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1.ビジネスクラスでタイへ<br /><br />今回は、「乗りなれたエコノミークラス」ではなく、「乗りなれないビジネスクラス」である。当然、ワシのようなリーズナブル派旅行者が金を払ってビジネスクラスなんぞに乗るわけがない。貯めておいたマイレージのポイントでチケットを頂いたのである。<br />航空会社のカウンターでボーディングチケットといっしょにラウンジのチケットをいただいた。<br />「ほぉー、ビジネスクラスになるとラウンジのサービスがあるんだ」<br />と感心。だが、ラウンジって、静かな部屋のソファーで、<br />「ボーディングタイムまでゆっくりとおくつろぎください」<br />ってなもんでしょ。<br />カウンターで、カンボジアへの援助に協力してくださる岩下さんから頂いた重さ12キロの古着とバックパックを預けて、イミグレを通過し、免税店でタバコを買う。あとは、ボーディングタイムまですることがない。ボーディングまで時間がたっぷりあるので、せっかくだから航空会社のラウンジに行く。<br />ラウンジの入り口で、チケットをお姉ちゃんに手渡して中に入ると50~60人分ものソファーがあり床から天井まである大きな窓からは滑走路が丸見えの中々素敵な空間。ミニカフェがあってパンやおむすび、スナックなどの軽食とコーヒーにビール、ウィスキー、缶飲料などがあり、「セルフサービス」と書かれている。料金が書かれたものがなくて、「セルフサービス」って無料ってことか?<br />ワシの他には4人ほどのお客しかおらず、しかし、そのだれもががつがつとフリーミール、フリードリンクをいただいているようすではない。飲み食いがただとなるとバイキング料理のごとくダッシュする庶民とちがって、ファーストクラスやビジネスクラスの乗客は飲み食いが無料であっても「あっそう」と思うくらいかもしれない。<br />君たちと違って、わしは食って飲むよ。とりあえずアンパンとコーヒーをいただく。<br />ワシ等がエコノミー・チケットを買って搭乗口の前でボケっとボーディングタイムを待っているあいだに、ファーストクラスやビジネスクラスなどに乗る乗客は、いつもこのような場所で「ただで飲んで、食って」のはからいを受けていたんだと初めて知った。いつものワシなら生ビールでもゴクンといただいてしまうところだが、昨夜の焼酎が抜けておらんので胃のあたりがモヤモヤしておる。<br />ボーディング開始である。搭乗を待つ長い列がエコノミークラスのゲートへ続き、ワシはその横のファースト、ビジネスクラスのゲートからさっと入ることが出来るがエコノミー症候群のワシは腰が引けた。Tシャツを着てジャージのパンツと素足にサンダル履きという庶民的な舐めたファッションで、ファーストクラスと同じ搭乗口から機内に入り小さな尻ならば二つ並んでしまうほどの横幅のあるシートとにゆったりと座る。エコノミーシートなら目の前30センチに前席のせもたれがあるが、足を精一杯伸ばしても前の座席に足の指先がとどかない。そんで、座席の下からクッションのようなものが出てふくらはぎをリフトアップして寝心地もよさそう。後ろを振り返ってエコノミークラスと比べてみる。エコノミークラスとビジネスクラスはゴルフの打ちっぱなしの練習場とプロトーナメントを行うコースぐらいの差に見えてしまった。<br />そんで、飛び立つ前に、ウェルカムドリンクが振舞われるなんてたまげた。<br />食事も当然エコノミーシートよりゴージャスに違いないと期待。<br />カラカラとカートを押してきて、<br />「チキン オアー ビーフ」<br />と注文を聞き、さっとカートの棚からトレイを出すエコノミーと違って、事前に注文を取りに来てオーダーをメモした。ビビンバか魚料理を選択できる。大韓航空に乗ったんで、当然ビビンバを注文。<br />疲れてしまわないか心配になるほどの満点の笑顔をキープしたお姉ちゃんが機内食を運んできた。お姉ちゃんは料理の説明をしているけれど理解できない。出された料理はレストランと変わりないほどの立派な器に入っていて、暖かいものは暖かく、冷たいものは冷たく、コップはガラス。夕飯は、日本の温泉旅館のお膳のように一人分の料理がいっきにホイと出されるエコノミークラスと違って、前菜、メイン、デザートと順に席へ運ばれ、それにプチ感激する写真男であった。<br />いつものワシの機内食って、四角い皿に貼られた銀紙の蓋をペロペロっと剥がして2001年の911のテロ以降当たり前のように使われているプラスチックのフォークとナイフで食べるもので、缶ビールは触っただけで変形してしまう透明のアクリル製のコップに注いで飲むものだった。<br />こんなビジネスクラスのレポートを書くワシはなんて貧乏臭くて、ちっちゃいな~。生まれて成人するまで、家の近所のみきやという中華料理屋のカツ丼を食うことがワシの最高の贅沢であって、みきやのカツ丼以上に美味いものはワシには存在しなかったし、ホームセンターの一万円の自転車を「買おうか、買うまいか」未だに悩んで未だに買えないワシ。<br />「ビジネスクラスって、そんな人間が乗るんじゃないんだよ」<br />とセレブなおばさんに言われそう。このビジネスクラスの乗客でカオサンへ泊まるのはワシだけだろう。<br />快適なビジネスクラスは疲れを感じずバンコクに着いた。<br />イミグレをパスして預けた荷物を受け取り税関を通り過ぎようとしたら若い係員に止められ、<br />「何で、3つも荷物があるのだ?」<br />と聞いてきた。確かに、ワシは3つの荷物を持っている。背中に背負ったバックパックとカメラバックと12キロの古着の入ったボストンバックである。よそうもつかない質問にあっけにとられていると、係員は大きなボストンバックを指差して、<br />「これは、何が入っている?」<br />と聞く。<br />「子供服の古着だ」<br />「なんで、こんなにたくさんの古着を?」<br />「ワシが友達から預かったカンボジアの子どもたちのために贈る古着だ」<br />なんで、こんなことまで説明しなければならないのだとあきれてしまう。<br />空港を出てエアーポートバスでカオサンへ向かったのは夜の10時を過ぎていた。<br />車窓の風景を見ているとビルの一角にあった18番ラーメンは別のラーメン屋になっており、「スイングガールズ」という東北の女子高生がジャズバンドを始める内容の日本映画のバンコク版の看板があり、あちらこちらの屋台に人がたわむれ、バス停でスッポンポンの丸裸のおっさんがポコチンを揺ら揺らさせながらバスから降りてきた白人女性に向かっていった。(このポコチンおっさんには驚いて笑っちゃった)<br />夜のカオサンは、歌舞伎町のごとく人が多い。<br />カンボジアの孤児院で英語を指導していた鬼頭君が定宿にしているMerry Vという安宿に行く。シングルルームは満室でツインしか残っていなかった。他の宿を探す気力がないのでツインルームにチェックイン。<br />ビジネスクラスとカオサンの安宿ってビッグなギャップ。ベッドは清潔そうだが部屋が臭い。以前、誰かがこの部屋でお漏らしをしたのかウンコのような臭いがする。臭いがこもらないようにシーリングファンを全開にして寝るのであった。<br /><br /><br />

ワシのカンボジア紀行

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2013/05/05 - 2013/05/28

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ワシのカンボジア紀行さん

1.ビジネスクラスでタイへ

今回は、「乗りなれたエコノミークラス」ではなく、「乗りなれないビジネスクラス」である。当然、ワシのようなリーズナブル派旅行者が金を払ってビジネスクラスなんぞに乗るわけがない。貯めておいたマイレージのポイントでチケットを頂いたのである。
航空会社のカウンターでボーディングチケットといっしょにラウンジのチケットをいただいた。
「ほぉー、ビジネスクラスになるとラウンジのサービスがあるんだ」
と感心。だが、ラウンジって、静かな部屋のソファーで、
「ボーディングタイムまでゆっくりとおくつろぎください」
ってなもんでしょ。
カウンターで、カンボジアへの援助に協力してくださる岩下さんから頂いた重さ12キロの古着とバックパックを預けて、イミグレを通過し、免税店でタバコを買う。あとは、ボーディングタイムまですることがない。ボーディングまで時間がたっぷりあるので、せっかくだから航空会社のラウンジに行く。
ラウンジの入り口で、チケットをお姉ちゃんに手渡して中に入ると50~60人分ものソファーがあり床から天井まである大きな窓からは滑走路が丸見えの中々素敵な空間。ミニカフェがあってパンやおむすび、スナックなどの軽食とコーヒーにビール、ウィスキー、缶飲料などがあり、「セルフサービス」と書かれている。料金が書かれたものがなくて、「セルフサービス」って無料ってことか?
ワシの他には4人ほどのお客しかおらず、しかし、そのだれもががつがつとフリーミール、フリードリンクをいただいているようすではない。飲み食いがただとなるとバイキング料理のごとくダッシュする庶民とちがって、ファーストクラスやビジネスクラスの乗客は飲み食いが無料であっても「あっそう」と思うくらいかもしれない。
君たちと違って、わしは食って飲むよ。とりあえずアンパンとコーヒーをいただく。
ワシ等がエコノミー・チケットを買って搭乗口の前でボケっとボーディングタイムを待っているあいだに、ファーストクラスやビジネスクラスなどに乗る乗客は、いつもこのような場所で「ただで飲んで、食って」のはからいを受けていたんだと初めて知った。いつものワシなら生ビールでもゴクンといただいてしまうところだが、昨夜の焼酎が抜けておらんので胃のあたりがモヤモヤしておる。
ボーディング開始である。搭乗を待つ長い列がエコノミークラスのゲートへ続き、ワシはその横のファースト、ビジネスクラスのゲートからさっと入ることが出来るがエコノミー症候群のワシは腰が引けた。Tシャツを着てジャージのパンツと素足にサンダル履きという庶民的な舐めたファッションで、ファーストクラスと同じ搭乗口から機内に入り小さな尻ならば二つ並んでしまうほどの横幅のあるシートとにゆったりと座る。エコノミーシートなら目の前30センチに前席のせもたれがあるが、足を精一杯伸ばしても前の座席に足の指先がとどかない。そんで、座席の下からクッションのようなものが出てふくらはぎをリフトアップして寝心地もよさそう。後ろを振り返ってエコノミークラスと比べてみる。エコノミークラスとビジネスクラスはゴルフの打ちっぱなしの練習場とプロトーナメントを行うコースぐらいの差に見えてしまった。
そんで、飛び立つ前に、ウェルカムドリンクが振舞われるなんてたまげた。
食事も当然エコノミーシートよりゴージャスに違いないと期待。
カラカラとカートを押してきて、
「チキン オアー ビーフ」
と注文を聞き、さっとカートの棚からトレイを出すエコノミーと違って、事前に注文を取りに来てオーダーをメモした。ビビンバか魚料理を選択できる。大韓航空に乗ったんで、当然ビビンバを注文。
疲れてしまわないか心配になるほどの満点の笑顔をキープしたお姉ちゃんが機内食を運んできた。お姉ちゃんは料理の説明をしているけれど理解できない。出された料理はレストランと変わりないほどの立派な器に入っていて、暖かいものは暖かく、冷たいものは冷たく、コップはガラス。夕飯は、日本の温泉旅館のお膳のように一人分の料理がいっきにホイと出されるエコノミークラスと違って、前菜、メイン、デザートと順に席へ運ばれ、それにプチ感激する写真男であった。
いつものワシの機内食って、四角い皿に貼られた銀紙の蓋をペロペロっと剥がして2001年の911のテロ以降当たり前のように使われているプラスチックのフォークとナイフで食べるもので、缶ビールは触っただけで変形してしまう透明のアクリル製のコップに注いで飲むものだった。
こんなビジネスクラスのレポートを書くワシはなんて貧乏臭くて、ちっちゃいな~。生まれて成人するまで、家の近所のみきやという中華料理屋のカツ丼を食うことがワシの最高の贅沢であって、みきやのカツ丼以上に美味いものはワシには存在しなかったし、ホームセンターの一万円の自転車を「買おうか、買うまいか」未だに悩んで未だに買えないワシ。
「ビジネスクラスって、そんな人間が乗るんじゃないんだよ」
とセレブなおばさんに言われそう。このビジネスクラスの乗客でカオサンへ泊まるのはワシだけだろう。
快適なビジネスクラスは疲れを感じずバンコクに着いた。
イミグレをパスして預けた荷物を受け取り税関を通り過ぎようとしたら若い係員に止められ、
「何で、3つも荷物があるのだ?」
と聞いてきた。確かに、ワシは3つの荷物を持っている。背中に背負ったバックパックとカメラバックと12キロの古着の入ったボストンバックである。よそうもつかない質問にあっけにとられていると、係員は大きなボストンバックを指差して、
「これは、何が入っている?」
と聞く。
「子供服の古着だ」
「なんで、こんなにたくさんの古着を?」
「ワシが友達から預かったカンボジアの子どもたちのために贈る古着だ」
なんで、こんなことまで説明しなければならないのだとあきれてしまう。
空港を出てエアーポートバスでカオサンへ向かったのは夜の10時を過ぎていた。
車窓の風景を見ているとビルの一角にあった18番ラーメンは別のラーメン屋になっており、「スイングガールズ」という東北の女子高生がジャズバンドを始める内容の日本映画のバンコク版の看板があり、あちらこちらの屋台に人がたわむれ、バス停でスッポンポンの丸裸のおっさんがポコチンを揺ら揺らさせながらバスから降りてきた白人女性に向かっていった。(このポコチンおっさんには驚いて笑っちゃった)
夜のカオサンは、歌舞伎町のごとく人が多い。
カンボジアの孤児院で英語を指導していた鬼頭君が定宿にしているMerry Vという安宿に行く。シングルルームは満室でツインしか残っていなかった。他の宿を探す気力がないのでツインルームにチェックイン。
ビジネスクラスとカオサンの安宿ってビッグなギャップ。ベッドは清潔そうだが部屋が臭い。以前、誰かがこの部屋でお漏らしをしたのかウンコのような臭いがする。臭いがこもらないようにシーリングファンを全開にして寝るのであった。


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  • <br /><br />2.アランヤプラテート <br /><br />世界中から訪れたバックパッカーと外国人を相手に商売をするタイ人のどさくさなカオサンの環境に耐え切れずカンボジアとの国境の町、アランヤプラテートへ行くことにした。 <br /><br />宿の前でシートを倒して眠っているタクシードライバーの車の窓をたたいてドライバーを起こす。不機嫌そうなドライバーに行き先を告げ後席に乗り込み「料金メーターだよな?」と聞く。 <br /><br />「メーター・タクシー」と書かれた看板がタクシーのルーフの上に付いているのだが一応聞かないとどんな料金を請求されるかわからい。ドライバーは「メーターではない200バーツだ」としゃあしゃあと抜かす。ワシは、とっさに荷物をタクシーから引きずり下ろした。100バーツで釣銭がくる距離をぬけぬけとあつかましい。 <br /><br />別のタクシーを捕まえて土砂降りの中をモチット・バス・ステーションへ向かった。 <br /><br />バンコクの雨季ってワシは初めてある。強烈な豪雨が何時間も平気で降り続き、これでは外で何もできない。 <br /><br />モチットのバス・ステーションはショッピングモールのような大きな建物で中も外も一面にチケットの窓口があり、そんで、すげい数のバスがあった。ここは、タイのバスのハブステーションなのか?そうだ、以前、バスでプーケットから来たとき降りたのはこのバスステーションだったはずだが、すっかりつくり変えられている。 <br /><br />アランヤプラテート行きのバスはほぼ満席でバンコクを12時40分ごろ出発し、途中いくつかの町に立ち寄って五時半ごろアランヤプラテートに着いた。 <br /><br />大都会バンコクに比べ穏やかで人間もすれてなく、ワシにはバンコクよりはるかに居心地が良かった。 <br /><br />久しぶりに、タイ名物の三輪タクシーのトクトクに乗っちまった。タイのガイドブックがないので、バスから降りて適当な安宿に運んでもらった。相変わらず環境に悪い2サイクルエンジンの「パパンッパンッパン」てなレスポンスの良いサウンドを轟かせて、ちょっと乗っただけで50バーツだって。 <br /><br />トクトクに案内されたのはロッジ風のゲストハウスで、女将は40代のカンボジア人。 <br /><br />「カンボジアの内戦時代にタイの難民キャンプで今の旦那と知り合って結婚したんだ」 <br /><br />と勝手に解釈。 <br /><br />ここのオーナーたちはフレンドリーな家族で会話が楽しい。 <br /><br />「日本人もこのゲストハウスに来る?」 <br /><br />との問いに、 <br /><br />「毎日のように日本人が来るよ。日本人は誰も英語を話せない。でも、あなたは英語を話せるね」 <br /><br />英語を話せない日本人ばかりではないし、ワシの話すインチキ英語が話せる内にはいるのかよ。英語の仕込みは英会話の本を一冊丸暗記の荒業なんだから。 <br /><br /> 明日は、国境を越えてカンボジアである。 <br /><br />ただでさえピックアップに乗るのは腰が引けてしまうが、この雨季に国境からピックアップの荷台乗って移動する根性などないのでバスで行くことにする。 <br /><br />ここからカンボジアのシェムリアップまでのバス運賃とビザ代、スタンプ代などで50ドル。エアコンつきのバス代が500バーツで、スタンプ代が5ドル、ビザ代が25ドルだったかな。タイ・バーツが足りなかったのでドルで支払った。ちょっと損こいたかな? <br /><br />引っかかるのは、「スタンプ代5ドル」である。 <br /><br />行列ができて時間のかかるボーダー(国境)だが、安宿のレセプションのお姉ちゃんは、旅行代理店が手続きをしてくれるのでボーダーをパスするにはそれほど時間がかからないと言っていた。この5ドルのスタンプ代はイミグレ(入国審査官)への賄賂? <br /><br />5ドルをイミグレに支払うと行列に並ばず審査をしてくれとは聞いていたが。 <br /><br /> インターネットカフェで、ホットメールを見る。 <br /><br />昨日、ワシが書き込んだ工房翔天地のBBSにサイトのオーナーである田中ゆきひと氏が、 <br /><br />「どこかのカメラマンのように、死んでしまったあとでテレビに出てくれる奥さんもいないのだから…」 <br /><br />という返事にけっこうウケた。 <br /><br />夕食は、近所のちょっと良い感じのレストランで、豚肉入りのフライドライス。ちょと良い感じのレストランでもフライドライスが約120円だった。 <br /><br />日本にはないがあっても使わない唐辛子入りナンプラーが癖になるほど美味い。 <br /><br />バンコクに比べはるかに静かなこの町でフライドライスを肴にビールを楽しむワシであった。



    2.アランヤプラテート

    世界中から訪れたバックパッカーと外国人を相手に商売をするタイ人のどさくさなカオサンの環境に耐え切れずカンボジアとの国境の町、アランヤプラテートへ行くことにした。

    宿の前でシートを倒して眠っているタクシードライバーの車の窓をたたいてドライバーを起こす。不機嫌そうなドライバーに行き先を告げ後席に乗り込み「料金メーターだよな?」と聞く。

    「メーター・タクシー」と書かれた看板がタクシーのルーフの上に付いているのだが一応聞かないとどんな料金を請求されるかわからい。ドライバーは「メーターではない200バーツだ」としゃあしゃあと抜かす。ワシは、とっさに荷物をタクシーから引きずり下ろした。100バーツで釣銭がくる距離をぬけぬけとあつかましい。

    別のタクシーを捕まえて土砂降りの中をモチット・バス・ステーションへ向かった。

    バンコクの雨季ってワシは初めてある。強烈な豪雨が何時間も平気で降り続き、これでは外で何もできない。

    モチットのバス・ステーションはショッピングモールのような大きな建物で中も外も一面にチケットの窓口があり、そんで、すげい数のバスがあった。ここは、タイのバスのハブステーションなのか?そうだ、以前、バスでプーケットから来たとき降りたのはこのバスステーションだったはずだが、すっかりつくり変えられている。

    アランヤプラテート行きのバスはほぼ満席でバンコクを12時40分ごろ出発し、途中いくつかの町に立ち寄って五時半ごろアランヤプラテートに着いた。

    大都会バンコクに比べ穏やかで人間もすれてなく、ワシにはバンコクよりはるかに居心地が良かった。

    久しぶりに、タイ名物の三輪タクシーのトクトクに乗っちまった。タイのガイドブックがないので、バスから降りて適当な安宿に運んでもらった。相変わらず環境に悪い2サイクルエンジンの「パパンッパンッパン」てなレスポンスの良いサウンドを轟かせて、ちょっと乗っただけで50バーツだって。

    トクトクに案内されたのはロッジ風のゲストハウスで、女将は40代のカンボジア人。

    「カンボジアの内戦時代にタイの難民キャンプで今の旦那と知り合って結婚したんだ」

    と勝手に解釈。

    ここのオーナーたちはフレンドリーな家族で会話が楽しい。

    「日本人もこのゲストハウスに来る?」

    との問いに、

    「毎日のように日本人が来るよ。日本人は誰も英語を話せない。でも、あなたは英語を話せるね」

    英語を話せない日本人ばかりではないし、ワシの話すインチキ英語が話せる内にはいるのかよ。英語の仕込みは英会話の本を一冊丸暗記の荒業なんだから。

    明日は、国境を越えてカンボジアである。

    ただでさえピックアップに乗るのは腰が引けてしまうが、この雨季に国境からピックアップの荷台乗って移動する根性などないのでバスで行くことにする。

    ここからカンボジアのシェムリアップまでのバス運賃とビザ代、スタンプ代などで50ドル。エアコンつきのバス代が500バーツで、スタンプ代が5ドル、ビザ代が25ドルだったかな。タイ・バーツが足りなかったのでドルで支払った。ちょっと損こいたかな?

    引っかかるのは、「スタンプ代5ドル」である。

    行列ができて時間のかかるボーダー(国境)だが、安宿のレセプションのお姉ちゃんは、旅行代理店が手続きをしてくれるのでボーダーをパスするにはそれほど時間がかからないと言っていた。この5ドルのスタンプ代はイミグレ(入国審査官)への賄賂?

    5ドルをイミグレに支払うと行列に並ばず審査をしてくれとは聞いていたが。

    インターネットカフェで、ホットメールを見る。

    昨日、ワシが書き込んだ工房翔天地のBBSにサイトのオーナーである田中ゆきひと氏が、

    「どこかのカメラマンのように、死んでしまったあとでテレビに出てくれる奥さんもいないのだから…」

    という返事にけっこうウケた。

    夕食は、近所のちょっと良い感じのレストランで、豚肉入りのフライドライス。ちょと良い感じのレストランでもフライドライスが約120円だった。

    日本にはないがあっても使わない唐辛子入りナンプラーが癖になるほど美味い。

    バンコクに比べはるかに静かなこの町でフライドライスを肴にビールを楽しむワシであった。

  • <br /><br />3.越境 <br /><br />壁に張り付いているイモリだかヤモリが「チッチッチー」という泣き声をあげ、SFX映画のエイリアンのようなサウンドの蛙のけったいなさえずりが一晩中聞こえて、まだ暗いうのから力いっぱい一番鶏が元気はつらつ高鳴っていた。バンコクのような大都会の騒音とは違った、田舎には田舎の騒音があるんだ。 <br /><br />なんだか、脇腹がぐしゃぐしゃするのでトイレへ行く。昨夜、調子にのってフライドライスにつけて食べた唐辛子入りのナンプラーがワシの尻に火をつけてくれた。色にたとえると赤色。ワシの尻は安物なのでいつもの旅のお供「あかちゃんのお尻拭き」で仕上げ拭きをする。 <br /><br />昨夜、行ったレストランで朝食を済ませて宿へ戻ると店の中で女将と息子の大げんかが始まった。テニスに例えるとマッケンローとナブアチェロア(こんな名前のいかつい女子いなかった?)の激しいラリー。娘はこの激しいバトルを気にもしないでフロリダのリサ・ボンダのように微笑んでコンピュータゲームを楽しんでいる。 <br /><br /> 今日は、二度と通りたくなかったタイのアランヤプラテートとカンボジアのシェムリアップ間の国道6号線「ポイペト・ハイウェイ」(勝手にワシが付けた名前)でシェムリアップへ行く。以前、この道を通ったときは、道路は荒れ果ててバスの座席に座っているだけでへとへとになった。いくつかの橋は損傷が激しくて車は通れないためバスは土手を下って川底を迂回するようなバス・ドライバーにとっては毎日がキャムルトロヒィー的アクロバット・ドライブで乗客にとっては絶叫マシーンであった。 <br /><br /> 11時にボーダー(国境)へ行くと言っていたがロビーでいつまで待っても車が迎えにこないけれど、ゲストハウスの人間は気にもしていないし説明もしない。まあ、いつものこと。ワシは「こんなもんだよ、ここらの国って」と思っている。 <br /><br />11時40分、ようやくハイエースに乗せられて出発。 <br /><br />国境近くで車を降りて、ワシは4年間アフリカを一人で旅したという武勇伝を持つギリシャ人男性とゲストハウスの女将にイミグレへ案内される。タイのイミグレはカンボジアへ出国する人間の長蛇の列であるが女将はワシ等を引き連れて行列の脇を通り抜けてクローズとかかれた窓口に案内した。そして、あっけなくペタペタとスタンプを押してもらって出国を済ませることができたのである。まじめに行列に並んでいる人間に対して気まずかったが、これが、5ドルのスタンプ代の威力であったようである。<br /> タイとカンボジアの国境の橋を徒歩で渡る。橋の右側には以前タイとカンボジアを結んでいた朽ち果てた鉄道の鉄橋が見え、この辺りにいた物乞いがいなくなっていた。 <br /><br />何もなく寂れていたポイペトに大きなカジノがいくつも建設されてリトル・ラスベガス状態。 <br /><br />ゲストハウスの女将からリレーされて10代のカンボジア人の少年がカンボジアへと案内する。少年は蟹股開きでサンダルのかかとをときどき地面にこすりながら歩く、時代劇で最後には必ず殺されるヤクザの親分のような歩き方である。岩下さんから預かった古着の入った12キロのバックのショルダーベルトがワシの肩を地面へ引きつける重みに耐えて進む。ワシの体から湧き出る汗が止まらない。蟹股少年が、古着の入ったバックを持ってあげると言う。ワシは、「いくら?」と聞くと、「20バーツ」だって。当然、ただでは運んではくれんな。 <br /><br />このように、リードされて越境したのは初めてで、楽チンにカンボジアへ入国できた。 <br /><br />見事に簡単にカンボジアへ入国したが、他のグループを待つのだといって、バスの営業所のような家でいつまでも待たされる。しばらく待つとバイクのサイドカー・タクシーに乗せられる。それは、フィリピンのマクタン島にあるようなかっこのよいカバーが付いて素敵なペイントがされたおしゃれなものではなくて、スズキのロゴをパクったようなメーカーのステッカーがタンクに貼られた自動二輪の横にリアカーを半分に切ってバイクに溶接したようなフレームが抜き出しの貧相で荒業なサイドカーであった。さて、これでバスの駐車場へ行って乗車かと思ったら、また別のバスの営業所のようなところで下ろされて、「ここで待って」だって。いいようにたらい回しにされるワシとギリシャ男。 <br /><br /> ずいぶん待たされて、バスがポイペトを出発したのは3時であった。 <br /><br />到着したバスにはヨーロピアンだけが乗せられて、日本人は次のバスだと言われる。ワシが、次のバスは何時だと聞くと、一時間後だと言われ、客を客とも思っていないのか態度が悪く平気で客をコントロールしてあつかましい。恥じらいをリセットされた大阪のオバさんだったら怒り狂って関西弁を連発しているだろうな。 <br /><br />更に、ここで一時間も待つのは勘弁なので頼みこんでヨーロピアンの乗ったバスに乗せてもらった。タイムテーブルなんて皆無に等しく、じらすだけじらして満席になったら出発。ワシの横のシートに座っているのは、ワシの買ったエアコン付バスのチケットより100バーツ安いエアコン無しのバスチケットのギリシャ男。 <br /><br />ワシ等の走る道は、国境の朽ち果てた鉄道の橋から続く仏の植民地時代に建設された列車の軌道があったようで廃線後に線路を剥がして道路にしたものだと思う。そんなもんで、道路は一直線で鉄橋は幅が狭い。しかし、道は一直線に西を向いているが、バスは一直線には走れなかった。 <br /><br />町をちょっと出ると道は大きな穴だらけでバスは穴を避けスキーのスラローム競技のように弧をえがいて走る。初心者がプルークボーゲンでスラロームしているような感じで、速度は20キロ以下ぐらいに落ちるときがある。避けきれない穴にタイヤが落ちるたびに車体は傾くので、常にワシは窓の縁にしっかりとしがみついている。アスファルトの残骸があるので舗装されたと思われるが、大型バスが走ればタイからの生活用品を満載にした大型トレーまで頻繁に走るのだからわけなく舗装は破壊され元のワイルドな道に戻ってしまう。こんな主要な道路であるがカンボジア政府には整備する資金がない。 <br /><br />豪雨の後でくぼみには大きな水溜りができてその雨水をタイヤが撒き散らし赤茶けた土の表面はドロドロ。 <br /><br />「ポイペトへの道は以前より整備され時間が短縮…」 <br /><br />なんていう誰かのネットのBBSへの書き込みを読んで希望を持ったが失望した。 <br /><br />エアコン付バスだといってもガスが抜けきって除湿機にもならない代物を多いが、この韓国の中古マイクロバスは寒さを感じるほどエアコンだけは快適であった。 <br /><br /> 「中国では、毎年、炭鉱ですごい数の工夫が事故によって亡くなっているが、中国政府は正確な被害状況を隠して…、中国の政治家は腐敗している…」 <br /><br />などとバスの揺れに耐えているワシに横のギリシャ男はシリアスな話をしだす。 <br /><br />「バス停はどこだ?どの料理がお勧めか?何時に出発だ?」といった類の会話から話題が外れると頭がフリーズを起こしそうである。だいたい「腐敗」なんて意味の英語単語など聞くのは今回がたった2回目で聞いたとたんに忘れてしまった。なんとか英語で応答いようとしているとシングリッシュのようにランダムに単語を貼り付けたような言葉になってしまい、マージャンのハイパイのようにばらばらである。ハイパイはばらばらでも「アンコがあるな」「チンイツ攻めだな」とめぼしがつくように、このギリシャ男はワシの言うことは一応に分かってくれたようだ。 <br /><br />沿線はドリフターズのコントにでてきそうな蹴飛ばせば壊れそうな民家ばかりであったがずいぶん新築の立派な家が建ってきている。 <br /><br /> 午後6時、バス会社と癒着しているのかバス会社が経営しているボッタクリのドライブインで食事のための1時間の停車。 <br /><br />シェムリアップに着くのは10時だという。 <br /><br />ぼったくりレストランを出発すると日が暮れて沿線の家に灯った小さなローソクの明かりが見える。小さなローソクのほのかな明かりを囲んで家族が向き合い家族団らん的会話を楽しみ明日も確かであれと願っているのだろう。 <br /><br />そんな家族のささやかな幸せを感じてしまうワシ。 <br /><br />電気の入っている家も何軒もある。以前は、電力事情が悪く高い金を払ってエアコン付の部屋に泊まっても真夜中に突然停電になりエアコンは停止して朝まで汗をかき続け、停電が復旧したのは夜が明けてからであった。ワシは夜中にローソクの灯りでウンコをしたよ。 <br /><br />日本の建設現場でパクられたような日本製の大型発電機を予備電力としている会社もあるぐらい電力の不安定供給に悩まされたんだろう。 <br /><br />電気は入っているがテレビのある家はごく少数であるのかテレビの明かりはあまり目につかなかった。 <br /><br />いたるところで、スゲイ大きな蛍がクリスマスツリーに巻きつけるムギ球ぐらいの光を放って飛んでいる。英語で蛍はFirefly=火のハエであるが、そんなかわいいサイズではなく、Firecockroach=火のゴキブリだ!(Fireflyのflyはハエではなくて「飛ぶ」が正解か?)とっ捕まえたら虫キングに参加できそうなびっくりするサイズだろう。 <br /><br />真っ暗な田んぼの中で懐中電灯を照らして何を捕まえている人が何人もいた。何をしているのか思ったらカエル捕りだった。もちろんカエルをとっ捕まえて食べるため。 <br /><br />このように暗闇の中でも何か見えるものがあれば退屈しのぎになるのだが、真っ暗闇の中ではバスの振動でしかバスが動いている感触がない。 <br /><br /> 疲れ果ててシェムリアップにたどり着いたのは10時を回っていた。何も失敗をしていないのに罰ゲームのような一日であった。 <br /><br />それでも途中少しはまともな舗装道路があり、ワシがファースト・トライしたときよりは、まともになっていた。 <br /><br />だが、もう一回言うがポイペト・ハイウェイは、もう二度と通りたくない。 <br /><br />



    3.越境

    壁に張り付いているイモリだかヤモリが「チッチッチー」という泣き声をあげ、SFX映画のエイリアンのようなサウンドの蛙のけったいなさえずりが一晩中聞こえて、まだ暗いうのから力いっぱい一番鶏が元気はつらつ高鳴っていた。バンコクのような大都会の騒音とは違った、田舎には田舎の騒音があるんだ。

    なんだか、脇腹がぐしゃぐしゃするのでトイレへ行く。昨夜、調子にのってフライドライスにつけて食べた唐辛子入りのナンプラーがワシの尻に火をつけてくれた。色にたとえると赤色。ワシの尻は安物なのでいつもの旅のお供「あかちゃんのお尻拭き」で仕上げ拭きをする。

    昨夜、行ったレストランで朝食を済ませて宿へ戻ると店の中で女将と息子の大げんかが始まった。テニスに例えるとマッケンローとナブアチェロア(こんな名前のいかつい女子いなかった?)の激しいラリー。娘はこの激しいバトルを気にもしないでフロリダのリサ・ボンダのように微笑んでコンピュータゲームを楽しんでいる。

    今日は、二度と通りたくなかったタイのアランヤプラテートとカンボジアのシェムリアップ間の国道6号線「ポイペト・ハイウェイ」(勝手にワシが付けた名前)でシェムリアップへ行く。以前、この道を通ったときは、道路は荒れ果ててバスの座席に座っているだけでへとへとになった。いくつかの橋は損傷が激しくて車は通れないためバスは土手を下って川底を迂回するようなバス・ドライバーにとっては毎日がキャムルトロヒィー的アクロバット・ドライブで乗客にとっては絶叫マシーンであった。

    11時にボーダー(国境)へ行くと言っていたがロビーでいつまで待っても車が迎えにこないけれど、ゲストハウスの人間は気にもしていないし説明もしない。まあ、いつものこと。ワシは「こんなもんだよ、ここらの国って」と思っている。

    11時40分、ようやくハイエースに乗せられて出発。

    国境近くで車を降りて、ワシは4年間アフリカを一人で旅したという武勇伝を持つギリシャ人男性とゲストハウスの女将にイミグレへ案内される。タイのイミグレはカンボジアへ出国する人間の長蛇の列であるが女将はワシ等を引き連れて行列の脇を通り抜けてクローズとかかれた窓口に案内した。そして、あっけなくペタペタとスタンプを押してもらって出国を済ませることができたのである。まじめに行列に並んでいる人間に対して気まずかったが、これが、5ドルのスタンプ代の威力であったようである。
    タイとカンボジアの国境の橋を徒歩で渡る。橋の右側には以前タイとカンボジアを結んでいた朽ち果てた鉄道の鉄橋が見え、この辺りにいた物乞いがいなくなっていた。

    何もなく寂れていたポイペトに大きなカジノがいくつも建設されてリトル・ラスベガス状態。

    ゲストハウスの女将からリレーされて10代のカンボジア人の少年がカンボジアへと案内する。少年は蟹股開きでサンダルのかかとをときどき地面にこすりながら歩く、時代劇で最後には必ず殺されるヤクザの親分のような歩き方である。岩下さんから預かった古着の入った12キロのバックのショルダーベルトがワシの肩を地面へ引きつける重みに耐えて進む。ワシの体から湧き出る汗が止まらない。蟹股少年が、古着の入ったバックを持ってあげると言う。ワシは、「いくら?」と聞くと、「20バーツ」だって。当然、ただでは運んではくれんな。

    このように、リードされて越境したのは初めてで、楽チンにカンボジアへ入国できた。

    見事に簡単にカンボジアへ入国したが、他のグループを待つのだといって、バスの営業所のような家でいつまでも待たされる。しばらく待つとバイクのサイドカー・タクシーに乗せられる。それは、フィリピンのマクタン島にあるようなかっこのよいカバーが付いて素敵なペイントがされたおしゃれなものではなくて、スズキのロゴをパクったようなメーカーのステッカーがタンクに貼られた自動二輪の横にリアカーを半分に切ってバイクに溶接したようなフレームが抜き出しの貧相で荒業なサイドカーであった。さて、これでバスの駐車場へ行って乗車かと思ったら、また別のバスの営業所のようなところで下ろされて、「ここで待って」だって。いいようにたらい回しにされるワシとギリシャ男。

    ずいぶん待たされて、バスがポイペトを出発したのは3時であった。

    到着したバスにはヨーロピアンだけが乗せられて、日本人は次のバスだと言われる。ワシが、次のバスは何時だと聞くと、一時間後だと言われ、客を客とも思っていないのか態度が悪く平気で客をコントロールしてあつかましい。恥じらいをリセットされた大阪のオバさんだったら怒り狂って関西弁を連発しているだろうな。

    更に、ここで一時間も待つのは勘弁なので頼みこんでヨーロピアンの乗ったバスに乗せてもらった。タイムテーブルなんて皆無に等しく、じらすだけじらして満席になったら出発。ワシの横のシートに座っているのは、ワシの買ったエアコン付バスのチケットより100バーツ安いエアコン無しのバスチケットのギリシャ男。

    ワシ等の走る道は、国境の朽ち果てた鉄道の橋から続く仏の植民地時代に建設された列車の軌道があったようで廃線後に線路を剥がして道路にしたものだと思う。そんなもんで、道路は一直線で鉄橋は幅が狭い。しかし、道は一直線に西を向いているが、バスは一直線には走れなかった。

    町をちょっと出ると道は大きな穴だらけでバスは穴を避けスキーのスラローム競技のように弧をえがいて走る。初心者がプルークボーゲンでスラロームしているような感じで、速度は20キロ以下ぐらいに落ちるときがある。避けきれない穴にタイヤが落ちるたびに車体は傾くので、常にワシは窓の縁にしっかりとしがみついている。アスファルトの残骸があるので舗装されたと思われるが、大型バスが走ればタイからの生活用品を満載にした大型トレーまで頻繁に走るのだからわけなく舗装は破壊され元のワイルドな道に戻ってしまう。こんな主要な道路であるがカンボジア政府には整備する資金がない。

    豪雨の後でくぼみには大きな水溜りができてその雨水をタイヤが撒き散らし赤茶けた土の表面はドロドロ。

    「ポイペトへの道は以前より整備され時間が短縮…」

    なんていう誰かのネットのBBSへの書き込みを読んで希望を持ったが失望した。

    エアコン付バスだといってもガスが抜けきって除湿機にもならない代物を多いが、この韓国の中古マイクロバスは寒さを感じるほどエアコンだけは快適であった。

    「中国では、毎年、炭鉱ですごい数の工夫が事故によって亡くなっているが、中国政府は正確な被害状況を隠して…、中国の政治家は腐敗している…」

    などとバスの揺れに耐えているワシに横のギリシャ男はシリアスな話をしだす。

    「バス停はどこだ?どの料理がお勧めか?何時に出発だ?」といった類の会話から話題が外れると頭がフリーズを起こしそうである。だいたい「腐敗」なんて意味の英語単語など聞くのは今回がたった2回目で聞いたとたんに忘れてしまった。なんとか英語で応答いようとしているとシングリッシュのようにランダムに単語を貼り付けたような言葉になってしまい、マージャンのハイパイのようにばらばらである。ハイパイはばらばらでも「アンコがあるな」「チンイツ攻めだな」とめぼしがつくように、このギリシャ男はワシの言うことは一応に分かってくれたようだ。

    沿線はドリフターズのコントにでてきそうな蹴飛ばせば壊れそうな民家ばかりであったがずいぶん新築の立派な家が建ってきている。

    午後6時、バス会社と癒着しているのかバス会社が経営しているボッタクリのドライブインで食事のための1時間の停車。

    シェムリアップに着くのは10時だという。

    ぼったくりレストランを出発すると日が暮れて沿線の家に灯った小さなローソクの明かりが見える。小さなローソクのほのかな明かりを囲んで家族が向き合い家族団らん的会話を楽しみ明日も確かであれと願っているのだろう。

    そんな家族のささやかな幸せを感じてしまうワシ。

    電気の入っている家も何軒もある。以前は、電力事情が悪く高い金を払ってエアコン付の部屋に泊まっても真夜中に突然停電になりエアコンは停止して朝まで汗をかき続け、停電が復旧したのは夜が明けてからであった。ワシは夜中にローソクの灯りでウンコをしたよ。

    日本の建設現場でパクられたような日本製の大型発電機を予備電力としている会社もあるぐらい電力の不安定供給に悩まされたんだろう。

    電気は入っているがテレビのある家はごく少数であるのかテレビの明かりはあまり目につかなかった。

    いたるところで、スゲイ大きな蛍がクリスマスツリーに巻きつけるムギ球ぐらいの光を放って飛んでいる。英語で蛍はFirefly=火のハエであるが、そんなかわいいサイズではなく、Firecockroach=火のゴキブリだ!(Fireflyのflyはハエではなくて「飛ぶ」が正解か?)とっ捕まえたら虫キングに参加できそうなびっくりするサイズだろう。

    真っ暗な田んぼの中で懐中電灯を照らして何を捕まえている人が何人もいた。何をしているのか思ったらカエル捕りだった。もちろんカエルをとっ捕まえて食べるため。

    このように暗闇の中でも何か見えるものがあれば退屈しのぎになるのだが、真っ暗闇の中ではバスの振動でしかバスが動いている感触がない。

    疲れ果ててシェムリアップにたどり着いたのは10時を回っていた。何も失敗をしていないのに罰ゲームのような一日であった。

    それでも途中少しはまともな舗装道路があり、ワシがファースト・トライしたときよりは、まともになっていた。

    だが、もう一回言うがポイペト・ハイウェイは、もう二度と通りたくない。

  • <br /><br />4.再会 <br /><br />この部屋はエアコン無しの天井扇付きでセミダブル・ベッドがひとつ置かれ水シャワーとトイレが室内にある部屋で一泊3ドル。 <br /><br />「寝ているときの蚊に刺されない予防策は天井のファンで体に風を送り続けて蚊を寄せ付けなくする」 <br /><br />そんな自分の作ったマニュアルを実践したつもりだったが足の甲が刺されてやたらとかゆくてたまらない。足のかかとから下あたりはファンの風力が微風になって蚊がかたることができたのが原因のようだった。 <br /><br />むくむくっと起き上がってゲストハウスのレストランで目玉焼きとパンとコーヒーを注文する。まもなく運ばれてきたフランスパンに一瞬「?マーク」が付いたが、ここはカンボジアなのだと改めて実感した。本場、元仏領インドシナのフランスパンは実に美味い。 <br /><br />だが、昨日のポイペト・ハイウェイの疲労が残ってぱっちりしない。 <br /><br />カンボジアにはダンシング・ロードとマッサージ・ロードとスリーピイング・とロードの3種類の道があるって聞かされたことを思い出した。ダンシング・ロードは、乗客が踊りだすほどの悪路で、マッサージ・ロードはマッサージを受けているような振動を感じ、スリーピング・ロードは心地よく眠れるぐらい整備された道のことのようだ。もちろんポイペト・ハイウェイは、舞踊路(ぶよう)であろう。 <br /><br />先月は雨が多くポイペト・ハイウェイは更に荒れバスがシェムリアップに着くのが朝の4時だったこともあったと友達のカンボジア人は言っていた。サバンナの中の泥道っていう感じでルアンダとかコンゴを舞台にする映画のロケをカンボジアでしても違和感がないのでは。乗客よりも毎日この道でキャメルトロヒィーをするバスドライバーははるかに大変でとってもタフガイだよ。 <br /><br />未だに路面状況は悪いが、以前と違い大型車が頻繁に往来する大動脈的であるポイペト・ハイウェイを政府が整備しないのは、旅客機を使ってカンボジアへ来るが客が減少してしまうからだと地元の人はいう。ワシは、そんな馬鹿な?と疑ってしまう。観光客の移動だけでなくタイから大量の物資を大型トラックで運ぶ動脈でもあるこの道を、わざわざそれだけの理由で整備しないとは、整備することによって国益が減少するということなのか? <br /><br />以前は、カンボジアからタイへ行くと安心したが、今はタイよりカンボジアの方が安心できる。カンボジア人は穏やかでフレンドリーで人当たりが良いし、信用できる安宿の人間が多い。ワシの友達の原山なんてバンコクへ行く度に物が盗まれていたっけ。やつ等は荷物に付けた鍵をピッキングして中身をパクるからな。 <br /><br />友達である安宿のバイクタクシー・ドライバーに会おうと人通りの激しいシェムリアップ川に架かる橋のたもとで待ち伏せをする。頻繁に流しのバイクタクシーがうるさいほど声をかけてくるが、何人もいるワシの友達はひとりも来ない。もう、しびれを切らして国道6号線を東へ3キロ行った場所にある彼らが働いているゲストハウスへ向かって歩き始めた。タイのような曇空と違って、ありがたくないほどしっかりと太陽が照り付けている。フライパンのように熱せられたアスファルトの上を歩く椎間板ヘルニアで家に閉じこもっていた色白のワシ。歩いているうちに知り合いが声をかけてくれてバイクに乗せてくれるだろうと思った期待が叶わないままゲストハウスまで歩ききってしまった。 <br /><br />予告もなく現れたワシに友は歓迎してくれ、ひとりの男が「ワシを見かけたが声をかけなかった」だなんて、なんともこれもありがたくない話をしてくれた。 <br /><br />ヘンテコリンな日本語ができるソフィアっていう男がいるんだが、今年の7月に彼はバイクで単独事故を起こしてしばらく入院していた。顔面を強打し顔が変形したと聞いていたので会うのが恐ろしかった。 <br /><br />彼は、突然訪れたワシを見るなり、 <br /><br />「どうしたの、来るってメールがなかったでしょう?」 <br /><br />と驚いた様子。彼の顔には上唇などに何箇所も縫いあとが残っており、事故直後は顔がはれ上がり恐ろしい形相に仕上がったのでみんなの笑いものだったようだ。 <br /><br />「ソフィアが、凄いダメージを受けたのに入院先の病院へ見舞いに行ったのは俺の他3人だけだよ」 <br /><br />って、別の男が言う。他はなんとも薄情なやつらなのだろう。 <br /><br />ソフィアは、水溜りの上をバイクで通り過ぎようとしたらそこは水溜りではなくて深い穴に落ちちゃった不運なヤツ。500ドルのバイクは20ドルの修理代で済んだが、治療費は200ドルだったというから、バイクを廃車にしてしまうより280ドル儲かったな。(ワシはどんな計算をしているのだ) <br /><br />彼は、ただでさえ日本語がヘンテコリンなのに、事故の後遺症で更に狂った日本を話ようになったしまった。 <br /><br />ヤツが事故を起こしたときにたくさんの野次馬に囲まれ、誰かが携帯電話で呼んでくれた救急車に運ばれて、バイクいは警察官が保管してくれた。その後、警察官から20ドルの保管料を請求された。 <br /><br />「ワシがお前のバイクを預かったから盗まれずに済んだんだ」 <br /><br />といったぐあいだろう。私服をこやした恩着せがましい警察官である。 <br /><br />事故を起こしたのが夕方の明るいころだからよかったが、ひと気のない夜だったらバイクを失っていたな。 <br /><br />



    4.再会

    この部屋はエアコン無しの天井扇付きでセミダブル・ベッドがひとつ置かれ水シャワーとトイレが室内にある部屋で一泊3ドル。

    「寝ているときの蚊に刺されない予防策は天井のファンで体に風を送り続けて蚊を寄せ付けなくする」

    そんな自分の作ったマニュアルを実践したつもりだったが足の甲が刺されてやたらとかゆくてたまらない。足のかかとから下あたりはファンの風力が微風になって蚊がかたることができたのが原因のようだった。

    むくむくっと起き上がってゲストハウスのレストランで目玉焼きとパンとコーヒーを注文する。まもなく運ばれてきたフランスパンに一瞬「?マーク」が付いたが、ここはカンボジアなのだと改めて実感した。本場、元仏領インドシナのフランスパンは実に美味い。

    だが、昨日のポイペト・ハイウェイの疲労が残ってぱっちりしない。

    カンボジアにはダンシング・ロードとマッサージ・ロードとスリーピイング・とロードの3種類の道があるって聞かされたことを思い出した。ダンシング・ロードは、乗客が踊りだすほどの悪路で、マッサージ・ロードはマッサージを受けているような振動を感じ、スリーピング・ロードは心地よく眠れるぐらい整備された道のことのようだ。もちろんポイペト・ハイウェイは、舞踊路(ぶよう)であろう。

    先月は雨が多くポイペト・ハイウェイは更に荒れバスがシェムリアップに着くのが朝の4時だったこともあったと友達のカンボジア人は言っていた。サバンナの中の泥道っていう感じでルアンダとかコンゴを舞台にする映画のロケをカンボジアでしても違和感がないのでは。乗客よりも毎日この道でキャメルトロヒィーをするバスドライバーははるかに大変でとってもタフガイだよ。

    未だに路面状況は悪いが、以前と違い大型車が頻繁に往来する大動脈的であるポイペト・ハイウェイを政府が整備しないのは、旅客機を使ってカンボジアへ来るが客が減少してしまうからだと地元の人はいう。ワシは、そんな馬鹿な?と疑ってしまう。観光客の移動だけでなくタイから大量の物資を大型トラックで運ぶ動脈でもあるこの道を、わざわざそれだけの理由で整備しないとは、整備することによって国益が減少するということなのか?

    以前は、カンボジアからタイへ行くと安心したが、今はタイよりカンボジアの方が安心できる。カンボジア人は穏やかでフレンドリーで人当たりが良いし、信用できる安宿の人間が多い。ワシの友達の原山なんてバンコクへ行く度に物が盗まれていたっけ。やつ等は荷物に付けた鍵をピッキングして中身をパクるからな。

    友達である安宿のバイクタクシー・ドライバーに会おうと人通りの激しいシェムリアップ川に架かる橋のたもとで待ち伏せをする。頻繁に流しのバイクタクシーがうるさいほど声をかけてくるが、何人もいるワシの友達はひとりも来ない。もう、しびれを切らして国道6号線を東へ3キロ行った場所にある彼らが働いているゲストハウスへ向かって歩き始めた。タイのような曇空と違って、ありがたくないほどしっかりと太陽が照り付けている。フライパンのように熱せられたアスファルトの上を歩く椎間板ヘルニアで家に閉じこもっていた色白のワシ。歩いているうちに知り合いが声をかけてくれてバイクに乗せてくれるだろうと思った期待が叶わないままゲストハウスまで歩ききってしまった。

    予告もなく現れたワシに友は歓迎してくれ、ひとりの男が「ワシを見かけたが声をかけなかった」だなんて、なんともこれもありがたくない話をしてくれた。

    ヘンテコリンな日本語ができるソフィアっていう男がいるんだが、今年の7月に彼はバイクで単独事故を起こしてしばらく入院していた。顔面を強打し顔が変形したと聞いていたので会うのが恐ろしかった。

    彼は、突然訪れたワシを見るなり、

    「どうしたの、来るってメールがなかったでしょう?」

    と驚いた様子。彼の顔には上唇などに何箇所も縫いあとが残っており、事故直後は顔がはれ上がり恐ろしい形相に仕上がったのでみんなの笑いものだったようだ。

    「ソフィアが、凄いダメージを受けたのに入院先の病院へ見舞いに行ったのは俺の他3人だけだよ」

    って、別の男が言う。他はなんとも薄情なやつらなのだろう。

    ソフィアは、水溜りの上をバイクで通り過ぎようとしたらそこは水溜りではなくて深い穴に落ちちゃった不運なヤツ。500ドルのバイクは20ドルの修理代で済んだが、治療費は200ドルだったというから、バイクを廃車にしてしまうより280ドル儲かったな。(ワシはどんな計算をしているのだ)

    彼は、ただでさえ日本語がヘンテコリンなのに、事故の後遺症で更に狂った日本を話ようになったしまった。

    ヤツが事故を起こしたときにたくさんの野次馬に囲まれ、誰かが携帯電話で呼んでくれた救急車に運ばれて、バイクいは警察官が保管してくれた。その後、警察官から20ドルの保管料を請求された。

    「ワシがお前のバイクを預かったから盗まれずに済んだんだ」

    といったぐあいだろう。私服をこやした恩着せがましい警察官である。

    事故を起こしたのが夕方の明るいころだからよかったが、ひと気のない夜だったらバイクを失っていたな。

  • <br /><br />5.プラダック村へ<br /><br />近年、ワシの脳内にはメラトニンが発生しなくなってしまったのか、疲れていても眠りづらいのである。今回、旅に出たら更に眠れなくなってしまいシェムリアップの薬局で10錠2ドルの睡眠薬を買い、昨夜、一服飲んだ。効果は覿面(てきめん)で、たちまち眠りの世界へいざなってくれた。暑くてもエアコンのない部屋で眠るときなどにも大変便利な代物。<br /><br />遥々と母国から大きなバックに詰め込んで運んできたシャツ、ズボン、スカートなどをプラダック村の子供たちへ届ける。これらの古着は、ワシのスキーの先輩である岩下さんから頂いたもので、彼には2人の娘さんがおり彼女たちの不要になった衣類である。<br /><br />衣類の重量は12キロで数は59点にもおよび戸板の上に広げれば寅さんのように商売ができそう。<br /><br />プラダック村へ59点の衣服は多すぎるので、半分はクロサートメイ(孤児院)へ届けることにする。<br /><br />朝8時、ソフィアにバイクでプラダックへ連れてってもらう。<br /><br />道路には雨季の豪雨で流れ出した泥が溜まってバイクはぬかるみのない場所を選んではしるがバイクのタイヤが滑りそう。<br /><br />事故を起こして大ケガをしていらい、タンデムでバイクに乗るときもこの男はフルフェイスのヘルメットをかぶっているんだ。泥がかぶってぬるぬるとした道で転倒したときに頭抜き出しの乗客であるワシが怪我をして事故原因のドライバーが無傷でケロっとしているという構図になるのは腑に落ちない。<br /><br />プラダック村のサウリーの家に着く。<br /><br />家族が、笑顔で迎えてくれて近所の顔なじみも集まってきた。英語が話せないサウリーの両親はワシの顔を見てニアニアとするだけだが、その笑顔は「また、友が来てくれた」と語っている。<br /><br />親父は、高床式住居の床下から縁台を引っ張り出して「さーおかけ」というしぐさをする。縁台に腰掛けて長女のパリーと会話をする。しばらくぶりに会ったパリーの英語は上達していた。バスから降りた観光客にみやげ物を売っていたサウリーが帰って英語で挨拶を交わす。<br /><br />まずは、前回、撮影した村人の写真を縁台の上に広げて、自分と家族の写真があったら持って行くようにパリーが村人に通訳してくれた。自分や家族、友達の写真に大喜びする人たち.。初めて自分の写真を見た子供も多かっただろう。カンボジアでもベトナムでもそうだが、観光地にFUJI COLORなどとバックプリントされたフィッシングベストを着て日本製の古い一眼レフ・カメラを持った地元のカメラマンがいる。ほとんどの人間はカメラなんて持っていないので、彼らに頼んで記念写真を撮ってもらうのだ。<br /><br />この国ではまだ写真は高価な代物なんだろうな。<br /><br />写真がさばけたので、岩下さんから預かった衣類の配布にはいる。<br /><br />「これは、私の友達からのプレゼントだよ」<br /><br />といいファスナーを開けた大きなバックの中身に注目する村人たち。<br /><br />衣類を縁台の上に広げて「さあ、そうぞ」では千手観音のように手が伸びて騒動になってしまう。衣類はバックに入れるときかさばらないように細長くたたんでそれを一枚一枚巻き寿司のようにきつく巻いてほどけないようにゴム輪で留めてある。<br /><br />ワシは、バックから一枚ずつ取り出し広げた衣服のサイズに合った子供に手渡した。子どもたちどころか近所のオバさんたちも眼光鋭く目が爛爛としており、「このスカートは、その子ではなくて、こっちの女の子だよ」と仕切りだす者までいる。<br /><br />思いがけない頂き物に、大ご機嫌の村人に、ワシは水を刺すように言った、「This is only one dollar」(1ドルください)で大ウケしていた。<br /><br />普段、古着しか買うことができない貧困な家庭が多くみんな喜んでくれた。<br /><br />中でもはしゃぐように喜んでいるオバさんがいた。赤を基調としたチェックの鮮やかなワンピースがあったのだが、それがどうしたのかそのオバさんへ流失している。オバさんは、若い娘が好みそうなそのワンピースにさっそく着替えて大はしゃぎ。日本で、オバさんがこのような派手なものを着ていたら大笑いされるところだ。ワシは、「スレーサアンッ」(若くてかわいい女の子に言うことば)というとオバさんはおっさんのように「がっははー」と笑いころげていた。<br /><br />毎回、ワシは日本で不要になった衣類やバック、文具などをプラダック村や孤児院へ届けている。それは、ワシ個人のものだけでなく、中野実業高校のボランティアグループや今回のように岩下さんから頂いたものもある。ワシは支援活動を行っているという意識はなく、ただ使えるものを処分するのが惜しいだけ。ちょっとがんばって大きなバックひとつを運ぶと使えるものを捨てずにすむし、大喜びで感謝される。<br /><br />昨年だったか、ノーベル平和賞を受賞したケニアの黒人女性がいる。日本語の「もったりない」という言葉が彼女は好きだという。「もったない」という言葉を意識したら環境の好転にも大きく影響することだろう。<br /><br />余談だが、ケニアは煮炊きをする薪のために森林が減少傾向で、彼女は「木のないところに人は住めない」と訴え植林活動を推進しているという。ワシは、この彼女の言葉に同感した。森林が減少してしまえば当然生態系が失われるし、人間の精神的にも悪影響であろう。<br /><br />今回も大量の贈り物を手配していただいた岩下さんのお心遣いに感謝もうしあげます。<br /><br />サウリーの母親が昼飯を用意してくれた。<br /><br />白いご飯が皿に盛り付けられて、おかずは春菊のような野菜と豚肉の煮物。日本の煮物と変わりないようなあっさりとした味付けで美味かった。豚肉ではなくて鯖缶を使うワシの母ちゃんより豪華料理。<br /><br />以前、ここの母親が昼飯を食べているところを見たことがある。車のタイヤで踏みつぶされたようなぺっちゃんこで身がほとんど付いてなさそうな魚の干物だけをおかずに白米をおかわりして食べていた。<br /><br />ワシの為に作ってくれた特別の料理に、こんなワシへの感謝の気持ちを強く感じた。 <br /><br />どこかで読んだのだったが、村民の全てがクメール・ルージュ(ポル・ポト派)だったというバンタスレイへ前回撮影した子供の写真を届けに行く。バイテアスレイに入ったところに東洋のモナリザと言われる女神?の彫刻のあるバンテアスレイ遺跡までは観光客が頻繁に行くので舗装されておるが、その先からはすべて未舗装である。この道は、ポル・ポトが追い詰められたタイの国境近くの地であるアロンウェイへ通じる幹線道路である。<br /><br />ワシを乗せたバイクは穴ぼこを避けるように右端から左端まで道路をいっぱいに使って進むのである。<br /><br />うっそうとした藪の中に民家が転々とあり、のどかで貧相な村は土煙を上げて走るバイクかトラック以外は子どもたちの遊び声がかなたで聞こえるだけ。<br /><br />写真を撮影した、米から作る蒸留酒を酒造している椰子の葉で作られた掘建て小屋の酒造所がある家へ行く。昨年、この家の前で近所の子供たち8人を集めて撮影した。<br /><br />掘建て小屋酒造所の息子は初めて見る自分の写真のように喜ぶ。ここの強烈な酒をまた飲ませてほしかったのだが、今は米の収穫期から遠のいているので残念ながら試飲できなかった。<br /><br />やはり、この村で撮影した牛に乗った少年に写真を届けるが留守。<br /><br />隣の雑貨屋に写真を預けて雨が降って道が溶け出す前にバンテアスレイを後にした。 <br /><br />今回も一之瀬泰三氏の墓で祈って、ぽつぽつと当たっている雨が強まらないうちにプラダックの食堂へ行き雨宿り。<br /><br />コーラもビールも約50円なので、ワシはビールを。<br /><br />ぞろぞろとピックアップトラックアップから降りてきた乗客が丼に盛られた冷麦のような麺を注文している。どんな味なのか気になってしかたなくワシもオーダーする。<br /><br />麺は、米を石臼で引いて作った米粉からできており、スープは白く濁っているので、ワシの苦手なココナッツ・ミルク入りではないと願ったが、ビンゴ!<br /><br />このココナッツ・ミルクが入っていなければうれしいのに、残念。<br /><br />このスープ・ヌードルは一杯、1500リエル。4000リエルが1ドルだから…。1ドルを100円と単純に考えて、37円50銭なのか?<br /><br />外は小雨になったのでサウリーの家にちょろっと顔をだして、シェムリアップへ帰る。<br /><br />途中、突然、豪雨に変わり竹笛を作っている兄ちゃんの東屋(小さな壁のない小屋)の軒下へ非難したと同時に右足の甲が何か虫に刺されたような痛みが走る。何事かとあわてて足をどけると蟻の巣があって、そこの蟻に噛まれた。以前にもこの蟻に噛まれたことがあり、全長3ミリにも満たない小さな蟻だが、この蟻に噛みつかれると結構な痛みで腫れあがる。<br /><br />ワシの足の指の付け根は蜂に刺されたようにぷっくりと腫れあがりパンパンになった。 <br /><br />宿に帰って、一昨日だした洗濯物をいただく。料金は洗濯をしたここで働く娘に支払えという。カンボジアの地方から出稼ぎに来て安宿で働いている娘の月給は20~30ドルというので、朝から晩までみっちりと働いても一日わずかな賃金にしかならない。このように直接客から洗濯をした報酬を頂くことを許しているこのゲストハウスの仕組みに、ワシはうれしくなった。<br /><br />料金は、洗濯物一枚につき500リエル(いくらだ?1000リエルが約25円だから、その半分か)である。ワシの洗濯代は1500リエルだというが、ワシは1ドル渡して、<br /><br />「娘さん、釣りはいらねいよ。おっかさんとなんか美味いものでも食べな」<br /><br />って、ワシはふうてんの寅さんのように下町の人情味(ワシのどこが下町!)があるのである。<br /><br /> <br /><br />



    5.プラダック村へ

    近年、ワシの脳内にはメラトニンが発生しなくなってしまったのか、疲れていても眠りづらいのである。今回、旅に出たら更に眠れなくなってしまいシェムリアップの薬局で10錠2ドルの睡眠薬を買い、昨夜、一服飲んだ。効果は覿面(てきめん)で、たちまち眠りの世界へいざなってくれた。暑くてもエアコンのない部屋で眠るときなどにも大変便利な代物。

    遥々と母国から大きなバックに詰め込んで運んできたシャツ、ズボン、スカートなどをプラダック村の子供たちへ届ける。これらの古着は、ワシのスキーの先輩である岩下さんから頂いたもので、彼には2人の娘さんがおり彼女たちの不要になった衣類である。

    衣類の重量は12キロで数は59点にもおよび戸板の上に広げれば寅さんのように商売ができそう。

    プラダック村へ59点の衣服は多すぎるので、半分はクロサートメイ(孤児院)へ届けることにする。

    朝8時、ソフィアにバイクでプラダックへ連れてってもらう。

    道路には雨季の豪雨で流れ出した泥が溜まってバイクはぬかるみのない場所を選んではしるがバイクのタイヤが滑りそう。

    事故を起こして大ケガをしていらい、タンデムでバイクに乗るときもこの男はフルフェイスのヘルメットをかぶっているんだ。泥がかぶってぬるぬるとした道で転倒したときに頭抜き出しの乗客であるワシが怪我をして事故原因のドライバーが無傷でケロっとしているという構図になるのは腑に落ちない。

    プラダック村のサウリーの家に着く。

    家族が、笑顔で迎えてくれて近所の顔なじみも集まってきた。英語が話せないサウリーの両親はワシの顔を見てニアニアとするだけだが、その笑顔は「また、友が来てくれた」と語っている。

    親父は、高床式住居の床下から縁台を引っ張り出して「さーおかけ」というしぐさをする。縁台に腰掛けて長女のパリーと会話をする。しばらくぶりに会ったパリーの英語は上達していた。バスから降りた観光客にみやげ物を売っていたサウリーが帰って英語で挨拶を交わす。

    まずは、前回、撮影した村人の写真を縁台の上に広げて、自分と家族の写真があったら持って行くようにパリーが村人に通訳してくれた。自分や家族、友達の写真に大喜びする人たち.。初めて自分の写真を見た子供も多かっただろう。カンボジアでもベトナムでもそうだが、観光地にFUJI COLORなどとバックプリントされたフィッシングベストを着て日本製の古い一眼レフ・カメラを持った地元のカメラマンがいる。ほとんどの人間はカメラなんて持っていないので、彼らに頼んで記念写真を撮ってもらうのだ。

    この国ではまだ写真は高価な代物なんだろうな。

    写真がさばけたので、岩下さんから預かった衣類の配布にはいる。

    「これは、私の友達からのプレゼントだよ」

    といいファスナーを開けた大きなバックの中身に注目する村人たち。

    衣類を縁台の上に広げて「さあ、そうぞ」では千手観音のように手が伸びて騒動になってしまう。衣類はバックに入れるときかさばらないように細長くたたんでそれを一枚一枚巻き寿司のようにきつく巻いてほどけないようにゴム輪で留めてある。

    ワシは、バックから一枚ずつ取り出し広げた衣服のサイズに合った子供に手渡した。子どもたちどころか近所のオバさんたちも眼光鋭く目が爛爛としており、「このスカートは、その子ではなくて、こっちの女の子だよ」と仕切りだす者までいる。

    思いがけない頂き物に、大ご機嫌の村人に、ワシは水を刺すように言った、「This is only one dollar」(1ドルください)で大ウケしていた。

    普段、古着しか買うことができない貧困な家庭が多くみんな喜んでくれた。

    中でもはしゃぐように喜んでいるオバさんがいた。赤を基調としたチェックの鮮やかなワンピースがあったのだが、それがどうしたのかそのオバさんへ流失している。オバさんは、若い娘が好みそうなそのワンピースにさっそく着替えて大はしゃぎ。日本で、オバさんがこのような派手なものを着ていたら大笑いされるところだ。ワシは、「スレーサアンッ」(若くてかわいい女の子に言うことば)というとオバさんはおっさんのように「がっははー」と笑いころげていた。

    毎回、ワシは日本で不要になった衣類やバック、文具などをプラダック村や孤児院へ届けている。それは、ワシ個人のものだけでなく、中野実業高校のボランティアグループや今回のように岩下さんから頂いたものもある。ワシは支援活動を行っているという意識はなく、ただ使えるものを処分するのが惜しいだけ。ちょっとがんばって大きなバックひとつを運ぶと使えるものを捨てずにすむし、大喜びで感謝される。

    昨年だったか、ノーベル平和賞を受賞したケニアの黒人女性がいる。日本語の「もったりない」という言葉が彼女は好きだという。「もったない」という言葉を意識したら環境の好転にも大きく影響することだろう。

    余談だが、ケニアは煮炊きをする薪のために森林が減少傾向で、彼女は「木のないところに人は住めない」と訴え植林活動を推進しているという。ワシは、この彼女の言葉に同感した。森林が減少してしまえば当然生態系が失われるし、人間の精神的にも悪影響であろう。

    今回も大量の贈り物を手配していただいた岩下さんのお心遣いに感謝もうしあげます。

    サウリーの母親が昼飯を用意してくれた。

    白いご飯が皿に盛り付けられて、おかずは春菊のような野菜と豚肉の煮物。日本の煮物と変わりないようなあっさりとした味付けで美味かった。豚肉ではなくて鯖缶を使うワシの母ちゃんより豪華料理。

    以前、ここの母親が昼飯を食べているところを見たことがある。車のタイヤで踏みつぶされたようなぺっちゃんこで身がほとんど付いてなさそうな魚の干物だけをおかずに白米をおかわりして食べていた。

    ワシの為に作ってくれた特別の料理に、こんなワシへの感謝の気持ちを強く感じた。

    どこかで読んだのだったが、村民の全てがクメール・ルージュ(ポル・ポト派)だったというバンタスレイへ前回撮影した子供の写真を届けに行く。バイテアスレイに入ったところに東洋のモナリザと言われる女神?の彫刻のあるバンテアスレイ遺跡までは観光客が頻繁に行くので舗装されておるが、その先からはすべて未舗装である。この道は、ポル・ポトが追い詰められたタイの国境近くの地であるアロンウェイへ通じる幹線道路である。

    ワシを乗せたバイクは穴ぼこを避けるように右端から左端まで道路をいっぱいに使って進むのである。

    うっそうとした藪の中に民家が転々とあり、のどかで貧相な村は土煙を上げて走るバイクかトラック以外は子どもたちの遊び声がかなたで聞こえるだけ。

    写真を撮影した、米から作る蒸留酒を酒造している椰子の葉で作られた掘建て小屋の酒造所がある家へ行く。昨年、この家の前で近所の子供たち8人を集めて撮影した。

    掘建て小屋酒造所の息子は初めて見る自分の写真のように喜ぶ。ここの強烈な酒をまた飲ませてほしかったのだが、今は米の収穫期から遠のいているので残念ながら試飲できなかった。

    やはり、この村で撮影した牛に乗った少年に写真を届けるが留守。

    隣の雑貨屋に写真を預けて雨が降って道が溶け出す前にバンテアスレイを後にした。

    今回も一之瀬泰三氏の墓で祈って、ぽつぽつと当たっている雨が強まらないうちにプラダックの食堂へ行き雨宿り。

    コーラもビールも約50円なので、ワシはビールを。

    ぞろぞろとピックアップトラックアップから降りてきた乗客が丼に盛られた冷麦のような麺を注文している。どんな味なのか気になってしかたなくワシもオーダーする。

    麺は、米を石臼で引いて作った米粉からできており、スープは白く濁っているので、ワシの苦手なココナッツ・ミルク入りではないと願ったが、ビンゴ!

    このココナッツ・ミルクが入っていなければうれしいのに、残念。

    このスープ・ヌードルは一杯、1500リエル。4000リエルが1ドルだから…。1ドルを100円と単純に考えて、37円50銭なのか?

    外は小雨になったのでサウリーの家にちょろっと顔をだして、シェムリアップへ帰る。

    途中、突然、豪雨に変わり竹笛を作っている兄ちゃんの東屋(小さな壁のない小屋)の軒下へ非難したと同時に右足の甲が何か虫に刺されたような痛みが走る。何事かとあわてて足をどけると蟻の巣があって、そこの蟻に噛まれた。以前にもこの蟻に噛まれたことがあり、全長3ミリにも満たない小さな蟻だが、この蟻に噛みつかれると結構な痛みで腫れあがる。

    ワシの足の指の付け根は蜂に刺されたようにぷっくりと腫れあがりパンパンになった。

    宿に帰って、一昨日だした洗濯物をいただく。料金は洗濯をしたここで働く娘に支払えという。カンボジアの地方から出稼ぎに来て安宿で働いている娘の月給は20~30ドルというので、朝から晩までみっちりと働いても一日わずかな賃金にしかならない。このように直接客から洗濯をした報酬を頂くことを許しているこのゲストハウスの仕組みに、ワシはうれしくなった。

    料金は、洗濯物一枚につき500リエル(いくらだ?1000リエルが約25円だから、その半分か)である。ワシの洗濯代は1500リエルだというが、ワシは1ドル渡して、

    「娘さん、釣りはいらねいよ。おっかさんとなんか美味いものでも食べな」

    って、ワシはふうてんの寅さんのように下町の人情味(ワシのどこが下町!)があるのである。



  • <br /><br />6.ゲストハウス移動 <br /><br />昨日の噛み付き蟻に噛まれて腫れが未だに治らず、腫れていることころを夜中に蚊が刺したようで更にかゆくてたまらないワシの足の甲。とにかくベトコンのように攻撃的な蟻でとても小さいが毒をもっているのだろ。何に刺されたのかかぶれたのか解らないが、東南アジアへ来る度、毎回、肌から血が出るまで体をかきまくっているワシ。 <br /><br />ワシのいるゲストハウスは、国道6号線を少し外れたわりと静かな場所で、宿の前をシェムリアップ川がゆっくりと流れている。シェムリアップ川の土手はよく手入れされた芝生で椰子の木が間隔を置いて植えられ公園のようにきれいであるが、そこを流れる水はひどく濁っている。そんな濁った水など気にもせずに子供たちは無邪気に泳ぎ、溺れる姿を観察することができる。ウソ。 <br /><br />このゲストハウスには友達もいなければ気のあいそうなバイクタクシーもしないので、友達の親父が経営するゲストハウスへ移動した。 <br /><br />そこは、先日、汗だくで歩いて行った国道6号線沿いの宿。 <br /><br />「おっ、大将が来たな」 <br /><br />ってアホな友達が歓迎してくれた。 <br /><br />一階の部屋に案内されたが、わがままを言って料金も聞かずに静かな三階のツインルームにチェックインした。 <br /><br />今日、岩下さんから頂いた衣類を宿で働くお姉ちゃんにも分けてあげた。クロサートメイ(孤児院)へ届ける衣類だが、カンボジア人の子供には大きめの衣類があり、ここで働くお姉ちゃんも満足な賃金ではないので。 <br /><br />ワシは、部屋の外にいたお姉ちゃんたち(まだ10代だと思う)に「部屋に入って」と手招きをしてバックを指差す。お姉ちゃんたちは、おそるおそる部屋に入る。ワシがバックのファスナーを広げ、「好きなものを持って行って」と差し出した数枚の衣類を少女が見て彼女たちの目が輝き口は半開きでよだれがでそうであった。バックの中の衣類を探ってどれにしようか迷いに迷って、何度もトイレに入っていくつもの衣類を試着している少女が可愛くてたまらない。これを見ていると国は変わっても女の子ってどこも同じだと思った。 <br /><br />ホント、この光景を岩下さんに見せたかったよ。 <br /><br />ひとりの少女は、今まではいていた粗末なズボンを脱いで明るい色合いのベージュのスカートに履き替えるとシンデレラのよいに美しい姿に変身した。 <br /><br />「これは、ワシの友達からの贈り物だよ」 <br /><br />と言ってはみたが、少女は英語が理解できないのでワシからお志と思い込んでワシは岩下さんの上前をはねてしまった。(申し訳ない) <br /><br />「Only one dollar」 <br /><br />ととりあえずお約束のように言うアホなワシである。  <br /><br />ゲストハウスのバイクタクシーでクロサートメイへ行く。 <br /><br />バイクタクシーの料金は1ドルでOKだという。 <br /><br />いつものように突然現れたワシに孤児院の職員が笑顔で歓迎してくれた。 <br /><br />「お前は、これを知っているか?」 <br /><br />と大きなダンボール箱から手作りのノートを取り出しワシに渡した。 <br /><br />これって、ワシの地元の中野実業高校JRC部のボランティアの皆さんが、使用済みのコピー用紙の裏側を袋とじにして作ったノートじゃ。この部員は以前から使用済みの紙を使ってノートを手作りしてカンボジアの子供たちへ贈っている。以前、無地だったノートには文字を書きやすいように横線が引かれてバージョンアップしていた。段ボール箱の中には中野実業高校JRC部が送ったノートとは別に、誰かが寄贈した大量の古着が入っていた。ここでは、施設の孤児以外に地方の恵まれない子供たちに衣類を配布することも行っている。 <br /><br />今、学校は夏休みで、プライベートの英会話学校などに通っている孤児もいるという。カンボジアの夏休みって2ヶ月もあるんだって、なげーな。 <br /><br />岩下さんから預かった衣類を渡し、あれこれと会話をして孤児院を後にした。 <br /><br />ワシは、バイクタクシーにインターネット屋さんで下ろしてもらい1ドルの料金を支払おうとすると1ドルは片道分で往復だから2ドルを請求するアホな兄ちゃん。まあ、よくある展開だよな。 <br /><br />ワシは、兄ちゃんのポケットに無理やり1ドル札を押し込んだら怒って帰っちゃった。 <br /><br />「アホだな、人間信用だよ、あんた仕事を失うなよ。ましてやあんたが仕事している宿のオーナーは超厳しい親父なんだからな」 <br /><br />って言いたかった。 <br /><br />世はインターネット時代。旅先の不満などを書き込めば一気に知れ渡る恐ろしさを知ってほしいな。 <br /><br />ネット屋さんで、メールを確認しブログを更新。 <br /><br />タイのアランヤプラテートでは1時間約60円で快適な通信速度だったが、ここでは一時間1ドルで亀。場所が場所だから速度が遅くて値段が高いのはしかたないのか? <br /><br />タイはウサギでカンボジアは亀。 <br /><br />昼飯を食べてなかったので一杯約50円の米麺ラーメンを食べていると黒雲が迫り雨が当たりだしたので、すばやく麺をたいらげて、なるべく弱そうなバイクタクシーを捕まえて帰った。 <br /><br />宿に帰ると先ほど怒っていたバイクタクシーの兄ちゃんが笑顔で寄ってきてなれなれしい。ワシがこの宿の常連でオーナーの息子や他のバイクタクシーと友達だって聞かされたのだな。 <br /><br /><br />



    6.ゲストハウス移動

    昨日の噛み付き蟻に噛まれて腫れが未だに治らず、腫れていることころを夜中に蚊が刺したようで更にかゆくてたまらないワシの足の甲。とにかくベトコンのように攻撃的な蟻でとても小さいが毒をもっているのだろ。何に刺されたのかかぶれたのか解らないが、東南アジアへ来る度、毎回、肌から血が出るまで体をかきまくっているワシ。

    ワシのいるゲストハウスは、国道6号線を少し外れたわりと静かな場所で、宿の前をシェムリアップ川がゆっくりと流れている。シェムリアップ川の土手はよく手入れされた芝生で椰子の木が間隔を置いて植えられ公園のようにきれいであるが、そこを流れる水はひどく濁っている。そんな濁った水など気にもせずに子供たちは無邪気に泳ぎ、溺れる姿を観察することができる。ウソ。

    このゲストハウスには友達もいなければ気のあいそうなバイクタクシーもしないので、友達の親父が経営するゲストハウスへ移動した。

    そこは、先日、汗だくで歩いて行った国道6号線沿いの宿。

    「おっ、大将が来たな」

    ってアホな友達が歓迎してくれた。

    一階の部屋に案内されたが、わがままを言って料金も聞かずに静かな三階のツインルームにチェックインした。

    今日、岩下さんから頂いた衣類を宿で働くお姉ちゃんにも分けてあげた。クロサートメイ(孤児院)へ届ける衣類だが、カンボジア人の子供には大きめの衣類があり、ここで働くお姉ちゃんも満足な賃金ではないので。

    ワシは、部屋の外にいたお姉ちゃんたち(まだ10代だと思う)に「部屋に入って」と手招きをしてバックを指差す。お姉ちゃんたちは、おそるおそる部屋に入る。ワシがバックのファスナーを広げ、「好きなものを持って行って」と差し出した数枚の衣類を少女が見て彼女たちの目が輝き口は半開きでよだれがでそうであった。バックの中の衣類を探ってどれにしようか迷いに迷って、何度もトイレに入っていくつもの衣類を試着している少女が可愛くてたまらない。これを見ていると国は変わっても女の子ってどこも同じだと思った。

    ホント、この光景を岩下さんに見せたかったよ。

    ひとりの少女は、今まではいていた粗末なズボンを脱いで明るい色合いのベージュのスカートに履き替えるとシンデレラのよいに美しい姿に変身した。

    「これは、ワシの友達からの贈り物だよ」

    と言ってはみたが、少女は英語が理解できないのでワシからお志と思い込んでワシは岩下さんの上前をはねてしまった。(申し訳ない)

    「Only one dollar」

    ととりあえずお約束のように言うアホなワシである。

    ゲストハウスのバイクタクシーでクロサートメイへ行く。

    バイクタクシーの料金は1ドルでOKだという。

    いつものように突然現れたワシに孤児院の職員が笑顔で歓迎してくれた。

    「お前は、これを知っているか?」

    と大きなダンボール箱から手作りのノートを取り出しワシに渡した。

    これって、ワシの地元の中野実業高校JRC部のボランティアの皆さんが、使用済みのコピー用紙の裏側を袋とじにして作ったノートじゃ。この部員は以前から使用済みの紙を使ってノートを手作りしてカンボジアの子供たちへ贈っている。以前、無地だったノートには文字を書きやすいように横線が引かれてバージョンアップしていた。段ボール箱の中には中野実業高校JRC部が送ったノートとは別に、誰かが寄贈した大量の古着が入っていた。ここでは、施設の孤児以外に地方の恵まれない子供たちに衣類を配布することも行っている。

    今、学校は夏休みで、プライベートの英会話学校などに通っている孤児もいるという。カンボジアの夏休みって2ヶ月もあるんだって、なげーな。

    岩下さんから預かった衣類を渡し、あれこれと会話をして孤児院を後にした。

    ワシは、バイクタクシーにインターネット屋さんで下ろしてもらい1ドルの料金を支払おうとすると1ドルは片道分で往復だから2ドルを請求するアホな兄ちゃん。まあ、よくある展開だよな。

    ワシは、兄ちゃんのポケットに無理やり1ドル札を押し込んだら怒って帰っちゃった。

    「アホだな、人間信用だよ、あんた仕事を失うなよ。ましてやあんたが仕事している宿のオーナーは超厳しい親父なんだからな」

    って言いたかった。

    世はインターネット時代。旅先の不満などを書き込めば一気に知れ渡る恐ろしさを知ってほしいな。

    ネット屋さんで、メールを確認しブログを更新。

    タイのアランヤプラテートでは1時間約60円で快適な通信速度だったが、ここでは一時間1ドルで亀。場所が場所だから速度が遅くて値段が高いのはしかたないのか?

    タイはウサギでカンボジアは亀。

    昼飯を食べてなかったので一杯約50円の米麺ラーメンを食べていると黒雲が迫り雨が当たりだしたので、すばやく麺をたいらげて、なるべく弱そうなバイクタクシーを捕まえて帰った。

    宿に帰ると先ほど怒っていたバイクタクシーの兄ちゃんが笑顔で寄ってきてなれなれしい。ワシがこの宿の常連でオーナーの息子や他のバイクタクシーと友達だって聞かされたのだな。


  • <br /><br />7.孤児院でランチをゴチに <br /><br />宿の近くにはプサルーという生活用品なら何でも揃う大きなマーケットがある。数年前まで、このマーケットの前の通りは未舗装だったので車が巻き上げる土煙で大気が霞んでいたが、何年か前に道路が整備されて道の両側に街灯が立ち、掘建て小屋のようなマーケットも鉄筋コンクリートの大型のものに建てかえられた。  <br /><br />マーケットでおかゆを一杯食べて友達のウィーン君バイクタクシーでクロサートメイへ連れてってもらう。昨日のがめついバイクタクシー屋と違い料金は受け取らなかった。 <br /><br />礼儀作法をよく教育されているようで、来客に対してどの子供も立ち止まって両手を合わせ微笑んで「スースライ」としっかりと挨拶を交わす。ワシも両手を合わせて同じ言葉を言い返すのだ。 <br /><br />孤児たちは無邪気で可愛くなれ親しみやすい。 <br /><br />以前、会った女の子がずいぶんと大人っぽくきれいになっており驚く。 <br /><br />昼にはまだ時間があるのに、数人の子供は待ちきれずに皿を持って食堂のテーブルで待機している。子供の目は、料理を作っている厨房に釘付け。 <br /><br />ランチが近づくとどこにこれほど子供がいたのかと思うほど食堂に集まり料理婦の合図で各自皿をもってキッチンに並ぶのである。 <br /><br />この日のメニューはカレー味のスープとフランスパンにご飯も食べられる。小さな子供も大食漢でカレースープとフランスパン(小さめ)2つをきれいにたいらげていた。 <br /><br />ワシは、迷惑をかけては悪いと思い昼食用にカンボジアタイプのサンドイッチを持参したのだが、職員のはからいで昼飯をご馳走になった。 <br /><br />野菜と鶏肉の入ったカレー味のスープにフランスパンをダンクして食べる。スープは癖のない味付けでご飯にもかけても食べたが、ホント美味かった。 <br /><br />孤児のための資金で作られた料理を部外者のワシが食べるのは気が引けた。 <br /><br />食事が終わると外のダルマポンプでタライヘ水を汲み各々自分の食器を洗い片付ける。 <br /><br />施設の外の東屋でひとりの若いカンボジア人男性が数人の生徒に日本語を教えていた。 <br /><br />「東京にはなんでもわりますが、ないものがひとつあります。それは、自然です。私は九州の田舎から10年前に来ました…」 <br /><br />などといった内容の文章を朗読していたが、生徒は覚えられるのか?日本人にこれを英語で言えと言われたらほとんどの日本人が話せないだろうな。そんで何で九州なんだ? <br /><br />「すばらしき、すばらしい」 <br /><br />「たかさ、たかい」 <br /><br />なんていう文字をホワイトボードに書いて説明しているんだけど、やっかいな言葉で日本人のワシが説明できないよ。 <br /><br />今日の日本語の生徒は大人ばかりで、誰もが熱心。 <br /><br />日本人の環境客が多いから日本語を学べば役だつのだろうな。 <br /><br />クロサートメイは市内から外れた小さな集落にあり、そこに至る道は幹線道路をそれて道幅が狭く平坦ではない。毎日、降る豪雨で道には大きな水溜りができ場所によっては道いっぱいに大きな池のように水が溜まっている。 <br /><br />毎日、孤児たちは自転車でこの泥道を学校へ通っている。<br /><br />



    7.孤児院でランチをゴチに

    宿の近くにはプサルーという生活用品なら何でも揃う大きなマーケットがある。数年前まで、このマーケットの前の通りは未舗装だったので車が巻き上げる土煙で大気が霞んでいたが、何年か前に道路が整備されて道の両側に街灯が立ち、掘建て小屋のようなマーケットも鉄筋コンクリートの大型のものに建てかえられた。

    マーケットでおかゆを一杯食べて友達のウィーン君バイクタクシーでクロサートメイへ連れてってもらう。昨日のがめついバイクタクシー屋と違い料金は受け取らなかった。

    礼儀作法をよく教育されているようで、来客に対してどの子供も立ち止まって両手を合わせ微笑んで「スースライ」としっかりと挨拶を交わす。ワシも両手を合わせて同じ言葉を言い返すのだ。

    孤児たちは無邪気で可愛くなれ親しみやすい。

    以前、会った女の子がずいぶんと大人っぽくきれいになっており驚く。

    昼にはまだ時間があるのに、数人の子供は待ちきれずに皿を持って食堂のテーブルで待機している。子供の目は、料理を作っている厨房に釘付け。

    ランチが近づくとどこにこれほど子供がいたのかと思うほど食堂に集まり料理婦の合図で各自皿をもってキッチンに並ぶのである。

    この日のメニューはカレー味のスープとフランスパンにご飯も食べられる。小さな子供も大食漢でカレースープとフランスパン(小さめ)2つをきれいにたいらげていた。

    ワシは、迷惑をかけては悪いと思い昼食用にカンボジアタイプのサンドイッチを持参したのだが、職員のはからいで昼飯をご馳走になった。

    野菜と鶏肉の入ったカレー味のスープにフランスパンをダンクして食べる。スープは癖のない味付けでご飯にもかけても食べたが、ホント美味かった。

    孤児のための資金で作られた料理を部外者のワシが食べるのは気が引けた。

    食事が終わると外のダルマポンプでタライヘ水を汲み各々自分の食器を洗い片付ける。

    施設の外の東屋でひとりの若いカンボジア人男性が数人の生徒に日本語を教えていた。

    「東京にはなんでもわりますが、ないものがひとつあります。それは、自然です。私は九州の田舎から10年前に来ました…」

    などといった内容の文章を朗読していたが、生徒は覚えられるのか?日本人にこれを英語で言えと言われたらほとんどの日本人が話せないだろうな。そんで何で九州なんだ?

    「すばらしき、すばらしい」

    「たかさ、たかい」

    なんていう文字をホワイトボードに書いて説明しているんだけど、やっかいな言葉で日本人のワシが説明できないよ。

    今日の日本語の生徒は大人ばかりで、誰もが熱心。

    日本人の環境客が多いから日本語を学べば役だつのだろうな。

    クロサートメイは市内から外れた小さな集落にあり、そこに至る道は幹線道路をそれて道幅が狭く平坦ではない。毎日、降る豪雨で道には大きな水溜りができ場所によっては道いっぱいに大きな池のように水が溜まっている。

    毎日、孤児たちは自転車でこの泥道を学校へ通っている。

  • <br /><br />8.孤児院で映画鑑賞 <br /><br />洗濯したパンツが生乾きだったので、昨夜、シャワー後ノーパンで寝る。 <br />今朝、いくらか湿気っぽいパンツをはくと冷たくて心地よいアホなワシである。 <br />今日もクロサートメイへ行く。 <br />クロサートメイに着くとバイクタクシーの兄ちゃんは2ドルを請求。 <br /><br />「昨日、ウェイーン(同じ宿のバイクタクシー)は無料でクロサートメイへ送ってくれたぞ」 <br /><br />というと兄ちゃんは黙っちまった。 <br /><br />ワシは、兄ちゃんに1ドル渡して帰ってもらった。 <br /><br />ワシが日本を出るときに退屈しのぎにと何本もの映画を友達の雅樹くんが用意してくれてコンピュータのハードディスクに保存してある。今日は、それらの映画をクロサートメイで子供たちに見せるのである。 <br /><br />コンピュータから広間にあるTVに接続して大きな画面で見ようと思ったのだが、ワシのコンピュータは、そう簡単にTVと接続することができず、しかたなく小さなモバイルコンピュータの顔面で我慢していただくことにした。画面は小さいが音だけは事務所で使っているデスクトップコンピュータのスピーカーを接続したので十分な音量であった。画面を見やすいように部屋の野窓を締め切り室内を暗くして上映開始。言葉が分からなくても喜ばれそうなアニメーションや動物の映画などを再生した。 <br /><br />11インチほどの小さなコンピュータの画面に20人ほどの子供が釘付けになり、流れる言葉の意味など理解できないのだが歓声を上げていた。 <br /><br />施設には20インチほどのテレビがあり、金曜と土曜と日曜の夜だけ、だれかが寄贈したDVDプレーヤーでカンボジアの映画を鑑賞するそうだ。子供たちは毎日テレビを見たいのだが、普段テレビにはブリキで作られたカバーをかぶせて施錠がしてある。 <br /><br /> <br /><br />先日、以前クロサートメイで英語指導をしていたセイシロウさんと一年ぶりに再会して二人で飲んだ。今、彼は、日本人のツアー会社で仕事をしておるが、ある程度、英語力のある孤児を英語学校へ通わせて彼が学費を負担している心ある青年である。 <br /><br />彼はクロサートメイの孤児について、彼らは援助に甘やかされており気に入った衣類を手に入れると使える衣類を捨ててしまうほど、物に恵まれているという。また、昨年、セイシロウさんが自費で買い揃えた英語の教材は現在一冊も残っておらずどのような経過で紛失したか不明。 <br /><br />7月にシンガーソングライターの野田純子さんのコンサートとワシのカンボジアの写真展が多治見であったときに、やはり以前クロサートメイで英語の指導を行っていた鬼頭さんが会場へ来てくれた。そのとき彼も孤児に対する援助の方法を模索する必要があると言っていた。今年、集めた募金が私の手元にあるのだが、その使い道については、セイシロウさん、鬼頭さん、慶子さん(彼女も以前クロサートメイで指導を)でなどに託したいと考えている。 <br /><br />ワシ等も同じで新しい物を手にすると今までの十分使えるものが不要となりゴミとなってしまう。経済力のある国では当たり前のように物を捨てることが習慣化されている。だから衣類に対して十分な援助を受けている孤児たちの心境も理解できる。 <br /><br />援助を受けているクロサートメイの孤児よりプラダック村の子供のほうが衣類は不十分であった。 <br /><br />



    8.孤児院で映画鑑賞

    洗濯したパンツが生乾きだったので、昨夜、シャワー後ノーパンで寝る。
    今朝、いくらか湿気っぽいパンツをはくと冷たくて心地よいアホなワシである。
    今日もクロサートメイへ行く。
    クロサートメイに着くとバイクタクシーの兄ちゃんは2ドルを請求。

    「昨日、ウェイーン(同じ宿のバイクタクシー)は無料でクロサートメイへ送ってくれたぞ」

    というと兄ちゃんは黙っちまった。

    ワシは、兄ちゃんに1ドル渡して帰ってもらった。

    ワシが日本を出るときに退屈しのぎにと何本もの映画を友達の雅樹くんが用意してくれてコンピュータのハードディスクに保存してある。今日は、それらの映画をクロサートメイで子供たちに見せるのである。

    コンピュータから広間にあるTVに接続して大きな画面で見ようと思ったのだが、ワシのコンピュータは、そう簡単にTVと接続することができず、しかたなく小さなモバイルコンピュータの顔面で我慢していただくことにした。画面は小さいが音だけは事務所で使っているデスクトップコンピュータのスピーカーを接続したので十分な音量であった。画面を見やすいように部屋の野窓を締め切り室内を暗くして上映開始。言葉が分からなくても喜ばれそうなアニメーションや動物の映画などを再生した。

    11インチほどの小さなコンピュータの画面に20人ほどの子供が釘付けになり、流れる言葉の意味など理解できないのだが歓声を上げていた。

    施設には20インチほどのテレビがあり、金曜と土曜と日曜の夜だけ、だれかが寄贈したDVDプレーヤーでカンボジアの映画を鑑賞するそうだ。子供たちは毎日テレビを見たいのだが、普段テレビにはブリキで作られたカバーをかぶせて施錠がしてある。



    先日、以前クロサートメイで英語指導をしていたセイシロウさんと一年ぶりに再会して二人で飲んだ。今、彼は、日本人のツアー会社で仕事をしておるが、ある程度、英語力のある孤児を英語学校へ通わせて彼が学費を負担している心ある青年である。

    彼はクロサートメイの孤児について、彼らは援助に甘やかされており気に入った衣類を手に入れると使える衣類を捨ててしまうほど、物に恵まれているという。また、昨年、セイシロウさんが自費で買い揃えた英語の教材は現在一冊も残っておらずどのような経過で紛失したか不明。

    7月にシンガーソングライターの野田純子さんのコンサートとワシのカンボジアの写真展が多治見であったときに、やはり以前クロサートメイで英語の指導を行っていた鬼頭さんが会場へ来てくれた。そのとき彼も孤児に対する援助の方法を模索する必要があると言っていた。今年、集めた募金が私の手元にあるのだが、その使い道については、セイシロウさん、鬼頭さん、慶子さん(彼女も以前クロサートメイで指導を)でなどに託したいと考えている。

    ワシ等も同じで新しい物を手にすると今までの十分使えるものが不要となりゴミとなってしまう。経済力のある国では当たり前のように物を捨てることが習慣化されている。だから衣類に対して十分な援助を受けている孤児たちの心境も理解できる。

    援助を受けているクロサートメイの孤児よりプラダック村の子供のほうが衣類は不十分であった。

  • <br /><br />9.1000リエル農婦とナイス・キッズ <br /><br />今日は、朝から晴天だ。 <br />また、バイクタクシーでプラダックへ行っちゃう。 <br />サウリー家では、次女のサウリーは英語力に乏しく、おのずと英語の話せる長女のパリーとの会話が多くなる。 <br /><br />先日の岩下さんから贈られた衣類のことをパリーに聞くと自分にはサイズが大きく友達に差し上げてしまったという。せっかく喜んでもらおうと思った衣服だったので残念でならないし、彼女が気の毒でしかたない。どうでもよい部外者のおばさんが派手なワンピースを手にして口に締りがないほど大喜びして、彼女は衣服のサイズが合わずにしょんぼりである。 <br /><br />金を渡すことはけしてよいことではないのであるが、ワシの心がモヤモヤしてしかたなかったので彼女に金を渡して、 <br /><br />「娘さん、おとっさんにプサルー(シェムリアップの大きなマーケット)へ連れってもらって新しい服でも買いな」 <br /><br />とまたプチ寅さん。彼女は金を受け取り、 <br /><br />「えっ私に?」 <br /><br />と驚き笑顔で感謝してくれた。 <br /><br />外国人は金持ちという意識があり(もちろんカンボジア人か比べるとは旅行者は遥かに経済力がある)外国人に対しては値段を吊り上げて物を売ったり、たかったり、バイクタクシードライバーは食事をおごってもらっても礼をいわない者も多い。 <br /><br />プラダックの周辺の田んぼは7月ごろから田植えが始まり、今も田植えを行っている農家がある。(用水路や用水池が整備さえてないようで雨季の降水で溜まった水で米作をする) <br /><br />ワシは、その田植え風景を見たくて民家の裏手にある水田へ行く。また、いつものように顔なじみの小さな子供たちがぞろぞろと付いてきてあれこれとガイドをしてくれた。 <br /><br />サンダルを脱ぎ捨て裸足で水に浸かったあぜ道をじゃぶじゃぶと歩き土手の上ではまた噛み付き蟻に足を噛まれて冷や冷やするのだがチビッコは屁でもない。噛み付き蟻をものともしないやつ等のタフな足の皮膚がうらやましいワシ。 <br /><br />望遠レンズを使ってひとりの農婦が田植えをしている写真を撮るとその農婦がクメール語でワシに怒って叫ぶ。子供たちにそのクメール語を英語に通訳してもらうと「アタイの写真を撮ったのだから1000リエル払いな」だって。そう叫びながら農婦はワシに近づいてくるんだ。もし、ここでその金を払ってしまえば他のカンボジア人もがまねをして、それが当たり前田クラッカーになってしまうよな。事実、アンデスの山ん中へ行けば外国人がポートレートを撮れば金を支払うのが当たり前になってしまっている。 <br /><br />芸能人だって政治家だって写真を撮られて金を請求する人間などいやしないし、ましてや農婦にバクシーシを払うわけねえだろうアホめ! <br /><br />ワシは農婦に向かって「バイバーイ」と大きく手を振って立ち去ると子供たちが笑ってたっけ。 <br /><br />田植えをしている写真を撮りたがっているワシに子供たちがくわで田んぼを耕している若い娘と交渉して子供たちが彼女の田んぼで一列になって田植えをしてくれた。つまり子どもたちはワシの写真のモデルになってくれたってわけだ。1000リエル農婦と違ってなんてナイスなキッズであろうか。 <br /><br />どれも小学生の男女だが、その田植えをする手さばきは見事である。束ねた苗から適量の苗を引き抜き植えつける一連の動作が素早く熟練している。こんなに小さな子供であるが一家の労働力であって当たり前のようにだれでも農作業を手伝っているんだな。 <br /><br />ワシの家も米を作っているのだが母ちゃんの文句が多くて田起こしと稲刈りと脱穀しかやらないんだ。 <br /><br />通りに戻ってうろうろと歩き出すワシに参勤交代のようにまたナイスなキッズがぞろぞろと付いてくる。いつもならワシを知らないみやげ物屋があれこれ声をかけてくるが、こうも地元のお付が多いと土産屋も声をかけてこないのでいい感じ。 <br /><br />人見知りやさんだったニモールちゃんが英語で話しかけてきて「あーだ、こーだ」と言う。あらあら、いつの間にかこんなに英語が達者になったのねって、ワシは彼女の英語の上達ぶりに驚いた。村の大人は英語を話せないが、子供たちは家計を助けるために英語で観光客にみやげ物を売っている。教科書も辞書もないけど毎日の実践で上達したんだな。<br /><br /><br />



    9.1000リエル農婦とナイス・キッズ

    今日は、朝から晴天だ。
    また、バイクタクシーでプラダックへ行っちゃう。
    サウリー家では、次女のサウリーは英語力に乏しく、おのずと英語の話せる長女のパリーとの会話が多くなる。

    先日の岩下さんから贈られた衣類のことをパリーに聞くと自分にはサイズが大きく友達に差し上げてしまったという。せっかく喜んでもらおうと思った衣服だったので残念でならないし、彼女が気の毒でしかたない。どうでもよい部外者のおばさんが派手なワンピースを手にして口に締りがないほど大喜びして、彼女は衣服のサイズが合わずにしょんぼりである。

    金を渡すことはけしてよいことではないのであるが、ワシの心がモヤモヤしてしかたなかったので彼女に金を渡して、

    「娘さん、おとっさんにプサルー(シェムリアップの大きなマーケット)へ連れってもらって新しい服でも買いな」

    とまたプチ寅さん。彼女は金を受け取り、

    「えっ私に?」

    と驚き笑顔で感謝してくれた。

    外国人は金持ちという意識があり(もちろんカンボジア人か比べるとは旅行者は遥かに経済力がある)外国人に対しては値段を吊り上げて物を売ったり、たかったり、バイクタクシードライバーは食事をおごってもらっても礼をいわない者も多い。

    プラダックの周辺の田んぼは7月ごろから田植えが始まり、今も田植えを行っている農家がある。(用水路や用水池が整備さえてないようで雨季の降水で溜まった水で米作をする)

    ワシは、その田植え風景を見たくて民家の裏手にある水田へ行く。また、いつものように顔なじみの小さな子供たちがぞろぞろと付いてきてあれこれとガイドをしてくれた。

    サンダルを脱ぎ捨て裸足で水に浸かったあぜ道をじゃぶじゃぶと歩き土手の上ではまた噛み付き蟻に足を噛まれて冷や冷やするのだがチビッコは屁でもない。噛み付き蟻をものともしないやつ等のタフな足の皮膚がうらやましいワシ。

    望遠レンズを使ってひとりの農婦が田植えをしている写真を撮るとその農婦がクメール語でワシに怒って叫ぶ。子供たちにそのクメール語を英語に通訳してもらうと「アタイの写真を撮ったのだから1000リエル払いな」だって。そう叫びながら農婦はワシに近づいてくるんだ。もし、ここでその金を払ってしまえば他のカンボジア人もがまねをして、それが当たり前田クラッカーになってしまうよな。事実、アンデスの山ん中へ行けば外国人がポートレートを撮れば金を支払うのが当たり前になってしまっている。

    芸能人だって政治家だって写真を撮られて金を請求する人間などいやしないし、ましてや農婦にバクシーシを払うわけねえだろうアホめ!

    ワシは農婦に向かって「バイバーイ」と大きく手を振って立ち去ると子供たちが笑ってたっけ。

    田植えをしている写真を撮りたがっているワシに子供たちがくわで田んぼを耕している若い娘と交渉して子供たちが彼女の田んぼで一列になって田植えをしてくれた。つまり子どもたちはワシの写真のモデルになってくれたってわけだ。1000リエル農婦と違ってなんてナイスなキッズであろうか。

    どれも小学生の男女だが、その田植えをする手さばきは見事である。束ねた苗から適量の苗を引き抜き植えつける一連の動作が素早く熟練している。こんなに小さな子供であるが一家の労働力であって当たり前のようにだれでも農作業を手伝っているんだな。

    ワシの家も米を作っているのだが母ちゃんの文句が多くて田起こしと稲刈りと脱穀しかやらないんだ。

    通りに戻ってうろうろと歩き出すワシに参勤交代のようにまたナイスなキッズがぞろぞろと付いてくる。いつもならワシを知らないみやげ物屋があれこれ声をかけてくるが、こうも地元のお付が多いと土産屋も声をかけてこないのでいい感じ。

    人見知りやさんだったニモールちゃんが英語で話しかけてきて「あーだ、こーだ」と言う。あらあら、いつの間にかこんなに英語が達者になったのねって、ワシは彼女の英語の上達ぶりに驚いた。村の大人は英語を話せないが、子供たちは家計を助けるために英語で観光客にみやげ物を売っている。教科書も辞書もないけど毎日の実践で上達したんだな。


  • <br /><br />10.3ドルの写真集 <br /><br />「ニュースでカンボジア難民が船に乗り、日本までやって来ていることを伝えていた。ボロボロの船に真っ黒に日焼けした人々が山ほど乗っていた。よくこんなボロ船で日本までやって来れるもんだと思っていた。近国の国や島にもだいぶ流れ着いているに違いあるまいと思っていた。たどり着けずに沈む船、船内で死ぬ人々、日本の難民収容所で数日過ごしたあと、領海外に強制出航させられてしまう…。日本の敗戦時代、家は焼かれ、ビルは壊され、人々は傷つき、親を無くし、子を失い、原爆の後遺症に悩む…そんな人々も少なくなかった時代、日本の国民はボロ着、しらみわく中、やみ市で米を求め、飢えて暮らした。そんな時代、南国より助け舟とも呼べるお米を送ってくださった国があり、それがカンボジアという名の国だと知り、僕の心は熱くなった。」 <br /><br />写真家、野老康宏氏の「生と死と地雷と」という写真集に書かれていた文章の一部である。 <br /><br />ワシはこの文章を読んでワシの心も熱くなった。 <br /><br />ベトナム戦争のサイゴン陥落の翌年の1976年からボートピープルと呼ばれたかなりの数の旧南ベトナム難民が同じようにボロ船に乗って移住の地を求めて旅立ったことが、よくニュースで報じられ、ワシの記憶にもある。やはり、たどり着けなかったり、航海中に海賊に襲われたり、また、かなりの数のベトナム人が香港の難民キャンプに収容されたりしたと聞いた。しかし、恥ずかしながら何度もカンボジアへ来ているワシであるが、このようなカンボジア難民のことを始めて知らされた。 <br /><br />日本への移民を求めていたトルコのクルド人難民が日本の移住権を取得できなかったことがニュースで報じられたことがあった。アホな外務省はトルコ当局に彼らの迫害の実態の調査を求めた。もちろん、トルコ本国では迫害の事実はないと回答するに決まっている。 <br /><br />これらの難民は祖国を追われた人々で経済難民ではないのである。 <br /><br />サウリーの叔母のマームちゃんが、夏休みのアルバイトで働いているプラダック村の村はずれにある「博物館、昔のカンボジア人の村」(こんな変な日本語の名前が付いていた)へ行った。サウリーの叔母といっても彼女は、高校生ぐらいで肌は黒いが笑顔が素敵な美人である。 <br /><br />そこは、いくつもの掘っ立て小屋のような伝統的なカンボジアの葉っぱの家の中に、農具などが展示されていて「昔のカンボジア人の村」っていう概念なんだが、未だにほとんど機械化されていないこの国の農業であるため、展示品は古(いにしえ)の農具ではなく現在使われているものとほとんど変わりがないんじゃないのかと思ったよ。 <br /><br />農機具などには興味はなかったが、この野老康宏氏の「生と死と地雷」の写真集がレセプションの机の上に置かれていてワシの目を引いた。ワシから放出される「この写真集が欲しくてたまらん」というフェロモンをマームちゃんと彼女の横に座っているバイトの女の子が察して4ドルで売ると言い口元がにやけている。 <br /><br />今まで、ソーラライトなどをワシから頂いた恩義をなどなんのその、彼女がどこかのだれからただでもらった写真集であるが、ちゃっかりただではくれない。 <br /><br />そんで、その写真集を3ドルに値切って買ったワシと、3ドルで売ったことを、けして他の職員に言わない彼女たち。 <br /><br />「今日はラッキーな日だ」 <br /><br />3ドルを手にした、ごきげんなマームちゃん。 <br /><br />帰路、国道6号線で女の子が友達と思われる道路に倒れぐったりとして意識のない若い女性を起こして必死に胸をさすっていた。その横で、やはり友達と思われる女の子が呆然と立ちすくんでいる。女の子の首は後ろにだらりと倒れ友達が胸をさする振動で身体が揺れるだけであった。彼女には外傷が見られず事故で身体を強打したものと思う。 <br /><br />ワシは、とっさの判断ができず、バイクタクシーのドライバーは、彼女に気づいていたにも関わらず冷ややかに通り過ぎるのであった。ワシは、ゲストハウスに着いたあともその女の子の安否が気がかりだった。 <br /><br />イスラムほどの男女の隔たりはなくても、この国で他人の男性が女性の身体を触るわけにはいかないので、バイクを止めさせて彼女に歩み寄り蘇生術を、彼女の友達に指導したらよかったと悔やんでいる。 <br /><br />経済成長の止まらないシェムリアップは益々交通量が増して事故が多発生している。交通のモラルなんてありゃしない。サイゴンのように交差点に早い者勝ちで頭を突っこんだ方が優先するめちゃくちゃな交通事情である。 <br /><br /> <br /><br />



    10.3ドルの写真集

    「ニュースでカンボジア難民が船に乗り、日本までやって来ていることを伝えていた。ボロボロの船に真っ黒に日焼けした人々が山ほど乗っていた。よくこんなボロ船で日本までやって来れるもんだと思っていた。近国の国や島にもだいぶ流れ着いているに違いあるまいと思っていた。たどり着けずに沈む船、船内で死ぬ人々、日本の難民収容所で数日過ごしたあと、領海外に強制出航させられてしまう…。日本の敗戦時代、家は焼かれ、ビルは壊され、人々は傷つき、親を無くし、子を失い、原爆の後遺症に悩む…そんな人々も少なくなかった時代、日本の国民はボロ着、しらみわく中、やみ市で米を求め、飢えて暮らした。そんな時代、南国より助け舟とも呼べるお米を送ってくださった国があり、それがカンボジアという名の国だと知り、僕の心は熱くなった。」

    写真家、野老康宏氏の「生と死と地雷と」という写真集に書かれていた文章の一部である。

    ワシはこの文章を読んでワシの心も熱くなった。

    ベトナム戦争のサイゴン陥落の翌年の1976年からボートピープルと呼ばれたかなりの数の旧南ベトナム難民が同じようにボロ船に乗って移住の地を求めて旅立ったことが、よくニュースで報じられ、ワシの記憶にもある。やはり、たどり着けなかったり、航海中に海賊に襲われたり、また、かなりの数のベトナム人が香港の難民キャンプに収容されたりしたと聞いた。しかし、恥ずかしながら何度もカンボジアへ来ているワシであるが、このようなカンボジア難民のことを始めて知らされた。

    日本への移民を求めていたトルコのクルド人難民が日本の移住権を取得できなかったことがニュースで報じられたことがあった。アホな外務省はトルコ当局に彼らの迫害の実態の調査を求めた。もちろん、トルコ本国では迫害の事実はないと回答するに決まっている。

    これらの難民は祖国を追われた人々で経済難民ではないのである。

    サウリーの叔母のマームちゃんが、夏休みのアルバイトで働いているプラダック村の村はずれにある「博物館、昔のカンボジア人の村」(こんな変な日本語の名前が付いていた)へ行った。サウリーの叔母といっても彼女は、高校生ぐらいで肌は黒いが笑顔が素敵な美人である。

    そこは、いくつもの掘っ立て小屋のような伝統的なカンボジアの葉っぱの家の中に、農具などが展示されていて「昔のカンボジア人の村」っていう概念なんだが、未だにほとんど機械化されていないこの国の農業であるため、展示品は古(いにしえ)の農具ではなく現在使われているものとほとんど変わりがないんじゃないのかと思ったよ。

    農機具などには興味はなかったが、この野老康宏氏の「生と死と地雷」の写真集がレセプションの机の上に置かれていてワシの目を引いた。ワシから放出される「この写真集が欲しくてたまらん」というフェロモンをマームちゃんと彼女の横に座っているバイトの女の子が察して4ドルで売ると言い口元がにやけている。

    今まで、ソーラライトなどをワシから頂いた恩義をなどなんのその、彼女がどこかのだれからただでもらった写真集であるが、ちゃっかりただではくれない。

    そんで、その写真集を3ドルに値切って買ったワシと、3ドルで売ったことを、けして他の職員に言わない彼女たち。

    「今日はラッキーな日だ」

    3ドルを手にした、ごきげんなマームちゃん。

    帰路、国道6号線で女の子が友達と思われる道路に倒れぐったりとして意識のない若い女性を起こして必死に胸をさすっていた。その横で、やはり友達と思われる女の子が呆然と立ちすくんでいる。女の子の首は後ろにだらりと倒れ友達が胸をさする振動で身体が揺れるだけであった。彼女には外傷が見られず事故で身体を強打したものと思う。

    ワシは、とっさの判断ができず、バイクタクシーのドライバーは、彼女に気づいていたにも関わらず冷ややかに通り過ぎるのであった。ワシは、ゲストハウスに着いたあともその女の子の安否が気がかりだった。

    イスラムほどの男女の隔たりはなくても、この国で他人の男性が女性の身体を触るわけにはいかないので、バイクを止めさせて彼女に歩み寄り蘇生術を、彼女の友達に指導したらよかったと悔やんでいる。

    経済成長の止まらないシェムリアップは益々交通量が増して事故が多発生している。交通のモラルなんてありゃしない。サイゴンのように交差点に早い者勝ちで頭を突っこんだ方が優先するめちゃくちゃな交通事情である。



  • <br /><br />11.トクトクでトンレサップ湖 <br /><br />朝から勢いよく雨が降っている。レインコートのないバイクや自転車に乗っている人はずぶ濡れのまま平気で走っているんだ。これなら水着でバイクに乗ったほうがいいのじゃないか?泳ぎもしないのに水着を着てバイクに乗っていたら観光客に大ウケするし一石二鳥じゃん。 <br /><br />大雨が降ると外に出てシャワー代わりに体を擦っている人もいるし、インドでは豪雨の中でシャンプーしている子供もいたっけ。ワシらは濡れることを嫌うが、カンボジア人は雨慣れしているんだな。舗装道路なら体が濡れるだけですむのだが泥道をバイクで走ると対向車が泥水をはねつけて、サンダルもズボンも泥をかぶりひどい目にあってしまう。車は、他人に泥をかぶせようが遠慮無しに平気で突っ走って行く。これが日本だったら運転手をとっ捕まええて怒鳴りつけてやりたいところだが、車に乗れる金持ちが偉いんだよこの国では。 <br /><br />今日は、サウリー家の子供たちとマームを連れてトクトクでトンレサップ湖へ行くんだ。トクトクに乗ったことのない子供たちを喜ばせようとするナイスガイなワシ。 <br /><br />タイのトクトクは、昔日本で走っていたミゼットのようなヘンテコリンな三輪自動車のタクシーであるが、カンボジアでいうトクトクはホンだのスーパーカブに客を乗せる小さなトレーラーを引かせたものである。一度、ベトナムのカントウで、このたぐいの乗り物に乗ったことがあり、それは屋根なしであったが、カンボジアのトクトクは屋根があれば雨降りには横にカバーをつけることができる。 <br /><br />肝心なトクトクドライバーのラン君が約束の8時半になっても来ない。バイクに支障があって今朝リペアに行ったまま帰ってこないのである。 <br /><br />まあ、ワシは何時でもよいのだが、ろくろ首のように首を長くして迎えを待っている子供たち申し訳ない。彼女の家の携帯電話番号を知らないのでバイクの修理で遅れることを伝えることができない。 <br /><br />そんで、ランが来たのは10時だったよ。 <br /><br />プラダック村に着くと、たかが、トンレサップ湖へ行くだけなのにサウリー家の人たちはよそ行きの服に着替えるんだよ。ワシなんか飛行機に乗るにも素足でいつもの親父型のサンダルとジャージなのに。 <br /><br />近所の人が集まってうらやましそうにワシらを見送ってた。 <br /><br />雨に濡れた赤土はオレンジ色に輝き車もバイクも泥を撒き散らして走る。トクトクのサスペンションは悪く凹凸の路面から拾う振動で体がぶるぶるとし、一頭引きならぬ二輪引き幌馬車に乗っているような感覚である。 <br /><br />幌に囲まれた客席は雨に濡れることがなくバイクタクシーの後席より快適。 <br /><br />トクトクは頻繁に子供たちの家の前を通るのだが、この子供たちがトクトクに乗るのは今回が初めて。 <br /><br />ワシとサウリーと姉のパリーに弟のピッセトとオバのマムの5人がトクトクに向かい合わせに座り、走り出すと子供たちはあこがれが叶ったようににんまりとしているんだ。ワシにとってはガーデントラクターに引かせたリヤカーに乗っかっているような、なんともチープな乗り物なんじゃがな。 <br /><br />そんで、ワシらのトクトクの後を、誘いもしないのにサウリーの両親がよそ行きの服を着てバイクで追っかけて来るんだよ。 <br /><br />雨季になるとメコン川の水がトンレサップ川を逆流して、ただでさえ馬鹿でかいトンレサップ湖が数倍の面積になり、乾季のときは湖から遠くなれていた堤防まで冠水するんだ。そんで、今の時期は、堤防から湖面へせり出すように丸太で組んだレストランで宴会をするのが旬である。 <br /><br />そんなことなので、今の季節は、トンレサップ湖へ行くということはレストランで食うってなことなので、彼女らの両親はゴチを当て込んで付いて来たっちゅうことである。 <br /><br />湖面にせり出したレストランは、葉っぱとそこらから拾ってきたような丸太というより棒で作られてジャキーチェーンが映画で壊しているような家。レストランの床は湖面からぐっと上がっているので、遠くまで見渡すことができる。遠くに見える濁った湖面から突き出ているいくつもの林も2週間後には更に上昇した水位のしたに隠れてしまうらしい。 <br /><br />レストランには、壁がなくて床は竹を裂いて貼り付けたものなので風通しが良く涼しい。竹で作られた低い仕切りで分けられた6畳ほどの部屋がいくつもあって、ハンモックが2つずつ付いている。 <br /><br />メニューは全てクメール語でワシにはなんのことなのか分かるはずがないので、好きなものを注文させたんだ。 <br /><br />運ばれてきた料理は、鳥の丸焼きに、牛肉の炒め物、牛肉の香草あえ、鳥のスープとスチームライス。宮廷料理のような素晴らしさで、こいつらワシのおごりだと思って普段食いたくても食えねいものを思いっきり頼んだな。 <br /><br />お前らには盆と正月とバアさんの葬式がいっしょに来たって食えねい食べ物だろう。 <br /><br />そんでもって、こいつら無口になっちまってここぞとばかりに食って食うんだ。今まで、知らなかったが、この親父が酒好きで、遠慮なんて言葉は皆無でビシバシ缶ビールを空け酔いもしないでケロリとしている。 <br /><br />あーあ、たまげたよカンボジア人って。 <br /><br />この季節、多くのカンボジア人が、このジャッキーチェーンに壊されそうなレストランへ来て楽しむのだが、この家族は今回初めてだったんだろうな。 <br /><br />トクトクドライバーのラン君も入れて8人で飲んで食って昼寝して二千数百円じゃったよ。 <br /><br />いつも、サウリー家でごろごろしているワシの恩返しだったが、やはり、お礼は言ってくれなかた。カンボジア人が、お礼を言わないのは、ありがちなこと。 <br /><br /> <br /><br />このシェムリアップの町外れに、元クメール・ルージュの兵士であった、アキ・アー氏が造った地雷博物館がある。連日、日本人をはじめ多くの観光客が訪れている。 <br /><br />以前、彼はワシの友達であるトクトクドライバーのラン君の親父の同僚で共に地雷撤去を行っていた。ラン君の親父は未だに、地雷撤去作業を行っており、シェムリアップ周辺の地雷撤去が終わると、未だに地雷の残る地方で作業を行っているという。撤去作業中に手足を失ったり失明したりする作業員もおる。海外からの支援で活動をしており、そのような命を張った業務であるが、支払われる賃金はけして多くはないんだとラン君はいう。作業員は好き好んで地雷撤去を行っているのではなく就職口の少ない事情で仕方なく行っているのだろう。 <br /><br />小さな子供から大人まで、地雷で手足を失った人を町でよく目にする。義足のない人は、足の切れた部分でズボンの裾を切り落として松葉杖で歩く。 <br /><br />初めて、カンボジアへ来たとき、レストランで食事をしていたワシに、片足のない男性が汚れた衣服で歩み寄り、かぶっていた野球帽をぬいで切なそうな顔で金を入れてくれとしぐさをした。店員が彼に気づくと営業妨害だというような態度で怒鳴り声を上げて追い返そうとした。ワシは、彼の野球帽に1ドル入れると目を大きく見開き笑顔でワシに合掌して立ち去った。 <br /><br />地雷で傷ついた人間をいたわろうとしない姿勢に、ただ驚いたワシ。この国では、あまりにも誰もが飢えていて、身体が不自由であろうと何の容赦もないのかと思った。 <br /><br />アンコールワットの観光拠点であるシェムリアップは、毎年、人口と観光客が増加しホテルの建設ラッシュは止まらない。 <br /><br />そんな、好景気の町にたくさんの物乞いがおり、観光客にわずかな金を求めて手を差し出す人や、手を口に運び何かを食べさせてくれとしぐさする。 <br /><br />屋台で食事をしていた、ある白人女性は、腹をすかせた物乞いの子供をテーブルに付かせて料理を注文して食べさせてあげていた。物乞いの子供をトクトクに乗せていっしょに遺跡めぐりをしていた白人男性もいた。 <br /><br />日本人は親切で思いやりのある民族だと思っていたのだが、これらは、日本人の観光客にはとてもできない行為である。 <br /><br />今やアンコールワットは巣鴨の刺抜き地蔵のごとく年配の方々が連日訪れているが、戦後の飢えていた日本人の貧相な生活を彼らにだぶらせて思い感じている人はどれほどいるのだろうか? <br /><br />既に、忘れ去られようとしている貧しかった時代が今ここにある。当時、飢えていた日本人を救ってくれたカンボジアの米のことをワシらは伝える必要があるのではなかろうか。 <br /><br />日本は、カンボジアにとって最大の援助国だと聞いたことがある。大きな橋を建設し、道路を整備し、遺跡の修復作業をするなどの事業を行っている。しかし、ひとりひとりの日本人観光客の心は冷ややかではなかろうか? <br /><br />何もできなくても、そんな、貧しい人のことを思い考えてあげることが大切だと思う。 <br /><br /> <br /><br /><br />



    11.トクトクでトンレサップ湖

    朝から勢いよく雨が降っている。レインコートのないバイクや自転車に乗っている人はずぶ濡れのまま平気で走っているんだ。これなら水着でバイクに乗ったほうがいいのじゃないか?泳ぎもしないのに水着を着てバイクに乗っていたら観光客に大ウケするし一石二鳥じゃん。

    大雨が降ると外に出てシャワー代わりに体を擦っている人もいるし、インドでは豪雨の中でシャンプーしている子供もいたっけ。ワシらは濡れることを嫌うが、カンボジア人は雨慣れしているんだな。舗装道路なら体が濡れるだけですむのだが泥道をバイクで走ると対向車が泥水をはねつけて、サンダルもズボンも泥をかぶりひどい目にあってしまう。車は、他人に泥をかぶせようが遠慮無しに平気で突っ走って行く。これが日本だったら運転手をとっ捕まええて怒鳴りつけてやりたいところだが、車に乗れる金持ちが偉いんだよこの国では。

    今日は、サウリー家の子供たちとマームを連れてトクトクでトンレサップ湖へ行くんだ。トクトクに乗ったことのない子供たちを喜ばせようとするナイスガイなワシ。

    タイのトクトクは、昔日本で走っていたミゼットのようなヘンテコリンな三輪自動車のタクシーであるが、カンボジアでいうトクトクはホンだのスーパーカブに客を乗せる小さなトレーラーを引かせたものである。一度、ベトナムのカントウで、このたぐいの乗り物に乗ったことがあり、それは屋根なしであったが、カンボジアのトクトクは屋根があれば雨降りには横にカバーをつけることができる。

    肝心なトクトクドライバーのラン君が約束の8時半になっても来ない。バイクに支障があって今朝リペアに行ったまま帰ってこないのである。

    まあ、ワシは何時でもよいのだが、ろくろ首のように首を長くして迎えを待っている子供たち申し訳ない。彼女の家の携帯電話番号を知らないのでバイクの修理で遅れることを伝えることができない。

    そんで、ランが来たのは10時だったよ。

    プラダック村に着くと、たかが、トンレサップ湖へ行くだけなのにサウリー家の人たちはよそ行きの服に着替えるんだよ。ワシなんか飛行機に乗るにも素足でいつもの親父型のサンダルとジャージなのに。

    近所の人が集まってうらやましそうにワシらを見送ってた。

    雨に濡れた赤土はオレンジ色に輝き車もバイクも泥を撒き散らして走る。トクトクのサスペンションは悪く凹凸の路面から拾う振動で体がぶるぶるとし、一頭引きならぬ二輪引き幌馬車に乗っているような感覚である。

    幌に囲まれた客席は雨に濡れることがなくバイクタクシーの後席より快適。

    トクトクは頻繁に子供たちの家の前を通るのだが、この子供たちがトクトクに乗るのは今回が初めて。

    ワシとサウリーと姉のパリーに弟のピッセトとオバのマムの5人がトクトクに向かい合わせに座り、走り出すと子供たちはあこがれが叶ったようににんまりとしているんだ。ワシにとってはガーデントラクターに引かせたリヤカーに乗っかっているような、なんともチープな乗り物なんじゃがな。

    そんで、ワシらのトクトクの後を、誘いもしないのにサウリーの両親がよそ行きの服を着てバイクで追っかけて来るんだよ。

    雨季になるとメコン川の水がトンレサップ川を逆流して、ただでさえ馬鹿でかいトンレサップ湖が数倍の面積になり、乾季のときは湖から遠くなれていた堤防まで冠水するんだ。そんで、今の時期は、堤防から湖面へせり出すように丸太で組んだレストランで宴会をするのが旬である。

    そんなことなので、今の季節は、トンレサップ湖へ行くということはレストランで食うってなことなので、彼女らの両親はゴチを当て込んで付いて来たっちゅうことである。

    湖面にせり出したレストランは、葉っぱとそこらから拾ってきたような丸太というより棒で作られてジャキーチェーンが映画で壊しているような家。レストランの床は湖面からぐっと上がっているので、遠くまで見渡すことができる。遠くに見える濁った湖面から突き出ているいくつもの林も2週間後には更に上昇した水位のしたに隠れてしまうらしい。

    レストランには、壁がなくて床は竹を裂いて貼り付けたものなので風通しが良く涼しい。竹で作られた低い仕切りで分けられた6畳ほどの部屋がいくつもあって、ハンモックが2つずつ付いている。

    メニューは全てクメール語でワシにはなんのことなのか分かるはずがないので、好きなものを注文させたんだ。

    運ばれてきた料理は、鳥の丸焼きに、牛肉の炒め物、牛肉の香草あえ、鳥のスープとスチームライス。宮廷料理のような素晴らしさで、こいつらワシのおごりだと思って普段食いたくても食えねいものを思いっきり頼んだな。

    お前らには盆と正月とバアさんの葬式がいっしょに来たって食えねい食べ物だろう。

    そんでもって、こいつら無口になっちまってここぞとばかりに食って食うんだ。今まで、知らなかったが、この親父が酒好きで、遠慮なんて言葉は皆無でビシバシ缶ビールを空け酔いもしないでケロリとしている。

    あーあ、たまげたよカンボジア人って。

    この季節、多くのカンボジア人が、このジャッキーチェーンに壊されそうなレストランへ来て楽しむのだが、この家族は今回初めてだったんだろうな。

    トクトクドライバーのラン君も入れて8人で飲んで食って昼寝して二千数百円じゃったよ。

    いつも、サウリー家でごろごろしているワシの恩返しだったが、やはり、お礼は言ってくれなかた。カンボジア人が、お礼を言わないのは、ありがちなこと。



    このシェムリアップの町外れに、元クメール・ルージュの兵士であった、アキ・アー氏が造った地雷博物館がある。連日、日本人をはじめ多くの観光客が訪れている。

    以前、彼はワシの友達であるトクトクドライバーのラン君の親父の同僚で共に地雷撤去を行っていた。ラン君の親父は未だに、地雷撤去作業を行っており、シェムリアップ周辺の地雷撤去が終わると、未だに地雷の残る地方で作業を行っているという。撤去作業中に手足を失ったり失明したりする作業員もおる。海外からの支援で活動をしており、そのような命を張った業務であるが、支払われる賃金はけして多くはないんだとラン君はいう。作業員は好き好んで地雷撤去を行っているのではなく就職口の少ない事情で仕方なく行っているのだろう。

    小さな子供から大人まで、地雷で手足を失った人を町でよく目にする。義足のない人は、足の切れた部分でズボンの裾を切り落として松葉杖で歩く。

    初めて、カンボジアへ来たとき、レストランで食事をしていたワシに、片足のない男性が汚れた衣服で歩み寄り、かぶっていた野球帽をぬいで切なそうな顔で金を入れてくれとしぐさをした。店員が彼に気づくと営業妨害だというような態度で怒鳴り声を上げて追い返そうとした。ワシは、彼の野球帽に1ドル入れると目を大きく見開き笑顔でワシに合掌して立ち去った。

    地雷で傷ついた人間をいたわろうとしない姿勢に、ただ驚いたワシ。この国では、あまりにも誰もが飢えていて、身体が不自由であろうと何の容赦もないのかと思った。

    アンコールワットの観光拠点であるシェムリアップは、毎年、人口と観光客が増加しホテルの建設ラッシュは止まらない。

    そんな、好景気の町にたくさんの物乞いがおり、観光客にわずかな金を求めて手を差し出す人や、手を口に運び何かを食べさせてくれとしぐさする。

    屋台で食事をしていた、ある白人女性は、腹をすかせた物乞いの子供をテーブルに付かせて料理を注文して食べさせてあげていた。物乞いの子供をトクトクに乗せていっしょに遺跡めぐりをしていた白人男性もいた。

    日本人は親切で思いやりのある民族だと思っていたのだが、これらは、日本人の観光客にはとてもできない行為である。

    今やアンコールワットは巣鴨の刺抜き地蔵のごとく年配の方々が連日訪れているが、戦後の飢えていた日本人の貧相な生活を彼らにだぶらせて思い感じている人はどれほどいるのだろうか?

    既に、忘れ去られようとしている貧しかった時代が今ここにある。当時、飢えていた日本人を救ってくれたカンボジアの米のことをワシらは伝える必要があるのではなかろうか。

    日本は、カンボジアにとって最大の援助国だと聞いたことがある。大きな橋を建設し、道路を整備し、遺跡の修復作業をするなどの事業を行っている。しかし、ひとりひとりの日本人観光客の心は冷ややかではなかろうか?

    何もできなくても、そんな、貧しい人のことを思い考えてあげることが大切だと思う。




  • <br /><br />12.SONYではなくてSOUNY<br /><br />ワシは、毎朝、カンボジア人の友達を誘って、マーケットで朝飯を食べる。<br />麺類、ご飯、おかゆなどの様々な屋台があり、どれも安くて、以前は、嫌いだった香草にも慣れてきたため、わりと何でも食べれるようになった。<br /><br />以前は、香草を噛んだ瞬間、香草から染み出る異様な汁の味に耐えられなくすばやく飲み込んでいたワシ。<br /><br />野菜や肉や魚が地方から運び込まれて、早朝から活気があり、その他、生活雑貨、衣類、電化製品、ジュエリーなど商品が豊富。電気屋には、コンサートで使うような幾種類もの大型スピーカーが売られている。カンボジア人は、これでもかと思うほど大音量で音楽を流すのが好きなのか自慢なのか分からないが、日本では、近所のおばさんが110番通報して、警察がぶっ飛んで来そうな大音量で夜ふけまでディスコチックのごとく騒がしくCDを流すのに大型スピーカー威力を発揮する。<br /><br />SONYではなくてSOUNYなんていうソニーのパクりものの大型スピーカーが1本50ドルという安や。(これって、ソニーじゃなくて、ソウニーか?NIKEじゃなくてNICEなんていうナイスなメーカーも見たことがあったっけ)JBLのラベルの貼られた、JBLもどきのがっちりとしたでかいスピーカーだって1本100ドルぐらいじゃないのか?<br /><br />日本製の中古のステレオラジカセがどうカンボジアへ流れ着いたのか分からないが、店頭にずらりと並べられて売られて、コテコテの中古なのに透明なビニールでラッピングされている。家庭用の電圧が日本より高電圧のため、ちゃんとトランス(変圧器)も売られており、それを通して日本製の中古電化製品を使うんだ。ラジカセなどを使う程度の小型のトランスが3ドルほどなので、日本から電化製品を持ち込んで使うには、ここでトランスを買ったほうがリーズナブルだな。<br /><br />日本では、廃品とされたラジカセが、この地は貧困層の憧れの品なのかもな。<br /><br />以前、リサイクルショップで400円で買ったカセットの壊れたソニー製のステレオラジカセを持って来てきたことがあった。カセットが壊れていてもラジオは健在である。昼間は、カンボジアのFM放送を聞き、夜になると中波のベトナム放送の日本語講座が受信できた。しかし、この辺りの国のラジオを聴いても楽しくないので、地方の貧困な家庭から来て宿で働いているお姉ちゃんたちに、新品の乾電池を付けてくれたら、鼻血がでそうになるほど喜んでいた。<br /><br />お姉ちゃんは、暇があればボリューム全開でラジオを聞いていた。乾電池を買う金も惜しんで働いているのに、音量を上げれば電池の消費が激しくなることなんて知らないんだ。<br /><br />そんなもんで、電池はすぐに終わり、ラジオはかすかな音になってしまって、悲しい声で「ウーウー」いうお姉ちゃん。ワシが、新しいアルカリ電池を差し上げるとラジオの音量とお姉ちゃんの笑顔が戻ったよ。<br /><br />チープな中国製の電化製品を使っている民が多いこの国で、やはりソニーだのパナソニックは憧れなんだ。ワシの使わなくなったソニーのウォークマンをサウリー家に差し上げたら、ソニーだっていうことでびっくらこいて、ウォークマンを持ったサウリーが口をポカリと開けていた。値段を聞かれ「100ドルぐらいしたかな」とうかつに言ってしまったら、更にビックサプライズで村人もぶったまげていた。<br /><br />彼女の友達は、5ドルの中国製だったよ。<br /><br />ワシは、中国製の小型ラジオを3ドルで買い早速部屋に帰って電池を入れて受信してみる。心配だったので店頭で電池を入れて動作確認をしたんだ。このラジオは、FMと中波の他に短波放送を受信できる9バンドである。ラジオに取り付けられている短いロッドアンテナでは短波放送を受信するには効率が悪いので、バッテリーから電源を取るために使うワニグチクリップの付いた電線も買った。<br /><br />電線の端に付いているワニグチクリップをロッドアンテナにかまして受信する。11Mhzあたりで、どこの国から放送されているのか解からないが日本短波放送を受信でき、アメリカのハリケーン「カトリーヌ」のことについて放送していた。ロッドアンテナだけでは信号が弱いが、ワニグチクリップでかました電線をつなげコンディションがよいと日本短波放送が強力に入感する。クオリティーなんて良くはないが、ポケットに入ってしまうサイズで、中国製で3ドルなんだ。<br /><br />午後に、なると10Mhz辺りで、どこかの国の英語による日本語講座が聞こえる。内容は、トラベル会話で、<br /><br />「日本には、いつでいますか?山本さんと京都へ行きます。京都は、素晴らしいところですよ」<br /><br />といった内容で、これって誰が聞いているんだ? <br /><br />最近、シェムリアップでも旅行者向けに売られるCDやDVDの品数が増えた。<br /><br />CDが2ドル半でDVDが4ドルとタグが貼られて、日本で、レンタルを借りるのとあまり変わりのない値段。しかし、音楽DVDがなくて残念。中には、MP3のCDまであり、1枚のCDに200曲近くの曲が入っているというボリューム満点。ワシは、「THE NEW TOP GROUP 2005」という今年のヒットアルバムの入ったMP3CDを買ったが、ヒラリー・ダフが入ってなくて残念。CDプレーヤーがないので、コンピュータで聞いたかぎりでは、結構な音質に満足。<br /><br />CDでもDVDでもコンピュータのOSでもパクって、ねずみ講のように親から子へ孫へと どんどんと広がってしまっているんだろうな。<br /><br />シェムリアップのセントラルマーケットのCD屋のレジの横にはCD-Rの付いたコンピュータとジャケット作るためのコピー機があたけ。赤裸々だよな。<br /><br />インターネットカフェは、タイもカンボジアもコンピュータのOSはXPなんで、驚いちまったよ。中には、低性能コンピュータにXPなんかインストールしちまうもんだから操作に追いつかないものもあったよ。 <br /><br />サウリーの家のように、未だに、電気が入っていない家庭が多く、そのような家庭では、居間にバッテリーを置いて、テレビ、ラジカセ、蛍光灯などに電気を供給する。<br /><br />そこらに、バッテリーの充電屋がって、ハイブリットの大型トラックでも作れそうな数十個のバッテリーを並列つなぎにして、充電しているんだ。充電するための電気のないところでは、ジェネレータの付いた日本製の中古のディーゼル発動機が、一日中ガタガタエンジン音を上げて充電している。<br /><br />電気もガスもあまり普及していない家庭が多いが、日本で使っているものとほぼ同型のカセットコンロがある。日本と違っているところは、カセットのガスボンベを再充填するという荒業。ゴミが出なくて環境に良いのだが、塗装が剥げて下地の鉄板が錆錆になっちまっているものでも平気でガスを再充填するので、デンジャラスな。<br /><br />数本のカセットボンベの差込口が付いた手作りの装置から伸びたホースが20キロぐらいのLPガスボンへとつながれている。その差込口に、空のカセットボンベを並べて差し込み、適当な量のガスが入ると秤で重さを測って充填量を調べるのである。<br /><br />日本で、市販されているカセットボンベよりガスを詰め込み缶内の気圧が高いようで、充填したてのカセットボンベは、周富徳さんが(こんな人いなかったけ?)中華料理を作れそうなビックな火力だった。<br /><br />カセットコンロには、ナショナルと書かれていたものもあったが、ホントかよ?<br /><br /><br />



    12.SONYではなくてSOUNY

    ワシは、毎朝、カンボジア人の友達を誘って、マーケットで朝飯を食べる。
    麺類、ご飯、おかゆなどの様々な屋台があり、どれも安くて、以前は、嫌いだった香草にも慣れてきたため、わりと何でも食べれるようになった。

    以前は、香草を噛んだ瞬間、香草から染み出る異様な汁の味に耐えられなくすばやく飲み込んでいたワシ。

    野菜や肉や魚が地方から運び込まれて、早朝から活気があり、その他、生活雑貨、衣類、電化製品、ジュエリーなど商品が豊富。電気屋には、コンサートで使うような幾種類もの大型スピーカーが売られている。カンボジア人は、これでもかと思うほど大音量で音楽を流すのが好きなのか自慢なのか分からないが、日本では、近所のおばさんが110番通報して、警察がぶっ飛んで来そうな大音量で夜ふけまでディスコチックのごとく騒がしくCDを流すのに大型スピーカー威力を発揮する。

    SONYではなくてSOUNYなんていうソニーのパクりものの大型スピーカーが1本50ドルという安や。(これって、ソニーじゃなくて、ソウニーか?NIKEじゃなくてNICEなんていうナイスなメーカーも見たことがあったっけ)JBLのラベルの貼られた、JBLもどきのがっちりとしたでかいスピーカーだって1本100ドルぐらいじゃないのか?

    日本製の中古のステレオラジカセがどうカンボジアへ流れ着いたのか分からないが、店頭にずらりと並べられて売られて、コテコテの中古なのに透明なビニールでラッピングされている。家庭用の電圧が日本より高電圧のため、ちゃんとトランス(変圧器)も売られており、それを通して日本製の中古電化製品を使うんだ。ラジカセなどを使う程度の小型のトランスが3ドルほどなので、日本から電化製品を持ち込んで使うには、ここでトランスを買ったほうがリーズナブルだな。

    日本では、廃品とされたラジカセが、この地は貧困層の憧れの品なのかもな。

    以前、リサイクルショップで400円で買ったカセットの壊れたソニー製のステレオラジカセを持って来てきたことがあった。カセットが壊れていてもラジオは健在である。昼間は、カンボジアのFM放送を聞き、夜になると中波のベトナム放送の日本語講座が受信できた。しかし、この辺りの国のラジオを聴いても楽しくないので、地方の貧困な家庭から来て宿で働いているお姉ちゃんたちに、新品の乾電池を付けてくれたら、鼻血がでそうになるほど喜んでいた。

    お姉ちゃんは、暇があればボリューム全開でラジオを聞いていた。乾電池を買う金も惜しんで働いているのに、音量を上げれば電池の消費が激しくなることなんて知らないんだ。

    そんなもんで、電池はすぐに終わり、ラジオはかすかな音になってしまって、悲しい声で「ウーウー」いうお姉ちゃん。ワシが、新しいアルカリ電池を差し上げるとラジオの音量とお姉ちゃんの笑顔が戻ったよ。

    チープな中国製の電化製品を使っている民が多いこの国で、やはりソニーだのパナソニックは憧れなんだ。ワシの使わなくなったソニーのウォークマンをサウリー家に差し上げたら、ソニーだっていうことでびっくらこいて、ウォークマンを持ったサウリーが口をポカリと開けていた。値段を聞かれ「100ドルぐらいしたかな」とうかつに言ってしまったら、更にビックサプライズで村人もぶったまげていた。

    彼女の友達は、5ドルの中国製だったよ。

    ワシは、中国製の小型ラジオを3ドルで買い早速部屋に帰って電池を入れて受信してみる。心配だったので店頭で電池を入れて動作確認をしたんだ。このラジオは、FMと中波の他に短波放送を受信できる9バンドである。ラジオに取り付けられている短いロッドアンテナでは短波放送を受信するには効率が悪いので、バッテリーから電源を取るために使うワニグチクリップの付いた電線も買った。

    電線の端に付いているワニグチクリップをロッドアンテナにかまして受信する。11Mhzあたりで、どこの国から放送されているのか解からないが日本短波放送を受信でき、アメリカのハリケーン「カトリーヌ」のことについて放送していた。ロッドアンテナだけでは信号が弱いが、ワニグチクリップでかました電線をつなげコンディションがよいと日本短波放送が強力に入感する。クオリティーなんて良くはないが、ポケットに入ってしまうサイズで、中国製で3ドルなんだ。

    午後に、なると10Mhz辺りで、どこかの国の英語による日本語講座が聞こえる。内容は、トラベル会話で、

    「日本には、いつでいますか?山本さんと京都へ行きます。京都は、素晴らしいところですよ」

    といった内容で、これって誰が聞いているんだ?

    最近、シェムリアップでも旅行者向けに売られるCDやDVDの品数が増えた。

    CDが2ドル半でDVDが4ドルとタグが貼られて、日本で、レンタルを借りるのとあまり変わりのない値段。しかし、音楽DVDがなくて残念。中には、MP3のCDまであり、1枚のCDに200曲近くの曲が入っているというボリューム満点。ワシは、「THE NEW TOP GROUP 2005」という今年のヒットアルバムの入ったMP3CDを買ったが、ヒラリー・ダフが入ってなくて残念。CDプレーヤーがないので、コンピュータで聞いたかぎりでは、結構な音質に満足。

    CDでもDVDでもコンピュータのOSでもパクって、ねずみ講のように親から子へ孫へと どんどんと広がってしまっているんだろうな。

    シェムリアップのセントラルマーケットのCD屋のレジの横にはCD-Rの付いたコンピュータとジャケット作るためのコピー機があたけ。赤裸々だよな。

    インターネットカフェは、タイもカンボジアもコンピュータのOSはXPなんで、驚いちまったよ。中には、低性能コンピュータにXPなんかインストールしちまうもんだから操作に追いつかないものもあったよ。

    サウリーの家のように、未だに、電気が入っていない家庭が多く、そのような家庭では、居間にバッテリーを置いて、テレビ、ラジカセ、蛍光灯などに電気を供給する。

    そこらに、バッテリーの充電屋がって、ハイブリットの大型トラックでも作れそうな数十個のバッテリーを並列つなぎにして、充電しているんだ。充電するための電気のないところでは、ジェネレータの付いた日本製の中古のディーゼル発動機が、一日中ガタガタエンジン音を上げて充電している。

    電気もガスもあまり普及していない家庭が多いが、日本で使っているものとほぼ同型のカセットコンロがある。日本と違っているところは、カセットのガスボンベを再充填するという荒業。ゴミが出なくて環境に良いのだが、塗装が剥げて下地の鉄板が錆錆になっちまっているものでも平気でガスを再充填するので、デンジャラスな。

    数本のカセットボンベの差込口が付いた手作りの装置から伸びたホースが20キロぐらいのLPガスボンへとつながれている。その差込口に、空のカセットボンベを並べて差し込み、適当な量のガスが入ると秤で重さを測って充填量を調べるのである。

    日本で、市販されているカセットボンベよりガスを詰め込み缶内の気圧が高いようで、充填したてのカセットボンベは、周富徳さんが(こんな人いなかったけ?)中華料理を作れそうなビックな火力だった。

    カセットコンロには、ナショナルと書かれていたものもあったが、ホントかよ?


  • <br /><br />13.不良品の三脚 <br /><br />NHK短波放送が、11Mhz辺りでがクリアーかつ安定して入感し、今朝は、コンディションが良い。数々の短波放送局が受信できるのだが、そのほとんどが中国の放送であって、中国の古典的な音楽が聞こえる。国土の広い国なので、中波放送ではいくつも放送局を各地に設備しなければならないため、広いエリアをカバーできる短波放送局が盛んなのかなって勝手に推測?ロシアには長波のラジオ局があったんじゃなかったっけ?そんなものを受信するラジオってどんなんだろうな? <br /><br />アマチュア無線のバンドを受信してみるが、AMで受信するSSBのモゴモゴといった音は聞こえてこなかった。中国の人民が作ったチープなラジオでは、物足りなくなったワシ。無理してでも日本からまともなレシーバを持参し、電源はマーケットでバッテリーを買い、宿の屋上にワイヤーアンテナを張りアンテナチューナーにつなげば、ビシバシと短波を楽しめる。 <br /><br />日本からの電波が電離層を反射してこの辺りに落ちやすいようで、ワシは日本から何度もカンボジアと無線交信をしている。 <br /><br />ODAで、途上国にラジオ放送局を建設しているらしく、それらは中波よりコストのかからないFM放送局が多いようで、カンボジアにもいくつものもFM放送局があり、中波放送は、ほとんど聞こえない。ラジオから地元のオリジナルの曲の他に、橋幸夫や田端義男や坂本九などの日本の遠い昔の曲をクメール語(カンボジア語)で、リメークして歌っているのが流れるんだ。バスの中で、そんな歌がかかると妙に車窓のカンボジアの風景にあっちまって、おかしいんだ。 <br /><br />きっと、カンボジアは、日本でそんな曲がはやっていたころの風景と似ているんだな。 <br /><br />カメラの三脚を買いに行く。 <br /><br />ワシが狙っている、ある写真には三脚が必要だからである。 <br /><br />9バンドのトランジスターラジオが3ドルだったのに、どこの国で、製造されたのかわからないような小さな三脚が29ドルもする。一泊3ドルのツインベッドの部屋に寝て、一食100円前後の食事を食べて、1本50円のビールを飲んでいるような生活をしていると、29ドルはかなりの大金に感じるんだ。 <br /><br />29ドルの三脚を26ドルに値切って買い、早速、使おうと思ったら、プラスチック製のチープな雲台に亀裂が入っておりの固定ネジを締め付けても雲台が止まらない。 <br /><br />すぐさま、買った店へ持って行ったが、一度買ったものだから交換は不可能だと、睨むようにワシを見るオーナーの娘。交渉の結果、10ドルで、何とか新しいものと交換することができ、カメラ屋は、また、一儲けできたな。 <br /><br />買うときに、三脚の脚の強度ばかりを気にしていて、雲台をよく確認しなかったワシ。 <br /><br />あ~、また授業料を払っちまった。 <br /><br />カンボジア人の友達に聞くと、以前は、デジタルカメラを持ち歩いていたのは日本人だけであったが、今やカンボジアを訪れる観光客の90パーセントがデジタルカメラだと、本当か嘘か分からないが言っていた。確かに、デジタルカメラを多くの観光客が使っている。 <br /><br />今日、三脚を買いに行った町一番の品揃えと言うが(これも本当か嘘か分からないが)ちんけなカメラやには、デジタルカメラの各種のメモリーや充電器があり、更にはデジタルプリントまで可能だと怖い目をした娘が言っていた。 <br /><br />カメラ屋のお客って、一部のカンボジア人と観光客だけだろうな。 <br /><br /><br />



    13.不良品の三脚

    NHK短波放送が、11Mhz辺りでがクリアーかつ安定して入感し、今朝は、コンディションが良い。数々の短波放送局が受信できるのだが、そのほとんどが中国の放送であって、中国の古典的な音楽が聞こえる。国土の広い国なので、中波放送ではいくつも放送局を各地に設備しなければならないため、広いエリアをカバーできる短波放送局が盛んなのかなって勝手に推測?ロシアには長波のラジオ局があったんじゃなかったっけ?そんなものを受信するラジオってどんなんだろうな?

    アマチュア無線のバンドを受信してみるが、AMで受信するSSBのモゴモゴといった音は聞こえてこなかった。中国の人民が作ったチープなラジオでは、物足りなくなったワシ。無理してでも日本からまともなレシーバを持参し、電源はマーケットでバッテリーを買い、宿の屋上にワイヤーアンテナを張りアンテナチューナーにつなげば、ビシバシと短波を楽しめる。

    日本からの電波が電離層を反射してこの辺りに落ちやすいようで、ワシは日本から何度もカンボジアと無線交信をしている。

    ODAで、途上国にラジオ放送局を建設しているらしく、それらは中波よりコストのかからないFM放送局が多いようで、カンボジアにもいくつものもFM放送局があり、中波放送は、ほとんど聞こえない。ラジオから地元のオリジナルの曲の他に、橋幸夫や田端義男や坂本九などの日本の遠い昔の曲をクメール語(カンボジア語)で、リメークして歌っているのが流れるんだ。バスの中で、そんな歌がかかると妙に車窓のカンボジアの風景にあっちまって、おかしいんだ。

    きっと、カンボジアは、日本でそんな曲がはやっていたころの風景と似ているんだな。

    カメラの三脚を買いに行く。

    ワシが狙っている、ある写真には三脚が必要だからである。

    9バンドのトランジスターラジオが3ドルだったのに、どこの国で、製造されたのかわからないような小さな三脚が29ドルもする。一泊3ドルのツインベッドの部屋に寝て、一食100円前後の食事を食べて、1本50円のビールを飲んでいるような生活をしていると、29ドルはかなりの大金に感じるんだ。

    29ドルの三脚を26ドルに値切って買い、早速、使おうと思ったら、プラスチック製のチープな雲台に亀裂が入っておりの固定ネジを締め付けても雲台が止まらない。

    すぐさま、買った店へ持って行ったが、一度買ったものだから交換は不可能だと、睨むようにワシを見るオーナーの娘。交渉の結果、10ドルで、何とか新しいものと交換することができ、カメラ屋は、また、一儲けできたな。

    買うときに、三脚の脚の強度ばかりを気にしていて、雲台をよく確認しなかったワシ。

    あ~、また授業料を払っちまった。

    カンボジア人の友達に聞くと、以前は、デジタルカメラを持ち歩いていたのは日本人だけであったが、今やカンボジアを訪れる観光客の90パーセントがデジタルカメラだと、本当か嘘か分からないが言っていた。確かに、デジタルカメラを多くの観光客が使っている。

    今日、三脚を買いに行った町一番の品揃えと言うが(これも本当か嘘か分からないが)ちんけなカメラやには、デジタルカメラの各種のメモリーや充電器があり、更にはデジタルプリントまで可能だと怖い目をした娘が言っていた。

    カメラ屋のお客って、一部のカンボジア人と観光客だけだろうな。


  • <br /><br />14.識字のできない少女たち <br /><br />カンボジアのアンコールワットの観光拠点となるシェムリアップのワシの定宿には、数人の少女が住み込みで働いている。彼女等は、農村部の貧困な家庭の出身で、稼いだ賃金の全てを両親に渡していることだろう。 <br /><br />彼女等は朝の5時半ごろから仕事を始め、旅行客を乗せたバスが来たときは、バスが到着した深夜に旅行客に料理を作らなければならないため、満足な睡眠時間ない。着飾りたい年頃であるが、どの少女もわずかな古着しか持っていない。 <br /><br />タイル張りの廊下に座っていたひとりの少女に、ワシの撮影したタイと国境を接する山岳部のポル・ポトの家の写真を見せた。英語のできない彼女に、写真の中のクメール語(カンボジア語)で書かれた看板に指を差すと彼女は硬直した顔で首を横に振る。 <br /><br />ワシは、彼女がポル・ポトの家と書かれた看板の文字を読んで、これが、残虐行為をしたポル・ポトの家だと知り硬直して首を振ったのかと思ったのだが、そうではなかった。 <br /><br />となりにいたホテル専属のバイクタクシーの青年が、「この女の子は、文字が読めないんだ。話ができるだけで、計算もできない」とあっけらかんとした表情で言うのである。ワシは、彼女が識字も計算もできないと知り、彼女の瞳を見つめて、驚きと同情とこの先の彼女の人生が気がかりとなり、心のかなでわだかまりとなって言葉を失ってしまった。 <br /><br />バイクタクシーの青年が、クメール語でポル・ポトの家だと説明すると彼女は大きな目を瞬(まば)きもせずに写真を見つめた。 <br /><br />低賃金でけなげに働く小さくて細い身体の彼女たちをあわれに思ったあるインド人旅行者が、タイの紙幣を一枚ずつ差し上げた。それは、20ドルを越える金額に相当するものであった。 <br /><br />ホテルオーナーは、彼女たちにタイ紙幣を両替してあげると持ちかけて、彼女たちが無知で計算のできないことをいいことに、タイ紙幣と交換に10ドル相当のカンボジアの紙幣を手渡し、がっぽりと上前を撥(は)ねたという。 <br /><br />一ヶ月30ドルたらずにしかならない給料で働く彼女たちは、ホテルのオーナーが両替してくれた金に大喜びをして、ホテルのオーナーは少女たちの笑顔を見ていたに違いない。 <br /><br />その後、彼女たちは、ホテルのバイクタクシーの青年らからホテルのオーナーが不当な両替をしたと聞かされたが、怖くて不満を言えずに泣き寝入りをした。 <br /><br />仕事に耐え切れず半月で退職を申し出た女の子が給料を求めたら、従事したのは一ヶ月未満だからといって、賃金の支払いを拒否されたケースもあったという。  <br /><br />ワシは、アメリカに移民した日本人農家の映画を思い出した。 <br /><br />教育を受けていない樹木希林が演じる農婦が市場へ生産物を出荷するときに、計算のできない彼女を知る人間が金をごまかすので、いっしょに小学生の娘を市場へ連れて行き彼女が計算のできない母親を守るシーンがその映画の中にあった。 <br /><br />この国でも同じように、計算が出来なく知識がない人間をだます情のない人間は多く、ホテルのオーナーは、カンボジアの地方からコントロールが容易いにできる満足な教育を受けていない女の子を選んで雇っているという。 <br /><br />カンボジアの田舎から長時間トラックの荷台で悪路に揺られ、たどり着いた職場で、不慣れな仕事にとまどい罵声を浴びせられ、それに耐えて朝から晩まで働いても、醜悪(しゅうあく)なホテルのオーナーからは、なわずかな賃金しか与えられない。 <br /><br />宿泊する外国人旅行者が当たり前のように持ち歩いている物が、彼女らにとっては自分から大きくかけ離された高価な物であろうし、宿泊者がホテルのレストランで飲み食いしているものも彼女たちにとっては贅沢なものでそれらは日本人からすると低料金であるが、朝昼晩の三食分で彼女らの日当の何日分にも相当してしまう。 <br /><br />このホテルのオーナーは、何を考えているのだろうと想像してしまう。自分の行っている行為を自分や身内に置き換えて考えてみることができないのだろうか? <br /><br />赤裸々に、金を愛するしたたかさに、満足な教育を受けていない人間が犠牲となり続けなければならないことに、苛立ちを覚える。 <br /><br />こんな境遇うに置かれながらも屈託のない笑顔で微笑みかけてくる少女たちがいとおしい。 <br /><br />このような不幸な境遇の人間を保護し教育の機会があれば与えてあげるような行為をすることが当然であるとワシは思う。 <br /><br />これは、彼女等に限ったことではなく、同じようなあわれな待遇を受けている人間は無数にいると思うし、改革開放後、目覚しい発展をしている右肩上がりの中国は、国内に大きな経済格差が生まれ、この国ように都市部で地方出身者が苦しんでいるのではないのか? <br /><br />交通事故のけが人を病院へ搬送したという、ある日本人の文章を読んだことがある。 <br /><br />彼は、カンボジア西部の町バッタンバンから国道5号線でプノンペンに向かっている途中、大事故に遭遇し、事故現場を通り過ぎたが気がかりになり引き返した。 <br /><br />何人もの人が大怪我をして、事故後時間が経過していたようで、出血した血液は固まっており、ひとりの少年は目玉が飛び出ており、事故を起こした車は、恐ろしくなって現場から逃げ去っていた。 <br /><br />彼は、けが人を病院へ運んだが、治療費の支払い能力のない患者を医師が相手にしてくれなかったという。彼は、自分は日本人であり医療費の責任をもつと言い医師に患者の手当てをさせたというのである。 <br /><br />この国で、貧困層はいかに弱者であろうか。 <br /><br />たとえ、毎日、食べる米があって生活ができても、有事の際は相手にしてもらえない。 <br /><br />宿で働く女の子の家庭も貧困であったり未だに学校が不足していたりしているため教育を受けることができなかったのだろう。また、ある程度の年齢になると学校へ行かずに、農家の労働力として家族と共に農作業を行わなければならない子供もいる。 <br /><br />彼女たちは、戦後生まであるため、ポル・ポトの支配下で、教育が受けられなかったわけではない。 <br /><br />平和が訪れ経済が成長するとカーストのごとく経済力が異なった層ができて、それが身分に比例するようで、自分より経済力の劣る者を見下す金持ちの態度は大きい。 <br /><br />経済力の劣る貧困な人を病院に運び治療費を負担した、その日本人の正義感が同じ日本人として大変うれしく感じた。 <br /><br />マームという25歳ぐらいの女性が、クメール語を知らないワシに会うたびにクメール語で話しかけてくるのだが、当然、理解などできないので、首を横に振ると口を尖らせてすねた顔をする。 <br /><br />マームは、いつもカメラを持ち歩いているワシに、自分の写真を撮ってくれと小声で話しながら手でしぐさをした。そして、ワシがカメラを構えると、マームは、レンズに向かって微笑み、写真を撮り終えると何度か手のひらを自分の胸に向けて動かした。そして、ワシは写真が欲しいというマームの気持ちはすぐに理解できた。 <br /><br />ワシは、自分の写真を見て喜ぶマームの顔を想像しながら彼女の写真を持って、再びカンボジアへ渡ったときには、既にマームは、劣悪な職場環境に耐え切れず帰郷してしまった後であった。 <br /><br />貧困な家庭で育ったマームは満足な自分の写真すら持っていなかったのだろ。 <br /><br />そして、マームの家が、ワシのいるシェムリアップからそれほど遠くないと聞いたので、行くことにした。 <br /><br />彼女の家は、シェムリアップから約30キロ離れたトラーイ村という電気も通っていない村であった。 <br /><br />道路は、途中から未舗装で、道幅がしだいに狭くなり、バイクがやっと通れるほどの板が並べてあるだけの水路の橋を渡ると雨で道路が流れ落ちており、これが生活道路とはとても思えなかった。 <br /><br />その朽ち果てた橋を渡るとトラーイ村である。 <br /><br />トラーイ村は、バイクと自転車が通って細く踏み固められた小道がヤシに囲まれた道路の中央に伸びており、その道の両側に水路があって、水路を渡った奥に小さな民家が点在している静かな農村であった。 <br /><br />何人もの村人に彼女の家を尋ね、ようやくマームの家にたどり着くことができた。そして、マームの元気な顔が見られると思ったのだが、農作業に出かけていて彼女の家は留守であったため、以前、同じホテルで働いていたマームの家の近所に住むリーという女の子がおり、リーの母親に彼女に写真を渡すように頼んだら、「なんで、私の娘の写真はないのだ?」とワシを睨みつけて言う。人に対するマナーなんて皆無のような人間が多くて、平気で無礼な態度をとる。ワシは、その母親に失礼な行為をしたわけでもなく、たった1枚の写真をマームに届けたかっただけである。「今度は、私の娘の写真も撮ってほしい」と言えない母親は貧困な生活の中で卑屈になっているように思えた。 <br /><br />肌の色が黒くガリガリに痩せているリーは、いつも辛そうな表情をして笑顔を見せなかった。リーは、ワシを見ると必ず、「シゲ、シゲ」とワシの名を呼んでいた。 <br /><br />以前、リーがワシの畳んであった衣類を指差してから、その手を自分の胸に動かして、欲しいというしぐさをした。リーの表情は悲しく、黒い瞳で訴えるようにワシを見つめ、生活苦がにじみ出ているようであった。 <br /><br />ワシが、衣類を彼女に差し上げる仕草をすると、リーはワシに合掌して、「オックン(ありがとう)」と小声でお礼を言い、彼女は心から感謝をしてくれた。 <br /><br />このとき、帰国間際であったワシは、身に着けている衣類以外は全てリーに差し上げた。 <br /><br />今回、あまりに貧相なこの村の様子を見て、彼女の気持ちが分かった気がする。リーは、満足な衣類もない家族のために、ワシの衣類を実家に持ち帰りたかったのだろう。 <br /><br />この国では、未だに子供が家族のために働くことが当たり前なのだろう。ある程度の年齢になると農作業の労働力として扱われて、満足に学校へ通わせてもらえない子どもたちの親に教育の大切さを知ってもらいたい。このような状況を繰り返してしたら日常生活や仕事の雇用に支障が起こるだけでなく、差別をされ肩身の狭い思いに耐え続けなくてはならない。 <br /><br />それと、きちんとした人間教育が必要だ。人と接する態度があまりにも粗悪で無責任な人間が多すぎる。他国の経済力をうらやむが、道徳性に欠けておれば信頼が持てずに円滑な経済発展は望めないと思う。 <br /><br />この国の政治経済が劣っていても国民の理性は確かであってほしい。どうしようもないあわれな境遇の中でも必死に生きている人々が切なく、その人たちの人生の好転を願わずにはいられない。 <br /><br />



    14.識字のできない少女たち

    カンボジアのアンコールワットの観光拠点となるシェムリアップのワシの定宿には、数人の少女が住み込みで働いている。彼女等は、農村部の貧困な家庭の出身で、稼いだ賃金の全てを両親に渡していることだろう。

    彼女等は朝の5時半ごろから仕事を始め、旅行客を乗せたバスが来たときは、バスが到着した深夜に旅行客に料理を作らなければならないため、満足な睡眠時間ない。着飾りたい年頃であるが、どの少女もわずかな古着しか持っていない。

    タイル張りの廊下に座っていたひとりの少女に、ワシの撮影したタイと国境を接する山岳部のポル・ポトの家の写真を見せた。英語のできない彼女に、写真の中のクメール語(カンボジア語)で書かれた看板に指を差すと彼女は硬直した顔で首を横に振る。

    ワシは、彼女がポル・ポトの家と書かれた看板の文字を読んで、これが、残虐行為をしたポル・ポトの家だと知り硬直して首を振ったのかと思ったのだが、そうではなかった。

    となりにいたホテル専属のバイクタクシーの青年が、「この女の子は、文字が読めないんだ。話ができるだけで、計算もできない」とあっけらかんとした表情で言うのである。ワシは、彼女が識字も計算もできないと知り、彼女の瞳を見つめて、驚きと同情とこの先の彼女の人生が気がかりとなり、心のかなでわだかまりとなって言葉を失ってしまった。

    バイクタクシーの青年が、クメール語でポル・ポトの家だと説明すると彼女は大きな目を瞬(まば)きもせずに写真を見つめた。

    低賃金でけなげに働く小さくて細い身体の彼女たちをあわれに思ったあるインド人旅行者が、タイの紙幣を一枚ずつ差し上げた。それは、20ドルを越える金額に相当するものであった。

    ホテルオーナーは、彼女たちにタイ紙幣を両替してあげると持ちかけて、彼女たちが無知で計算のできないことをいいことに、タイ紙幣と交換に10ドル相当のカンボジアの紙幣を手渡し、がっぽりと上前を撥(は)ねたという。

    一ヶ月30ドルたらずにしかならない給料で働く彼女たちは、ホテルのオーナーが両替してくれた金に大喜びをして、ホテルのオーナーは少女たちの笑顔を見ていたに違いない。

    その後、彼女たちは、ホテルのバイクタクシーの青年らからホテルのオーナーが不当な両替をしたと聞かされたが、怖くて不満を言えずに泣き寝入りをした。

    仕事に耐え切れず半月で退職を申し出た女の子が給料を求めたら、従事したのは一ヶ月未満だからといって、賃金の支払いを拒否されたケースもあったという。

    ワシは、アメリカに移民した日本人農家の映画を思い出した。

    教育を受けていない樹木希林が演じる農婦が市場へ生産物を出荷するときに、計算のできない彼女を知る人間が金をごまかすので、いっしょに小学生の娘を市場へ連れて行き彼女が計算のできない母親を守るシーンがその映画の中にあった。

    この国でも同じように、計算が出来なく知識がない人間をだます情のない人間は多く、ホテルのオーナーは、カンボジアの地方からコントロールが容易いにできる満足な教育を受けていない女の子を選んで雇っているという。

    カンボジアの田舎から長時間トラックの荷台で悪路に揺られ、たどり着いた職場で、不慣れな仕事にとまどい罵声を浴びせられ、それに耐えて朝から晩まで働いても、醜悪(しゅうあく)なホテルのオーナーからは、なわずかな賃金しか与えられない。

    宿泊する外国人旅行者が当たり前のように持ち歩いている物が、彼女らにとっては自分から大きくかけ離された高価な物であろうし、宿泊者がホテルのレストランで飲み食いしているものも彼女たちにとっては贅沢なものでそれらは日本人からすると低料金であるが、朝昼晩の三食分で彼女らの日当の何日分にも相当してしまう。

    このホテルのオーナーは、何を考えているのだろうと想像してしまう。自分の行っている行為を自分や身内に置き換えて考えてみることができないのだろうか?

    赤裸々に、金を愛するしたたかさに、満足な教育を受けていない人間が犠牲となり続けなければならないことに、苛立ちを覚える。

    こんな境遇うに置かれながらも屈託のない笑顔で微笑みかけてくる少女たちがいとおしい。

    このような不幸な境遇の人間を保護し教育の機会があれば与えてあげるような行為をすることが当然であるとワシは思う。

    これは、彼女等に限ったことではなく、同じようなあわれな待遇を受けている人間は無数にいると思うし、改革開放後、目覚しい発展をしている右肩上がりの中国は、国内に大きな経済格差が生まれ、この国ように都市部で地方出身者が苦しんでいるのではないのか?

    交通事故のけが人を病院へ搬送したという、ある日本人の文章を読んだことがある。

    彼は、カンボジア西部の町バッタンバンから国道5号線でプノンペンに向かっている途中、大事故に遭遇し、事故現場を通り過ぎたが気がかりになり引き返した。

    何人もの人が大怪我をして、事故後時間が経過していたようで、出血した血液は固まっており、ひとりの少年は目玉が飛び出ており、事故を起こした車は、恐ろしくなって現場から逃げ去っていた。

    彼は、けが人を病院へ運んだが、治療費の支払い能力のない患者を医師が相手にしてくれなかったという。彼は、自分は日本人であり医療費の責任をもつと言い医師に患者の手当てをさせたというのである。

    この国で、貧困層はいかに弱者であろうか。

    たとえ、毎日、食べる米があって生活ができても、有事の際は相手にしてもらえない。

    宿で働く女の子の家庭も貧困であったり未だに学校が不足していたりしているため教育を受けることができなかったのだろう。また、ある程度の年齢になると学校へ行かずに、農家の労働力として家族と共に農作業を行わなければならない子供もいる。

    彼女たちは、戦後生まであるため、ポル・ポトの支配下で、教育が受けられなかったわけではない。

    平和が訪れ経済が成長するとカーストのごとく経済力が異なった層ができて、それが身分に比例するようで、自分より経済力の劣る者を見下す金持ちの態度は大きい。

    経済力の劣る貧困な人を病院に運び治療費を負担した、その日本人の正義感が同じ日本人として大変うれしく感じた。

    マームという25歳ぐらいの女性が、クメール語を知らないワシに会うたびにクメール語で話しかけてくるのだが、当然、理解などできないので、首を横に振ると口を尖らせてすねた顔をする。

    マームは、いつもカメラを持ち歩いているワシに、自分の写真を撮ってくれと小声で話しながら手でしぐさをした。そして、ワシがカメラを構えると、マームは、レンズに向かって微笑み、写真を撮り終えると何度か手のひらを自分の胸に向けて動かした。そして、ワシは写真が欲しいというマームの気持ちはすぐに理解できた。

    ワシは、自分の写真を見て喜ぶマームの顔を想像しながら彼女の写真を持って、再びカンボジアへ渡ったときには、既にマームは、劣悪な職場環境に耐え切れず帰郷してしまった後であった。

    貧困な家庭で育ったマームは満足な自分の写真すら持っていなかったのだろ。

    そして、マームの家が、ワシのいるシェムリアップからそれほど遠くないと聞いたので、行くことにした。

    彼女の家は、シェムリアップから約30キロ離れたトラーイ村という電気も通っていない村であった。

    道路は、途中から未舗装で、道幅がしだいに狭くなり、バイクがやっと通れるほどの板が並べてあるだけの水路の橋を渡ると雨で道路が流れ落ちており、これが生活道路とはとても思えなかった。

    その朽ち果てた橋を渡るとトラーイ村である。

    トラーイ村は、バイクと自転車が通って細く踏み固められた小道がヤシに囲まれた道路の中央に伸びており、その道の両側に水路があって、水路を渡った奥に小さな民家が点在している静かな農村であった。

    何人もの村人に彼女の家を尋ね、ようやくマームの家にたどり着くことができた。そして、マームの元気な顔が見られると思ったのだが、農作業に出かけていて彼女の家は留守であったため、以前、同じホテルで働いていたマームの家の近所に住むリーという女の子がおり、リーの母親に彼女に写真を渡すように頼んだら、「なんで、私の娘の写真はないのだ?」とワシを睨みつけて言う。人に対するマナーなんて皆無のような人間が多くて、平気で無礼な態度をとる。ワシは、その母親に失礼な行為をしたわけでもなく、たった1枚の写真をマームに届けたかっただけである。「今度は、私の娘の写真も撮ってほしい」と言えない母親は貧困な生活の中で卑屈になっているように思えた。

    肌の色が黒くガリガリに痩せているリーは、いつも辛そうな表情をして笑顔を見せなかった。リーは、ワシを見ると必ず、「シゲ、シゲ」とワシの名を呼んでいた。

    以前、リーがワシの畳んであった衣類を指差してから、その手を自分の胸に動かして、欲しいというしぐさをした。リーの表情は悲しく、黒い瞳で訴えるようにワシを見つめ、生活苦がにじみ出ているようであった。

    ワシが、衣類を彼女に差し上げる仕草をすると、リーはワシに合掌して、「オックン(ありがとう)」と小声でお礼を言い、彼女は心から感謝をしてくれた。

    このとき、帰国間際であったワシは、身に着けている衣類以外は全てリーに差し上げた。

    今回、あまりに貧相なこの村の様子を見て、彼女の気持ちが分かった気がする。リーは、満足な衣類もない家族のために、ワシの衣類を実家に持ち帰りたかったのだろう。

    この国では、未だに子供が家族のために働くことが当たり前なのだろう。ある程度の年齢になると農作業の労働力として扱われて、満足に学校へ通わせてもらえない子どもたちの親に教育の大切さを知ってもらいたい。このような状況を繰り返してしたら日常生活や仕事の雇用に支障が起こるだけでなく、差別をされ肩身の狭い思いに耐え続けなくてはならない。

    それと、きちんとした人間教育が必要だ。人と接する態度があまりにも粗悪で無責任な人間が多すぎる。他国の経済力をうらやむが、道徳性に欠けておれば信頼が持てずに円滑な経済発展は望めないと思う。

    この国の政治経済が劣っていても国民の理性は確かであってほしい。どうしようもないあわれな境遇の中でも必死に生きている人々が切なく、その人たちの人生の好転を願わずにはいられない。

  • <br /><br />15.再びトラーイ村へ <br /><br />帰国前に、どうしてトラーイ村の教育現状を知りたかったワシは、再びバイクタクシーでトラーイ村へ行くことにした。既に、雨の季節は終わりを告げ乾期が始まっていた。トラーイ村へ行く途中の道では、2ヶ月前も傷んだ舗装道路の修復作業が行われていたが、未だに道路にはアスファルトが施されていない。ダンプカーで砕石をあけて、それをブルドーザーのような重機で平らにならし、重いローラーの付いた機械で踏み固めてアスファルトを敷くようなワシ等の考える工法ではなく、ダンプカーで運ばれた10センチ角ほどの石を水平に張った糸の高さまで人夫が手作業で並べという手間のかかる作業を行っているため、たかが数キロの区間であるが未だに施工中である。 <br /><br />舗装道路は、観光客の訪れるバンテアスレイ遺跡まで延びているが、トラーイ村方面へ道を外れると砂混じりのダートコースで、民家が点在するだけの長閑な田園風景が続き、農繁期の稲刈り前というので、庭先でぼんやりとしている農家の人たちが珍しそうにワシを見つめている。 <br /><br />ほとんど人通りのないトラーイ村の細く固められた小道を走り、マームの家にたどり着くと、「シゲー」と笑顔を沸き立てたマームが大きな声で叫んで、走り寄って着た。 <br /><br />炎天下の農作業で濃いブラウンカラーに焼けたニキビだらけの顔の中で彼女の瞳は輝き、その瞳はホテルで働いていたころの疲れきっていた彼女のそれではなかった。 <br /><br />そして、水路に架けられた小さな木の角材を2本並べただけの粗末な橋を渡り彼女の家へと案内された。 <br /><br />入り口以外には、ろくな開口部のない薄暗い木造の高床式の住宅の中には、マームの母親と彼女の姉とその子供がおり、マームは、ワシのために、花筵(はなむしろ)を床に敷いてくれた。 <br /><br />電気のない家には、バッテリーで見る14インチの白黒テレビが大きな瓶の上に置かれ、夜の照明はアルコールランプである。その他、トランジスターラジオと柱にハンモックが吊るされているだけで、物がありふれた日本と比較すると生活がない。彼女の家は、ろくな家財道具がなく、ワシがホテルの部屋に広げた荷物のほうが遥かに豊富に物があるぐらい質素な生活ぶりであった。 <br /><br />マームの父親は、病を患ってシェムリアップの病院に入院中のため、彼女は一家の支えとなっている。カンボジアでも貧困層である米作農家のマームの家庭にとって、父親の入院費は大きな負担であり、彼女らに医療費の支払いが出来るのか心配である。家族が病を患って医療費が支払えず収入源である田畑を手放してしまうというケースもある。 <br /><br />バングラデシュでは、弱者である女性の自立のために融資を行う制度が始まり、多くの女性がそれによって恩恵を受けているのだが、この国にもそのような融資制度や日本の農協のような農業共同体のような組織を構築して、農村部の生活安定を維持できないものかと思うのである。  <br /><br />このトラーイ村には学校がなく、以前は、教師が村の寺院で子供たちに教育を行っていたのだが、教員が田舎での就労を拒んだり、政府が教員に支給する給料が3ヶ月ごとだったりで、今では寺で教育を行う教諭がいなくなってしまったという。 <br /><br />マームは、学校へ行った経験がなく識字ができない。今からでも勉強をしたいかと質問をしたら、「もう若くないから無理」だと彼女は少し照れながら答えた。バイクタクシーの運転手に、「子供のころマームは学校へ行きたかったか?」と尋ねてほしいと頼んだが、彼女の家族のいる前であるためであろう、それはできる質問ではないと言われてしまった。 <br /><br />トマポーン村という隣村に、日本人が建設費を負担した、「めだかのがっこう」という小さな小学校があり、この学校は通学に支障のある足を失った子供の家の近所に建設したという。村部での就労を嫌う教諭のために、この団体が教諭の給料を負担しており、この国では征服を自前で買い揃えるのだが、この小学校では日本の援助により無料支給している。 <br /><br />教室が3部屋しかない小さな学校のため、以前は、同村の子供しか通うことができなかったが、今では、トラーイ村の子供たちも通うことが出来るという。しかし、自転車で20分の距離で、自転車のない子供は1時間も歩き続けなくてはならないし、途中にある危険な朽ち果てた板橋を渡らなければならない。そして、めだかの学校は小さいため全ての子供が学校へ通えるわけでもないし、学校へ行かずに家で仕事をする子供や農繁期には学校を休まされる子供もいる。 <br /><br />学校を建設しただけでは運営は出来ず、教諭の確保や教諭への賃金の支払い、子供の両親の教育に対する理解など、貧困な村での学校教育の定着は難しい。 <br /><br />たとえ、学校の建設費を工面できたとしても確かな団体などに協力を求めず、村を取り仕切る者に建設費をゆだねた場合、その費用が学校建設に当てられず横領される可能性があり、もしそのような状況になり横領者を問いただしても責任能力などはない。 <br /><br />たとえば、貧困な地域の学生に文具を配布することをある者に頼んだとしたら、その者は依頼された文具を使って商売をすることもありえる。自分と家族さえよければという人間は、どこにもいるしワシの知り合いにもいる。人のために何かをするなんてナンセンスで、そして、周囲の人間から受ける行為に感謝の意を持たない人間もいる。 <br /><br />カンボジアの1993年の15歳以上の識字率が65%である。その後、経済発展や日本を始め海外の援助団体が学校建設を行ってきたが、未だに識字のできない人は多いことであろう。また、都市部から離れた地域でも小学校の建設を進めているが、中学校の数は更に低く中等教育の受けられない農村部が多い。 <br /><br />これらは、あくまでもワシが、限られたカンボジア人にインタビューした内容であり、真実の実際と現状を正確に取材できたわけではないが、いくらかでもこの国の抱えている問題を知る上で、ワシにとって貴重な体験となり、今後もこの国の行く末を見守りたいと考えている。そして、トラーイ村に学校建設をするための協力ができたらよいと思っている。 <br /><br /> <br /><br />



    15.再びトラーイ村へ

    帰国前に、どうしてトラーイ村の教育現状を知りたかったワシは、再びバイクタクシーでトラーイ村へ行くことにした。既に、雨の季節は終わりを告げ乾期が始まっていた。トラーイ村へ行く途中の道では、2ヶ月前も傷んだ舗装道路の修復作業が行われていたが、未だに道路にはアスファルトが施されていない。ダンプカーで砕石をあけて、それをブルドーザーのような重機で平らにならし、重いローラーの付いた機械で踏み固めてアスファルトを敷くようなワシ等の考える工法ではなく、ダンプカーで運ばれた10センチ角ほどの石を水平に張った糸の高さまで人夫が手作業で並べという手間のかかる作業を行っているため、たかが数キロの区間であるが未だに施工中である。

    舗装道路は、観光客の訪れるバンテアスレイ遺跡まで延びているが、トラーイ村方面へ道を外れると砂混じりのダートコースで、民家が点在するだけの長閑な田園風景が続き、農繁期の稲刈り前というので、庭先でぼんやりとしている農家の人たちが珍しそうにワシを見つめている。

    ほとんど人通りのないトラーイ村の細く固められた小道を走り、マームの家にたどり着くと、「シゲー」と笑顔を沸き立てたマームが大きな声で叫んで、走り寄って着た。

    炎天下の農作業で濃いブラウンカラーに焼けたニキビだらけの顔の中で彼女の瞳は輝き、その瞳はホテルで働いていたころの疲れきっていた彼女のそれではなかった。

    そして、水路に架けられた小さな木の角材を2本並べただけの粗末な橋を渡り彼女の家へと案内された。

    入り口以外には、ろくな開口部のない薄暗い木造の高床式の住宅の中には、マームの母親と彼女の姉とその子供がおり、マームは、ワシのために、花筵(はなむしろ)を床に敷いてくれた。

    電気のない家には、バッテリーで見る14インチの白黒テレビが大きな瓶の上に置かれ、夜の照明はアルコールランプである。その他、トランジスターラジオと柱にハンモックが吊るされているだけで、物がありふれた日本と比較すると生活がない。彼女の家は、ろくな家財道具がなく、ワシがホテルの部屋に広げた荷物のほうが遥かに豊富に物があるぐらい質素な生活ぶりであった。

    マームの父親は、病を患ってシェムリアップの病院に入院中のため、彼女は一家の支えとなっている。カンボジアでも貧困層である米作農家のマームの家庭にとって、父親の入院費は大きな負担であり、彼女らに医療費の支払いが出来るのか心配である。家族が病を患って医療費が支払えず収入源である田畑を手放してしまうというケースもある。

    バングラデシュでは、弱者である女性の自立のために融資を行う制度が始まり、多くの女性がそれによって恩恵を受けているのだが、この国にもそのような融資制度や日本の農協のような農業共同体のような組織を構築して、農村部の生活安定を維持できないものかと思うのである。

    このトラーイ村には学校がなく、以前は、教師が村の寺院で子供たちに教育を行っていたのだが、教員が田舎での就労を拒んだり、政府が教員に支給する給料が3ヶ月ごとだったりで、今では寺で教育を行う教諭がいなくなってしまったという。

    マームは、学校へ行った経験がなく識字ができない。今からでも勉強をしたいかと質問をしたら、「もう若くないから無理」だと彼女は少し照れながら答えた。バイクタクシーの運転手に、「子供のころマームは学校へ行きたかったか?」と尋ねてほしいと頼んだが、彼女の家族のいる前であるためであろう、それはできる質問ではないと言われてしまった。

    トマポーン村という隣村に、日本人が建設費を負担した、「めだかのがっこう」という小さな小学校があり、この学校は通学に支障のある足を失った子供の家の近所に建設したという。村部での就労を嫌う教諭のために、この団体が教諭の給料を負担しており、この国では征服を自前で買い揃えるのだが、この小学校では日本の援助により無料支給している。

    教室が3部屋しかない小さな学校のため、以前は、同村の子供しか通うことができなかったが、今では、トラーイ村の子供たちも通うことが出来るという。しかし、自転車で20分の距離で、自転車のない子供は1時間も歩き続けなくてはならないし、途中にある危険な朽ち果てた板橋を渡らなければならない。そして、めだかの学校は小さいため全ての子供が学校へ通えるわけでもないし、学校へ行かずに家で仕事をする子供や農繁期には学校を休まされる子供もいる。

    学校を建設しただけでは運営は出来ず、教諭の確保や教諭への賃金の支払い、子供の両親の教育に対する理解など、貧困な村での学校教育の定着は難しい。

    たとえ、学校の建設費を工面できたとしても確かな団体などに協力を求めず、村を取り仕切る者に建設費をゆだねた場合、その費用が学校建設に当てられず横領される可能性があり、もしそのような状況になり横領者を問いただしても責任能力などはない。

    たとえば、貧困な地域の学生に文具を配布することをある者に頼んだとしたら、その者は依頼された文具を使って商売をすることもありえる。自分と家族さえよければという人間は、どこにもいるしワシの知り合いにもいる。人のために何かをするなんてナンセンスで、そして、周囲の人間から受ける行為に感謝の意を持たない人間もいる。

    カンボジアの1993年の15歳以上の識字率が65%である。その後、経済発展や日本を始め海外の援助団体が学校建設を行ってきたが、未だに識字のできない人は多いことであろう。また、都市部から離れた地域でも小学校の建設を進めているが、中学校の数は更に低く中等教育の受けられない農村部が多い。

    これらは、あくまでもワシが、限られたカンボジア人にインタビューした内容であり、真実の実際と現状を正確に取材できたわけではないが、いくらかでもこの国の抱えている問題を知る上で、ワシにとって貴重な体験となり、今後もこの国の行く末を見守りたいと考えている。そして、トラーイ村に学校建設をするための協力ができたらよいと思っている。



  • <br /><br />16.めだかの学校 <br /><br />めだかの学校を創設した日本人に会って話を聞きたくて、トマポーン村へ行き同校の校長からその日本人の電話番号を教えてもらった。そして、電話をかけると快く自宅の住所を教えてくれ、早速、伺うことにした。 <br /><br />この小学校を創設したのはNさん夫婦で、6年前にここへ移り住みカンボジアで年金暮らしをしているという。 <br /><br />Nさんの家は、シェムリアップの大通りから少し奥まった場所にあり、Nさんの養子であるカンボジア人の若い男性が、家の前でワシの来るのを待っていてくれた。いつも優しく微笑んでいる背の高いご主人と小柄で気さくな性格の奥さんに、孤児であった3人のカンボジア人の養子と暮らしている。そして、リビングに案内され、彼らはワシのインタビュー対して、熱心に様々なことを話してくれた。  <br /><br />ポリオで足の不自由な子供と出会い、その子供がトマポーン村の子供であったことがきっかけで、トマポーン村に小学校を建設したという。奥さんは、シェムリアップで見かけたそのポリオの子供がとても印象強く、2ヶ月かけてトマポーン村の子供であることをつきとめ、その子供の家の水田を買い取って小学校を建設したという。 <br /><br />Nさん夫婦が、小学校の建設費から生徒の教材、制服、教員の給与に至るまで全てを負担しており、その他にも孤児院を自費で開設しているというので驚く。 <br /><br />「私は、某日本の援助団体の裏をみんな知っているのよ。だから、私は団体に属したくないの」と険しい表情で奥さんが言う。 <br /><br />「日本で金を集めてカンボジアに学校を造るでしょう。それで、完成した学校に援助団体の看板を取り付けて竣工写真を撮るのだけれど、3種類の団体の看板を用意して一枚ずつ取り替えて撮影よ」 <br /><br />そのような組織の人間は遠く離れた異国の地で自分を犠牲にして後進国のために尽力していると日本人の誰もが思っているはずであり、このような私腹を肥やしているとは思いもよらないことである。 <br /><br />「井戸もたくさん作ったわ。中には売るために盗まれたポンプもあるの」 <br /><br />と奥さんが、少し呆れた顔で言うと、ご主人が、 <br /><br />「この国は、何でも売れますからね。住宅の周りを囲んである有刺鉄線を切って盗んで売る人間もいますよ。コーラやビールのアルミの空き缶を拾っている子供がいるでしょう。それらは3缶500リエルで売れるのです」 <br /><br />と言う。 <br /><br />カンボジア製の小学校の征服は生地が悪く長持しないため、日本からワイシャツの古着を取り寄せ、それをカンボジアで縫製して生徒に支給しているという。 <br /><br />「始めのころは、子供たちに小学校の制服をあげても着てこない子供がいてね。おかしいと思ったら親が制服を米と交換しちゃったりしたの」 <br /><br />何ていう親なんだ。制服をなくした子供を不便に思わないのか?子供の制服と交換できる量の米なんてあっという間に終わってしまうだろう。 <br /><br />以前、トマポーン村には識字の出来る人間が、村長と大工と他の地域で教育を受けた経験のある人の3人しかいなかったという。15歳で小学校3年生の授業を受けている生徒もおり、それは、トマポーン村に限らず、子供の頃に教育を受けられなかった人が学校へ通っている多くケースがあり、27歳で高校へ通っている成人もいると聞かされた。確かに、教室を覗いて見ると様々な年齢の生徒が混じって授業を受けている。 <br /><br />このような村部の小学校では、小学校3年生までしか授業を行っておらず、小学校6年生までの教育を受けるためには、ある程度大きな町なり村へ行く必要があり、村部の多くの子供は小学校3年の過程で学業を修了してしまうという。今までは、めだかの小学校も小学校3年生の過程で終了しいたのだが、N夫婦は、めだかの小学校で4年生までの教育を行うようにするという。それには、経済的な面だけではなく、教室が3部屋しかない限られた容量のため、更に運営が困難になると思う。  <br /><br />カンボジアでは、小学校の授業は半日だけで、生徒も先生も午前と午後では違う。半日しか仕事のない教員は、空いている半日を希望する生徒1人当たりから1日500リエル(1/8ドル)の料金を受け取って、自宅などで授業をするという。1日500リエルで20人を25日間授業したら25万リエルなので60ドル以上の収入があり、もちろん学校から支給される給与がある。カンボジアの教員の給与は、小学校が30ドル、中学校が40ドル、高校が50ドルだと、あるカンボジア人が言っていた。 <br /><br />ワシの知っているバイクタクシードライバーが、小学生の子供のために毎日500リエルの授業料を先生に支払うのが大変だと言っていた。ワシは、何で先生に金を支払う必要があるのだと聞くと、先生の給料は安いので父兄が援助をしなければならないという。教員は所得が少ないと父兄に思い込ませて、結構な収入を得ている者も少なくないのだろう。 <br /><br />プライベートスクールへ通うNさんの養子が、担任の先生から進級ができないと言われたそうだ。クラスで3番目という優等生であるのだが、他校から転校して来たため授業日数が足りないと言いがかりをつけられたのだろう。内情を知り尽くしているNさんの奥さんは冒頭から、「いくら?」と聞く。「10ドルぐらい」と先生は答え、そして、金を支払い無事進級し、支払った金の半額は校長に渡るという。通指標の成績も裏金で変更できるという。 <br /><br />すずめの学校には、運動会や修学旅行があり、学校で食事を用意してくれるときもあるので、進級できずに落第を喜ぶ生徒もおり、この国では、小学校を含む全ての学校で落第があるという。  <br /><br />「この国の国民は、目先の金だけですね?そして、何かをしても感謝なし。責任感や信用の大切さなんて皆無でしょう?」 <br /><br />「そうですよ、この国の9割方の人間が駄目ですから、気をつけてください」 <br /><br />と優しく微笑みながら旦那さんが言う。 <br /><br />「交通事故で、倒れて意識のない女の子を見たのです。私は、何とかしてあげたいと夢中で考えたのですが、私を乗せたバイクタクシーの運転手は、彼女に気がついても平気で通り過ぎてしまったのです。私は、彼女の安否が心配で、蘇生術をしたらよかったと…」 <br /><br />とワシが言い終わらないうちに奥さんが険しい顔で、 <br /><br />「あなた、それは絶対やったらだめよ!」 <br /><br />と言うので、ワシは、驚いてしまった。 <br /><br />「えっへ、どうしてですか?」 <br /><br />「あなたが、それをして助かればよいけれど、もし、彼女がそのまま息を吹き返さなければ、彼女の家族から攻められて金を請求せれるのよ。もし、そのような現場を見ても立ち去りなさい」 <br /><br />予想もつかないことを言われワシは身体を前に乗り出して、 <br /><br />「だって、彼女の命を救うために行うことでしょう。彼女が命を落としたとしても、その原因は事故なのだから…」 <br /><br />と言うワシに、奥さんは冷静に、 <br /><br />「ここは、そういう国なの、金の取れるところから金をとるの」 <br /><br />普通、その女の子が亡くなってしまっても娘のために行った蘇生行為を親はありがたく思うだろう。それを、恩をあざで返すという心情は理解できない。 <br /><br />「外国人を狙うバイクの当たり屋もいますよ。おおげさに痛い痛いと叫んで金を請求しますから、相手にしてはいけませんよ」 <br /><br />と全て疑ってしまうような内容の話を奥さんは、淡々と話す。  <br /><br />突然、バンコクの死体博物館の話題になった。 <br /><br />ワシは、恐ろしくて行ったことがないが、たしかバンコクのどこかの病院に、死体博物館があると聞いた。タイの人間は死体好きなのか、交通事故で亡くなった無残な死体写真雑誌もあるらしい。 <br /><br />ワシが、奥さんに、 <br /><br />「死体博物館へ行ったことがあるのですか?」 <br /><br />と聞くと、 <br /><br />「行ったことあるわよ。私は、死体を見るのに慣れてしまっているから平気なの。だって、この辺って、交通事故があるたびに死体がゴロゴロでしょう。妊婦が、バスに潰されてお腹が割れていたり、家族4人乗りのバイクがバスとぶつかったりして、4人ともばらばらよ。事故を起こした人が生きている場合はその近くに人が集まっていて、死んでいるときは野次馬が離れて見ているの。だから、どんなのか判るの」 <br /><br />と奥さんは、表情も変えず話すが、そんな現場に遭遇したくないと願ってしまうワシであった。 <br /><br />「そう、位の高い警察官が事故で死んでいてね。その同僚のような警察官が彼のはめている大きな指輪を外しているの。でも、死んでいるので身体が浮腫んでしまって、指輪を外すのに苦労していたわ。私は、事故処理の関係で警察官が指を外しているのかと思ったのよ。そしたら、旦那の遺体を見た奥さんがいつも着けていた指輪が無いってね。ひどいものよ」 <br /><br />もちろん、指輪を盗んだ警察官を問いただしても知らぬ存ぜぬと白を切る。  <br /><br />Nさん夫婦からワシの頭の中で整理できないほどたくさんの話を聞かせてもらった。 <br /><br />「援助などをしようと思って、カンボジア人にお金をしたら、ほとんど100%取られてしまいますよ。物を与えたら売ってお金にしてしまいますよ」 <br /><br />と微笑みながら言った旦那さんの言葉は、ワシにも分かっていた。 <br /><br />Nさんが、初めてカンボジアで建てた家はカンボジア人の地主に騙されて、その家を全て取り壊し、今、住んでいる家を新たに建てたという。このことに限らず多くのカンボジア人から腹立たしい行為を受けてきただろうが、それに、屈せず個人で学校建設から運営まで行い、養子にした孤児にレベルの高い教育を受けさせて、更に孤児院の建設など、この夫婦はなんと功労者なのだろうと思った。 <br /><br /><br />



    16.めだかの学校

    めだかの学校を創設した日本人に会って話を聞きたくて、トマポーン村へ行き同校の校長からその日本人の電話番号を教えてもらった。そして、電話をかけると快く自宅の住所を教えてくれ、早速、伺うことにした。

    この小学校を創設したのはNさん夫婦で、6年前にここへ移り住みカンボジアで年金暮らしをしているという。

    Nさんの家は、シェムリアップの大通りから少し奥まった場所にあり、Nさんの養子であるカンボジア人の若い男性が、家の前でワシの来るのを待っていてくれた。いつも優しく微笑んでいる背の高いご主人と小柄で気さくな性格の奥さんに、孤児であった3人のカンボジア人の養子と暮らしている。そして、リビングに案内され、彼らはワシのインタビュー対して、熱心に様々なことを話してくれた。

    ポリオで足の不自由な子供と出会い、その子供がトマポーン村の子供であったことがきっかけで、トマポーン村に小学校を建設したという。奥さんは、シェムリアップで見かけたそのポリオの子供がとても印象強く、2ヶ月かけてトマポーン村の子供であることをつきとめ、その子供の家の水田を買い取って小学校を建設したという。

    Nさん夫婦が、小学校の建設費から生徒の教材、制服、教員の給与に至るまで全てを負担しており、その他にも孤児院を自費で開設しているというので驚く。

    「私は、某日本の援助団体の裏をみんな知っているのよ。だから、私は団体に属したくないの」と険しい表情で奥さんが言う。

    「日本で金を集めてカンボジアに学校を造るでしょう。それで、完成した学校に援助団体の看板を取り付けて竣工写真を撮るのだけれど、3種類の団体の看板を用意して一枚ずつ取り替えて撮影よ」

    そのような組織の人間は遠く離れた異国の地で自分を犠牲にして後進国のために尽力していると日本人の誰もが思っているはずであり、このような私腹を肥やしているとは思いもよらないことである。

    「井戸もたくさん作ったわ。中には売るために盗まれたポンプもあるの」

    と奥さんが、少し呆れた顔で言うと、ご主人が、

    「この国は、何でも売れますからね。住宅の周りを囲んである有刺鉄線を切って盗んで売る人間もいますよ。コーラやビールのアルミの空き缶を拾っている子供がいるでしょう。それらは3缶500リエルで売れるのです」

    と言う。

    カンボジア製の小学校の征服は生地が悪く長持しないため、日本からワイシャツの古着を取り寄せ、それをカンボジアで縫製して生徒に支給しているという。

    「始めのころは、子供たちに小学校の制服をあげても着てこない子供がいてね。おかしいと思ったら親が制服を米と交換しちゃったりしたの」

    何ていう親なんだ。制服をなくした子供を不便に思わないのか?子供の制服と交換できる量の米なんてあっという間に終わってしまうだろう。

    以前、トマポーン村には識字の出来る人間が、村長と大工と他の地域で教育を受けた経験のある人の3人しかいなかったという。15歳で小学校3年生の授業を受けている生徒もおり、それは、トマポーン村に限らず、子供の頃に教育を受けられなかった人が学校へ通っている多くケースがあり、27歳で高校へ通っている成人もいると聞かされた。確かに、教室を覗いて見ると様々な年齢の生徒が混じって授業を受けている。

    このような村部の小学校では、小学校3年生までしか授業を行っておらず、小学校6年生までの教育を受けるためには、ある程度大きな町なり村へ行く必要があり、村部の多くの子供は小学校3年の過程で学業を修了してしまうという。今までは、めだかの小学校も小学校3年生の過程で終了しいたのだが、N夫婦は、めだかの小学校で4年生までの教育を行うようにするという。それには、経済的な面だけではなく、教室が3部屋しかない限られた容量のため、更に運営が困難になると思う。

    カンボジアでは、小学校の授業は半日だけで、生徒も先生も午前と午後では違う。半日しか仕事のない教員は、空いている半日を希望する生徒1人当たりから1日500リエル(1/8ドル)の料金を受け取って、自宅などで授業をするという。1日500リエルで20人を25日間授業したら25万リエルなので60ドル以上の収入があり、もちろん学校から支給される給与がある。カンボジアの教員の給与は、小学校が30ドル、中学校が40ドル、高校が50ドルだと、あるカンボジア人が言っていた。

    ワシの知っているバイクタクシードライバーが、小学生の子供のために毎日500リエルの授業料を先生に支払うのが大変だと言っていた。ワシは、何で先生に金を支払う必要があるのだと聞くと、先生の給料は安いので父兄が援助をしなければならないという。教員は所得が少ないと父兄に思い込ませて、結構な収入を得ている者も少なくないのだろう。

    プライベートスクールへ通うNさんの養子が、担任の先生から進級ができないと言われたそうだ。クラスで3番目という優等生であるのだが、他校から転校して来たため授業日数が足りないと言いがかりをつけられたのだろう。内情を知り尽くしているNさんの奥さんは冒頭から、「いくら?」と聞く。「10ドルぐらい」と先生は答え、そして、金を支払い無事進級し、支払った金の半額は校長に渡るという。通指標の成績も裏金で変更できるという。

    すずめの学校には、運動会や修学旅行があり、学校で食事を用意してくれるときもあるので、進級できずに落第を喜ぶ生徒もおり、この国では、小学校を含む全ての学校で落第があるという。

    「この国の国民は、目先の金だけですね?そして、何かをしても感謝なし。責任感や信用の大切さなんて皆無でしょう?」

    「そうですよ、この国の9割方の人間が駄目ですから、気をつけてください」

    と優しく微笑みながら旦那さんが言う。

    「交通事故で、倒れて意識のない女の子を見たのです。私は、何とかしてあげたいと夢中で考えたのですが、私を乗せたバイクタクシーの運転手は、彼女に気がついても平気で通り過ぎてしまったのです。私は、彼女の安否が心配で、蘇生術をしたらよかったと…」

    とワシが言い終わらないうちに奥さんが険しい顔で、

    「あなた、それは絶対やったらだめよ!」

    と言うので、ワシは、驚いてしまった。

    「えっへ、どうしてですか?」

    「あなたが、それをして助かればよいけれど、もし、彼女がそのまま息を吹き返さなければ、彼女の家族から攻められて金を請求せれるのよ。もし、そのような現場を見ても立ち去りなさい」

    予想もつかないことを言われワシは身体を前に乗り出して、

    「だって、彼女の命を救うために行うことでしょう。彼女が命を落としたとしても、その原因は事故なのだから…」

    と言うワシに、奥さんは冷静に、

    「ここは、そういう国なの、金の取れるところから金をとるの」

    普通、その女の子が亡くなってしまっても娘のために行った蘇生行為を親はありがたく思うだろう。それを、恩をあざで返すという心情は理解できない。

    「外国人を狙うバイクの当たり屋もいますよ。おおげさに痛い痛いと叫んで金を請求しますから、相手にしてはいけませんよ」

    と全て疑ってしまうような内容の話を奥さんは、淡々と話す。

    突然、バンコクの死体博物館の話題になった。

    ワシは、恐ろしくて行ったことがないが、たしかバンコクのどこかの病院に、死体博物館があると聞いた。タイの人間は死体好きなのか、交通事故で亡くなった無残な死体写真雑誌もあるらしい。

    ワシが、奥さんに、

    「死体博物館へ行ったことがあるのですか?」

    と聞くと、

    「行ったことあるわよ。私は、死体を見るのに慣れてしまっているから平気なの。だって、この辺って、交通事故があるたびに死体がゴロゴロでしょう。妊婦が、バスに潰されてお腹が割れていたり、家族4人乗りのバイクがバスとぶつかったりして、4人ともばらばらよ。事故を起こした人が生きている場合はその近くに人が集まっていて、死んでいるときは野次馬が離れて見ているの。だから、どんなのか判るの」

    と奥さんは、表情も変えず話すが、そんな現場に遭遇したくないと願ってしまうワシであった。

    「そう、位の高い警察官が事故で死んでいてね。その同僚のような警察官が彼のはめている大きな指輪を外しているの。でも、死んでいるので身体が浮腫んでしまって、指輪を外すのに苦労していたわ。私は、事故処理の関係で警察官が指を外しているのかと思ったのよ。そしたら、旦那の遺体を見た奥さんがいつも着けていた指輪が無いってね。ひどいものよ」

    もちろん、指輪を盗んだ警察官を問いただしても知らぬ存ぜぬと白を切る。

    Nさん夫婦からワシの頭の中で整理できないほどたくさんの話を聞かせてもらった。

    「援助などをしようと思って、カンボジア人にお金をしたら、ほとんど100%取られてしまいますよ。物を与えたら売ってお金にしてしまいますよ」

    と微笑みながら言った旦那さんの言葉は、ワシにも分かっていた。

    Nさんが、初めてカンボジアで建てた家はカンボジア人の地主に騙されて、その家を全て取り壊し、今、住んでいる家を新たに建てたという。このことに限らず多くのカンボジア人から腹立たしい行為を受けてきただろうが、それに、屈せず個人で学校建設から運営まで行い、養子にした孤児にレベルの高い教育を受けさせて、更に孤児院の建設など、この夫婦はなんと功労者なのだろうと思った。


  • <br /><br />17.カンボジアの野外コンサート <br /><br />シェムリアップのナイトクラブへ行った。<br /> 日本でいえば昔懐かしいマハラジャの黒服のお兄ちゃんに壁際のテーブルへ案内されビールを注文する。大ビンアンコールビールが2.5ドルでテーブルの上に置かれたスナック菓子やお絞りが全て1ドル。広い店内は大音量でディスコ・ミュージックが流れミラーボールが回転しフラッシュ・ライトが強い光を放っていて、薄暗いフロアーの中央にダンス・ステージがあり、そこだけ明かりが照らされている。<br />3ドル払うと若いおねいちゃんと踊れてオッパイを触れるというハレンチなサービスがあるプチ・エッチなナイトクラブ。<br />ナイトクラブというよりプチ・エッチなディスコだ。<br />ジーパンにちょっと派手なシャツが精一杯のオシャレであるダンスの相手をする女の子はどれも十代で無邪気にフロアーを跳ね回ってアラベスクかビジーズが似合いそうな古風な踊りっぷり。<br />店のマネージャーらしき女性が女の子と踊らないかと言うが、うるさくて会話もできないしオッパイを触る気もないのでビールを一本飲んで店を出てカンボジアの有名な歌手がシェムリアップのスタジアムでライブを行っておるというので見に行くことにした。<br />何日間か連夜、行われていたライブは今夜が最終日ということで更に観衆を集めていた。<br />最近まで内戦をしていたカンボジアでカンボジア人のロックコンサートがあるってピンとこない。<br /> 美空ひばりがりんご追分歌っている時代にサザンオールスターズが大ヒットしているみたいだ。<br /> 演奏者はMTVで見たロック・シンガーをまねようと、髪を伸ばしてちょっと異種なシャツを着てロック・アーチストを気取って頑張っているのだが、どうみてもコテコテのカンボジア人の仮装といった感じで、ワシには日本の田舎高校生ロックバンドのほうがそれらしく見える。<br /> 歌手が絶唱しながらステージの中心から伸びた廊下を観客の方へ歩いて行くと小さな子供たちが次々とステージに上がってしまう。<br />子供がステージに上がりだすと、サンダルを履いたおっさんがガムをカミカミしながらステージの袖から現れて子供たちをステージから下ろす。<br />カンボジアの一流ミュージシャンのコンサートというより村祭りの出し物のように緊張感がない。<br />男性歌手がファンの女性をステージに上げてラブソングを歌いながら彼女の手をにぎったとたん場内は大騒ぎ、歌がクライマックスにさしかかったときは彼女の腰に手をまわし観客は狂ったように盛り上がっていた。<br />この国では、昔の日本人のように結婚前の娘が男と手をつなぐなどはご法度である。<br />この歌手は彼女の手どころか腰にまで手を回したので観客は大騒ぎ。<br />ワシ等には、なんでもない行為であるが手を握って大騒ぎするなんてうぶで可愛い国である。<br />何人かのバックダンサーが歌手の後ろでスクールメイツより安っぽい踊りを踊っているのだが、踊りに個性があって振りが合わないのだが、カンボジア人は目が肥えていないので分かりはしない。<br />カンボジア人は、ちょっとぽっちゃりとした女性が好みなのか、バックダンサーの女の子はどれもクメールの微笑みの石仏のような顔であった。<br />コンサートも終盤になると観客が札で作った首輪を歌手の首にかける。<br />その首輪の胸の上辺りに来る部分は札を扇状に広げたようになっていて、杉良太郎のように首に札輪をかけられた歌手はどうだと言わんばかりに胸を張って札輪を見せ付けながら歌う。<br />観客から札の首輪は頂くが花束は受け取らない情けより金を赤裸々に愛する男性歌手は愉快であった。 <br /><br /><br /><br />



    17.カンボジアの野外コンサート

    シェムリアップのナイトクラブへ行った。
    日本でいえば昔懐かしいマハラジャの黒服のお兄ちゃんに壁際のテーブルへ案内されビールを注文する。大ビンアンコールビールが2.5ドルでテーブルの上に置かれたスナック菓子やお絞りが全て1ドル。広い店内は大音量でディスコ・ミュージックが流れミラーボールが回転しフラッシュ・ライトが強い光を放っていて、薄暗いフロアーの中央にダンス・ステージがあり、そこだけ明かりが照らされている。
    3ドル払うと若いおねいちゃんと踊れてオッパイを触れるというハレンチなサービスがあるプチ・エッチなナイトクラブ。
    ナイトクラブというよりプチ・エッチなディスコだ。
    ジーパンにちょっと派手なシャツが精一杯のオシャレであるダンスの相手をする女の子はどれも十代で無邪気にフロアーを跳ね回ってアラベスクかビジーズが似合いそうな古風な踊りっぷり。
    店のマネージャーらしき女性が女の子と踊らないかと言うが、うるさくて会話もできないしオッパイを触る気もないのでビールを一本飲んで店を出てカンボジアの有名な歌手がシェムリアップのスタジアムでライブを行っておるというので見に行くことにした。
    何日間か連夜、行われていたライブは今夜が最終日ということで更に観衆を集めていた。
    最近まで内戦をしていたカンボジアでカンボジア人のロックコンサートがあるってピンとこない。
    美空ひばりがりんご追分歌っている時代にサザンオールスターズが大ヒットしているみたいだ。
    演奏者はMTVで見たロック・シンガーをまねようと、髪を伸ばしてちょっと異種なシャツを着てロック・アーチストを気取って頑張っているのだが、どうみてもコテコテのカンボジア人の仮装といった感じで、ワシには日本の田舎高校生ロックバンドのほうがそれらしく見える。
    歌手が絶唱しながらステージの中心から伸びた廊下を観客の方へ歩いて行くと小さな子供たちが次々とステージに上がってしまう。
    子供がステージに上がりだすと、サンダルを履いたおっさんがガムをカミカミしながらステージの袖から現れて子供たちをステージから下ろす。
    カンボジアの一流ミュージシャンのコンサートというより村祭りの出し物のように緊張感がない。
    男性歌手がファンの女性をステージに上げてラブソングを歌いながら彼女の手をにぎったとたん場内は大騒ぎ、歌がクライマックスにさしかかったときは彼女の腰に手をまわし観客は狂ったように盛り上がっていた。
    この国では、昔の日本人のように結婚前の娘が男と手をつなぐなどはご法度である。
    この歌手は彼女の手どころか腰にまで手を回したので観客は大騒ぎ。
    ワシ等には、なんでもない行為であるが手を握って大騒ぎするなんてうぶで可愛い国である。
    何人かのバックダンサーが歌手の後ろでスクールメイツより安っぽい踊りを踊っているのだが、踊りに個性があって振りが合わないのだが、カンボジア人は目が肥えていないので分かりはしない。
    カンボジア人は、ちょっとぽっちゃりとした女性が好みなのか、バックダンサーの女の子はどれもクメールの微笑みの石仏のような顔であった。
    コンサートも終盤になると観客が札で作った首輪を歌手の首にかける。
    その首輪の胸の上辺りに来る部分は札を扇状に広げたようになっていて、杉良太郎のように首に札輪をかけられた歌手はどうだと言わんばかりに胸を張って札輪を見せ付けながら歌う。
    観客から札の首輪は頂くが花束は受け取らない情けより金を赤裸々に愛する男性歌手は愉快であった。



  • <br /><br />18.カンボジアの女の子はお金持ちが好き <br /><br />夜になると、宿の前には甘味処の屋台がでる。 <br /><br />ワシは、そこでバイクタクシーの兄ちゃんと会話をしていると、近所の病院で働くナースの姉妹が来て彼の横に座った。 <br /><br />彼の横に座ったのは、姉妹の妹で、笑顔が可愛く色白の肌で顔が少しぽっちゃり形の、この国でじゃ、男にもてるタイプである。 <br /><br />以前から、このバイクタクシーの兄ちゃんは、彼女に恋心があり彼女の方をちらちらと見ながらにやけていたっけ。 <br /><br />しかし、シャイな彼はたいした会話もできずに、彼女は氷菓子を食べ終わると姉と一緒にさっさと立ち去ってしまった。 <br /><br />「あらあら、お前の好きな女子が行っちまったじゃねいの」 <br /><br />というと、 <br /><br />「彼女は、お金をくれたら、もっとここにいてくれると言ったのだけど、金を払わないから行っちゃったのさ」 <br /><br />とプチ寂しそうな兄ちゃんと援助交際のようなお姉ちゃん。 <br /><br />三日前、彼が、彼女に年齢を尋ねたら16歳と聞かされたのに、今日は、17歳と答える彼女。そんな少女に、なめられているバイクタクシーの兄ちゃん。金なんか、払っていたら更になめられっぱなしで、良いカモせれちまっただうろうな。 <br /><br />「カンボジアの男は、車があれば、女の子にもてるんだよ。カンボジアの女の子は、金持ちが好きなんだ。だから、金を貯めるために日本へ行って仕事をしたいんだ」 <br /><br />この辺りの若い男が、そう言う。 <br /><br />のどかなカンボジア人が、日本のような複雑な社会で働くのは大変な苦労であるし、日本人の所得のことばかりに興味を持って、生活費のことなんてわかっちゃいない。また、働くためのビザどころか、彼らは、日本の観光ビザさえも取ることが困難だろし、どんな国の人間に対してもフレンドリーなカンボジア人とちがい、たとえ、日本へ行くことができても差別を受けるだろう。 <br /><br />「今、しとやかで、つつましい、カンボジア人の女の子は少なくなってきているんだ」 <br /><br />と友達のウィーは嘆く。 <br /><br />シェムリアップが経済成長し大きく変化するとともに、人間の心も素朴さを失いつつあるのだろうか? <br /><br />また、かなりのカンボジア人男性が日本人女性と結婚したがっている。 <br /><br />「カンボジアの女の子は、金持ちとばかり結婚したがっているけれど、日本人の女の子は違うから好きなんだ」 <br /><br />なんて、言うけれど、ただ、逆玉の輿を狙っているのじゃねないのかよ! <br /><br />日本人男性と結婚したがっている途上国の女性がいると同じじゃないかよ。日本の過疎化の村や離島などが嫁不足に悩まされ、途上国の女性と集団見合いをして、結婚し花嫁が祖国を離れるなんて、よくあった話では。 <br /><br />実際、日本人女性と結婚しているカンボジア人男性は、何人もおる。 <br /><br />「本来、カンボジアの男性が結婚をするときは、求婚相手の家庭で一ヶ月間ぐらい住み込んで働き、彼女の両親に認めてもらえなければ結婚を許可してくれなかったんだ。そのとき、彼女の親に気に入られなかったら追い出されるんだよ」 <br /><br />とウィーくんは、熱っぽく話してくれた。 <br /><br />



    18.カンボジアの女の子はお金持ちが好き

    夜になると、宿の前には甘味処の屋台がでる。

    ワシは、そこでバイクタクシーの兄ちゃんと会話をしていると、近所の病院で働くナースの姉妹が来て彼の横に座った。

    彼の横に座ったのは、姉妹の妹で、笑顔が可愛く色白の肌で顔が少しぽっちゃり形の、この国でじゃ、男にもてるタイプである。

    以前から、このバイクタクシーの兄ちゃんは、彼女に恋心があり彼女の方をちらちらと見ながらにやけていたっけ。

    しかし、シャイな彼はたいした会話もできずに、彼女は氷菓子を食べ終わると姉と一緒にさっさと立ち去ってしまった。

    「あらあら、お前の好きな女子が行っちまったじゃねいの」

    というと、

    「彼女は、お金をくれたら、もっとここにいてくれると言ったのだけど、金を払わないから行っちゃったのさ」

    とプチ寂しそうな兄ちゃんと援助交際のようなお姉ちゃん。

    三日前、彼が、彼女に年齢を尋ねたら16歳と聞かされたのに、今日は、17歳と答える彼女。そんな少女に、なめられているバイクタクシーの兄ちゃん。金なんか、払っていたら更になめられっぱなしで、良いカモせれちまっただうろうな。

    「カンボジアの男は、車があれば、女の子にもてるんだよ。カンボジアの女の子は、金持ちが好きなんだ。だから、金を貯めるために日本へ行って仕事をしたいんだ」

    この辺りの若い男が、そう言う。

    のどかなカンボジア人が、日本のような複雑な社会で働くのは大変な苦労であるし、日本人の所得のことばかりに興味を持って、生活費のことなんてわかっちゃいない。また、働くためのビザどころか、彼らは、日本の観光ビザさえも取ることが困難だろし、どんな国の人間に対してもフレンドリーなカンボジア人とちがい、たとえ、日本へ行くことができても差別を受けるだろう。

    「今、しとやかで、つつましい、カンボジア人の女の子は少なくなってきているんだ」

    と友達のウィーは嘆く。

    シェムリアップが経済成長し大きく変化するとともに、人間の心も素朴さを失いつつあるのだろうか?

    また、かなりのカンボジア人男性が日本人女性と結婚したがっている。

    「カンボジアの女の子は、金持ちとばかり結婚したがっているけれど、日本人の女の子は違うから好きなんだ」

    なんて、言うけれど、ただ、逆玉の輿を狙っているのじゃねないのかよ!

    日本人男性と結婚したがっている途上国の女性がいると同じじゃないかよ。日本の過疎化の村や離島などが嫁不足に悩まされ、途上国の女性と集団見合いをして、結婚し花嫁が祖国を離れるなんて、よくあった話では。

    実際、日本人女性と結婚しているカンボジア人男性は、何人もおる。

    「本来、カンボジアの男性が結婚をするときは、求婚相手の家庭で一ヶ月間ぐらい住み込んで働き、彼女の両親に認めてもらえなければ結婚を許可してくれなかったんだ。そのとき、彼女の親に気に入られなかったら追い出されるんだよ」

    とウィーくんは、熱っぽく話してくれた。

  • <br /><br />19.ゴミの中で暮らす <br /><br />ゲストハウスにチェックイン後、待たせておいたバイクタクシーで、プノンペンから排出されるゴミの最終処分場のあるスタンミェンチャイへ行く。<br /> そこには、マニラのトンド地区のスモーキーマウンテンと同様に、ゴミの中からリサイクル可能な、空き缶、鉄くず、プラスチックなどを拾い集めて、それらを換金して生活をしている人がいる。<br /> 腐った生ゴミなどから発生する強烈な悪臭とゴミが自然発火して立ち上がる煙とで目が痛く気分も悪くなる。医療廃棄物も投棄されている劣悪な環境の中を、サンダルで歩き、素手で先端がフックになった棒を使いゴミをかきわけて先作業をしている。<br /> ゴミ山から出る熱が陽炎のように空気を揺らし、その中で10歳にも満たない子供から大人まで収集車の押し開ける新しいゴミに群がり、缶などを拾い集めては大きな袋に詰め込んでいた。撮影のために日本から持参した長靴をサンダル履きの少年に差し上げたが、当然、それを履いた少年の足のサイズには合わず、彼は長靴をビニール袋に入れて去って行った。母親と作業をいている少女にカメラを向けるがファインダーの中の彼女は疲れきった表情で微笑んでくれない。<br /> このような人たちにレンズを向けるのは心苦しかったが、多くの人たちに彼らの苦痛を知ってほしかった。<br /> 「この国は政治家がだめです。外国からの援助は政治家のお金になるだけです。この国の政治家は貧乏な人のことを考えておりません。だから金持ちは金持ちのままで、貧乏人は貧乏人のままです。」<br /> と知り合いのカンボジア人が切実な表情で言う。<br /> 今回、知り合ったドイツ人の写真家は、<br /> 「この国の政治は腐敗している。私がフンセン大統領を見たとき、彼は大きなダイヤモンドの指輪を付けていて驚いた。彼はスイス銀行にミリオンドルの金があるしね。プノンペンの王宮の辺りには金持ちの豪邸があって高級車が走り回っている。」<br /> とやり切れない表情で語った。<br /> フンセンがポル・ポトから政権を奪ったとき、カンボジアは破滅状態で国民から税金すら徴収できない状態であったが、1993年の総選挙後、多額の国際援助が入り高級官僚等は豪邸に住み高級車を走らせているが、貧しい底辺の人々に援助は届かない。 <br /><br />農村から職を求めて流れ込んだ大量の人々が都市部で不法居住者となり、その規模は拡大し、都市貧困層はプノンペンの人口の25%を占めると言われて、鉄道の線路脇、川の堤防、湖畔などにスラムがあり無数の人々が暮らしている。しかし、そんな環境の中で暮らす子供たちにレンズを向けると屈託の無い笑顔で歓迎してくれた。その生き生きとした表情は、かつて日本の神社の境内や空き地や道路で夕暮れまで遊んでいたランニングシャツの少年のようである。 <br /><br /><br />



    19.ゴミの中で暮らす

    ゲストハウスにチェックイン後、待たせておいたバイクタクシーで、プノンペンから排出されるゴミの最終処分場のあるスタンミェンチャイへ行く。
    そこには、マニラのトンド地区のスモーキーマウンテンと同様に、ゴミの中からリサイクル可能な、空き缶、鉄くず、プラスチックなどを拾い集めて、それらを換金して生活をしている人がいる。
    腐った生ゴミなどから発生する強烈な悪臭とゴミが自然発火して立ち上がる煙とで目が痛く気分も悪くなる。医療廃棄物も投棄されている劣悪な環境の中を、サンダルで歩き、素手で先端がフックになった棒を使いゴミをかきわけて先作業をしている。
    ゴミ山から出る熱が陽炎のように空気を揺らし、その中で10歳にも満たない子供から大人まで収集車の押し開ける新しいゴミに群がり、缶などを拾い集めては大きな袋に詰め込んでいた。撮影のために日本から持参した長靴をサンダル履きの少年に差し上げたが、当然、それを履いた少年の足のサイズには合わず、彼は長靴をビニール袋に入れて去って行った。母親と作業をいている少女にカメラを向けるがファインダーの中の彼女は疲れきった表情で微笑んでくれない。
    このような人たちにレンズを向けるのは心苦しかったが、多くの人たちに彼らの苦痛を知ってほしかった。
    「この国は政治家がだめです。外国からの援助は政治家のお金になるだけです。この国の政治家は貧乏な人のことを考えておりません。だから金持ちは金持ちのままで、貧乏人は貧乏人のままです。」
    と知り合いのカンボジア人が切実な表情で言う。
    今回、知り合ったドイツ人の写真家は、
    「この国の政治は腐敗している。私がフンセン大統領を見たとき、彼は大きなダイヤモンドの指輪を付けていて驚いた。彼はスイス銀行にミリオンドルの金があるしね。プノンペンの王宮の辺りには金持ちの豪邸があって高級車が走り回っている。」
    とやり切れない表情で語った。
    フンセンがポル・ポトから政権を奪ったとき、カンボジアは破滅状態で国民から税金すら徴収できない状態であったが、1993年の総選挙後、多額の国際援助が入り高級官僚等は豪邸に住み高級車を走らせているが、貧しい底辺の人々に援助は届かない。

    農村から職を求めて流れ込んだ大量の人々が都市部で不法居住者となり、その規模は拡大し、都市貧困層はプノンペンの人口の25%を占めると言われて、鉄道の線路脇、川の堤防、湖畔などにスラムがあり無数の人々が暮らしている。しかし、そんな環境の中で暮らす子供たちにレンズを向けると屈託の無い笑顔で歓迎してくれた。その生き生きとした表情は、かつて日本の神社の境内や空き地や道路で夕暮れまで遊んでいたランニングシャツの少年のようである。


  • <br /><br />20.ポル・ポト最後の地へ <br /><br />「アンロンベンへ、行きたいですか?」 <br /><br />とヘンテコリンな日本語を話すバイクタクシーのソフィアが言う。 <br /><br />アンロンベンへの道はかなりの悪路で、スーパーカブで行くのは無理だと聞いていたので、驚いた。 <br /><br />彼の話では、今は、道路が整備されて、何人もの友達がバイクで、その地を訪れているし、ポイペトへ行く道より状態が良いという。 <br /><br />アンロンベンまでは、かなりの距離があり、道が以前より整備されたといっても全路未舗装であるし雨季のため、おそらく普通のバイクタクシードライバーならば、拒否するだろう。  <br /><br />この国の人間は、ギャンブルが好きで、暇さえあれば仲間とカード賭博をしているし、サッカーが始まるとサッカーくじに夢中になっている。 <br /><br />ソフィアは、そのサッカーくじで500ドルもの大金を手にした。そのお祝いで、彼は友達と盛大なパーティーをして、絶好調だったようだ。しかし、その後、更にギャンブルにのめりこんで、手にした500ドルを全て失い、それでも、ギャンブルから抜け出せず、友達から借金こいて勝負したんだけど、結局すってんてんになって自分の携帯電話を売り払って、借金返済に工面した。おまけに、酒を飲んでバイクに乗って大怪我をして入院したのだから、その費用も結構な額だ。彼のいるゲストハウスは、最近、外国人宿泊客がおらず、観光地めぐりをするバイクタクシーの仕事は上がったりで、プアーでアホなソフィア。 <br /><br />そんな文無しのソフィアが、アロンベイへワシを乗せていって、長距離の高額料金をせしめようという魂胆は百も承知でのであったワシ。 <br /><br />ソフィアに、アンロンベンまでの料金を聞くといくらでもよいというので、「5ドルでどうだ」というとニアっとするソフィア。 <br /><br />不当な値段を請求したり文句を言ったりするような人間ではないので、値段も決めずに出発した。  <br /><br />1975年4月17日、ポル・ポト派が、首都プノンペンを陥落し、プノンペン市民は内戦の終結に歓喜を上げたのだが、それが、虐殺の時代の始まりであったのだ。そんで、ポル・ポト派の地方幹部であった現カンボジア首相のフン・センは、ポル・ポト派に不信感を抱きベトナムへ亡命。1978年12月下旬、ベトナム軍はカンボジアへ侵攻し、翌年の1月7日にプノンペンがポル・ポト派から解放され、ヘン・サムリン政権が樹立したんだ。そんで、プノンペンを逃れたポル・ポト派は、タイとの国境の地であるアンロンベンへ逃げちまった。アンロンベンは、ポル・ポトゆかりの地ってわけなんだ。  <br /><br />すってんてんのソフィアは、ワシの金をあてにして、出発時に、ガソリンスタンドへ寄りバイクに燃料を入れる。おまけに、バイクのオイル交換までして、礼も言わない無礼なヤツだとは承知はしている。 <br /><br />シェムリアップを出発して40分後、観光客の多く訪れるバンテアイ・スレイ遺跡を過ぎると、もうここから先は、全てオーストラリアのアウトバックのような赤土のダートである。 <br /><br />平らに整備されている区間なんてわずかで、これでも以前より整備されているのかよと、既にプチ後悔のワシ。 <br /><br />二人乗りの重みで、スーパーカブのサスペンションは沈んで、ほとんどストロークがないためで、ちょっとした窪みでもサスペンションがフルボトムし、尻にガツンと衝撃がきて、バックパックに入れてあるモバイルコンピュータのハードディスクがぶっ飛ばないかと大心配。ジャイアント馬場に、尾てい骨割をなんどもくらわされているような感じで、アロンベイへたどり着くころは、全ての椎間板がヘルニアになっていそう。 <br /><br />入院するほどの事故を起こしても懲りずにスピードを出すソフィア。後ろに乗っていて恐ろしくて、転ぶなよと願っていたのだったが、大粒の砂の上で前輪が滑って、バイクが左に倒れワシと彼の足はバイクの下敷き。 <br /><br />ワシは、とっさに右手に握っていたカメラを頭上に上げて、バックパックに入っているコンピュータにダメージがないように、背中を上にして倒れた。 <br /><br />お客様を乗せて転倒したのに、このアホは、ワシの心配なんてしないんだ。自分のバイクが気がかりでね。 <br /><br />ワシは、ちょっと足をすりむいただけだったけれど、ソフィアは、足の膝と足の指の皮膚が削れて血がにじんだところに泥が付いていて、しかめ面で「ウーウー」言っていた。 <br /><br />ワシが、手渡した水で濡らしたティッシュで傷口を拭くとタバコをばらしてタバコの葉を傷口に塗りたぐるんだ. <br /><br />「今、タバコを付けたから怪我は大丈夫です」 <br /><br />ってホントかよ!野蛮な荒療法に驚いた。 <br /><br />道路は、場所によって更に悪く、ポル・ポト軍めがけて政府軍が空爆を行ったような大きな穴が開いていて、わしの恐れるポイペト・ハイウェイよりひどく、大海原を走っているようであった。道は、真っすぐなんだけれど、その穴を避けるために、車の走った後が、蛇が這っているようなS字形についている。到底、バスなど走れる道ではない。 <br /><br />話は、変わるがベトナムでは、車高を上げた古いバスを見かけるんだ。1975年に、北ベトナム軍が勝利したベトナム戦争の終結後、1986年のドイモイ政策(刷新)まで、ベトナム経済はプアーであってさ、きっと道が荒れ果てていていたんだろうな。そんで、頭の良いベトナム人は、悪路を走れるためにバスを改造してリフトアップしんだと思う。 <br /><br />そんなバスが、カンボジアにあったら辺境の地まで、バスを走らせることができたはずだが、きっと、カンボジア人には、そこまでの知恵と技術がなかったんだろうな。  <br /><br />このソフィアって、アホ臭いんだが、バイクを走らせれば疲れ知らずで、アメリカ映画のキャノンボールのようにぶっ飛んで行くタフな弾丸男。ワシは、疲れてヘロヘロになっているのに、休もうとしない。尻の痛さと前から流れてくる彼の臭い口臭に、耐え抜かねばならないワシ。 <br /><br />途中、ひとつだけ小さな町があっただけで、他に町らしきものはなく、葉っぱの屋根と壁の民家が点々とあるか、何もないうっそうとした原生林の中を走るのである。 <br /><br />最近、雨がなかったようで道がぬかるんでいなかっただけ幸運だった。 <br /><br />朝6時半に、シェムリアップを出発して、4時間半後の11時にアンロンベンに着く。 <br /><br />シェムリアップからの距離は120Kmであったよ。ハードなスポーツをしたぐらいヘトヘトなワシとケロっとしているタフなソフィア。 <br /><br />アンロンベンは、町の中も未舗装で、先ほどから振り出した雨で路面は水溜りだらけで、建物は赤土の土煙をかぶってワインカラーに染まっている。 <br /><br />この町には、舗装道路を見たことのない人間も多いと思うな。だって100キロも走らなければ舗装道路はないのだもの。 <br /><br />それでも、この辺りでは最大の町であるので活気があり、最近、ワシのようなポル・ポトの最終拠点であった地を訪れる環境客が増加したためゲストハウスもできた。 <br /><br />町外れにある、ポル・ポト派のNo2の地位であったタモックの住んでいた家へ行く。 <br /><br />タモックは、今でも健在で、出頭して裁判を受けるって、新聞記事で読んだことがある。 <br /><br />「俺は、部下を統制することができず、部下が勝手に国民を殺したのだ」 <br /><br />そのような記事があったと思う。 <br /><br />彼の言っていることは、まんざら嘘ではないと思う。1975年に、プノンペンに入場したポル・ポト派の兵士は、十代の若者ばかりで、人生経験の少ない彼らは簡単にマインドコントロールをされてしまい、その後は暴走しちまったのだろう。人の命の尊さなんてわかっちゃいなくて、国家のためと思い込んでコマンドされれば家族まで殺してしまったんだ。 <br /><br />タモックの家は、湖の湖畔にあり、上高地あたりの池のように、湖から立ち枯れした林が伸びて、とても美しい。それらの森林は、ダム建設で枯れたのだという。 <br /><br />オリジナルの建物が三軒のこっており、庭先の小屋に吊るしたハンモックでゴロゴロとしていた兄ちゃんから2ドルのチケットを買わされ、「ガイドは、いるか?5ドルだ」だって、私腹を肥やそうとしやがる。 <br /><br />それで、頼みもしないのに、ワシに付きまとってガイドをする二人の兄ちゃん。一生懸命に英語で、説明してくれるのだが、何を言っているのだか分からないクメールなまりの英語。 <br /><br />この兄ちゃん、ガイドをしたのだからと言って、帰りに金を請求するんだろうなと、今までの経験から察しるワシ。 <br /><br />この建物は、1979年以降に建築されたのだから、築二十数年ってところか。地下室に、シェルターがあるだけで、別にどうってことのない家だったので帰ろうとしたら、勝手にガイドをしてくれた兄ちゃんが、「金をくれ」って、やっぱりな。 <br /><br />よくある構図だよ。金を払わないで立ち去ると、「Fuck You!」なんて言って、中指を立てて腕を突き出すアホもいるが、こっちが、「Fuck You」って言う立場だよ。 <br /><br />さて、今回の目的であるポル・ポトの墓と彼の住居へ行く。 <br /><br />その場所は、タイと国境を接する山中にある。 <br /><br />山に向かって、直線道路を進み町外れにさしかかると幾ヶ所もドロドロのぬかるみがあって、バイクのタイヤがはまり込んでしまい、その度にワシはバイクから降りて、バイクを押すもんだから、足は泥だらけ。 <br /><br />一箇所最大の難所があり、田植えができそうなぐらい道幅いっぱいにドロドロで逃げ場がないんだ。車やバイクどころか歩くのも無理っていう感じなんだけど、横に私設有料道路があるんだ。 <br /><br />道の端に、車の車幅に合わせて二枚の板が橋のように敷かれていて、細い棒で入り口を遮断してある。そこで、二人の子供が通行料金を徴収しており、通行料金を支払えば、遮断してある棒を上げてくれる仕組みであった。 <br /><br />この国の人間って、何でも商売にしてしまうのだなって感心しちゃったよ。しかし、普通なら道路が痛めば車が通れるように修復工事をするだろう。また、それに、慣れっこなっている国民は、我慢強いんだな。 <br /><br />道路の補強だって、石を敷かないで土をブルドーザーで平らにならしてなローラーの付いた重そうな機械で踏みつけるだけなもんで、一雨振ればわだちができて、そこに水が溜まり簡単に元のドロドロ道に戻ってしまう。 <br /><br />町から5キロほど行った山のふもとに、検問所があり制服姿のおっさんがにこやかに手招きをする。ワシ等が、検問所の掘っ立て小屋の軒下に入ると雨は本降りになりなった。 <br /><br />おっさんの胸にはイミグレーションと書かれたバッジが付いていた。ここは、タイとボーダーを接しているからイミグレがあるのだなと思った。 <br /><br />フレンドリーって感じのイミグレって、ホントやばい感じ。カンボジアの警察官やイミグレには邪悪なのがいるから、どうせ、道理に外れた金を要求してくるのだろうなと思い、けして笑顔は見せなかったワシ。 <br /><br />そんなワシの顔を見て、「ネバーマインド、ネバーマインド」と繰り返して言うおっさん。 <br /><br />おっさんは、フレンドリーな笑顔を作り、パスポートを見せてくれという。そんで、ワシに背を向けて、私服のおっさんとふたりでぶつぶつ言いながら、ワシのパスポートを1ページ目から全てに目を通す。「これはベトナムのビザで、これが中国で、これはインドか、おいおいカンボジアのビザがこんなにあるぞ」、きっと、そんな話をしていたに、違いないが、ワシが今まで、経験したことのないその様子に冷や冷やする。 <br /><br />ワシのパスポートは、空きページがほとんどないほどスタンプだらけで、変な疑いを持たれては困る。 <br /><br />10分間ぐらい、おっさんたちは、ワシのパスポートを念入りに調べた。それで、「このバイクタクシーには、いくら支払うんだ」なんて、ようでもないことを聞かれて、腹が立つワシ。 <br /><br />腹が立ったけれど、金を請求されずに、ゲートを通ることができたんだが、しかし、何だったのだ。いい迷惑だった。だけど、パスポートの検査だけでよかった。「バックパックの中身を見せろ」、なんて言われたら、出てきたコンピュータに興味をもっちまって、日が暮れるまでつき合わされちゃうよ。 <br /><br />雨は、本格的に降り続け雷の音も聞こえるほど。 <br /><br />ワシとソフィアは、レインコートを着て、ポル・ポトの人生終末の地を目指して山を登り始める。 <br /><br />結構な急勾配の土と岩盤の荒れた道は、川のように泥水が流れている。二人乗りのバイクでは、登ることができないほどの悪路と急勾配。バイクの後ろに乗ることができない悪路では、豪雨の中を必死に歩き、ここまできたのだからたどり着いてやるという思いで、なぜか疲れを感じないワシ。レインコートを着ていてもズボンはずぶ濡れでパンツまで水が染みている。 <br /><br />手ごわい林道を登りきった山の山腹に、商店や食堂もある小さな村が現れた。こんな、山の中に村があるなんて、驚いてしまう。チープな家なんだけれどトヨタの新車の乗用車がある家があって、びっくり。 <br /><br />ポル・ポトの墓は、その村の脇の空き地のような場所にぽつんとあった <br /><br />遺体が、葬られているところに、ボロボロの波トタンの屋根がかけられ、周囲は木の柵で囲まれて、「ポル・ポトが、ここで火葬された」と書かれた看板があった。墓の正面には、線香がたむけられてお供え物をした皿があり、周辺は草が刈り取られ手入れがされていた。 <br /><br />一国を支配した人間の墓にしては、なんてみすぼらしい。 <br /><br />ポル・ポトは、宮殿に出入りすることができたほどの富農の生まれ。 <br /><br />1940年代に、ホー・チ・ミンの元で、反フランス運動に参加し、大戦終戦後にフランスに留学し、帰国後に反フランス地下組織運動に参加したって、フランスに留学したんだけどフランスが嫌いな青年だったのかよ? <br /><br />毛沢東主義の影響を受けて共産主義政策を行ったのだが、共産主義国家の構築に失敗っていうのだ。人々は飢え苦しみ、そして虐殺などで3百万人とも4百万人ともいう人口の3分の1の国民を殺してしまった。 <br /><br />この辺りには、最後まで政府軍と戦った人間が、ごろごろいるんだろうかな?夜なんか、とてもいたくはない場所だよ。 <br /><br />雨は上がり、村の食堂で、昼飯を食べて、ポル・ポトの住居へ行く。 <br /><br />村中の道を真っすぐに突き進むと山の峠にゲートがあって、征服を着た政府の人間がいる。道路にチェーンが張られており、その先にあった「KEEP KEFT」と書かれた看板を見て、「おいおい、ここって、タイとの国境じゃないか」と驚くワシ。端のほうには「WELCOME TO THAI LAND」と書かれた看板もあった。 <br /><br />ここから、タイへ入国できても里まで下りる交通手段がないのだろう。ヒッチハイクするにも通る車もないだろうし、歩いて、山を下れば、町まで何日もかかるだろう。少数民族の家に頼んで泊めてもらいながら歩き続ける根性なんてないよ。 <br /><br />ソフィアは、道を間違えて、国境に来ちまったんだ。 <br /><br />引き返して、村で道を尋ねて、山の峰方向に上って行く。 <br /><br />先ほどの大雨で道幅いっぱいに大きな池のようになっているし、川のように水が流れるジャングルの中の道を這い上がって行くワシは水曜スペシャルの藤岡弘かよ。 <br /><br />狭い林道をひたすら登りきった行き止まりに、けっこう立派なレストランがあってびっくりした。そのレストランの庭の端は断崖絶壁になっていて、まっ平らなカンボジアの大地が眼下に見下ろせ、更にびっくりで感動。緑の大地が果てしなく続く、その思いがけない光景に息を呑んだワシだが、「だから何なの?」ってな感じで無感動なアホなソフィアは、「道を間違えましたので行きましょう」だって。 <br /><br />この男には、感情はないのかよ。 <br /><br />この絶景が、あるから観光客を目当てのレストランがあるのだが、普通の外国人だったら来れるような場所じゃないな。根性のあるカンボジア人でないと。 <br /><br />軽トラックが通れるほどの林道が、何箇所か枝分かれをしていて、道を尋ねるにも人がいないし、標識もないんだ。「地雷危険」の赤い看板が林の中の木に打ち付けてあり、うかつに藪の中で立小便をしたら足とポコチンがぶっ飛ぶ。 <br /><br />こんな山深い奥地だが、まれに民家があり、タイとの国境に近いからか検問所のようなものが、いくつかあった。 <br /><br />レストランで、道を尋ねて進むと道は急な下り坂かになり、ソフィアのバイクは滑って横倒しになってばかりいる。ソフィアを見捨てて、いつでも、バイクから飛び降りて、逃げる覚悟しているワシ。 <br /><br />何キロか、下ったところにあった3軒の廃墟が、ポル・ポトの住居跡だった。 <br /><br />既に、住宅はタイル張りのフロアーしか残っておらず、朽ち果てたブロック造りの事務所と地下シェルターのあるレンガ造りの建物が、生い茂る雑草のなかに、ひっそりとたたずんでいた。 <br /><br />こんな山奥に建てた家でも、フロアーはタイル張りで、住宅の横にはコンクリートでできた貯水槽まであったので、設備が整っていた家に違いないだろうな。 <br /><br />当時、冷戦時代だったので、親ベトナムのヘン・サムリン政権を西側諸国が嫌い、タイの援助で、この地にポル・ポトの家を建設したと聞いた。 <br /><br />カンボジアって、ルビー、サファイヤなどの宝石の採掘できる国で、タイはポル・ポトから安値で宝石や木材を買い上げ、中国はポル・ポトに武器を売ったんだって。 <br /><br />タイも中国も他国の平和より国益優先だったんだな。 <br /><br />ただ、ポル・ポトの廃墟となった住居を見るために、はるばるこんなやまおくまで苦労して来たんだけど、何故かけっこう満足であるワシ。しかし、今来た道を引き返すことを考えると気が重くなる。 <br /><br />来た道を引き返し、ひと山越えて、ポル・ポトの墓のある村から下る道は、来たときより更にドロドロで、バイクに二人乗りなんて無理。ワシは、バイクを降りて泥道を歩いた。 <br /><br />泥だらけになって、ようやくアンロンベンにたどり着いてコーラを飲んで一息つけるワシを見て笑う店のおばさん。疲れきったワシの表情がゆかいだったんだろうよ。ワシらが、ポル・ポトの墓まで、行ったってお見通しなんだ。  <br /><br />これで、アンロンベンのゲストハウスに泊まって、翌朝、ゆっくりと帰ろうと考えていたら、ソフィアが、「ズボンが、ずぶ濡れで泥だらけだから、シェムリアップへ帰りましょう」って言うのだ。ホントに疲れ知らずのアホに驚く。 <br /><br />時間は、既に午後5時である。ワシは、念を押して、「お前、大丈夫か?」と聞くが、ヤツは、ケロっとした顔で、「8時半にシェムリアップに着けますから」と言う家畜よりタフな男。 <br /><br />アンロンベンに、来るときに4時間半かかったのが、8時半にシェムリアップに着けるわけがないと思ったが、ヤツの忍耐力にまかせてみた。 <br /><br />アンロンベンを出発して、2時間も走ったら道がぬかるんで、何度もわだちにタイヤが取られてバイクが横倒しになってしまう。今日降った豪雨のことを考慮しておらず、簡単にシェムリアップにたどり着けると思い誤算だったソフィア。 <br /><br />場所によっては、1キロ走るのに、何度もバイクを降りて押し、何台もの車が、泥の中で身動きがとれずに立ち往生していた。 <br /><br />辺りは、夕闇に包まれてひと気がなく、まれに小さな家のロウソクの明かりが見えるだけである。点在する民家のある地域を過ぎると大木が生い茂るジャングル地帯がはるかに続く。他に車もバイクなく2人だけでうっそうとしたジャングルの中の泥道をのろのろと進むのは恐怖であった。バイクのエンジン音の他には、虫と動物の鳴き声だけが聞こえ、銃を持った追いはぎが、いつ出没してもおかしくないほど深い森の中で、すれ違う車は数十分に一回程度。 <br /><br />「カンボジアのシェムリアップから北東へ約150キロの森林地帯で日本人男性の遺体が発見さ、所持品などから行方不明となっておりました男性と確認されました」 <br /><br />なんていうニュースが放送されたら、『また、馬鹿な日本人が、殺された』と言われ、いい笑い者になっちゃうな」と、バイクに揺られながら寂しく考えてしまう。 <br /><br />何とか無事に、悪路と森林地帯を抜け出し、中間の町に着いたのが、午後8時であった。それから、シェムリアップまではまだ距離がある。 <br /><br />ここまで、来たら左足のくるぶし辺りが痛みだした。 <br /><br />バイクのタイヤが穴に落ちる寸前にステップの上に立ち尻を浮かせて衝撃をやわらげていたことが、くるぶしへの負担となったようだ。 <br /><br />どんどん痛みが増してくるし、バイクの燃料も危機的状況になった。 <br /><br />燃料を入れようにもガソリンをビンに入れて売っている店がこんな夜遅くまで営業しているわけがない。まだ、シェムリアップまでずいぶん距離があるのに、バイクの燃料計の指針はレッドゾーンに達した。中間の町で、燃料の話をしたけれど給油しなかったアホなソフィア。 <br /><br />ソフィアは、気がつかないのか、ワシの足元からはカラカラという変な音が聞こえ続けている。それでも、バイクは一応快調に走っていたのだが、いきなりギアが抜けてニュートラル状態になりエンジンが高回転でうなった。 <br /><br />ワシは、断念して、ここで一夜を明かすしかないのかと考えてしまったが、エンジンを止めてかけなおしたら復活してくれた。 <br /><br />バイクのマフラーが水没して排気ガスが水中でぶくぶくしたぐらいの深い水溜りの中を走ったり、バイクの腹をこすりながら岩山を登ったりしたので、バイクにはダメージがあったはず。 <br /><br />足を乗せたステップが、凹凸の路面で振動し、ワシの左足のくるぶしは泣きたくなるほど痛む。バンテアイ・スレイ遺跡まで行けば舗装道路だ。早くバンテアイ・スレイ遺跡へ行ってくれと時間の経過に耐え闇の中を走り続ける。 <br /><br />ようやくバンテアイ・スレイ遺跡に着いたのは、午後9時半であった。バイクの燃料計はエンドのEの文字の上に乗っているのにもかかわらず、舗装道路を飛ばしまくるソフィア。普通の人間ならガス欠を恐れて、燃費を良くしようと慎重に走るのに、ヤツは、経済速度なんて知らないだよな。ヤツが、一人でガス欠になってエンコするならいいけれど、ワシが巻き添えになるんだぜ。 <br /><br />バンテアイ・スレイまで、来たといってもシェムリアップまでは、あと40キロ近くもあるんだ。 <br /><br />既に、どの家も寝静まって明かりのついている家はない。 <br /><br />通りなれた道で、いつもなら長くは感じなかったけれど、この距離が何倍にも感じた。 <br /><br />シェムリアップに、戻ったのが10時半近かった。 <br /><br />ワシが、アンロンベンに泊まると思っていたゲストハウスのスタッフはワシを取り囲んで驚いていた。彼らは、疲れと足の痛みと未だに抜け切れない心の不安感のあるワシの表情を心配そうに見つめていた。 <br /><br />そんな、ワシの心情や足のダメージを気にもしないで、「ご飯をたべますのでお金をください」というあつかましいソフィア。 <br /><br />左足首が痛くて、ゲストハウスのスタッフの手を借りてバイクから降りたが、歩ける状態ではなくウィーたちの肩にしがみついて中に入った。  <br /><br />夜中に、アンロンベンからの道を走るなんて何て無茶なんだ」 <br /><br />と友達のウィーが、目を見開いて驚いていた。 <br /><br />「怖いのは追いはぎだけでなく虎がいるだ。夜中に途中でバイクがパンクでもしたらどうなっていたかわからないぞ、お前はラッキーだったよ」 <br /><br />と言われ、この国には猛獣がいたことを忘れていた。 <br /><br />地元の人間だって、夜中にあの道路をバイクでは走らないもんな。 <br /><br />「地元の人間ならアロンベイまでバイクでも耐えられるけれど、ツーリストは無理だよ」 <br /><br />と忠告されたことが、身にしみたワシ。 <br /><br />腹が減っていたが、今から飯を頼むのでは女の子に悪いと思ってビールを飲んで、ワシの3階の部屋へ階段を這うように上がり、シャワーを浴びる気力もなかった。 <br /><br />翌日は、足首の痛みがひいて歩けるようになったが、背筋が筋肉痛で午前と午後に2回1時間3ドルのマッサージに行って、部屋で2日間ダウンのワシであったが、ソフィアはぴんぴんとしていたよ。 <br /><br />やはり、あいつは只者ではないな。 <br /><br />ワシは、冒険家でもないのに、今回は、プチ・サバイバルな経験をしちまったよ。 <br /><br />1993年の総選挙後、新たな船出を迎えたのだが、未だに、インフレ整備の滞るカンボジア。世界各国からの援助資金はどこに消えてしまっているのだろう。穴と泥だらけの道路と朽ち果てた橋など、整備が行き届いておらず、周辺地域の経済発展に大きな支障になっている。時代の風に乗り遅れて確かな希望もなく、ただひたすら耐えて暮らす人々に、誰も振り向いてくれない。 <br /><br />



    20.ポル・ポト最後の地へ

    「アンロンベンへ、行きたいですか?」

    とヘンテコリンな日本語を話すバイクタクシーのソフィアが言う。

    アンロンベンへの道はかなりの悪路で、スーパーカブで行くのは無理だと聞いていたので、驚いた。

    彼の話では、今は、道路が整備されて、何人もの友達がバイクで、その地を訪れているし、ポイペトへ行く道より状態が良いという。

    アンロンベンまでは、かなりの距離があり、道が以前より整備されたといっても全路未舗装であるし雨季のため、おそらく普通のバイクタクシードライバーならば、拒否するだろう。

    この国の人間は、ギャンブルが好きで、暇さえあれば仲間とカード賭博をしているし、サッカーが始まるとサッカーくじに夢中になっている。

    ソフィアは、そのサッカーくじで500ドルもの大金を手にした。そのお祝いで、彼は友達と盛大なパーティーをして、絶好調だったようだ。しかし、その後、更にギャンブルにのめりこんで、手にした500ドルを全て失い、それでも、ギャンブルから抜け出せず、友達から借金こいて勝負したんだけど、結局すってんてんになって自分の携帯電話を売り払って、借金返済に工面した。おまけに、酒を飲んでバイクに乗って大怪我をして入院したのだから、その費用も結構な額だ。彼のいるゲストハウスは、最近、外国人宿泊客がおらず、観光地めぐりをするバイクタクシーの仕事は上がったりで、プアーでアホなソフィア。

    そんな文無しのソフィアが、アロンベイへワシを乗せていって、長距離の高額料金をせしめようという魂胆は百も承知でのであったワシ。

    ソフィアに、アンロンベンまでの料金を聞くといくらでもよいというので、「5ドルでどうだ」というとニアっとするソフィア。

    不当な値段を請求したり文句を言ったりするような人間ではないので、値段も決めずに出発した。

    1975年4月17日、ポル・ポト派が、首都プノンペンを陥落し、プノンペン市民は内戦の終結に歓喜を上げたのだが、それが、虐殺の時代の始まりであったのだ。そんで、ポル・ポト派の地方幹部であった現カンボジア首相のフン・センは、ポル・ポト派に不信感を抱きベトナムへ亡命。1978年12月下旬、ベトナム軍はカンボジアへ侵攻し、翌年の1月7日にプノンペンがポル・ポト派から解放され、ヘン・サムリン政権が樹立したんだ。そんで、プノンペンを逃れたポル・ポト派は、タイとの国境の地であるアンロンベンへ逃げちまった。アンロンベンは、ポル・ポトゆかりの地ってわけなんだ。

    すってんてんのソフィアは、ワシの金をあてにして、出発時に、ガソリンスタンドへ寄りバイクに燃料を入れる。おまけに、バイクのオイル交換までして、礼も言わない無礼なヤツだとは承知はしている。

    シェムリアップを出発して40分後、観光客の多く訪れるバンテアイ・スレイ遺跡を過ぎると、もうここから先は、全てオーストラリアのアウトバックのような赤土のダートである。

    平らに整備されている区間なんてわずかで、これでも以前より整備されているのかよと、既にプチ後悔のワシ。

    二人乗りの重みで、スーパーカブのサスペンションは沈んで、ほとんどストロークがないためで、ちょっとした窪みでもサスペンションがフルボトムし、尻にガツンと衝撃がきて、バックパックに入れてあるモバイルコンピュータのハードディスクがぶっ飛ばないかと大心配。ジャイアント馬場に、尾てい骨割をなんどもくらわされているような感じで、アロンベイへたどり着くころは、全ての椎間板がヘルニアになっていそう。

    入院するほどの事故を起こしても懲りずにスピードを出すソフィア。後ろに乗っていて恐ろしくて、転ぶなよと願っていたのだったが、大粒の砂の上で前輪が滑って、バイクが左に倒れワシと彼の足はバイクの下敷き。

    ワシは、とっさに右手に握っていたカメラを頭上に上げて、バックパックに入っているコンピュータにダメージがないように、背中を上にして倒れた。

    お客様を乗せて転倒したのに、このアホは、ワシの心配なんてしないんだ。自分のバイクが気がかりでね。

    ワシは、ちょっと足をすりむいただけだったけれど、ソフィアは、足の膝と足の指の皮膚が削れて血がにじんだところに泥が付いていて、しかめ面で「ウーウー」言っていた。

    ワシが、手渡した水で濡らしたティッシュで傷口を拭くとタバコをばらしてタバコの葉を傷口に塗りたぐるんだ.

    「今、タバコを付けたから怪我は大丈夫です」

    ってホントかよ!野蛮な荒療法に驚いた。

    道路は、場所によって更に悪く、ポル・ポト軍めがけて政府軍が空爆を行ったような大きな穴が開いていて、わしの恐れるポイペト・ハイウェイよりひどく、大海原を走っているようであった。道は、真っすぐなんだけれど、その穴を避けるために、車の走った後が、蛇が這っているようなS字形についている。到底、バスなど走れる道ではない。

    話は、変わるがベトナムでは、車高を上げた古いバスを見かけるんだ。1975年に、北ベトナム軍が勝利したベトナム戦争の終結後、1986年のドイモイ政策(刷新)まで、ベトナム経済はプアーであってさ、きっと道が荒れ果てていていたんだろうな。そんで、頭の良いベトナム人は、悪路を走れるためにバスを改造してリフトアップしんだと思う。

    そんなバスが、カンボジアにあったら辺境の地まで、バスを走らせることができたはずだが、きっと、カンボジア人には、そこまでの知恵と技術がなかったんだろうな。

    このソフィアって、アホ臭いんだが、バイクを走らせれば疲れ知らずで、アメリカ映画のキャノンボールのようにぶっ飛んで行くタフな弾丸男。ワシは、疲れてヘロヘロになっているのに、休もうとしない。尻の痛さと前から流れてくる彼の臭い口臭に、耐え抜かねばならないワシ。

    途中、ひとつだけ小さな町があっただけで、他に町らしきものはなく、葉っぱの屋根と壁の民家が点々とあるか、何もないうっそうとした原生林の中を走るのである。

    最近、雨がなかったようで道がぬかるんでいなかっただけ幸運だった。

    朝6時半に、シェムリアップを出発して、4時間半後の11時にアンロンベンに着く。

    シェムリアップからの距離は120Kmであったよ。ハードなスポーツをしたぐらいヘトヘトなワシとケロっとしているタフなソフィア。

    アンロンベンは、町の中も未舗装で、先ほどから振り出した雨で路面は水溜りだらけで、建物は赤土の土煙をかぶってワインカラーに染まっている。

    この町には、舗装道路を見たことのない人間も多いと思うな。だって100キロも走らなければ舗装道路はないのだもの。

    それでも、この辺りでは最大の町であるので活気があり、最近、ワシのようなポル・ポトの最終拠点であった地を訪れる環境客が増加したためゲストハウスもできた。

    町外れにある、ポル・ポト派のNo2の地位であったタモックの住んでいた家へ行く。

    タモックは、今でも健在で、出頭して裁判を受けるって、新聞記事で読んだことがある。

    「俺は、部下を統制することができず、部下が勝手に国民を殺したのだ」

    そのような記事があったと思う。

    彼の言っていることは、まんざら嘘ではないと思う。1975年に、プノンペンに入場したポル・ポト派の兵士は、十代の若者ばかりで、人生経験の少ない彼らは簡単にマインドコントロールをされてしまい、その後は暴走しちまったのだろう。人の命の尊さなんてわかっちゃいなくて、国家のためと思い込んでコマンドされれば家族まで殺してしまったんだ。

    タモックの家は、湖の湖畔にあり、上高地あたりの池のように、湖から立ち枯れした林が伸びて、とても美しい。それらの森林は、ダム建設で枯れたのだという。

    オリジナルの建物が三軒のこっており、庭先の小屋に吊るしたハンモックでゴロゴロとしていた兄ちゃんから2ドルのチケットを買わされ、「ガイドは、いるか?5ドルだ」だって、私腹を肥やそうとしやがる。

    それで、頼みもしないのに、ワシに付きまとってガイドをする二人の兄ちゃん。一生懸命に英語で、説明してくれるのだが、何を言っているのだか分からないクメールなまりの英語。

    この兄ちゃん、ガイドをしたのだからと言って、帰りに金を請求するんだろうなと、今までの経験から察しるワシ。

    この建物は、1979年以降に建築されたのだから、築二十数年ってところか。地下室に、シェルターがあるだけで、別にどうってことのない家だったので帰ろうとしたら、勝手にガイドをしてくれた兄ちゃんが、「金をくれ」って、やっぱりな。

    よくある構図だよ。金を払わないで立ち去ると、「Fuck You!」なんて言って、中指を立てて腕を突き出すアホもいるが、こっちが、「Fuck You」って言う立場だよ。

    さて、今回の目的であるポル・ポトの墓と彼の住居へ行く。

    その場所は、タイと国境を接する山中にある。

    山に向かって、直線道路を進み町外れにさしかかると幾ヶ所もドロドロのぬかるみがあって、バイクのタイヤがはまり込んでしまい、その度にワシはバイクから降りて、バイクを押すもんだから、足は泥だらけ。

    一箇所最大の難所があり、田植えができそうなぐらい道幅いっぱいにドロドロで逃げ場がないんだ。車やバイクどころか歩くのも無理っていう感じなんだけど、横に私設有料道路があるんだ。

    道の端に、車の車幅に合わせて二枚の板が橋のように敷かれていて、細い棒で入り口を遮断してある。そこで、二人の子供が通行料金を徴収しており、通行料金を支払えば、遮断してある棒を上げてくれる仕組みであった。

    この国の人間って、何でも商売にしてしまうのだなって感心しちゃったよ。しかし、普通なら道路が痛めば車が通れるように修復工事をするだろう。また、それに、慣れっこなっている国民は、我慢強いんだな。

    道路の補強だって、石を敷かないで土をブルドーザーで平らにならしてなローラーの付いた重そうな機械で踏みつけるだけなもんで、一雨振ればわだちができて、そこに水が溜まり簡単に元のドロドロ道に戻ってしまう。

    町から5キロほど行った山のふもとに、検問所があり制服姿のおっさんがにこやかに手招きをする。ワシ等が、検問所の掘っ立て小屋の軒下に入ると雨は本降りになりなった。

    おっさんの胸にはイミグレーションと書かれたバッジが付いていた。ここは、タイとボーダーを接しているからイミグレがあるのだなと思った。

    フレンドリーって感じのイミグレって、ホントやばい感じ。カンボジアの警察官やイミグレには邪悪なのがいるから、どうせ、道理に外れた金を要求してくるのだろうなと思い、けして笑顔は見せなかったワシ。

    そんなワシの顔を見て、「ネバーマインド、ネバーマインド」と繰り返して言うおっさん。

    おっさんは、フレンドリーな笑顔を作り、パスポートを見せてくれという。そんで、ワシに背を向けて、私服のおっさんとふたりでぶつぶつ言いながら、ワシのパスポートを1ページ目から全てに目を通す。「これはベトナムのビザで、これが中国で、これはインドか、おいおいカンボジアのビザがこんなにあるぞ」、きっと、そんな話をしていたに、違いないが、ワシが今まで、経験したことのないその様子に冷や冷やする。

    ワシのパスポートは、空きページがほとんどないほどスタンプだらけで、変な疑いを持たれては困る。

    10分間ぐらい、おっさんたちは、ワシのパスポートを念入りに調べた。それで、「このバイクタクシーには、いくら支払うんだ」なんて、ようでもないことを聞かれて、腹が立つワシ。

    腹が立ったけれど、金を請求されずに、ゲートを通ることができたんだが、しかし、何だったのだ。いい迷惑だった。だけど、パスポートの検査だけでよかった。「バックパックの中身を見せろ」、なんて言われたら、出てきたコンピュータに興味をもっちまって、日が暮れるまでつき合わされちゃうよ。

    雨は、本格的に降り続け雷の音も聞こえるほど。

    ワシとソフィアは、レインコートを着て、ポル・ポトの人生終末の地を目指して山を登り始める。

    結構な急勾配の土と岩盤の荒れた道は、川のように泥水が流れている。二人乗りのバイクでは、登ることができないほどの悪路と急勾配。バイクの後ろに乗ることができない悪路では、豪雨の中を必死に歩き、ここまできたのだからたどり着いてやるという思いで、なぜか疲れを感じないワシ。レインコートを着ていてもズボンはずぶ濡れでパンツまで水が染みている。

    手ごわい林道を登りきった山の山腹に、商店や食堂もある小さな村が現れた。こんな、山の中に村があるなんて、驚いてしまう。チープな家なんだけれどトヨタの新車の乗用車がある家があって、びっくり。

    ポル・ポトの墓は、その村の脇の空き地のような場所にぽつんとあった

    遺体が、葬られているところに、ボロボロの波トタンの屋根がかけられ、周囲は木の柵で囲まれて、「ポル・ポトが、ここで火葬された」と書かれた看板があった。墓の正面には、線香がたむけられてお供え物をした皿があり、周辺は草が刈り取られ手入れがされていた。

    一国を支配した人間の墓にしては、なんてみすぼらしい。

    ポル・ポトは、宮殿に出入りすることができたほどの富農の生まれ。

    1940年代に、ホー・チ・ミンの元で、反フランス運動に参加し、大戦終戦後にフランスに留学し、帰国後に反フランス地下組織運動に参加したって、フランスに留学したんだけどフランスが嫌いな青年だったのかよ?

    毛沢東主義の影響を受けて共産主義政策を行ったのだが、共産主義国家の構築に失敗っていうのだ。人々は飢え苦しみ、そして虐殺などで3百万人とも4百万人ともいう人口の3分の1の国民を殺してしまった。

    この辺りには、最後まで政府軍と戦った人間が、ごろごろいるんだろうかな?夜なんか、とてもいたくはない場所だよ。

    雨は上がり、村の食堂で、昼飯を食べて、ポル・ポトの住居へ行く。

    村中の道を真っすぐに突き進むと山の峠にゲートがあって、征服を着た政府の人間がいる。道路にチェーンが張られており、その先にあった「KEEP KEFT」と書かれた看板を見て、「おいおい、ここって、タイとの国境じゃないか」と驚くワシ。端のほうには「WELCOME TO THAI LAND」と書かれた看板もあった。

    ここから、タイへ入国できても里まで下りる交通手段がないのだろう。ヒッチハイクするにも通る車もないだろうし、歩いて、山を下れば、町まで何日もかかるだろう。少数民族の家に頼んで泊めてもらいながら歩き続ける根性なんてないよ。

    ソフィアは、道を間違えて、国境に来ちまったんだ。

    引き返して、村で道を尋ねて、山の峰方向に上って行く。

    先ほどの大雨で道幅いっぱいに大きな池のようになっているし、川のように水が流れるジャングルの中の道を這い上がって行くワシは水曜スペシャルの藤岡弘かよ。

    狭い林道をひたすら登りきった行き止まりに、けっこう立派なレストランがあってびっくりした。そのレストランの庭の端は断崖絶壁になっていて、まっ平らなカンボジアの大地が眼下に見下ろせ、更にびっくりで感動。緑の大地が果てしなく続く、その思いがけない光景に息を呑んだワシだが、「だから何なの?」ってな感じで無感動なアホなソフィアは、「道を間違えましたので行きましょう」だって。

    この男には、感情はないのかよ。

    この絶景が、あるから観光客を目当てのレストランがあるのだが、普通の外国人だったら来れるような場所じゃないな。根性のあるカンボジア人でないと。

    軽トラックが通れるほどの林道が、何箇所か枝分かれをしていて、道を尋ねるにも人がいないし、標識もないんだ。「地雷危険」の赤い看板が林の中の木に打ち付けてあり、うかつに藪の中で立小便をしたら足とポコチンがぶっ飛ぶ。

    こんな山深い奥地だが、まれに民家があり、タイとの国境に近いからか検問所のようなものが、いくつかあった。

    レストランで、道を尋ねて進むと道は急な下り坂かになり、ソフィアのバイクは滑って横倒しになってばかりいる。ソフィアを見捨てて、いつでも、バイクから飛び降りて、逃げる覚悟しているワシ。

    何キロか、下ったところにあった3軒の廃墟が、ポル・ポトの住居跡だった。

    既に、住宅はタイル張りのフロアーしか残っておらず、朽ち果てたブロック造りの事務所と地下シェルターのあるレンガ造りの建物が、生い茂る雑草のなかに、ひっそりとたたずんでいた。

    こんな山奥に建てた家でも、フロアーはタイル張りで、住宅の横にはコンクリートでできた貯水槽まであったので、設備が整っていた家に違いないだろうな。

    当時、冷戦時代だったので、親ベトナムのヘン・サムリン政権を西側諸国が嫌い、タイの援助で、この地にポル・ポトの家を建設したと聞いた。

    カンボジアって、ルビー、サファイヤなどの宝石の採掘できる国で、タイはポル・ポトから安値で宝石や木材を買い上げ、中国はポル・ポトに武器を売ったんだって。

    タイも中国も他国の平和より国益優先だったんだな。

    ただ、ポル・ポトの廃墟となった住居を見るために、はるばるこんなやまおくまで苦労して来たんだけど、何故かけっこう満足であるワシ。しかし、今来た道を引き返すことを考えると気が重くなる。

    来た道を引き返し、ひと山越えて、ポル・ポトの墓のある村から下る道は、来たときより更にドロドロで、バイクに二人乗りなんて無理。ワシは、バイクを降りて泥道を歩いた。

    泥だらけになって、ようやくアンロンベンにたどり着いてコーラを飲んで一息つけるワシを見て笑う店のおばさん。疲れきったワシの表情がゆかいだったんだろうよ。ワシらが、ポル・ポトの墓まで、行ったってお見通しなんだ。

    これで、アンロンベンのゲストハウスに泊まって、翌朝、ゆっくりと帰ろうと考えていたら、ソフィアが、「ズボンが、ずぶ濡れで泥だらけだから、シェムリアップへ帰りましょう」って言うのだ。ホントに疲れ知らずのアホに驚く。

    時間は、既に午後5時である。ワシは、念を押して、「お前、大丈夫か?」と聞くが、ヤツは、ケロっとした顔で、「8時半にシェムリアップに着けますから」と言う家畜よりタフな男。

    アンロンベンに、来るときに4時間半かかったのが、8時半にシェムリアップに着けるわけがないと思ったが、ヤツの忍耐力にまかせてみた。

    アンロンベンを出発して、2時間も走ったら道がぬかるんで、何度もわだちにタイヤが取られてバイクが横倒しになってしまう。今日降った豪雨のことを考慮しておらず、簡単にシェムリアップにたどり着けると思い誤算だったソフィア。

    場所によっては、1キロ走るのに、何度もバイクを降りて押し、何台もの車が、泥の中で身動きがとれずに立ち往生していた。

    辺りは、夕闇に包まれてひと気がなく、まれに小さな家のロウソクの明かりが見えるだけである。点在する民家のある地域を過ぎると大木が生い茂るジャングル地帯がはるかに続く。他に車もバイクなく2人だけでうっそうとしたジャングルの中の泥道をのろのろと進むのは恐怖であった。バイクのエンジン音の他には、虫と動物の鳴き声だけが聞こえ、銃を持った追いはぎが、いつ出没してもおかしくないほど深い森の中で、すれ違う車は数十分に一回程度。

    「カンボジアのシェムリアップから北東へ約150キロの森林地帯で日本人男性の遺体が発見さ、所持品などから行方不明となっておりました男性と確認されました」

    なんていうニュースが放送されたら、『また、馬鹿な日本人が、殺された』と言われ、いい笑い者になっちゃうな」と、バイクに揺られながら寂しく考えてしまう。

    何とか無事に、悪路と森林地帯を抜け出し、中間の町に着いたのが、午後8時であった。それから、シェムリアップまではまだ距離がある。

    ここまで、来たら左足のくるぶし辺りが痛みだした。

    バイクのタイヤが穴に落ちる寸前にステップの上に立ち尻を浮かせて衝撃をやわらげていたことが、くるぶしへの負担となったようだ。

    どんどん痛みが増してくるし、バイクの燃料も危機的状況になった。

    燃料を入れようにもガソリンをビンに入れて売っている店がこんな夜遅くまで営業しているわけがない。まだ、シェムリアップまでずいぶん距離があるのに、バイクの燃料計の指針はレッドゾーンに達した。中間の町で、燃料の話をしたけれど給油しなかったアホなソフィア。

    ソフィアは、気がつかないのか、ワシの足元からはカラカラという変な音が聞こえ続けている。それでも、バイクは一応快調に走っていたのだが、いきなりギアが抜けてニュートラル状態になりエンジンが高回転でうなった。

    ワシは、断念して、ここで一夜を明かすしかないのかと考えてしまったが、エンジンを止めてかけなおしたら復活してくれた。

    バイクのマフラーが水没して排気ガスが水中でぶくぶくしたぐらいの深い水溜りの中を走ったり、バイクの腹をこすりながら岩山を登ったりしたので、バイクにはダメージがあったはず。

    足を乗せたステップが、凹凸の路面で振動し、ワシの左足のくるぶしは泣きたくなるほど痛む。バンテアイ・スレイ遺跡まで行けば舗装道路だ。早くバンテアイ・スレイ遺跡へ行ってくれと時間の経過に耐え闇の中を走り続ける。

    ようやくバンテアイ・スレイ遺跡に着いたのは、午後9時半であった。バイクの燃料計はエンドのEの文字の上に乗っているのにもかかわらず、舗装道路を飛ばしまくるソフィア。普通の人間ならガス欠を恐れて、燃費を良くしようと慎重に走るのに、ヤツは、経済速度なんて知らないだよな。ヤツが、一人でガス欠になってエンコするならいいけれど、ワシが巻き添えになるんだぜ。

    バンテアイ・スレイまで、来たといってもシェムリアップまでは、あと40キロ近くもあるんだ。

    既に、どの家も寝静まって明かりのついている家はない。

    通りなれた道で、いつもなら長くは感じなかったけれど、この距離が何倍にも感じた。

    シェムリアップに、戻ったのが10時半近かった。

    ワシが、アンロンベンに泊まると思っていたゲストハウスのスタッフはワシを取り囲んで驚いていた。彼らは、疲れと足の痛みと未だに抜け切れない心の不安感のあるワシの表情を心配そうに見つめていた。

    そんな、ワシの心情や足のダメージを気にもしないで、「ご飯をたべますのでお金をください」というあつかましいソフィア。

    左足首が痛くて、ゲストハウスのスタッフの手を借りてバイクから降りたが、歩ける状態ではなくウィーたちの肩にしがみついて中に入った。

    夜中に、アンロンベンからの道を走るなんて何て無茶なんだ」

    と友達のウィーが、目を見開いて驚いていた。

    「怖いのは追いはぎだけでなく虎がいるだ。夜中に途中でバイクがパンクでもしたらどうなっていたかわからないぞ、お前はラッキーだったよ」

    と言われ、この国には猛獣がいたことを忘れていた。

    地元の人間だって、夜中にあの道路をバイクでは走らないもんな。

    「地元の人間ならアロンベイまでバイクでも耐えられるけれど、ツーリストは無理だよ」

    と忠告されたことが、身にしみたワシ。

    腹が減っていたが、今から飯を頼むのでは女の子に悪いと思ってビールを飲んで、ワシの3階の部屋へ階段を這うように上がり、シャワーを浴びる気力もなかった。

    翌日は、足首の痛みがひいて歩けるようになったが、背筋が筋肉痛で午前と午後に2回1時間3ドルのマッサージに行って、部屋で2日間ダウンのワシであったが、ソフィアはぴんぴんとしていたよ。

    やはり、あいつは只者ではないな。

    ワシは、冒険家でもないのに、今回は、プチ・サバイバルな経験をしちまったよ。

    1993年の総選挙後、新たな船出を迎えたのだが、未だに、インフレ整備の滞るカンボジア。世界各国からの援助資金はどこに消えてしまっているのだろう。穴と泥だらけの道路と朽ち果てた橋など、整備が行き届いておらず、周辺地域の経済発展に大きな支障になっている。時代の風に乗り遅れて確かな希望もなく、ただひたすら耐えて暮らす人々に、誰も振り向いてくれない。

  • <br /><br />21.産業廃棄物を捨てられた村 <br /><br />朝、ビーチを散歩して宿に帰ると雷が鳴り響き豪雨が降り始めた。<br /> 滝のように降りつづける強烈な雨に打たれて椰子の葉が揺れ動き、ざーという雨音が続く。<br /> バイク・タクシーで行動するので身動きがとれず部屋でただ雨の上がるのを待つしかなかった。<br /> ようやく昼近くになって豪雨は小雨に変わり、バイク・タクシーで港町シアヌークビルから国道4号線をプノンペンに約15キロ向かったバットラン村(BEA TRANG )に行った。<br /> バット・ラン村は山の山麓に貧相な民家が散りばめたように建ち並び、村の過半数の家は電気がないと思われる。<br /> その村の近郊の山に1998年に台湾プラスチックが約2800トンのも有機水銀などの毒性の強い産業廃棄物を捨てゴミ運搬にたずさわっていたカンボジア人男性が急死し、村の住民も健康を害した。<br /> この村のボウカさんという婆さんも、発熱、頭痛、吐き気に襲われ未だに頭痛は治らず散々な目にあっていると眉の間にしわを作りしかめ面でワシに訴える。<br /> 医者へ行くどころか、薬すら買えないので、<br /> 「頭痛薬を持ってないか?最近では膝も痛くてな。頭痛薬がないなら膝の薬は?」<br /> という。<br /> 産業廃棄物が原因で頭痛がするのは気の毒だが膝の痛いのは単純に年をとったからじゃないか、トクホン・サロンパスでもよこせと言うのか?とにかくあつかましい婆さんである。<br /> 金のある人は薬を飲めるがこのような薬も買えない暮らしをしている家族も多い。<br /> たまたま、通りかかった宣教師のサン・バーさんの通訳よると産業廃棄物に対する知識のない村人は廃棄物の入っていた袋を家に持ちかえり、その袋に米を入れて貯蔵したのだという。<br /> それを聞いた途端に恐ろしさのあまり言葉を失った。<br /> 日本で高度成長期に水銀汚染が原因で引き起こした水俣病のようにバットラン村の人たちは今も病んでいる。<br /> 貧困のため米を入れる袋も満足に買えないのが村の現状である。<br /> 患者は台湾プラスチックの補償や政府の援助も受けていないようすで怒りをあらわにしていた。<br /> 未だに、カンボジアでは産業廃棄物などの投棄に対しての法律が整備されてなく処理に困ったゴミをカンボジアへ持ちこみ役人に賄賂を支払うとどうにもなる。<br /> 婆さんは、破った雑誌のページで葉を巻いた葉巻のような太いビックなタバコを吸う愛煙家であり、ワシにタバコをくれとせがむので箱からタバコを一本引き出して差し出すと婆さんは箱ごと鷲づかみにして引っ張る。<br /> 「ふざけんなよ婆さん。一本だけだ」<br /> と睨みつけやった。<br /> 最後まで薬を欲しがるボウカ婆さんに、今度来るときは薬を持ってくるとウソをついて村を離れた。<br /> ポル・ポトも水銀も殺せなかったタフな婆さんであった。<br /> 1999年12月から2000年1月にかけて日本からフィリピンへ産業廃棄物が不正輸出され、1995年にはアメリカから中国へ廃棄物が輸出され、1993年にはオランダがインドネシアの港へ廃棄物の入ったコンテナーを68個置き去りにするなどアジア各国で海外から持ちこまれたゴミが引き起こす環境問題がある。 <br />



    21.産業廃棄物を捨てられた村

    朝、ビーチを散歩して宿に帰ると雷が鳴り響き豪雨が降り始めた。
    滝のように降りつづける強烈な雨に打たれて椰子の葉が揺れ動き、ざーという雨音が続く。
    バイク・タクシーで行動するので身動きがとれず部屋でただ雨の上がるのを待つしかなかった。
    ようやく昼近くになって豪雨は小雨に変わり、バイク・タクシーで港町シアヌークビルから国道4号線をプノンペンに約15キロ向かったバットラン村(BEA TRANG )に行った。
    バット・ラン村は山の山麓に貧相な民家が散りばめたように建ち並び、村の過半数の家は電気がないと思われる。
    その村の近郊の山に1998年に台湾プラスチックが約2800トンのも有機水銀などの毒性の強い産業廃棄物を捨てゴミ運搬にたずさわっていたカンボジア人男性が急死し、村の住民も健康を害した。
    この村のボウカさんという婆さんも、発熱、頭痛、吐き気に襲われ未だに頭痛は治らず散々な目にあっていると眉の間にしわを作りしかめ面でワシに訴える。
    医者へ行くどころか、薬すら買えないので、
    「頭痛薬を持ってないか?最近では膝も痛くてな。頭痛薬がないなら膝の薬は?」
    という。
    産業廃棄物が原因で頭痛がするのは気の毒だが膝の痛いのは単純に年をとったからじゃないか、トクホン・サロンパスでもよこせと言うのか?とにかくあつかましい婆さんである。
    金のある人は薬を飲めるがこのような薬も買えない暮らしをしている家族も多い。
    たまたま、通りかかった宣教師のサン・バーさんの通訳よると産業廃棄物に対する知識のない村人は廃棄物の入っていた袋を家に持ちかえり、その袋に米を入れて貯蔵したのだという。
    それを聞いた途端に恐ろしさのあまり言葉を失った。
    日本で高度成長期に水銀汚染が原因で引き起こした水俣病のようにバットラン村の人たちは今も病んでいる。
    貧困のため米を入れる袋も満足に買えないのが村の現状である。
    患者は台湾プラスチックの補償や政府の援助も受けていないようすで怒りをあらわにしていた。
    未だに、カンボジアでは産業廃棄物などの投棄に対しての法律が整備されてなく処理に困ったゴミをカンボジアへ持ちこみ役人に賄賂を支払うとどうにもなる。
    婆さんは、破った雑誌のページで葉を巻いた葉巻のような太いビックなタバコを吸う愛煙家であり、ワシにタバコをくれとせがむので箱からタバコを一本引き出して差し出すと婆さんは箱ごと鷲づかみにして引っ張る。
    「ふざけんなよ婆さん。一本だけだ」
    と睨みつけやった。
    最後まで薬を欲しがるボウカ婆さんに、今度来るときは薬を持ってくるとウソをついて村を離れた。
    ポル・ポトも水銀も殺せなかったタフな婆さんであった。
    1999年12月から2000年1月にかけて日本からフィリピンへ産業廃棄物が不正輸出され、1995年にはアメリカから中国へ廃棄物が輸出され、1993年にはオランダがインドネシアの港へ廃棄物の入ったコンテナーを68個置き去りにするなどアジア各国で海外から持ちこまれたゴミが引き起こす環境問題がある。

  • <br /><br />何故、途上国の子供たちは、こんなに屈託のない笑顔をみせるのだろうと常々考えてしまう。汚れたシャツを着て素足で走り回り、どこでも子供たちは仲間をつくって遊んでいる。 <br /><br />ワシの子供の頃もたくさんの子供がいて、どこでも子どもたちの声が聞こえていた。放課後が待ち遠しくて、ランドセルを家の玄関に置き去りにして神社へ駆けて行き、日が暮れまで遊んだものであった。野球をしたり山に登ったり精一杯身体を使って遊び、ランニングシャツの跡がくっきり残るぐらいに日焼けをしたものであった。 <br /><br />しかし、最近の日本人の子どもたちの遊びは、テレビゲームが主流で家にこもってバーチャルな世界で日常を過ごしているため、自然から学ぶ知恵を持ちえない。 <br /><br />頭の先から足の先まで一流品のアウトドアウェアーに身を包んだ男性が、「昨日、どのように、炭に火をつけたのですか?」とワシに尋ねてきて驚いたことあった。 <br /><br />それは、先輩に誘われたキャンプに行ったときのことであった。ワシは、その前日、焼肉をするために使用済みの割り箸を集めてコンロの炭に火をつけた。 <br /><br />また、キャンプ場を経営するワシの知人に、「薪に火のつけ方を教えてください」と言ってきたお客がいたという。「キャンプって、不自由を楽しむもので、人に薪の火をつけてもらったらおかしい」と彼は不平を言っていた。 <br /><br />アウトドアー雑誌には薪の火のつけ方まで書かれたものまであり、それを必死に読む読者もいるのだろう。 <br /><br />バブルがはじけてからキャンプは費用がかからないので流行したのか、至る所にキャンプ場が建設され大ブームとなった。「都会の雑踏を離れてキャンプ場で過ごす家族ずれ…」と書かれたゴールデンウィークの新聞記事の写真にはキャンプ場の敷地に隙間なくテントが張られており、新聞の解説を笑ってしまった。 <br /><br />薪の風呂を沸かすのも薪ストーブに火をつけるのも、ワシ等は子供のころ当たり前のように行っており、その生活の中から自然に知恵をさずかった気がする。 <br /><br />カンボジアの子どもたちの遊具は、手作りの凧やパチンコ、竹で作った釣竿など手作りのものばかり。それらの造り方を親から伝授され、子供たちは試行錯誤して完成させ知恵をつけてゆく。 <br /><br />水田の水路で魚と知恵比べをして魚を釣り上げたり、二股の枝を見つけてきて丈夫なゴムを取り付け威力のあるパチンコを作ったり、誰よりも高く上がる凧が出来たときの感動は、新しいゲームソフトを攻略したときのそれとは違う。 <br /><br />また、テレビゲームは相手が人ではなくモニターの画面の中の架空の世界であり、ゲームをコントロールする子供は孤立してしまって、無表情で仕事をこなしている大人のようにも見えてしまう。 <br /><br />カンボジアの子供は仲間と外で遊ぶということに両国の子供の違いがあるのか? <br /><br />日本の出産率の低下による少子化で子供の数が激減して、昔のように大勢の子供が神社などで遊ぶ姿を目にしなくなったし、テレビゲームの普及で子供同士の知覚、感情、思考の伝達が劣ってきている。そして、それらを媒介しなければならない親が炭の火のつけ方を知らないのでは、話にならない。以前は、当たり前に誰でも出来たことが、できなくなってしまっている人間が増加しているということだろう。 <br /><br />竈(かまど)に火をつけたり、薪を割ったり、ヤシの実を鉈(なた)で捌(さばく)くカンボジアの子供のほうが、その日本人男性より遥かにたくましい。 <br /><br />日本の某テレビ局で、日本の子供とカンボジア人の子供に1万円を差し上げたら何を買うのかという興味のある番組があった。 <br /><br />1万円をカンボジアの紙幣に両替するとゴム輪で束ねた分厚い札束になった。取材人が、ヤシの葉の屋根と壁でできた粗末な家に住む小学生の少女に1万円相当のカンボジアの紙幣を渡した。受け取った彼女は大きく見開いて紙幣を見つめ目を呼吸が止まってしまったように立ち止まってしまった。 <br /><br />その彼女に、「これで、好きなものを買いなさい」とうながすと、彼女は、「新しい鍋でも買う」と言った。 <br /><br />少女は、汚れた粗末な衣服を着ており、女の子であるので綺麗な服装がほしいはずである。彼女の口から出た、「新しい鍋が欲しい」という言葉が胸に染みた。 <br /><br />そして、日本人の子供は、その1万円で最新のゲームソフトを買った。 <br /><br />これは、両国の社会性や経済力の違いであり、しかたのないことである。クラスメイトの誰もがテレビゲームを楽しんでいるのに、自分だけ二股に分かれた木の枝を探しゴムを縛り付けてパチンコを作って遊ぶような古風な少年はいないだろう。 <br /><br />子供に限らず、日本の場合はコミュニケーションが少ないのではないだろうか?近所が家族のように接している農村部と違い、都市部では近所づきあいなど必要なく仕事と買い物と家があればよい。そんな環境の中での生活で無表情になり感動や安らぎはテレビや映画といった人工的なものに頼るため、ストレスなどといった現代病の根源になるのであろう。  <br /><br />質素であるがたくましいカンボジア人の暮らしぶりを見ていると、裕福になることが全て望ましいとは思えない。経済発展することによって、本来息づいていた人間同士の親睦や古来より伝わる伝統や仕来りが失われ、それらを蘇生させるにも継承者が存続しなくなる恐れがあるのではないだろうか? <br /><br /> <br /><br /> <br /><br /> <br /><br />



    何故、途上国の子供たちは、こんなに屈託のない笑顔をみせるのだろうと常々考えてしまう。汚れたシャツを着て素足で走り回り、どこでも子供たちは仲間をつくって遊んでいる。

    ワシの子供の頃もたくさんの子供がいて、どこでも子どもたちの声が聞こえていた。放課後が待ち遠しくて、ランドセルを家の玄関に置き去りにして神社へ駆けて行き、日が暮れまで遊んだものであった。野球をしたり山に登ったり精一杯身体を使って遊び、ランニングシャツの跡がくっきり残るぐらいに日焼けをしたものであった。

    しかし、最近の日本人の子どもたちの遊びは、テレビゲームが主流で家にこもってバーチャルな世界で日常を過ごしているため、自然から学ぶ知恵を持ちえない。

    頭の先から足の先まで一流品のアウトドアウェアーに身を包んだ男性が、「昨日、どのように、炭に火をつけたのですか?」とワシに尋ねてきて驚いたことあった。

    それは、先輩に誘われたキャンプに行ったときのことであった。ワシは、その前日、焼肉をするために使用済みの割り箸を集めてコンロの炭に火をつけた。

    また、キャンプ場を経営するワシの知人に、「薪に火のつけ方を教えてください」と言ってきたお客がいたという。「キャンプって、不自由を楽しむもので、人に薪の火をつけてもらったらおかしい」と彼は不平を言っていた。

    アウトドアー雑誌には薪の火のつけ方まで書かれたものまであり、それを必死に読む読者もいるのだろう。

    バブルがはじけてからキャンプは費用がかからないので流行したのか、至る所にキャンプ場が建設され大ブームとなった。「都会の雑踏を離れてキャンプ場で過ごす家族ずれ…」と書かれたゴールデンウィークの新聞記事の写真にはキャンプ場の敷地に隙間なくテントが張られており、新聞の解説を笑ってしまった。

    薪の風呂を沸かすのも薪ストーブに火をつけるのも、ワシ等は子供のころ当たり前のように行っており、その生活の中から自然に知恵をさずかった気がする。

    カンボジアの子どもたちの遊具は、手作りの凧やパチンコ、竹で作った釣竿など手作りのものばかり。それらの造り方を親から伝授され、子供たちは試行錯誤して完成させ知恵をつけてゆく。

    水田の水路で魚と知恵比べをして魚を釣り上げたり、二股の枝を見つけてきて丈夫なゴムを取り付け威力のあるパチンコを作ったり、誰よりも高く上がる凧が出来たときの感動は、新しいゲームソフトを攻略したときのそれとは違う。

    また、テレビゲームは相手が人ではなくモニターの画面の中の架空の世界であり、ゲームをコントロールする子供は孤立してしまって、無表情で仕事をこなしている大人のようにも見えてしまう。

    カンボジアの子供は仲間と外で遊ぶということに両国の子供の違いがあるのか?

    日本の出産率の低下による少子化で子供の数が激減して、昔のように大勢の子供が神社などで遊ぶ姿を目にしなくなったし、テレビゲームの普及で子供同士の知覚、感情、思考の伝達が劣ってきている。そして、それらを媒介しなければならない親が炭の火のつけ方を知らないのでは、話にならない。以前は、当たり前に誰でも出来たことが、できなくなってしまっている人間が増加しているということだろう。

    竈(かまど)に火をつけたり、薪を割ったり、ヤシの実を鉈(なた)で捌(さばく)くカンボジアの子供のほうが、その日本人男性より遥かにたくましい。

    日本の某テレビ局で、日本の子供とカンボジア人の子供に1万円を差し上げたら何を買うのかという興味のある番組があった。

    1万円をカンボジアの紙幣に両替するとゴム輪で束ねた分厚い札束になった。取材人が、ヤシの葉の屋根と壁でできた粗末な家に住む小学生の少女に1万円相当のカンボジアの紙幣を渡した。受け取った彼女は大きく見開いて紙幣を見つめ目を呼吸が止まってしまったように立ち止まってしまった。

    その彼女に、「これで、好きなものを買いなさい」とうながすと、彼女は、「新しい鍋でも買う」と言った。

    少女は、汚れた粗末な衣服を着ており、女の子であるので綺麗な服装がほしいはずである。彼女の口から出た、「新しい鍋が欲しい」という言葉が胸に染みた。

    そして、日本人の子供は、その1万円で最新のゲームソフトを買った。

    これは、両国の社会性や経済力の違いであり、しかたのないことである。クラスメイトの誰もがテレビゲームを楽しんでいるのに、自分だけ二股に分かれた木の枝を探しゴムを縛り付けてパチンコを作って遊ぶような古風な少年はいないだろう。

    子供に限らず、日本の場合はコミュニケーションが少ないのではないだろうか?近所が家族のように接している農村部と違い、都市部では近所づきあいなど必要なく仕事と買い物と家があればよい。そんな環境の中での生活で無表情になり感動や安らぎはテレビや映画といった人工的なものに頼るため、ストレスなどといった現代病の根源になるのであろう。

    質素であるがたくましいカンボジア人の暮らしぶりを見ていると、裕福になることが全て望ましいとは思えない。経済発展することによって、本来息づいていた人間同士の親睦や古来より伝わる伝統や仕来りが失われ、それらを蘇生させるにも継承者が存続しなくなる恐れがあるのではないだろうか?







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