1985/06/19 - 1985/07/03
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toshikunさん
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1983年7月に初めてアメリカに出張、2か月滞在した。続けて1984年2月から今度は冬のアメリカに1か月出張した。3度目の海外出張は1985年5月に中国2週間だった。そして4回目の海外出張として1985年6月に初めてソ連に出張した。最近ウクライナ侵攻でロシアが話題になっているので、ソビエト時代のロシアがどうだったかを記録しておくことは意義があると考えた。
当時の写真は全てプリントでデジタルになっていなかったから、パソコンには一枚もデータがなかった。旅行記を書くに当たり、書斎の机の引き出しを探したら、百枚以上の写真の束が出てきた。しかし、37年も前の話なので、どこの写真なのかさっぱり記憶がない。そんな中で結構役立ったのが、Googleの画像検索だった。モスクワ大学なんて、建物の前で記念撮影しているのに、行ったことも忘れていたが、画像検索でそれとわかった。他に、ルジニキ・スタジアムやグム百貨店も画像検索で分かった。モスクワのホテル・ロシアなんて、現在(2022年)は取り壊されているのにちゃんと画像検索でみつかった。それでも画像検索で見つからないためにどこなのか分からず、ここに公表できない写真も多い。特にウファの写真は、パーミャトニク・サラヴァトゥ・ユラエヴとレーニン像以外は全くわからなかった。パーミャトニク・サラヴァトゥ・ユラエヴは画像検索しなくても記憶していた。レーニン像は画像検索でも見つからなかったが、地図を見てこの辺りが怪しいとストレートビューで見て見つけた。
写真と文章が多いので、旅行記をモスクワ編とウファ編に分ける。まずはモスクワ編から。モスクワ滞在は、1985年6月19日と6月27日~7月2日まで。7月3日帰国。
- 旅行の満足度
- 2.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 2.0
- グルメ
- 1.5
- ショッピング
- 1.0
- 交通
- 1.5
- 同行者
- その他
- 交通手段
- 鉄道 タクシー 飛行機
- 航空会社
- スカンジナビア航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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モスクワ行きの飛行機は、スカンジナビア航空だった。欧州の飛行機会社は初めての経験だった。垂直尾翼に「SAS」とロゴが入った、白主体のお洒落な機体だった。当時は平社員でもビジネスクラスだった。座席は今のようなフラットではなく、エコノミーよりも幅と足元が広い程度だが、食事は良かった。オードブルから陶器の皿で提供された。フォークナイフも今のようなペラペラのプラスチックではなかった。メインディッシュ、デザートの後に、リキュールとチーズが提供された。それも、シェフハットを被った人が、チーズ皿を持ってきて、欲しいものを切り分けてくれた。この時に初めてロックフォールを食べた。美味しくてびっくりした。青黴のチーズは苦手な人も多いが、私はこの時から 好物になった。
モスクワは、シェレメーチエヴォ国際空港に到着した。シェレメーチエヴォ国際空港は結構込み合っていて、到着のかなり前から多くの飛行機が螺旋状に少しずつ高度を下げながら、着陸の順番を待つ姿を見ることができた。とはいえ、シカゴのオヘア空港のように、気分が悪くなるほど急降下をするということはなかった。ソ連に着いてまず驚いたのはパスポートコントロールだった。パスポートを出したら、どの国でも写真と本人とを見比べるのは当然なのだが、ソ連では睨み方が違っていた。こんなに人から見られた経験がないほど、目の奥をじーっと見つめられた。その後も更に二度ソ連に行くことになったが、このパスポートコントロールではいつもじろーっと睨まれてギクッと驚いてから、そうだったと思いだすという具合だった。現在まで16か国を訪問したが、こんなに睨まれることは他の国ではついぞなかった。空港からモスクワ市内に車で移動したが、ただっぴろい道路に街灯が殆どなく暗いのに、車のヘッドライトもとても暗くて(スモールしかつけてなかったかも)、不安だった。シェレメーチエヴォ国際空港 (SVO) 空港
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モスクワに到着してすぐ1985年6月19日に1泊だけ「ホテル・ウクライナ」に宿泊した。セコイロシア人には隙を見せてはいけないという強い印象を受けた。翌日にはウファに移動した。
「ホテル・ウクライナ」は現在(2022年)は「ラディソン・ロイヤル・ホテル」になっているが、「スターリンセブンシスターズ」と呼ばれる、スターリンが残した有名な7つの高層建築の一つで、外観はこの写真のように立派なものだ。ラディソン コレクション ホテル モスクワ ホテル
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写真は「ホテル・ウクライナ」の室内。現在は「ラディソン・ロイヤル・ホテル」になっているが、現在の正面玄関の写真を見たら、ラディソンロイヤルホテルの表示の前に「ウクライナ」のロシア文字が見えている。川沿いの随分立派な建物で、現在は5つ星の高級ホテルだ。当時も、今と同じ建物で、歴史のある由緒正しいホテルと聞いていた。しかし、噂と実態とは大きくかけ離れていた。ホテルに到着して部屋までボーイ(と言ってもかなりの年寄だったが)が、3人の日本人を案内してくれた。私は「みんなの分ですよ」というつもりで、手を水平にぐるりと回して相場の3倍のチップを渡した。しかしそのボーイは帰ろうとせず、手を自分の口に持って行って「シガリョート、シガリョート」と繰り返した。すぐに「煙草をよこせ」の意味だと分かったが、図々しいと思ったのでわざとロシア語が分からないふりをして「は?」ととぼけてやった。同行の先輩社員が「煙草のことじゃないかな?」と教えてくれたが、「分かってますけど図々しいので知らんぷりしてるんです。」と日本語で答えた。そのため、煙草は取られずに済んだが、後で他の二人に確認したら、それぞれからチップを取っていったそうだ。ロシア人はせこくて油断ならないと思った。この由緒正しいというホテルの実態はひどかった。まず、トイレットペーパーはなにやら10センチ角の薄い紙の切れ端が数枚置いてあるだけだ。これは想定内だったので、日本からロールを数本持参してきたので問題ない。困ったのはシャワーだ。夕方早いうちに使わないとすぐにお湯が切れてしまう。それもいつ切れるか分からないので、全身を石鹸で洗えない。右腕を洗ったらお湯の出ているうちに流して、まだ出ていれば次は左腕を洗って、と少しずつ石鹸をつけて行かないと、お湯が止まって洗い流せなくなるのだ。部屋にはテレビはなく、古めかしいラジオが1台あるだけ、それも盗聴器だという噂だった。宿泊費は結構高かったと思う。当時1ルーブルは235円ほどだったと思う。その後、ソ連崩壊で1ルーブルは3円くらいまで下落し、ウクライナ侵攻でさらに1円少しまで下落しているから、ロシアの資産価値は当時から1/200以下になったということだ。当時、モスクワの一般家庭の電気料金は1kW当たり2カペイカで約6円とメモを残している。
そういえば今ならモスクワの高級ホテルが「ウクライナ」という名前なのも違和感がありそうだが、当時はウクライナもソ連の一部だったし、全くその名前に違和感を感じなかった。ラディソン コレクション ホテル モスクワ ホテル
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メジュドゥナロードナヤホテルの部屋から、ソ連軍の長大な車列が、1905年通りからモスクワ川沿いのクラスノプレスネンスカヤ・ナベレジュナヤ通りへと左折していく様子を撮影した。
1985年6月27日にウファからモスクワに戻った。その後はずっと「メジュドゥナロードナヤ」という名前のホテルだった。ホテルウクライナと川を挟んで対岸にある。自分のホテルが分からないと逸れたときに困るので、このややこしい名前を一生懸命に覚えた。世界史でソ連のボリシェヴィキやメンシェヴィキと一緒に、ナロードニキという言葉を習ったことがある。ナロードとは民衆を意味するらしい。メジュドゥは英語でいうと「インター」らしい。だから「メジュドゥナロードナヤ」は英語でいうと「インターナショナル」の意味だそうだ。現在(2022年)は「Crowne Plaza Moscow - World Trade Centre, an IHG Hotel」になっているようだ。「Apart-hotel Mezdunarodnaya 4*」というのも併設されているらしい。川沿いのそれほど高層ではないが、何棟かに分かれていて広いホテルだった。旅行者だけでなく、ビジネスのオフィスとしても使われており、実際私たちがロシアの販路として使っていた商社のモスクワオフィスもここにあった。ホテル内には隅っこに「さくら」という日本食レストランもあった。うどんと握り盛り合わせが同じ値段という不思議な料金設定だったが、日本食が食べられるのは嬉しかった。建物も近代的で快適なホテルだった。Moscow World Trade Centre ホテル
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前の写真と同じくメジュドゥナロードナヤホテルの部屋から、先ほどより少しだけ左側の北東方向を見たところ。遠くに見える高層建築は、スターリンセブンスシスターズの一つである「文化人アパート」と思われる。
メジュドゥナロードナヤのホテルには「ベリョーシカ(白樺)」という店名のドルショップがあって、そこにはみやげ物がいやというほどあった。ただし購入は米ドルに限られていた。だから、ドルを欲しがる人がいるのだ。購入は米ドル紙幣に限られているのだが、不思議なのはその釣銭だ。釣銭には米ドルのセント硬貨だけでなく、日本円やフランスフランやドイツマルク、英ポンドなど、西側諸国の硬貨が使用される。それも均一通貨ではなく、日本円と米セントと仏フランのセントなどがまぜこぜに返されるのだ。その釣銭をどうやって計算しているかというと電卓ではなく算盤を使って店員が計算して、全部をガシャッと返してくる。その算盤というのも日本式とは違って、曲げた針金にそって大きな玉を動かすロシアそろばんだ。小学校入学セットに入っている算盤を思い出してもらえればよい。釣銭があっているのかどうかも確認できない。しかし、ドルショップだけで西側諸国各国の色んな通貨をコレクションできた。妻への土産としてロシア産天然琥珀のネックレスを買った。妻は年配向けと思ったのか、歳を取ったらつけるわと言って、引き出しにしまったままで、60歳を超えた今でも身に着けようとはしていない。決して安くはなかったのに。勿論ロシア土産の定番、マトリョーシカも買った。次々と小さな人形が入れ子になっているあれだ。後二回もソ連に来るとは想像していなかったので、キャビアも少しだけ買って帰った。少しでもめちゃくちゃ高かった。食べてもそれほど感動はなかった。普通のイクラの方がうまいと思った。全部で三回行ったので、どの土産がどの回か覚えていないのだが、ホフロマ塗の小鉢とスープスプーンも買った。これらは部屋に飾ってあるだけで使ったことはない。ウファの蜂蜜をお土産に買ったが、密閉してあるはずの瓶から蜂蜜が漏れて、スーツケースの中が大変なことになった。ロシア製の瓶だからこの程度の品質なのは仕方ない。紅茶とサモワールもお土産として持って帰った。サモワールは大きかったが、中に衣類を詰めて、なんとかスーツケースに収まった。これで優雅にロシアンティーを飲もうと夢想したが、240V仕様のCタイププラグなので、日本で使うことはなかった。まだ捨てずに家の押入れのどこかにあるはずだ。 -
こちらもスターリンのセブンシスターズの一つに数えられる高層建築で、モスクワ大学である。ここへ行ったことはすっかり忘れていたが、この建物の前で記念撮影して写っているので、行ったことは間違いない。
モスクワ大学 建造物
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写真は地下鉄の長い長いエスカレータ。モスクワの地下鉄はとてつもなく深い地下を通っている。地下24メートルというデータがあるが、核戦争に備えて地下シェルタの役割を持たせているのだという。現在(2022年)ウクライナでロシアが地下シェルタ攻撃用として地中貫通弾を用いているというが、このころにはまだそのような爆弾はなかった。地下深いホームに降りるためには、長い長いエスカレータに乗らなければならない。一度も階段を使ったことはなかったし、階段らしいものを見たこともなかった。当時モスクワの地下鉄料金は5カペイカ均一だった。1ルーブルの20分の1だ。当時の為替レートでは1ルーブルは235円くらいだったから、地下鉄料金は12円ほどだったことになる。この辺りは共産国の利点だろう。現在は35ルーブル均一らしい。現在の為替レートは1ルーブルが2円くらいなので、日本円にすれば70円均一となり充分に安いが、1980年代当時からみれば、ナント!700倍に値上げされたことになる。当時から自動改札になっていて、均一料金なので、切符は入り口で回収されてしまって、出るのは自由となっている。勿論、出口から入れないように内側からだけ開くゲートがついていた。ロシア語で入り口は「Вход」と表記される。出口は「Выход」だ。「ы」が違うだけで実に紛らわしい。実際モスクワ市内でウォッカをしこたま飲んで酔っぱらってホテルに帰ったことがあるが、切符を買った覚えがないのにいつの間にが地下鉄に乗っていた。「あれ?金払った?」と聞いたら、通訳が「さっき出口のゲートを乗り越えて入りました」と答えた。「え~?なんで言わないの?」「だって皆さん出来上がってるんですもの」とのこと。均一料金のため、車内では誰も切符を持っていないので、一旦入ってしまえばこちらの勝ちだ。
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写真はドーム天井が美しいモスクワの地下鉄駅。モスクワ市内の移動は、地下鉄もあるが、殆どはタクシーを利用した。しかし、モスクワのタクシーは数が少ないので空車を見つけるのがとても困難だった。漸く空車を見つけて乗ろうとしたら、休憩中だからと乗車拒否されることが多かった。というのも当時のソ連は共産国だから、私企業というものがなく、したがって、タクシーの運転手も公務員なのだ。だからいわゆるお役所仕事が国中に蔓延しているという状況だった。日本でもお役所仕事と言えば、通り一遍の解釈しかできず、杓子定規で重箱の隅を突いて仕事がはかどらないというイメージだ。最近の日本の役所はそれでも昔よりは随分改善されてきたものだが、当時のソ連のお役所仕事は日本の百倍も千倍も効率の悪い、杓子定規だった。だから、タクシーの運転手も休憩時間は決して仕事をしないし、その前から休憩時間に掛かりそうな客は取らないのである。このためモスクワ市内の公式タクシーは殆ど機能していなかった。移動は殆どタクシーで行ったと書いたが、実は公式タクシーに乗ったことは一度もなかった。ではどうしたかというと、利用したのはいわゆる白タクだった。白タクというのは、戦後20年くらいの間、横行していた無免許のタクシーのことで、本来日本ではタクシーのナンバーは緑色なのだが、それを一般の白いナンバーの車で営業していたから白タクというのだ。勿論モスクワの白タクは白ナンバーではない。無許可タクシーという意味で日本人は白タクと呼んだだけだ。無許可だから、勿論料金をぼったくりしたり、下手すると乗客の持ち物を盗んだり、強盗に早変わりしたりという恐れもあったわけだが、モスクワの白タクは、それほど悪質ではなかった。料金が少し高いくらいで、それも乗る前にどこどこまで幾らでと交渉するのでトラブルはほとんどなかった。とにかく白タクを利用しないと市内で動けないのだから、必要悪だった。料金を高めに出すだけでなく、我々には交渉のためのもう一つの武器があった。それは、ヌード写真等のカードだった。当時のソ連の書物の紙はひどい品質で殆どわら半紙に印刷してあるという状態だった。ノートでも白い紙などなかった。勿論美しい写真もない。特にヌード写真は社会主義国で御法度だったから、西側の美しく印刷されたヌード写真などは希少価値が高かった。これを料金以外にタクシー運転手にあげるからと交渉した。こんなヌード写真などは、例えばトランプなどは53枚もあって、日本ではいくらでも無料かそれに近い料金で手に入ったからこれは効果が高かった。
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写真は赤の広場。
晩御飯を食べるときも、フロアショー付きのレストランがあったりして、そこでもカラー写真のカードは功を奏した。ホテル・コスモスだったと思うが、宇宙飛行士記念博物館が隣にあって、宇宙に向かってロケットが飛んでいく、ガガーリンの記念モニュメントがあった。そこに晩御飯を食べに行ったことがある。フロアショーがあるというので、カードを渡して良い席を取ってもらったら、なんと最前列のフロアの中のテーブルだった。食事を始めたら、薄い衣をまとったロシア美女がテーブルのすぐ横を踊りながら駆け抜けていく。香水の香りが鼻孔をくすぐる。最初のうちは良かった。しかし、次第に事態は悪化していった。それは何かというと踊り子たちの体臭だ。テーブルの間を踊りぬけていくうちに彼女たちは汗をかき始めたのだ。ロシア人は元々肉食で体臭がきついうえに、先に説明したようなシャワー事情なので、めったに風呂にも入らない。だから体臭がとてもきつい。それを香水でごまかしているわけだが、踊り続けて汗をかき始めるとそのきつい香水ももう効果がない。日本人でもごく希に「腋臭(ワキガ)」と言って体臭のきつい人がいるが、ロシア人は腋臭が普通だから溜まらない。踊り子がテーブル横を通るたびにおえっとなりそうな体臭が漂う。もはや食事などしていられない悲惨な状態となった。後に冬のシベリアでも体育館で同様の経験をしたことがあった。
ロシア料理で必ず出てくるものと言えば、とても塩辛い生魚の燻製と、酸っぱい黒パンだ。イクラも出てくるが、日本ではイクラは鮭の卵だが、ロシアではそうとは限らない。そもそもイクラというのはロシア語で、魚の卵を意味する言葉なので、キャビアもイクラという。クラスナヤイクラと言えば赤いイクラ、チョルネアイクラと言えば黒い魚卵でキャビアだ。
ロシア女性と言えば、色白で鼻筋が通った美女が多い。それも意外とツンとした感じだけでなく、愛嬌のある可愛い女性も多い。当時のモスクワでは白タクが一大産業と書いたが、もう一つの大きな産業が売春婦だった。西側の人間が宿泊するような高級ホテルに出入りできる女性は殆どが売春婦と言って間違いなかった。彼女たちはホテルマンに賄賂を渡して、通常なら出入りできない高級ホテルのバーやレストランに入って、ドルを持っている西側の男を捕まえるのだ。しかも、とても売春婦とは思えない、可愛くて、美しくて、全くうらぶれていない明るい女性たちが殆どだから、出張前から上司に気を付けろと言われていた。美女だからとうっかり声を掛けたり、声を掛けられたりすると、売春婦に捕まるのだ。しかも噂では、性病や毛虱が横行しているとのことだった。丁度、エイズが流行り始めていた時期でもあった。 兎に角、当時モスクワで最も活発な外貨獲得産業は白タクと売春婦だった。
市中のレストランにランチに行っても、そこも国営で公務員が切り盛りしているのだから、そのお役所仕事はひどかった。注文してから料理が出てくるまでに二時間かかったこともあった。そんな非効率がこの国を重く覆っていた。赤の広場 広場・公園
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モスクワの中心であるクレムリンや赤の広場の近くにある、聖ワシリイ大聖堂。
ホテルとクレムリンの丁度真ん中あたりにアルバート通という繁華街があって、おしゃれな店舗が立ち並んでいたのて、夕食に出かけたりした。聖ワシリイ大聖堂 寺院・教会
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写真は「グム百貨店」という赤の広場に沿って建つショッピングモールだ。百貨店としてよりは観光名所となっている。当時、ソ連では数軒しか無かった「物資欠乏を起こさない商店」として、ソビエト連邦の経済のショーウィンドーの役割を果たしたという。しかし、買いたいものがあったという記憶はない。
市中の他の売店を見たことがあったが、店の棚はほとんど空っぽだった。あるのはヨーグルトくらいで、他には何もなかった。現在(2022年)ウクライナ侵攻で西側諸国が経済制裁を掛けてロシア国内の物資入手が困難になっているというが、あのソ連時代の物のない時代を知っている世代にとっては、現在の物不足など屁の河童だろう。グム百貨店 百貨店・デパート
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全く記憶にないのだが、モスクワ川の遊覧船に乗ったらしい。川から撮影した写真が多く残っているし、ボートに乗っている私の写真もある。写真に見るような中々豪華なボートだったようだ。
モスクワ川クルーズ 船系
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写真は「ホテル・ロシア」。1968年完成、1993年までは世界最大のホテルだった。赤の広場に隣接していたが、2006年に再開発のため取り壊されたそうで、跡地はザリャージエ公園となっているらしい。この写真は川の中から撮っている。記憶になかったが、モスクワ川の観光船に乗船した時に撮ったらしい。
ホテル ロシア ホテル
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この写真もモスクワ川遊覧船から見たクレムリン。
モスクワの夏の風物詩として、「クワス」という飲み物があった。ライ麦と麦芽を発酵させ、わずかにアルコール分を含む。コーラに似た色で、ライ麦で作る黒パンをジュースにしたような風味が特徴とある。飲んでもアルコール分など全く感じないし、少しも美味しくはないが、他に飲み物もないので、何度が飲んだ。当時は瓶入りを売っているわけではなく、クワス売りがタンクに入れて車で売り歩いていて、一杯ずつ量り売りをしていた。クレムリン 城・宮殿
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この写真は「ボリショイ・カメンニ・モスト」と呼ばれるクレムリンに最も近い位置にある橋である。これもモスクワ川遊覧船から撮影したようだ。
炭酸飲料の自動販売機も経験した。あちこちにあるわけではなく、たった一台しか見たことはなかった。瓶の自販機ではない。日本でも紙コップが落ちてきて、一杯分ずつ売る自販機があるが、その系統ということはできるが、日本の自販機とは全く異なっていた。すなわちガラスのコップが機械のへこみ部に伏せておいてある。そのままコップを下に押すと、下から水が出てコップを洗ってくれる。そしてそのコップを中央のへこみ部に置いて、コインを入れ、ボタンを押すと、炭酸飲料が上から落ちてきてコップで受ける。飲んだ後のコップはまた伏せて置いておく。つまりコップは全員で廻しのみということで、日本の衛生観念からとても受容できない自販機だった。モスクワ川クルーズ 船系
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この写真は画像検索でも特定できなかったが、モスクワ川に沿ってストリートビューを見ていくと、「ヴォスピタテリニ・ドム」と呼ばれる建物のようだ。クレムリンの東6㎞ほどのところにある「モスクワ孤児院」らしい。
モスクワ川クルーズ 船系
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写真はルジキニ・スタジアムだが、当時はレーニン・スタジアムと言ったようだ。ロシア国内最大の球技専用競技場で、1980年モスクワオリンピックではメイン会場として使用された。2014年から4年間にわたって大規模な改修工事をおこなったそうで、現在(2022年)の写真とはずいぶん外観が異なっている。当時のこの写真では、4基の照明塔が大きく目立っているが、現在の写真をみるとそれがなくなってすっきりとしている。Googleで画像検索したら、古い画像とヒットして場所が判明した。
ルジニキスタジアム スタジアム・スポーツ観戦
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モスクワの街かどの写真。
休みの日には赤の広場に観光に行った。私は方向感覚には自信があって、知らない街でもまず迷わないし、少々迷っても最後には不思議と目的地近くに着くということが多い。パリの街中でもよくうろうろと当てもなく歩き回って、街中迷子になるのが好きだ。しかし、モスクワの街は少し難物だった。元々この街は環状都市なのだ。だから道路がまっすぐではなく、いつの間にか曲がっていて、方向感覚を狂わせるのである。だから、この街の地図は全く頭に入らなかった。 -
有名なボリショイサーカスも見に行った。私たちの席は、正面舞台の袖にあたる部分で、正面舞台を見るには振り返らないといけなかった。正面舞台が近いということは舞台への出入り口が近いということで、随分獣臭かったことを記憶している。勿論、国家の威信を掛けて育てた団員が、国家の威信を掛けて磨いたサーカスの技は見事なものだった。
グレートモスクワサーカス (ボリショイサーカス) 劇場・ホール・ショー
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ボリショイサーカスの一場面。
モスクワで最初一泊だけした後で、ウファに移動したが、ウファでの仕事を終えた後は、1985年6月27日にまたモスクワに戻り、7月2日にソ連機械貿易省に挨拶してから帰国した。今までに掲載した写真は最初のホテルウクライナの2枚以外はすべて、ウファから戻ってからのもの。グレートモスクワサーカス (ボリショイサーカス) 劇場・ホール・ショー
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