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若かりし頃、コンピュータの技術を共に学んだ5名の同窓会・・・これまでは東京で開催していましたが、仲間の一人が小田原在住ということで次回は『小田原攻め』を決めましたが、コロナのために3年が経過・・・現在も収束していませんが、4月中旬に久しぶりの再会を果たしました。<br />小田原を訪れたのは、子供が小学生の頃だったので、約40年振り・・・今回は時折小雨がパラつく中、地元の幹事さんの名ガイド(?)のおかげで、日本百名城の小田原城を中心に街の散策を楽しみました。

久し振りの小田原散策

4いいね!

2022/04/14 - 2022/04/14

1368位(同エリア1806件中)

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ペコちゃん

ペコちゃんさん

若かりし頃、コンピュータの技術を共に学んだ5名の同窓会・・・これまでは東京で開催していましたが、仲間の一人が小田原在住ということで次回は『小田原攻め』を決めましたが、コロナのために3年が経過・・・現在も収束していませんが、4月中旬に久しぶりの再会を果たしました。
小田原を訪れたのは、子供が小学生の頃だったので、約40年振り・・・今回は時折小雨がパラつく中、地元の幹事さんの名ガイド(?)のおかげで、日本百名城の小田原城を中心に街の散策を楽しみました。

旅行の満足度
4.5
同行者
友人
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
私鉄 徒歩
  • 今回は、千葉在住の女性軍は新幹線で、男性軍は小田急ロマンスカーで小田原に向かい、現地で合流することに。<br />缶ビール片手に新宿発10時の「はこね7号」に乗車し、積もる話をしている間に、11時11分に小田原到着。

    今回は、千葉在住の女性軍は新幹線で、男性軍は小田急ロマンスカーで小田原に向かい、現地で合流することに。
    缶ビール片手に新宿発10時の「はこね7号」に乗車し、積もる話をしている間に、11時11分に小田原到着。

  • 1920年に開業したJRに続き、1927年に小田急電鉄も乗り入れた小田原駅・・・箱根登山鉄道も含めた各線は、2003年に完成した橋上駅舎によって結ばれています。

    1920年に開業したJRに続き、1927年に小田急電鉄も乗り入れた小田原駅・・・箱根登山鉄道も含めた各線は、2003年に完成した橋上駅舎によって結ばれています。

  • 改札口を出た所で全員集合・・・先ずは、西口へ。<br />ロータリーには、小田原市の施政50周年を記念して1990年に建立された「北条早雲公像」があります。<br />騎馬の足元に彫られた三頭の牛は、北条早雲の「火牛(かぎゅう)の計」をモチーフにしたもので、像の高さは5.7m、重さ7tと日本最大級の銅像です。

    改札口を出た所で全員集合・・・先ずは、西口へ。
    ロータリーには、小田原市の施政50周年を記念して1990年に建立された「北条早雲公像」があります。
    騎馬の足元に彫られた三頭の牛は、北条早雲の「火牛(かぎゅう)の計」をモチーフにしたもので、像の高さは5.7m、重さ7tと日本最大級の銅像です。

  • メインの東口へ行くと、3階にあたる広場のデッキから正面に小田原城が。<br />小田原といえば、後北条氏の本拠地・・・後北条氏の祖となった北条早雲が大森氏から当地を奪取したのは1495年のこと。<br />以後、後北条氏の勢力拡大に歩調を合わせるように、小田原は城下町として発展を続け、江戸時代には東海道の重要な宿場町として賑わいました。

    メインの東口へ行くと、3階にあたる広場のデッキから正面に小田原城が。
    小田原といえば、後北条氏の本拠地・・・後北条氏の祖となった北条早雲が大森氏から当地を奪取したのは1495年のこと。
    以後、後北条氏の勢力拡大に歩調を合わせるように、小田原は城下町として発展を続け、江戸時代には東海道の重要な宿場町として賑わいました。

  • 鎌倉時代の執権「北条氏」と戦国時代の「後北条氏」・・・同じ「北条氏」を名乗っていますが、両氏族は関係ありません。<br />後北条氏初代・北条早雲の名前は伊勢新九郎盛時で、「北条」を名乗ったのは2代目・氏綱の時代から・・・北条早雲は後年の呼び名です。<br />しかし、北条早雲のルーツを辿ると桓武平氏の流れを汲み、鎌倉時代の初代執権の北条時政も同じ桓武平氏に行き着くため、元を辿れば同じ一族かも知れません。

    鎌倉時代の執権「北条氏」と戦国時代の「後北条氏」・・・同じ「北条氏」を名乗っていますが、両氏族は関係ありません。
    後北条氏初代・北条早雲の名前は伊勢新九郎盛時で、「北条」を名乗ったのは2代目・氏綱の時代から・・・北条早雲は後年の呼び名です。
    しかし、北条早雲のルーツを辿ると桓武平氏の流れを汲み、鎌倉時代の初代執権の北条時政も同じ桓武平氏に行き着くため、元を辿れば同じ一族かも知れません。

  • 「北条氏」は正三角形、「後北条氏」は二等辺三角形という違いがありますが、家紋は両氏とも「三つ鱗」。

    「北条氏」は正三角形、「後北条氏」は二等辺三角形という違いがありますが、家紋は両氏とも「三つ鱗」。

  • デッキを城の方に進むと、2020年にオープンした「ミナカ小田原」。<br />市民公募で付けられた「ミナカ小田原」の「みなか」とは、真ん中(中心)という意味の古語・・・ここが小田原の中心として愛されるように、との願いが込められています。

    デッキを城の方に進むと、2020年にオープンした「ミナカ小田原」。
    市民公募で付けられた「ミナカ小田原」の「みなか」とは、真ん中(中心)という意味の古語・・・ここが小田原の中心として愛されるように、との願いが込められています。

  • 14階建のタワー棟(右側)と、4階建の「小田原新城下町」(左側)に囲まれたこの3階のスペースは「金次郎広場」。<br />タワー棟の最上階には、小田原市街を一望できる無料の展望足湯庭園もあります。

    14階建のタワー棟(右側)と、4階建の「小田原新城下町」(左側)に囲まれたこの3階のスペースは「金次郎広場」。
    タワー棟の最上階には、小田原市街を一望できる無料の展望足湯庭園もあります。

  • ミナカ小田原には40以上の店舗が集結し、タワー棟は蔵造り風。

    ミナカ小田原には40以上の店舗が集結し、タワー棟は蔵造り風。

  • 向かい合わせの「小田原新城下町」は、江戸の情緒が漂っています。

    向かい合わせの「小田原新城下町」は、江戸の情緒が漂っています。

  • 金次郎広場の突き当りに、2019年に建てられた「二宮金次郎夫婦像」。<br />郷土の偉人・二宮金次郎(1787~1856)は、少年期に父母を相次いで失い伯父に引き取られますが、農作業の合間の寸暇を惜しんで勉学に励み、後に実家の農地の復旧に成功し、さらに武家奉公にも出て奉公先の財政再建にも尽力するなど、農・財政で力を発揮・・・農業を基本とする領地経営の方策は、「報徳仕法」として江戸後期の重要な領地経営論とされ、経済と道徳の融和を基本とする独自の「報徳思想」とともに、後の農政や道徳教育に大きな影響を与えました。

    金次郎広場の突き当りに、2019年に建てられた「二宮金次郎夫婦像」。
    郷土の偉人・二宮金次郎(1787~1856)は、少年期に父母を相次いで失い伯父に引き取られますが、農作業の合間の寸暇を惜しんで勉学に励み、後に実家の農地の復旧に成功し、さらに武家奉公にも出て奉公先の財政再建にも尽力するなど、農・財政で力を発揮・・・農業を基本とする領地経営の方策は、「報徳仕法」として江戸後期の重要な領地経営論とされ、経済と道徳の融和を基本とする独自の「報徳思想」とともに、後の農政や道徳教育に大きな影響を与えました。

  • 道路側から見た小田原新城下町・・・ローソンも江戸の風情に溶け込んでいます。

    道路側から見た小田原新城下町・・・ローソンも江戸の風情に溶け込んでいます。

  • 小田原城の北入口に向かって歩いて行くと、歩道に歓迎のタイルが。

    小田原城の北入口に向かって歩いて行くと、歩道に歓迎のタイルが。

  • タイルは大名行列へと続きます。

    タイルは大名行列へと続きます。

  • ミナカ小田原から5分ほどで小田原城の北入口へ。

    ミナカ小田原から5分ほどで小田原城の北入口へ。

  • 小田原城の前身は、室町時代に西相模一帯を支配していた大森氏が15世紀の中頃に築いた山城ですが、15世紀末、北条早雲が小田原に進出し、小田原城を関東支配の中心拠点として整備拡張し、以後、北条氏が5代・約100年に亘って関東での勢力を拡大していきました。<br />3代・北条氏康の頃には、上杉謙信や武田信玄の攻撃を籠城戦の末に防ぎ切り、小田原城は関八州の覇者・後北条氏の難攻不落の居城として名を馳せることとなります。<br />この当時、小田原城は9kmに及ぶ土塁や空堀で、城下を囲む総構えを築き上げましたが、1590年、豊臣秀吉の小田原攻めにより北条氏は滅亡し、戦国時代は終りを迎えました。

    小田原城の前身は、室町時代に西相模一帯を支配していた大森氏が15世紀の中頃に築いた山城ですが、15世紀末、北条早雲が小田原に進出し、小田原城を関東支配の中心拠点として整備拡張し、以後、北条氏が5代・約100年に亘って関東での勢力を拡大していきました。
    3代・北条氏康の頃には、上杉謙信や武田信玄の攻撃を籠城戦の末に防ぎ切り、小田原城は関八州の覇者・後北条氏の難攻不落の居城として名を馳せることとなります。
    この当時、小田原城は9kmに及ぶ土塁や空堀で、城下を囲む総構えを築き上げましたが、1590年、豊臣秀吉の小田原攻めにより北条氏は滅亡し、戦国時代は終りを迎えました。

  • ここは「御用米曲輪の蔵跡」・・・天守閣の北側にある、江戸時代に幕府の米を蓄えた蔵跡。<br />最近の再調査で後北条時代の建物跡3棟、庭園跡などの一部が発見され、注目を集めています。

    ここは「御用米曲輪の蔵跡」・・・天守閣の北側にある、江戸時代に幕府の米を蓄えた蔵跡。
    最近の再調査で後北条時代の建物跡3棟、庭園跡などの一部が発見され、注目を集めています。

  • 北条氏滅亡後、徳川家康に従って小田原攻めに参戦した大久保氏が城主となり、小田原城は東海道で箱根の関所を控えた関東地方の防御の要となりました。<br />明治3年に廃城となった小田原城は、大正12年の関東大震災で石垣もほぼ全壊しましたが、昭和35年に天守閣が復興されました。

    北条氏滅亡後、徳川家康に従って小田原攻めに参戦した大久保氏が城主となり、小田原城は東海道で箱根の関所を控えた関東地方の防御の要となりました。
    明治3年に廃城となった小田原城は、大正12年の関東大震災で石垣もほぼ全壊しましたが、昭和35年に天守閣が復興されました。

  • 天守閣の見学は午後に回して、天守閣の裏側をグルッと回って「報徳二宮神社」へ。<br />この「城址口鳥居」は、報徳二宮神社創建120周年記念事業として、伊勢神宮の第62回神宮式年遷宮(2005~2013)での古材を拝領して2015年に建立されました。

    天守閣の見学は午後に回して、天守閣の裏側をグルッと回って「報徳二宮神社」へ。
    この「城址口鳥居」は、報徳二宮神社創建120周年記念事業として、伊勢神宮の第62回神宮式年遷宮(2005~2013)での古材を拝領して2015年に建立されました。

  • 鳥居をくぐった所にある「小峯曲輪北堀」。<br />報徳二宮神社の境内は、北条氏によって造成された小峯曲輪にあたります。

    鳥居をくぐった所にある「小峯曲輪北堀」。
    報徳二宮神社の境内は、北条氏によって造成された小峯曲輪にあたります。

  • 明治27年(1894年)に創建された「報徳二宮神社」・・・明治42年に社殿を改築し、神苑を拡張して現在の社地の形になりました。

    明治27年(1894年)に創建された「報徳二宮神社」・・・明治42年に社殿を改築し、神苑を拡張して現在の社地の形になりました。

  • 薪を背負って歩きながら本を読む「二宮金次郎像」・・・この像は、昭和天皇の即位御大礼記念として、昭和3年に寄進されたブロンズ像で、同じ像が全国の小学校向けに約一千体制作されましたが、戦時中に全て供出され、現在残っているのはこの一体だけ。<br />この像は当時のメートル法普及の意図を反映して丁度1mの高さに制作されています。

    薪を背負って歩きながら本を読む「二宮金次郎像」・・・この像は、昭和天皇の即位御大礼記念として、昭和3年に寄進されたブロンズ像で、同じ像が全国の小学校向けに約一千体制作されましたが、戦時中に全て供出され、現在残っているのはこの一体だけ。
    この像は当時のメートル法普及の意図を反映して丁度1mの高さに制作されています。

  • 金次郎像の反対側には、緑に囲まれた「神池」・・・中央に噴水があり、池には沢山の錦鯉が泳いでいます。

    金次郎像の反対側には、緑に囲まれた「神池」・・・中央に噴水があり、池には沢山の錦鯉が泳いでいます。

  • 三の鳥居と社殿。<br />報徳二宮神社は、金次郎像のイメージから「学問の神様」として親しまれ、また藩や村の財政再建・復興を行ったことから、経営・財福・商売繁盛など「金運」のご利益もあります。

    三の鳥居と社殿。
    報徳二宮神社は、金次郎像のイメージから「学問の神様」として親しまれ、また藩や村の財政再建・復興を行ったことから、経営・財福・商売繁盛など「金運」のご利益もあります。

  • 三の鳥居の前には、左右に狛犬。

    三の鳥居の前には、左右に狛犬。

  • 緑が多い境内にある「きんじろうカフェ」。

    緑が多い境内にある「きんじろうカフェ」。

  • これは、老齢になった「二宮尊徳翁」の像・・・右手に筆、左手に台帳を持った、官吏としての姿を描いており、財務・農政など多くの改革に手腕を発揮した「能吏」としての側面を強く感じさせる、シャープな造作の表情が印象的です。<br />兵庫県西宮市・報徳学園創立100周年記念として彫刻家・南部祥雲氏に作成依頼した10体の内の1体で、2010年に除幕。

    これは、老齢になった「二宮尊徳翁」の像・・・右手に筆、左手に台帳を持った、官吏としての姿を描いており、財務・農政など多くの改革に手腕を発揮した「能吏」としての側面を強く感じさせる、シャープな造作の表情が印象的です。
    兵庫県西宮市・報徳学園創立100周年記念として彫刻家・南部祥雲氏に作成依頼した10体の内の1体で、2010年に除幕。

  • 神社から南堀へ・・・写真ではよく分かりませんが、水が綺麗!<br />これは、2018年に某TV局の『池の水全部抜く大作戦』とタイアップして市民と市職員のボランティアら485人が参加して水を抜き、清掃と外来生物の除去を行ったお陰・・・38年振りの本格的な水抜きと清掃だったそうです。

    神社から南堀へ・・・写真ではよく分かりませんが、水が綺麗!
    これは、2018年に某TV局の『池の水全部抜く大作戦』とタイアップして市民と市職員のボランティアら485人が参加して水を抜き、清掃と外来生物の除去を行ったお陰・・・38年振りの本格的な水抜きと清掃だったそうです。

  • アオサギも、綺麗になった南堀で気持ち良さそう!

    アオサギも、綺麗になった南堀で気持ち良さそう!

  • 南曲輪だった所に建つ郷土文化館。

    南曲輪だった所に建つ郷土文化館。

  • その向かいにある「御感(ぎょかん)の藤」・・・大正天皇が皇太子の頃、小田原御用邸にご来臨の時に、この藤の花の下に召馬がかけ込み花を散らしたので、皇太子は 「見事な花に心なきことよ」としばらく馬を止めて感嘆されたため、その名がついたと言われています。<br />その後、大正11年にここに2株を移して育ててきました。

    その向かいにある「御感(ぎょかん)の藤」・・・大正天皇が皇太子の頃、小田原御用邸にご来臨の時に、この藤の花の下に召馬がかけ込み花を散らしたので、皇太子は 「見事な花に心なきことよ」としばらく馬を止めて感嘆されたため、その名がついたと言われています。
    その後、大正11年にここに2株を移して育ててきました。

  • まだ咲き始めですが、満開時には花房が1mあまりにもなる見事な藤棚です。

    まだ咲き始めですが、満開時には花房が1mあまりにもなる見事な藤棚です。

  • バス停の名前も『藤棚』。

    バス停の名前も『藤棚』。

  • お濠の美しい錦鯉。

    お濠の美しい錦鯉。

  • カモが泳ぐ南堀には、7月になると群生する大賀ハスの美しい花が見頃を迎えます。<br />大賀ハスは1951年に、千葉県検見川の落合遺跡で発掘された約2000年前のハスの実から発芽・開花したハスで、1979年に株分け・繁殖させました。

    カモが泳ぐ南堀には、7月になると群生する大賀ハスの美しい花が見頃を迎えます。
    大賀ハスは1951年に、千葉県検見川の落合遺跡で発掘された約2000年前のハスの実から発芽・開花したハスで、1979年に株分け・繁殖させました。

  • 御茶壷橋から二の丸に入った所にある「ビャクシン」の巨木・・・樹高:約15m、幹周:3.1m、推定樹齢:100~199年。

    御茶壷橋から二の丸に入った所にある「ビャクシン」の巨木・・・樹高:約15m、幹周:3.1m、推定樹齢:100~199年。

  • 二の丸の表門にあたる「銅(あかがね)門」・・・大扉などに使われた飾り金具に、銅が用いられたことが名前の由来です。<br />銅門の北側には藩主の居館である二の丸御屋形がありました。<br />明治5年に解体された銅門は、1997年に復元。

    二の丸の表門にあたる「銅(あかがね)門」・・・大扉などに使われた飾り金具に、銅が用いられたことが名前の由来です。
    銅門の北側には藩主の居館である二の丸御屋形がありました。
    明治5年に解体された銅門は、1997年に復元。

  • 馬屋曲輪から見た銅門と天守閣。

    馬屋曲輪から見た銅門と天守閣。

  • 銅門と馬屋曲輪の間にある住吉堀。

    銅門と馬屋曲輪の間にある住吉堀。

  • 2009年に復元された馬出門・・・奥に天守閣が見えます。

    2009年に復元された馬出門・・・奥に天守閣が見えます。

  • 馬出門をくぐり、桜と学橋を見ながら、城外へ。

    馬出門をくぐり、桜と学橋を見ながら、城外へ。

  • 小田原城の正面入り口からお堀端通りを渡った所にある「小田原三の丸ホール」・・・文化・芸術の拠点として、2021年にオープン。<br />ホールは地上四階、地下一階建て延べ八千五百平方mで、大ホールと小ホール、ダンスや音楽練習用のスタジオ、ギャラリーもあります。

    小田原城の正面入り口からお堀端通りを渡った所にある「小田原三の丸ホール」・・・文化・芸術の拠点として、2021年にオープン。
    ホールは地上四階、地下一階建て延べ八千五百平方mで、大ホールと小ホール、ダンスや音楽練習用のスタジオ、ギャラリーもあります。

  • 昼食の店に行く途中、地元民Nさんのガイドで小田原の街中を散策。<br />ここは、旧東海道・小田原宿の名残がある「小田原かまぼこ通り」・・・しかし、かまぼこ店は見当たりません。

    昼食の店に行く途中、地元民Nさんのガイドで小田原の街中を散策。
    ここは、旧東海道・小田原宿の名残がある「小田原かまぼこ通り」・・・しかし、かまぼこ店は見当たりません。

  • 角を曲がると、ありました・・・ここは、1814年創業の老舗かまぼこ店「籠清」。

    角を曲がると、ありました・・・ここは、1814年創業の老舗かまぼこ店「籠清」。

  • しばらく歩いて、国道一号線沿いにある「伊勢藤 いせずし」へ・・・Nさんご贔屓の寿司屋さんです。

    しばらく歩いて、国道一号線沿いにある「伊勢藤 いせずし」へ・・・Nさんご贔屓の寿司屋さんです。

  • 先ずはビールで ” カンパ~イ ” ・・・美味しい料理が次々と運ばれ、4年振りの話も弾みます。

    先ずはビールで ” カンパ~イ ” ・・・美味しい料理が次々と運ばれ、4年振りの話も弾みます。

  • 50年余りのお付き合いで、皆さん、70代~80代になりましたが、これからも続けたい同窓会です。

    50年余りのお付き合いで、皆さん、70代~80代になりましたが、これからも続けたい同窓会です。

  • 駅の方からお堀端通りを歩いて、再び小田原城へ向かいます。<br />東堀に架かる「学橋」・・・江戸時代には無かったこの橋は、昭和4年に城内小学校が二の丸に移転したことで架けられ、昭和24年に架け替えられました。<br />城内小学校は1992年の学校統合で、現在は小田原藩の藩校「集成館」があった旧三の丸に建てられた三の丸小学校として引き継がれています。

    駅の方からお堀端通りを歩いて、再び小田原城へ向かいます。
    東堀に架かる「学橋」・・・江戸時代には無かったこの橋は、昭和4年に城内小学校が二の丸に移転したことで架けられ、昭和24年に架け替えられました。
    城内小学校は1992年の学校統合で、現在は小田原藩の藩校「集成館」があった旧三の丸に建てられた三の丸小学校として引き継がれています。

  • 東堀~南堀にかけては桜の名所・・・満開の時期はとっくに過ぎていますが、まだ少し楽しめます。

    東堀~南堀にかけては桜の名所・・・満開の時期はとっくに過ぎていますが、まだ少し楽しめます。

  • 正面入り口に向かって進む途中にある「二の丸隅櫓」・・・明治の廃城の際にも破壊されなかったのですが、関東大震災で崩落後、1934年に再建されたもので、当時の予算から1/2の大きさになりました。<br />石垣も、地震で崩落する前は、今より3.6mほど高かったそうです。

    正面入り口に向かって進む途中にある「二の丸隅櫓」・・・明治の廃城の際にも破壊されなかったのですが、関東大震災で崩落後、1934年に再建されたもので、当時の予算から1/2の大きさになりました。
    石垣も、地震で崩落する前は、今より3.6mほど高かったそうです。

  • 江戸時代の本丸は塀に囲まれ、堀は二の丸堀とつながる水堀となっていました。<br />この本丸東堀跡には花菖蒲が植えられています。

    江戸時代の本丸は塀に囲まれ、堀は二の丸堀とつながる水堀となっていました。
    この本丸東堀跡には花菖蒲が植えられています。

  • 樹齢500年を超えるイヌマキ。

    樹齢500年を超えるイヌマキ。

  • 本丸東堀から常磐木橋を渡って本丸へ・・・元の橋は関東大震災で石垣ごと落ち、その後再建されました。

    本丸東堀から常磐木橋を渡って本丸へ・・・元の橋は関東大震災で石垣ごと落ち、その後再建されました。

  • 市制30周年事業として、1971年に再建された「常盤木門」・・・本丸の正門として重要な防御拠点であったために、他の門と比べて大きく、堅固に造られています。

    市制30周年事業として、1971年に再建された「常盤木門」・・・本丸の正門として重要な防御拠点であったために、他の門と比べて大きく、堅固に造られています。

  • 常盤木門をくぐって本丸の広場へ。

    常盤木門をくぐって本丸の広場へ。

  • 戦後、小田原城址公園には「小田原動物園」があり、ゾウ・ライオン・フラミンゴなど、多い時で70種332点もの動物が飼育されていましたが、現在は数匹のニホンザルのみ・・・前に来た時は、もっと動物がいたような記憶があります。

    戦後、小田原城址公園には「小田原動物園」があり、ゾウ・ライオン・フラミンゴなど、多い時で70種332点もの動物が飼育されていましたが、現在は数匹のニホンザルのみ・・・前に来た時は、もっと動物がいたような記憶があります。

  • 本丸の広場から見た天守閣・・・宝永年間( 1704~1711)の引き図を元に、鉄筋コンクリート造りで1960年に復元されました。

    本丸の広場から見た天守閣・・・宝永年間( 1704~1711)の引き図を元に、鉄筋コンクリート造りで1960年に復元されました。

  • 1590年の豊臣秀吉による小田原攻め・・・総勢21万の大軍で包囲し、3か月の籠城戦の末に落城して後北条氏は滅亡・・・この時、城内で開かれた戦略会議は和議と交戦で意見が分かれ、ここから、いくら議論しても一向に纏まらない様子を「小田原評定」と言うようになりました。

    1590年の豊臣秀吉による小田原攻め・・・総勢21万の大軍で包囲し、3か月の籠城戦の末に落城して後北条氏は滅亡・・・この時、城内で開かれた戦略会議は和議と交戦で意見が分かれ、ここから、いくら議論しても一向に纏まらない様子を「小田原評定」と言うようになりました。

  • その後、後北条氏の領土は徳川家康に与えられ、家康は小田原城の惣構えを破却し、三の丸以内に縮小して改築・・・小田原城は腹心の大久保忠世の居城となります。<br />このパネルは城内に展示された<全国「天守」高さ比べTOP10>。<br />1位は41.5mの大阪城で名古屋城・島原城と続き、小田原城は27.2mで7位。

    その後、後北条氏の領土は徳川家康に与えられ、家康は小田原城の惣構えを破却し、三の丸以内に縮小して改築・・・小田原城は腹心の大久保忠世の居城となります。
    このパネルは城内に展示された<全国「天守」高さ比べTOP10>。
    1位は41.5mの大阪城で名古屋城・島原城と続き、小田原城は27.2mで7位。

  • 大久保忠世の息子・忠隣が政争に敗れて改易になると、小田原城は一時的に廃城となり、1632年に稲葉正勝が城主となって城は大改修が施され、近世城郭へと生まれ変わりました。<br />1685年に稲葉氏が越後国高田へと転封になると、翌年、下総国佐倉から大久保忠朝(忠隣の孫)が入り、以後は大久保氏が10代に亘って小田原藩主を務め、明治を迎えます。

    大久保忠世の息子・忠隣が政争に敗れて改易になると、小田原城は一時的に廃城となり、1632年に稲葉正勝が城主となって城は大改修が施され、近世城郭へと生まれ変わりました。
    1685年に稲葉氏が越後国高田へと転封になると、翌年、下総国佐倉から大久保忠朝(忠隣の孫)が入り、以後は大久保氏が10代に亘って小田原藩主を務め、明治を迎えます。

  • これは、小田原城最盛期の寛永年間(1624~1644)の姿。<br />明治になり、小田原城の建物は悉く破壊されましたが、現在は本丸と復興された天守を中心に、小田原城址公園として整備されています。

    これは、小田原城最盛期の寛永年間(1624~1644)の姿。
    明治になり、小田原城の建物は悉く破壊されましたが、現在は本丸と復興された天守を中心に、小田原城址公園として整備されています。

  • 岡本秋暉(1807~1862)の筆による杉戸絵の花鳥図・・・左の2枚は【岩に孔雀図】、右の2枚は【鯉に松藤図】。

    岡本秋暉(1807~1862)の筆による杉戸絵の花鳥図・・・左の2枚は【岩に孔雀図】、右の2枚は【鯉に松藤図】。

  • 左の2枚は【梅花図】右の2枚は【桑の木に鳥図】・・・これらの花鳥図は、二の丸御屋形の正面玄関に嵌められていたと伝えられています。

    左の2枚は【梅花図】右の2枚は【桑の木に鳥図】・・・これらの花鳥図は、二の丸御屋形の正面玄関に嵌められていたと伝えられています。

  • これは、江戸時代中期の「黒漆塗本小札紺糸威銅丸具足」・・・細かい細工が凝らされた高級品で、大名や高禄の武士が用いたものと考えられます。

    これは、江戸時代中期の「黒漆塗本小札紺糸威銅丸具足」・・・細かい細工が凝らされた高級品で、大名や高禄の武士が用いたものと考えられます。

  • 最上階の5階は、外周が展望台になっています。

    最上階の5階は、外周が展望台になっています。

  • 西は箱根方面ですが、今日は生憎の天気。

    西は箱根方面ですが、今日は生憎の天気。

  • 南は相模湾、遠くに真鶴半島が霞んでいます。

    南は相模湾、遠くに真鶴半島が霞んでいます。

  • 東は小田原城下と、遠くには三浦半島。

    東は小田原城下と、遠くには三浦半島。

  • 北は小田原駅と丹沢の峰々。

    北は小田原駅と丹沢の峰々。

  • じっくり小田原城が見学出来ました。

    じっくり小田原城が見学出来ました。

  • 小田原駅・東口近くの繁華街・おしゃれ横丁の一角にある「北条氏政・氏照の墓所」・・・柵には沢山の鈴が結ばれています!<br />「幸せの鈴」と呼ばれるこの鈴は、おしゃれ横丁の各店の前に置かれている鈴に願いを込めて持ち帰り、その願いが叶ったら結びにくる習わしだとか。

    小田原駅・東口近くの繁華街・おしゃれ横丁の一角にある「北条氏政・氏照の墓所」・・・柵には沢山の鈴が結ばれています!
    「幸せの鈴」と呼ばれるこの鈴は、おしゃれ横丁の各店の前に置かれている鈴に願いを込めて持ち帰り、その願いが叶ったら結びにくる習わしだとか。

  • 中央の墓が四代・北条氏政、左が八王子城主の弟・氏照、右の大きな墓は氏政夫人。<br />この墓所は、関東大震災で埋没したものの、地元の有志によって復興されたと伝わります。

    中央の墓が四代・北条氏政、左が八王子城主の弟・氏照、右の大きな墓は氏政夫人。
    この墓所は、関東大震災で埋没したものの、地元の有志によって復興されたと伝わります。

  • 小田原駅東口に戻り、小田原名物のかまぼこや干物をお土産に・・・万歩計は2万歩を超えていましたが、楽しい小田原散策の一日でした。

    小田原駅東口に戻り、小田原名物のかまぼこや干物をお土産に・・・万歩計は2万歩を超えていましたが、楽しい小田原散策の一日でした。

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