名古屋旅行記(ブログ) 一覧に戻る
名城公園の桜の紹介です。名古屋城は、国宝と同等とされる『特別史跡』に指定されていますが、桜の名所としては特定されていません。愛知県では、家康生誕の岡崎城(岡崎公園)が桜の名勝となっています。(ウィキペディア、名古屋城公式HP)

2023春、名古屋の桜2(10/11):名城公園(1):桜並木、染井吉野の落花、金シャチ横丁

33いいね!

2023/04/02 - 2023/04/02

1098位(同エリア5928件中)

0

30

旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

名城公園の桜の紹介です。名古屋城は、国宝と同等とされる『特別史跡』に指定されていますが、桜の名所としては特定されていません。愛知県では、家康生誕の岡崎城(岡崎公園)が桜の名勝となっています。(ウィキペディア、名古屋城公式HP)

  • 東山動植物園の桜の見学を終えて、地下鉄で名古屋城まで移動しました。振り返って眺めた、その地下鉄出口光景です。以前は『市役所駅』でしたが、『名古屋城駅』の真新しい表札に代わっていました。2023年1月4日に開業以来の名称だった『市役所駅』から改称されました。背後に見えているのが、名古屋市庁舎です。(同上)

    東山動植物園の桜の見学を終えて、地下鉄で名古屋城まで移動しました。振り返って眺めた、その地下鉄出口光景です。以前は『市役所駅』でしたが、『名古屋城駅』の真新しい表札に代わっていました。2023年1月4日に開業以来の名称だった『市役所駅』から改称されました。背後に見えているのが、名古屋市庁舎です。(同上)

  • 噴水が目印になる、名古屋市地下鉄名古屋城駅前の光景です。名古屋城のお堀に面した場所ですが、名古屋城の入口までは、少し歩かないといけません。この場所からの最寄りの出入口は、東門になります。名古屋城は、慶長15年(1610年)に徳川家康によって築城が開始され、同17年に大小の天守、同20年に本丸御殿が完成しました。一番の目的が、豊臣家の大阪城に対する東方面の抑えでした。(同上)

    噴水が目印になる、名古屋市地下鉄名古屋城駅前の光景です。名古屋城のお堀に面した場所ですが、名古屋城の入口までは、少し歩かないといけません。この場所からの最寄りの出入口は、東門になります。名古屋城は、慶長15年(1610年)に徳川家康によって築城が開始され、同17年に大小の天守、同20年に本丸御殿が完成しました。一番の目的が、豊臣家の大阪城に対する東方面の抑えでした。(同上)

  • 名古屋城の二の丸の東面の石垣光景です。内堀に向かって枝垂れた、染井吉野が見ごろでした。名古屋城では、個人的に一番好きな外堀の桜の光景です。染井吉野の花を、バックの石垣が引き立ててくれます。この辺りの内堀は、水が引かれていない空堀です。(同上)

    イチオシ

    名古屋城の二の丸の東面の石垣光景です。内堀に向かって枝垂れた、染井吉野が見ごろでした。名古屋城では、個人的に一番好きな外堀の桜の光景です。染井吉野の花を、バックの石垣が引き立ててくれます。この辺りの内堀は、水が引かれていない空堀です。(同上)

  • 少しズームアップした、名古屋城二の丸の東面の、石垣と染井吉野の光景です。遮るもののないお堀に向かって、目一杯に枝を伸ばしていました。黄金の鯱を頂き、史上最大の延床面積を誇った大天守、絢爛豪華な本丸御殿、さらに鉄壁の守りを固めた要塞としての機能を備え、城郭として国宝第一号に指定された名城でした。しかし、昭和20年(1945年)に戦災で灰燼に帰しました。(同上)

    少しズームアップした、名古屋城二の丸の東面の、石垣と染井吉野の光景です。遮るもののないお堀に向かって、目一杯に枝を伸ばしていました。黄金の鯱を頂き、史上最大の延床面積を誇った大天守、絢爛豪華な本丸御殿、さらに鉄壁の守りを固めた要塞としての機能を備え、城郭として国宝第一号に指定された名城でした。しかし、昭和20年(1945年)に戦災で灰燼に帰しました。(同上)

  • 戦災で焼失後も、国内屈指の城郭として国の特別史跡に指定され、復元された本丸御殿などが、往時の姿を鮮やかに伝えてくれます。徳川家康の命によって建てられた尾張徳川家の名古屋城、その一角をしめる本丸御殿は、尾張藩主の住居かつ藩の政庁として1615年(慶長20)に完成しました。御殿の内部は障壁画や飾金具などで絢爛豪華に飾られ、近世城郭御殿の最高傑作とも讃えられました。(同上)<br /><br />

    戦災で焼失後も、国内屈指の城郭として国の特別史跡に指定され、復元された本丸御殿などが、往時の姿を鮮やかに伝えてくれます。徳川家康の命によって建てられた尾張徳川家の名古屋城、その一角をしめる本丸御殿は、尾張藩主の住居かつ藩の政庁として1615年(慶長20)に完成しました。御殿の内部は障壁画や飾金具などで絢爛豪華に飾られ、近世城郭御殿の最高傑作とも讃えられました。(同上)

  • 戦災で焼失した本丸御殿ですが、壁画などの移動できるものは、本丸の一画にある『乃木倉庫』に疎開され、難を逃れました。幸いなことに、江戸時代の図面や記録、昭和戦前期に作成された実測図、古写真などもあり、往時の本丸御殿が復活しました。本丸御殿は、すでにネット紹介しましたので、今回は省略です。前方に、現在の東門が見えてきました。かつての『東鉄(くろがね)御門』です。(同上)

    戦災で焼失した本丸御殿ですが、壁画などの移動できるものは、本丸の一画にある『乃木倉庫』に疎開され、難を逃れました。幸いなことに、江戸時代の図面や記録、昭和戦前期に作成された実測図、古写真などもあり、往時の本丸御殿が復活しました。本丸御殿は、すでにネット紹介しましたので、今回は省略です。前方に、現在の東門が見えてきました。かつての『東鉄(くろがね)御門』です。(同上)

  • かつての『東鉄(くろがね)御門』への通路から眺めた、南側方面の光景です。『本丸御殿』は、第一級の史料をもとに、他では類を見ない正確さで忠実に復元を進められました。2018年(平成30年)には、江戸幕府第3代征夷大将軍・徳川家光(在職:1623~1651年)の宿泊のために建造された最も格式が高い「上洛殿」や「湯殿書院」が完成し、その優美な姿が公開されています。(同上)

    かつての『東鉄(くろがね)御門』への通路から眺めた、南側方面の光景です。『本丸御殿』は、第一級の史料をもとに、他では類を見ない正確さで忠実に復元を進められました。2018年(平成30年)には、江戸幕府第3代征夷大将軍・徳川家光(在職:1623~1651年)の宿泊のために建造された最も格式が高い「上洛殿」や「湯殿書院」が完成し、その優美な姿が公開されています。(同上)

  • 三つ葉葵の御紋の幟を立てたご一行とすれ違いました。桜祭りに関連するらしいイベントのPR隊のようでした。三つ葉葵の御紋の幟の一行は、『徳川義直公』に扮した人を中心としたPR隊でした。『徳川義直公(1601~1650年)』は、徳川家康公の九男です。尾張名古屋藩の初代藩主で、尾張徳川家の祖でした。文武に優れた人と伝わります。彭左文庫の基礎をつくり、新陰流兵法の相伝を受けています。(同上)

    三つ葉葵の御紋の幟を立てたご一行とすれ違いました。桜祭りに関連するらしいイベントのPR隊のようでした。三つ葉葵の御紋の幟の一行は、『徳川義直公』に扮した人を中心としたPR隊でした。『徳川義直公(1601~1650年)』は、徳川家康公の九男です。尾張名古屋藩の初代藩主で、尾張徳川家の祖でした。文武に優れた人と伝わります。彭左文庫の基礎をつくり、新陰流兵法の相伝を受けています。(同上)

  • 散り始めの『染井吉野(ソメイヨシノ)』のようです。全体に赤味を帯びているのは、咢の色のようです。義直公は、慶長12(1607)年に兄松平忠吉の遺領を引き継いで尾張藩主となり、家康没後の元和2年(1616年)に名古屋城本丸に入りました。義直公は文教に志し、嗜みとしてみとして武芸を好み、領内で狩猟を行いました。特に水野周辺(現・瀬戸市)での狩猟は、大々的に行われたようです。(同上)

    散り始めの『染井吉野(ソメイヨシノ)』のようです。全体に赤味を帯びているのは、咢の色のようです。義直公は、慶長12(1607)年に兄松平忠吉の遺領を引き継いで尾張藩主となり、家康没後の元和2年(1616年)に名古屋城本丸に入りました。義直公は文教に志し、嗜みとしてみとして武芸を好み、領内で狩猟を行いました。特に水野周辺(現・瀬戸市)での狩猟は、大々的に行われたようです。(同上)

  • 国の重要文化財の建物、名古屋城の東南隅櫓の光景です。普段は立ち入ることが出来ない建物ですが、何かのイベントの時に内部見学したことがあります。同じように西北隅櫓(清州櫓)と、西南櫓も内部見学しました。水野の地に対する深い思い入れが、廟所選定の要因ともなったようです。尾張徳川家の墓所は建中寺ですが、義直公の墓所は、定光寺に隣接する源敬公廟です。(同上)

    国の重要文化財の建物、名古屋城の東南隅櫓の光景です。普段は立ち入ることが出来ない建物ですが、何かのイベントの時に内部見学したことがあります。同じように西北隅櫓(清州櫓)と、西南櫓も内部見学しました。水野の地に対する深い思い入れが、廟所選定の要因ともなったようです。尾張徳川家の墓所は建中寺ですが、義直公の墓所は、定光寺に隣接する源敬公廟です。(同上)

  • 『特別史跡・名古屋城』のタイトルがあった平面図です。国の特別史跡は、32都道府県に合計63件あり、そのうち7件が特別名勝、1件が特別天然記念物との重複指定を受けています。愛知県では、『名古屋城跡』の1件のみです。文化財保護法第109条第1項(史跡名勝天然記念物)と、同条第2項(特別史跡名勝天然記念物)が、根拠条文です。(同上)

    『特別史跡・名古屋城』のタイトルがあった平面図です。国の特別史跡は、32都道府県に合計63件あり、そのうち7件が特別名勝、1件が特別天然記念物との重複指定を受けています。愛知県では、『名古屋城跡』の1件のみです。文化財保護法第109条第1項(史跡名勝天然記念物)と、同条第2項(特別史跡名勝天然記念物)が、根拠条文です。(同上)

  • 『特別史跡・名古屋城』の右下付近にあるのが、『二の丸』です。現在は愛知県体育館がありますが、名古屋城の北東の名城公園の野球場跡地などに新「愛知県体育館」が工事中です。2025年夏にオープン予定で、規模や機能が国際水準を満たす施設として整備され、翌2026年秋のアジア競技大会のメイン会場としても使用される予定です。大相撲の名古屋場所の会場にもなります。(同上)

    『特別史跡・名古屋城』の右下付近にあるのが、『二の丸』です。現在は愛知県体育館がありますが、名古屋城の北東の名城公園の野球場跡地などに新「愛知県体育館」が工事中です。2025年夏にオープン予定で、規模や機能が国際水準を満たす施設として整備され、翌2026年秋のアジア競技大会のメイン会場としても使用される予定です。大相撲の名古屋場所の会場にもなります。(同上)

  • 再び、義直公の紹介に戻ります。定光寺の源敬公廟は、慶安3年(1650年)に没した尾張徳川家初代藩主の徳川義直の墓所として、慶安4年(1651年)に墳墓・石標、承応元年(1652年)に竜の門以奥の門( 唐門)・殿舎( 焼香殿・宝蔵)・築地塀が完成し、元禄12年(1699年)に獅子の門が建てられました。昭和12年8月25日に国重要文化財に指定されました。(同上)

    再び、義直公の紹介に戻ります。定光寺の源敬公廟は、慶安3年(1650年)に没した尾張徳川家初代藩主の徳川義直の墓所として、慶安4年(1651年)に墳墓・石標、承応元年(1652年)に竜の門以奥の門( 唐門)・殿舎( 焼香殿・宝蔵)・築地塀が完成し、元禄12年(1699年)に獅子の門が建てられました。昭和12年8月25日に国重要文化財に指定されました。(同上)

  • 現在の『東門』の光景です。これから先が有料区域になります。今日は、桜見学が主な目的ですから、入場はしませんでした。尾張名古屋城では、初代藩主の義直公と並んで、有名(人気)なのが、第7代藩主の『徳川宗春公(1696~1764年)』です。名古屋藩主の前は、御連枝である大窪松平家当主(陸奥梁川藩主)でした。(同上)

    現在の『東門』の光景です。これから先が有料区域になります。今日は、桜見学が主な目的ですから、入場はしませんでした。尾張名古屋城では、初代藩主の義直公と並んで、有名(人気)なのが、第7代藩主の『徳川宗春公(1696~1764年)』です。名古屋藩主の前は、御連枝である大窪松平家当主(陸奥梁川藩主)でした。(同上)

  • 名古屋藩主就任時に規制緩和政策をとった宗春公は、質素倹約策の第8代将軍の『徳川吉宗公(1684~1951年)』とよく対比されますが、後ほど、少し補足説明します。吉宗公は、徳川幕府の中興の祖として有名で、初代将軍・家康の曾孫で、5代将軍綱吉のはとこにあたります。現代でも『暴れん坊将軍』の呼び名でTVで活躍しています。(同上)

    名古屋藩主就任時に規制緩和政策をとった宗春公は、質素倹約策の第8代将軍の『徳川吉宗公(1684~1951年)』とよく対比されますが、後ほど、少し補足説明します。吉宗公は、徳川幕府の中興の祖として有名で、初代将軍・家康の曾孫で、5代将軍綱吉のはとこにあたります。現代でも『暴れん坊将軍』の呼び名でTVで活躍しています。(同上)

  • 二の丸の染井吉野の光景です。吉宗公は、父や2人の兄が相次いで亡くなり、22歳で紀州家を相続しました。そして、吉宗公は、 徳川宗家の直系男子が絶えたことで、御三家から初めて将軍になりました。将軍に就任すると、第6代将軍・徳川家宣の代からの側用人間部詮房や新井白石を罷免しましたが、新たに御側御用取次という側用人に近い役職を設け、事実上の側用人政治を継続しました。(同上)

    二の丸の染井吉野の光景です。吉宗公は、父や2人の兄が相次いで亡くなり、22歳で紀州家を相続しました。そして、吉宗公は、 徳川宗家の直系男子が絶えたことで、御三家から初めて将軍になりました。将軍に就任すると、第6代将軍・徳川家宣の代からの側用人間部詮房や新井白石を罷免しましたが、新たに御側御用取次という側用人に近い役職を設け、事実上の側用人政治を継続しました。(同上)

  • 吉宗公は、紀州藩主としての藩政の経験を活かし財政再建に取り組みました。岡崎藩主の『水野忠之(ただゆき:1669~1731年)』を財政再建の最高責任者である勝手掛老中に任命し、年貢増徴や新田開発などの増収政策を積極的にすすめ、幕府を財政危機の窮地から救ったとされます。『享保(きょうほう)の改革:1716~1735/45年』の前半期の取り組みでした。(同上)

    イチオシ

    吉宗公は、紀州藩主としての藩政の経験を活かし財政再建に取り組みました。岡崎藩主の『水野忠之(ただゆき:1669~1731年)』を財政再建の最高責任者である勝手掛老中に任命し、年貢増徴や新田開発などの増収政策を積極的にすすめ、幕府を財政危機の窮地から救ったとされます。『享保(きょうほう)の改革:1716~1735/45年』の前半期の取り組みでした。(同上)

  • 名古屋城二の丸の染井吉野の光景が続きます。『享保の改革』は、主として幕府財政の再建が目的でしたが、先例格式に捉われない政策が行われ、文教政策の変更、法典の整備による司法改革、江戸市中の行政改革など、内容は多岐に渡りました。江戸時代後期には享保の改革に倣って、『寛政の改革』や『天保の改革』が行われ、これら三つを指して『江戸時代の三大改革』と呼ばれています。(同上)

    名古屋城二の丸の染井吉野の光景が続きます。『享保の改革』は、主として幕府財政の再建が目的でしたが、先例格式に捉われない政策が行われ、文教政策の変更、法典の整備による司法改革、江戸市中の行政改革など、内容は多岐に渡りました。江戸時代後期には享保の改革に倣って、『寛政の改革』や『天保の改革』が行われ、これら三つを指して『江戸時代の三大改革』と呼ばれています。(同上)

  • 二の丸の染井吉野の光景が続きます。将軍・吉宗と、名古屋藩主の宗春との関係の説明の前に、徳川宗春の略歴の紹介です。(同上)<br />〇享保15年11月(1731年1月):名古屋藩主となり、徳川の苗字を名乗る。<br />〇享保16年1月(1731年2月):通春から宗春に改名、従三位・左近衛権中将に。<br />〇享保17年12月(1733年1月):権中納言に。

    二の丸の染井吉野の光景が続きます。将軍・吉宗と、名古屋藩主の宗春との関係の説明の前に、徳川宗春の略歴の紹介です。(同上)
    〇享保15年11月(1731年1月):名古屋藩主となり、徳川の苗字を名乗る。
    〇享保16年1月(1731年2月):通春から宗春に改名、従三位・左近衛権中将に。
    〇享保17年12月(1733年1月):権中納言に。

  • 徳川宗春の略歴紹介の続きです。(同上)<br />〇元文4年1月(1739年2月):幕府より蟄居を命ぜられる。<br />〇明和元年10月(1764年11月):薨去。戒名は章善院殿厚譽孚式源逞大居士。<br />〇文政4年(1821年):第10代藩主により、孚式山王権現として祀られ、毎年法要。<br />〇天保10年11月(1839年12月):贈従二位権大納言。

    徳川宗春の略歴紹介の続きです。(同上)
    〇元文4年1月(1739年2月):幕府より蟄居を命ぜられる。
    〇明和元年10月(1764年11月):薨去。戒名は章善院殿厚譽孚式源逞大居士。
    〇文政4年(1821年):第10代藩主により、孚式山王権現として祀られ、毎年法要。
    〇天保10年11月(1839年12月):贈従二位権大納言。

  • 将軍・吉宗と宗春名古屋藩主との関係の紹介です。享保16年(1731年)正月に将軍・吉宗より偏諱を授かり、『徳川宗春』を名乗りました。享保16年4月、藩主として名古屋城に入ります。名古屋入府の際の宗春一行は、華麗な衣装を纏い、また自身も鼈甲製の唐人笠と足袋まで黒尽くめの衣装(金縁・内側は赤)と漆黒の馬に騎乗していたとされます。(同上)

    将軍・吉宗と宗春名古屋藩主との関係の紹介です。享保16年(1731年)正月に将軍・吉宗より偏諱を授かり、『徳川宗春』を名乗りました。享保16年4月、藩主として名古屋城に入ります。名古屋入府の際の宗春一行は、華麗な衣装を纏い、また自身も鼈甲製の唐人笠と足袋まで黒尽くめの衣装(金縁・内側は赤)と漆黒の馬に騎乗していたとされます。(同上)

  • 宗春公は、名古屋に戻ると、4代藩主の『吉通公(1689~1712年)』の御簾中・瑞祥院(九条輔子)の実家の九条家に3千両を寄付し、朝廷との関係を大切にしました。名古屋城下では、東照宮祭・尾張祇園祭(若宮祭・三之丸天王祭)・1ヶ月半にも及ぶ盆踊り等の祭りを奨励しました。また、女性や子供が夜でも歩ける町にするために、提灯を城下に数多く置きました。(同上)

    宗春公は、名古屋に戻ると、4代藩主の『吉通公(1689~1712年)』の御簾中・瑞祥院(九条輔子)の実家の九条家に3千両を寄付し、朝廷との関係を大切にしました。名古屋城下では、東照宮祭・尾張祇園祭(若宮祭・三之丸天王祭)・1ヶ月半にも及ぶ盆踊り等の祭りを奨励しました。また、女性や子供が夜でも歩ける町にするために、提灯を城下に数多く置きました。(同上)

  • 宗春公は、第6代名古屋藩主の継友(次ぐとも:1692~1731年)時代に廃れていた御下屋敷(名古屋城下、藩主の隠居所)を建て直し、そのお披露目の際に城下の女性と子供を呼んで、踊りの大会を丸2日間行わせ、その際に奉行以上の重職たちにも閲覧させています。藩士には、城下の芝居などの見物も許可しました。(同上)

    宗春公は、第6代名古屋藩主の継友(次ぐとも:1692~1731年)時代に廃れていた御下屋敷(名古屋城下、藩主の隠居所)を建て直し、そのお披露目の際に城下の女性と子供を呼んで、踊りの大会を丸2日間行わせ、その際に奉行以上の重職たちにも閲覧させています。藩士には、城下の芝居などの見物も許可しました。(同上)

  • 写真は、『金シャチ横丁』の看板です。『義直ゾーン』と『宗春ゾーン』とに分かれています。こちらは『義直ゾーン』になります。宗春公の紹介に戻ります。当時の江戸幕府は、『享保の改革』を推進する将軍・吉宗のもと、老中・松平乗邑の主導で質素倹約規制強化が徹底していました。このため、祭りや芝居などは縮小・廃止されていました。(同上)<br /><br />

    写真は、『金シャチ横丁』の看板です。『義直ゾーン』と『宗春ゾーン』とに分かれています。こちらは『義直ゾーン』になります。宗春公の紹介に戻ります。当時の江戸幕府は、『享保の改革』を推進する将軍・吉宗のもと、老中・松平乗邑の主導で質素倹約規制強化が徹底していました。このため、祭りや芝居などは縮小・廃止されていました。(同上)

  • 写真は、『名古屋城・BBQ(バーベキュー)パーク』の看板のコーナーの紹介です。宗春公の紹介に戻ります。幕府の政策とは、全く逆を行く宗春公は、規制緩和をして民の楽しみを第一に政策を進めていきます。緊縮財政・法規制の強化をする幕府に対し、開放政策・規制緩和(消費奨励ではない)の名古屋藩となっていきました。享保17年(1732年)正月、自身の著書『温知政要』(21箇条)を藩士に配布しました。(同上)

    写真は、『名古屋城・BBQ(バーベキュー)パーク』の看板のコーナーの紹介です。宗春公の紹介に戻ります。幕府の政策とは、全く逆を行く宗春公は、規制緩和をして民の楽しみを第一に政策を進めていきます。緊縮財政・法規制の強化をする幕府に対し、開放政策・規制緩和(消費奨励ではない)の名古屋藩となっていきました。享保17年(1732年)正月、自身の著書『温知政要』(21箇条)を藩士に配布しました。(同上)

  • 宗春公は、規制緩和のみではなく、神社仏閣への公式参拝には束帯騎馬の正装で赴き、幕府の法令も先回りするなど、幕府に対立する姿勢は全く見せていません。むしろ幕府の法令を遵守するように命じて、大切な形式はしっかりと守っていました。幕府の政策より、さらに先を読んだ政策だったとの指摘もあります。享保17年(1732年)3月には『條々二十一箇條』を発布しました。(同上)

    宗春公は、規制緩和のみではなく、神社仏閣への公式参拝には束帯騎馬の正装で赴き、幕府の法令も先回りするなど、幕府に対立する姿勢は全く見せていません。むしろ幕府の法令を遵守するように命じて、大切な形式はしっかりと守っていました。幕府の政策より、さらに先を読んだ政策だったとの指摘もあります。享保17年(1732年)3月には『條々二十一箇條』を発布しました。(同上)

  • 一方、宗春公は、巡視などでは朝鮮通信使の姿・歌舞伎・能の派手な衣装で出向いたり、時には白い牛に乗って町に出たりと、民衆が喜ぶ服装を工夫しました。名古屋城下郊外に芝居小屋や遊郭等の遊興施設を許可するなど規制緩和政策は、商人たちに受け入れられ、名古屋の町は賑わっていきました。(同上)

    イチオシ

    一方、宗春公は、巡視などでは朝鮮通信使の姿・歌舞伎・能の派手な衣装で出向いたり、時には白い牛に乗って町に出たりと、民衆が喜ぶ服装を工夫しました。名古屋城下郊外に芝居小屋や遊郭等の遊興施設を許可するなど規制緩和政策は、商人たちに受け入れられ、名古屋の町は賑わっていきました。(同上)

  • 宗春公は、「行き過ぎた倹約はかえって庶民を苦しめる結果になる」「規制を増やしても違反者を増やすのみ」などの主張を掲げました。これらの政策には、質素倹約を基本方針とする幕府の『享保の改革』による緊縮政策が経済停滞を生み、蝗害による不作も重なり、各地で暴動が頻発していたことへの反発があると言われています。(同上)

    宗春公は、「行き過ぎた倹約はかえって庶民を苦しめる結果になる」「規制を増やしても違反者を増やすのみ」などの主張を掲げました。これらの政策には、質素倹約を基本方針とする幕府の『享保の改革』による緊縮政策が経済停滞を生み、蝗害による不作も重なり、各地で暴動が頻発していたことへの反発があると言われています。(同上)

  • 幕府の倹約経済政策に対し、自由経済政策理論をもって立ち向かったのは、江戸時代の藩主では宗春だけとされます。この結果、継友時代の倹約令で停滞していた名古屋の町は活気を得て、その繁栄ぶりは『名古屋の繁華に京(興)がさめた』とまで言われました。また宗春の治世の間、名古屋藩では一人の死刑も行われていません。宗春は、罰するより、犯罪を起こさない町造りを目指しました。(同上)

    幕府の倹約経済政策に対し、自由経済政策理論をもって立ち向かったのは、江戸時代の藩主では宗春だけとされます。この結果、継友時代の倹約令で停滞していた名古屋の町は活気を得て、その繁栄ぶりは『名古屋の繁華に京(興)がさめた』とまで言われました。また宗春の治世の間、名古屋藩では一人の死刑も行われていません。宗春は、罰するより、犯罪を起こさない町造りを目指しました。(同上)

  • 幕府の緊縮規制強化の経済政策は、蝗害などにより失敗していました。一方で宗春の規制緩和の経済政策は大成功を収めていました。さらに宗春は、遊興禁止令等、幕府の政策を先取りして名古屋藩で徹底させました。こうした先手を打つ宗春により、幕府の威信が揺らぐと判断していた幕閣と、名古屋藩を持ち上げる朝廷との間で、宗春と名古屋藩は徐々に政略的に板挟みとなりました。(同上)

    幕府の緊縮規制強化の経済政策は、蝗害などにより失敗していました。一方で宗春の規制緩和の経済政策は大成功を収めていました。さらに宗春は、遊興禁止令等、幕府の政策を先取りして名古屋藩で徹底させました。こうした先手を打つ宗春により、幕府の威信が揺らぐと判断していた幕閣と、名古屋藩を持ち上げる朝廷との間で、宗春と名古屋藩は徐々に政略的に板挟みとなりました。(同上)

33いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

タグから国内旅行記(ブログ)を探す

価格.com旅行・トラベルホテル・旅館を比較

PAGE TOP