府使者(接収)が宿泊する雪蹊寺を包囲します。
一揆勢は階級間の分裂が生じ、上臣は素直に城を明け渡します。 -
残党狩り(1601)
山内一豊が、新たな領主として土佐入りします。城を明け渡した上臣を召し抱える一方、半農層(一領具足)273名を処刑。首は塩漬けにして、大坂の井伊直政に送られます。
写真は、彼らを供養する六地蔵。 -
石丸神社
彼らを供養する神道系の施設で、(検分のために首を刎ねられた部分を欠く)胴体を埋葬した石丸塚に建てられています。 -
境内には、一領具足供養の碑が建ちます。
世渡り上手の上級武士と、変化に付いて行けなかった下級武士。一領具足供養の碑 名所・史跡
-
彼らを供養する五輪塔(仏教系)も建ちます。
※バスの本数が少ないため、元親墓/愛馬の塚/一領具足供養碑をスキップすると、時間と体力の節約になります。 -
浦戸城
中世からの砦。土佐七雄の一角、先述の本山茂宗が支城となります。秀吉の軍門に下った長宗我部元親が、自らの本拠地として1591年に本格整備。
※大高坂(高知)城を建設しますが、城下の治水に失敗し、次善の浦戸を整備しました。浦戸城跡 名所・史跡
-
現在も、天守閣跡が残り、神社が設置されています。
土佐で初めて天守閣を備え、ルックス上もお城らしいお城です。 -
関ケ原後に、山内一豊が入府。しかし、長宗我部元親が断念した高知城を整備し、一応の完成を見た1603年に移転します。1616年の一国一城令で、廃城になります。
写真は二の段(二の丸)。 -
本丸跡は、国民宿舎と龍馬記念館が鎮座します。結構広いスペースです。
余談ですが、1944年の土地利用図では、畑になっていました。高知県立坂本龍馬記念館 美術館・博物館
-
詰の段(本丸 竜馬記念館)からの眺め。
一応標高59mということですが、それ以上の感覚です。三方を海に囲まれた山城、防衛上は文句なしのロケーションです。 -
記念館では、竜馬の生涯と幕末の情勢が扱われます。
-
もう一つは海に因んで、幕末の先進者ジョン万次郎に関する展示です。
-
二の段には、高知灯台が。
高知灯台 名所・史跡
-
灯台から波打ち際を目指します。
照葉樹が、南国ムードを誘います。椿の小径 名所・史跡
-
岬に祠が見えます。
桂浜 竜王宮 寺・神社・教会
-
海津見神社(竜王宮)
海上の安全、商売繁盛と、守備範囲が広いです。1650年代の絵図にも描かれています。 -
桂浜
元は、勝浦浜でした。訛ってカツラ浜になり、月が良く見えることから桂の字が当てられるようになりました。
※桂月:月の異名。 月に桂の木が生えているという中国の伝説に因みます。桂浜 自然・景勝地
-
桂浜には、記念碑が。
雅号は、桂浜に因みます。大町桂月記念碑 名所・史跡
-
桂月ゆかりの人物の記念碑も。
田中桃葉記念碑 名所・史跡
-
出丸跡
桂浜の西端が竜王宮のある岬なら、東端の高台は出丸として機能しました。藩政期は、眺望を活かして灯台や遠見番所(海上交通の監視)が設置されました。幕末には、大砲も設置(浦戸砲台跡)されました。 -
現在は、太平洋に対峙して坂本龍馬像が建ちます。
坂本龍馬銅像 名所・史跡
-
高知高校の校歌にも、登場します。
高知市民の精神的スポットです。旧制高知高校歌碑 名所・史跡
-
観光案内所は、外国人目線でもスマートです。
桂浜観光案内所 名所・史跡
-
戎神社
駐在所の横にあります。1601年に入府早々の山内一豊は、浦戸一揆で取り逃がした反逆分子を一掃すべく、策を講じます。戎神社祭礼の相撲大会を大々的に開き、彼らをおびき寄せ一網打尽にします。 -
見せしめに、主だった73名が磔にされた種崎浜。これ以降、長宗我部旧臣の抵抗は沈静化します。相撲好きの土佐戦士に付け込んだ妙策は、一豊の妻のアイデアともいわれています。
-
現在、浦戸湾は橋で結ばれ、MY遊バスが走っています。橋の下は、浦戸城城下町の肝、長曾我部元親の屋敷がありました。牧野植物園を経由して、高知駅へ通じます。
以下は、龍馬記念館の内容で、今まで回ったスポットのおさらいです。浦戸大橋 名所・史跡
-
中世の土佐
室町幕府で管領を務めた細川氏の一族が、守護になります。現地は、守護代の細川持益が下向します。しかし、応仁の乱をきっかけに細川氏の力が弱まると、土着の勢力が台頭します(土佐七雄)。土佐中央部は、北部の本山氏(本山城)と中部の長宗我部氏(岡豊城)に整理されます。 -
七雄筆頭の本山茂宗は、長宗我部国親から岡豊城を奪い、土佐湾まで南下します。山奥の本山城から、幹線沿いの朝倉城に本拠地を移します。国親は反撃に掛ます。策を講じて無血で長浜城を奪い、若宮八幡宮社頭に陣を張った嫡男元親は予想外の活躍を見せます。最終的に四国を統一するも、秀吉の軍門に下ります。
-
岡豊城は山城で城下町形成は不可ということで、平野部の大高坂に移りますが、結局浦戸城を整備します。秀吉の島津征伐や朝鮮出兵といったニーズに応えるには、外洋に面した浦戸が最適という積極的な説が有力です。一方で、九州征伐では嫡男信親を失いました。
-
お城の位置関係
北東角が岡豊城、北枠外が本山城、西枠外に朝倉城、中央が大高坂(高知)城、南に長浜城と浦戸城。 -
長宗我部元親が整備した浦戸城
山城は政務や生活に不便なために、城下町に面して屋敷を作っています(図の上、桃色の部分)。 -
鳥観図
お城に対して、城下町が小ぶりなのが気がかりです。ベースは中世の土の斜面、本丸部分だけ高石垣を巡らした時代の趨勢の仕様です。
関ケ原前年に元親は没し、盛親が跡を継ぎます。 -
浦戸一揆
関ケ原で西軍に味方した長宗我部氏は領地を没収されますが、旧臣は強く反発し、浦戸城を本拠地に幕府の接収部隊へ50日間抵抗します。重臣は徳川と内通して城を明け渡し、反対した下級武士(一領具足)273名は斬首されます。 -
土佐藩
翌1601年に入府した山内一豊は、残党狩りのために相撲大会を催し、反逆勢力を一掃します。広い領土を支配するために、領内に6か所の拠点(土居)を作り、一族や譜代の重臣を配置します。 -
階級差別
一領具足とは、字義的には鎧を一着しか持たない人たちのこと(具足=鎧、一領=一着)。普段は農業に従事し、有事は畑に案山子のように掛けた鎧を即座に着用して駆けつける半農半武の中世的な下級家臣です。歴戦を潜り抜けた、戦闘のプロ集団です。
土佐藩の階級差別は厳格で、武士は上士と下士に大別され、懲罰的な意味も込めて下士は大きく抑圧されました。
※歴代の重臣には、一領具足系も散見します。 -
高知城と城下町
徳川太平の世を見据えて、山内一豊は平野に面した高知を藩庁にし、1603年に高知入りします。下士抑圧は、国の貧しさも関係していました。城下町に治水を施し、経済(商業)を振興します。新田開発にも励み、経済基盤は徐々に強化されます。 -
ジョン万次郎
1841年に土佐沖で出漁中に漂流し、アメリカ船に救助されます。アメリカ合衆国を本拠地に世界中を航海します。1851年に帰国し、幕府等の取り調べを受けた後に帰郷し、英語や欧米の知識を藩校で教えます。翌年の黒船来航時に江戸幕府に召喚され、新政府でも活躍します。 -
吉田東洋(1816‐1862)
1842年以降、失脚を繰り返しながら藩政改革に携わります。
鶴田塾は、長浜で蟄居中(1855-58)に開いたもので、復帰後は藩主山内容堂と共に公武合体路線を展開します。尊王攘夷を目指して1861年に結成された土佐勤王党と対立し、翌年に暗殺されます。東洋は欧米の実力を現実的に評価し、開国等の幕府/明治政府が実施した諸政策を提唱しました。 -
土佐勤王党
いわゆる尊王攘夷思想を掲げる政治勢力で、1861年に筆頭家老の深尾重先を盟主に結成されます。事実上のリーダーは武市半平太で、開国論者の吉田東洋を暗殺します。翌年に京都で八月十八日の変が起きて尊王攘夷運動に陰りが見えると衰退し、1865年に武市は切腹させられます。 -
脱藩
土佐勤王党が藩政を基盤として活動(家老格5名が党員)する「政党」だったので、政治的パワーバランスや党員同士の利害衝突に悩まされます。
政党政治に限界を感じた人たちは、結党後すぐに脱藩します。国全体を変えるために藩の枠を超えて全国の志士と協働できること、過激な行動や政変で活動の罪が問われても藩や家族に類が及ばないというメリットがあるからです。有名な脱藩者は、坂本龍馬です。 -
倒幕と薩長同盟
藩として攘夷を決行した薩長は欧米艦隊の報復を受け、実力の差を体感します。攘夷は不可能と悟り、欧米と手を組んで倒幕(尊王)に舵を切ります。
エリート揃いで地味化した土佐勤王党とは対照的に、脱藩者は薩長と協働して大義の成就を図ります。禁門の変の遺恨で敵対関係にある薩長を歩み寄らせるには、部外者の土佐者は適任でした。薩摩が買った武器を長州へ輸送する役割を担う(海援隊等)ことで、薩長が幕府に角を立てないようにできました。 -
明治政府
幕末で土佐の人材は、活動に不可欠な潤滑油的な役割を果たしました。とはいえ主役は長州、次いで薩摩ということで、新政府では地味な存在です。
板垣退助に代表される自由民権運動という被支配層の権利拡大活動で主役を担い、政府の迫害を受け、歴史から姿を消します。ただ帝国議会の開設など、ある程度の爪痕は残します。
土佐出身の吉田茂は、日本国憲法の体制下へ橋渡しする時期に舵を切ったキーパーソン宰相です。 -
ゴールの高知駅前に到着です。
MY遊バス 乗り物
-
おまけ
MY遊パスでは、牧野植物園も立ち寄りますが、今回はタイムアウトでした。
市街の路面電車乗り放題の特典が付くので、県立美術館/自由民権記念館/龍馬の生まれたまち記念館etc.の郊外かつプチ系のミュージアムを訪れるのもアリです。入場料の優待特典も付きます。路面電車(とさでん交通) 乗り物
-
自由民権記念館へ行ってみました。
高知市立自由民権記念館 美術館・博物館
-
翌々日まで様々な優待を受けられるので、空港で土産物を買うのもベター。ビッグサンは品揃えも良く、特典も1割引でおすすめです。
次の旅行記↓
https://4travel.jp/travelogue/11839593
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
この旅行で行ったスポット
もっと見る
高知市(高知) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
67