2022/07/27 - 2022/07/27
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あの街からさん
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随分と前から西洋絵画と美術館の空間と建物に惹かれ
美術館に出かけてはミュージアムショップから
画集やら解説本を買い求めたり外国の美術館を訪れた時には、
読むことができないフランス語やドイツ語の画集まで買ってきては
本棚に並べておきそれで幸せな気分になっていました。(⌒-⌒; )
仕事に区切りがついたのをきっかけとして
少し身を入れて「西洋美術史」を学びたいなぁ。と思いました。
西洋美術のサークルと出会うことができ月1出かけるようになりました。
それから半年も経たぬ間にコロナ禍となり(;゜0゜)
各自、自宅でということに。以来、西洋美術に関連する
本を読んだり溜まっていた美術に関連する録画番組を観たりしながら
少しずつですが系統的に知るきっかけができ
裾野が広がってワクワク感が増してきました。
そうすると今度は、本物を観に行きたい。との思いが強くなりました。
そんな時期に国立西洋美術館のリニューアルオープンが伝えられ
機会をみていました。オープンして1ヶ月を過ぎた頃の平日。
暑い日でしたが人数制限の館内で、ゆったり。
これまで、国立西洋美術館へ何度となく足を運んでいたのですが、
そのほとんどが企画展を観て帰ってきてしまっていました。
今回、コロナ禍でしばらく美術館から遠ざかって
いてウズウズしていたこともあり
リニューアルされた空間はいかにや、と
常設展も久しぶりにじっくりと観てきました。
名画三昧で充実した時間を過ごすことができました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
国立西洋美術館は2020年10月19日~2022年4月8日のおよそ
1年半の改修工事を経て2022年4月8日リニューアルオープン。
どんな風に変わっただろうなぁ。
と興味津々で出かけてゆきました。 -
リニューアル工事によって一番大きな変化は、より開放的になり、
ル・コルビュジエの意図していた空間に戻されました。
さらに、コルビュジエが考案した尺度「モデュロール」による
床面には、鑑賞者を誘導するためのラインも引かれていていました。 -
玄関へと続く前庭に配置されている<考える人>は
周りはこれまで植木で囲まれていましたが取り払われ
彫刻と通りを隔てているのは縦格子フェンスのような柵があるだけで、
理髪をしたその日の頭のよう(⌒▽⌒)スッキリした感じを受けました。
さて、前庭に設置されている<考える人>ですが
石膏原型と言われる型にブロンズなどを流し込むと
大量に作れるタイプで、量産も可能ですが「本物」と
呼べるものはフランス政府のお墨付きがあるものに
限られています。 この、フランス政府お墨付きの
「考える人」は世界中に21体あるといわれていて、
そのうちの1体が松方コレクションとして
国立西洋美術館にあるのです。
世界に21体ある「考える人」は大きさや色もさまざまで
その中の一体は京都国立西洋美術館などにあるということですが、
京都ではまだ観る機会がありませんでした。 -
コルビュジエによる当初の前庭の設計意図が正しく伝わるよう
可能な限り開館時の姿に近づけたとのことで、
開館当時は外との連続性があったといい
より開放的な空間とした美術館になっていたようです。
本館と外の道路とのあいだを隔てるように配されていた植栽を
最小限としたことで開放的な空間に戻り、
前庭に設置のロダンの<カレーの市民>と
ロダンの彫刻<考える人>との配置をできる限り
当初の状態に近づけるかたちに戻されました。 -
「地獄門」
ロダンは、1880年 未建設の「国立装飾美術館」の
扉として〈地獄門〉の制作をフランスから依頼された。
ロダンにとっては、長い下積みを経て
ようやく認められ始めた時期のうれしい注文だった。
フィレンツェのサン・ジョヴァンニ洗礼堂の〈天国の門〉に
対抗すべく、ダンテの「地獄篇」を主題とした。主題を選んだ
のはロダン自身だと考えられている。
1900年パリ万国博覧会において石膏像という形で全体像
が明らかになった。
石膏原型と言われる型にブロンズなどを流し込むと
大量に作れ量産も可能な作品ですが現在までに8体が鋳造されている。
松方幸次郎が、ロダン美術館の学芸員(実質の館長)
レオンス・ベネディットの誘いに応じて、1体目を
自分用に2体目をロダン美術館にと考え2体の鋳造を
1922年発注。前金10万フラン、次に分割で
20万、5万フラン、15万フランと50万フランを
支払い終えたところ、後任の学芸員ジョルジュ・
グラップからの請求額は、当初50~60万フランと
いわれていたものが2体分の総計70万フランが必要
との請求があり、最終的に1927年2体分の70万
フランを支払いを受けた。との事柄がロダン美術館の
理事会議事録から確認されている。
また、第二次世界大戦下には
パリを制圧したナチス・ドイツが注文したロダンの作品に
は、当然のように〈地獄門〉も含まれていた。
後任の学芸員グラップは、ナチスに対して新たに鋳造して
渡すことにして鋳造費を請求。鋳造にとりかかったが、
戦争中のこの時期、材料費も人手も足りなかったことも
あり完成したのは戦後となり、スイスの富豪に渡り
1949年チューリヒのクンハウスに寄贈され今日に至っている。
グラップは、戦後ナチスへの協力者として収監されたが、
松方の注文したものは、おそらくリュディエの鋳造所に
残されていたままと考えられているが、それを売らずに
新たに鋳造をしたことから難を逃れた感がある。
など様々な運命を辿りながら
日本の国立西洋美術館前庭に展示されているのでした。
さて
〈カレー市民〉や〈考える人〉と共に前庭に設置され
雨ざらし状態。これが、メトロポリタン美術館や大英博物館
の展示作品ならきっと屋内展示室に設置されるのだろうなぁ。
と、考えてしまうのでした。 -
イチオシ
『松方幸次郎と松方コレクションの物語』
(慶応元年)薩摩藩士・松方正義の三男として現在の
鹿児島市下荒田に生まれる。
1884年東京大学予備門を中退。同年4月に渡米。
イエール大学法律学博士号取得。1890年(明治23年)帰国。
父の首相秘書官となる。
1896年(明治29年)川崎財閥創設者で、幸次郎の
米国留学の費用を負担するなど公私に渡って関係の深かった
同郷の川崎正蔵に要請されて、株式会社川崎造船所の
初代社長に就任。それをきっかけとして神戸新聞社、国際汽船、
神戸商工会議所会頭など11社に名を連ねた他
代議士も務め、神戸の政財界の巨頭であった。
川崎造船所社長として隆盛を誇った第1次世界大戦期にロンドンや
パリに滞在。1910年代中頃から絵画、彫刻、浮世絵等美術品の
収集に取り組み日本における本格的な西洋美術館の創設を目指した。
収集品は『松方コレクション』の名で知られ、
この間収集した作品は絵画の他、彫刻・版画・素描など
西洋美術作品その総数は3,000点を超えたという。
また、パリの服飾デザイナーアンリ・ヴェヴェールのコレクション
から浮世絵8,000点ほども買い戻した。 -
その後、昭和金融恐慌の余波を受け川崎造船所が経営破綻。
松方は私財を造船所に提供した他、造船所の地下倉庫に
保管されていたコレクションの一部を
銀行融資の担保として差出すなどした。
このようにして、先に日本へ送られた
作品群の一部が売りに出されてしまった。
この結果、松方幸次郎がヨーロッパで購入した膨大な数の
西洋美術品の中から一部、この時の売却によって
日本の様々なコレクター・コレクションに渡ってゆき
後に大原孫三郎や石橋正二郎のような有力なコレクターの
手に渡った重要作品が、大原美術館や旧ブリヂストン美術館
等のコレクションに収まって展示されることとなった。
関東大震災(1923年)の翌年1924年 贅沢品と
見なされ国内に持ち込まれる美術品は100パーセント
の関税をかけるという新法が成立。
関東大震災や関税引き上げなどが重なって収集した作品の
一部は日本への搬入を一時期取りやめヨーロッパに留め置く
こととなってしまい窮地に立たされた「松方コレクション」は
その後、散り散りとなってしまった。 -
1939年 ロンドンのパンテクニカン倉庫に保管していた
作品が倉庫火災で焼失。
1944年 パリの松方コレクションがフランス政府から
敵国資産として接収されてしまう。そうする間に
1947年 接収された松方コレクションの一部がパリで
売り出された。
1949年 フランス政府が松方コレクションの扱いに
ついて外務省と折衝を開始。
1950年 6月24日松方幸次郎(84歳没)
1951年 サンフランシスコ講和会議に出席した吉田茂首相が
フランス側に作品返還の申し入れをおこなう。
1952年 松方コレクションが正式にフランス政府の所有
となる。
1953年12月「フランス美術館(仮称)」設置準備協議会が
発足。
1958年 12月東京タワー竣工した丁度そのころ
フランスで「松方コレクション」寄贈法が公布された。
1959年(昭和34年)
1月 フランス政府から日本政府に対して正式に
「松方コレクション」375点が引き渡される。
この時、「松方コレクション」は条件付きで返還されること
になりその条件の一つが、
「松方コレクション」はフランス文化財を
展示するための専用の美術館で保管・展示を行う。
という内容だった。その後双方でさまざまな調整が行われ、
設計者をル・コルビュジエとして美術館を建築する。
という結論に落ち着いた。
2月 大型作品・ロダンの「地獄門」がル・アーブル港で
日本郵船に積み込まれる。
3月 残る全作品がマルセイユで積み込まれ日本へ向け出港
4月に横浜港へ到着。
こうして幾多の困難を乗り越えて
幸次郎の美術館建設構想が1959年6月10日
当初「共楽美術館」として知られた松方コレクションが
東京上野に悲願の『国立西洋美術館』としてオープンした。
松方幸次郎没後9年が経過していた。
見せたかったなぁ。 松方幸次郎に。 -
膨大な松方コレクションは
入れ替えながら公開されているようです。
一部の作品には、撮影禁止表示が額の横に
貼り紙で表示されていました。
(スタッフさんも常駐していました。)
その絵は、残念ですが写すことは叶いませんでしたが
今回は主に、絵画を選んで気に入りの作品と
気になった作品をじっくりと鑑賞してきました。
※また、常設展の展示が全て「松方コレクション」ではありません。
さて
「最後の晩餐」
マールテン・デ・フォス
お馴染みの構図です
「この中に私を裏切る者がいる」
と、キリストに告げられる衝撃のシーン。
16世紀のフランドル絵画を代表する
デ・フォス。その巧妙な筆あとを
じっくりと鑑賞してみました。 -
「キリストの捕縛」
バルトロメオ・マンフレーディ
キリストを裏切ったユダが兵士たちを伴い、誰がキリストなのか
を示すため彼に接吻しようとする場面が描かれています。
主人公2人の性格描写に焦点を当てられていて自らに降りかかる
苦悩と悲劇を既に悟っているかのような、独特の愁いを帯びた
表情描写はどこかしら、カラヴァッジョの作風に似ているなぁ
と感じましたが、そのはずでした。
画家マンフレーディは、カラヴァッジョに影響を受けた画家たち
いわゆるカラヴァッジェスキの第2世代で若手画家に伝えた指導的な存在でした。
カラヴァッジェスキの第2世代の画家は、
カラヴァッジョより年少でカラヴァッジョを直接知らない
世代だということですが世代交代があっても
カラヴァッジョの残した影響は甚大ですね。 -
「十字架を運ぶキリスト」 1574年頃
ヨアヒム・ブーケラール
ゴルゴタへの道行きの途上、十字架の重みによってひざまずき
腰縄を引く兵士たちによって前進を促されている。
キリストを助けて十字架を担ごうとしているシモン、
祭司長、パリサイ人、ローマ人の指揮官が前後を騎行している。
前面の右端には、くずれ倒れ込んだ聖母マリアを助け起そうとする女たち
と福音書記者ヨハネの姿が描かれている。 -
「ピエタ」
ギュスターヴ・モロー
聖母マリアが十字架より降ろされたキリストの亡骸を抱えて
その死を嘆くという「ピエタ」(嘆きの聖母)
この主題は、本来福音書の中には記載のないものであるが
西欧カトリック美術、ことにドイツ、フランスにおいては
中世末期を中心に好んで採り上げられてきた。
画家モローの特徴的作品で精巧に研ぎ澄まされた宝石細工のよう
に描かれ、悲しみのマリアと死するキリストとの頭上には、
聖霊を象徴する鳩が翼をひろげ、背後では二人の天使が顔を寄せ
キリストの勝利が暗示されている。
モローは終生母親を愛し続け、傍らを離れることはなかったという。 -
『キリスト哀悼 』 1637年
ホーファールト・フリンク -
展示作品の前にロープがあるのは
良いですね。
特に混雑時は。 -
企画展もこのように
ゆったりと鑑賞したいものですね。 -
『聖ドミニクス』
フランシスコ・デ・スルバラン 1626年~1627年
ドミニコ会修道院の創設者で13世紀初めの聖人ドミニクスの肖像で
「修道僧の画家」とも呼ばれ漆黒の背景から静かに人物が浮かび上がる
画風はスルバランの真骨頂。
スルバランは、ベラスケスと共に17世紀前半に活躍した
セビーリャ派の画家。
生涯にわたり教会と修道院のために宗教画を制作した。
激しい明暗対比と写実描写の作品でセビーリャで大成を収め
確固たる地位を築いた。1634年には、ベラスケスの招きにより
マドリッドで活動し王宮からの注文などを手がけたが
スルバラン最大の魅力である静謐な表現は受け入れられず、
同地で成功を収めるには至らなかった。 -
『眠る二人の子供』 1612年から1613年頃
ペーテル・パウル・ルーベンス
ドイツで生まれベルギーの国籍を持つルーベンスは、
「美術史上最も成功した画家」ともいわれ
イタリア語・オランダ語・スペイン語・フランス語・ラテン語
などが堪能で、イタリア・フランス・イギリスなどで
外交官としても活躍。コミュニケーション力に長けていて、国内外の王族・貴族から肖像画など多くの依頼を受け宮廷画家としても
名声をあげました。そのことから、多作ゆえの批判も受けました。
日本でルーベンスと言えば、
アニメ「フランダースの犬」の最終回。
画家になりたかったネロ少年が、憧れのルーベンスの
アントワープ大聖堂の祭壇画を見上げながら幸せに包まれ・・・
ラストシーンでも有名になりました。
あ、脱線して(^_^;)しまいました。
『眠る二人の子供』 ですね。
あどけない笑顔の子供たちはルーベンスの亡くなった兄の子
クララとフィリップと考えられています。
寝息や体温まで伝わってくるようです。 -
『シャボン玉を吹く少年と静物 』 1635年から1636年頃
へーラルト・ダウ
シャボン玉を吹く少年は日常の一コマに見えますがよく見ると
翼がはえていますから天使として描かれています。
静物の水筒の役割をする瓢箪とバスケットは
人生が旅であることを示しドクロや砂時計、シャボン玉
は、<※ヴァニタス>を表します。
※ ラテン語で「空虚」「むなしい」「虚栄」という言葉で
静物画においては、人生の短さや現世の財産のはかなさを
表すモチーフで構成された絵をさします。 -
イチオシ
『果物籠と猟鳥のある静物』
ファン・バン・デル・アメン
この絵では、大胆な実験的な手法で描かれています。それは
窓枠のようなところに、色とりどりの果物が描かれていますが
本来描かれるべき背後にはなにも描かれていません。
しかし、額縁が画中空間と現実の空間の境界にあるものに
注目することによってよりリアルに描き出しています。
バン・デル・アメンは、17世紀初頭のマドリードで活躍した
画家です。 -
『ヴァニタス-書物と髑髏(どくろ)のある静物』1663年
エドワールト・コリール
コリールの描く静物画はその典型的な作品です。
楽器や時計、砂時計、燭台などは全て<ヴァニタス>の象徴として
描かれています。 常緑樹の蔦が冠のようにドクロに絡まっている
ことでその意味が強調されています。
中央下部に垂れ下がっている聖書の一節が警告のように記されています。
このようにして<ヴァニタス>は、はかない人生において
神を畏れ、その戒めを守るよう見る者に促すのです。
静物画は、こうした寓話性を帯びることによって、
描かれるにふさわしい主題となりました。
コリールは17世紀後半のオランダの静物画家、肖像画家。
彼はドクロ、地球儀、楽器などからなる、現世のはかなさや
虚栄に対する警告としてのヴァニタス画を得意とし、
とりわけ書物を含む静物画を多数描きました。 -
『桃、李、杏』1760年から1763年頃
アンリ=オーラス・ロラン・ド・ラ・ポルト
ポルトは果実や日常の事物を好んでとりあげました。
桃やプラムやアプリコットなど前進色といわれる暖色で描かれているため
観ているこちら側に甘い匂いが漂ってくるようです。 -
『鳥罠のある冬景色』 17世紀後半
ピーテル・ブリューゲル(子)
随分と昔、曽野綾子著「ブリューゲルの家族」を読みました。
曽野綾子ファンからの手紙文の形をとりファンの身辺で起こった事柄を
ブリューゲルの25作品に描かれている「諺」や「教訓」などに
当てはめ、それを1章に1つ取りあげ、
幸福と不幸、真の幸福とは何かを探す
一家族を描く小説になっていました。
それがよくもまぁ。と感じてしまう程人間の辛辣なところばかりを
突いていることから読むのが辛くなってしまい、以来、ブリューゲルの
作品を観ると思い出してしまいブリューゲルの作品は敬遠していました。
サークルで<風俗画>の見方をテーマとした際15世紀後半から
16世紀にかけての風俗画には欠かすことができない作品として
ブリューゲルの父の作品が取り上げられ、
またまた出会ってしまいました。(⌒-⌒; )
<風俗画>と言われている作品は沢山ありますが
何らかの寓意が込められているのがほとんどでした。
例としてあげるならば、
<鏡>には<真実><賢明><虚栄><傲慢>
などの象徴として描かれています。
ブリューゲル(父)の作品には農民を主題とした風俗画に
しか見えない作品が数多くあります。それらが何のために
描かれたのかは明らかではありません。
それらの作品は、単に日常の一コマを描いたものではなく
教訓や道徳あるいは諺が描きこまれています。
『鳥罠のある冬景色』は、ピーテル・ブリューゲルの長男で、
同名の父の作品を模写したことで知られる
ピーテル・ブリューゲル(子)が描きました。
100点以上ものヴァージョンがあるこの作品は、
最もよく知られた構図のひとつですが、
その中でもこの作品は最も優れた作品のひとつといわれています。
この作品も、一見すると、当時の子供たちの冬の遊びを描いた風景画に
見えますがよく見ると前方左側には氷にポッカリと穴が開いています。
そのすぐ側には無心に遊ぶ子供たちがいます。
罠があるとも知らずに群がる鳥たちが描かれています。
このように風景や風俗を描きつつ、日常に潜む危険に警鐘をならし
運命の儚さを伝えているということで、
やはり“あの街から” 的には辛くなってしまいます。
そんな訳で、ブリューゲルの作品鑑賞はあまり深く考えずに
(まぁ作者の意向にはそれてしまいそうですが)
美しい北国の冬の風景というところを受け止めて
楽しみたいと思っています。
ほぼ一世紀を経て「松方コレクションに里帰り」した
ブリューゲルの作品は、松方コレクションが
ロダンやモネばかりではなかったことを伝える大変貴重な作品でもあります。 -
『マース河口(ドルトレヒト)』 1644年
ヤン・ファン・ホイエン
ホイエン円熟期の河川風景画の作品で、全体が褐色系の殆ど
モノクロームに近い淡い色彩で構成され、波立つ河口の水面に
浮かぶ帆船や小舟、また舟を漕ぎ漁に従事する人々と、
大空に拡がる雲の層と水面との間を満たす光の
描写が詩情豊かに描出されている。 -
『バラムとろばのいる海浜風景』 1634年
バルトロメウス・ブレーンベルフ
バルトロメウス・ブレーンべルフは親イタリア派のオランダ画家である。
イスラエルの人々がヨルダンの谷に到着したことに、
モアブの王を恐れさせた。
彼はイスラエルの人々に呪いをかけさせようと魔術師バラムを呼んだ。
バラムはろばに乗って出発したが、旅の途中、剣をもった主の使いが
現れ、バラムの道をふさいだ。主の使いを恐れたろばは道をそれよう
としたが、その姿はバラムには見えなかった。
ろばが道をそれていく理由がわからない
バラムは、怒りのためにろばを打ちすえようとする
本作品に描かれるのは主題は旧約聖書『民数記』による。
まさにバラムがろばを叩こうとする瞬間である。
この人工的なパノラマ眺望にはマニエリスムの痕跡が感じられるが
画面全体を満たす光の表現などにマニエリスムにとどまらず新しい
感覚でとらえられている。 -
『宿屋の前の旅人たち』 1645年
イサーク・ファン・オスタ-デ
イサーク・ファン・オスタ-デは、28歳で夭折した17世紀オランダの画家である。
樹木に囲まれた,草葺屋根の宿屋の前で頭立ての馬車に乗り
旅人たちが休息をとっている情景が描かれている。
風俗画と風景画の両要素が巧みに取り入れられています。 -
『踊るサテュロスとニンフのいる風景 』 1646年
クロード・ロラン
17世紀、イタリアでは風景画がもてはやされ特にローマで
優れた作品が生み出されました。それらの多くはローマの郊外の自然を
理想化したものでした。そこは古代神話の舞台であり多くの詩に歌われた
場所でした。古代の神話や出来事を描くことが絵画にとっての大きな役目
となっていました。
この頃ローマを訪れた旅人は、郊外へ出掛けてはその風景の中に古代の
息吹を感じることができる。と人気の地なのでした。
クロード・ロランは、17世紀フランス古典主義絵画の巨匠と
いわれますが、長くローマに滞在して明るく穏やかな自然の風景を描きました。
この作品もこの頃の作品と思われます。
ギリシヤ神話に登場する、半人半獣のサテュロス、妖精ニンフ、
牧羊神パンの姿も見られ陽気に踊り戯れています。
背景には、雲の隙間から光が差し込み牧歌的な情景が描かれています。 -
『羊飼いのいる風景』 1718年から1725年頃
アレッサンドロ・マニャスコ
マニャスコはイタリアのジェノヴァに生まれ主にミラノで活躍した画家である。
豊かな色調で、捻じ曲げられ、半ば陰に沈む細長い人物たちは
まさに幻想的で表現主義的な特徴は、マニャスコの典型的な画風である。 -
『ギリシアの風景』 1812年
ジャン=ヴィクトール・ベルタン
ジャン=ヴィクトール・ベルタンはフランスの画家である。
風景画を得意としフランス革命の後、サロンド・パリが公募制の
展覧会になった後、毎年出展するようになり、1遂に1799年に佳作
1808年には金賞を受賞した。
ジャン=バティスト・カミーユ・コローは、ベルタンの教えた学生である。 -
『古代建築と彫刻のカプリッチョ 』 1745年から1750年頃
ジョヴァンニ・パオロ・パニーニ
パニーニは1691年にピアチェンツァで生まれ、20歳で
ローマに移り、1718年頃からローマの画家アカデミーで
幾何学遠近法の教師を務めました。
18世紀半ばのローマ活躍しました。
この作品が描かれた頃、ポンペイやヘルクラネウムなど古代の
大規模遺跡が次々と発見され古代ブームがおこっていました。
この作品は、一見すると廃墟の街を描いたものと見えますが
これはローマに在った有名な遺跡や古代の美術作品が描かれて
人物たちは古代の逸話から登場しています。
中央にいるのが古代ギリシャの哲学者でディオゲネスで
彫刻の像を相手に物乞いを断られる練習をしています。
傍らではそれを笑う兵士たち。
この絵は描かれた物語と古代遺跡という
二重の意味を含んでいることから観る人の
古代への教養を前提にしています。
そのようなことからか、この作品は、貴族たち
に愛されたようで北ウェールズの初代ペンライン男爵の
コレクションに1860年頃に入った後、
ペンライン男爵からダグラス=ペナント家に渡り
代々所蔵していた由緒ある作品ということです。
作風はといえば
派手な遠近法を駆使しながら、ローマの都市景観図や古代遺跡の
景観の中に優美な人物像を配置し
カプリッチョ(現実と空想が融合した風景画)
さらには祝祭記念画などを特徴としています。
フランス王室やスペイン王室などヨーロッパ各国で人気を博しました。 -
『夏の夕べ、イタリア風景』 1773年
ジョゼフ・ヴェルネ
川辺で水浴びをする人々と、夏の長い一日が暮れようとする
時刻の風景が美しく詩情豊かに描かれていて、やがては、
バルビゾン派、印象派などに連なってゆくフランス風景画の
伝統の画風なのでしょうか? -
『モンテ・カヴァッロの巨像と聖堂の見える
空想のローマ景観 』 1786年
ユベール・ロベール
このローマの風景はロベールが10年余のイタリア留学
で描きためた素描画をもとに別々の場所に存在する古代
の有名なモニュメントで複合再構成されています。
また
ロベールは1782年および91年にロシアの女帝エカテリーナ
から高く評価を受け招きを受けましたが、ロシアには赴かずに
数多くの作品を同地に送ったのだという。 -
『マルクス・アウレリウス騎馬像、トラヤヌス記念柱、
神殿の見える空想のローマ景観 』 1786年
ユベール・ロベール
この作品も『モンテ・カヴァッロの巨像と聖堂の見える
空想のローマ景観 』同様にユベール・ロベールの作品です。
「廃墟のロベール」と呼ばれたこのフランス人画家の
ロベールは、イタリアの古代遺跡や名勝をモチーフとした
数々の空想の風景によって名を残しています。
この作品では、マルクス・アウレリウス帝騎馬像やトラヤヌス
帝記念柱などを複合構成した、空想の眺めとなっています。
ユベール・ロベールは
先ほど『古代建築と彫刻のカプリッチョ 』の
ジョヴァンニ・パオロ・パニーニの工房で修行を行った。
後年、フランス革命で1793年11月に逮捕され、10か月間
監獄に収監されたが処刑は免れた。
獄中においても50点以上の絵画を描いた。
その後、ルーブル美術館の設立委員会の委員に任命され、
美術館の装飾の仕事も行った。
『モンテ・カヴァッロの巨像と聖堂の見える空想のローマ景観 』
と『モンテ・カヴァッロの巨像と聖堂の見える空想のローマ景観 』
の2作品で知ったユベール・ロベールですが都市景観や
奇想画<カプリッチョ>と呼ばれる実在する建物や古代遺跡
と架空の遺跡の複合画を多く残している。
古代の風景や映画の史劇ものが好きな方には、
たまらない作品だろうと思います。
今後、追いかけてみたい画家の1人となりました。 -
『パリスを戦場へと誘うヘクトール 』 1770年
アンゲリカ・カウフマン
古代ギリシャの叙事詩『イーリアス』にもとづき、スパルタ王の
妻ヘレネを連れ去り恋に溺れるトロイア王子のパリス。そこに兄
ヘクトールが戦いの原因を作った弟に戦場へ戻るように促している
シーン。
画家カウフマンは、女性としては当時めずらしく歴史画の領域で
成功をおさめ活躍しました。パリスの姿もどこか柔和で、侍女たち
もふくめて画面には非戦闘的な雰囲気が漂っています。 -
作品には直接光がかからないように
しかし、柔らかな光が心地よい空間
となっています。 -
『ゲッセマネの祈り』1518年
ルカス・クラーナハ
ゲッセマネとは、エルサレム旧市街の城壁とイエスが昇天したと
されるオリーブ山にある園の名前です。
イエスは最後の晩餐でユダの裏切りを予告しその食事の後で
ペトロの離反を予告して、弟子の中からリーダー格のペトロ、
ヤコブ、ヨハネの3人を伴ってゲッセマネの園にやってきます。
そこでイエスが自分の死を覚悟して、最後の祈りをささげた
祈りが「ゲッセマネの祈り」と呼ばれています。
聖書の記述に基づいたものですが、このような聖書の記述を
基づいた主題の作品は、多くの画家によって描かれました。
さて、祈りをささげた後、3人弟子たちのそばに戻ってくると
ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、は、道中の疲れもあって
眠りに落ちていました。
ここで、♪インターミッション♪
2004年 監督(俳優から出発)のメル・ギブソンが
私財2500万ドル、構想12年を費やし、
人間イエス・キリストの最後の12時間を写実的に描いた
映画『パッション』を制作・公開しました。
イタリアのチネチッタ・スタジオで撮影したこの作品は
カラバッジョの絵画を念頭に光と影のコントラストを
用いて「動くカラバッジョ」を映画で描こうという試みをみせたり
登場人物は当時の民衆が日常生活で使ったアラム語を話し
ローマの司令官や兵隊はラテン語で話し
セリフは全てラテン語とアラム語で語られ
全米でも英語字幕付きで公開されました。
また公開に際しては字幕は認めるが
各国語への吹替は認めないというこだわりの一作でした。
製作・監督そして脚本にも名を連ねた
メル・ギブソンはここからが本当のキリストの受難と捉えてか
ファーストシーンがゲッセマネでの祈りの場面から
始まっています。
公開当時、イエスが十字架刑にかけられる前のムチ打ちの場面が
あまりにもリアルということ等もあり話題作となりましたが
目を背けてしまうシーンが続き途中で(;゜0゜)
心臓の弱い“あの街から” タイプの方には・
・・方が良い作品かとも思います。
ゲッセマネの園には今でも樹齢約二千年のオリーブの古木が
数本ほど生えているそうです。 -
『ある男の肖像』 1430年代
ロヒール・ファン・デル・ウェインデン
現存しているファン・デル・ウェイデンの作品の多くは、
キリスト教的主題が描かれた祭壇画と肖像画である。
伝わっているその生涯は平穏でとくに大きな出来事などは
起こっていないが、当時もっとも成功しており、国際的な
名声を得ていた画家だった。 -
『ホロフェルネスの首を持つユディト 』 1530年頃
ルカス・クラーナハ
ドイツ・ルネサンスを代表する画家クラーナハが、
みずからの作品の中核主題のひとつ「ユディト」を描いた板絵。 -
『グイド・カヴァルカンティの亡霊に出会うテオドーレ』
1783年
ヨハン・ハインリヒ・フュースリ
フュースリは、イギリスで活躍した18世紀のドイツ系スイス人画家で
1770-78年には、イタリアに留学しミケランジェロに影響を受けた。
イギリスで画家になる前にはスイスで文筆家や翻訳家をしており
文学知識にも長けていて、この作品はボッカチオの「デカメロン」
の中にある〈ナスタード・デリ・オネスティ〉の物語を
17世紀の作家ドライデンが翻訳した「テオドールとホノーリア」に
基づいた作品。
真ん中の馬にまたがっているのは亡霊で、左がテオドール
右がホノーリア。ホノーリアに恋をしていた男性(中央の亡霊)は
その恋が叶わず自殺をして亡霊となって現れ
愛しいホノーリアを殺してしまおうとする。
この場面は、ホノーリアが死ぬ直前亡霊から逃れようとして
その様子をなすすべもなく亡霊を見上げているテオドール
といった場面が描かれています。
そして、ホノーリアはミケランジェロの影響を受け描かれています
から、亡霊とテオドールよりふっくらとした肌感覚を感じます。 -
『芸術と自由』
ルイ・ガレ
ルイ・ガレはベルギー出身の画家でパリで活躍。
肖像画・人物画の分野で評判が高いが歴史画の大作も手掛けている。 -
イチオシ
『母と子(フェドー夫人と子供たち)』 1897年
エミール=オーギュスト・カロリュス=デュラン
画家本人が(カロリュス=デュラン)の娘とその子供たちを
描いている。
着飾った母と子の姿を三角形の構図の中に収めた構図は
当時のブルジョア層が理想とした家庭的幸福の情景の一つ
を今に伝えている。
本作品は、家族の手元に残すために制作されたものと
考えられている。
これと同寸の別バージョンがオルセー美術館にあるという。
いつかオルセーでも観たいと思わせてくれる作品です。 -
『狼の巣穴』 1863年
ジョン・エヴァリット・ミレイ
ミレイの自身の子供たちがグランドピアノを狼の巣穴に見立てて
身を寄せ合って遊んでいるところです。
左から、長女、長男、次女、次男。 -
『あひるの子』 1889年
ジョン・エヴァリット・ミレイ
あひるが遊ぶ水辺につぶらな瞳の少女が立っています。
身体よりもだいぶ大きいサイズの洋服、破れかかった靴
「みにくいアヒルの子」のイメージと重なり合う場面設定
で、その瞳は見るものを捉えて離しません。 -
『ド・ラ・パヌーズ子爵夫人の肖像 』 1879年
レオン・ボナ
気品に満ちたモデルは、パリ社交界に広くその名を
知られた名門の子爵夫人。
レオン・ボナは、保守的なサロンの中心で活躍し、当時の
フランスを代表する政治家や芸術家たちの肖像画を多数
描いています。 -
『ノエツラン夫人の肖像』
ジャン・ジャック・エンネル
エンネルは、1858年に有望な芸術家に与えられる奨学金付留学制度
でイタリアに留学。1865年までイタリアに滞在し、ルネサンスの画家
の絵に学んだ。パリに帰国後、神話に題材をとった女性像や肖像画を
描いてのパリで人気となり、パリのサロンで何度も入選し
1889年に伝統を尊重する芸術アカデミーの会員に選ばれた。 -
いい雰囲気の中
ゆっくり鑑賞することができました。 -
『花と果物、ワイン容れのある静物』1865年
アンリ・ファンタン=ラトゥール
ファンタン=ラトゥールは、19世紀後半に静物画を
主要な表現方法の1つとしてとらえていました。
この絵は、味覚を刺激する桃やメロン前面に配置し
観ているこちらまで甘い香りが漂ってきそうです。
またガラスのカラフに注がれた赤ワインなど
五感を刺激するような品々を並べた食卓という伝統的な
表現方法と真っ白なテーブルクロスの上に、これら
モチーフを浮き上がらせるという近代的感覚を用いました。
これがやがてキュビスムへと発展してゆくのでしょう。 -
『花』
ヴィクトリア・デュブール
ルーブル美術館で作品を模写して修行していた時に、同じく作品の模写をしていた
アンリ・ファンタン=ラトゥールと出会い1876年に結婚した。
結婚後も花を描いた絵が得意であった夫の助手として働く一方
パリのサロンで1894に佳作を受賞し、1895年にメダルを得た。 -
『花』
ヴィクトリア・デュブール
こちらの作品もデューブルです。 -
天井が高いと圧迫感がなくて
いいですね。 -
『ナポリの漁師の少年』1857年
ジャン=バティスト・カルポー
ブロンズ彫刻で第1鋳造は、ロスチャイルド男爵が購入
1861年メッツで栄誉賞を受賞した第2鋳造を所蔵。
「ナポリの漁師の少年」の他に、代表作はパリ・オペラ座
のガルニエ宮内にある複数の彫刻や
「ダンス」「ウゴリーノ」などがあります。
カルポーは路上で出会う民衆という現実的な一般市民を
創作の主題として伝統的な主題である神話や歴史に取材
した英雄的主題とは対照的な風俗的な主題で、古典的な
アカデミズムの伝統を打ち破ります。 -
『ナポリの漁師の少年』1857年
ジャン=バティスト・カルポー
カルポーは友人に宛てた手紙の中で、
「私の作品の主題は、自然から取材したものです。
これは、微笑みながら貝の響きに耳を澄ませている
11歳の漁師の少年です」と。
どこか愛嬌があって思わず微笑み返しをしてしまいます。 -
ゆったりと空間で
この時間を楽しみながら -
『罠にかかった狐』 1860年
ギュスターブ・クールベ
クールベは19世紀のフランス絵画における写実主義の
重要な画家で自分が実際に現実で見たものだけを描き、
伝統的な宗教や前世代のロマン主義的幻想絵画と対極にある。
クールベの伝統的芸術からの脱却は、後の近代美術において
特に印象派やキュビスムに大きな影響を与えた。 -
ゆったりと空間で
この時間を楽しみながら -
『自画像』
アンリ・ファンタン=ラ・トゥール
先程の静物画『花と果物、ワイン容れのある静物』と同じ
ラ・トゥールの作品。
パリの美術館で名画を模写して修行し、同世代のドガやマネ
と知り合った。
1859年にイギリスに旅しそこではイギリスの画家たちとも知り合い
その中には、クールベがいた。
その2年後には2年後クールベのスタジオで働いた。
1864年に、ロンドンのロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ展覧会
に出展。
印象派の画家と同世代であり、親しかったが、
写実主義のスタイルで描いた。 -
『黒いドレスの女性(観劇の前)』 1875年
ベルト・モリゾ
この作品の制作年の1875年はパリのガルニエのオペラ座が
完成した年。
このように豪華なドレスで観劇に出かける姿は当時のパリの暮らしを描く
旬の主題だった。
この作品では、モリゾが自分の衣装をモデルに着せて描いた。
作品は、1876年 第2回印象派展にて公開された。
同展には他にもドガ、モネ、ルノワール等20名の画家が作品を出展した。
モリゾは姉エドマと共に画家の道を志した。
1850年パリ16区に両親と共に移り住み20歳になると
バルビゾン派のジャン=バティスト・カミーユ・コロー
に師事。やがて姉は結婚、画家の道を閉ざした。
1864年、23歳の時に2つの風景画がサロンでに初入選。
マネと知り合い「僕のモデルに」と請われ受け入れて
「マネのモデル」として有名になってゆく。
やがて、モリゾは画風のすれ違いもありマネと決別し
マネが参加を反対していた第一回印象派展に出展。
当時、美術界の中心だった「サロン」に反発し自由な芸術表現を掲げる
印象派の創立メンバーの一人となった。
1874年 家族ぐるみの付き合いがあっマネ家の
弟ウジェーヌ・マネと結婚
1895年 54歳で早すぎる生涯を終えたが夫婦と1人娘のジェリー
とともに穏やかで幸せな日々を暮した。 -
『帽子の女』 1891年
ピエール=オーギュスト・ルノワール
多彩な色感、柔らかな質感をたたえた作風で
さまざまな色彩が白と混じり合って繊細な輝きを放っている。
まさにルノワールの一作。 -
ゆったりと空間で
この時間を楽しみながら -
ロダンの彫刻の向こうは
明るい陽射しが降りそそぎ
緑がまぶしく
ここもまた素敵な空間です。 -
『アルクマールの運河』
アンドレ・ボーシャン
ボーシャンは、測量製図技師として第一次世界大戦に従軍後
1919年頃から独学で絵画制作を始めた。そのため
最初にサロンに出品した時には、すでに40才を超えていた。
題材は主に、花、古代の神話・伝説や地方の農村生活など。
建築家ル・コルビュジエも高く評価した1人だった。
この作品は、オランダの運河を丹念に描写したものであるが
細部にわたってひと葉・ひと葉までまるで点描画のように
緻密に描かれていて、あの森の中を散策したい感覚になりました。 -
『ジャン・ルノワール夫人』 1923年頃
アンドレ・ドラン
この肖像画に描かれている女性は、フランス・マルヌ県出身の女優で
映画監督ジャン・ルノワールの夫人カトリーヌ・ヘスリングである。
ヘスリングは、後期印象派のオーギュスト・ルノワールの晩年のモデルをつとめた。
彼の最晩年の水浴図などいくつかの作品に描かれている。
ヘスリングは、ルノワールの別荘「レ・コレット」で
息子である映画監督ジャン・ルノワールと知り合い
ルノワール死後結婚。 1921年には長男アランが誕生した。
女優になったのは結婚後のことでデデという愛称で呼ばれ人気だった。
女優としての出演作品の画像を見てみると本作品の印象とは
まるで違う、1920年から30年代の女優の顔がそこあり
家庭人の穏やかな顔と職業人の顔は違うものだ。と感じた。 -
『花と泉水』
アンリ=ジャン=ギヨーム・マルタン
マルタンは、トゥールーズの木工職人の家に生まれた。
1877年から1879年の間、トゥールーズの国立高等美術学校で
ドラクロワの弟子のジュール・ガリピュイに学び
その後、故郷の奨学金を得て1879年にパリに出る。
パリの国立美術学校でジャン=ポール・ローランスに学んだ。
24歳 パリのサロンで初めて受賞。
25歳(1885年)受賞の特典としてイタリアに留学。
マザッチョやジョットなど巨匠の作品を学び、イタリア留学後に
マルタンのスタイルはアカデミック絵画から新印象主義の技法を
取り入れより象徴的なスタイルに変わってゆく。
32歳(1892年)アマン=ジャンらとジョゼファン・ペラダンの主宰する
「薔薇十字サロン展」に参加。次第に象徴的な題材から離れていった。
やがて、マルタンは大画面の装飾画をしばしば依頼されるほど
人気を得た。
構想や習作を繰り返し、大画面の作品を完成させてフランス国務院を
はじめとする多くの公共建築物の装飾絵画を描いた。
中でも、
アンリ・マルタン
トゥールーズ市役所のアンリ・マルタンホールの装飾画<夏> 1903年
は、”あの街から” が本物を観たいと願う1作になりました。
フランス南部の明るい陽光のもと穏やかな画風は
非常に親しみやすく心癒されます。
晩年マルタンは、南仏のラバスティド・デュ・ヴェールに
邸宅を購入して活動の拠点とします。
町が見渡せる小高い丘に建つ大きな邸宅
庭には季節の美しい花々が咲きほこり
池の水面には花々がが写し出されそんな
自然の美しい風景を描き続けていました。 -
『屋内訓練場のジョー・シアーズとW・エイトキン衛兵伍長 』 1917年
ローラ・ナイト
デイム・ローラ・ナイト(旧姓ジョンソン・1877年8月4日-1970年7月7日)は、
オイル、水彩画、エッチング、彫刻、ドライポイントと幅広い活躍をした
イギリスのアーティストだった。
ナイトは、イギリスの印象派を受け入れた比喩的で現実主義的な
伝統の画家でもあり、その長いキャリアにおいてイギリスで最も
成功し、人気のある画家の一人だった。
1929年 デイムの称号受章。
1936年 ロイヤルアカデミーの正会員に選出された2人目の女性となった。
1965年 ロイヤルアカデミーでの彼女の大規模な回顧展は、
女性にとって初めての展覧会だった。
男性優位の英国の芸術施設での彼女の成功は、その後
の女性アーティストのより大きな地位と広く認められる
ことへの道を開いた。
ナイトは、第一次世界大戦下、カナダの実業家の依頼を受け、
兵士たちを描くためロンドン南西に位置するカナダ軍のキャンプに
派遣された。
そこで知り合ったバンダム級チャンピオンのボクサー、
ジョン・シアーズのスパーリング中の光景を大量のスケッチを描いた。
本作品はそうした中で生まれた作品のひとつである。
Wikipedia(フランス語版・翻訳)参照 -
『雪の中の艀(はしけ)』
アルベール・バールトソン
バールトソンは、ベルギーの画家である。
ヘントの豊かな実業家の息子に生まれた。ヘントの王立美術学校にに入学し風景画や人物画を学んだ。
1887年にブリュッセルの展覧会に出展し注目された。
パリで修行を続け展覧会にも出展した。
第一次世界大戦中はロンドンに避難し、1919年にヘントに戻った。
代表作には「フランドルの小さい中庭 」「レイエ川」
「フランドル農場、夕方」「ヘントの雪解け」「フランドルの村」などがある。 -
『貧しき漁夫』1887年から92年頃
ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ
ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌは、19世紀のフランスの画家。
1824年、フランス南東部のリヨンの織物業の名家に生まれ
少年期をリヨンで過ごした。
青年期、技師を志し勉学に励んだが、病に倒れその勉学の道を絶たれた。
病気療養のため訪れたイタリアでフレスコ画に魅了されて、画家の道を志す。
パリに出て当時の画壇の大家トマ・クチュールに師事。弟子には、マネや
ファンタン・ラ・トゥールもいた。
その後は、独自の描写スタイルへと変化していった。
1850年 サロン・ド・パリにデビューするも8年連続で落選。
しかし、その頃、ナポレオン3世が行ったパリ大改造計画により
大規模建造物が建て直されて、壁画や装飾画の要請が多く受けた。
その画風は、多くの画家に影響を与え、マティスやピカソの若い世代の
画家たちに多大な影響を与えることになった。
本作品では、静かな岸辺に小舟が一艘。漁師の足元には幼子が。
頭をたれうつむいた男性の姿には祈りような敬虔さが感じられ
画面には静けさと詩的で夢幻的な雰囲気が満ちている。
この暗いトーンは、青年期病に倒れ志しを絶たれ病気療養した
あの実体験がどこかで繋がっていそうなそんな気さえ感じた。 -
『愛の杯 』1867年
ダンテ・ガブリエル・ロセッティ
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティは、
19世紀のイングランドの画家・詩人。
父はイタリアの詩人・ダンテの研究者だったことから、
ロセッティに「ダンテ」と名付けた。
文学のほかに、絵画などの芸術にも深い関心を持ち、
血気盛んな17歳でロイヤル・アカデミー美術学校に入学。
絵画の道へ本格的に動きだした。
ここで彼は後に、ラファエル前派の創設メンバーと出会い
彼らはロイヤル・アカデミーの授業が新しい表現を認めない方針に不満を
抱きイギリス美術界の低迷を強く感じ仲間を募り、
1848年「ラファエル以前派兄弟団/P・R・B)」秘密結社を結成。
この団体の名は、アカデミーが美の規範とするラファエロではなく、
それよりも以前の初期ルネサンスへ立ち返ることを主張する意味が込められていた。
しかし、ラファエル前派はわずか5年で解散。
解散後ロセッティはロイヤル・アカデミーを離れ、独自路線へと進んでゆくことに。 -
イチオシ
これまで美術関連にあまり興味のない方も、この機会に
是非に重いドアを開けて見てもらけたならうれしいです。
そして、美術館に足を運んみようとする人が一人でも増え
たのならこんなうれしいことはありません。(⌒▽⌒)国立西洋美術館 美術館・博物館
-
いま一度登場を願った
フランク・ブラングィング<松方幸次郎の肖像>
松方幸次郎とフランク・ブラングィンがロンドンで出会った頃
の1916年に制作された。 多数の作品を残したブラングィン
ですが肖像画を描いた例はごく稀なことだという。
パイプをくわえ肘掛け椅子でくつろぐ50歳の松方幸次郎の姿
が当時を見せてくれている。
松方幸次郎の新聞記事に、パリに渡った際政府からドイツの最先端の
潜水艦の機密情報を入手せよ。との任務を受けそのカムフラージュ
に美術品を買い集めていたのではないか?
との報道もあったが、果たしてそればかりだったのか?
きっかけはそうで、美術品にふれてゆくうちに本気で愛を傾ける
ようになっていったのかは、定かではないが・・・・・。
今こうして日本の空の下で本物の西洋美術に触れる機会を残してくれた
松方幸次郎に感謝しつつ
最後に当時、新聞のインタビューに応えた
松方幸次郎の言葉を記してこの旅行記を〆たいと思います。
「何故絵を収集するかというのですね。
それは、自分の楽しみとして買うのではなく
人様の為にしたいという希望からだと言えば伝わりましょうか。
実際、私は自分の力に余るほど沢山の絵を買いました。
これで、身代限りをした所で恨むところはない。
国家の為なら戦死する人がある。
身代は失っても命に支障はない。
又やり直すという事もできる。万一そういったことに
遭遇した時、世人がサポートしてくれなければ
集めてきた美術品が散逸する怖れがある。
私は、それを怖れる。そういう不幸に陥らぬようにしたい。
そうして、又幾分でも日本の文化に貢献することができれば
幸福である。」
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この旅行記へのコメント (2)
-
- りぽちゃんさん 2023/04/08 02:38:05
- 国立西洋美術館♪
- あの街からさま、こんばんは☆
ごぶさたしております!
国立西洋美術館の常設展、素敵ですよね♪
リニューアルされる前に、私も一度だけ行きました。
国立西洋美術館は企画展がメインになってしまいがちですが、
常設展もとても充実していて、なおかつ空いているので
ゆっくり見られるのがいいなと思います。
松方コレクションのことも詳しくご紹介くださりありがとうございます!
あの街からさまが紹介されている絵画ですが、
入れ替わっているからなのか、ほぼ見ていないものばかりでした。
でも、ルーベンスの『眠る二人の子供』は記憶にあります!!(笑)
半年くらい前に宝塚の舞台でロセッティやミレイなどの
ラファエル前派兄弟団をテーマにした作品を観たので、
『愛の杯 』やミレイの作品も機会を作って見に行きたいなと思いました。
エントランスの前庭も印象がかなり変わっているようで、
次回訪問の楽しみが出来ました!
ありがとうございました(´∪`*人)
りぽちゃん
- あの街からさん からの返信 2023/04/08 08:10:58
- RE: 「絵画の主題を調べてみると宝塚の舞台になりそうな ドラマがたくさんありました。」
- りぽちゃんさん おはようございます(⌒▽⌒)
さて、「愛の杯」のロッセッティの生涯も映画や舞台にもってこい
のドラマがありました。
長くなるので、ほとんど割愛する形で旅行記には書け
なかったのですが、「ラファエル前派兄弟団/P・R・B)」
を結成し新しい絵画の描き方模索するなど頭角をあらわして
きたロッセッティですが、解散以降の生涯にも数々のドラマ
がありました。
ミレーの代表作「オフィーリア」のモデルも務めた女性と
長い期間婚約の後やがて結婚。しかし、ロセッティは多く
の浮き名を流し、中でも多くの絵でモデルを務めたと
ジェーン・バーデンとは彼女が人妻になってもその思慕は
止むことはありませんでした。
妻は、夫の振る舞いを悩み続け、長子を妊娠するも死産。
そのショックから大量の麻薬を飲んで亡くなってしまいます。
妻をなくした深い悲しみからロセッティ自身も酒と麻薬を
常飲するようになり、やがて人妻への思慕と妻への罪悪感に
さいなまれて次第に心身を病み晩年は酒と薬に溺れる生活で
不眠症になり真夜中ロウソクの灯りで絵を描いていたという
逸話が残されています。
やがては、失意のうちに54歳の生涯を終えました。
残されたロセッティの装飾的で耽美的な女性を主題とした
多くの作品はこのような背景があったのですね。
りぽちゃんさんの旅行記に出会い異次元の世界と思っていた
宝塚ワールドの楽しさが少しずつ少しずつわかってきました。
それも、これも、りぽちゃんさんの宝塚にかけるパッション
が見ていて(読んでいて)心に響いて私の重かった扉を徐々
に開けてもらえたのだと思います。
ありがとうございます。
あの街から
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