2022/03/30 - 2022/03/30
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名古屋のmisakoさん
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昨日お天気もよかったので大高城跡周辺を散策してきました
大高城跡では桜も咲いてのんびり過ごす人もいました
春江院では直伝四国霊場のお話も伺い知多四国とはまた違う88ケ所巡りがあるそうで愛知の寺の多さを実感、
海岸寺に大高善光寺があり今年はこちらも御開帳されるそうです
丸根砦跡、鷲津砦跡、長寿寺、明忠院とまわりました
東海テレビスイッチの高井アナウンサーが知多四国の長寿寺を参拝で満願された放送を見たところでしたので緑区は知多半島の隣と改めて認識しました
明忠院は愛知の保育発祥の地だそうですよ
大高城跡は御城印があるそうで機会が有ればいただきたいな、次回の大河ドラマ「どうする家康」も桶狭間の戦いではじまるそうなので
JR八田駅→JR大高駅330円
緑区史跡散策路・大高城下コース
【JR大高駅】→(1)明忠院→(2)鷲津砦跡→(3)長寿寺→(4)丸根砦跡→(5)山神社→(6)津島社→(7)春江院→(8)氷上姉子神社→(9)酒蔵→(10)大高城跡→(11)秋葉社→(12)八幡社→【JR大高駅】(約5.7キロ)
#大高城跡
#大高善光寺
#丸根砦
#鷲津砦
#長寿寺
#春江院
#直伝四国八十八ケ所霊場
#知多四国八十八ケ所霊場
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
PR
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秋葉社
祭神は火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)で創建は不詳だが、社寺明細帳には寛成12年(1800年)の勧請。しかし常夜灯の銘には明和7年(1770年)になっている。昔から大高は火事が多く、村民が恐れていたため、防火の神である秋葉社を最も賑やかなT字路のこの土地に祀ったのではないかといわれる。このあたりに江明市場(よめちば)が立ち、宝永(1704年から1710年)の頃から馬市や諸商いが、春秋に2回30日間ずつ行われ、享保17年(1732年)頃から六斎市(月に6度日を定めて市を開く)が許された。この付近を単に「辻」とよび大高の中心であった。また大高の祭事の際にはここに集合して出発、解散するところである。(緑区史跡散策路大高城跡コースhpより) -
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大高城跡は寛文相々覚書によると標高20メートル、東西106メートル、南北32メートルの台形の丘で四方に二重の濠があったが、現在は土居、内濠とも形態はほとんど認めがたい。古くは天白川の北方は年魚市潟といわれこの地からの景観は絶景であった。築城年代は不詳であるが、永正年間(1504年から1521年)の頃に土岐氏の守護代出の花井備中守が、天文・弘治(1532年から1557年)の頃には知多郡東浦の水野忠氏・大膳父子が居城した。桶狭間の戦いの直前に鳴海城主山口左馬助に攻められて落城。今川方の鵜殿長助の支配下にあり、織田信長が鷲津・丸根の砦を築いて対抗したが、松平元康(徳川家康)が弱冠17歳で兵糧入れに成功したのは有名。合戦後元康は岡崎に帰り、廃城になった。その後元和2年(1616年)志水忠宗(1574年から1626年。徳川義直公の母相応院の兄)が尾張藩の家老(一万石)として城跡に居宅を設け明治3年(1870年)に廃した。昭和13年に国指定の史跡になった。本丸西端に鶴岡八幡宮を勧請した城山八幡宮があり、寛文10年(1670年)に志水甲斐守が寄進した石灯籠がある。(緑区史跡散策路大高城跡コースhpより)
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城山八幡宮
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萬乗醸造
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東昌寺
創建は不明で大高城大手門近くにあったが、春江院の末寺となり、春江院四世雪嶺本積が中興の開山で寛文6年(1666年)現在地に移転したといわれている。本尊は聖観世音菩薩座像で観音寺の井戸より拾い上げたものと伝えられている。平成8年3月本堂が建て替えられ水子供養地蔵尊が建立された。(緑区史跡散策路大高城跡コースhpより) -
本堂
直伝弘法の納経帳でしたら御朱印いただけるそうです -
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石神白竜大王社
春江院の裏手の坂道を登ると丘陵地の中腹に大楠と桜の大木があり、石神白竜大王社の石碑が見える。祭神は石神白竜大王で祠と塚の石が祀ってある。昔ここに塚がありヘビが住んでいて、塚の土や樹木を構うと「たたり」があり、村民が白竜さんを祀り鎮めたといういい伝えがある。また「埋もれたる神の碑出て時雨かな」の句碑があり、石神遺跡の石室の一部と思われる石が置かれている。
(緑区史跡散策路大高城跡コースhpより) -
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春江院(しゅんこういん)
国の登録文化財に指定されている。弘治2年(1556年)の創建。大高城主水野大勝が父の和泉守忠氏菩提のため、尾張横須賀長源寺四世峰庵玄祝を開山とし、和泉守を開基としたのにはじまる。父の法名「春江全芳禅定門」により春江院と号す。本尊は多宝如来。石畳みの参道を上がって「大高山」の山門をくぐると大きな「不許葷酒入山門」の石碑が目に入る。正面に本堂、右手には大きな庫裡、鐘楼があり、書院、不老閣、茶室、観音堂、弁財天堂等が広大な林叢の境内にある。本堂は文政13年(1830年)再建、正面八開半、奥行八開、単層入母屋造、本瓦葺で鐘楼は慶応元年(1865年)に再建された。書院は有松紋の開祖竹田庄九邸宅にあった。江戸時代参勤交代の諸大名や公家の休息に当てられていたもので、明治12年(1879年)に当山に移築されたものであり、襖絵は狩野永秀画「しらさぎ」が描かれている。大高町に末寺として明忠院、東昌寺、薬師寺、弥陀寺がある。墓地には当地の文人余延年(山口墨山篆刻、俳人、1745年から1819年)、山口耕軒(墨山の子私塾時習館学頭、1767年から1837年)、下村丹山(画家、一六羅漢奉納、1804年から1867年)、下村実粟(茶人久田流、1833年から1916年)らの墓がある。(緑区史跡散策路大高城跡コースhpより) -
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直伝四国弘法八十八ケ所霊場
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海岸寺
大高城跡の東端の国の史跡指定地内にあり、天正2年(1574年)称慶宝印(ちんけいほういん)の開山。寛文村々覚書では源光院と称していたが元禄7年(1694年)の由緒書では海岸寺になっている。もともとは入江だった大高川の川口海岸付近にあったが、宝暦7年(1757年)に現在地に移転。広い寺域と伽藍があったが、寛政のころの記録には海岸寺、源光院、三光坊のみで他は廃絶していたものと思われる。江戸時代の火災で記録類が焼失し縁起は不詳。今次大戦後本堂内陣の修復、庫裏の増築、庭園、参道などを修築して境内を整備し寺観が一変した。本尊は伝定朝作聖観音菩薩像、現代の作であるが緑区唯一の仁王門がある。また本堂や客殿の襖絵が立派、京都万福寺の宝珠山人の「龍」の南画、中村哲也画家の「龍」の日本画がすばらしい。1月4日の「大黒天の護摩焚き」と2月3日の節分は一見の価値あり。(緑区史跡散策路大高城跡コースhpより) -
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大高善光寺
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海岸寺本堂
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丸根砦跡
鷲津砦の東南700メートルの地点にあり、鷲津砦と同じく信長の築いた砦で標高35メートル、東西36メートル、南北28メートルの楕円状のこぢんまりした砦で一部郭と濠が形を残している。永禄3年(1560年)桶狭間の戦いの時、佐久間盛重が手勢700人で守り、松平元康ら今川勢の軍と激戦したところで鉄砲が使用されたといわれる。この砦の陥落で今川義元は沓掛城より桶狭間をとおり大高城への進路を確実にして熱田をへて清須の織田本拠を攻める手立てを考えていたのであろう。昭和13年大高城跡、鷲津砦跡とともに国の指定史跡となった。(緑区史跡散策路大高城跡コースhpより) -
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長寿寺
始め真言宗に属し長祐寺と称し桶狭間の戦火で焼けたほか創建年代などは不詳。江戸時代になって尾張藩の家老職志水甲斐忠時(宗秀)が祖母長寿院元操尼の遺命により、延宝8年(1680年)尾張藩主光友より援助をうけ (寺域拡張の許可と寺領百石賜る)、天和2年(1682年)一大伽藍を建立。越伝を招聘し中興開山として宇治黄檗山を模倣した多くの堂舎僧坊を造営した。宗派を黄檗宗に改宗、祖母の法名に因み長寿寺と改めた。その後故あって元禄4年(1691年)石梯道雲の代に臨済宗永源寺派になった。本尊は木造阿弥陀如来座像で他に薬師如来像、観世音菩薩像、地蔵菩薩像、文殊菩薩像等がある。志水家の菩提寺で9代から14代までのお墓がある。
また明治21年(1888年)の火災により本堂、庫裡が焼失し、明治31年に再建された。残っていた鐘楼門は大正元年(1912年)の台風で倒壊し、ケヤキ柱の立派な鐘楼門が再建されたが今次大戦で惜しくも焼失した。現在は昭和54年に全伽藍が近代建築に造り替えられ趣を一変させている。
なお文化文政(1804年から1829年)の頃、知多の新四国八十八ヶ所の霊場の87番札所が設けられ弘法堂があり、その他高蔵坊狐のいわれの「高蔵坊稲荷」や境内入り口の右の丘の上に西行庵跡地に茶人下村実栗の「哉明翁寿碑」がある。(緑区史跡散策路大高城跡コースhpより) -
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鷲津砦跡
大高駅北200メートルの地点にあり、永禄2年(1559年)織田信長が今川氏に対抗するために丸根砦とともに築いた砦であり、大高城と丸根砦との三角形の位置にある。標高35メートル、東西40メートル、南北六69メートルの広さである。桶狭間の戦いの時、飯尾定宗、その子信宗、織田信平ら、500余人が今川勢の朝比奈泰朝ら2,000余人の軍勢に攻め立てられて大半が討死している。南北朝時代(1331年から1392年)尾張の守護土岐頼康の一族に鷲津殿、島田殿、萱津殿と称した家があり、鷲津殿のいた所はこの鷲津山であった。土岐氏の老臣花井・富田の二氏が尾張に来て守護代を勤め花井氏が鷲津方、富田氏が富田方 (現東海市富木島町=富田村+木庭村+姫島村)を支配し、土岐氏との関係から離れて独立すると両者はこの地で抗争を続け、大高は花井氏が支配した。昭和13年に国の指定史跡となった。(緑区史跡散策路大高城跡コースhpより) -
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明忠院(みょうちゅういん)
天正元年(1573年)鷲津山領主山口海老之丞が父母の追善のため創建。元は中之郷に明忠庵と称し真言宗に属して六坊の密院を建て広い寺域を持っていたが、兵火で焼かれ廃寺同様になっていた。元和5年(1619年)海老之丞の孫ら山口一族が再興し、春江院の善庵和尚を中興開山として曹洞宗に改宗。享保17年(1732年)現在地に移転。JR大高駅東方200メートルの鷲津山の北麓にあり大木が茂り、中でも「いぶき」は有名。本尊は釈迦如来金銅座像で三国伝来と伝えられ、堂宇は本堂、地蔵堂、毘沙門堂、庫裡、書院、山門等がある。毘沙門天は大和の信貴山朝護孫子寺より勧請し、裏参道には青峰山観音がある。なおこの明忠院は先代の住職が大正10年(1921年)に県下で初めての保育施設を開設し、その記念碑がある。また精霊殿という屋内墓地があり、位牌を小箱に入れて祀られている。(緑区史跡散策路大高城跡コースhpより) -
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