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旅の3日目は、奥州藤原氏3代が100年に渡って築き上げた仏国土「平泉」に出かけました。蝦夷と呼ばれていた古代陸奥の国、出羽の国は潤沢な資源により巨大な王国を築いていました。ここに平安時代から鎌倉時代にかけて血で血を洗う惨劇が幾度となく繰り広げられ、権力の座についた藤原清衡は「戦乱の無い世」を願って平泉に仏都を築きました。初代清衡は中尊寺を、2代基衡は浄土庭園のある毛越寺を、3代秀衡は宇治平等院鳳凰堂に倣った無量光院を建立しました。これら一連の遺跡は2011年世界遺産として登録され多くの観光客(年間100万人)が訪れているところです。また、毛越寺の近くにある義経終焉の地「高館義経堂」にも足をのばしました。<br />

遠野・平泉で発見した美しい日本 No3

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2022/09/16 - 2022/09/18

568位(同エリア929件中)

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旅 夢太郎

旅 夢太郎さん

旅の3日目は、奥州藤原氏3代が100年に渡って築き上げた仏国土「平泉」に出かけました。蝦夷と呼ばれていた古代陸奥の国、出羽の国は潤沢な資源により巨大な王国を築いていました。ここに平安時代から鎌倉時代にかけて血で血を洗う惨劇が幾度となく繰り広げられ、権力の座についた藤原清衡は「戦乱の無い世」を願って平泉に仏都を築きました。初代清衡は中尊寺を、2代基衡は浄土庭園のある毛越寺を、3代秀衡は宇治平等院鳳凰堂に倣った無量光院を建立しました。これら一連の遺跡は2011年世界遺産として登録され多くの観光客(年間100万人)が訪れているところです。また、毛越寺の近くにある義経終焉の地「高館義経堂」にも足をのばしました。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
レンタカー 新幹線
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行なし)
  • 早めの朝食を済ませ、花巻温泉から中尊寺に向かいます。高速道路を利用し  所要時間45分でした。<br />中尊寺にやって来ました。なだらかな月見坂を登って中尊寺及び金色堂を目指します。沿道には江戸時代、伊達藩によって植樹された樹齢300年の老杉が並んでいました。<br />

    早めの朝食を済ませ、花巻温泉から中尊寺に向かいます。高速道路を利用し 所要時間45分でした。
    中尊寺にやって来ました。なだらかな月見坂を登って中尊寺及び金色堂を目指します。沿道には江戸時代、伊達藩によって植樹された樹齢300年の老杉が並んでいました。

  • 途中、眼下に平泉町を垣間見ることができます。

    途中、眼下に平泉町を垣間見ることができます。

  • 中尊寺または金色堂に行く途中には、この様な多くの堂(金色堂、薬師堂等)を見学しながら進んでゆきます。

    中尊寺または金色堂に行く途中には、この様な多くの堂(金色堂、薬師堂等)を見学しながら進んでゆきます。

  • 中尊寺に到着です。<br />中尊寺が開かれたのは850年。その後藤原清衡公によって、大規模な堂塔が建てられました。11世紀に東北地方で続いた戦乱で亡くなった多くの霊を、敵味方の別なく慰め、仏の教えによる平和な理想社会をと、清衡によって建設が始まったものです。

    中尊寺に到着です。
    中尊寺が開かれたのは850年。その後藤原清衡公によって、大規模な堂塔が建てられました。11世紀に東北地方で続いた戦乱で亡くなった多くの霊を、敵味方の別なく慰め、仏の教えによる平和な理想社会をと、清衡によって建設が始まったものです。

  • 鎌倉時代以降、大きな庇護者を失った中尊寺は次第に衰退し、また1337年の火災により多くの堂塔や宝物を焼失しました。しかし国宝建造物の金色堂をはじめ多くの文化遺産が今日まで伝えられており、2011年「平泉の文化遺産」が世界文化遺産として登録されました。

    鎌倉時代以降、大きな庇護者を失った中尊寺は次第に衰退し、また1337年の火災により多くの堂塔や宝物を焼失しました。しかし国宝建造物の金色堂をはじめ多くの文化遺産が今日まで伝えられており、2011年「平泉の文化遺産」が世界文化遺産として登録されました。

  • 本堂は明治42年に再建されたそうです。

    本堂は明治42年に再建されたそうです。

  • 続いて「金色堂」です。<br />霊廟でもある金色堂の中央には初代清衡公、左には二代基衡公、右の壇には三代秀衡公の遺体が、そして四代泰衡公の首級も収められています。この金色堂の建立を手掛けたのは藤原氏であったが、完成させたのは誰か分かっていないそうです。井沢元彦さんによると頼朝だと推論されています。また、いまだに不明の義経の墓もここに収められていると推察されています。罪の無い泰衡公の殺害と、源氏復興に絶大の功績を挙げた義経を自害に追いやり、そのことへの怨霊を恐れてのことと推察されています。<br />

    続いて「金色堂」です。
    霊廟でもある金色堂の中央には初代清衡公、左には二代基衡公、右の壇には三代秀衡公の遺体が、そして四代泰衡公の首級も収められています。この金色堂の建立を手掛けたのは藤原氏であったが、完成させたのは誰か分かっていないそうです。井沢元彦さんによると頼朝だと推論されています。また、いまだに不明の義経の墓もここに収められていると推察されています。罪の無い泰衡公の殺害と、源氏復興に絶大の功績を挙げた義経を自害に追いやり、そのことへの怨霊を恐れてのことと推察されています。

  • 金色堂の下方に見る光景

    金色堂の下方に見る光景

  • 中尊寺白山神社にある能舞台<br />毎年8月14日 ここで幽玄の世界が展開されるそうで、多くの人々が訪れるそうです。

    中尊寺白山神社にある能舞台
    毎年8月14日 ここで幽玄の世界が展開されるそうで、多くの人々が訪れるそうです。

  • 続いて「毛越寺」を訪れました。<br />中尊寺からは車で4~5分位の所にありました。<br />毛越寺は慈覚大師円仁によって850年に創建され、以降藤原氏二代基衡、三代秀衡によって多くの伽藍が造営されて行きました。往時には堂塔が40,僧坊が500を数え中尊寺をしのぐほどの規模と華麗さがあったとされています。

    続いて「毛越寺」を訪れました。
    中尊寺からは車で4~5分位の所にありました。
    毛越寺は慈覚大師円仁によって850年に創建され、以降藤原氏二代基衡、三代秀衡によって多くの伽藍が造営されて行きました。往時には堂塔が40,僧坊が500を数え中尊寺をしのぐほどの規模と華麗さがあったとされています。

  • 毛越寺の復元イメージがCGで再現されています。藤原氏滅亡後、度重なる災禍に遭いすべての建造物は焼失しましたが、現在、大泉が池を中心とする浄土庭園と伽藍遺構はほぼ完全な状態で保存されているそうです。

    毛越寺の復元イメージがCGで再現されています。藤原氏滅亡後、度重なる災禍に遭いすべての建造物は焼失しましたが、現在、大泉が池を中心とする浄土庭園と伽藍遺構はほぼ完全な状態で保存されているそうです。

  • 毛越寺本堂

    毛越寺本堂

  • 私達が訪れた時、丁度「萩まつり」が開催されていました。500株あるといわれる萩の花が境内に彩りを添えており、大変綺麗でした。また6月下旬~7月上旬には「あやめまつり」が開催されるそうで、およそ3万本の花菖蒲がここ大泉が池周辺に咲き誇り、観光客の目を楽しませているそうです。

    私達が訪れた時、丁度「萩まつり」が開催されていました。500株あるといわれる萩の花が境内に彩りを添えており、大変綺麗でした。また6月下旬~7月上旬には「あやめまつり」が開催されるそうで、およそ3万本の花菖蒲がここ大泉が池周辺に咲き誇り、観光客の目を楽しませているそうです。

  • 開山堂<br />毛越寺を開いた慈覚大師円仁(794~864)をお祀りする堂。

    開山堂
    毛越寺を開いた慈覚大師円仁(794~864)をお祀りする堂。

  • 曲水の宴<br />小さな川に盃を浮かべ流れに沿って和歌を詠む、平安時代の優雅な歌遊びがここで行われるそうです。(毎年5月第四日曜)<br />女性は十二単等を、男性は衣冠等に身をまとって行われる儀式はきらびやかで、多くの観衆を魅了させるそうです。右手には薄っすらと赤身をおびた萩の花がみえます。

    曲水の宴
    小さな川に盃を浮かべ流れに沿って和歌を詠む、平安時代の優雅な歌遊びがここで行われるそうです。(毎年5月第四日曜)
    女性は十二単等を、男性は衣冠等に身をまとって行われる儀式はきらびやかで、多くの観衆を魅了させるそうです。右手には薄っすらと赤身をおびた萩の花がみえます。

  • 中尊寺、および毛越寺では奥州藤原氏の栄華をしのび、様々な行事が毎年定期的に行なわれています。いずれも素晴らしいもので、機会あれば見学したいものです。

    中尊寺、および毛越寺では奥州藤原氏の栄華をしのび、様々な行事が毎年定期的に行なわれています。いずれも素晴らしいもので、機会あれば見学したいものです。

  • 義経終焉の地とされる高館義経堂を訪れました。(毛越寺から車で4~5分位の所にありました)

    義経終焉の地とされる高館義経堂を訪れました。(毛越寺から車で4~5分位の所にありました)

  • 階段を登って行くと、眼下には北上川が広がっていました。<br />北上川の向こうには秀峰・東稲山が見えます。

    階段を登って行くと、眼下には北上川が広がっていました。
    北上川の向こうには秀峰・東稲山が見えます。

  • 1189年、頼朝の圧迫に耐えかねた四代藤原泰衡はそれまで匿っていた義経を急襲します。義経は妻子を殺害した後、ここで自害したと伝えられています。義経31歳のときでした。<br />また泰衡も義経をかくまったという罪で頼朝の大軍(28万ともいわれている)に征伐され、100年の栄華を誇った藤原時代は幕を閉じました。<br />奥州は豊富な天然資源(砂金、絹、蝦夷地にしか生息しない動物の皮、昆布等の海産物、駿馬、それに広大な穀倉地帯等々)の宝庫であり頼朝や朝廷からすれば魅力のあった所だったのです。

    1189年、頼朝の圧迫に耐えかねた四代藤原泰衡はそれまで匿っていた義経を急襲します。義経は妻子を殺害した後、ここで自害したと伝えられています。義経31歳のときでした。
    また泰衡も義経をかくまったという罪で頼朝の大軍(28万ともいわれている)に征伐され、100年の栄華を誇った藤原時代は幕を閉じました。
    奥州は豊富な天然資源(砂金、絹、蝦夷地にしか生息しない動物の皮、昆布等の海産物、駿馬、それに広大な穀倉地帯等々)の宝庫であり頼朝や朝廷からすれば魅力のあった所だったのです。

  • 源義経主従供養塔<br />31歳という短い人生を終えた義経、及び義経を信じ戦い抜いた弁慶、それぞれの生涯に思いを馳せ、心からの供養を行うため、昭和61年に建立されたそうです。

    源義経主従供養塔
    31歳という短い人生を終えた義経、及び義経を信じ戦い抜いた弁慶、それぞれの生涯に思いを馳せ、心からの供養を行うため、昭和61年に建立されたそうです。

  • 東稲山にはかつて安倍時頼の時代に桜一万本が植えられ、眺望の美しさは平泉随一と言われたそうです。またここから西の流域では前九年・後三年の役が戦われ多くの兵士が露と消えたところです。

    東稲山にはかつて安倍時頼の時代に桜一万本が植えられ、眺望の美しさは平泉随一と言われたそうです。またここから西の流域では前九年・後三年の役が戦われ多くの兵士が露と消えたところです。

  • 芭蕉の句碑<br />「夏草や 兵共が 夢の跡」<br />芭蕉が平泉を訪れたのは1689年です。その時ここ高館を訪れ、奥州藤原氏の栄華や、この地に散った義経公を思い、この名句が詠まれたそうです。<br />(義経堂から100M位、離れた所に建っていました)<br />予定していた全ての行程を終え再び花巻に戻りますが、時間的に余裕があることから、帰りは一般道(国道4号線)を通り、山、川、田んぼを眺めながら、また往時を偲びながら、ゆっくりと帰途につきました。<br />

    芭蕉の句碑
    「夏草や 兵共が 夢の跡」
    芭蕉が平泉を訪れたのは1689年です。その時ここ高館を訪れ、奥州藤原氏の栄華や、この地に散った義経公を思い、この名句が詠まれたそうです。
    (義経堂から100M位、離れた所に建っていました)
    予定していた全ての行程を終え再び花巻に戻りますが、時間的に余裕があることから、帰りは一般道(国道4号線)を通り、山、川、田んぼを眺めながら、また往時を偲びながら、ゆっくりと帰途につきました。

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