2023/04/02 - 2023/04/02
747位(同エリア5910件中)
旅人のくまさんさん
- 旅人のくまさんさんTOP
- 旅行記6398冊
- クチコミ0件
- Q&A回答0件
- 5,390,884アクセス
- フォロワー204人
2023年の『名古屋の桜』の紹介の締め括りは、名城公園です。名古屋城に所縁の人は、清須城からこの地に移転することを決断した家康公、初代城主の9男の義直公、庶民に人気が高かった宗春公を外せませんが、もう一人加えるなら、天下普請の天守台を受け持った加藤清正公です。(ウィキペディア、名古屋城公式HP、千寿の楽しい歴史)
-
宗春失脚のいきさつを少し詳しく紹介しておきます。将軍・吉宗は、宗春になにかと気を遣い、二人の関係の良さは、数々のエピソードがあります。御附家老・竹腰正武の実弟の石河政朝が幕府中枢にいたことがそのキーワードになります。竹腰正武をはじめとする国元の藩重臣建ちは、老中・松平乗邑との連携で、宗春の失脚を画策したようです。(同上)
-
もう一人の御附家老・成瀬正泰が参勤交代で江戸に移った直後の元文3年6月(1738年7月)、竹腰正武たちが尾張領内で実権を奪い、宗春の藩主時代の命令をすべて無効とし、宗春藩主就任前の状態に戻すとの宣言を発しました。そのため名古屋藩領は混乱を起こします。この混乱に対し、宗春は琉球畳の祈祷所を建設し、毎日祈りを捧げました。宗春は、白い衣を着て祈祷を行ったと伝わります。(同上)
-
将軍吉宗は、恒例の行事を代理に任せて、元文4年(1739年)正月過ぎから、奥に引き篭ってしまいました。正月11日(1739年2月18日)、名古屋藩の家老達が江戸城に呼び出され、『享保の改革』の 後半期の老中、『松平乗邑(のりさと:1686~1746年)』から蟄居謹慎の内命を受けました。(同上)
*写真は、内堀の外周のカラタチの生垣です。 -
翌正月12日に、吉宗からの隠居謹慎命令を広島藩主・浅野吉長(宗春の従兄)、水戸藩御連枝守山藩主・松平頼貞(宗春の異母兄松平義孝の娘の茂登姫は頼貞嫡男松平頼寛正妻)、同じく水戸藩御連枝常陸府中藩主・松平頼幸により伝えられ、宗春は江戸の中屋敷麹町邸に、そして名古屋城三の丸の屋敷に隠居謹慎させられます。(同上)
-
宗春は隠居謹慎後、父母の墓参りも含め、外出は一切許されなかったと言われていますが、実際にはそのような粗略な扱いなどされていません。名古屋藩の祈禱寺興正寺にも参拝記録が残り、菩提寺の建中寺の参拝の際、市中では提灯を軒先に並べて、宗春公の参拝を迎えた記録も残っています。(同上)
*写真は、『特別史跡・名古屋城』の真新しい立看板の光景です。 -
御連枝美濃高須藩主の松平義淳が、徳川宗勝として宗春の後継となりました。宗春の養子という形式ではなく、名古屋藩は幕府が一旦召し上げた上で改めて宗勝に下しました。宗春は『尾張前黄門(前中納言)』と呼ばれるようになりました。宗春の子供は8人のうち7人までもが、宗春の尾張在府中に江戸で亡くなっています。(同上)
*写真は、名古屋城内堀の周りの桜並木の光景です。 -
宗春の蟄居謹慎は、6代藩主継友の実母・泉光院の三之丸の屋敷でした。時には藩主・宗勝より貴重な品々の贈り物があり、悠々自適の生活を送ることが出来たとされます。また、将軍・吉宗が使者を遣わし、宗春の蟄居謹慎に「不足しているものはないか」「鷹狩や魚捕りが出来ずに気鬱にならないか」と、かなり気を遣って気色伺いをしたという記録もあります。(同上)
-
宝暦元年(1751年)、吉宗公が薨去しました。宝暦4年(1754年)、御下屋敷(7万5千坪もある名古屋藩歴代藩主の隠居所)へ移りました。尾張徳川家菩提寺の建中寺への参拝、名古屋藩の祈願所である八事山興正寺への参拝が許されます。蟄居後の宗春は、茶碗を焼いたり、絵を描いたり、光明真言や念仏を唱えたりして、悠々自適の生活を送ったとされます。(同上)
-
宗春公の側室の『いづみ(宝泉院:京出身、猪飼氏)』と、『おはる(貞幹院:元吉原太夫春日野、名古屋藩士鈴木庄兵衛の娘)』は、最後まで宗春に寄り添いました。明和元年10月8日(1764年11月1日)死去しました。享年69(満67歳)でした。宗春の死によって徳川綱誠以来の男系の血筋は断絶しました。現在は、名古屋市千種区の平和公園内にお墓があります。(同上)
-
延享2年(1745年)、吉宗公は隠居して大御所となり、嫡男の徳川家重が将軍に就きました。吉宗公の治世後半の幕政を主導し、宗春を謹慎に追い込んでいった松平乗邑は、老中を罷免されました。家重は御側御用人として大岡忠光と田沼意次を重用し、それまでの質素倹約による財政緊縮政策が徐々に転換していきました。(同上)
-
以前にも紹介したことがありますが、宗春のユニークな施策の紹介です。
〇形式よりも中身を大切にした。(仁:まことを重視した温知政要等)
〇意味のある祭りを盛んにし、奨励した。(東照宮祭・名古屋祇園祭・盆踊り等)
〇人道に反する祭りは禁止した。(梁川の正月の水掛け、国府宮の裸祭厄男等)
〇奪い合うことや、義に合わぬことを禁止した。(條々二十一箇条等) -
〇自分の身にあった遊びは大切であるとした。(遊廓・芝居・見世物等)
〇法律や規制は少ないほうが良いとした。(規制緩和・温知政要等)
〇簡単なミスの訴状等を差し戻さず受け入れさせた。(條々二十一箇条等)
〇衣服・家・持ち物等は基本的に自由にした。(條々二十一箇条等)
〇ファッションリーダーを自ら担った。(申楽・歌舞伎・朝鮮通信使等の衣装等) -
〇心を込めた贈答・饗応を大切にした。(條々二十一箇条等)
〇庶民と上級藩士が出会う場を提供した。御下屋敷や市谷邸のお披露目等)
〇商人との対話を積極的にした。(岐阜巡行・乾御殿や御下屋敷滞在時)
〇六斎市を奨励した。(歴代藩主の中で、許可した例が突出して多い)
〇庶民が喜ぶことをした。(奴振り・白牛・漆黒の馬と衣装・派手な衣装) -
〇社会的な弱者を大切にした。(女性・子ども・身分の低い者の保護)
〇死刑を行わなかった。
〇マニフェストであり家訓でもある『温知政要』を執筆し、上級家臣に配布した。
*宗春は、ヒューマニストで、自ら率先する有言実行の人だったことがよく分かります。(同上) -
イチオシ
宗春公の紹介を終わったところで、最後は加藤清正公の紹介です。清正は、豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人です。秀吉に従って各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国の大名となりました。文禄の役の際の京城攻めでは、出世を競う小西行長と一番乗りを争いました。秀吉没後は、徳川家康に近づきました。(同上)
*写真は、重要文化財の『二之丸大手二之門(西鉄御門)』です。 -
清正公は、関ヶ原の戦いで東軍に組して活躍し、家康から肥後国一国と豊後国の一部を与えられ、熊本藩主になりました。清正は、永禄5年(1562年)6月、刀鍛冶・加藤清忠の子として尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)で生まれました。母は、鍛冶屋清兵衛の娘の伊都です。(同上)
*写真は、補修が急がれそうに見えた石垣の光景です。 -
永禄7年(1564年)、清正が3歳の時に父が死去し、母とともに津島に移りました。天正元年(1573年)、羽柴秀吉の生母である大政所(おおのまんどころ)と、母が従姉妹(あるいは遠縁の親戚)だった縁から、近江長浜城主となったばかりの又従兄弟の秀吉に小姓として仕え、天正4年(1576年)に170石を与えられました。(同上)
*写真は、中詰の石がはみ出してきた石垣の状況です。 -
天正10年(1582年)、本能寺の変が起こると、清正は秀吉に従って山崎の戦いに参加しました。翌年の賤ヶ岳の戦いでは、山路正国を討ち取る武功を挙げ、秀吉より『賤ヶ岳の七本槍』の一人として3千石の所領を与えられました。天正13年(1585年)7月、秀吉が関白に就任すると同時に従五位下・主計頭に叙任されます。(同上)
*清正は、城造りの名人でした。この辺りの石垣は受け持ち外のようです。 -
天正14年(1586年)、秀吉の九州平定に従い、天正16年(1588年)に肥後国領主となった佐々成政が失政により改易されると、これに替わって肥後北半国19万5,000石を与えられ、『隈本城』に入りました。後の天正19年(1591年)頃から、これに改修を加えて、文字を改め『熊本城』としました。個人的なことながら、私の先祖に関わる、『隈本城』、『隈部城』、『城村城』等です。(同上)
-
脇道に入りますが、『肥後国人一揆(ひごこくじんいっき)』について紹介しておきます。天正15年(1587年)に勃発した肥後国人による一揆です。戦国時代に突入した肥後国は国人割拠状態が続き、一時期は島津氏の支配下に置かれましたが、天正15年(1587年)5月、秀吉の九州征伐が開始され、島津氏は薩摩・大隅に押し戻されました。同年6月、52人の肥後国人が秀吉から所領を安堵されました。(同上)
-
『隈部親永(ちかなが:生年不詳~1588年)』は、戦国時代の肥後国の国人です。隈部氏の28代当主と称し、肥後国山鹿郡の永野城主でした。当時の隈部氏は、大友氏による菊池義武擁立に協力して以来、同氏に属し、天正元年(1573年)に父・親家が退隠すると、大友傘下の旧菊池氏家臣団の中心人物となりました。天正9年(1581年)頃、本拠を永野城から隈府城に移し、子の親泰を城氏の城村城に入れました。(同上)
-
隈部氏の所領は、菊池・山鹿・山本の三郡に及んだようです。また菊池旧臣と盛んに婚姻関係を結んで勢力を拡大させました。私の祖父が隈部氏、祖母が城氏の末裔です。どちらの家系も、菊池の3家老(あとは赤星氏)と呼ばれていました。江戸時代を過ぎても、姻戚関係は濃かったようです。菊池氏は、米良氏から復姓して、明治維新後に貴族院議員になりました。(菊池武臣男爵、菊池武夫男爵)(同上)
-
話は代わって、天正12年(1584年)5月4日の湿地帯での『沖田畷(おきたなわて)の戦い』です。隈部氏の同盟者の龍造寺隆信が戦死しました。肥後における龍造寺氏の勢力は急速に衰え、同年8月に島津氏が肥後北部に侵攻しました。島津軍は、敵に背を向けて逃げるふりをし、敵軍を自陣のなかへ深く入り込ませ、そこを伏兵が挟撃する『釣り野伏せ』も得意としていました。それが見事に成功しました。(同上)
-
イチオシ
天正12年(1584年)8月、島津氏が肥後北部に侵攻してきますと、隈部氏は9月に人質を出して島津氏に降りました。天正15年(1587年)3月に秀吉の九州征伐が始まると、他の肥後国人同様に秀吉に恭順しました。しかし所領は大幅に減らされました。肥後の国に攻め入っていた島津勢は、秀吉軍の勢力により、南に押し戻されました。本能寺の変は1582年、時代の主役は、信長から秀吉に代わりました。(同上)
-
天正15年(1587年)5月、秀吉の九州征伐が開始され、同年6月、52人の肥後国人が秀吉から所領を安堵され、肥後国人は、肥後国を秀吉から拝領した『佐々成政(1536~1588年)』の家臣団に組み込まれました(九州国分)。しかし、一刻も早い肥後の領国化を目指した成政が、性急に検地を進めたため、肥後国人の不満が爆発することになりました。(同上)
-
隈部親永は、駿府城が落城すると、子の親泰が籠る城村城に逃げ延びました。成政はこれも包囲しましたが、守りが堅く攻略に手こずりました。親永は阿蘇氏に属する甲斐親英と謀り、国人ら35,000余の兵を挙げさせ、田中城主の和仁親実、菊池武国らに率いられた一揆軍は、隈本城を攻囲しました。成政は隈本城に取って返しましたが、甥の佐々成能が討たれるなど、収拾がつかなくなりました。(同上)
-
一揆軍の制圧が出来なくなった成政は、秀吉に援軍要請を行いました。九州を『唐入り(文禄・慶長の役)』の兵站基地と位置づけていた秀吉は、肥後国人一揆の早期解決を図るため、九州・四国の大名を総動員しました。天正15年(1587年)12月、『小早川(毛利)秀包(ひでかね:1567~1601年)』を一揆討伐の総大将として出陣させました。(同上)
-
一揆の討伐隊には、立花宗茂、高橋直次、筑紫広門、鍋島直茂、安国寺恵瓊らの九州大名勢や、戸田勝隆、福島正則、生駒親正、蜂須賀家政らの四国大名勢も参陣、和仁親実ら兄弟が籠城した田中城を包囲し、戦闘の末に田中城を攻略しました。同年12月26日、佐々成政、立花宗茂、安国寺恵瓊らは一揆の首謀者・隈部親永の城村城を攻めました。(同上)
-
同年末には安国寺恵瓊の勧めで城村城を開け渡し、同時期に田中城も陥落して一揆は鎮圧されました。降伏後、隈部・有働氏一族は筑後国・柳川城主の『立花宗茂(1567~1643年)』に預けられ、側近と共に柳川城黒門前で『放し討ち(果たし合いによる処刑)』にされました。このすさましい決闘の一部始終を目の当たりにした検視役の浅野長政は大阪へ帰った後、事の顛末を詳しく秀吉に報告しました。(同上)
-
イチオシ
世にも稀なこの『放し討ち』が行われたのは、天正16年(1588年)5月27日の朝、柳川城の黒門前の広場でした。選りすぐりの柳川藩士にも1名の死者が出ました。検視役の浅野長政から報告を聞いた秀吉は、決断をした立花宗茂の罪を問うどころか、『さすが西国一の弓取り』と誉め讃えたと伝わります。この決闘で死亡した隈部側の遺体は、黒門橋近くに立花家の名目で丁寧に埋葬されました。(同上、以上)
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅人のくまさんさんの関連旅行記
名古屋(愛知) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
30