2022/04/10 - 2022/04/10
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bunbunさん
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六道の堤は六道原を開田するために、江?時代に 高遠藩の直営工事として築かれました。高遠町?藤の藤沢川から水を引くため、約 10 ㎞もの水路を建設し、嘉永4 年(1851年)に完成しました。菱形に近い広さ約1.6 haのこの堤は、現在も六道原に広がる33.5 haの水田に水を供給していますが、 堤の周りには、約120本のタカトオコヒガンザクラが植えられ、桜の名所となっています。
伊那公園は市街地の東の段丘上に位置し、古くから桜の名所として住民から親しまれてきました。昭和22年(1947年)に市営球場が開設されて以来、テニスコート、県営球場、プール等の運動施設が順次整備されるなかで、昭和39年(1964年)3月には都市計画公園として計画決定され、総合公園として多くの市民に利用されています。広さは約11 haで、園内にはソメイヨシノ180本、コヒガンザクラ102本、計282本のサクラがあります。本文中では記載しませんが、白っぽいサクラがソメイヨシノ、ピンクのサクラガコヒガンザクラです。
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高遠城址公園の見学を終え、その西約4 kmにある六道の堤に、国道361号線、長野県道207号美篶箕輪線を通ってやって来ました。
堤の南東角から見た北北西方向。
堤の中に松の生えた島があり、その背後に堤の周辺に植えられた満開のサクラがみえます。
水面が比較的静かで、松の木やサクラが映って綺麗ですね。 -
この後堤を時計回りに1周します。
西方向にみた遊歩道。 -
ちょっとズームインして、島の右(東)側。
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島の左(西)側。
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北西方向に見た堤の西側縁のサクラ。
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堤の西側縁のサクラ、ズームイン。
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1つ上の写真の左側。
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島と堤の北側縁のサクラ。
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1つ上の写真の島を含んだ方向、ズームイン。
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堤の西側縁のサクラ。
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堤の西側、北側縁のサクラ。
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堤の西側縁のサクラ。
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堤の西側、北側縁のサクラと島。
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堤の北側縁のサクラ
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堤の西側縁のサクラ。
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堤の南西の角に来ました。
北東方向に見た堤の西側縁の遊歩道。 -
堤の西側縁から見た東方向。
北側縁と南側縁のサクラと島。 -
南東方向、ズームイン。
サクラと南アルプス。 -
井上井月句碑
逆光で、彫られた句が全く読めず、申し訳ございません。
詳細は以下をご覧ください。 -
井上井月句碑の説明板
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堤の南側縁のサクラと南アルプス。
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1つ上の写真の中央付近、ズームイン。
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西側縁と北側縁のサクラ。
ラッパスイセンも咲いてるね(左下)。 -
西側縁と北側縁のサクラ。
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堤の北西の角まで来ました。
北側縁のサクラ。 -
東方に見た北側縁の遊歩道。
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東方に見た北側縁の遊歩道。
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北側縁から見た南方。
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北側縁のサクラ。
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北側縁の東端付近から見た堤。
ニシキゴイがいるね。 -
南方。
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南南東方向。
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堤東側の車道に来ました。
北方のサクラとラッパスイセン。 -
ラッパスイセンも含めて北方、ズームイン。
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西側縁と北側縁のサクラ。
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南に進んだ北方。
岸辺の鴨さんズームイン。
これで、六道の堤を1周しました。 -
国道361号線を6 km程西に走って伊那公園にやって来ました。
公園のほぼ中央にある駐車場に車を停めて南に歩き、伊那市営野球場の南側です。
白とピンクのサクラが綺麗に咲いてます。
この後西に進んでいきます。 -
西に進んで見た東方のサクラ。
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さらに西に進んで見た東方のサクラ。
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さらに西に進んで見た東方のサクラ。
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さらに西に進んで見た東方のサクラ。
中央やや右下後方に滑り台が見えると思いますが、この付近から西は伊那公園児童遊園地となります。 -
サクラの上部も含めてもう一枚。
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SLがある。デゴイチですね。
デゴイチは1号から1115号まで作られました。このSLのナンバープレートはD51 209ですから、209番目に作られたいうことですね。製造は1939年、当時の国鉄浜松工場で、その後浜松区、多治見区、稲沢一区、中津川区を走り、1973年に廃車となりました。1974年に長野鉄道管理局長と伊那市長との間で無償貸与契約締結され、現在この地にあります。 -
さらに西に進んで見た東方のサクラ。
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北東方向。
広場です。ここにも滑り台がありますね。 -
1つ上の写真の左側(北方)。
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さらに西に進んで見た東方のサクラ。
ここが伊那公園児童遊園地入口ということですか。 -
さらに西に進んで見た東方のサクラ。
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さらに西に進んで見た東方の伊那東大社の鳥居とサクラ。
特に明確な境界はありませんが、ここは伊那公園の外側になります。 -
鳥居右横の社名碑とサクラ。
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北に進んで見た北西のサクラ。
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さらに北に進んで見た北方のサクラ。
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西に進んで見た北方のサクラ。
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さらに西に進んで見た北方のサクラ。
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さらに西に進んで見た北方のサクラ。
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さらに西に進んで見た東方の上伊那招魂社の鳥居とサクラ。
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上伊那招魂社の社名碑とサクラ。
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東方のサクラ。
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東に少し戻って南側にあった「長野県日の丸会連合会之由来記」。
読みにくいと思いますので以下に文章を書き写します。
「日本国民の歴史と伝統のシンボルである国旗「日の丸」は、大東和戦争が終結した昭和20年8月15日をもってその掲揚が禁止された。しかし連合国司令長官マッカーサー元帥は日本国民の国旗に対する強き愛護精神を理解され、昭和24年1月6日の年頭のメッセージに於いてその禁を解かれた。しかしながら国民は敗戦の反響によって国旗の掲揚を怠る者が多かった。
時の総理大臣吉田茂氏はこれを憂慮し、昭和38年4月19日、全国日の丸会連合会の結成を計り、日本大学講堂に15,000余の有志の参集を得てその発会式を盛大に挙行、吉田総理が会長に推戴され全国民が日の丸の旗の元に一致団結しようととのスローガンを掲げた。それには長野県上伊那日の丸会会長荻原伝一氏と共に久保村保市も参列した。
昭和50年1月、久保村保市はこの組織を長野県日の丸連合会として発展改組し、会長に選任された。本会は長野県知事吉村午良氏を顧問に推戴し、長野、松本をはじめ県内各市町村に呼びかけて21ヶ市町村に支部を置き、会員の増強を図り、約3千有余の参集を得て、各地に日の丸愛護運動を盛り上げ、幾多の事業を催しその成果を得た時にたまたまやまびこ国体となり、日の丸の需要も多く、その数5万本を越えた。
文部省は昭和22年、新学習要綱に国家君が代と国旗日の丸を政令により制定した。その後昭和59年2月12日、全国の小中学校児童生徒に祝祭日に国旗日の丸掲揚と国歌君が代の斉唱を告示した。これに応えて長野県議会をはじめ、全国都道府県議会においてもこの趣旨が議決された。
この二十余年の間に渉り、日の丸愛護運動が全県的に拡がり、幾多の事業を仕上げたことは誠に同慶に耐えない限りである。これも偏えに賛助会員各位の国を愛する至誠の賜物と深甚なる感謝を捧げると共に、ここに本会の由来を誌した次第である。
昭和62年2月11日
久保村保市謹誌」
漢数字は適宜アラビア数字に変えました。また句読点は適当と思われる所に入れてあります。
長野県日の丸会連合会はあまり耳にしませんねえ。
日の丸掲、君が代も、特に後者は未だに議論がありますし。 -
長野県日の丸会連合会十周年記念碑。
随分汚れた日の丸だ。メンテもされていないか。 -
東方のサクラ。
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東に戻ってまた伊那公園です。
東南東方向のサクラと南アルプス。 -
また少し東に移動して、東南東方向のサクラと南アルプス。
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北東方向の「伊那節発祥の地」の碑。
「木曽へ木曽へとつけだす米は
伊那や高遠のあまりごめ
東仙丈 西駒ケ岳
間を流れる天竜川
旅のもの
久保田万次郎
しるす」
1960年に建てられた碑で、文字は久保田万太郎がこの地を訪れた時に書いたものです。 -
「伊那節の由來」の説明板。
読みにくいと思いますので以下に文章を書き写します。
「遠い我等の祖先の生活から生まれた「おんたけやま」という山國民謡がある。伊那の人々はこの歌に郷土の生活感情をうたい込んで近世まで傳承されて来た。
元禄9年権兵衛峠の開鑿により、伊那から木曾への交通が繁くなり、高遠領、箕輪領の米が多量に移出された。この往來から雨谷の環境と人情とを結ぶ伊那の民謡として獨特な成長を遂げ、宴席には必ずこれを歌う風習になった。
明治12年伊那に上伊那郡役所が設置され町は急速なる発展を見た。この新しい郷土の象徴として「おんたけやま」も大きく成長して伊那の代表的民謡となった。
明治41年長野市に開かれた一府十縣共進會の際出演して好評を博し、これから伊那節と呼ばれ、他府縣にも廣まった。これを契機に伊那節保存會や普及會が起こり、又唄や踊りの定型化、新歌詞の發生等があって益々盛んになり、昭和に入りレコードやラジオの發達に伴ない、新しいくふうが加えられて、幾度かの全国民謡大會に出演していよいよ天下の伊那節となった。
昭和35年4月 建之
伊那市
伊那商工会議所
追補
詞碑が建立されて幾年もの歳月が経過しました。
それと共に碑も風化し,改修を余儀なくされました。
同時に「伊那節の由来」も風化されており、貴重な資料を後世に残す為ここに銅板に刻むこととなりました。
平成17年3月吉日
改修業者 ㈲小林石材 小林健次
銅刻 ㈱中央鈑金」
漢数字は適宜アラビア数字に変えました。また句読点は適当と思われる所に入れてあります。 -
北に進んで見た東北東のサクラ。
中央下は伊那東大社の参道です。 -
北東のサクラ。
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北北西のサクラ。
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東北東方向。
伊那東大社の前す。
狛犬と階段の上に鳥居が見えます。 -
参道を前に進んだ左側の手水舎。
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参道右側の「伊那東大社由緒略記」。
読みにくいと思いますので以下に文章を書き写します。
「神社名 伊那東大社
鎮座地 伊那市中央5508番地
祭神
天照皇大神(あまてらすすめのおおみかみ) 誉田別尊(はんだわけのみこと) 天児屋根命(あめのこやねのみこと) 素盞鳴尊(すさのうのみこと) 猿田彦命(さるたひこのみこと) 建御名方命(たけみなかたのみこと) 伊弉冉命(いざなみのみこと) 崇徳天皇(すとくてんのう) 金山彦命(かなやまひこのみこと) 手力雄命(てぢからおのみこと) 高皇産霊尊(たかむすびのみこと) 軻遇突智命(かぐつちのみこと) 応神天皇(おうじんてんのう) 管原道真公(すがわらみちざねこう) 保食神(うけもちのかみ) 日本武尊(やまとたけるのみこと) 少彦名命(すくなひこなのみこと)
由緒
明治維新により急速に日本の近代化を進める明治政府は、神社は国家の宗祀なりとの方針から、非宗教としての神社の整理を進め、明治39年国の神社合併策に従い、その実施は県知事に委ねられた。当地域では元禄7年検地の際は鎮座されていた古町日陰境上新田下新田の伊那部籍五部落の、村社七社無格社七社境内社八社非公認社四十七社を合祀し、伊那部社と称し現在地に設立を進めた。
明治42年6月18日社号伊那東大社と認可され、同時に神饌幣帛供進の指定も受けた。明治42年起工同年12月7日正遷宮を斎行した。以後20周年記念に玉垣を建設、昭和53年大鳥居再建、昭和61年内拝殿並に神饌所新設境内整備実施、平成10年伊勢神宮より式年遷宮の古材を拝領御本殿を神明造に改築した。伊那の市街地の中心を流れる天竜川の東側の大部分を氏子とする当社は地の利も良く年間を通して参拝者が絶えず御社頭は賑わっている。
・・・中略・・・
伊那東大社合祀白周年記念
平成21年11月吉日」
漢数字は適宜アラビア数字に変えています。 -
階段を上りました。
伊那東大社の鳥居と拝殿。 -
西に進んだ北北東方向。
この碑を含めて3つの満蒙開拓青少年義勇軍関連の碑を示します。
1936(昭和11)年、広田弘毅内閣の下、関東軍が立案した満州農業移民の大量送出計画が国策として決定されました。その背景には「満洲国」の治安維持や、ソ満国境の防衛力強化といった軍事目的がありました。「移住すれば20町歩(ヘクタール)の地主になれる」と大々的に宣伝され、政府は町村単位の開拓団送出に補助金を出してこれを奨励しました。
日本全国で約800の開拓団、青少年義勇軍を含めて27万人が満州に渡りましたが、その中でも長野県から(3万3000人)が突出して多かったのです。その理由として、世界恐慌(1929年)後の生糸価格暴落により養蚕業が衰退して農村が困窮したこと、地元の行政・教育界の指導者に満蒙開拓の推進者が多かったことなどが挙げられています。県内では南部の飯田・下伊那地区が最も多くの開拓団を送り出したました。
「満蒙開拓青少年義勇軍招魂碑」
碑文
「満州国開拓青少年義勇軍は、昭和12年我が国の国策にして満州国(現中国東北)の広大にして肥沃なる未開の原野を開拓し、食糧の増産と友好国大満州国建設の礎石なるべく強健なる体力と精神力を持った青少年による移民団であり、又の名を鍬の戦士と呼ばれた。昭12年先遣隊渡満以来、終戦まで数百万の青少年が大望を懐いて渡満した。然るに昭和20年8月15日終戦により日本引揚げを余儀なくされた。この間異郷にありて大理想郷建設の為 日夜激務に精励し其の尊き犠牲となり、又不幸にして病に仆れ、或は大東亜戦争に出征し 命を戦場に散したる全県下の拓友の尊い数多の御霊を慰めんため、戦後21年を過ぎた今日 生還せし同志相集いて此処に碑を建立し其の聖霊を祀る。
曙 会」 -
「吾等の魂を永遠に此処に刻む」
碑文
「昭和16年3月、青少年は満蒙開拓の国策による大満州国建設を夢みて、上下伊那、南北佐久、諏訪の5郡より236名が内原訓練所に入所、同年6月渡満、寧安訓練所に於て3ヶ年の農事軍事訓練を終て、19年寧安県西海浪龍川義勇隊開拓団として入植す。同年に団長病魔に斃れ、団員相ついで軍に召され、20年発月ソ連軍侵入、敗戦と混乱の中に団を放棄し 団友は戦火に散り、病魔におそわれ、シベリヤ奥地に囚われの身となり、苦難筆舌に尽し得ず、かくして30年の歳月が流れ、生存者今ここに集い友を偲びつつ、真に平和を希って止まない、世界少年史上に比類なき可憐にして壮烈な拓士達の青春の譜として、吾等の魂を此処に刻む。
昭和四十六年十月十七日 龍川会」 -
少年の塔
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少年の塔の解説板
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また少し西に移動した北北東方向。
「御社殿営繕記念碑
上伊那招魂社崇敬者會」 -
上伊那招魂社拝殿
大東亜・日清・日露・西南戦争等で国のために亡くなられた方々が御祭神として祀られています。この名称は1939年に護国神社に改称されましたが、護国神社は基本各県1社とされ、長野県では松本の招魂社が護国神社となったため、伊那の招魂社はそのままの名称が残されています。ちなみに東京都の招魂社は靖国神社です。 -
画人三代碑
1代 池上休柳、
2代 池上秀花
3代 池上秀畝
と3代にわたって山水画、花鳥画を追求した高遠町の画家です。 -
サクラはほぼ見終わったので駐車場に戻ります。
戻る途中で見た南アルプス。 -
戻る途中で見たサクラ。
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戻る途中で見たサクラ。
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戻る途中で見たサクラ。
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戻る途中で見たサクラ。
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ちょっと遠回りして公園北側駐車場のサクラ。
ポルシェはもちろん私が乗って来たものでではありません。 -
公園北側駐車場のサクラ。
これで六道の堤と伊那公園のサクラ見物は終わりです。
この後今夜の宿泊ホテルである高遠城址公園南側の高遠さくらホテルに向かいます。
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