2022/12/25 - 2022/12/25
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ベームさん
今日はクリスマスです。クリスマスに外出するなんて何年ぶりでしょう。すくなくともリタイアー以来初めてです。以前は街はクリスマスは賑わいました。商店街にはクリスマスソングが流れ、大人もとんがり帽子をかぶって騒いだもの。職場ではクリスマスパーティーなんかもしました。いまはそんな光景は見られませんね。
さて神田川橋巡りも3回目です。横浜東京往来もしんどいので何とか今回で完了をと念じましたが、そうなりました。
神田川の橋は江戸川橋辺りまでは小さくて生活道路としての役目中心ですが、都心に来るにつれて大きくなり車の通行も激しくなる商業道路の趣になってきます。川幅が狭いことから橋に趣向を凝らすことは難しく、印象に残ったのは聖橋と柳橋くらいでした。
むしろ川沿いの旧跡に興味を覚えました。そんな写真も極力載せています。太陽の最も低い時期だったので明暗のコントラストが強く、いい写真が撮れませんでした。もっともカメラと撮影者の腕によるところが大きいのですが。
表紙の写真は本郷給水所公苑。
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今日のスタートはJR水道橋駅です。午前9時。
今日1日でなんとか河口の柳橋までたどり着きたい。
子供の頃巨人フアンだった父に連れられてこの駅で降りて後楽園球場に何回か行ったことのある懐かしい駅名です。 -
後楽園ブリッジ。
水道橋駅からドームシティまでダイレクトに行けます。昭和39年完成の歩行者専用橋。 -
場外馬券売り場へ向かう人でしょうか、この時間でも結構の人です。
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ブリッジの上から、小石川橋が見えます。
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水道橋駅の南側に回ると6本の道が交差するところがありました。
信号はないようです。もし6方向から車が来るとどうなるのでしょう。 -
その先にある三崎(みさき)稲荷神社。千代田区神田三崎町。
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鎌倉時代頃の創建のようで、当初本郷にあったものが幾多の変遷を経て明治38年この地に遷座しました。徳川3代将軍家光の崇敬篤かったそうです。
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水道橋に来ました。
橋の北側、左岸は文京区後楽、南側右岸は千代田区神田三崎町。 -
水道橋とはここから少し下流にあった神田上水懸樋から名付けられました。
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江戸初期に神田川の開削により架けられました。今の橋は昭和63年のものです。
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水道橋の北詰めは外堀通りと白山通りがクロスする大きな交差点です。
北東角にある都立東京工芸高等学校。1907年設立という歴史ある学校です。 -
北西角には東京ドームホテルとか後楽園の遊園地があります。
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外堀通りを50メートルも下流に歩きます。
お茶の水分水路碑。 -
神田上水懸樋(かけひ)跡。
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小石川後楽園の池に落とされた神田上水はさらにこの辺りで懸樋により神田川を渡って江戸市中に給水されました。
明治34年に飲料水の役目を終えて撤去されています。 -
その先の文京区立元町公園の塀にある防空壕の跡です。コンクリートで塞がれています。
公園は遺跡調査発掘中とかで閉鎖されていました。 -
水道橋からお茶の水橋間の外堀通りを「お茶の水坂」と呼ぶそうです。
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建部坂(たけべさか)。
小石川台地の端で、何本もの坂が神田川に向かって降りています。 -
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順天堂大学関連の建物の一画にあります。
明治9年、長谷川泰により創られた医術開業試験の予備校みたいなもの。明治36年廃校になるまで多数の医者を輩出したという。
日本医科大、日本女子医科大、東京医科大はこの流れと言われます。
野口英世や荻野吟子(日本最初の女医)もここで学び、医師となっています。 -
神田川から少し離れて順天堂大学の裏にある公園です。
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東京都水道局の施設で、本郷給水所の配水池の上を昭和51年に公園としたもの。
南半分が和風庭園、北半分が洋風バラ園になっています。 -
今でもバラが咲いていました。
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東屋でバラを見ながら日を浴びて本でも読む、気持ちよいでしょうね。
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大きな地球儀。固定されていて回りません。太平洋の何と大きいことか。鏡里のお腹のようです。
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公園の隅に神田上水路の一部を移設復元したものが作られています。
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昭和60年に水道橋からお茶の水橋への外堀通りの下から発掘されたものです。
石組の水路、石樋です。石の蓋を巻石と云うのですね、巻石通りの巻石です。 -
公園の隣に東京都水道博物館があります。
毎月第4月曜日と年末年始が休館です。入館無料。 -
館内を一巡しました。フラッシュなしで写真撮影可です。
一見の価値のある博物館でした。 -
先ほどの神田上水懸樋跡にあった神田川を渡る懸樋、水道橋。
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木樋。
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上流の大洗堰から僅かの高低差を利用しての技術は大したものです。ローマの水道橋みたいなもっと凄いのもありますが。
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井戸です。
水は各戸別に配水されるのではなく、共同使用の井戸に給水され、住民はここから水を汲んでいたのです。記録によると井戸は江戸じゅうで3600以上あったそうです。 -
共同井戸からツルベで水を汲んでいる様子。
上流で疫病が発生するとたちまち上水は汚染されます。井戸替えが町内総出でひんぱんに行われたそうです。 -
長屋では便所は共用です。
「あけはなし、たれかけ無用」の張り紙。 -
鋳鉄製の導水管。
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いちばん大きいのは直径290センチで鋳鉄製では日本最大。
東京の羽村取水堰から村山貯水池までの導水管に使われています。 -
馬水槽。
明治39年にロンドンより寄贈されたものの模型。倫敦水槽協会寄贈、と刻まれています。
大きな槽は牛馬用、下の小さなのが犬猫用。 -
裏側のが人間用。
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順天堂大学。
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順天堂大学横の坂。
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この辺り、外堀通りの北側は順天堂大学と東京医科歯科大学の大きな建物が占めています。神田川の南、神田駿河台には明治大学、日本大学ほか各種学校が集まっています。今はどうか知りませんが御茶ノ水駅の忘れ物トップは傘ではなく書籍文具類だそうです。
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この辺りの神田川の谷はかなり深いです。
神田川は元は飯田橋付近で今の日本橋川の流れるルートを通り日比谷方面に流れていました。名前も平川と云いました。
江戸初期、2代将軍秀忠の時幕府の命により仙台藩が飯田橋近くから和泉橋辺りまで神田山を開削し平川の水を流しました。それでこの部分を仙台堀とも言います。全て人力による大工事で、仙台藩の金庫も疲弊したことでしょう。 -
お茶の水橋に来ました。当初の橋は明治24年で、今の橋は昭和7年のものです。
掘削された神田山の土は当時低湿地だったいまの日比谷、京橋、銀座、築地あたりの埋め立てに使われました。 -
左岸は文京区湯島、右岸は千代田区神田駿河台。橋の南北にはJR御茶ノ水駅と地下鉄丸ノ内線の御茶ノ水駅があり、その乗り換え客で橋の上は人が一杯です。
お茶の水の名称は、徳川2代将軍秀忠がこの付近にあった高林寺の湧水を茶の湯に愛でたことから付いたそうです。・ -
橋の上から上流。
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立派な橋ですね。
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明治32年頃のお茶の水橋と神田川。湯島側から駿河台方面を望んでいます。
谷は深く、小赤壁、茗渓と呼ばれました。伝馬船が行きかっています。
山本松谷:明治東京名所図会より。 -
これは広重の「昌平橋聖堂神田川」です。
人の行きかう昌平坂と聖堂の築地塀。右下に昌平橋の欄干。
この絵からもこの辺りの渓の深さが想像できます。 -
下流、御茶ノ水駅。
駅のホーム拡張か何の工事か、もう何年もやっています。駅舎の拡張の余地は川の上しかないのです。
茗渓とも小赤壁ともいわれた景観も台無しです。 -
茗渓通り。
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歩き始めて約2時間。スタバで一休みしました。
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聖橋です。
湯島聖堂とニコライ聖堂の間にあることからの命名。 -
上を本郷通りが走っています。まっすぐ行くと湯島天満宮に突き当たります。
奥の建物は東京医科歯科大学。 -
湯島聖堂側から。
関東大震災復興事業の一つとして昭和2年完成しました。 -
神田川の橋の中で一番ユニークな形の橋と思います。ある詩人はバレリーナの脚を思わせると評しました。
欲張りな橋で、中央線、総武線、神田川、外堀通りを跨いでいます。 -
聖橋の袂に1本の大きな椋木(むくのき)。
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一口(いもあらい)太田姫神社元宮の札がぶら下がっています。
昭和6年に総武線御茶ノ水駅拡張により、今は駿河台道灌通りに移転しました。太田道灌の娘の疱瘡を治したとかで疱瘡にご利益があるそうです。 -
橋の上から、右に総武線、左に地下鉄丸ノ内線。
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その先に総武線の鉄橋。
左岸の建物が川べりに零れ落ちそうに建っているいる辺りが獅子文六の小説「自由学校」の舞台となったあたりです。戦後は川べりにバラックが密集していたそうです。 -
付近を歩いてみます。
東京復活大聖堂(ニコライ堂)です。明治24年の創建。高い建物の無かった時代、さぞ威容を誇ったことでしょう。 -
夏目漱石も通ったという明治14年開業の井上眼科。
ここで漱石はある女性を見初めたという逸話があります。結局話は纏まらず、それが痛手で漱石は東京が嫌になり松山に行ったとかなんとか。 -
聖橋を渡って相生坂を下ると湯島聖堂の入り口です。
最初の門は行高門 -
入徳門。1704年、唯一残る当時の建物です。
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杏壇門。
1690年(元禄3年)、徳川5代将軍綱吉が林羅山の孔子廟をここに移したのが始まり。1797年に幕府の学問所、昌平坂学問所(昌平黌)となりました。東京大学のルーツの一つです。 -
杏壇門の天水桶。
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いちばん奥に大成殿。孔子孟子他儒教の聖賢が祀られています。
関東大震災で入徳門以外の聖堂のほとんどが焼失し、今のは昭和10年再建されたものです。 -
杏壇門から入徳門を見下ろす。
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相生坂、聖堂の築地(ついじ)塀。
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坂の下方に総武線の鉄橋。
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湯島聖堂の下辺を通る昌平坂。
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さらに寄り道していきます。
昌平坂を上ると神田明神/神田神社です。
大鳥居の横に甘酒で有名な天野屋。1846年創業の老舗です。地下には迷路のようにコウジの眠る土室(つちむろ)が広がっているそうです。 -
大鳥居。
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隋神門。昭和50年築。
江戸の総鎮守といわれ、神田、日本橋、秋葉原、大手町、豊洲市場ほかの氏神です。
創建は天平2年(730年)、今の大手町、将門塚の辺りにあり、1616年に江戸城表鬼門に当たる現在地に移りました。 -
祭神は大国様(縁結び)、恵比寿様(商売繁盛)、平将門(除災厄除け)です。でも一般に知られているのは平将門でしょうね。痛快な風雲児と威勢のいい神田っ子とは馬が合うのです。
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神楽殿。
隔年5月の神田祭りは山王祭り、深川八幡祭りとともに江戸3大祭りと言われます。 -
権現造りの社殿は関東大震災で焼失した後。昭和9年に鉄筋コンクリート造りで再建されたものです。
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石造りとしては日本一大きいだいこく様。
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狛犬。
正面を向いてお相撲さんのように堂々とした姿です。 -
鉄製天水桶。昭和9年のものだそうです。
天水桶は防火用に雨水を貯めておくもので、昔は街かどにも見られましたが、今は不思議に神社やお寺にのみ見られるようです。実用ではなく一つの遺物ですね。 -
境内社小舟町八雲神社。
他に幾つもの境内社があります。 -
小舟町八雲神社天水桶。
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大伝馬町天水桶。
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石獅子。
親獅子が子獅子を谷底に突き落とし、はい上がってきたものだけを我が子と認めた能の出し物「石橋(しゃっきょう)」を造形化したもの。
江戸幕末頃の作と伝えられる。 -
銭形平次碑。
野村胡堂の「銭形平次捕物控」の平次親分は神田明神下台所町に住んでいることになっています。銭形平次と云えば神田明神です。
碑の台座は平次得意の投げ銭、寛永通宝を模っています。 -
平次物で稼がせてもらった出版社、映画会社、テレビ会社、俳優たちのお礼ですね
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明神男坂。
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神田明神の東側を明神下に下る急坂です。
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かって坂の途中に開花楼という料亭がありました。
1877年創業の高級料亭で、粋人、通人、文人の御贔屓で、書画骨董品の展示交換会などにも利用されました。島崎藤村の結婚披露宴もここで行われたそうです。
NHKの元会長坂本朝一氏はここの3代目です。
今はKAIKAというビルになっていました。 -
明治33年頃の男坂。山本松谷:神田神社男坂を望む。
坂の上の方の豪壮な建物が開花楼。坂下には人力車が行きかっています。
明神下は台所町と同朋町で、今は外神田という味気ない町名になっています。滝沢馬琴もながいこと明神下に住んでいました。 -
明神下にはこんなお店もありました。
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昌平橋に来ました。
橋を跨ぐ総武線の鉄橋。 -
親柱。
寛永年間(1624~1645年)にこの辺りに架けられたのが最初と謂われる。以後何回も焼けたり流されたり名前が変わったりのややこしい変遷をたどる。今の橋は大正12年のものだが何回も改修されている。 -
神田川お茶の水分水路の吐口があります。水道橋の近くにあった?口で分水された水がここで神田川に戻されます。
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橋の上から、聖橋。
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下流、万世橋方向。
右側のレンガ造りがマーチェキュート神田万世橋。 -
昌平橋と下流の万世橋の間、右岸には旧万世橋駅跡を利用した飲食、ショッピング街、マーチェキュート神田万世橋があります。
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旧万世橋駅ホーム跡。
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万世橋に来ました。中央通りが走ります。北に行くと秋葉原の電気街です。橋の北が千代田区外神田、南が千代田区須田町。
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万世橋親柱。
起源は1676年の筋違橋に遡ります。今の橋は昭和5年の架橋。橋の名前も眼鏡橋、萬代(よろずよ)橋と変わり、いつの間にか万世橋になりました。 -
欄干に汽車のレリーフ。今でこそ電気街ですが、昔はこの界隈漢方の薬屋が集まっていました。「毒掃丸山崎帝国堂」、「六味八味地黄丸紀伊国屋漢薬局」、「大木五臓園(大木製薬)」、「浅田飴堀内伊太郎商店」、「龍角散本舗」など。
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万世橋。
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橋から昌平橋の眺め。左はマーチェキュート。
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下流に京浜東北線、東北新幹線の橋。
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その鉄道橋に寄り添うように小さな橋があります。
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「神田ふれあい橋」と云うそうです。
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当初東北新幹線の東京駅乗り入れ工事用に架けられた橋ですが、平成元年、工事完了後も地元住民の要望で歩行者専用橋として存続しました。幅僅か2.6mです。
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橋の上から、下流の和泉橋が見えます。
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橋の南袂に柳森神社と云うのがあります。
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神社の前には1本の柳の木。通りは柳原通り。
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柳森神社。
1457年、太田道灌により江戸城鬼門除けとして創建。
新橋の烏森神社、日本橋堀留の椙森神社とともに江戸三森と呼ばれるそうです。
通りから一段と低い位置にあります。 -
正面の鳥居を入ると福寿社の鳥居があり、
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ユーモラスな石の狸が迎えてくれます。
狸は開運、勝負、出世にご利益があるそうです。 -
力石が幾つも転がっていました。
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狭い境内に境内社が幾つかあります。摂社金刀比羅宮。
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本殿。
京都の伏見稲荷を勧請したお稲荷さんです。 -
神田ふれあい橋と新幹線の橋。
ここから浅草橋までは神田川の右岸に沿って柳原通りが続きます。 -
柳原通り沿いで見かけたレトロな建物。元は明治20年創業の古着屋だったそうです。
関東大震災後多く建てられた店舗兼用住宅で、その軒のない特徴あるファサードは看板建築と呼ばれるそうです。この建物は昭和3年の建築で、千代田区の景観重要建造物に指定されています。 -
和泉橋に来ました。
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橋の袂に柳原土手の説明板があります。
柳原土手とは、江戸時代から明治の初めにかけて今の万世橋あたりから浅草橋にかけての神田川右岸(南岸)に築かれていた土手で、鬼門除けの柳の木が植えられていたことからそう呼ばれた。そのあとが今柳原通りとなってその名を残しています。 -
和泉橋。
この辺りに伊勢津藩藩主藤堂和泉守の屋敷があったことから名付けられた。
今の橋は昭和5年、関東大震災復興事業によるものです。 -
地下鉄の岩本町駅とJR秋葉原駅を結ぶ線上にあり、人の流れがとても多かったです。
上を通るのは昭和通り。
左岸は神田佐久間町、右岸は神田岩本町。 -
船入り跡。
昭和30年ころまで、船入り跡の所から奥の方、今のJR秋葉原駅の裏手辺りに延びる運河がありました。神田川から駅への貨物の輸送に使われていました。
今は和泉橋防災船着場となっていますが、フェンスに鍵が掛かっていて降りられません。 -
運河には佐久間橋という橋が架かっていました。その跡が残っています。
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運河と佐久間橋の跡。
ここら辺の左岸一帯を佐久間河岸といいます。 -
和泉橋の袂にはもう一つ説明板がありました。
既製服問屋街発祥の地です。 -
神田柳原河岸通り。右の鳥居は柳原神社。
江戸時代後期から柳原土手には古着屋が店を並べ、明治14年には岩本町古着市場が設けられ、古着を求める人たちで大いににぎわったそうです。古着と云っても今の感覚の古着ではなく、昔は古着の中から洒落たものを見つけるのが粋とされていたのです。 -
山本松谷:神田岩本町古着市場。明治東京名所図会。明治33年頃。
古着をあさる楽しみが溢れていますね。寿しやお汁粉屋も店を出しています。 -
今その面影は全くありません。通りの両側を注意してみて歩きましたが、衣料品関係と思しき店、会社には気が付きませんでした。
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次にやって来たのは美倉橋。
寛文年間(1670年)ころの「あたらしばし」が始まりのようです。 -
美倉橋。
この付近に三つの蔵地があり、三倉地と呼ばれていたが、三が美に代わったのだそうです。 -
今のは昭和4年架橋。
上を通るのは清洲橋通り。 -
橋の袂に蔵の形をした3棟の公衆便所があります。
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美倉=三蔵ということでしょう。
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美倉橋の先、柳原通りからちょっと入った所にひっそりと鎮座する清水扇稲荷神社。
鎌倉の扇ケ谷にあったものが1466年にこの地に遷座したものらしい。今は何の祭礼も行われていないという。 -
下流の左衛門橋かと思ったら橋に並行する水道かガス管でした。
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左衛門橋。
当初の架橋は明治初期のようです。橋の北側に酒井左衛門尉の屋敷があったことからの命名。橋の名前にはこういったケースが多いですね。 -
このプレートでは今の橋は平成12年完成となっています。
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この橋から下流に初めて屋形船が現れます。なにかそういう河川使用の約束事があるのでしょうか。
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ここから次の浅草橋にかけての道端には草花が手入れよく植えられていました。
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浅草橋に来ました。
袂に郡代屋敷跡、と云うのがあります。江戸時代、関東の幕府直轄地を管理する関東郡代が置かれていたところです。日本橋馬喰町。 -
親柱。大きな橋にしてはしょぼい。
当初は江戸初期の架橋と思われます。 -
浅草に続く江戸通りが通っています。この界隈奥州街道が通り、隅田川と神田川の水運を利用した物流の拠点として大いに賑わったそうです。
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橋の北西詰めに浅草見付(浅草御門)跡の碑。
江戸城を守る36か所の見付の一つで、奥州街道、日光街道を守る要衝でした。
1657年の明暦大火(振袖火事)では、伝馬町牢屋敷囚人の脱走デマでこの門を閉じてしまったため多数の町民や囚人が逃げられずに焼死しました。
この辺りの左岸には神田川の土や砂をすくって商いをする土屋が何軒かありました。質の良い壁土だったそうです。「つち鉄」、「土米」、「土五」、「土岩」など。 -
浅草橋から河口の柳橋の間は屋形船銀座みたいです。
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柳橋の花街華やかりしころは、料亭で飲み食いした客と芸者が船で隅田川に出て花見雪見に夕涼み、そこでも三味線の音が響いたそうです。吉原への猪牙(ちょき)船の発着所でもありました。今はもっぱら観光客向けの飲食船です。
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浅草橋の先、左岸は元花柳界の柳橋です。
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河岸には船宿が並んでいます。
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最後の橋柳橋が見えます。
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柳橋を通り越してちょっと隅田川にかかる両国橋の方に行ってみましょう。
両国橋の西詰め一帯が両国広小路のあった所です。 -
両国橋の親柱。地球儀(?)が乗っています。
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総武線の鉄橋が見えます。川は隅田川。
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河口から見た柳橋。
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柳橋に戻ります。
当初の架橋は元禄11年(1698年)で、橋の袂に1本の柳の木があった所から柳橋と呼ばれたそうです。 -
橋の袂に1本の柳の木。
その横に橋の説明板があって、正岡子規の句が刻まれています。
「春の夜や 女見返る 柳橋」 -
神田川が隅田川に流入するところに架かる最後の橋です。ユニークな流線形が好きです。神田川の橋では聖橋と柳橋をベスト1,2に挙げます。
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欄干に簪のモニュメント。
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橋の上から見た浅草橋。
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神田川が隅田川に流れ込むところです。右に両国橋が見えます。
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昔の花街柳橋に入ります。
花柳界の始まりは江戸後期、天保の改革により岡場所だった深川から深川芸者(辰巳芸者)が移って来たことです。気っぷのいい深川芸者と隅田川の景観で大繁盛します。客筋は遊び慣れた富裕な商人が主で、柳新二橋と謳われましたが、成り上がり者の役人の客が多かった新橋芸者より格が上でした。 -
料亭、芸者数のピークは昭和3年頃でした。
昭和40年頃から隅田川の汚染、護岸工事による景観の喪失により衰退期を迎えます。しかし新吉原のようにピンク街に変わることを潔しとせず撤退していきます。平成11年に最後の料亭が消えました。
今はかっての花街の面影は全くなく、マンションとパーキングばかりが目立ちます。 -
昔の柳橋の隆盛は江戸末期から明治初期の文人成島柳北の「柳橋新誌」に詳しく描かれています。
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「破戒」を発表したあと3人の娘を次々に失くした失意の島崎藤村は西大久保からこの柳橋に移り住んできます。しかしここでも妻を亡くします。家事手伝いに来た次兄の娘こま子と不倫関係になり妊娠させます。日本に居ずらくなった藤村はパリに逃げ出しますが、第1次世界大戦の勃発により日本に帰国します。
その自分とこま子をモデルにした小説「新生」を発表するなんて、藤村はしたたかですね。 -
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柳橋に一つだけある神社「篠塚稲荷」。
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玉垣には料亭らしい名前が並んでいます。
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唯一残る料理屋亀青楼。
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柳橋から帰路に就くべくJR浅草橋駅に向かう途中。
人形問屋の老舗が集まっています。 -
昔浅草寺の参拝客に人形を売るために集まってきた小さな小売商が発展してきたのだそうです。みんなビルを構えています。
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浅草橋駅付近の総武線のガード下は庶民向けの一大飲食店街でした。
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今日の終わりは浅草橋駅。秋葉原、東京経由で帰りました。3時ころ。
もう行きたいところも無くなりました。コロナ感染者も増えています。当分陋居で大人しくしていましょう。
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この旅行記へのコメント (4)
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- frau.himmelさん 2022/12/30 23:00:13
- 神田川橋巡り、完結おめでとうございます。
- ベームさん、神田川橋巡り完結おめでとうございます。
最終回は何と、ほとんどコメント付きの写真数183枚という超大作!
私も慣れ親しんだ御茶ノ水から聖橋、昌平橋、万世橋、秋葉原、神田明神、マーチエキュート・・・。息も付かずに読ませていただきました。しかし知らなかったなーというエピソードがいっぱい、私ももう一度復習しなければなりません。
でもなんと勿体ない、2編に分けられたら良かったのに。そうしたらもう1回見られたのに・・・、と文末のコメントを読んでそう思いました。
>もう行きたいところも無くなりました。コロナ感染者も増えています。当分陋居で大人しくしていましょう。
それにしても、25日のクリスマスにあれだけの橋巡りをされて、ここ数日であの大作を纏め上げられたのですか?!
しかも相変わらずの質の高い作品を! 思ってはいたけどベームさんは超人です!
ベームさんのあの編集の早さは今も変わりませんね。ヨーロッパ旅行記なども、私がダラダラと悩み悩み仕上げていく中を、ベームさんはいともスイスイといいものを発表していらっしゃった、もうどれだけ羨ましく(恨めしく)思ったことか!
何が陋居ですか!
まだまだこれからも新作発表してください。待っています。
さて、いよいよ残すところあと1日。
ベームさんの旅行記は今年もいろいろお世話になりました。ありがとうございました。
どうぞよいお年をお迎えください。
hinnmel
- ベームさん からの返信 2022/12/31 11:24:04
- Re: 神田川橋巡り、完結おめでとうございます。
- hinnmelさん、
過分のお言葉痛み入ります。
物事は何でも長ければよいというものではなくて、短く簡潔に纏められないところが私の欠点です。作業が早いのも、皆様が忙しいこの師走に他にすることが無いからです。
お孫さんとのドイツ旅行を最後にhinnmelさんのブログを拝見できないと思っていたら成田山がありましたね。ひとつ慣れ親しんだhinnmelさんの目で見た東京案内なんていかがですか。あるいは来年は念願のドイツ旅行の再開が実現するかもしれませんね。
ではよいお年をお迎えください。来年もよろしくお願い申し上げます。
ベーム
-
- pedaruさん 2022/12/30 05:21:00
- 東京の散歩
- ベームさん おはようございます
町の成り立ち、建物の歴史、事件のエピソード、景観など下調べも大変です。誤りがないように調べなければなりません、簡潔にと思っても、説明は最短でも必要です。
読む人の想像を超えた苦労もあろうかと推察します。
東京の街歩き、ご一緒させていただいた気分です。知らないこともたくさん教えていただき、楽しい散歩でした。説明も簡潔で分かりやすく、私の旅行記の手本とさせていただきます。
しばらくはお休みされるとのこと、また力を蓄えて再登場をお待ちしています。
良いお年をお迎えください。
pedaru
- ベームさん からの返信 2022/12/30 13:00:02
- Re: 東京の散歩
- pedaruさん、
何時もコメントありがとうございます。
撮ってきた写真をもとに色々調べるのも街歩き後の楽しみの一つです。私の説明はあっちやこっちから糊と鋏で継ぎ合わせたものばかりですが、自分の勉強にもなると思って恥を承知で作っています。
私の東京歩きもひと段落かなと思っています。仰るように英気を養って何か材料を見つけられたらと思います。
pedaruさんのこれからもペダルを漕いでのご活躍を期待します。
ではよいお年を。
ベーム
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