2023/04/04 - 2023/04/04
534位(同エリア849件中)
naoさん
大阪府泉佐野市南中樫井は、平安時代に上皇、天皇、皇族や公家らの貴族階級をはじめ、武士、庶民にいたる、身分の上下に関係なく広まった熊野詣や、江戸時代に紀州藩の参勤交代に使われた紀州街道(熊野街道)沿いの町です。
紀州街道(熊野街道)と並行して流れる樫井川周辺は、大坂夏の陣の激戦の一つである樫井合戦の舞台となった所で、この合戦での敗北を機に大坂城は落城し、豊臣氏は滅亡へ追いやられてしまいます。
この合戦の記憶を末永くとどめるべく、樫井川をまたぐ国道26号線に架かる明治大橋の北詰には、地元有志の方々の手により「大坂夏之陣 樫井古戦場跡」の石碑が建立されています。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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泉佐野市南中樫井にやって来ました。
南中樫井は、平安時代に身分の上下に関係なく広まった熊野詣や、江戸時代に紀州藩の参勤交代に使われた紀州街道(熊野街道)が通る町です。 -
屋根の棟が直交する町家です。
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敷地の角にある井戸には、往時の名残をとどめるつるべと桶が残されています。
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南中樫井の町並みです。
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泉佐野市の汚水桝の蓋。
市章を中心に、市の木「いちょう」の葉が散りばめられています。 -
では、「大坂夏之陣 樫井古戦場跡」の石碑が建立されている、樫井川に架かる明治大橋北詰へ向かいます。
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樫井川をまたぐ国道26号線に架かる明治大橋の北詰に着きました。
この辺りは、豊臣氏滅亡のきっかけとなった大坂夏の陣の激戦の一つである『樫井合戦』の舞台となった場所になります。 -
この石碑は、『樫井合戦』の記憶を永くとどめるべく地元有志の方々の手により建立されました。
さて、ここから紀州街道(熊野街道)を東へ向かって歩きます。 -
こちらの町家は、敷地の中に小さな祠を祀っておられます。
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こちらの町家は、倉庫として使われているようです。
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こちらの町家は、本瓦葺き入母屋造りに瓜型の虫籠窓を開けておられます。
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門にも本瓦葺きの屋根が架けられています。
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こちらは付属屋と土塀をめぐらせた大きなお屋敷です。
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門構えも立派なもので、本瓦葺きの屋根が架けられた長屋門を構えておられます。
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黒漆喰塗の土塀をめぐらせた町家です。
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塀の上から黒松が顔をのぞかせています。
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脇道の奥から紀州街道(熊野街道)の方を見返した光景です。
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紀州街道(熊野街道)にも泉佐野市のコミュニティバスが運行しているようで、バス停がありました。
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コミュニティバスのバス停のある町家にも、瓜型の虫籠窓がしつらえられています。
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この立派な門は普段使われていないようで、柵が置かれています。
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町並みを歩いていると、どこからともなく小鳥が飛んできて餌をついばみ始めました。
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南中樫井の町並みです。
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こちらは、豊臣方の武将として『樫井合戦』で討死にした淡輪六郎兵衛の宝篋印塔です。
この宝篋印塔は、寛永16年(1639年)の25回忌にあたり、淡輪氏の末裔である会津藩士本山三郎右衛門が建立したものだそうです。 -
左手に見える建物は、長屋門のように思いますが・・・
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長屋門には違いありませんが、主屋と一体となって建てられています。
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かわいい庇が掛けられた丸窓のある土蔵です。
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南北朝時代から和泉国の有力な国人で、江戸時代には代々樫井の庄屋を勤めた奥家住宅が見えてきました。
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奥家住宅の建築年代は慶長元和のころ(1600年代はじめ)と推定されているそうです。
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奥家住宅の長屋門(表門)。
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長屋門に続く土塀。
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主屋をはじめ、奥家住宅の建物(構造物)のほとんどが本瓦葺きの屋根が架けられています。
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こちらは奥家住宅の勝手門になります。
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路地に面して自然石を埋め込んだ土塀が続いています。
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瓜型の虫籠窓がある町家です。
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小さなくぐり門の屋根を支える持ち送り。
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こちらは、淡輪六郎兵衛とともに豊臣方の武将として『樫井合戦』で討死した塙団右衛門の五輪塔です。
この五輪塔は、寛永8年(1631年)に敵方の紀州藩士小笠原作左衛門が建立し、また、石燈籠は団右衛門を討った八木新左衛門の孫が奉納したんだそうです。
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