
2022/04/20 - 2022/04/20
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montsaintmichelさん
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野田藤絵巻(後編)
前編の続きの下福島公園の藤、昭和レトロな莫大小会館、福島天満宮、福島聖天 了徳院、そして「のだふじ巡り」のゴールとなる認定こども園 和光園を駆け足で巡ってまいりました。
下福島公園では見頃を迎えていた「藤邸の庭(復元)」の周辺を中心に藤波が春風になびく姿を満喫できました。
莫大小会館は1929(昭和4)年に竣工したレトロ感満載のアーチ窓を多用した鉄筋コンクリート造のビルです。かつて大阪市福島区は莫大小産業が盛んだったことから、莫大小製品輸出組合の事務所として竣工しました。戦後は組合の存続が困難となり、現在はデザイナー事務所やカフェなどが入居するテナントビルとなっています。実は、今夏、解体が決まったことを知り、名残を惜しんでの訪問となりました。
福島聖天 了徳院は「のだふじ巡り」のクライマックスです。この界隈では他の追随を許さない花房の長さを誇ります。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 私鉄
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⑧下福島公園
「のだふじ巡り」「のだふじ祭」の幟が薫風にはためいています。 -
⑧下福島公園「野田ふじと藤邸の庭」の石碑(右)、「藤庵」の石碑(左)
かつて「藤庵」のあった付近は現在は阪神高速道路となっていますが、「藤庵の庭」はこの公園に復元され、往時の面影を偲ばせています。秀吉も春の一日を玉川の清流に垂れる藤の花房を愛でて過ごしたそうです。
石碑には次のように刻まれています。
「野田ふじは600年余り前から「吉野の桜か 野田の藤」とその美がたたえられ、将軍足利義詮や太閤秀吉などが野田の旧家、藤邸へ来遊しました。
この著名な野田ふじも近年樹勢が衰え枯死寸前の状態になっていましたが、藤家ならびに大阪福島ライオンズクラブのご厚意により、ここ下福島公園に藤邸の庭を移し、同庭に残存の原木から接木した数本のふじを移植して昔日の面影を再現することになりました。
なお当地から南西400メートルの春日祠前には「野田の藤跡」の碑があります。」 -
⑧下福島公園「藤庵の庭(復元)」
その昔、足利義詮や豊臣秀吉が野田にある旧家 藤邸へ訪れたと伝わります。秀吉は藤見に当地を訪れた際、藤家の邸宅「藤庵」で茶会を催しており、その藤庵の近隣に当たる下福島公園の一画に庭園が復元されています。
とは言え、太っ腹な大阪市は立入禁止にはしていないため、子どもたちの格好の遊び場となっています。
いつの日にか公園全体に野田藤が咲き誇る姿に憧憬を抱きますが、クマ蜂対策のことを考えると悩ましくもあります。 -
⑧下福島公園
のだふじの会は、「福島区を藤の雲でいっぱいにしよう!」と藤の木を育てられています。 -
⑧下福島公園
同じ藤の花を詠んだ詩歌でも日本と中国では大きな違いがあるそうです。
『枕草子』の「木の花は」には「藤の花は、しなひ長く、色濃く咲きたる、 いとめでたし。」とあるように、大振りの紫色の花房が垂れ下がる豪華な花というイメージです。もうひとつの特徴は、「藤の花=藤原氏」という暗喩で詠まれたことです。源師頼の「春日山 北の藤波 咲きしより 栄ゆべしとは かねて知りにき」など、藤の花を藤原氏の繁栄に喩える歌が多々あります。
一方、中国では藤は野生的でしかも頼りないといった負のイメージで詠まれています。藤には宿主を枯らすイメージがあり、それが転じて権勢のある人に媚びて提灯持ちをする人の喩えとして藤が用いられました。 -
⑧下福島公園
日本でも「藤の花=藤原氏」という暗喩が定着するまでは、純粋に植物としての藤を詠みました。しかし、唐の漢詩と異なるのは、藤の花を賛美していることです。平安時代に宮中や貴族の邸宅の庭園の観賞用になるに伴い、藤の花の美しさを詠むようになりました。
藤は『万葉集』では26首詠まれていますが、その大半が「我が宿の 時じき藤の めづらしく 今も見てしか 妹が笑まひを」(大伴家持)のようにその美しさを詠んでいます。また、奈良時代には藤を観賞するために移植していたことが「恋しければ 形見にせむと わが屋戸に 植えし藤波 いま咲きにけり」(山部赤人)から窺えます。
また、「藤波の 花は盛りに なりにけり 奈良の都を 思ほすや君」(大伴四綱)のように春風に揺れる藤の房を「藤波」と詠むのは、中国には見られない美意識であり、その後の藤詠みの典型となりました。 -
⑧下福島公園
日本の藤詠のもうひとつの特徴は、松と共に詠まれたことです。藤の蔓は樹木を選ばずに巻き付きますが、平安文学では「水底の 色さへ深き 松が枝に 千歳をかねて 咲ける藤波」(後撰集)の和歌だけでなく、『枕草子』の「めでたきもの」 に「唐錦、飾り太刀(中略)色合ひよく花房長く咲きたる藤の花の松に掛かりたる」や『源氏物語』の「野分」に明石姫の美しさを「松に藤の咲きかかる」と詠むように、藤と松の組み合わせを常套手段としています。現実でも、寝殿式庭園では中庭の松に藤を絡ませてその美しさを賞美していたそうです。 -
⑧下福島公園
一説には「松に藤」は唐絵屏風の絵柄として存在し、それを継承して生まれたものと言われます。しかしそれだけでなく、藤が藤原氏の象徴であり、永遠性の比喩である松との組み合わせでその繁栄を寿ぐ意図が窺えます。
例えば「藤波は 君が千歳の 松にこそ かけて久しく 見るべかりけれ」(金葉集)では、君の御代の千歳を約束している松を寿いでいます。
「春日山 松にたのみを かくるかな 藤のすゑ葉の 数ならねども」(千載集、藤原公行)では、藤原氏の氏神 春日社の松に官位を頼むとの意であり、松の永続性に藤を絡めています。松に絡まる藤は慶賀の意であり、藤原氏の繁栄を願って天皇家と藤原氏が一心同体であることを表現したと読み取れます。 -
⑧下福島公園
こうして藤のイメージは藤原摂関政治への賛美と重なっていきました。それが定着するきっかけが、902(延喜2)年3月20日に穏子女御の兄 左大臣 藤原時平によって飛香舎で催された藤花宴でした。この宴は『源氏物語』の「河海抄」でも「花の宴」や「藤の裏葉」の典拠とする歴史上名高いものでした。この宴は時平が醍醐帝に献物するための催しであり、帝自ら琴を弾き、時平は舞い、帝は「かくてこそ 見まくほしけれ 万代を かけてにほへる 藤波の花」(新古今集)と詠みました。かくしてこの宴は藤原氏が天皇家と君臣一体であるのを世に知らしめました。
やがて藤詠は純粋に花を賞美するのではなく、その紫色を瑞祥として詠んで藤原氏に媚びるものが増えました。 -
⑧下福島公園
一方、藤が藤原氏の繁栄の象徴とすれば、その繁栄により抑圧される者にとって藤は負のイメージそのものです。
そのひとつが『伊勢物語』の「あやしき藤の花」です。
左兵衛府の長官 在原行平の家に良い酒があると聞いた人々が、左中弁(朝廷の重職)の藤原良近を正客に招きました。大きな藤の花を題目にして歌を詠む宴です。藤詠が終わる頃、行平の弟 業平が宴が催されていると聞いてやってきました。そこで業平に歌を詠ませようとしますが、業平は藤詠のことを知らなかったため辞退するも無理やり詠まされました。
「咲く花の 下にかくるる 人を多み ありしにまさる 藤のかげかも」
(大きく美しく咲く花房の影に入る人が多いので、さらに立派に見える藤の花の影であることだ。)
業平は歌の真意を問われて、咄嗟に「藤原氏が栄えるのを思って詠んだ」と答えましたが、藤原氏の強大な権力に追従して媚びを売る人々を揶揄した歌と読むのが合理的です。何故なら、業平は才気がありながらも藤原氏の陰に隠れてしまい、不遇を送った人物だからです。 -
⑧下福島公園
より鮮明に藤原氏を藤に喩えて批判したのが菅原道真の『菅家文草』の「紫藤」です。
高閣藤花次第開、疑看紫緩向風廻。
(高閣の藤の花は次第に開く、疑ひて看る紫綬の風に向ひて廻れるかと。 )
栄華得地長応賞、不放遊人任折来。
(栄ゆる華は地を得て長く賞すべ し、遊人の任に折来りなむことを放さず。)
道真は、藤の花を栄花や権勢の象徴として詠み、「栄華は他の人に折られない」と藤原氏の独占政治を痛烈に批判しています。
道真が大宰府へ左遷される際、この野田藤の発祥の地「福島」で舟の風待ちをしたのは何かの因果かもしれません。
日本の藤詠は、賛美であれ、風刺であれ、藤原氏抜きには語れません。また、藤原氏の繁栄の特徴は、己れが王になるのではなく、朝廷を支えて朝廷と共にあるという特殊なものでした。この特異性が蔓として巻き付くことを繁栄として捉える藤詠の特徴を生み、日中の差異を顕著にしたと思われます。 -
⑧下福島公園
唐における藤のイメージは、主体性がなく、頼れるものがなければ綺麗に成長できない弱いもの。しかも、時には寄りかかった宿木を枯らしてしまう「寄生」という負のイメージがつきまといました。藤を悪魔的なものとして詠んだ著名な詩が白楽天の『紫藤』ですが、日本では「藤=藤原氏」という背景もあり、同じ白楽天の『三月尽詩』の行く春の象徴としての美しい紫藤を受容した経緯があります。
『紫藤』は長いので、それに次ぐ代表作となる唐の詩人 岑参の『石上藤』を紹介します。
石上生孤藤、弱蔓依石長。
(石の上に藤だけが生えれば、か弱い藤の蔓は石に長く依存する。)
不逢高枝引、未得凌空上。
(寄木となる推薦人がいなければ、望んだ出世が叶うことはない。)
何所堪托身、為君長万丈。
(我が身を何に託せばよいのか、託すものがあればその人の為に才能を発揮してみせん。)
この漢詩では「孤藤」「弱蔓」という比喩で寂しさと弱さを表現しています。藤が何かに絡まって成長していく性を擬人化し、自己の不遇を嘆いた作品とされます。 -
⑧下福島公園
1ヶ所だけですが白藤の藤棚もあります。 -
莫大小会館
「莫大小」と書いて「メリヤス」と読みます。伸縮性のあるメリヤス生地から「大小を問わない」という意味の当て字です。因みに、メリヤスとはニット(編み物)のことで、特に下着用の生地に適用される言葉です。
このアーチ窓を多用した鉄筋コンクリート造り4階建、地下1階のレトロなビルは堂島川沿い堂島大橋北詰にあります。大阪はかつては繊維産業が盛んで、明治時代後期にはメリヤス製品の74%が大阪で生産されていました。大正15年に大阪輸出莫大小工業組合が設立され、その事務所として1929(昭和4)年に竣工したのが莫大小會舘です。しかし戦災により多くのメリヤス業者が廃業に追い込まれて組合の継続が困難になったため、現在は株式会社を設立してデザイナー事務所、カフェ、アトリエアート・ギャラリーなどが入るテナントビルとなっています。
右側が1929(昭和4)年竣工の1期、左側が1937(昭和12)年の2期分になります。そして、4階部分が3期の増築です。 -
莫大小会館
この北面が正面ファサードになります。横長のビルの2階部分にアーチ窓の列を配してアクセントを付けています。
外観は細かい装飾を施さないルネッサンス様式です。採光を重視し、窓に廊下を配する平面構成は学校建築を彷彿とさせます。外観に特徴はありませんが、シンプルな外壁でありながら開口部の大きさや配置、庇の位置でアクセントを付けて魅力あるファサードを構成しています。
内部は片廊下式で、道路側に廊下を配置しています。また、縦長の大きな窓、階段の造作、古色を帯びた建具など絶妙な陰影のバランスがレトロな雰囲気を醸しています。迷路のようでもあり、静けさやレトロ感も相俟ってワクワク・ドキドキさせる空間に仕上がっています。
テナントの大半が建築事務所や画廊などのクリエイティブ系で占められているのも、この建物の素晴らしさに魅了されたからでしょう。 -
莫大小会館
西側から眺めると、増築された4階部分は切妻造になっています。
1階にある緑色のテントは「メリヤス鍼灸整骨院」です。莫大小会館社長の御子息が経営しているそうです。
鍼灸院のすぐ隣に西棟・東棟の境界線があり、東棟は第1期の竣工後の増築です。 -
莫大小会館
旧字体の「莫大小會館」の銘板が掛けられた、なんとも渋い雰囲気を醸す西棟エントランスです。 -
莫大小会館
設計者は宗建築事務所の宗兵蔵氏です。東京で生まれ、東京帝国大学卒業後、宮内庁に入り帝国奈良博物館の設計に携わり、東京市、海軍省を経て藤田組に入社。藤田組本店の完成(1913年)により退社し、宗建築事務所開設。日本近代建築界の古強者、関西建築界の重鎮として活躍されました。
代表作は、帝国奈良博物館(現在の奈良国立博物館)、柴島浄水場(現在の水道記念館)、旧制灘中学校校舎、生駒ビルヂング、ライオン橋こと難波橋、藤田組本店などがあります。 -
莫大小会館
階段には派手な柱頭飾りこそありませんが、大理石製と思しきシンプルな円柱のデザインです。
メリヤスのはじまりは16世紀半ばの英国です。靴下を編む機械が発明されたのが始まりとされます。日本は編み物の伝統が意外と弱く、17世紀後半にスペインやポルトガルなどから靴下などの形で編地がもたらされました。武士が殿中に出仕する際の足袋を作る技法として広ままったとされます。 -
莫大小会館
階段の踊り場も画廊のギャラリーとなっています。
「靴下」という意味のポルトガル語「メイアシュ」やスペイン語の「メディアス」が転訛して「メリヤス」が編み物全般を指すようになりました。
1950年代までは肌着・靴下などの伸縮性のある編み物を「メリヤス」と呼びました。その後、英語の外来語が多く使われるようになり、編地全般はニットやセーター、カジュアルウェアはジャージと呼ばれるようになりました。
因みに、メリヤスは英語では「knitted fablic」と言います。直訳すると「編まれた生地」です。 -
莫大小会館
階段手摺の曲線が何とも言えない雰囲気を醸します。 -
莫大小会館 201号室
ドアの横に貼られた「押売りお断りの表示板」です。
警察紋章(旭日章)が六角形でなく五角形であることから、1948(昭和23)年以降に貼られたものと窺えます。
しかし、「日本民警防犯協力会」なる組織はネットでもヒットしません。民間組織による警備組織だったのでしょうか? -
莫大小会館
階段の手すりの曲線美にうっとりさせられます。 -
莫大小会館
2階と3階の間の踊り場の採光は、ナイーブなアーチ窓から降り注ぎます。 -
莫大小会館 中央階段
幾度も増築が繰り返されており、階段も複雑に入り組んでいます。
これが迷路と言われる所以です。
東棟への入口部はアーチになっています。 -
莫大小会館
階段の途中で階段が枝分かれしています。
真っすぐ行けば東棟、右へ曲がれば中央棟を昇っていけます。
このアーチの奥にある東棟が2期工事での増築部になります。 -
莫大小会館 東棟
採光を慮った雰囲気のある廊下です。
道路に面する廊下の窓は縦に細長くし、洋館を彷彿とさせるクラシカルなデザインと配色です。 -
莫大小会館
2階の窓はアーチ形状で統一されています。 -
莫大小会館 東棟の階段
手摺りの上に銅パイプ製の手摺りが取り付けられています。 -
莫大小会館
地下への階段はタイル貼りのようです。 -
莫大小会館
3階の窓は淡々と矩形を並べています。 -
莫大小会館
踊り場にはアーチ形状の窓を配しています。 -
莫大小会館
最後に増築された4階部分のテラスには巨大な石製のタライがあります。
現在は金魚などを飼っているように見えますが、かつては洗濯場だったそうです。
巨大な石の塊をくり抜いたもので、パテでコーキングされていません。
尚、テラスへの立ち入りはできず、ガラス越しに見られるだけです。 -
莫大小会館
中央階段を下りていきます。 -
莫大小会館
東棟3階への入口部はイスラム教風の先が少し尖がったアーチ形状とし、エキゾチックな雰囲気を演出しています。
フロア毎にアーチ形状や窓の形を違えているのは、迷子にならないようにとの配慮でしょうか? -
莫大小会館
中央入口の階段を見下ろすとこんな感じです。
素晴らしい昭和レトロな建築物であり、また当地がかつては繊維産業が盛んな土地柄であったことを示唆する産業遺産とも言えます。耐震性など建物を維持するのは大変だとは思いますが、末永く遺して欲しい建物と思うのは当方だけではないように窺えます。
しかし、竣工から93年になる今年の夏、このビルは解体され、跡地は高層マンションになるそうです。恐らくこれが当方にとっての見納めです。 -
逆櫓(さかろ)の松跡
1185(元暦2)年、源頼朝から平家追討の命を受けた源義経は、摂津国の港 渡辺津に軍を集めました。『平家物語』によると、義経と梶原景時が軍議を行い、景時は「船先にも櫓をつけて転回出来るようにしたい」と進言するも、義経は「最初から逃げることを考えるのは臆病者のやることだ」と 一蹴。景時が「進むだけで退くことを知らない猪武者め」と反論して逆櫓論争になりました。そのうち暴風雨になり、景時は出陣を見合わせますが、義経はわずか5艘150騎で出航し、通常3日の航路を6時間ほどで到着し、平家が陣取っていた屋島を急襲して劇的な勝利を治めました。
その後に景時の本隊140余艘が到着しますが、景時は「6日の菖蒲」(5月5日の端午の節句に間に合わない菖蒲)と義経に嘲笑されました。この時の軍議場所は、幹の形が蛇のような樹齢千年を超える松が生えていたことから「逆櫓の松」と呼ばれ、現在の石碑はその老松の跡地に建てられたものです。 -
朝日放送テレビ 本社ビル
「逆櫓の松跡 」の石碑があるのは、上天神南交差点の西、カフェ「ウインブルドン」の先です。交差点方面を見ると朝日放送テレビの本社ビルがこのように見えます。
再生木材を使用した千鳥格子のルーバーは、設計チームに加わった隈研吾氏らしいデザインでシックにまとめられています。 -
福島天満宮 正面石鳥居
1995年の阪神淡路大震災の時、片方の柱が根元から破損し、危険なためその年の12月に一篤志家が復興したと言います。
流石、「人情の町 大阪」ではありませんか! -
福島天満宮 拝殿
JR大阪駅から環状線で1区のJR福島駅に近く、大動脈の「なにわ筋」に面した賑やかな場所ですが、一歩境内に足を踏み入れると木々が鬱蒼と生い茂り、閑静な佇まいに思わず背筋が伸びます。 -
福島天満宮 拝殿
元々は福島三天神の「上の天神」と称された天満宮上之社で、太平洋大戦後、戦災に遭った天満宮中之社(中の天神)を合祀して福島天満宮と改称しました。そのため、中の天神跡地(堂島大橋北詰)は、福島天満宮の行宮として飛地境内地となっています。
『福島天満宮略記』によると、907年(延喜7)年の創始と伝えます。
901(延喜元)年に菅原道真が大宰府へ左遷させられた時、伯母にあたる河内道明寺の覚寿尼を訪ねた後、淀川から舟で西方に向われました。往時の淀川の本流、今の堂島川の畔にある福島の地は、大阪湾より海路を目指す際の風待ちの地でした。その福島で里人 徳治郎 に旅情を慰められたことをいたく喜びました。やがて、道真の訃報を風の便りに聞いた里人が、その徳を偲んで小祠を建てたのが起源とされます。
因みに、創建は京都 北野天満宮や大阪天満宮に先立つこと40年程です。
祭神は菅原道真、相殿は大国主命と事代主命、少彦名命(元 中の天神 主神)です。 -
福島天満宮
福島にて梅の木が1本生えているのを見つけた道真は、
「行く水の 中の小島の 梅さかば さぞ川浪も 香に匂ふらん」と詠み、その梅の1枝と傍にあった松の1枝を折り、「われ此の島に憩いし遺蹟となさん」と言い、共にひとところに挿しました。不思議なことに、この梅と松の枝が共に根を下ろし、後年2樹が1本に繋がったそうです。その場所こそ、里人が小祠を建立した場所でした。
その松梅は元禄年間(1700年頃)の台風で倒木するまで、長い間葉を茂らせていたそうです。
実は、天満宮の創建については2つの説があります。ひとつは、既述したように道真が大宰府へ左遷される途上、風待ちのために福島に留まったことに由来する説です。もう一つは、昔、大阪天満宮の天神祭では天神橋下流の鉾流島から流した神鉾の漂着地を翌日の船渡御の御旅所としていましたが、鉾は流れの関係で福島に漂着することが多く、いつの頃かその地に小祠を建てたのが三天神社の始まりとする説です。 -
福島天満宮 摂社 吉高稲荷神社
天満宮拝殿の脇にひっそりと佇みます。
ご祭神は宇賀御魂大神です。
農作物を始め産業一般を守護し、いわゆる事業繁栄の神様です。
両脇の駒狐には金網がかぶせられていますが、何か悪さでもしたのでしょうか? -
福島天満宮 摂社 吉高稲荷神社
蟇股にはかわいらしい「狐」の彫刻があります。
余談ですが、福島5丁目にある「ホテル 阪神」では天然温泉が愉しめ、その名を「徳次郎の湯」と言います。命名の由来が同ホテルのHPに載せられています。
福島と菅原道真との歴史的な深い結び付きや傷心の道真を慰めた里人 徳次郎の名前に因むと共に、お客様に対して心温まるおもてなしを提供したいという気持ちを込め、この温泉を「徳次郎の湯」と命名したそうです。
道真は「福島」に地名を改名しただけでなく、徳次郎にも「福元」姓を与えました。福元一族は当社の一老・宮座となり、その子孫は現在も存続しているそうです。
泉質:単純温泉(低張性-弱アルカリ性-低温泉)
泉温:31.5℃ -
福島聖天通商店街
JR大阪環状線の福島駅を出て、並行して走る梅田貨物線の踏切を渡るとすぐの場所にあるのが福島聖天通商店街です。明治時代の「大坂みち(後の大和田街道)」に当り、西天満と尼崎を結ぶ重要な物流道路で、荷車や人の往来も多かったそうです。昭和時代初期には北大阪随一の盛り場となり、戦前は心斎橋筋や九条新道、10丁目筋(現 天神橋筋)と並んで大阪の4大商店街と称され、「北の心斎橋」とも呼ばれていたそうです。
電飾看板には「遊歩」の文字が躍ります。
「遊歩」→「ゆうほ」→「ゆーほー」→「UFO」!
そしてUFOを掴む両腕はUFOキャッチャーのアームではありませんか!?
数あるアーチの中でもかなり凝った今どきのデザインです。 -
福島聖天通商店街
裏側も違ったデザインにしています。
商店街の道筋は、福島聖天 了徳院への参拝道として古くから発展してきました。了徳院は、江戸時代に多くの信仰を集め、延命、敬愛、福徳、除災などを祈願する人々が年間100万人にのぼりました。現在その商店街は「売れても占い商店街」と呼ばれ、再び賑わいを見せています。
毎月第4金曜には、商店街に20~30人の占い師が集います。 -
福島聖天通商店街
商店街の名にもなる聖天 了徳院は、知る人ぞ知る易相の大家 水野南北が放蕩無頼であった青年期に院主から論されて一念発起、名実共に占いの大家として大成し、以来熟心な信者となり、江戸時代後期の寛政~天保にかけては全国に3千人もの易相弟子を擁したというエピソードがあります。これが「占いの商店街」構想のきっかけにもなりました。
商店街のマスコットキャラは「うららちゃん」です。あちらこちらの看板にその姿が見られます。 -
福島聖天通商店街
もうひとつのトピックは、「オーガニックストリート」と銘打っているように、この商店街では大阪で古くから栽培されていた野菜「なにわの伝統野菜」の取扱いや発信を行っていることです。「なにわの伝統野菜」として大阪府に認証されているのは「毛馬胡瓜」「天王寺蕪」など17品目です。商店街の中には「なにわの伝統野菜ミュージアム」なる畑があり、商店街に隣接する上福島小学校の子どもたちが野菜を育てています。 -
福島聖天通商店街
ここが占いが行われている場所です。何のことはない、普通の店舗です。
不幸な生い立ちから極道人となった水野南北は、罪を重ねて投獄されるも、出所後、ある易者に「おまえの命はあと1年」と宣告されます。慌てた南北は一念発起し、改心して僧侶になろうとします。しかし、出家に当り、米を断つことなど厳しい条件を提示されました。それは断る口実に過ぎなかったのですが、南北はその教えを忠実に守りました。そしてその間、この聖天さんにも訪れ、自分の過去の業を深く懺悔したのです。
1年を経て、以前の易者に占ってもらうと、「死相が消えているではないか!」と吃驚されたのです。その後、南北は易の研究を重ね、3千人の弟子を持つ大家となりました。 -
福島聖天通商店街
よく観ると街灯のデザインもUFOを模す徹底ぶりです! -
福島聖天通商店街
この先が「聖天通り」です。
聖天さんへ向かう場合は、ここを右に折れます。 -
⑥福島聖天 了徳院
商店街の名前の由来になった寺院です。
正式な寺名を如意山 了徳院と言い、地元では親しみを込めて「浦江の聖天さん」と呼んでいます。 -
⑥福島聖天 了徳院 山門
東寺真言宗派の寺院ですが、洪水のために記録が失われ、創建は不明です。しかし、大坂の陣を描いた絵図に了徳院の名があることから、戦国時代にはすでに存在していたと思われます。その後、高野山 善寿院の宥意上人が入寺し、1736(元文元)年に再興したと伝えます。
因みに、元文年間は徳川吉宗の時代の元号になります。その後、一時衰退していたのを僧某が1834(天保5)年に堂宇を再建しています。太平洋戦争の戦災でほとんど焼失しましたが、難を逃れた山門は寺院建築丸角流の代表作です。 -
⑥福島聖天 了徳院 山門
交差する大根の意匠がモチーフとなっており、祈願することによって得られるご利益を端的に表しています。大根は身体を丈夫にし、良縁を成就し、夫婦仲良く末永く一家の和合を表します。
それは歓喜天は大根が大好物だからです。願掛けの際に大根を備えれば大根を絶つこととなり、歓喜天が同情していち早く願いを叶えてくれるそうです。また、二股の大根や曲がった大根2本を交差させてお供えすると更に良いとされます。
とは言え、あまり易々とお願いをするのはお勧めしません。それは、反動が強い仏様だからです。
お願い事をする際は、身体の清潔は言わずもがな、怠ることなく勤行が求められます。お経を一字間違えただけでもその願いは叶わず、逆に厳罰が下るとも・・・。
ここぞと言う時のお参りは、ぜひ聖天さまへ! -
⑥福島聖天 了徳院 山門
単体多臂像の歓喜天(男天)が巾着袋(砂金袋)を手にしていることから、その巾着袋を模した意匠とされます。砂金袋は財宝と同義で商売繁盛を表し、聖天さまの信仰のご利益の大きいことを示しています。
聖天と大根の関係については諸説あります。その中の代表的な説を紹介します。
昔ある国の大臣が王妃と不倫関係になりました。それを知った王は毒である象の肉を大臣に食わせました。慌てた大臣に、王妃はケイラ山の大根を食べると毒が消せると教えました。かくして大臣は一命を取りとめましたが、王を恨んで大魔神ビナヤカと化し、国に禍をもたらしました。
それに対し、王と民衆は観世音菩薩に助けを求めました。すると、観音様は美しい女に化身してビナヤカの前に現れました。その美女に夢中になったビナヤカは、抱かせてくれと要求します。すると、観音の化身である美女は、「祟りを止め、仏法を守護する善神になると誓うなら抱いてもよい」と答えます。ビナヤカは、それを約束し、観音の化身の美女を抱いた後、善神となりました。 -
⑥福島聖天 了徳院 山門
御紋は「桔梗に十六菊花」です。
実は、福島聖天さんは江戸時代に伏見宮家の御祈願所だったからです。 -
⑥福島聖天 了徳院 山門
山門は著名な宮大工一派による江戸時代の再建とされ、建築意匠の丸角流の垂木が美しい四天王寺鐘桜の金剛流と並ぶ有名な様式を見せます。
上下2段の「二軒(ふたのき)」垂木は、下方の垂木を「地垂木」、上方の垂木を「飛檐(ひえん)垂木」と呼びます。奈良時代に正規の手法として日本で広まったのは、地垂木の断面を丸型、飛檐垂木の断面を角型とする「地円飛角」様式であり、中国伝来の建築様式のアレンジです。薬師寺 東塔や海龍王寺 五重小塔、唐招提寺 金堂、室生寺 五重塔など多くが採用しています。しかし、この山門の様式は「地円飛角」ではなく、中国生粋の「天円地方」です。つまり、上下の断面形状を奈良時代様式とは逆にした、日本では珍しい丸角様式です。因みに、平安時代以降の「和様」の基本は双方とも角材を用いた「地角飛角」へと切り替わりました。
一方、古代中国には天は丸、地は角の「天円地方」の世界観がありました。つまり、○と□で宇宙を表現するものです。宇宙全体の形(天円地方)を地上に描くことで、天から落ちてくる気を受け止め、宇宙と一体化できるとの思想です。それを敢えて奈良時代の日本では天の丸を下、地の角を上として逆にしたのは、よほど深い意味があってのことだったのでしょう。 -
⑥福島聖天 了徳院 山門
中国の寺院建築では、丸い垂木は木材そのものの丸みを利用したものでした。伝来当初は中国に倣っていたと思われますが、日本人はそれでは満足できず、敢えて角材を用いて4角形を8角形に、8角形を16角形へと加工を繰り返し、徐々に円形にしました。その意味では日本人の几帳面さを象徴する意匠のひとつと言えます。
尚、ここの飛檐垂木は、地垂木で隠れて見えない部分は角材のまんまの省エネタイプです。その意味で日本伝統の「地角飛角」でなく、「天円地方」としたのは合理的と言えます。見た目だけでも美しくしたいのは現代人にも通じる日本人の悲しい性かもしれませんが、それを合理的にやり遂げる知恵も忘れないのは流石です。このように日本人の性格が建造物にも反映されていることを知れば、建物鑑賞も面白くなるかも…。 -
⑥福島聖天 了徳院 山門
山門の見所は丸角流の建築意匠だけではありません。大阪府指定文化財『子持ち龍』の彫刻にも注目です!立川流の「子持ち(親子)龍」の形態なのでしょうか?
当方の解釈では、正面に宝珠の玉を持つ雄龍、門の裏手に雌龍、妻側に複数の子龍たちを配していると読み取りました。
それ故、子授けのご利益が得られるパワースポットとして知られているのではないでしょうか? -
⑥福島聖天 了徳院 山門
少し斜めから見ると迫力が増します。 -
⑥福島聖天 了徳院 山門
こちらが雄龍の裏面です。
本尊は、准胝観音(心の働きを清浄にする仏で、安産・子授けの功徳もあり、水神ともされる。)と呼ばれる古い神様と秘仏 大聖歓喜天(十一面観世音菩薩)です。
大聖歓喜天は浦江がまだ海岸だった頃、漁師の網にかかって海中から出現したと伝えられ、象頭人身男の荒神と十一面観音菩薩の化身である女神の抱擁する双身像です。ヒンドゥー教のガネーシャが起源の仏教の守護とされ、ガネーシャはインドの智恵の神・学問の神とされ、延命・敬愛・福徳・除災の神としても信仰されています。
また、あまり知られていませんが荼枳尼天も祀っています。 -
⑥福島聖天 了徳院 山門
男女和合や縁結び・子宝に恵まれるとして女性の参拝者も多いようです。
『なにわ福島ものがたり』(福島区歴史研究会刊)によると、水商売(北新地など)や堂島米相場師などの信仰が篤かったようです。子宝・縁結びにご利益があり、それに野田藤や杜若が華を添えることで「一挙了徳(両得)」院と名乗っているのかもしれません。 -
⑥福島聖天 了徳院 山門
こちらが門の裏手にある雌龍です。雄龍よりも小振りに彫られています。
大聖歓喜天は十一面観世音菩薩として仏様の姿で描かれることもありますが、了徳院の別名である「聖天」の名で呼ばれる場合、象の頭を持つ姿として描かれることが多いようです。何故、象の頭を持つ姿で描かれるのかというと、元々は仏教が誕生したインド土着の神様だからとされます。インドではガネーシャ神をはじめ、象を神様と見做す風習があり、邪悪な魔神として大暴れしていた象の頭をした神を美女の姿に化身した十一面観世音菩薩が仏の教えで改心させます。2人が抱き合った瞬間、魔神は帰依し、仏の教えを護る眷属に生まれ変わったとされます。その眷属が歓喜天です。了徳院の秘仏はこの歓喜の瞬間を仏像として表現した姿とされます。そして歓喜天は参拝した者に富をもたらし、祈願した男女には縁結びと子授けのご利益があると古来信仰を集めてきました。 -
⑥福島聖天 了徳院 山門
切妻屋根の妻側には子龍たちを配します。 -
⑥福島聖天 了徳院 山門
少しズームアップするとよく判ります。 -
⑥福島聖天 了徳院 山門
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⑥福島聖天 了徳院 山門
反対側にも同じく子龍たちが遊んでいます。 -
⑥福島聖天 了徳院 山門
屋根の破風板に下がる懸魚は「巾着」とその下に「2本の大根」を象った合わせ技です。 -
⑥福島聖天 了徳院 山門
門の内側から妻側を見たところです。
鳩除けの金網が邪魔してよく観られないのが残念です。
是非肉眼で観てください。 -
⑥福島聖天 了徳院 鐘楼
太平洋戦争の戦災で焼けていますので、戦後の再建です。 -
⑥福島聖天 了徳院 鐘楼
蟇股は「桔梗紋」に「波」です。 -
⑥福島聖天 了徳院
大香炉そのものを巾着に見立て、そこに交差した2本の大根をあしらっています。 -
⑥福島聖天 了徳院
「のだふじ巡り」の名所のうち、開花が一番遅いと言われているのがここの藤です。
また、花房が長いことでも知られています。 -
⑥福島聖天 了徳院
最盛期には1mくらい花房が垂れるそうです。
長さはあるものの、花房の数では今年はちょっと寂しいかもしれません。 -
⑥福島聖天 了徳院
「野田藤」は大阪市福島区の区の花に制定されています。また、2024年に発行予定の新五千円札の図柄に「野田藤」の採用が決まりました。『古事記』や『万葉集』にも登場するなど古来多くの人に親しまれていることが採用に至った理由だそうです。
近代的な女子高等教育に尽力した津田梅子を肖像画とする新五千円札は紫色を基調としており、紫色の花が美しい野田藤とも色合いが馴染むと評価されたそうです。 -
⑥福島聖天 了徳院
ここの藤は江戸時代から『浪花名所案内』に載っており、大田南畝(蜀山人)も紀行文『葦の若葉』に「けふは野田の藤みん」との探訪記録を次のように綴っています。
「それより麦畑をつたいて左のかたにゆく。
小流の橋を渡り了徳院にいたる。
池に杜若さかりなり。
紫の藤棚あり、白き藤も有り。
白きはふさみちかし。
花大なりめつらしき藤なり。」
文面からは、どうやら杜若の鑑賞が目的だったことが窺えます。そこに偶然紫と白色の藤が咲き誇っており、思わぬ収穫に感激を顕わにしたのでしょう。
因みに、蜀山人は江戸時代中~後期に活躍し、下級武士の身でありながら狂歌師や戯作者、また学者としても人気を博したマルチな文化人でした。 -
⑥福島聖天 了徳院
福島聖天さんの熱心な信者には、江戸時代の易相学者「水野南北」や北前船で莫大な利益を得た淡路の廻船商「高田屋嘉平衛」がいます。また、現代では現パナソニック創業者「松下幸之助」氏や丸大食品創業者「小森敏之」氏などが挙げられます。
昔から庶民信仰の盛んな寺院であり、株の相場師や遊女、商売人など 投機的な生業の人々が足しげく通ったと伝わります。因みに、「水商売の神様」としても崇められており、曽根崎新地の芸妓の名前が玉垣にあるほどです。 -
⑥福島聖天 了徳院
福島区は現 パナソニックの創業地でもあります。松下幸之助氏は聖天尊を仰ぎ、霊験を受けて金融恐慌からの業績悪化を乗り切ったと伝わります。
創業から15年間、この地で事業を発展させ、現在の門真市へと本社を移転しました。1960年代には、幸之助氏から発売間もないカラーテレビがこのお寺に寄贈されたそうです。お寺にはお年寄りたちが大勢集まり、テレビを囲みながら憩う風景が毎日見られたそうです。 -
⑥福島聖天 了徳院 倶哩伽羅(くりから)龍王
放生池「亀の池」には倶哩伽羅龍王が安置されています。龍は、元々創業や結婚などの成就のシンボルでもあります。
因みに、倶利伽羅龍王は、インドの八龍王(日本の八大龍王とは異なる)の一尊です。災厄を切り裂く利剣に倶利伽羅龍王が巻き付き、それを呑み込もうとする姿は、倶利伽羅不動とも呼ばれ不動明王の化身として崇められてきました。不動明王の威力をより強力に示すものとして、人々を守護し、煩悩の迷いから悟りへと導き昇華させます。龍の姿は魔を退散させる力を放ち、富貴を呼ぶ姿ともされています。 -
⑥福島聖天 了徳院 倶利迦羅剣
不動明王の立像が右手に持つ剣を倶利迦羅剣と言います。三昧耶形では不動明王の象徴そのものであり、貪瞋痴の3毒を消す智恵の利剣です。
『倶力伽羅龍王儀軌』には、大日如来が変じて不動明王となり、不動が変じて剣となり、剣に所縁のあるサンスクリットの種子(シンボル文字)が龍王の形となるとの説明が見られます。
『覚源鈔(下巻)』によると、倶利迦羅龍王は人の住むこの世を、剣は仏界を、それぞれ表します。これは衆生の心の中に仏の知剣を導き入れて仏と人が一体となることの喩えで、それを剣を呑み込む龍で表現しています。 -
⑥福島聖天 了徳院 「杜若塚」
右側の黒っぽい石が芭蕉の「杜若塚」です。芭蕉没後120年を偲んで大坂在住の俳人社中が1814(文化11)年に建立しました。正面には芭蕉の句が刻まれているのですが、風化と剥離のため読解不能です。裏面には塚を建立した俳人 松井三津人の名と句「親かとも おもふ夜もあり 山の月」を刻んでいます。
左手は真新しい芭蕉の句碑の「解説碑」です。
古代のこの辺りは古大和川と淀川が入り組んだ湿地帯だったこともあり、境内にある方丈池はカキツバタの名所として知られています。(例年5月初旬が見頃)
松尾芭蕉は『笈の小文』という俳諧の旅で2度目に大坂を訪れた1688(貞享5)年4月22日、45歳の時、大坂の門人 保川一笑(通称 紙屋弥右衛門)を訪ねた際に「杜若 語るも旅の ひとつかな」と詠んでいます。
江戸時代の錦絵『浪花百景』には「うらえ杜若」というタイトルの絵があり、大坂の観光名所のひとつだったようです。 -
⑥福島聖天 了徳院 大日大聖不動明王 水掛不動
高田屋嘉兵衛は、淡路島と大坂を行き交う貧しい船乗りでした。しかし、親孝行のためにと努力を重ね、この聖天さんに毎日お祈りを捧げていました。ある日、それを見た堂島の米問屋の主人がその熱心な姿に心打たれ、松前(北海道)に米を運ぶ商売を任せてくれることになり、彼は北廻船の航路を開き大商人として成功したそうです。
これも聖天さんのご利益とされています。
因みに、本尊「準胝観世音菩薩」は江戸時代に高田屋嘉兵衛が寄進したとされます。 -
⑥福島聖天 了徳院 さざれ石
ここの聖天さんの話ではありませんが、篤く聖天さんを信仰した女性が5代将軍 徳川綱吉を産んだ「桂昌院」です。彼女は、元々は京都の八百屋の娘でした。しかし、信仰心が篤く、春日局に引き立てられ、将軍 家光の側室にまで出世しました。そして、綱吉を産み、将軍の母親となったのです。
後に桂昌院は、従一位という最高の位を授けられ、大商人などの力を借りながら護国寺(東京)など多くの寺院を建て、より深く仏教に帰依しました。
聖天信仰が盛んになった理由もこの出世話にあるのかもしれません。 -
⑥福島聖天 了徳院 石造五重塔
借景の高層ビルは「シティタワー西梅田」です。
2007年に竣工した西梅田に立地する高さ177mのタワーマンションで、ガラス・カーテンウォールを採用したスタイリッシュな外観が特徴です。
完成時は日本最高層の免震構造建築物でした。
キャッチフレーズは「地上50階、梅田の空に描く新しいスカイマーク」。 -
⑤認定こども園 和光園
聖天さんのすぐ西隣にあります。 -
⑤認定こども園 和光園
野田藤はたった1本の木から枝分かれしてこのようにフェンスを覆っています。 -
⑤認定こども園 和光園
それにしても藤の花の見頃の期間は本当に短いものです。
花の中で1番見頃に出会うのが難しいかもしれません。
それ故に人の心を揺さぶるものがあるのでしょう。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。
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