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今年の梅雨は全国的に明けるのが早いそうです。梅雨入りして2週間経っていないのですが・・・。東京では連日猛暑日が続いているそうですが、阪神地区でも早々の連日の熱帯夜に少々グロッキー気味ですので、旅行記の筆も進んでいません。皆さんも熱中症には気を付けてください。<br />後編は、頼光寺に墓所のある、発願者 源満仲夫人 法如尼(源俊(みなもとの すぐる)の娘)、開山 永寿阿闍梨、第2世 永覚阿闍梨について少し掘り下げてみました。<br />前者2人は寺名「頼光寺」にある「源頼光」の血族ですが、第2世 永覚阿闍梨(幼名:岩蔵の宮)は冷泉天皇の孫に当たり、敦道親王と恋多き女流歌人 和泉式部の間に生まれ、その後出家した高僧であることが判りました。四天王寺別当などを歴任した後、乞われて頼光寺の繁栄を託されたものと思われます。しかし、入寂後は度重なる戦乱で寺勢は衰微してしまうのですが・・・。<br />和泉式部と橘道貞の間に生まれた小式部内侍(こしきぶのないし)は知られていますが、岩蔵の宮のことはあまり知られていないようです。和泉式部ファンにとっては頼光寺は聖地と言えるのかもしれません。

問柳尋花 北摂川西<後編>祥雲山 頼光寺

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2022/06/20 - 2022/06/20

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

今年の梅雨は全国的に明けるのが早いそうです。梅雨入りして2週間経っていないのですが・・・。東京では連日猛暑日が続いているそうですが、阪神地区でも早々の連日の熱帯夜に少々グロッキー気味ですので、旅行記の筆も進んでいません。皆さんも熱中症には気を付けてください。
後編は、頼光寺に墓所のある、発願者 源満仲夫人 法如尼(源俊(みなもとの すぐる)の娘)、開山 永寿阿闍梨、第2世 永覚阿闍梨について少し掘り下げてみました。
前者2人は寺名「頼光寺」にある「源頼光」の血族ですが、第2世 永覚阿闍梨(幼名:岩蔵の宮)は冷泉天皇の孫に当たり、敦道親王と恋多き女流歌人 和泉式部の間に生まれ、その後出家した高僧であることが判りました。四天王寺別当などを歴任した後、乞われて頼光寺の繁栄を託されたものと思われます。しかし、入寂後は度重なる戦乱で寺勢は衰微してしまうのですが・・・。
和泉式部と橘道貞の間に生まれた小式部内侍(こしきぶのないし)は知られていますが、岩蔵の宮のことはあまり知られていないようです。和泉式部ファンにとっては頼光寺は聖地と言えるのかもしれません。

旅行の満足度
5.0

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  • 本堂 菩提樹<br />本堂の右脇に菩提樹が植えられています。<br />中国原産の落葉高木です。日本への渡来は臨済宗の栄西が中国の天台山 万年寺から持ち帰ったものと伝わります。その後、各地の寺院に植えられるようになり、樹齢を重ねた菩提樹のいくつかは天然記念物に指定されています。<br />菩提樹の名の由来は、バーリー語・サンスクリット語で「悟り」を意味する「bodhi(ボーディ)」です。釈迦が樹下で悟りを開いたことから「悟りの木」として知られるようになりました。「ボーディ」の音を中国では「菩提」の字で表したため、日本でもその表記に倣って菩提樹と呼ぶようになりました。

    本堂 菩提樹
    本堂の右脇に菩提樹が植えられています。
    中国原産の落葉高木です。日本への渡来は臨済宗の栄西が中国の天台山 万年寺から持ち帰ったものと伝わります。その後、各地の寺院に植えられるようになり、樹齢を重ねた菩提樹のいくつかは天然記念物に指定されています。
    菩提樹の名の由来は、バーリー語・サンスクリット語で「悟り」を意味する「bodhi(ボーディ)」です。釈迦が樹下で悟りを開いたことから「悟りの木」として知られるようになりました。「ボーディ」の音を中国では「菩提」の字で表したため、日本でもその表記に倣って菩提樹と呼ぶようになりました。

  • 本堂 菩提樹<br />実は釈迦が釈迦が悟りを開いた時に座っていたのは、インドボダイジュの下でした。インドボダイジュは、日本で菩提樹と呼ばれているアオイ科シナノキ属の木ではなく、クワ科イチジク属の熱帯植物です。寒さに弱いなどの理由で日本では育てられなかったため、各地の寺院では葉の形が似た中国原産のシナノキ属の木を代わりに植え、それが菩提樹と呼ばれるようになったとの説が一般的です。<br />花言葉は「夫婦愛」「結婚」。これらの由来はギリシア神話に因みます。神々の王ゼウスを神と知らずに手厚くもてなした貧しい高齢夫婦ピレモンとバウキスの願いをゼウスが叶えたという逸話です。「死んでも離れることがないように」と願う2人の寿命が尽きる時、ゼウスは2人をそれぞれ樫の木と菩提樹に変えていつまでも寄り添わせました。

    本堂 菩提樹
    実は釈迦が釈迦が悟りを開いた時に座っていたのは、インドボダイジュの下でした。インドボダイジュは、日本で菩提樹と呼ばれているアオイ科シナノキ属の木ではなく、クワ科イチジク属の熱帯植物です。寒さに弱いなどの理由で日本では育てられなかったため、各地の寺院では葉の形が似た中国原産のシナノキ属の木を代わりに植え、それが菩提樹と呼ばれるようになったとの説が一般的です。
    花言葉は「夫婦愛」「結婚」。これらの由来はギリシア神話に因みます。神々の王ゼウスを神と知らずに手厚くもてなした貧しい高齢夫婦ピレモンとバウキスの願いをゼウスが叶えたという逸話です。「死んでも離れることがないように」と願う2人の寿命が尽きる時、ゼウスは2人をそれぞれ樫の木と菩提樹に変えていつまでも寄り添わせました。

  • ハナショウブ(花菖蒲)<br />アヤメ科アヤメ属の多年草で、野生の「野花菖蒲」を原種として改良された国産の園芸品種です。 優美な花容はしっとりとした風情を湛え、色彩の魔術師と呼ばれるように花色の変化に富んでいます。尚、花容により幾つかの系列に分類され。こちらは花被がしだれているので、優雅な「伊勢系」品種になります。また、三英咲き(さんえいざき)は、このように3枚の弁が大きく目立ちます。<br />和名の由来は、葉が菖蒲に似ており、美しい花が咲くことに因みます。<br />花言葉は「嬉しい知らせ」「心意気」「あなたを信じる」「優しい心」。<br />「嬉しい知らせ」は、花菖蒲は英名でアイリスと呼ばれ、共通して花言葉が付けられたものです。ギリシア神話に登場する虹の女神イリスが由来であり、虹を渡って便りが届けられることに因みます。ゼウスの妻ヘラの付き人をしていた美しいイリスは、浮気者のゼウスから求愛されました。困ったイリスはヘラに「どこか遠くへ行きたい」と願い出ました。ヘラはイリスの願いを聞き入れ、七色の首飾りをイリスに与え、そして神の酒をイリスの頭に振りかけました。するとイリスは虹の女神に姿を変え、地上に落ちた酒の雫がアイリスの花になったというお話です。<br />また、「心意気」は端午の節句の時に飾られる花であることに因みます。<br />泉鏡花も句を詠んでいます。鏡花らしい一句です。<br />「わが恋は 人とる沼の 花菖蒲(はなあやめ)」   

    ハナショウブ(花菖蒲)
    アヤメ科アヤメ属の多年草で、野生の「野花菖蒲」を原種として改良された国産の園芸品種です。 優美な花容はしっとりとした風情を湛え、色彩の魔術師と呼ばれるように花色の変化に富んでいます。尚、花容により幾つかの系列に分類され。こちらは花被がしだれているので、優雅な「伊勢系」品種になります。また、三英咲き(さんえいざき)は、このように3枚の弁が大きく目立ちます。
    和名の由来は、葉が菖蒲に似ており、美しい花が咲くことに因みます。
    花言葉は「嬉しい知らせ」「心意気」「あなたを信じる」「優しい心」。
    「嬉しい知らせ」は、花菖蒲は英名でアイリスと呼ばれ、共通して花言葉が付けられたものです。ギリシア神話に登場する虹の女神イリスが由来であり、虹を渡って便りが届けられることに因みます。ゼウスの妻ヘラの付き人をしていた美しいイリスは、浮気者のゼウスから求愛されました。困ったイリスはヘラに「どこか遠くへ行きたい」と願い出ました。ヘラはイリスの願いを聞き入れ、七色の首飾りをイリスに与え、そして神の酒をイリスの頭に振りかけました。するとイリスは虹の女神に姿を変え、地上に落ちた酒の雫がアイリスの花になったというお話です。
    また、「心意気」は端午の節句の時に飾られる花であることに因みます。
    泉鏡花も句を詠んでいます。鏡花らしい一句です。
    「わが恋は 人とる沼の 花菖蒲(はなあやめ)」   

  • 方丈池<br />本堂の右奥にもあじさい苑が広がっています。<br />本堂の脇には方丈池があります。<br />頼光寺を開基した源賢(幼名:美女丸)の父は鎮守府将軍 源満仲、母は源俊(みなもとのとおる)の娘。源頼光の同腹の弟とされますが、年の差が29歳もあり疑義があるところです。美女丸は、貞元2(977)年に生まれ、延暦寺に学んで源信の弟子となりました。長徳2(996)年に阿闍梨、長和2(1013)年には法橋、寛仁元(1017)年に法眼に至っています。寛仁4(1020)年、44歳で示寂。多田法眼、摂津法眼、八尾法眼などとも称されました。お墓は小童寺にあります。

    方丈池
    本堂の右奥にもあじさい苑が広がっています。
    本堂の脇には方丈池があります。
    頼光寺を開基した源賢(幼名:美女丸)の父は鎮守府将軍 源満仲、母は源俊(みなもとのとおる)の娘。源頼光の同腹の弟とされますが、年の差が29歳もあり疑義があるところです。美女丸は、貞元2(977)年に生まれ、延暦寺に学んで源信の弟子となりました。長徳2(996)年に阿闍梨、長和2(1013)年には法橋、寛仁元(1017)年に法眼に至っています。寛仁4(1020)年、44歳で示寂。多田法眼、摂津法眼、八尾法眼などとも称されました。お墓は小童寺にあります。

  • 方丈池<br />このように池には小滝が落ちています。<br />『尊卑分脈』によると、源満仲は寛和2(986)年に出家しています。その顛末は『今昔物語集』に記されていますが、どうやら末子 源賢の奔走によると思われます。父 満仲が多田庄で仏教が禁じる殺生をするばかりか、領民にまで狼藉の限りを尽くすのを目の当たりにして胸を痛めた源賢は、師の源信に父への説法を頼みました。その後、満仲は出家、多田新発意と称されるまでに至りました。この時、源賢はまだ10歳でした。父に出家を促すには幼過ぎるように思いますが、『今昔物語』の源信に説法を頼む場面などには子どもらしい言葉遣いが見られます。<br />『今昔物語』で残念なことは、肝心の源賢が、源信を満仲に会わせる場面までしか登場しないことです。父の出家をどう思い、父とどんな言葉を交わしたかは記されていません。往時の仏教的観念から言えば、無用な殺生は地獄に堕ちる元になるものでしたから、父を出家させたことで自らも救われたと胸をなで下ろしたことでしょう。

    方丈池
    このように池には小滝が落ちています。
    『尊卑分脈』によると、源満仲は寛和2(986)年に出家しています。その顛末は『今昔物語集』に記されていますが、どうやら末子 源賢の奔走によると思われます。父 満仲が多田庄で仏教が禁じる殺生をするばかりか、領民にまで狼藉の限りを尽くすのを目の当たりにして胸を痛めた源賢は、師の源信に父への説法を頼みました。その後、満仲は出家、多田新発意と称されるまでに至りました。この時、源賢はまだ10歳でした。父に出家を促すには幼過ぎるように思いますが、『今昔物語』の源信に説法を頼む場面などには子どもらしい言葉遣いが見られます。
    『今昔物語』で残念なことは、肝心の源賢が、源信を満仲に会わせる場面までしか登場しないことです。父の出家をどう思い、父とどんな言葉を交わしたかは記されていません。往時の仏教的観念から言えば、無用な殺生は地獄に堕ちる元になるものでしたから、父を出家させたことで自らも救われたと胸をなで下ろしたことでしょう。

  • 方丈池<br />池に何かいます。<br />『源賢法眼集』は51首の和歌からなり、その過半数は四季を詠んでいます。残りの歌のうち、童(わらわ)を詠んだものが数首あり、延暦寺の稚児の姿を詠んだものと思われます。<br />しかし、1首だけ「人のうみたりしこを、もりぬとて人にとらせたりしかば」という詞書を付した歌があり、「思ひきや わがしめゆひし 撫子を 人の籬の 花とみんとは」と自分の子を人手に渡してしまったと詠んでいます。源賢に実子が居たかどうかは不祥ですが、もし居たとしても出家した身では人目が憚られるのは至極当然です。それで養子に出したというのでしょうか?<br />源賢自身、恐らくは自ら望んで出家したのではなく、家の事情でやむなく出家させられ、両親や兄弟たちと引き離されたのだと思います。それと同じことを我が子にもさせてしまったことで、身を切られるような思いに苛まれていたのかもしれません。

    方丈池
    池に何かいます。
    『源賢法眼集』は51首の和歌からなり、その過半数は四季を詠んでいます。残りの歌のうち、童(わらわ)を詠んだものが数首あり、延暦寺の稚児の姿を詠んだものと思われます。
    しかし、1首だけ「人のうみたりしこを、もりぬとて人にとらせたりしかば」という詞書を付した歌があり、「思ひきや わがしめゆひし 撫子を 人の籬の 花とみんとは」と自分の子を人手に渡してしまったと詠んでいます。源賢に実子が居たかどうかは不祥ですが、もし居たとしても出家した身では人目が憚られるのは至極当然です。それで養子に出したというのでしょうか?
    源賢自身、恐らくは自ら望んで出家したのではなく、家の事情でやむなく出家させられ、両親や兄弟たちと引き離されたのだと思います。それと同じことを我が子にもさせてしまったことで、身を切られるような思いに苛まれていたのかもしれません。

  • 方丈池<br />ザリガニです。<br />夏目漱石著『坊っちゃん』の主人公の苗字は作中では明らかにされていません。<br />しかし、巷では苗字は「多田」との説があり、その根拠として挙げられたのが次の文節です。<br />宿直中の坊ちゃんが生徒たちにからかわれてカンカンに腹を立てる件です。「宿直をして鼻垂れ小僧にからかわれて、手のつけようがなくって、仕方がないから泣き寝入りにしたと思われちゃ一生の名折れだ。これでも元は旗本だ。旗本の元は清和源氏で、多田の満仲(注:ルビ「ただのまんじゅう」)の後裔だ。こんな土百姓とは生まれからして違うんだ。ただ智慧のないところが惜しいだけだ。」。<br />坊っちゃんが源(多田)満仲を引き合いに出したのは、自分の苗字が多田であることに引っ掛け、清和源氏の末裔だと自慢したという見方です。

    方丈池
    ザリガニです。
    夏目漱石著『坊っちゃん』の主人公の苗字は作中では明らかにされていません。
    しかし、巷では苗字は「多田」との説があり、その根拠として挙げられたのが次の文節です。
    宿直中の坊ちゃんが生徒たちにからかわれてカンカンに腹を立てる件です。「宿直をして鼻垂れ小僧にからかわれて、手のつけようがなくって、仕方がないから泣き寝入りにしたと思われちゃ一生の名折れだ。これでも元は旗本だ。旗本の元は清和源氏で、多田の満仲(注:ルビ「ただのまんじゅう」)の後裔だ。こんな土百姓とは生まれからして違うんだ。ただ智慧のないところが惜しいだけだ。」。
    坊っちゃんが源(多田)満仲を引き合いに出したのは、自分の苗字が多田であることに引っ掛け、清和源氏の末裔だと自慢したという見方です。

  • 本堂裏手のあじさい苑 歴代住持の墓所<br />尼寺だった時代の1~8世住持のお墓が並んでいます。<br />『坊ちゃん』について穿った見方をすれば、わざわざルビをふって「ただのまんじゅう」と読み替えているのは駄洒落と読めます。そもそも旗本の姓が全て多田である訳もでもありません。漱石は、坊っちゃんのことを頭に血が上ると元は旗本だとか、ルーツは清和源氏だとか、如何にも胡散臭い血統自慢をして息巻くような、軽薄で軽率な人物として茶化して描いています。そして作中随所に見られるように、ここでも諧謔味を潤沢にまぶして表現しただけで、「多田」には駄洒落以上の意味はないとも思えます。つまり「俺は清和源氏の末裔だ」との自慢は「俺の先祖はまんじゅうだ」と言っているのと何ら変わらないんだと、漱石が作中の坊っちゃんをからかっている構図と読めないでしょうか?

    本堂裏手のあじさい苑 歴代住持の墓所
    尼寺だった時代の1~8世住持のお墓が並んでいます。
    『坊ちゃん』について穿った見方をすれば、わざわざルビをふって「ただのまんじゅう」と読み替えているのは駄洒落と読めます。そもそも旗本の姓が全て多田である訳もでもありません。漱石は、坊っちゃんのことを頭に血が上ると元は旗本だとか、ルーツは清和源氏だとか、如何にも胡散臭い血統自慢をして息巻くような、軽薄で軽率な人物として茶化して描いています。そして作中随所に見られるように、ここでも諧謔味を潤沢にまぶして表現しただけで、「多田」には駄洒落以上の意味はないとも思えます。つまり「俺は清和源氏の末裔だ」との自慢は「俺の先祖はまんじゅうだ」と言っているのと何ら変わらないんだと、漱石が作中の坊っちゃんをからかっている構図と読めないでしょうか?

  • 本堂裏手のあじさい苑 墓標<br />中央に開山 永寿阿闍梨御墓所、右側に2世 永覚阿闍梨、左側に源頼光公御母堂と書かれた墓標です。<br />

    本堂裏手のあじさい苑 墓標
    中央に開山 永寿阿闍梨御墓所、右側に2世 永覚阿闍梨、左側に源頼光公御母堂と書かれた墓標です。

  • 本堂裏手のあじさい苑 <br />墓標の左手奥にあるのがお墓のようです。<br />五輪塔よりも古いタイプのお墓です。<br />墓標に従えば、中央が開山 永寿阿闍梨、左が源頼光の母「法如尼」、右が2世 永覚阿闍梨となります。

    本堂裏手のあじさい苑
    墓標の左手奥にあるのがお墓のようです。
    五輪塔よりも古いタイプのお墓です。
    墓標に従えば、中央が開山 永寿阿闍梨、左が源頼光の母「法如尼」、右が2世 永覚阿闍梨となります。

  • 本堂裏手のあじさい苑 ナツツバキ(沙羅双樹)<br />ツバキ科ナツツバキ属の落葉高木です。和名「ナツツバキ」は、花の形が椿によく似ており、夏に開花することから名付けられました。<br />可憐で可愛らしい白い花は、朝に咲いた後、日が暮れるまでに椿と同じようにぽとりと落ちてしまうことから、世の儚さを表す「一日花」として『平家物語』の冒頭にも登場することでも知られています。<br />「沙羅双樹」とも呼ばれますが、釈迦が入滅した時に近くに生えていたことで有名な「沙羅双樹」は「沙羅の木」というインド原産のフタバガキ科コディアウエム属の樹木で高さ30mにもなる熱帯樹です。因みに、「沙羅双樹」が日本で唯一見られるのは、滋賀県草津市の水生植物公園みずの森です。<br />では、何故、日本ではナツツバキを「沙羅双樹」と呼ぶのでしょうか?<br />日本では釈迦に縁の深い沙羅の木が無かったため、沙羅の木に葉が良く似て同じ季節に白い花を咲かせるナツツバキをその代わりに寺院などに植えたのがはじまりとの説と、ナツツバキを見た僧侶が沙羅の木と思い込み、それを広めたとの説があります。<br />花言葉は「はかない美しさ」「愛らしさ」。

    本堂裏手のあじさい苑 ナツツバキ(沙羅双樹)
    ツバキ科ナツツバキ属の落葉高木です。和名「ナツツバキ」は、花の形が椿によく似ており、夏に開花することから名付けられました。
    可憐で可愛らしい白い花は、朝に咲いた後、日が暮れるまでに椿と同じようにぽとりと落ちてしまうことから、世の儚さを表す「一日花」として『平家物語』の冒頭にも登場することでも知られています。
    「沙羅双樹」とも呼ばれますが、釈迦が入滅した時に近くに生えていたことで有名な「沙羅双樹」は「沙羅の木」というインド原産のフタバガキ科コディアウエム属の樹木で高さ30mにもなる熱帯樹です。因みに、「沙羅双樹」が日本で唯一見られるのは、滋賀県草津市の水生植物公園みずの森です。
    では、何故、日本ではナツツバキを「沙羅双樹」と呼ぶのでしょうか?
    日本では釈迦に縁の深い沙羅の木が無かったため、沙羅の木に葉が良く似て同じ季節に白い花を咲かせるナツツバキをその代わりに寺院などに植えたのがはじまりとの説と、ナツツバキを見た僧侶が沙羅の木と思い込み、それを広めたとの説があります。
    花言葉は「はかない美しさ」「愛らしさ」。

  • 本堂裏手のあじさい苑 ナツツバキ(沙羅双樹)<br />「法如尼」は頼光・源賢兄弟の母であることから、嵯峨源氏の近江国守 源俊の娘と思われます。しかし、それ以上のことはネットでヒットせず、恐らく出家して「法如尼」と言う戒名を得たのでしょう。<br />因みに、「法如尼」と聞いてピンと来たのは、天平の華を開かせた光明皇后と共に藤原一族を代表する二大女性のひとりである中将姫(ちゅうじょうひめ)です。その中将姫が當麻(たいま)寺に出家して称した戒名が「法如尼」です。

    本堂裏手のあじさい苑 ナツツバキ(沙羅双樹)
    「法如尼」は頼光・源賢兄弟の母であることから、嵯峨源氏の近江国守 源俊の娘と思われます。しかし、それ以上のことはネットでヒットせず、恐らく出家して「法如尼」と言う戒名を得たのでしょう。
    因みに、「法如尼」と聞いてピンと来たのは、天平の華を開かせた光明皇后と共に藤原一族を代表する二大女性のひとりである中将姫(ちゅうじょうひめ)です。その中将姫が當麻(たいま)寺に出家して称した戒名が「法如尼」です。

  • 本堂裏手のあじさい苑 ナツツバキ(沙羅双樹)<br />當麻寺に伝わる『當麻曼荼羅縁起』によれば、中将姫は横佩(よこはぎ)の大臣 藤原豊成の娘で、継母 照夜前(てるよのまえ) に苦しめられ、天平宝字7(763)年に24歳で出家して「法如尼」と称したようです。そして29歳の時、観音の化身に助けられて蓮の糸で曼荼羅を織り上げ、極楽往生を遂げたと伝えます。この説話は説経節や浄瑠璃などのモチーフとなって広まったようです。<br />源俊の娘が生きた時代にもこの説話は伝承されていたことから、中将姫にあやかっての命名と考えるのは早計でしょうか?

    本堂裏手のあじさい苑 ナツツバキ(沙羅双樹)
    當麻寺に伝わる『當麻曼荼羅縁起』によれば、中将姫は横佩(よこはぎ)の大臣 藤原豊成の娘で、継母 照夜前(てるよのまえ) に苦しめられ、天平宝字7(763)年に24歳で出家して「法如尼」と称したようです。そして29歳の時、観音の化身に助けられて蓮の糸で曼荼羅を織り上げ、極楽往生を遂げたと伝えます。この説話は説経節や浄瑠璃などのモチーフとなって広まったようです。
    源俊の娘が生きた時代にもこの説話は伝承されていたことから、中将姫にあやかっての命名と考えるのは早計でしょうか?

  • 本堂裏手のあじさい苑 クリスタルレッド<br />赤色に近い濃いピンク色と大輪のボリューム感が特徴の品種。このように赤色に近いアジサイは珍しいそうです。<br />それでは、継母 照手前の執拗かつ陰湿ないじめの一部を暴露してみましょう。<br />1.毒入りの甘酒を姫に飲ませ様とした折、それを照夜前の実子 豊寿丸が横取りして飲み、死んだことに対し、照夜前はこれを逆恨みしました。<br />2.14歳の雪の降る朝、照夜前に盗みの疑いをかけられ、老松の下で割り竹打ちの折檻を受けました。この事は後に歌舞伎『中将姫雪責』や江戸時代の人形浄瑠璃『ひばり山姫捨ての松』として上演されるに至ります。<br />3.照夜前は、家来に命じて姫を境内奥の崖の上から突き落としたが、姫は日頃の信仰の力に助けられ、太陽の如く空中にふわりと浮かび、何ひとつ怪我をしなかった。<br />4.中将姫が念仏を唱えるのが気に食わない照夜前は、家臣に命じて16歳の姫を雲雀山青蓮寺へ捨てる様に命じました。しかし、姫を哀れに思った家臣夫婦が匿って助けてくれました。

    本堂裏手のあじさい苑 クリスタルレッド
    赤色に近い濃いピンク色と大輪のボリューム感が特徴の品種。このように赤色に近いアジサイは珍しいそうです。
    それでは、継母 照手前の執拗かつ陰湿ないじめの一部を暴露してみましょう。
    1.毒入りの甘酒を姫に飲ませ様とした折、それを照夜前の実子 豊寿丸が横取りして飲み、死んだことに対し、照夜前はこれを逆恨みしました。
    2.14歳の雪の降る朝、照夜前に盗みの疑いをかけられ、老松の下で割り竹打ちの折檻を受けました。この事は後に歌舞伎『中将姫雪責』や江戸時代の人形浄瑠璃『ひばり山姫捨ての松』として上演されるに至ります。
    3.照夜前は、家来に命じて姫を境内奥の崖の上から突き落としたが、姫は日頃の信仰の力に助けられ、太陽の如く空中にふわりと浮かび、何ひとつ怪我をしなかった。
    4.中将姫が念仏を唱えるのが気に食わない照夜前は、家臣に命じて16歳の姫を雲雀山青蓮寺へ捨てる様に命じました。しかし、姫を哀れに思った家臣夫婦が匿って助けてくれました。

  • 本堂裏手のあじさい苑 <br />両性花がとてもカラフルなガクアジサイです。<br />浄土宗の高僧で文人でもあった安楽庵策伝が説教の素材とするため、民間伝承や逸話から笑話を収集し分類した『醒睡笑』(成立:寛永5(1628)年)は昌平坂学問所に献呈された書物です。これは後日、噺本や落語に影響を与えたことから、策伝は「落語の祖」とも称されました。<br />そこには饅頭にまつわる笑い話が載せられています。普通の小豆入りの饅頭でもてなされたある男が「普通の饅頭は位が高い」と喜びます。その男が言うには、「ご馳走として人気のある砂糖饅頭は、出自が良くない」。その理由を尋ねられると、男は「ただのまんじゆう(「ただの饅頭」と「多田満仲」をかける)は貞純親王の子孫だから」と答えました。これは幸若舞『満仲』を引いた駄洒落です。

    本堂裏手のあじさい苑
    両性花がとてもカラフルなガクアジサイです。
    浄土宗の高僧で文人でもあった安楽庵策伝が説教の素材とするため、民間伝承や逸話から笑話を収集し分類した『醒睡笑』(成立:寛永5(1628)年)は昌平坂学問所に献呈された書物です。これは後日、噺本や落語に影響を与えたことから、策伝は「落語の祖」とも称されました。
    そこには饅頭にまつわる笑い話が載せられています。普通の小豆入りの饅頭でもてなされたある男が「普通の饅頭は位が高い」と喜びます。その男が言うには、「ご馳走として人気のある砂糖饅頭は、出自が良くない」。その理由を尋ねられると、男は「ただのまんじゆう(「ただの饅頭」と「多田満仲」をかける)は貞純親王の子孫だから」と答えました。これは幸若舞『満仲』を引いた駄洒落です。

  • 本堂裏手のあじさい苑 コンペイトウ ブルー<br />このアジサイは、静岡県掛川市の加茂花菖蒲園で品種改良されたようです。<br />装飾花は丸みを帯びた形ではなく、先端が少し尖った金平糖(コンペイトウ)のような形が特徴です。また、八重咲きで何層にも重なり合っているため、これまで紹介したアジサイよりも立体的で豪華な印象があります。色合いもとても美しく、中心から外側にかけてグラデーションのように白い縁取りが清涼感を誘う品種です。<br />花言葉は「忍耐強い愛情」。その理由は枝が頑丈なため、大きな装飾花が咲いても枝が折れる心配がないことに因みます。

    本堂裏手のあじさい苑 コンペイトウ ブルー
    このアジサイは、静岡県掛川市の加茂花菖蒲園で品種改良されたようです。
    装飾花は丸みを帯びた形ではなく、先端が少し尖った金平糖(コンペイトウ)のような形が特徴です。また、八重咲きで何層にも重なり合っているため、これまで紹介したアジサイよりも立体的で豪華な印象があります。色合いもとても美しく、中心から外側にかけてグラデーションのように白い縁取りが清涼感を誘う品種です。
    花言葉は「忍耐強い愛情」。その理由は枝が頑丈なため、大きな装飾花が咲いても枝が折れる心配がないことに因みます。

  • 本堂裏手のあじさい苑 <br />フラワーボックスのように装飾花がぎっしり詰まっています。<br />淡いピンク色が可憐です。

    本堂裏手のあじさい苑
    フラワーボックスのように装飾花がぎっしり詰まっています。
    淡いピンク色が可憐です。

  • 本堂裏手のあじさい苑 <br />こちらはガクアジサイなのですが、八重咲きの装飾花の重なりが半端ではなく、その上ウェーブしているためゴージャス感が増し、とてもアジサイとは思えません。<br />中央にある両性花が隠れてしまうほどです。

    本堂裏手のあじさい苑
    こちらはガクアジサイなのですが、八重咲きの装飾花の重なりが半端ではなく、その上ウェーブしているためゴージャス感が増し、とてもアジサイとは思えません。
    中央にある両性花が隠れてしまうほどです。

  • 本堂裏手のあじさい苑 <br />少し引いて花色の遷移が判るようにしてみました。

    本堂裏手のあじさい苑
    少し引いて花色の遷移が判るようにしてみました。

  • 霊園手前のあいじさい苑<br />『本朝皇胤紹運録』によれば、頼光寺2世 永覚阿闍梨は長保5(1003)年に敦道親王の皇子 岩蔵の宮として生まれました。つまり、冷泉天皇の孫に当たります。驚くのは、母は親王の召人(女房待遇の愛人)だった、恋多き女流歌人 和泉式部ということです。<br />紫雲山 大雲寺にて出家して永覚を名乗り、後に阿闍梨となり、治暦2(1066)年に聖徳太子所縁の天台宗の本山寺院 四天王寺別当に任じられています。頼光寺の寺伝には「2世 永覚阿闍梨の示寂後、平安~戦国時代には度重なる戦乱で寺勢は衰微した」とあることから、永覚阿闍梨は四天王寺別当を経て、乞われて頼光寺の住持になり、この寺院で入寂されたと推測できます。恐らく、出家前に源氏性を賜っていたことによる源氏繋がりかと思われます。派手な恋愛劇を演じたご両人の息子だからこそ、仏門の道を志し、密やかに生涯を送られたのかもしれません。 <br />余談ですが、こうした歴史を鑑みれば、頼光寺は和泉式部ファンにとっては聖地とも言えます。和泉式部と橘道貞の間に生まれた小式部内侍(こしきぶのないし)はよく知られていますが、岩蔵の宮のことはあまり知られていないようです。

    霊園手前のあいじさい苑
    『本朝皇胤紹運録』によれば、頼光寺2世 永覚阿闍梨は長保5(1003)年に敦道親王の皇子 岩蔵の宮として生まれました。つまり、冷泉天皇の孫に当たります。驚くのは、母は親王の召人(女房待遇の愛人)だった、恋多き女流歌人 和泉式部ということです。
    紫雲山 大雲寺にて出家して永覚を名乗り、後に阿闍梨となり、治暦2(1066)年に聖徳太子所縁の天台宗の本山寺院 四天王寺別当に任じられています。頼光寺の寺伝には「2世 永覚阿闍梨の示寂後、平安~戦国時代には度重なる戦乱で寺勢は衰微した」とあることから、永覚阿闍梨は四天王寺別当を経て、乞われて頼光寺の住持になり、この寺院で入寂されたと推測できます。恐らく、出家前に源氏性を賜っていたことによる源氏繋がりかと思われます。派手な恋愛劇を演じたご両人の息子だからこそ、仏門の道を志し、密やかに生涯を送られたのかもしれません。
    余談ですが、こうした歴史を鑑みれば、頼光寺は和泉式部ファンにとっては聖地とも言えます。和泉式部と橘道貞の間に生まれた小式部内侍(こしきぶのないし)はよく知られていますが、岩蔵の宮のことはあまり知られていないようです。

  • 霊園手前のあいじさい苑 ブルースカイ<br />前編でも紹介しましたが、この寺にはブルースカイが沢山植えられてます。

    霊園手前のあいじさい苑 ブルースカイ
    前編でも紹介しましたが、この寺にはブルースカイが沢山植えられてます。

  • 霊園手前のあいじさい苑 ブルースカイ<br />頼光寺を開山した永寿阿闍梨については源頼光の4男ということしか判りません。<br />恐らく、開基の源賢僧都と同様にお家の事情で出家させられたのでしょう。<br />阿闍梨とは、弟子を教授し、その軌範となる師ですから、相当の地位のある僧侶です。<br />因みに、源満仲の4男 頼平の息子にも祇園別当 永寿阿闍梨がおり、同姓同名で混同されそうです。

    霊園手前のあいじさい苑 ブルースカイ
    頼光寺を開山した永寿阿闍梨については源頼光の4男ということしか判りません。
    恐らく、開基の源賢僧都と同様にお家の事情で出家させられたのでしょう。
    阿闍梨とは、弟子を教授し、その軌範となる師ですから、相当の地位のある僧侶です。
    因みに、源満仲の4男 頼平の息子にも祇園別当 永寿阿闍梨がおり、同姓同名で混同されそうです。

  • 霊園手前のあいじさい苑 ホタルブクロ<br />名の由来は、子どもたちがこの花の中にホタルを閉じ込め、家に持ち帰ったからとされます。大野林火を師と仰ぎ、闘病生活の中で培われた「生」へ執着した野澤節子の俳句に「おさなくて 蛍袋の 中に栖(す)む」がありますが、そんな遊びからの連想かもしれません。最近では、「火垂る袋」は元々提灯の古語であり、花の形が提灯に似ていることに因むという説が有力になっています。<br />花言葉は「忠実」「誠実」「正義」「貞節」。英名では「Spotted bellflower」と呼ばれ、その名は教会の鐘を連想させる花姿が由来だそうです。ホタルブクロの花姿が教会の鐘の形に似ている事からこれらの花言葉が付けられたそうです。

    霊園手前のあいじさい苑 ホタルブクロ
    名の由来は、子どもたちがこの花の中にホタルを閉じ込め、家に持ち帰ったからとされます。大野林火を師と仰ぎ、闘病生活の中で培われた「生」へ執着した野澤節子の俳句に「おさなくて 蛍袋の 中に栖(す)む」がありますが、そんな遊びからの連想かもしれません。最近では、「火垂る袋」は元々提灯の古語であり、花の形が提灯に似ていることに因むという説が有力になっています。
    花言葉は「忠実」「誠実」「正義」「貞節」。英名では「Spotted bellflower」と呼ばれ、その名は教会の鐘を連想させる花姿が由来だそうです。ホタルブクロの花姿が教会の鐘の形に似ている事からこれらの花言葉が付けられたそうです。

  • 霊園手前のあいじさい苑 <br />蒼天を衝く柏葉アジサイです。<br />江戸時代に頼光寺を中興した禅僧 万愚和尚は、美作安国寺の中興にもその名を連ねています。<br />足利尊氏が発願した美作安国寺は神戸村(現 兵庫県宍粟市)にありましたが、1607年に津山藩主 森忠政が津山に龍雲寺として移転して菩提寺と改名し、後に本源寺に改名してます。その後、明和7(1770)年に善福寺兼本源寺3代住職 万愚が作東町の善福寺を津山に移転し、安国寺の名を継いで中興したとされます。

    霊園手前のあいじさい苑
    蒼天を衝く柏葉アジサイです。
    江戸時代に頼光寺を中興した禅僧 万愚和尚は、美作安国寺の中興にもその名を連ねています。
    足利尊氏が発願した美作安国寺は神戸村(現 兵庫県宍粟市)にありましたが、1607年に津山藩主 森忠政が津山に龍雲寺として移転して菩提寺と改名し、後に本源寺に改名してます。その後、明和7(1770)年に善福寺兼本源寺3代住職 万愚が作東町の善福寺を津山に移転し、安国寺の名を継いで中興したとされます。

  • 霊園手前のあいじさい苑 <br />迷路のような散策路を寺標のある場所まで下ってきました。

    霊園手前のあいじさい苑
    迷路のような散策路を寺標のある場所まで下ってきました。

  • 霊園手前のあいじさい苑 ヒメクチナシ<br />アカネ科クチナシ属の常緑低木です。<br />白一色の楚々とした花を咲かせることから西洋では「天使が地上に降ってきた花」と称され、縁起のいい花として扱われています。しかし、日本では吉兆を伴う縁起が悪い花ともされています。それは、実が熟しても口が開かない姿から、音をあげない、まっすぐに黙々と努力する吉花とする一方、「クチナシ=くちがない」ということから、「嫁にもらうくちなし」とされ、女の子のいる家では疎まれてきました。<br />和名「クチナシ」の名の由来は、実が熟しても割れないことに因みます。また、ヘビは古来「クチナワ」と呼称され、ヘビしか食さない果実という意味から「クチナシ」に転訛したとも言われています。更には、花の萼が鳥の「嘴」に、果実は「梨」に似ていることから「口梨」となったとの説もあります。<br />ただし、最も信憑性が高いのは、和歌でクチナシの花は「口無し」と詠まれ、そこから転訛したとの説です。

    霊園手前のあいじさい苑 ヒメクチナシ
    アカネ科クチナシ属の常緑低木です。
    白一色の楚々とした花を咲かせることから西洋では「天使が地上に降ってきた花」と称され、縁起のいい花として扱われています。しかし、日本では吉兆を伴う縁起が悪い花ともされています。それは、実が熟しても口が開かない姿から、音をあげない、まっすぐに黙々と努力する吉花とする一方、「クチナシ=くちがない」ということから、「嫁にもらうくちなし」とされ、女の子のいる家では疎まれてきました。
    和名「クチナシ」の名の由来は、実が熟しても割れないことに因みます。また、ヘビは古来「クチナワ」と呼称され、ヘビしか食さない果実という意味から「クチナシ」に転訛したとも言われています。更には、花の萼が鳥の「嘴」に、果実は「梨」に似ていることから「口梨」となったとの説もあります。
    ただし、最も信憑性が高いのは、和歌でクチナシの花は「口無し」と詠まれ、そこから転訛したとの説です。

  • 霊園手前のあいじさい苑 ヒメクチナシ<br />花言葉は「とても幸せです」「優雅」「喜びを運ぶ」「洗練」。<br />米国では、初めてのダンスパーティーに女の子を誘う時にクチナシの花を贈るという習慣があります。これに因み、「I’m too happy !」という花言葉が付けられました。<br />「喜びを運ぶ」は、クチナシの花の甘い香りが風で運ばれてくることに因みます。<br />「優雅」「洗練」は、純白のクチナシの花の美しさに因みます。

    霊園手前のあいじさい苑 ヒメクチナシ
    花言葉は「とても幸せです」「優雅」「喜びを運ぶ」「洗練」。
    米国では、初めてのダンスパーティーに女の子を誘う時にクチナシの花を贈るという習慣があります。これに因み、「I’m too happy !」という花言葉が付けられました。
    「喜びを運ぶ」は、クチナシの花の甘い香りが風で運ばれてくることに因みます。
    「優雅」「洗練」は、純白のクチナシの花の美しさに因みます。

  • 頼光寺からの帰途、とある民家の大玉の西洋アジサイを撮りました。<br />一つの株のようですが、多様な色合いが見られます。

    頼光寺からの帰途、とある民家の大玉の西洋アジサイを撮りました。
    一つの株のようですが、多様な色合いが見られます。

  • とある民家のお庭からこぼれんばかりに咲くスモークツリーをパシャリ。<br /><br />最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。

    とある民家のお庭からこぼれんばかりに咲くスモークツリーをパシャリ。

    最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。

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