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コロナ禍と梅雨、物価高の三重苦のうっぷん晴らしのため、川西市東畦野にある頼光(らいこう)寺を訪ねてみました。別名「あじさい寺」と呼ばれ、梅雨時には約500株の色鮮やかなアジサイが境内全体を華麗に彩ります。北摂地区で「あじさい寺」と称される寺院の双璧をなし、寺院の真横をマルーンカラーの「能勢電」が疾走する姿は鎌倉の「江ノ電」沿いのアジサイ風景を彷彿とさせます。また、ここは北摂七福神(寿老人)のひとつでもあります。コロナ感染に配慮し、最近の旅行記は「近隣地区 再発見」といった趣向のテーマが続いていますが、懲りずにお付き合い願います。<br />川西市は多田庄を中心に清和天皇の皇子を祖とする「清和源氏の発祥の地」とされます。源氏所縁の遺構が随所に残されており、頼光寺もそのひとつです。 源満仲夫人 法如尼の発願により、その末子 源賢(げんけん)僧都(幼名 美女丸:源頼光の弟)によって開基された寺院です。本尊として祀る地蔵願王菩薩は法如尼の念持仏であったと伝わります。開基は長保年間とされ、西暦1000年前後、つまり紫式部が『源氏物語』を執筆してた時代とラップします。<br />因みに、お寺の名前に使われている「頼光」は源満仲の3男で清和源氏3代目に当たり、『今昔物語』や『宇治拾遺物語』、『御伽草子』に記された大江山の鬼退治(酒呑童子)や土蜘蛛退治で知られる人物です。母の一族の嵯峨源氏の渡辺綱を筆頭にした頼光四天王などの強者の家臣を率い、『平家物語』では精兵のひとりとして頼光の名が挙げられるなど屈強な武士の棟梁として描かれています。

問柳尋花 北摂川西<前編>祥雲山 頼光寺

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2022/06/20 - 2022/06/20

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

コロナ禍と梅雨、物価高の三重苦のうっぷん晴らしのため、川西市東畦野にある頼光(らいこう)寺を訪ねてみました。別名「あじさい寺」と呼ばれ、梅雨時には約500株の色鮮やかなアジサイが境内全体を華麗に彩ります。北摂地区で「あじさい寺」と称される寺院の双璧をなし、寺院の真横をマルーンカラーの「能勢電」が疾走する姿は鎌倉の「江ノ電」沿いのアジサイ風景を彷彿とさせます。また、ここは北摂七福神(寿老人)のひとつでもあります。コロナ感染に配慮し、最近の旅行記は「近隣地区 再発見」といった趣向のテーマが続いていますが、懲りずにお付き合い願います。
川西市は多田庄を中心に清和天皇の皇子を祖とする「清和源氏の発祥の地」とされます。源氏所縁の遺構が随所に残されており、頼光寺もそのひとつです。 源満仲夫人 法如尼の発願により、その末子 源賢(げんけん)僧都(幼名 美女丸:源頼光の弟)によって開基された寺院です。本尊として祀る地蔵願王菩薩は法如尼の念持仏であったと伝わります。開基は長保年間とされ、西暦1000年前後、つまり紫式部が『源氏物語』を執筆してた時代とラップします。
因みに、お寺の名前に使われている「頼光」は源満仲の3男で清和源氏3代目に当たり、『今昔物語』や『宇治拾遺物語』、『御伽草子』に記された大江山の鬼退治(酒呑童子)や土蜘蛛退治で知られる人物です。母の一族の嵯峨源氏の渡辺綱を筆頭にした頼光四天王などの強者の家臣を率い、『平家物語』では精兵のひとりとして頼光の名が挙げられるなど屈強な武士の棟梁として描かれています。

旅行の満足度
5.0

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  • 能勢電鉄妙見線「畦野駅」<br />アクセスに公共交通機関を利用される場合は、能勢電鉄妙見線「畦野駅」が最寄り駅となります。<br />こちらは駅の東口です。

    能勢電鉄妙見線「畦野駅」
    アクセスに公共交通機関を利用される場合は、能勢電鉄妙見線「畦野駅」が最寄り駅となります。
    こちらは駅の東口です。

  • 能勢電鉄妙見線「畦野駅」<br />駅舎の入口にツバメが巣を作っており、ひな鳥が数羽頭を覗かせています。

    能勢電鉄妙見線「畦野駅」
    駅舎の入口にツバメが巣を作っており、ひな鳥が数羽頭を覗かせています。

  • 能勢電鉄妙見線「畦野駅」<br />少し引いて見たところです。<br />このように線路を跨いで東口と西口に分かれています。

    能勢電鉄妙見線「畦野駅」
    少し引いて見たところです。
    このように線路を跨いで東口と西口に分かれています。

  • 能勢電鉄妙見線「畦野駅」大和(だいわ)バス<br />畦野駅を起点に15分で大和団地内を1周する、大和自治会が運営する市内循環コミュニティバスです。バスにラッピングされている「きんたくん=金太郎(坂田金時の幼名)」は川西市のキャラクター。その墓が市内にあるなど深い所縁があります。また、竜胆(りんどう)は市花となっています。<br />大和団地は1966~76年に宅地開発され、当初は入居者層も若く、 団地内へのバス路線開設には反対だったそうです。しかし、30年程経ち、高齢化が進んだことで川西市へ団地内へのバス路線設置の要望が出されたそうです。そんな経緯で大和バスは1999年に開設されました。<br />コミュニティバス運行への住民参加は自治会を通して行われましたが、住民参加により最も効果が得られたのはバス停位置の問題の解決だったそうです。バス運行には賛成でも、バス停が自宅前となると環境悪化を懸念する住民も少なくなかったようです。こうなるとバス停が思う所に設置できず、利便の提供が困難になることは想像に難くありません。<br />大和団地でも31ヶ所のうち 2ヶ所しか当初は賛成が得られなかったようです。そこで、自治会役員が市職員に同行し、近隣住民へ説得を行ったそうです。その際、高齢化に伴うバス運行のあるべき姿と細街路を循環する必要性を説いたことが奏功し、賛成に転じた住民が多かったようです。<br />現在の収支率は80%あり、当初の予測の半分の補助金で運行できているようです。人件費圧縮に伴う効果もありますが、団地内でのきめ細かな路線配置や病院入口にバス停を設置できたことなどが特筆されます。

    能勢電鉄妙見線「畦野駅」大和(だいわ)バス
    畦野駅を起点に15分で大和団地内を1周する、大和自治会が運営する市内循環コミュニティバスです。バスにラッピングされている「きんたくん=金太郎(坂田金時の幼名)」は川西市のキャラクター。その墓が市内にあるなど深い所縁があります。また、竜胆(りんどう)は市花となっています。
    大和団地は1966~76年に宅地開発され、当初は入居者層も若く、 団地内へのバス路線開設には反対だったそうです。しかし、30年程経ち、高齢化が進んだことで川西市へ団地内へのバス路線設置の要望が出されたそうです。そんな経緯で大和バスは1999年に開設されました。
    コミュニティバス運行への住民参加は自治会を通して行われましたが、住民参加により最も効果が得られたのはバス停位置の問題の解決だったそうです。バス運行には賛成でも、バス停が自宅前となると環境悪化を懸念する住民も少なくなかったようです。こうなるとバス停が思う所に設置できず、利便の提供が困難になることは想像に難くありません。
    大和団地でも31ヶ所のうち 2ヶ所しか当初は賛成が得られなかったようです。そこで、自治会役員が市職員に同行し、近隣住民へ説得を行ったそうです。その際、高齢化に伴うバス運行のあるべき姿と細街路を循環する必要性を説いたことが奏功し、賛成に転じた住民が多かったようです。
    現在の収支率は80%あり、当初の予測の半分の補助金で運行できているようです。人件費圧縮に伴う効果もありますが、団地内でのきめ細かな路線配置や病院入口にバス停を設置できたことなどが特筆されます。

  • 能勢電鉄妙見線「畦野駅」<br />駅から徒歩で頼光寺へ向かうには西口から出ます。<br />線路を境に段丘のような地形になっており、西口はこのように階段で下ることになります。

    能勢電鉄妙見線「畦野駅」
    駅から徒歩で頼光寺へ向かうには西口から出ます。
    線路を境に段丘のような地形になっており、西口はこのように階段で下ることになります。

  • 頼光寺は国道173号線から住宅地へ入ってすぐの所にあります。畦野駅から徒歩5分強の距離です。<br />能勢電鉄妙見線の線路の東側にある寺院ですが、畦野駅からの道順は西口から出て線路に沿って歩き、線路の地下道を潜って東側に出るというややこしい迂回路になっています。<br />ただし、電柱などの案内板がありますので迷うことはありません。

    頼光寺は国道173号線から住宅地へ入ってすぐの所にあります。畦野駅から徒歩5分強の距離です。
    能勢電鉄妙見線の線路の東側にある寺院ですが、畦野駅からの道順は西口から出て線路に沿って歩き、線路の地下道を潜って東側に出るというややこしい迂回路になっています。
    ただし、電柱などの案内板がありますので迷うことはありません。

  • この狭い地下道を潜った先が頼光寺の正式な入口になります。山門らしきものはなく、線路の地下道が山門の代わりということでしょうか?<br />参詣者用パーキングはこの左手にあり、無料です。拝観が無料なら、パーキングも無料と太っ腹な寺院です。せめてアジサイの季節だけでも有料にしても良さそうなものですが、それでもやっていけるのは檀家さんが沢山おられることの証左でしょう。

    この狭い地下道を潜った先が頼光寺の正式な入口になります。山門らしきものはなく、線路の地下道が山門の代わりということでしょうか?
    参詣者用パーキングはこの左手にあり、無料です。拝観が無料なら、パーキングも無料と太っ腹な寺院です。せめてアジサイの季節だけでも有料にしても良さそうなものですが、それでもやっていけるのは檀家さんが沢山おられることの証左でしょう。

  • 石段<br />能勢電妙見線が行き交う線路の地下道を潜り抜けて左折すると、両脇からブルーのあじさいが顔をもたげている趣のある石段が待ち構えており、鎌倉にある明月院の石段を彷彿とさせます。<br />寺標を右手に見ながら階段を上って行きます。

    石段
    能勢電妙見線が行き交う線路の地下道を潜り抜けて左折すると、両脇からブルーのあじさいが顔をもたげている趣のある石段が待ち構えており、鎌倉にある明月院の石段を彷彿とさせます。
    寺標を右手に見ながら階段を上って行きます。

  • 寺標<br />祥雲山 頼光寺は、一條天皇の長保年間、多田庄の領主 源満仲(みつなか)の夫人 法如尼の発願により、満仲の末子 源賢僧都(幼名:美女丸)を開基、源頼光4男 永寿阿闍梨を開山として創立されました。<br />本尊には法如尼の念持仏であった地蔵願王菩薩を祀ります。同時に頼光の神儀及び霊像を安置して冥福を祈る香華院として祥雲山と号し、真言律宗に属しました。

    寺標
    祥雲山 頼光寺は、一條天皇の長保年間、多田庄の領主 源満仲(みつなか)の夫人 法如尼の発願により、満仲の末子 源賢僧都(幼名:美女丸)を開基、源頼光4男 永寿阿闍梨を開山として創立されました。
    本尊には法如尼の念持仏であった地蔵願王菩薩を祀ります。同時に頼光の神儀及び霊像を安置して冥福を祈る香華院として祥雲山と号し、真言律宗に属しました。

  • 本堂<br />本堂に向かう参道の両脇には沢山の睡蓮鉢が置かれ、拝観に訪れる人たちを出迎えてくれます。蓮は花茎をまっすぐに伸ばして蕾を付けていましたが、梅雨明けの頃には可憐で美しい花を咲かせていることでしょう。<br />本堂には本尊 地蔵願王菩薩像や妖怪退治伝説で知られた源頼光神像、北摂七福神 寿老人像を安置しています。引き戸は閉められていますが、自由に内陣に入って間近で拝観できます。

    本堂
    本堂に向かう参道の両脇には沢山の睡蓮鉢が置かれ、拝観に訪れる人たちを出迎えてくれます。蓮は花茎をまっすぐに伸ばして蕾を付けていましたが、梅雨明けの頃には可憐で美しい花を咲かせていることでしょう。
    本堂には本尊 地蔵願王菩薩像や妖怪退治伝説で知られた源頼光神像、北摂七福神 寿老人像を安置しています。引き戸は閉められていますが、自由に内陣に入って間近で拝観できます。

  • 本堂<br />源頼朝や義経などの祖先である源満仲は、由緒ある清和源氏の嫡男であり、多田庄を拠点としていました。近隣にある多田神社では満仲がご祭神ですが、頼光寺はその満仲の末子 源賢僧都によって開基された寺院でもあり、香炉や賽銭箱には金色に輝く清和源氏の家紋「笹竜胆(ささりんどう)」が見られます。<br />「頼光寺」という寺名なのですが、源頼光は関与していません。では、何故「頼光」の名を冠した寺名になったのでしょうか?<br />開基したのは法如尼の末子 源賢僧都(源頼光の弟)、開山は法如尼の孫 永寿(源頼光の4男)であり、いずれも武勇の誉れ高く摂津源氏の祖になった源頼光の血族です。それ故に往時より寺には源頼光像が祀られており、これが今日の寺名「頼光」になった理由のようです。つまり、元々は多田源氏の氏寺的存在だったと思われます。創建時とは寺名や宗旨は変遷していますが、現在も本尊は創建時と同じく地蔵願王菩薩であり、堂内には頼光像が安置されています。<br />因みに、頼光寺は多田神社の神宮寺という扱いではないそうですが、清和源氏所縁の寺であってもなんら不思議ではありません。

    本堂
    源頼朝や義経などの祖先である源満仲は、由緒ある清和源氏の嫡男であり、多田庄を拠点としていました。近隣にある多田神社では満仲がご祭神ですが、頼光寺はその満仲の末子 源賢僧都によって開基された寺院でもあり、香炉や賽銭箱には金色に輝く清和源氏の家紋「笹竜胆(ささりんどう)」が見られます。
    「頼光寺」という寺名なのですが、源頼光は関与していません。では、何故「頼光」の名を冠した寺名になったのでしょうか?
    開基したのは法如尼の末子 源賢僧都(源頼光の弟)、開山は法如尼の孫 永寿(源頼光の4男)であり、いずれも武勇の誉れ高く摂津源氏の祖になった源頼光の血族です。それ故に往時より寺には源頼光像が祀られており、これが今日の寺名「頼光」になった理由のようです。つまり、元々は多田源氏の氏寺的存在だったと思われます。創建時とは寺名や宗旨は変遷していますが、現在も本尊は創建時と同じく地蔵願王菩薩であり、堂内には頼光像が安置されています。
    因みに、頼光寺は多田神社の神宮寺という扱いではないそうですが、清和源氏所縁の寺であってもなんら不思議ではありません。

  • 石燈籠<br />石燈籠にも寺紋「笹竜胆」が浮き彫りにされています。<br />2世 永覚阿闍梨の示寂後、平安~戦国時代には度重なる戦乱で寺勢は衰微しましたが、江戸時代の寛文11(1671)年に禅僧 万愚和尚が中興しました。更に、延享3(1746)年に丹波国の臨済宗妙心寺派 法常寺の末寺となり、法常寺住持だった実相無相禅師を迎え入れて中興の祖に請しました。<br />その後、文化元(1804)~明治8(1875)年までは尼寺でした。尚、天保11(1840)年には10世 普照恵燈禅師が弟子の尼衆の坐禅道場とし、尼衆の中から俊英の者を選んで住持相続させたと伝えます。<br />明治の廃仏毀釈の影響で明治8(1875)年に本寺 法常寺と合併しましたが、建物や本尊などはそのまま引き継がれました。<br />1990年に曹洞宗に改宗し現在に至ります。

    石燈籠
    石燈籠にも寺紋「笹竜胆」が浮き彫りにされています。
    2世 永覚阿闍梨の示寂後、平安~戦国時代には度重なる戦乱で寺勢は衰微しましたが、江戸時代の寛文11(1671)年に禅僧 万愚和尚が中興しました。更に、延享3(1746)年に丹波国の臨済宗妙心寺派 法常寺の末寺となり、法常寺住持だった実相無相禅師を迎え入れて中興の祖に請しました。
    その後、文化元(1804)~明治8(1875)年までは尼寺でした。尚、天保11(1840)年には10世 普照恵燈禅師が弟子の尼衆の坐禅道場とし、尼衆の中から俊英の者を選んで住持相続させたと伝えます。
    明治の廃仏毀釈の影響で明治8(1875)年に本寺 法常寺と合併しましたが、建物や本尊などはそのまま引き継がれました。
    1990年に曹洞宗に改宗し現在に至ります。

  • 本堂<br />手挟みの彫刻なども趣を湛えています。<br />頼光寺は僧 源賢(幼名 美女丸)が開基した寺院です。その源賢のエピソードを謡曲『満中』から抜粋して紹介しておきます。                   <br />多田源氏の大将 源満仲の末子 美女丸は、素行が悪く、人を困らせては喜んでいました。それを見かねた満中は、僧侶にしようと中山寺の善観和尚へ預けました。しかし、若宮は修行を怠り、お経も読まず、学問にも励まず、武芸にばかり心を入れていました。<br />時が経ち、満仲は15才になった若宮を呼び寄せ、修行の様子を尋ねました。しかしお経すら満足に読めず、満仲は怒り心頭に達し、その場で手打ちにしようとしました。その時、すがりついて諫めたのが家臣 藤原仲光でした。満仲は仲光に若宮を討てと命じ、その場を立ち去りました。しかし、仲光は主君の子を斬ることがでず、我が子である幸寿丸からの申し出もあり、断腸の思いで身代わりに斬首し、若宮を密かに比叡山へ匿いました。<br />その後、比叡山の恵心僧都は、美女丸を伴って満仲の館を訪ね、幸寿丸が身代わりになったことを明かし、美女丸の贖罪を請いました。満仲も心解けて酒宴を催せば、仲光も喜んで舞いながらも我が子の姿がそこにないのを悲しむのでした。<br />この後、美女丸は再び出家して悔い改め、修行に励んで名僧 源賢僧都となり、幸寿丸の菩提を弔うため小童寺を建立しました。

    本堂
    手挟みの彫刻なども趣を湛えています。
    頼光寺は僧 源賢(幼名 美女丸)が開基した寺院です。その源賢のエピソードを謡曲『満中』から抜粋して紹介しておきます。                   
    多田源氏の大将 源満仲の末子 美女丸は、素行が悪く、人を困らせては喜んでいました。それを見かねた満中は、僧侶にしようと中山寺の善観和尚へ預けました。しかし、若宮は修行を怠り、お経も読まず、学問にも励まず、武芸にばかり心を入れていました。
    時が経ち、満仲は15才になった若宮を呼び寄せ、修行の様子を尋ねました。しかしお経すら満足に読めず、満仲は怒り心頭に達し、その場で手打ちにしようとしました。その時、すがりついて諫めたのが家臣 藤原仲光でした。満仲は仲光に若宮を討てと命じ、その場を立ち去りました。しかし、仲光は主君の子を斬ることがでず、我が子である幸寿丸からの申し出もあり、断腸の思いで身代わりに斬首し、若宮を密かに比叡山へ匿いました。
    その後、比叡山の恵心僧都は、美女丸を伴って満仲の館を訪ね、幸寿丸が身代わりになったことを明かし、美女丸の贖罪を請いました。満仲も心解けて酒宴を催せば、仲光も喜んで舞いながらも我が子の姿がそこにないのを悲しむのでした。
    この後、美女丸は再び出家して悔い改め、修行に励んで名僧 源賢僧都となり、幸寿丸の菩提を弔うため小童寺を建立しました。

  • 枯山水の庭<br />禅宗の寺院らしく前庭の一画には枯山水の庭が造営されています。<br />謡曲『満仲』は幸若舞という曲舞『満仲(まんじゅう)』を基にしたとされます。それ以前に「美女丸伝説」があり、これが幸若舞に脚色され、更に能に取り入れられたという流れのようです。「美女丸伝説」では、多田(源)満仲の末子 美女丸が、幸寿が自分の身替わりとなって斬首されたことを知って悔い改め、比叡山で源信僧都の下で修行し源賢阿闍梨という高僧になったと伝えます。<br />源賢は実在の人物ですが、幸若舞では円覚という名の僧になっています。満願寺の寺伝では視力を回復した源賢の母が満願寺に円覚院を建立したとしており、これと関係があるのかも知れません。<br />また謡曲と同様に幸若舞でも、美女丸が落ち逃れた先で師と仰いだのは恵心僧都とされますが、恵心僧都は源信の尊称です。また、幸若舞では、円覚を伴って満仲のもとにやって来た恵心僧都は、何の事情も告げず、弟子の円覚を残して山に戻り、円覚自身が満仲に素性を明かすという話になっています。更には、美女丸の母が視力を失い、円覚の祈願により回復した話も幸若舞に含まれています。

    枯山水の庭
    禅宗の寺院らしく前庭の一画には枯山水の庭が造営されています。
    謡曲『満仲』は幸若舞という曲舞『満仲(まんじゅう)』を基にしたとされます。それ以前に「美女丸伝説」があり、これが幸若舞に脚色され、更に能に取り入れられたという流れのようです。「美女丸伝説」では、多田(源)満仲の末子 美女丸が、幸寿が自分の身替わりとなって斬首されたことを知って悔い改め、比叡山で源信僧都の下で修行し源賢阿闍梨という高僧になったと伝えます。
    源賢は実在の人物ですが、幸若舞では円覚という名の僧になっています。満願寺の寺伝では視力を回復した源賢の母が満願寺に円覚院を建立したとしており、これと関係があるのかも知れません。
    また謡曲と同様に幸若舞でも、美女丸が落ち逃れた先で師と仰いだのは恵心僧都とされますが、恵心僧都は源信の尊称です。また、幸若舞では、円覚を伴って満仲のもとにやって来た恵心僧都は、何の事情も告げず、弟子の円覚を残して山に戻り、円覚自身が満仲に素性を明かすという話になっています。更には、美女丸の母が視力を失い、円覚の祈願により回復した話も幸若舞に含まれています。

  • 石燈籠が並ぶ参道<br />江戸時代に起こった築山殿&松平信康 母子殺害事件については、「誰が」「何のために」起こしたのか諸説紛々です。しかし、ここにも幸若舞『満仲(まんじゅう)』が絡んできます。<br />徳川家老 酒井忠次は、織田信長から安土城に呼び出され、「嫌疑十二条」を示されても弁明すらせず、その内の十条を認めました。家康は、やむを得ず二股城主 大久保忠世に嫡男 信康の監視を命じ幽閉させます。信康は、自らの無実を大久保に改めて強く主張するも、結局、服部正成の介錯にて21歳で自刃しました。<br />この時、信康の守役 平岩親吉が徳川家康の所へ駆け付け、「信康は武田家と通じておらず、通じていたとしても私のせいですから、私の首を信長に差し出すことで信康を助命してください」と願い出たそうです。しかし、家康は「信長には逆らえない。信康は無実であるが、この乱世では信長の力が必要で、我が子の命を重んじて徳川家を潰したら先祖に笑われる」と泣きながら断ったようです。<br />後年、家康が家臣たちと共に幸若舞『満仲』を観賞した際、「源満仲が息子である美女丸の殺害を家臣 藤原仲光に命じた折、仲光は主君である満仲の心境を察し、我が子 幸寿丸の首を斬り、その首を美女丸の身代わりにして満仲に差し出す」場面になると、家康は落涙し、後の席で鑑賞中の酒井忠次と大久保忠世を振り返り、「2人ともあれを見よ。あれをどう思うぞ」と叫び、両者を睨み付けたそうです。両者共に身を震わせ、暫く顔を上げられなかったと伝えます。<br />もし、『満仲』を観賞したのが信康自刃の前だったら、歴史は大きく変わっていたのかもしれません。

    石燈籠が並ぶ参道
    江戸時代に起こった築山殿&松平信康 母子殺害事件については、「誰が」「何のために」起こしたのか諸説紛々です。しかし、ここにも幸若舞『満仲(まんじゅう)』が絡んできます。
    徳川家老 酒井忠次は、織田信長から安土城に呼び出され、「嫌疑十二条」を示されても弁明すらせず、その内の十条を認めました。家康は、やむを得ず二股城主 大久保忠世に嫡男 信康の監視を命じ幽閉させます。信康は、自らの無実を大久保に改めて強く主張するも、結局、服部正成の介錯にて21歳で自刃しました。
    この時、信康の守役 平岩親吉が徳川家康の所へ駆け付け、「信康は武田家と通じておらず、通じていたとしても私のせいですから、私の首を信長に差し出すことで信康を助命してください」と願い出たそうです。しかし、家康は「信長には逆らえない。信康は無実であるが、この乱世では信長の力が必要で、我が子の命を重んじて徳川家を潰したら先祖に笑われる」と泣きながら断ったようです。
    後年、家康が家臣たちと共に幸若舞『満仲』を観賞した際、「源満仲が息子である美女丸の殺害を家臣 藤原仲光に命じた折、仲光は主君である満仲の心境を察し、我が子 幸寿丸の首を斬り、その首を美女丸の身代わりにして満仲に差し出す」場面になると、家康は落涙し、後の席で鑑賞中の酒井忠次と大久保忠世を振り返り、「2人ともあれを見よ。あれをどう思うぞ」と叫び、両者を睨み付けたそうです。両者共に身を震わせ、暫く顔を上げられなかったと伝えます。
    もし、『満仲』を観賞したのが信康自刃の前だったら、歴史は大きく変わっていたのかもしれません。

  • 本堂<br />源満仲は、平安時代中期の藤原氏が栄華を極めた時代の武将です。満仲の名が史料上に初見されるのは天徳4(960)年のことで、『扶桑略記』に記されています。延期12(912)年の生まれであり、48歳という遅咲きで歴史の表舞台に立ったようです。<br />摂津国多田庄に住んだことから、多田満仲とも称されます。父は清和天皇の孫 源経基(経基王)、母は橘繁古の娘(もしくは藤原敏有の娘)です。武官貴族の身ながら藤原北家の駒となり、仏教で罪深いとされる「殺生」を繰り返す道を選び、その恩賞として勢力を拡大しました。やがて安和の変で源高明を失脚させて花山天皇退位事件にも関わるなど、藤原摂関家と密着して政治力を発揮して摂津国や越後国など5ヶ国の受領を歴任すると摂津国多田盆地に土着し、多田庄で武士団を形成しました。自ら手を汚したくない殿上人に代わって「業」を背負い、その代償として実利を得る道を選択した黎明期の武士を代表する人物です。

    本堂
    源満仲は、平安時代中期の藤原氏が栄華を極めた時代の武将です。満仲の名が史料上に初見されるのは天徳4(960)年のことで、『扶桑略記』に記されています。延期12(912)年の生まれであり、48歳という遅咲きで歴史の表舞台に立ったようです。
    摂津国多田庄に住んだことから、多田満仲とも称されます。父は清和天皇の孫 源経基(経基王)、母は橘繁古の娘(もしくは藤原敏有の娘)です。武官貴族の身ながら藤原北家の駒となり、仏教で罪深いとされる「殺生」を繰り返す道を選び、その恩賞として勢力を拡大しました。やがて安和の変で源高明を失脚させて花山天皇退位事件にも関わるなど、藤原摂関家と密着して政治力を発揮して摂津国や越後国など5ヶ国の受領を歴任すると摂津国多田盆地に土着し、多田庄で武士団を形成しました。自ら手を汚したくない殿上人に代わって「業」を背負い、その代償として実利を得る道を選択した黎明期の武士を代表する人物です。

  • 枯山水の庭<br />満仲の妻には源俊の娘、藤原致忠の娘、藤原元方の娘などがおり、子には摂津源氏の祖 源頼光、大和源氏の祖 源頼親、河内源氏の租 源頼信の他、僧 源賢などがいます。因みに、西国の平氏を打ち破って鎌倉幕府を成立させた源頼朝は河内源氏の末裔です。<br />永延元(987)年、満仲は多田庄の邸宅において郎党16人及び女房30余人と共に出家して「満慶」と称し、多田新発意(しんぼち)と称されました。この出家について、藤原実資は日記『小右記』に「殺生放逸の者が菩薩心を起こして出家した」と記しています。また『今昔物語集』には、満仲の末子で延暦寺の僧となっていた源賢が父の殺生を悲しみ、天台座主 源信と共に仏法を説き出家させたという説話があります。長徳3(997)年、清和源氏の発展に身を捧げた満仲は87歳の天寿を全うしました。

    枯山水の庭
    満仲の妻には源俊の娘、藤原致忠の娘、藤原元方の娘などがおり、子には摂津源氏の祖 源頼光、大和源氏の祖 源頼親、河内源氏の租 源頼信の他、僧 源賢などがいます。因みに、西国の平氏を打ち破って鎌倉幕府を成立させた源頼朝は河内源氏の末裔です。
    永延元(987)年、満仲は多田庄の邸宅において郎党16人及び女房30余人と共に出家して「満慶」と称し、多田新発意(しんぼち)と称されました。この出家について、藤原実資は日記『小右記』に「殺生放逸の者が菩薩心を起こして出家した」と記しています。また『今昔物語集』には、満仲の末子で延暦寺の僧となっていた源賢が父の殺生を悲しみ、天台座主 源信と共に仏法を説き出家させたという説話があります。長徳3(997)年、清和源氏の発展に身を捧げた満仲は87歳の天寿を全うしました。

  • 枯山水の庭<br />禅寺の定番「吾唯足知(吾唯足るを知る)」の蹲もあります。<br />龍安寺から広まった「不満を感じず満ち足りた気持ちを持つことが大事だ」といった意味が込められた言葉です。<br />滋賀県大津市 湖西仰木の里には多くの伝説が今に伝えられており、その核となるのが源満仲の伝説『御所の山と源満仲』です。<br />仰木の町に「御所の山」と呼ばれる場所があり、清和天皇の子孫が武官貴族となり武士団の棟梁となった源満仲が暮らしていたと伝わります。満仲は、晩年の一時期、浄土思想の基礎を築いた恵心僧都 源信を頼って摂津多田から比叡山横川の麓にある仰木に移り住み、源信に帰依し、自らも出家したと言います。その後、十余年を仰木で暮らし、最晩年に摂津多田へ戻りました。その時、仰木の里人は大いに悲しんだと伝えられ、毎年5月3日に行われる「仰木祭」では「駒止め」という行事が催行されます。3~4人の男たちが肩を組み、馬を走らせようとする満仲の行く手を阻む動作を繰り返します。これは、多田へ帰る満仲を引き留める姿を表すと言われています。<br />満仲は、仰木の村人にとり、武士の棟梁というだけでなく、清和天皇の血が流れたいわゆる神様のような存在であったと想像できます。満仲と横川の僧 源信との間に親交があったことは『今昔物語』に語られており、源信と満仲が仰木で出会っていても何ら不思議はありません。しかし、仰木に暮らしていたことは何処にも記録が残されていないそうです。

    枯山水の庭
    禅寺の定番「吾唯足知(吾唯足るを知る)」の蹲もあります。
    龍安寺から広まった「不満を感じず満ち足りた気持ちを持つことが大事だ」といった意味が込められた言葉です。
    滋賀県大津市 湖西仰木の里には多くの伝説が今に伝えられており、その核となるのが源満仲の伝説『御所の山と源満仲』です。
    仰木の町に「御所の山」と呼ばれる場所があり、清和天皇の子孫が武官貴族となり武士団の棟梁となった源満仲が暮らしていたと伝わります。満仲は、晩年の一時期、浄土思想の基礎を築いた恵心僧都 源信を頼って摂津多田から比叡山横川の麓にある仰木に移り住み、源信に帰依し、自らも出家したと言います。その後、十余年を仰木で暮らし、最晩年に摂津多田へ戻りました。その時、仰木の里人は大いに悲しんだと伝えられ、毎年5月3日に行われる「仰木祭」では「駒止め」という行事が催行されます。3~4人の男たちが肩を組み、馬を走らせようとする満仲の行く手を阻む動作を繰り返します。これは、多田へ帰る満仲を引き留める姿を表すと言われています。
    満仲は、仰木の村人にとり、武士の棟梁というだけでなく、清和天皇の血が流れたいわゆる神様のような存在であったと想像できます。満仲と横川の僧 源信との間に親交があったことは『今昔物語』に語られており、源信と満仲が仰木で出会っていても何ら不思議はありません。しかし、仰木に暮らしていたことは何処にも記録が残されていないそうです。

  • 庫裡<br />庫裡の前には枝ぶりの良い松が植えられています。また、庫裡の玄関にあるインターホンを押せば、書置きの日付のない御朱印を授与していただけます。<br />満仲の嫡男であり、頼光寺を開基した僧 源賢の兄でもある源頼光は『今昔物語』や『御伽草子』に酒呑童子や土蜘蛛退治の英雄として華々しく語り継がれた豪傑です。また、頼光四天王(渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、卜部季武)の主君でもあります。<br />酒呑童子と対峙した際には、自ら名刀「童子切安綱(どうじぎりやすつな)」を手に戦い、斬った首が頼光の兜にかぶりついたとのおぞましい逸話まで語り継がれています。<br />また、土蜘蛛退治でも名刀「膝丸」で切り付けるなど、いずれも愛刀を手に活躍している点を特徴的に物語っています。しかし、穿った見方をすれば、それは武勇に優れた武人としての華々しさを際立たせるための一種の過剰な演出とも勘ぐれます。ともあれ、伝説の中の頼光像は、勇壮な武人そのものとして語られています。

    庫裡
    庫裡の前には枝ぶりの良い松が植えられています。また、庫裡の玄関にあるインターホンを押せば、書置きの日付のない御朱印を授与していただけます。
    満仲の嫡男であり、頼光寺を開基した僧 源賢の兄でもある源頼光は『今昔物語』や『御伽草子』に酒呑童子や土蜘蛛退治の英雄として華々しく語り継がれた豪傑です。また、頼光四天王(渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、卜部季武)の主君でもあります。
    酒呑童子と対峙した際には、自ら名刀「童子切安綱(どうじぎりやすつな)」を手に戦い、斬った首が頼光の兜にかぶりついたとのおぞましい逸話まで語り継がれています。
    また、土蜘蛛退治でも名刀「膝丸」で切り付けるなど、いずれも愛刀を手に活躍している点を特徴的に物語っています。しかし、穿った見方をすれば、それは武勇に優れた武人としての華々しさを際立たせるための一種の過剰な演出とも勘ぐれます。ともあれ、伝説の中の頼光像は、勇壮な武人そのものとして語られています。

  • 庫裡<br />一方、史実としての源頼光を探ってみると、実のところ、「勇壮な武人」と言うイメージとは程遠い意外な一面が浮き上がってきます。<br />頼光は、清和天皇の孫でありながらも源姓を賜与された、臣籍降下を命じられた経基から数えて3代目に当たる清和源氏の嫡流です。名門氏族の嫡男として生を受けた頼光が臣従したのが、藤原摂関家の頂点に君臨する道長でした。頼光は、正四位下に昇進し昇殿を許される殿上人の地位を得ただけでなく、「朝家の守護」と称されるほどの信任ぶりだったようです。<br />これら一連の動向から察せられるように、実際は権力者に媚びを売り、財力にものを言わせて官職を得る「世渡り上手で目端の利く人物」だったようです。また、文人としても才能を発揮し、『拾遺和歌集』などの勅撰和歌集に3首の和歌が収録されるという多才ぶりです。<br />その反面、勇敢な豪傑とは言い難い人物であり、武人としての華々しい活躍ぶりなどとは無縁だったようです。「官吏としては有能でも、武人としては今ひとつ」。これが頼光の実像のようです。

    庫裡
    一方、史実としての源頼光を探ってみると、実のところ、「勇壮な武人」と言うイメージとは程遠い意外な一面が浮き上がってきます。
    頼光は、清和天皇の孫でありながらも源姓を賜与された、臣籍降下を命じられた経基から数えて3代目に当たる清和源氏の嫡流です。名門氏族の嫡男として生を受けた頼光が臣従したのが、藤原摂関家の頂点に君臨する道長でした。頼光は、正四位下に昇進し昇殿を許される殿上人の地位を得ただけでなく、「朝家の守護」と称されるほどの信任ぶりだったようです。
    これら一連の動向から察せられるように、実際は権力者に媚びを売り、財力にものを言わせて官職を得る「世渡り上手で目端の利く人物」だったようです。また、文人としても才能を発揮し、『拾遺和歌集』などの勅撰和歌集に3首の和歌が収録されるという多才ぶりです。
    その反面、勇敢な豪傑とは言い難い人物であり、武人としての華々しい活躍ぶりなどとは無縁だったようです。「官吏としては有能でも、武人としては今ひとつ」。これが頼光の実像のようです。

  • 庫裡<br />松の根元には杉苔が生えています。<br />では、何故、武人としての活躍の記録がない源頼光が、鬼や妖怪退治の中心人物として華々しく語り継がれてきたのでしょうか? その鍵を握るのが、母方の一族 嵯峨源氏の渡辺綱を筆頭とする頼光四天王と称された名将たちの存在でした。<br />剛勇で知られた渡辺綱や三浦氏の祖 平忠通の父 碓井貞光(平貞光)、征夷大将軍 坂上田村麻呂の子孫 卜部季武(坂上季猛)らが、史実として地方に跋扈する夷族討伐を成し遂げたことが理由に挙げられます。<br />臣下たちが活躍した舞台のひとつが、摂津大江山(丹後半島)への出兵でした。大江山夷族なるものの正体は不祥ですが、『今昔物語集』に大江山の盗賊の話が記されていることから、盗賊団のようなものと考えられます。しかし腑に落ちないのは、先住民討伐の逸話は頼光の時代から数百年も前の出来事であることです。

    庫裡
    松の根元には杉苔が生えています。
    では、何故、武人としての活躍の記録がない源頼光が、鬼や妖怪退治の中心人物として華々しく語り継がれてきたのでしょうか? その鍵を握るのが、母方の一族 嵯峨源氏の渡辺綱を筆頭とする頼光四天王と称された名将たちの存在でした。
    剛勇で知られた渡辺綱や三浦氏の祖 平忠通の父 碓井貞光(平貞光)、征夷大将軍 坂上田村麻呂の子孫 卜部季武(坂上季猛)らが、史実として地方に跋扈する夷族討伐を成し遂げたことが理由に挙げられます。
    臣下たちが活躍した舞台のひとつが、摂津大江山(丹後半島)への出兵でした。大江山夷族なるものの正体は不祥ですが、『今昔物語集』に大江山の盗賊の話が記されていることから、盗賊団のようなものと考えられます。しかし腑に落ちないのは、先住民討伐の逸話は頼光の時代から数百年も前の出来事であることです。

  • 庫裡<br />元々大江山周辺は先住民 陸耳御笠(くがのみみかさ)が暮らす地でした。渡来系海人族と思しき一大勢力を、朝廷の主体であった東夷系天孫族が征服した逸話とも読めます。その先住民の末裔が数百年後の頼光の時代にも勢力を維持していたのを大江山夷族と見做せば、頼光の出兵は重大事案となります。朝廷にとっては反体制勢力の討伐こそ最優先課題だったからです。「朝家の守護」を標榜する以上、これを討伐することは至極自然の成り行きです。そして、それを成し遂げたのが渡辺綱を筆頭とする臣下でした。彼らの活躍が結果として主君 頼光の名を高らしめたと考えると腑に落ちます。<br />ただし、朝廷側にはその征伐を公表できない何らかの理由があったものと考えられます。それが、鬼退治物語へと転嫁された理由かもしれません。『日本書紀』に記された土蜘蛛退治がまさにそうであったように、あり得ない話ではないと思われます。

    庫裡
    元々大江山周辺は先住民 陸耳御笠(くがのみみかさ)が暮らす地でした。渡来系海人族と思しき一大勢力を、朝廷の主体であった東夷系天孫族が征服した逸話とも読めます。その先住民の末裔が数百年後の頼光の時代にも勢力を維持していたのを大江山夷族と見做せば、頼光の出兵は重大事案となります。朝廷にとっては反体制勢力の討伐こそ最優先課題だったからです。「朝家の守護」を標榜する以上、これを討伐することは至極自然の成り行きです。そして、それを成し遂げたのが渡辺綱を筆頭とする臣下でした。彼らの活躍が結果として主君 頼光の名を高らしめたと考えると腑に落ちます。
    ただし、朝廷側にはその征伐を公表できない何らかの理由があったものと考えられます。それが、鬼退治物語へと転嫁された理由かもしれません。『日本書紀』に記された土蜘蛛退治がまさにそうであったように、あり得ない話ではないと思われます。

  • 庫裡の前庭(あじさい苑)セイショウナゴン(清少納言)<br />頼光寺では趣向の異なる4ヶ所の「あじさい苑」を愉しむことができます。<br />それぞれは決して広くはありませんが、バラエティに富み、落ち着いた雰囲気が魅力です。<br />

    庫裡の前庭(あじさい苑)セイショウナゴン(清少納言)
    頼光寺では趣向の異なる4ヶ所の「あじさい苑」を愉しむことができます。
    それぞれは決して広くはありませんが、バラエティに富み、落ち着いた雰囲気が魅力です。

  • 庫裡の前庭(あじさい苑)セイショウナゴン(清少納言)<br />加茂花菖蒲園が作出したガクアジサイの園芸品種です。<br />白い装飾花に中心にある青い両性花がその名を語るが如くどこか奥ゆかしい古風な趣を感じさせます。<br />白い装飾花が大輪で咲き、深い青色の小さな両性花との対比がなんとも美しいアジサイです。また、装飾花の中央にある目は、両性花と同じ青色に染まるため、アクセントとなります。更には、葉にもヤマアジサイ系の野趣があり、全体として和風な趣を漂わせます。<br />このセイショウナゴンは、通常より装飾花の数が多く。エレガントな表情を魅せています。

    庫裡の前庭(あじさい苑)セイショウナゴン(清少納言)
    加茂花菖蒲園が作出したガクアジサイの園芸品種です。
    白い装飾花に中心にある青い両性花がその名を語るが如くどこか奥ゆかしい古風な趣を感じさせます。
    白い装飾花が大輪で咲き、深い青色の小さな両性花との対比がなんとも美しいアジサイです。また、装飾花の中央にある目は、両性花と同じ青色に染まるため、アクセントとなります。更には、葉にもヤマアジサイ系の野趣があり、全体として和風な趣を漂わせます。
    このセイショウナゴンは、通常より装飾花の数が多く。エレガントな表情を魅せています。

  • 庫裡の前庭(あじさい苑)ウズアジサイ(オタフクアジサイ)<br />オタフクアジサイは装飾花の縁がくるっと丸まった皿状の可愛い形をしています。<br />江戸時代からあるガクアジサイの園芸品種であり、病気による突然変異から偶然生まれました。正式名は「ウズアジサイ」と言います。<br />通常の花色はブルーですが、中性土でピンク色に咲いたものは「オカメ」や「梅花咲き」と呼ばれます。丸く独特の形をした花弁は、確かに梅の花にも似ています。<br />装飾花は一重咲きで、花弁は4~5枚と多くはありません。また、全ての花弁が皿状になるわけでなく、アシンメトリーな花形をし、花房毎に少しずつ表情を違えるのも魅力です。更には、テマリ咲きタイプには珍しく、両性花と装飾花が混在して咲きます。両者の見分け方は、開花した時の「しべ」の有無です。通常のテマリ咲も両性花は咲きますが、装飾花を目立たせるため両性花の数は少なく、装飾花に埋もれるようにして咲くものが大半です。<br />尚、ウズアジサイの名の由来は、花の形が貝殻のように渦を巻いたような形をしていることに因みます。<br />別名「オタフクアジサイ(お多福紫陽花)」の由来は、花の形がおたふく豆に似ていることに因みます。

    庫裡の前庭(あじさい苑)ウズアジサイ(オタフクアジサイ)
    オタフクアジサイは装飾花の縁がくるっと丸まった皿状の可愛い形をしています。
    江戸時代からあるガクアジサイの園芸品種であり、病気による突然変異から偶然生まれました。正式名は「ウズアジサイ」と言います。
    通常の花色はブルーですが、中性土でピンク色に咲いたものは「オカメ」や「梅花咲き」と呼ばれます。丸く独特の形をした花弁は、確かに梅の花にも似ています。
    装飾花は一重咲きで、花弁は4~5枚と多くはありません。また、全ての花弁が皿状になるわけでなく、アシンメトリーな花形をし、花房毎に少しずつ表情を違えるのも魅力です。更には、テマリ咲きタイプには珍しく、両性花と装飾花が混在して咲きます。両者の見分け方は、開花した時の「しべ」の有無です。通常のテマリ咲も両性花は咲きますが、装飾花を目立たせるため両性花の数は少なく、装飾花に埋もれるようにして咲くものが大半です。
    尚、ウズアジサイの名の由来は、花の形が貝殻のように渦を巻いたような形をしていることに因みます。
    別名「オタフクアジサイ(お多福紫陽花)」の由来は、花の形がおたふく豆に似ていることに因みます。

  • 庫裡の前庭(あじさい苑)柏葉アジサイ<br />一般的なアジサイとは異なる一風変わった花姿をし、とても綺麗なボリュームのある花を咲かせます。白い装飾花で人気の「アナベル」と同じ米国原産のアジサイで、米国南東部のルイジアナ州、テネシー州、ノースカロライナ州などに自生しています。深い切れ込みのあるカシワに似た葉から命名されています。花の可憐さもさることながら、秋の葉の紅葉も美しいアジサイです。<br />花は、テマリ咲きのアジサイとは異なり、花房が円錐形になります。八重咲きの品種では、花弁の重なりが造形美を湛え、特に雨を含むとずっしりと重そうに頭を垂れる可憐な姿を魅せます。花がまっすぐ上へと伸びる姿も美しいですが、枝をたわませてうつむき加減の姿もまた優雅です。

    庫裡の前庭(あじさい苑)柏葉アジサイ
    一般的なアジサイとは異なる一風変わった花姿をし、とても綺麗なボリュームのある花を咲かせます。白い装飾花で人気の「アナベル」と同じ米国原産のアジサイで、米国南東部のルイジアナ州、テネシー州、ノースカロライナ州などに自生しています。深い切れ込みのあるカシワに似た葉から命名されています。花の可憐さもさることながら、秋の葉の紅葉も美しいアジサイです。
    花は、テマリ咲きのアジサイとは異なり、花房が円錐形になります。八重咲きの品種では、花弁の重なりが造形美を湛え、特に雨を含むとずっしりと重そうに頭を垂れる可憐な姿を魅せます。花がまっすぐ上へと伸びる姿も美しいですが、枝をたわませてうつむき加減の姿もまた優雅です。

  • 庫裡の前庭(あじさい苑)<br />源氏の家紋は「笹竜胆(ささりんどう)」ですが、何故、「あじさい」なのでしょうか?<br />調べてみると、昭和45(1970)年、川西市観光協会会長でもあった多田神社宮司 橋本堅豊(けんぽう)氏の肝煎りで「あじさい寺」として発足。昭和49(1974)年の本堂再建の際、川西市観光協会から100株のアジサイが寄贈され、「地元の人に楽しんでもらおう」と丹誠込めて育ててきたとあります。<br />ですから、こと「あじさい寺」については、他の寺院に比べて歴史は浅いようです。<br />因みに、この地は線路沿いながら小高い丘になっており、周囲は樹木に囲まれています。こうしたことが適度な湿度と日光というアジサイの生育に相応しい環境を作ったものと思われます。現在500株のアジサイが境内を華麗に彩っています。尚、オープンガーデンになっており、拝観料は必要ありません。<br />また、「あじさい寺」の発足に尽力されたのが、清和源氏所縁の多田神社の宮司さんと言うのも源氏繋がりです。まさか「尼」寺だったから「雨」に縁のあるアジサイを選んだ訳ではないと思いますが・・・。

    庫裡の前庭(あじさい苑)
    源氏の家紋は「笹竜胆(ささりんどう)」ですが、何故、「あじさい」なのでしょうか?
    調べてみると、昭和45(1970)年、川西市観光協会会長でもあった多田神社宮司 橋本堅豊(けんぽう)氏の肝煎りで「あじさい寺」として発足。昭和49(1974)年の本堂再建の際、川西市観光協会から100株のアジサイが寄贈され、「地元の人に楽しんでもらおう」と丹誠込めて育ててきたとあります。
    ですから、こと「あじさい寺」については、他の寺院に比べて歴史は浅いようです。
    因みに、この地は線路沿いながら小高い丘になっており、周囲は樹木に囲まれています。こうしたことが適度な湿度と日光というアジサイの生育に相応しい環境を作ったものと思われます。現在500株のアジサイが境内を華麗に彩っています。尚、オープンガーデンになっており、拝観料は必要ありません。
    また、「あじさい寺」の発足に尽力されたのが、清和源氏所縁の多田神社の宮司さんと言うのも源氏繋がりです。まさか「尼」寺だったから「雨」に縁のあるアジサイを選んだ訳ではないと思いますが・・・。

  • 庫裡の前庭(あじさい苑)<br />ブルーのテマリ咲きは静かな寺院に相応しいアジサイです。<br />源満仲が唐の鉄細工師に作らせたという名刀に「髭切(ひげきり)」と「膝丸」があります。「髭切」の名の由来は、試し切りに罪人を切ったところ、髭まで切れたことに因みます。この刀は嫡男 頼光に譲られ、頼光四天王の渡辺綱が京都の一条戻り橋で女に化けた鬼の腕を切り落とした刀です。刀はやがて為義に伝わり、名も「友切」に改名されました。しかし、義朝の代で元の「髭切」に戻しています。<br />一方、?源頼光が自らを熱病に苦しめた巨大な蜘蛛の化け物である土蜘蛛を退治した時にも刀「膝丸」の名を「蜘蛛切」と改名しています。この後、この刀は為義の代に夜中に吠えたことから「吠丸」と改名され、流転の末に義経の持ち物となり、義経により「薄縁(うすべり)」と改名されています。義経が衣川で討たれ、刀は頼朝へ渡り、再び「膝丸(ひげまる)」に戻されています。

    庫裡の前庭(あじさい苑)
    ブルーのテマリ咲きは静かな寺院に相応しいアジサイです。
    源満仲が唐の鉄細工師に作らせたという名刀に「髭切(ひげきり)」と「膝丸」があります。「髭切」の名の由来は、試し切りに罪人を切ったところ、髭まで切れたことに因みます。この刀は嫡男 頼光に譲られ、頼光四天王の渡辺綱が京都の一条戻り橋で女に化けた鬼の腕を切り落とした刀です。刀はやがて為義に伝わり、名も「友切」に改名されました。しかし、義朝の代で元の「髭切」に戻しています。
    一方、?源頼光が自らを熱病に苦しめた巨大な蜘蛛の化け物である土蜘蛛を退治した時にも刀「膝丸」の名を「蜘蛛切」と改名しています。この後、この刀は為義の代に夜中に吠えたことから「吠丸」と改名され、流転の末に義経の持ち物となり、義経により「薄縁(うすべり)」と改名されています。義経が衣川で討たれ、刀は頼朝へ渡り、再び「膝丸(ひげまる)」に戻されています。

  • 庫裡の前庭(あじさい苑)<br />頼光寺は隠れ家的なお寺のような雰囲気を醸しています。丹念に手入れされたあじさい苑を巡ると、聞こえるのはウグイスのさえずりや初夏の風が揺らす葉擦れの音、そして時折電車が通り過ぎる音だけです。樹々に囲まれた静かな時間がゆっくりと流れていきます。<br />静寂で、温かく、しかも華やかに訪れる人々を迎え入れてくれます。

    庫裡の前庭(あじさい苑)
    頼光寺は隠れ家的なお寺のような雰囲気を醸しています。丹念に手入れされたあじさい苑を巡ると、聞こえるのはウグイスのさえずりや初夏の風が揺らす葉擦れの音、そして時折電車が通り過ぎる音だけです。樹々に囲まれた静かな時間がゆっくりと流れていきます。
    静寂で、温かく、しかも華やかに訪れる人々を迎え入れてくれます。

  • 庫裡の前庭(あじさい苑)ダンスパーティ<br />加茂花菖蒲園のオリジナル品種であり、西洋アジサイの「グライスチョイス」とヤマアジサイ「伊豆の華」を掛け合わせて作出されました。1994年頃に一江豊一氏が作出し、2001年にタキイ種苗の通販カタログで紹介され、2008年に鉢物のギフトとしてブレイクして以降、母の日のプレゼントで定番となったベストセラーです。

    庫裡の前庭(あじさい苑)ダンスパーティ
    加茂花菖蒲園のオリジナル品種であり、西洋アジサイの「グライスチョイス」とヤマアジサイ「伊豆の華」を掛け合わせて作出されました。1994年頃に一江豊一氏が作出し、2001年にタキイ種苗の通販カタログで紹介され、2008年に鉢物のギフトとしてブレイクして以降、母の日のプレゼントで定番となったベストセラーです。

  • 庫裡の前庭(あじさい苑)ダンスパーティ<br />装飾花の花弁が剣弁(弁先が尖り菱形)をした八重咲きをなし、両性花と装飾花が混在するガクアジサイの園芸品種のひとつです。両性花の上で咲く華やかな装飾花が風に揺れる賑やかさ、華やかさから「ダンスパーティー」と名付けられました。花の形と名前から思い思いの情景を浮かべるのもアジサイならではの愉しみ方です。手をつないで踊っているように見えませんか?<br />夜空の星が花になったような「星咲きあじさい」のひとつでもあり、花言葉は「強い愛情」。<br />また、突然変異で濃いピンク色に咲くようになった枝変わり品種「ダンスパーティー ハッピー」も人気です。咲き始めは花の中心部が白く、成長と共に中心まで濃いピンク色に染まります。

    庫裡の前庭(あじさい苑)ダンスパーティ
    装飾花の花弁が剣弁(弁先が尖り菱形)をした八重咲きをなし、両性花と装飾花が混在するガクアジサイの園芸品種のひとつです。両性花の上で咲く華やかな装飾花が風に揺れる賑やかさ、華やかさから「ダンスパーティー」と名付けられました。花の形と名前から思い思いの情景を浮かべるのもアジサイならではの愉しみ方です。手をつないで踊っているように見えませんか?
    夜空の星が花になったような「星咲きあじさい」のひとつでもあり、花言葉は「強い愛情」。
    また、突然変異で濃いピンク色に咲くようになった枝変わり品種「ダンスパーティー ハッピー」も人気です。咲き始めは花の中心部が白く、成長と共に中心まで濃いピンク色に染まります。

  • 庫裡左のあじさい苑<br />ガクアジサイは日本原産のアジサイの原種とされるアジサイです。小さな花の周りを額縁のように大きな花が囲んでいるのが印象的です。<br />ガクアジサイの特徴は、花の形です。中心に集まっている小さな蕾のようなものが両性花で、その外側にはガク(装飾花)が大きな花弁のように付いています。この様子が額縁に似ていることから「ガクアジサイ」と名付けられました。<br />ホンアジサイ(テマリ咲き)は「移り気」「浮気」「高慢」というネガティブな花言葉を持ちますが、ガクアジサイの花言葉は「謙虚」です。これは、ホンアジサイよりもガクアジサイの方が、装飾花の数が少なく、その姿が謙虚に見えることに因みます。

    庫裡左のあじさい苑
    ガクアジサイは日本原産のアジサイの原種とされるアジサイです。小さな花の周りを額縁のように大きな花が囲んでいるのが印象的です。
    ガクアジサイの特徴は、花の形です。中心に集まっている小さな蕾のようなものが両性花で、その外側にはガク(装飾花)が大きな花弁のように付いています。この様子が額縁に似ていることから「ガクアジサイ」と名付けられました。
    ホンアジサイ(テマリ咲き)は「移り気」「浮気」「高慢」というネガティブな花言葉を持ちますが、ガクアジサイの花言葉は「謙虚」です。これは、ホンアジサイよりもガクアジサイの方が、装飾花の数が少なく、その姿が謙虚に見えることに因みます。

  • 庫裡左のあじさい苑 ヤマアジサイ<br />日本古来の野趣溢れる植物が見せる清楚な世界が広がっています。<br />その凛と咲く佇まいと繊細さが魅力のアジサイです。<br />装飾花は小ぶりなものが4つと素朴な佇まいです。<br />このように葉がアイビーの葉のように白い斑が入ったツートンカラーのアジサイは初めて見ました。<br />花言葉は「乙女の愛」。華奢で清楚なイメージが由来とされています。

    庫裡左のあじさい苑 ヤマアジサイ
    日本古来の野趣溢れる植物が見せる清楚な世界が広がっています。
    その凛と咲く佇まいと繊細さが魅力のアジサイです。
    装飾花は小ぶりなものが4つと素朴な佇まいです。
    このように葉がアイビーの葉のように白い斑が入ったツートンカラーのアジサイは初めて見ました。
    花言葉は「乙女の愛」。華奢で清楚なイメージが由来とされています。

  • 庫裡左のあじさい苑 ブルースカイ<br />スイスで作出された一重咲きの目にも鮮やかなガクアジサイです。<br />その名の通り、装飾花は澄んだ青の花色が特徴で、大輪になります。<br />

    庫裡左のあじさい苑 ブルースカイ
    スイスで作出された一重咲きの目にも鮮やかなガクアジサイです。
    その名の通り、装飾花は澄んだ青の花色が特徴で、大輪になります。

  • 庫裡左のあじさい苑 ブルースカイ<br />アジサイの花言葉と言えば書くことも憚られるようなネガティブなものが多いのですが、実はポジティブな花言葉もあります。そもそも「紫陽花」の言葉の由来は「集真藍(あづさあい)」つまり「藍色が集まる」に因むと言われています。確かにアジサイの姿を見れば、小さな花が沢山集まってひとつの花房を形成しています。<br />こうした面から「家族」や「団欒(団らん)」などの花言葉があり、家族で仲良くしたいという気持ちを表現するのに相応しい花と言えます。また、「高嶺の花」という意味もあり、その由来には紫陽花の色の移り変わりが関係しています。なかなか心を奪うことのできない女性を想起させることから、「高嶺の花」や「神秘的」という花言葉が付けられたそうです。

    庫裡左のあじさい苑 ブルースカイ
    アジサイの花言葉と言えば書くことも憚られるようなネガティブなものが多いのですが、実はポジティブな花言葉もあります。そもそも「紫陽花」の言葉の由来は「集真藍(あづさあい)」つまり「藍色が集まる」に因むと言われています。確かにアジサイの姿を見れば、小さな花が沢山集まってひとつの花房を形成しています。
    こうした面から「家族」や「団欒(団らん)」などの花言葉があり、家族で仲良くしたいという気持ちを表現するのに相応しい花と言えます。また、「高嶺の花」という意味もあり、その由来には紫陽花の色の移り変わりが関係しています。なかなか心を奪うことのできない女性を想起させることから、「高嶺の花」や「神秘的」という花言葉が付けられたそうです。

  • 庫裡左のあじさい苑 ブルースカイ<br />中心にある両性花が開花し、すくっと伸びた白いシベがはじけ散る花火を彷彿とさせます。こうしたアジサイを見ていると、気分が晴れやかになります。<br />アジサイのポジティブな花言葉のひとつに「乙女の愛」があります。江戸時代のエピソードにまつわる花言葉です。ドイツ人の医師 シーボルトは日本人女性と恋に堕ち、やがて子どもを授かりますが彼は時の情勢により国外追放になりました。彼は日本を去る時、アジサイを持ち帰り、祖国ドイツにてアジサイの美しさと日本にいる妻を重ね合わせたそうです。この少し切なくもうら悲しい逸話から付けられたのが「乙女の愛」という花言葉です。

    庫裡左のあじさい苑 ブルースカイ
    中心にある両性花が開花し、すくっと伸びた白いシベがはじけ散る花火を彷彿とさせます。こうしたアジサイを見ていると、気分が晴れやかになります。
    アジサイのポジティブな花言葉のひとつに「乙女の愛」があります。江戸時代のエピソードにまつわる花言葉です。ドイツ人の医師 シーボルトは日本人女性と恋に堕ち、やがて子どもを授かりますが彼は時の情勢により国外追放になりました。彼は日本を去る時、アジサイを持ち帰り、祖国ドイツにてアジサイの美しさと日本にいる妻を重ね合わせたそうです。この少し切なくもうら悲しい逸話から付けられたのが「乙女の愛」という花言葉です。

  • 庫裡左のあじさい苑 タイサンボク(泰山木)<br />アジサイに気を取られがちですが、芳香がする場合は上を見上げてください。早春から続くマグノリア(モクレン)属の開花のフィナーレを華麗に飾るのがこのタイサンボクです。<br />モクレン科モクレン属に属する常緑高木の1種で、北米南東部が原産地です。日本へは明治時代に導入され、別名「ダイサンボク」「ハクレンボク」とも呼ばれます。<br />白い9枚の花被片からなる大きく碗状の花が上向きに咲きます。花や葉が大きく立派なことを賞賛し、中国山東省中部にある名山の泰山(たいざん)に喩えて命名されたと言われています。また、花の形を大きな盃(さかずき)に 見立てて「大盃木(たいさんぼく)」と呼ぶようになり、その後に転訛して「泰山木」の字が充てられたともされます。<br />花言葉は「前途洋々」「威厳」。これらの花言葉は、堂々とした立派な樹木とかぐわしい芳香を放つ大きく美しい白い花に因みます。

    庫裡左のあじさい苑 タイサンボク(泰山木)
    アジサイに気を取られがちですが、芳香がする場合は上を見上げてください。早春から続くマグノリア(モクレン)属の開花のフィナーレを華麗に飾るのがこのタイサンボクです。
    モクレン科モクレン属に属する常緑高木の1種で、北米南東部が原産地です。日本へは明治時代に導入され、別名「ダイサンボク」「ハクレンボク」とも呼ばれます。
    白い9枚の花被片からなる大きく碗状の花が上向きに咲きます。花や葉が大きく立派なことを賞賛し、中国山東省中部にある名山の泰山(たいざん)に喩えて命名されたと言われています。また、花の形を大きな盃(さかずき)に 見立てて「大盃木(たいさんぼく)」と呼ぶようになり、その後に転訛して「泰山木」の字が充てられたともされます。
    花言葉は「前途洋々」「威厳」。これらの花言葉は、堂々とした立派な樹木とかぐわしい芳香を放つ大きく美しい白い花に因みます。

  • 庫裡左のあじさい苑<br />境内の真横には能勢電妙見線が走っており、少し見下ろす感じでとても良いアングルで列車を狙える撮影スポットでもあります。<br />能勢電鉄は兵庫県川西市の川西能勢口駅と妙見山および日生ニュータウンを始めとするニュータウン群とを結ぶ鉄道です。日露戦争後の明治38年、能勢電気鉄道という会社名で設立されました。現在は阪急電鉄の子会社であることから、このように阪急のイメージカラー「マルーンカラー」を纏った電車が走っています。<br />実は、、昭和30年代の終わり頃に能勢電沿線の多田に「多田グリーンハイツ」の造成を行う西武鉄道が能勢電鉄の買収を持ちかけたそうです。その時にホワイトナイトとなったのが阪急電鉄でした。帝国鉱泉(現 アサヒ飲料)の「三ツ矢サイダー」の直通用に阪急電鉄とレールが繋がって70余年になります。<br />因みに、「三ツ矢サイダー」のネーミングはある伝説に因みます。源満仲が住吉大社に参拝した折、、住吉の神様から北の方へ向いて力いっぱい三本の矢を放ち、矢が突き立った地を拠点にすれば発展すると神託を受けました。そこでお告げの通り矢を放ち突き立った多田に本拠を置いたと伝わります。

    庫裡左のあじさい苑
    境内の真横には能勢電妙見線が走っており、少し見下ろす感じでとても良いアングルで列車を狙える撮影スポットでもあります。
    能勢電鉄は兵庫県川西市の川西能勢口駅と妙見山および日生ニュータウンを始めとするニュータウン群とを結ぶ鉄道です。日露戦争後の明治38年、能勢電気鉄道という会社名で設立されました。現在は阪急電鉄の子会社であることから、このように阪急のイメージカラー「マルーンカラー」を纏った電車が走っています。
    実は、、昭和30年代の終わり頃に能勢電沿線の多田に「多田グリーンハイツ」の造成を行う西武鉄道が能勢電鉄の買収を持ちかけたそうです。その時にホワイトナイトとなったのが阪急電鉄でした。帝国鉱泉(現 アサヒ飲料)の「三ツ矢サイダー」の直通用に阪急電鉄とレールが繋がって70余年になります。
    因みに、「三ツ矢サイダー」のネーミングはある伝説に因みます。源満仲が住吉大社に参拝した折、、住吉の神様から北の方へ向いて力いっぱい三本の矢を放ち、矢が突き立った地を拠点にすれば発展すると神託を受けました。そこでお告げの通り矢を放ち突き立った多田に本拠を置いたと伝わります。

  • 庫裡左のあじさい苑 ハンゲショウ(半夏生)<br />頼光寺には、アジサイの他にも、趣のある多様な植物が見られます。<br />ドクダミ科ハンゲショウ属に分類される多年草の1種で、別名「カタシログサ(片白草)」とも呼ばれます。夏に小さな花が集まった細長い総状花序を付け、花序に近い数枚の葉が白くお化粧します。これは虫媒花であるために送粉者である虫を誘う必要から進化したものとされます。それ故、花期が終わると緑色に戻ります。

    庫裡左のあじさい苑 ハンゲショウ(半夏生)
    頼光寺には、アジサイの他にも、趣のある多様な植物が見られます。
    ドクダミ科ハンゲショウ属に分類される多年草の1種で、別名「カタシログサ(片白草)」とも呼ばれます。夏に小さな花が集まった細長い総状花序を付け、花序に近い数枚の葉が白くお化粧します。これは虫媒花であるために送粉者である虫を誘う必要から進化したものとされます。それ故、花期が終わると緑色に戻ります。

  • 庫裡左のあじさい苑 ハンゲショウ<br />名の由来は、夏至から数えて11日目頃 (もしくはその日からの5日間)を「半夏生」と呼び、その頃に花が咲くことに因みます。また、葉の半分ほどが お化粧したように白くなることに因むともされます(半化粧)。<br />花言葉は「内気」「内に秘めた情熱」です。これはハンゲショウの花弁の色が変わることに由来します。大きな目立つ花を咲かることはありませんが、葉を白く変色させる様子が「内気」や「内に秘めた情熱」があるように見えたのでしょう。

    庫裡左のあじさい苑 ハンゲショウ
    名の由来は、夏至から数えて11日目頃 (もしくはその日からの5日間)を「半夏生」と呼び、その頃に花が咲くことに因みます。また、葉の半分ほどが お化粧したように白くなることに因むともされます(半化粧)。
    花言葉は「内気」「内に秘めた情熱」です。これはハンゲショウの花弁の色が変わることに由来します。大きな目立つ花を咲かることはありませんが、葉を白く変色させる様子が「内気」や「内に秘めた情熱」があるように見えたのでしょう。

  • 庫裡左のあじさい苑 隅田の花火<br />青い小さな両性花と青白い八重咲きの装飾花からなる「花火アジサイ」の一品種です。<br />1977年に横浜市の民家にて山本武臣氏が発見したガクアジサイの一種です。火花を散らして夜空に広がる打ち上げ花火を彷彿とさせることから「隅田の花火」という名が付けられています。<br />我が家のベランダでプランターに植えていましたが、3年目で枯れてしまいました。

    庫裡左のあじさい苑 隅田の花火
    青い小さな両性花と青白い八重咲きの装飾花からなる「花火アジサイ」の一品種です。
    1977年に横浜市の民家にて山本武臣氏が発見したガクアジサイの一種です。火花を散らして夜空に広がる打ち上げ花火を彷彿とさせることから「隅田の花火」という名が付けられています。
    我が家のベランダでプランターに植えていましたが、3年目で枯れてしまいました。

  • 庫裡左のあじさい苑 隅田の花火<br />このようにここで出会ったアジサイの名前を調べていくと、その一つひとつに誕生秘話や発見に関わった人々の熱いドラマがあることに感銘しました。いつもは何気なく見ていたアジサイが、何とも言いようのない風情に包まれ、更に愛おしく感じられるようになりました。<br />憂鬱な気分に陥りがちな梅雨の季節ですが、雨傘を片手にふらりとアジサイを見に出かけてみるのも乙なことです。

    庫裡左のあじさい苑 隅田の花火
    このようにここで出会ったアジサイの名前を調べていくと、その一つひとつに誕生秘話や発見に関わった人々の熱いドラマがあることに感銘しました。いつもは何気なく見ていたアジサイが、何とも言いようのない風情に包まれ、更に愛おしく感じられるようになりました。
    憂鬱な気分に陥りがちな梅雨の季節ですが、雨傘を片手にふらりとアジサイを見に出かけてみるのも乙なことです。

  • 庫裡左のあじさい苑 アナベル<br />米国原産で「アメリカノリノキ」の園芸品種です。テマリ咲きの大きな花房を持ち、一般的なアジサイよりも開花期が長いのが特徴です。<br />大きな花序の割には日本産のアジサイに比べると枝が細く、装飾花も小さいため、繊細でやわらかな感じを漂わせます。<br />咲き始めは小さなテマリのグリーンから始まります。咲き進むに連れてテマリが大きくなっていきます。それに伴い、花の色も明るいグリーンから純白へと変化していきます。更に咲き進むと花の色は再びグリーンに変化していきます。

    庫裡左のあじさい苑 アナベル
    米国原産で「アメリカノリノキ」の園芸品種です。テマリ咲きの大きな花房を持ち、一般的なアジサイよりも開花期が長いのが特徴です。
    大きな花序の割には日本産のアジサイに比べると枝が細く、装飾花も小さいため、繊細でやわらかな感じを漂わせます。
    咲き始めは小さなテマリのグリーンから始まります。咲き進むに連れてテマリが大きくなっていきます。それに伴い、花の色も明るいグリーンから純白へと変化していきます。更に咲き進むと花の色は再びグリーンに変化していきます。

  • 庫裡左のあじさい苑 ヤマホタルブクロ(山蛍袋)<br />アジサイの根元にも楚々とした草花が咲いています。<br />キキョウ科ホタルブクロ属の多年草です。別名「釣鐘草(つりがねそう)」。<br />ホタルブクロはアジサイと並び、6月を代表する草花です。入梅の頃から咲き始め、梅雨が明ける頃に花期を終えるため「雨降花(あめふりばな)」とも呼ばれます。<br />下向きに釣鐘型の花を咲かせ、花の形が可愛いらしいことから日本では観賞用として古くから親しまれ、野山や林など様々な場所に自生しています。<br />尚、このように白っぽい品種はヤマホタルブクロと呼ばれます。

    庫裡左のあじさい苑 ヤマホタルブクロ(山蛍袋)
    アジサイの根元にも楚々とした草花が咲いています。
    キキョウ科ホタルブクロ属の多年草です。別名「釣鐘草(つりがねそう)」。
    ホタルブクロはアジサイと並び、6月を代表する草花です。入梅の頃から咲き始め、梅雨が明ける頃に花期を終えるため「雨降花(あめふりばな)」とも呼ばれます。
    下向きに釣鐘型の花を咲かせ、花の形が可愛いらしいことから日本では観賞用として古くから親しまれ、野山や林など様々な場所に自生しています。
    尚、このように白っぽい品種はヤマホタルブクロと呼ばれます。

  • 庫裡左のあじさい苑 梅<br />6月20日は第二十七候「梅子黄(うめのみきばむ)」に当たります。<br />二十四節気では「芒種(ぼうしゅ)=6月5~20日頃」の末候に当たり、青々と大きく実った梅の実が、黄色く色付き始める頃です。因みに、「芒 (のぎ)」とは麦や稲などのイネ科植物の穂先にある針のような毛を指し、昔から「芒種」の時季は、「芒」 のある植物の種を蒔いたり、麦の刈入れや田植えを行う目安とされてきました。<br />また、「梅の実が熟す頃の雨」 ということから「梅雨」になったとも言われ、梅雨時である陰暦5月を「梅の色月」と美しく言い表した言葉もあります。

    庫裡左のあじさい苑 梅
    6月20日は第二十七候「梅子黄(うめのみきばむ)」に当たります。
    二十四節気では「芒種(ぼうしゅ)=6月5~20日頃」の末候に当たり、青々と大きく実った梅の実が、黄色く色付き始める頃です。因みに、「芒 (のぎ)」とは麦や稲などのイネ科植物の穂先にある針のような毛を指し、昔から「芒種」の時季は、「芒」 のある植物の種を蒔いたり、麦の刈入れや田植えを行う目安とされてきました。
    また、「梅の実が熟す頃の雨」 ということから「梅雨」になったとも言われ、梅雨時である陰暦5月を「梅の色月」と美しく言い表した言葉もあります。

  • 庫裡左のあじさい苑 <br />庫裡左にある「あじさい苑」をぐるりと一周してまいりました。<br />この続きは問柳尋花 北摂池田<後編>祥雲山 頼光寺でお届けいたします。

    庫裡左のあじさい苑
    庫裡左にある「あじさい苑」をぐるりと一周してまいりました。
    この続きは問柳尋花 北摂池田<後編>祥雲山 頼光寺でお届けいたします。

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