2022/06/29 - 2022/06/29
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chiaki-kさん
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長良川、木曽川、揖斐川が流れる濃尾平野下流域は、昔から洪水に悩まされていた地域。江戸中期の1754年(宝暦4年)江戸幕府は、薩摩藩に三川の分流を目的とする治水工事(いわゆる宝歴治水)を命じ、油島の締め切り工事などが行われた。工事は困難を極め、多くの犠牲者を出しながらも、翌1755年に完成する。しかし、幕府や地元領主・領民との軋轢などにより薩摩藩士51名が自害、33名が病死し、総指揮の家老・平田靱負も工事完了後に自害した。
最終的に薩摩藩が要した費用は約40万両(現在の金額にして300億円以上と推定)で、その半分以上が大坂の商人からの借入金であった。返済は領内で徴収した税から充てられることとなり、特に奄美群島のサトウキビは収入源として重視されたため、薩摩藩は住民にサトウキビの栽培を強要し、過酷な収奪に繋がった。(大河ドラマ「せごどん」にも、そんなシーンありましたよね)
この宝歴治水のおかげで、洪水の被害が軽減したことを地元民から感謝されたことにより、鹿児島県との交流が始まり、海津市から関ヶ原まで約35Kmの県道56号・旧名伊勢街道は、薩摩カイコウズ街道と名付けられた。そして、この街道沿いにある公園などには、鹿児島県の木「カイコウズ」が植えられているそうだ。
表紙の写真はカイコウズ(海紅花)の花。カイコウズは高さ5メートルほどのマメ科の落葉高木で、鹿児島県の県木。開花時期は夏から秋で、4~5センチメートルほどの赤い特徴的な花をたくさん咲かせるそうだ。ところで、関ヶ原の記事に、何故、薩摩街道なのかは、旅行記を読んでいただくと、その謎が解けると思います。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ショッピング
- 3.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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6/29
8:30 桑名の宿を出発して長良川、揖斐川にかかるR1・伊勢大橋を渡り桑名市街へ。ちなみにこの橋は1934年に架けられたランガートラス橋で、太平洋戦争時に機銃掃射を受けた弾痕が残っているそうだ。(まもなく新しい橋に架け替えられます) -
桑名市街からR258・大桑道路で海津市へ。道の駅 月見の里・南濃で休憩してから県道56号・薩摩カイコウズ街道に左折、関ヶ原を目指す。養老町、大垣市を抜け関ヶ原町にある岐阜関ケ原古戦場記念館に到着。薩摩カイコウズ街道についてはプロローグの通りだが、1600年の関ヶ原合戦では、この街道を島津義弘が戦中突破して駆け抜けた道でもある。
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岐阜関ケ原古戦場記念館は岐阜県・関ヶ原町にある記念館で、2020年10月21日オープン。
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岐阜県と関ヶ原町で建設した体験型の施設で、総事業費は52億4千万円。館長は歴史学者の小和田哲男さん、アンバサダーは女優の竹下景子さんが就任している。なお、記念館の建てられた場所は関ヶ原の戦いで徳川家康最後の陣地の跡地。
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入館して最初に目に飛び込んで来るのは、この大きな絵画というか土壁。大河ドラマ「真田丸」のタイトルを手がけた挟土秀平さんの作品で「関ヶ原の合戦」
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この作品は撮影可だったが、基本的に館内撮影は不可。予約はしていなかったので、20分ほど待たされてから入ったのは1Fのグランド・ビジョン。会津征伐から前哨戦、関ヶ原での本戦までの。全国を舞台とした戦いを講談師・神田伯山さんのナレーションとともに床面スクリーンで俯瞰する。続いて隣のシアターでは着座して4.5m、横13mのスクリーンと、振動・風・光・音などの演出により戦いの始めから終わりまでを、将兵の視点で戦場に紛れ込んだかのような映像体験が出来るようになっている。
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1600年(慶長5年)9月15日、8:00頃に東軍の松平忠吉・井伊直政らは少数の兵を率いて前線に出ると、西軍の宇喜多秀家隊に向けて鉄砲を放つ。これは先陣を任されていた福島正則隊をさしおいての抜け駆けである。福島隊もすぐにこれに続き、合戦の火ぶたが切られる。
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10:00 福島隊が宇喜多隊へ攻撃を開始すると、黒田長政が岡山狼煙場から開戦の狼煙を上げる。これを機に各所で戦いが始まるなか、笹尾山の石田三成隊も東軍の猛攻に応戦している。一進一退の攻防の末、石田隊の守備を担っていた島左近が黒田隊の銃撃を受けて負傷、三成は左近に代わり陣頭指揮を執り、危機をしのぐ。これを見た徳川家康は、自ら率いる3万の軍隊を戦場後方の桃配山から最前線近くの陣野野まで進めた。
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毛利秀元や吉川広家が動かないのを見た東西両軍が注目したのが松尾山に陣取る小早川秀秋隊である。12:00を過ぎ、その小早川隊が突如、山を降り、西軍の大谷吉継隊に襲いかかった。大谷隊は一旦持ちこたえたが、小早川に続いて、脇坂安治、朽木基綱らが一斉に東軍に寝返り、大谷吉継はその場で自刃する。この小早川隊らの寝返りにより西軍は総崩れとなる。
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14:00 大谷隊が崩れ、宇喜多隊、小西行長隊も敗走。続いて石田隊も敗走すると関ヶ原に残る西軍は島津義弘、島津豊久だけとなる。(毛利などの傍観軍を除く)一計を案じた島津隊は東軍の井伊直政隊、本多忠勝隊に突入、驚いて道を空けた敵陣の中央を突破して、伊勢街道へ向かった。途中、鳥頭坂付近で豊久が踏みとどまり、追手となった松平忠吉、井伊直政の東軍を迎え撃って戦死する。義弘は脱出に成功し、堺から船で鹿児島まで戻った。なお、伊勢街道とは今の「薩摩カイコウズ街道」のことである。
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1Fのイベントホールに関ヶ原参戦14武将のイラストがあり、撮影可だったので何枚か載せてみます。最初は石田三成。義を重んじる武将であるが、豊臣秀吉の死後、加藤清正、福島正則ら武断派と対立し、これが豊臣家滅亡の始まりとなってしまった。
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島左近。三成から2万石の俸禄で召し抱えられた武将。
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大谷吉継。大谷刑部(ぎょうぶ)の通称で知られる武将。三成とは心を通わせた数少ない友人。癩病を患っており、崩れた顔を白い布で覆っていたとされ、視力も悪かったようだ。
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小西行長。アウグスティヌスの洗礼名をもつ九州のキリシタン大名。敗北後、三成と一緒に六条河原で斬首された。
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宇喜多秀家。敗戦後、なんとか薩摩に落ち延び、島津家にかくまわれたが、1603年に家康に引き渡される。縁戚の前田利長の懇願により死罪は免れ、1606年八丈島へ配流となり、1655年に八丈島で没した。享年84才という長生きだった。
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徳川家康。若くしては今川や織田の人質となったり、秀吉の時代には豊臣政権へ臣従したが、秀吉が亡くなってから、豊臣家臣団の分裂に乗して天下取りを目指すようになった。東軍の勝利は、その結束の固さと、家康の徹底した根回しの結果と思われる。
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本多忠勝。徳川四天王の1人で、常に家康の近くにおり、生涯57回の戦をやったが、かすり傷ひとつ負わなかった豪傑。
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井伊直政。徳川四天王の1人で、大河ドラマ「おんな城主 直虎」の養子。赤備えを纏って兜には鬼の角のような立物をあしらい、長槍で敵を蹴散らしていく勇猛果敢な姿は「井伊の赤鬼」と称され、諸大名から恐れられた。
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黒田長政。元々は豊臣の家臣で、朝鮮出兵で活躍するが、石田三成とは対立し、関ヶ原では東軍についた。
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福島正則。黒田と同様に豊臣の家臣だったが、石田三成とは対立し、関ヶ原では東軍についた。ちなみに15年後に豊臣氏が滅亡した大坂の陣に正則は出陣させてもらえなかった。そして1624年に長野県高山村でひっそりと亡くなった。
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小早川秀秋。西軍大敗のきっかけを造った若き武将。関ヶ原から2年後、秀秋は21才で急死する。この早世に関しては、秀秋の裏切りによって自刃した大谷吉継の祟りによるものとする逸話も残されているが、実際に残されている病歴からはアルコール依存症による内臓疾患が死因として最有力となっている。
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そして島津義弘。朝鮮の役では大活躍したが、関ヶ原では少兵だったこともあり、積極的には戦わず、西軍の敗戦が決まってからは敗走する宇喜多隊や小西隊の残兵が島津隊内に入り込もうとするのを銃口を向けて追い払い自軍の秩序を守る一方で、正面の伊勢街道からの撤退を目指して前方の敵の大軍の中を突破することを決意する。
このとき島津隊は捨て奸(すてがまり)と言われる、何人かが留まって死ぬまで敵の足止めをし、それが全滅するとまた新しい足止め隊を残すという壮絶な戦法を用いた。その結果、甥・豊久らが義弘の身代わりとなり多くの将兵も犠牲になったが、井伊直政や松平忠吉の負傷によって東軍の追撃の速度が緩んだことや、家康から追撃中止の命が出されたこともあって、義弘自身はかろうじて敵中突破に成功した。
義弘は大和三輪山平等寺に逃げ込んで70日間潜伏後、無事帰国したが、生きて薩摩に戻ったのは、わずか80数名だったといわれる。そして、この退却戦は「島津の退き口」と呼ばれ全国に名を轟かせた。 -
館内には刀や火縄銃などを実際に持てるようになっていたり、鎧兜などが飾られていたが、一番目を引いたのがこの「関ヶ原山水図屏風」(撮影可)。大阪市歴史博物館所蔵の「関ヶ原合戦図屏風」を基にデジタル化された作品。ちなみにモニターに描かれた人物等は動きます。動画でお見せできないのが残念。
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EVで最上階へ登ると、そこは展望台となっており合戦が行われた地域を見ることが出来る。これは三成が陣を敷いた笹尾山方面だが、足下は家康の布陣した陣野野。
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笹尾山のUP。あとで近くまで行って見よう。
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解説あり。
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関ヶ原製作所の屋根の向こう側に見えるのは、小早川秀明が布陣した松尾山。
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解説あり。
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関ヶ原合戦開戦地。東軍・西軍合わせて15万(諸説あり)の将兵が、ここで激突した。
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決戦地。西軍は兵の数では東軍を上回っていたが、開戦から積極的に戦っていたのは石田、宇喜多、小西、大谷隊だけだった。そして小早川が裏切ると西軍は総崩れとなり、この地は最後に残った石田隊と島津隊に押し寄せる東軍で埋まったと思われる。
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家康陣跡。当初、桃配山に布陣していた家康隊は形勢有利と見るとこの地に陣を移し、家康自らが、味方が次々と討ち取った敵将の首実検をここで行った。
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石田三成陣跡。笹尾山は盆地を一望できる位置にあり、最初は有利に戦ったが、島左近が負傷、小早川が寝返ったことにより総崩れとなり、伊吹山方面へ逃れた。
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大谷吉継陣跡及び墓。大谷は三成から挙兵を打ち明けられたときに、再三にわたり「無謀で勝機なし」と説得するが、三成の決意にうたれ、西軍に組することを決断する。
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黒田長政・竹中重門陣跡。黒田や竹中は東軍の最右翼として、この丘の上に布陣。攻撃の狼煙を上げた。
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福島正則陣跡。福島隊は東軍の最前線に布陣。先鋒として宇喜多隊に襲いかかった。
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小早川秀秋陣跡の松尾山から眺めた関ヶ原。秀秋の煮え切らない態度にしびれを切らした家康が山に向かって鉄砲を射かけたとされておるが、事実は不明。
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島津義弘陣跡。島津隊1,500余りは、開戦後積極的には動かず、敗走する西軍で混雑する西山を避け、目の前にいる東軍に向かって突っ込んでいった。
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鳥頭坂。東軍の中央を突破した島津隊は、決死の捨て奸戦法で伊勢街道を南へ逃れた。ちなみに義弘の甥・豊久はここで追っ手をくい止め、討ち死にする。
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東首塚。首実検後の首や遺体はこの地の領主である竹中家に命じて東西2箇所に首塚を造らせた。この戦いの戦死者は12,000人とも42,000人とも言われているが、正確な数は不明。
*この旅行記の作成にあたっては、岐阜関ケ原古戦場記念館公式ガイドブック及びWikipediaを参照させていただきました。 -
記念館を退出して、車で古戦場をドライブ。今日も35℃以上の暑さだったので、車からは降りずに車窓観光。(*´∀`*)
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決戦地の碑。たなびくのは石田と徳川の旗。
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島左近の陣地跡。そしてこの上には石田三成の陣跡も。
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帰ります。
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関ヶ原ICから名神高速道に乗り、養老SAに寄る。レストラン美濃三昧でランチ。
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まずは、ノンアルコールビールを頂き・・・
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飛騨丼ときしめんセットを注文、1,480円也。お味は普通。
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当初、静岡まで第2東名を走ってから中部横断道で佐久まで戻る計画だったが、妻が早く帰りたい病を発症 (*´∀`*) したので、小牧JCから中央道を通って帰ることに。写真は駒ヶ岳SA。
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17:00 帰宅。走行距離は942.1km。燃費は18.3km/Lということで、暑い中エアコンをフルに回した結果としては、まあまあだった。
これで「2022年 伊勢志摩旅行記3:薩摩カイコウズ街道&関ヶ原古戦場記念館」は終了です。やや、マニアックな旅行記を最後までご覧頂きありがとうございます。全編ご覧頂いた皆様には最大の「ありがとうさん・おおきに」を差し上げます。 -
OMAKE1
今回の戦利品はこんなところ。鈴鹿サーキットで買ったキャップと -
OMAKE2
伊勢ビールに石田三成?酒 -
OMAKE3
松阪牛チップス -
OMAKE4
刈谷ハイウェイオアシスで購入したエビせんべい各種 -
OMAKE5
定番の伊勢うどん、と赤福 -
OMAKE LAST
長浜の酒造会社が造った原酒・石田三成で乾杯!
おしまい
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この旅行記へのコメント (2)
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- yamayuri2001さん 2022/07/26 09:23:05
- 壮大なドライブ旅行!
- chiaki-kさん、お久しぶりです。
壮大な伊勢志摩旅行だったのですね。
特に、岐阜関ケ原古戦場記念館は、戦国マニアの長男が行ったら
一日中居てしまうような記念館でした。
お帰りになって、ロングドライブからの緊張から解放されて
たくさんのお土産を見ながら、
楽しかった旅を振り返られているご様子が浮かびました。
お酒も進んだのでは・・・
我が家も時折、ロングドライブを楽しみますが
夫婦で気兼ねなく行く旅行が、心休まりますね!
yamayuri2001
- chiaki-kさん からの返信 2022/07/29 14:21:26
- 岐阜関ケ原古戦場記念館、お勧めです
- ・
yamayuri2001さん、こんにちは。いつもありがとうございます。
今回の伊勢志摩旅行は、妻の希望である志摩観光ホテルに宿泊
するのが目的でした。一泊でも良かったのですが、せっかくの
高級ホテルを朝早くチェックアウトするのも勿体ないので、
他のホテルをもう一泊追加し、ギリギリまでホテルライフを
楽しみました。
関ヶ原も以前から妻の希望した場所だったんですが、昔団体ツアー
で立ち寄った関ヶ原ウォーランドや、町立博物館の印象があまり
良くなかったので見合わせていましたが、昨年出来た岐阜関ケ原
古戦場記念館の評判がよさそうだったので寄ってみました。
撮禁でUPできませんでしたが、戦場に紛れ込んだような体験が
できるシアターとか、刀や火縄銃を持てるコーナーなどあって
戦国好きな子供さんなら、絶対喜ぶと思いますよ。
では、また。
chiaki-k
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