鴻巣・桶川・北本旅行記(ブログ) 一覧に戻る
開催期間:<br />2022年1月30日(日)~2月13日(日)<br /><br /> いにしえの足跡を訪ねて、武州中山道の上尾宿・桶川宿・北本間の宿・鴻巣宿の4宿をめぐりました。公称15kmの歩きです。<br /><br />スタート 上尾駅です。巡るところは以下のとおりです。<br /><br />上尾宿<br /> 氷川鍬神社<br /> 屋根の鐘馗様<br /> 遍照院<br /><br />桶川宿<br /> 島村家住宅土蔵<br /> 矢部家住宅<br /> 中山道宿場館<br /><br />北本間の宿<br /> おしゃもじ様<br /> 多聞寺<br /> 東間浅間神社<br /><br />鴻巣宿<br /> 鴻巣市産業観光館「ひなの里」<br /> 勝願寺<br /><br />ゴール 鴻巣駅<br /><br /> これ以外にも、上尾の造り酒屋の文楽での仕込み水、鴻巣の一里塚と東照宮などを訪れました。<br /><br /> 初日に参加しましたが、JRが宣伝しているハイキングなので駅員さんが大々的に受付してくれました。しかし、私の聞いた人が良くなかったのか要領が良くなかったです。<br /> それと、案内には「安全にご参加いただくため16:30までにゴールしてください。」と記載されていたにもかかわらず、鴻巣駅では、誰もいなくて、窓口の駅員に聞いたところ、「なにもありません」ということでした。せめて、完走賞ぐらい用意して欲しいものです。<br />

駅からハイキング 上尾宿から鴻巣宿

9いいね!

2022/01/30 - 2022/01/30

181位(同エリア308件中)

2

20

自炊おやじさん

開催期間:
2022年1月30日(日)~2月13日(日)

 いにしえの足跡を訪ねて、武州中山道の上尾宿・桶川宿・北本間の宿・鴻巣宿の4宿をめぐりました。公称15kmの歩きです。

スタート 上尾駅です。巡るところは以下のとおりです。

上尾宿
 氷川鍬神社
 屋根の鐘馗様
 遍照院

桶川宿
 島村家住宅土蔵
 矢部家住宅
 中山道宿場館

北本間の宿
 おしゃもじ様
 多聞寺
 東間浅間神社

鴻巣宿
 鴻巣市産業観光館「ひなの里」
 勝願寺

ゴール 鴻巣駅

 これ以外にも、上尾の造り酒屋の文楽での仕込み水、鴻巣の一里塚と東照宮などを訪れました。

 初日に参加しましたが、JRが宣伝しているハイキングなので駅員さんが大々的に受付してくれました。しかし、私の聞いた人が良くなかったのか要領が良くなかったです。
 それと、案内には「安全にご参加いただくため16:30までにゴールしてください。」と記載されていたにもかかわらず、鴻巣駅では、誰もいなくて、窓口の駅員に聞いたところ、「なにもありません」ということでした。せめて、完走賞ぐらい用意して欲しいものです。

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  •  駅での緑の窓口前、受付です。この他にも男の駅員さんが数名いました。

     駅での緑の窓口前、受付です。この他にも男の駅員さんが数名いました。

  • 駅からハイキングの最初の訪問ポイントです。<br /><br />上尾宿では、氷川鍬神社・屋根の鐘馗様・遍照院・文楽の仕込み水を訪れまし。<br /><br />最初に訪れた氷川鍬神社で、御祭神は豊鍬入姫命(とよくわいりひめのみこと)・稲田姫命(いなだひめのみこと)・管原道實公(すがわらみちざねこう)木之花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)・應神天皇の神です。<br /><br />氷川鍬神社は上尾宿総鎮守として広く世人の崇敬を集めた古社あり、通称「お鍬さま」と呼ばれており,氷川鍬神社の名称になったのは明治四十一年(1908)の神社合祀以後のことで、それより以前は「鍬大神宮」という社名であった。<br /><br /> 毎年、七月一日には初登山祭として浅間祭が行われ、これを「はつやま」とか「はつやままつり」と呼んでいます。<br />

    駅からハイキングの最初の訪問ポイントです。

    上尾宿では、氷川鍬神社・屋根の鐘馗様・遍照院・文楽の仕込み水を訪れまし。

    最初に訪れた氷川鍬神社で、御祭神は豊鍬入姫命(とよくわいりひめのみこと)・稲田姫命(いなだひめのみこと)・管原道實公(すがわらみちざねこう)木之花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)・應神天皇の神です。

    氷川鍬神社は上尾宿総鎮守として広く世人の崇敬を集めた古社あり、通称「お鍬さま」と呼ばれており,氷川鍬神社の名称になったのは明治四十一年(1908)の神社合祀以後のことで、それより以前は「鍬大神宮」という社名であった。

     毎年、七月一日には初登山祭として浅間祭が行われ、これを「はつやま」とか「はつやままつり」と呼んでいます。

  • 「屋根の鐘馗様」で駅からハイキングの訪問ポイントです。<br /><br />案内パンフレットをみると氷川神社の屋根の上かと思いましたが違いました。<br /><br />ちかくの商店の屋根上で、小さくて注意しないと見落とします。ところで、上尾宿の中心はこの道沿いではなく、もう一本平行している一方通行の道のようです。

    「屋根の鐘馗様」で駅からハイキングの訪問ポイントです。

    案内パンフレットをみると氷川神社の屋根の上かと思いましたが違いました。

    ちかくの商店の屋根上で、小さくて注意しないと見落とします。ところで、上尾宿の中心はこの道沿いではなく、もう一本平行している一方通行の道のようです。

  • 「遍照院」で駅からハイキングの訪問ポイントです。<br /><br /> 遍照院は真言宗智山派の寺院で、正式な号は「日乗山秀善寺 遍照院」です。開山は、室町時代の応永元年(1394年)で、御本尊は大聖不動明王。罪業が深く教化しがたい衆生のため怒りの姿に化身して救道するとされ、諸願を成就し、災害を除き、財宝をえしめる仏として厚く信仰されています。  <br /> この遍照院周辺は、旧中山道の上尾宿として栄えた街並みが残る中、上尾駅から徒歩3分という好立地なので今回のハイキングでは、建ち並ぶビルに隠れて駅から遍照院の全景は見ることはできません。<br /><br /> 境内は、本堂(御本尊は大聖不動明王)、童不動、身代わり不動、水子地蔵、興教大師(真言宗を復興された覚鑁上人)像、弘法大師像、山門、鐘楼、薬師堂、水屋、客殿があり、その他として、木蓮の木、松の木、孝女お玉の墓があって見どころが沢山あります。

    「遍照院」で駅からハイキングの訪問ポイントです。

     遍照院は真言宗智山派の寺院で、正式な号は「日乗山秀善寺 遍照院」です。開山は、室町時代の応永元年(1394年)で、御本尊は大聖不動明王。罪業が深く教化しがたい衆生のため怒りの姿に化身して救道するとされ、諸願を成就し、災害を除き、財宝をえしめる仏として厚く信仰されています。
     この遍照院周辺は、旧中山道の上尾宿として栄えた街並みが残る中、上尾駅から徒歩3分という好立地なので今回のハイキングでは、建ち並ぶビルに隠れて駅から遍照院の全景は見ることはできません。

     境内は、本堂(御本尊は大聖不動明王)、童不動、身代わり不動、水子地蔵、興教大師(真言宗を復興された覚鑁上人)像、弘法大師像、山門、鐘楼、薬師堂、水屋、客殿があり、その他として、木蓮の木、松の木、孝女お玉の墓があって見どころが沢山あります。

  • 「文楽の仕込み水」<br /><br /> 上尾には「文楽」という造り酒屋があります。なんでもご先祖様が、美味しい仕込み水を求めて、ここにやって来たそうです。<br /><br />ここは、駅からハイキングに掲載されているポイントではないですが、たまたまとおり道にあったので寄ってみました。お酒の神様として名高いのは松尾様ですが、ここではどんな神様を祀っているか分かりませんでした。<br />

    「文楽の仕込み水」

     上尾には「文楽」という造り酒屋があります。なんでもご先祖様が、美味しい仕込み水を求めて、ここにやって来たそうです。

    ここは、駅からハイキングに掲載されているポイントではないですが、たまたまとおり道にあったので寄ってみました。お酒の神様として名高いのは松尾様ですが、ここではどんな神様を祀っているか分かりませんでした。

  • そうこうしていると桶川宿に入りました。桶川宿の案内パンフレットです。これによると、意外なことに、駅からハイキングの訪問ポイント以外でも、本陣跡、武村旅館、小林住宅等の見どころがあります。<br /><br />桶川宿では、武村旅館・島村家住宅・矢部家住宅・小林家住宅を訪れました。駅からハイキングの「中山道宿場館」は、その前をとおりましたが写真を撮っていません。<br />

    そうこうしていると桶川宿に入りました。桶川宿の案内パンフレットです。これによると、意外なことに、駅からハイキングの訪問ポイント以外でも、本陣跡、武村旅館、小林住宅等の見どころがあります。

    桶川宿では、武村旅館・島村家住宅・矢部家住宅・小林家住宅を訪れました。駅からハイキングの「中山道宿場館」は、その前をとおりましたが写真を撮っていません。

  • 「武村旅館」<br /><br /> この竹村旅館は、ハイキングの訪問ポイントではないですが、江戸時代の旅籠がそのまま残っているので、貴重な建築物と思います。ケンペルが書いた江戸参府旅行日記には、2階建ての旅籠はないとありましたが、ここは何と二階建でした。<br /><br />竹村旅館の案内看板文<br /> 桶川宿には、大名や公家などの宿泊施設である本陣、脇本陣のほかに、中山道を往来する一般庶民の宿である旅籠が数多くありました。その数は、江戸時代末期の天保年間(1840年頃)には36軒を数え、宿内全戸数の1割を占めていました。この武村旅館は、嘉永5年(1852)の建築です。皇女和宮が中山道を下向した文久元年(1861)の「和宮下向桶川宿割書上」(かずのみや げこう おけがわしゅく わりかきあげ)には紙屋半次郎の名があり、建物の造りなどから旅籠を営んでいたと考えられています。<br /> 明治時代になると、武村家が板橋宿よりここに移り、旅館業を営みました。明治末期頃には、現在の建物正面東側部分を突き出させた寄棟造りに改築したと思われますが、建築当時の間取りは現在もほぼ引き継がれています。大戸、大黒柱、階段、根太天井(2階の床板をそのまま1階の天井とする構造)などに当時の姿がよく伝えられた貴重な建造物です。

    「武村旅館」

     この竹村旅館は、ハイキングの訪問ポイントではないですが、江戸時代の旅籠がそのまま残っているので、貴重な建築物と思います。ケンペルが書いた江戸参府旅行日記には、2階建ての旅籠はないとありましたが、ここは何と二階建でした。

    竹村旅館の案内看板文
     桶川宿には、大名や公家などの宿泊施設である本陣、脇本陣のほかに、中山道を往来する一般庶民の宿である旅籠が数多くありました。その数は、江戸時代末期の天保年間(1840年頃)には36軒を数え、宿内全戸数の1割を占めていました。この武村旅館は、嘉永5年(1852)の建築です。皇女和宮が中山道を下向した文久元年(1861)の「和宮下向桶川宿割書上」(かずのみや げこう おけがわしゅく わりかきあげ)には紙屋半次郎の名があり、建物の造りなどから旅籠を営んでいたと考えられています。
     明治時代になると、武村家が板橋宿よりここに移り、旅館業を営みました。明治末期頃には、現在の建物正面東側部分を突き出させた寄棟造りに改築したと思われますが、建築当時の間取りは現在もほぼ引き継がれています。大戸、大黒柱、階段、根太天井(2階の床板をそのまま1階の天井とする構造)などに当時の姿がよく伝えられた貴重な建造物です。

  • 「島村家住宅」<br /><br />駅からハイキングの訪問ポイントです。しかし、まわりの建物に囲まれて情緒がないです。<br /><br />案内文<br /> 島村老茶舗は、江戸時代の嘉永7年(1854年)に創業した商家です。屋号を「丸木」といい、創業以来この地で茶商を営んできました。建物は、中山道に面した店舗建物と、その奥に続く平屋建ての主屋からなります。<br /> 正面の店舗は大正15年(1926年)に建てられたものです。木造二階建て切妻造り桟瓦葺き平入の建物で、欅の大黒柱は六寸五分(約20cm角)の太さがあります。2階戸袋の鏡板には欅の一枚板が使われ、窓は外側にガラス障子を張り、内側に障子を張った二重の造りとなっています。また、巴瓦や雨どいのアンコには、屋号の「*」(まるき)があしらわれています。<br /> 店舗奥に続く主屋は、嘉永7年に建てられたと伝わります。木造平屋建て入母屋造りの建物です。屋根裏の小屋組みには和釘が使われており、明治時代以前の建物であることがわかります。座敷の床柱には杉絞り丸太が使われるなど、貴重な材料が使われています。<br /> 建てられた当時の姿をそのまま留める店舗建物は、当時の商家の規範ともいえる建築です。吟味された上質な木材が各所に使われ、細部にわたり丁寧な造りを見ることができます。商家の繁栄をうかがわせるとともに、旧桶川宿の面影を今に伝えるたいへん貴重な建物です。<br /><br />

    「島村家住宅」

    駅からハイキングの訪問ポイントです。しかし、まわりの建物に囲まれて情緒がないです。

    案内文
     島村老茶舗は、江戸時代の嘉永7年(1854年)に創業した商家です。屋号を「丸木」といい、創業以来この地で茶商を営んできました。建物は、中山道に面した店舗建物と、その奥に続く平屋建ての主屋からなります。
     正面の店舗は大正15年(1926年)に建てられたものです。木造二階建て切妻造り桟瓦葺き平入の建物で、欅の大黒柱は六寸五分(約20cm角)の太さがあります。2階戸袋の鏡板には欅の一枚板が使われ、窓は外側にガラス障子を張り、内側に障子を張った二重の造りとなっています。また、巴瓦や雨どいのアンコには、屋号の「*」(まるき)があしらわれています。
     店舗奥に続く主屋は、嘉永7年に建てられたと伝わります。木造平屋建て入母屋造りの建物です。屋根裏の小屋組みには和釘が使われており、明治時代以前の建物であることがわかります。座敷の床柱には杉絞り丸太が使われるなど、貴重な材料が使われています。
     建てられた当時の姿をそのまま留める店舗建物は、当時の商家の規範ともいえる建築です。吟味された上質な木材が各所に使われ、細部にわたり丁寧な造りを見ることができます。商家の繁栄をうかがわせるとともに、旧桶川宿の面影を今に伝えるたいへん貴重な建物です。

  • 「矢部家住宅」<br /><br />駅からハイキングの訪問ポイントで、桶川市指定文化財になっています。<br /><br />案内文<br /> 矢部家住宅は、中山道に面した土蔵造りの店蔵と、その奥に続く塗屋造りの住居、土蔵造りの文庫蔵、切妻造りの勝手場他の建物で構成されています。<br /> 矢部家は屋号を「木半」(木嶋屋半七)といい、主には穀物問屋を営んでいました。また紅花の商いも行い、桶川の稲荷神社境内に残る「紅花商人寄進の石燈籠」(市指定文化財)に刻まれた24人の紅花商人の中に名を連ねています。<br /> 現存する建物の中で最古のものは中山道から最も奥に位置する土蔵造りの文庫蔵で、棟札から明治17年の建立であることがわかります。この土蔵は、屋根の鬼瓦の上から鋳鉄製の棘状の棟飾りが出ているのが特徴です。これは「烏」または「烏おどし」とも呼ばれ、鳥よけと言われていますが。周辺地域でも数少ない珍しい意匠です。<br /> 中山道に面した土蔵造りの店蔵は、矢部家第6代当主の五三郎氏(安政4~大正9年)が明治38年に建立しました。桁行五間(一間=約1.8m)、梁間三間、黒漆喰塗りの重厚な構えで。棟札には、川越の土蔵造り商家を多く手がけた職人たちを始め、地元の職人たちが名を連ねています。<br /> 桶川宿で現存する土蔵造りの店蔵はこの矢部家一軒のみとなりましたが、往時の桶川宿の繁栄と賑わいを偲ぶことのできる貴重な建造物のひとつです<br />

    「矢部家住宅」

    駅からハイキングの訪問ポイントで、桶川市指定文化財になっています。

    案内文
     矢部家住宅は、中山道に面した土蔵造りの店蔵と、その奥に続く塗屋造りの住居、土蔵造りの文庫蔵、切妻造りの勝手場他の建物で構成されています。
     矢部家は屋号を「木半」(木嶋屋半七)といい、主には穀物問屋を営んでいました。また紅花の商いも行い、桶川の稲荷神社境内に残る「紅花商人寄進の石燈籠」(市指定文化財)に刻まれた24人の紅花商人の中に名を連ねています。
     現存する建物の中で最古のものは中山道から最も奥に位置する土蔵造りの文庫蔵で、棟札から明治17年の建立であることがわかります。この土蔵は、屋根の鬼瓦の上から鋳鉄製の棘状の棟飾りが出ているのが特徴です。これは「烏」または「烏おどし」とも呼ばれ、鳥よけと言われていますが。周辺地域でも数少ない珍しい意匠です。
     中山道に面した土蔵造りの店蔵は、矢部家第6代当主の五三郎氏(安政4~大正9年)が明治38年に建立しました。桁行五間(一間=約1.8m)、梁間三間、黒漆喰塗りの重厚な構えで。棟札には、川越の土蔵造り商家を多く手がけた職人たちを始め、地元の職人たちが名を連ねています。
     桶川宿で現存する土蔵造りの店蔵はこの矢部家一軒のみとなりましたが、往時の桶川宿の繁栄と賑わいを偲ぶことのできる貴重な建造物のひとつです

  • 「小林家住宅」<br /><br />小林家住宅主屋は国登録有形文化財ですが、駅からハイキングの訪問ポイントではありません。<br /><br />案内文<br /> 小林家住宅主屋は、江戸時代末期頃に旅籠(宿屋)として建てられました。発見された棟札から、穀屋(古久屋)吉右衛門が『子三月吉日』(ねさんがつきちじつ))に建てたことがわかります。この『子』の年がいつかは不明ですが、文政10年(1827 ・亥年)に桶川宿に大火があったこと、また文久元年(1861 ・ 酉年)皇女和宮の下向時の割書帳にはすでに吉右衛門の名が記されていることなどから、文政11年(1828)、天保11年(1840)、嘉永5年(1852)のいずれかの『子』の年と考えられています。<br /> その後の当主となった小林家は材木商を営み、それに伴い大き<改修されましたが、外観は当時の姿をとどめています。旅籠当時の間取りは図面に残っているのみですが、2階は中廊下式になっており、旅籠当時の部屋割りの名残りと思われます。<br /> 構造の要となっているのは、二間半(一間=約1.8m)の幅で2本建てられた大黒柱です。屋根を支える小屋組は和小屋構造といわれる伝統的なもので、太く丈夫な部材を使用しています。建物正面の2階には六間にわたって出窓を出し、格子戸をはめこんでいます。宿場町当時の旅籠のたたずまいを今に伝える貴重な建造物です。

    「小林家住宅」

    小林家住宅主屋は国登録有形文化財ですが、駅からハイキングの訪問ポイントではありません。

    案内文
     小林家住宅主屋は、江戸時代末期頃に旅籠(宿屋)として建てられました。発見された棟札から、穀屋(古久屋)吉右衛門が『子三月吉日』(ねさんがつきちじつ))に建てたことがわかります。この『子』の年がいつかは不明ですが、文政10年(1827 ・亥年)に桶川宿に大火があったこと、また文久元年(1861 ・ 酉年)皇女和宮の下向時の割書帳にはすでに吉右衛門の名が記されていることなどから、文政11年(1828)、天保11年(1840)、嘉永5年(1852)のいずれかの『子』の年と考えられています。
     その後の当主となった小林家は材木商を営み、それに伴い大き<改修されましたが、外観は当時の姿をとどめています。旅籠当時の間取りは図面に残っているのみですが、2階は中廊下式になっており、旅籠当時の部屋割りの名残りと思われます。
     構造の要となっているのは、二間半(一間=約1.8m)の幅で2本建てられた大黒柱です。屋根を支える小屋組は和小屋構造といわれる伝統的なもので、太く丈夫な部材を使用しています。建物正面の2階には六間にわたって出窓を出し、格子戸をはめこんでいます。宿場町当時の旅籠のたたずまいを今に伝える貴重な建造物です。

  •  北本間の宿では、おしゃもじ様・多聞寺のむくろじ・東間浅間神社を訪れました。<br /><br />案内板より<br /> 今日の北本のもととなる街並みがつくられたのは、江戸時代の初期に本宿村が中山道の宿駅として整えられたのが始まりです。現在の本宿付近は、そのころ本鴻巣村と呼ばれていました。<br /> その宿駅も中山道が整備された頃には、現在の鴻巣の地に移されました。宿場のあったところは、その後、本宿(元宿)村と呼ばれ、これが北本の地名の起こりともなっています。<br /> 街道沿いに旅館や店はありませんでしたが、本宿村の下茶屋と東間村の三軒茶屋の二ヶ所には立場がおかれていました。人や馬はそこで喉の渇きや旅の疲れをいやし、次の宿場へと向かいました

     北本間の宿では、おしゃもじ様・多聞寺のむくろじ・東間浅間神社を訪れました。

    案内板より
     今日の北本のもととなる街並みがつくられたのは、江戸時代の初期に本宿村が中山道の宿駅として整えられたのが始まりです。現在の本宿付近は、そのころ本鴻巣村と呼ばれていました。
     その宿駅も中山道が整備された頃には、現在の鴻巣の地に移されました。宿場のあったところは、その後、本宿(元宿)村と呼ばれ、これが北本の地名の起こりともなっています。
     街道沿いに旅館や店はありませんでしたが、本宿村の下茶屋と東間村の三軒茶屋の二ヶ所には立場がおかれていました。人や馬はそこで喉の渇きや旅の疲れをいやし、次の宿場へと向かいました

  • 「おしゃもじ様」<br /><br />駅からハイキングの訪問ポイントです。<br /><br /> このおしゃもじさまは、旧中山道沿いにあると思い,歩道橋を渡って、ずいずいと先に進みました。しかし、いくら経っても出会いません。よく地図を見ると、歩道橋を降りたら戻るように高崎線に向かって行かなければならないことに気がつきました。<br /><br />おしゃもじさま(縁起由来)より<br /><br /> 子供が病気(百日咳や、はやり風邪)になると、ここへお参りして帰りにおしゃもじを一本お借りして、帰ります。そのおしゃもじを使ってご飯を盛り、病気(百日咳や、はやり風邪)が治ると、お借りしたおしゃもじに、さらに新しいものを一本付けて、お返ししました。<br /> そのおしゃもじさまは高崎線のそばにありましたが、高崎線が複線になる時、山林の中に移設されました。お参りするには非常に不便になりましたので、戦後(太平洋戦争)、現在の地に移しました。<br /><br /> おしゃもじさまは子供の病気を治す神様であり、子育ての神様でもあります。<br /><br />平成二十六年八月<br />     二ツ家稲荷神社公会堂護持会<br />

    「おしゃもじ様」

    駅からハイキングの訪問ポイントです。

     このおしゃもじさまは、旧中山道沿いにあると思い,歩道橋を渡って、ずいずいと先に進みました。しかし、いくら経っても出会いません。よく地図を見ると、歩道橋を降りたら戻るように高崎線に向かって行かなければならないことに気がつきました。

    おしゃもじさま(縁起由来)より

     子供が病気(百日咳や、はやり風邪)になると、ここへお参りして帰りにおしゃもじを一本お借りして、帰ります。そのおしゃもじを使ってご飯を盛り、病気(百日咳や、はやり風邪)が治ると、お借りしたおしゃもじに、さらに新しいものを一本付けて、お返ししました。
     そのおしゃもじさまは高崎線のそばにありましたが、高崎線が複線になる時、山林の中に移設されました。お参りするには非常に不便になりましたので、戦後(太平洋戦争)、現在の地に移しました。

     おしゃもじさまは子供の病気を治す神様であり、子育ての神様でもあります。

    平成二十六年八月
         二ツ家稲荷神社公会堂護持会

  • 「多聞寺のむくろじ」<br /><br />駅からハイキングの訪問ポイントです。<br /><br /> 多聞寺は入り口が分からなくて、通り過ぎた隣の天神社から入りました。天神社と多聞寺が隣り合っていることから、もともとは神仏習合であったと想像します。<br /><br /> 立派な石碑には、次のように書いてありました。<br /><br /> 天然記念物 多聞寺の無患樹(注意:地元の人がいうには、無患子が正しい)<br />幹回り 三六メートル<br />根回り 七.六メートル<br />樹高  二七メートル<br />枝張  一四.五メートル<br />樹齢  約二百年<br /><br />昭和十六年二月二十一日県指定 保存会

    「多聞寺のむくろじ」

    駅からハイキングの訪問ポイントです。

     多聞寺は入り口が分からなくて、通り過ぎた隣の天神社から入りました。天神社と多聞寺が隣り合っていることから、もともとは神仏習合であったと想像します。

    立派な石碑には、次のように書いてありました。

     天然記念物 多聞寺の無患樹(注意:地元の人がいうには、無患子が正しい)
    幹回り 三六メートル
    根回り 七.六メートル
    樹高  二七メートル
    枝張  一四.五メートル
    樹齢  約二百年

    昭和十六年二月二十一日県指定 保存会

  • 「東間浅間神社」<br /><br />駅からハイキングの訪問ポイントです。<br /><br />北本市指定有形民俗文化財である「東間(あずま)の富士塚(ふじづか)」です。頂上には社殿が建てられています。<br /><br />案内文 平成二十五年三月二十八日指定<br /><br /> 地元で「センゲンサマ」と呼ぼれているこの富士塚は、東西約三十七m、南北約二十七m、高さ約六mの規模で、頂には木造の社殿が建てられている。<br /> 参道と東側の石段および社殿は直線上に配置され、これを延長した先は実際の富士山を正確に指向する。中腹には享保八年(一七二三)の銘が入った「石段供養塔」が建てられており、塚の築造時期は、少なくとも江戸時代中期にさかのぼると考えられる。<br /> このため東間の富士塚は、江戸時代後期に隆盛した「富士講」以前の古い富士信仰による築造であり、近在においても類例が少なく大変貴重である。<br /> 毎年六月三十日、七月一日には、この一年の間に生まれた赤ちゃんの成長を祈願する初山行事が行われている。<br /><br />平成二十五年六月<br />   北本市教育委員会

    「東間浅間神社」

    駅からハイキングの訪問ポイントです。

    北本市指定有形民俗文化財である「東間(あずま)の富士塚(ふじづか)」です。頂上には社殿が建てられています。

    案内文 平成二十五年三月二十八日指定

     地元で「センゲンサマ」と呼ぼれているこの富士塚は、東西約三十七m、南北約二十七m、高さ約六mの規模で、頂には木造の社殿が建てられている。
     参道と東側の石段および社殿は直線上に配置され、これを延長した先は実際の富士山を正確に指向する。中腹には享保八年(一七二三)の銘が入った「石段供養塔」が建てられており、塚の築造時期は、少なくとも江戸時代中期にさかのぼると考えられる。
     このため東間の富士塚は、江戸時代後期に隆盛した「富士講」以前の古い富士信仰による築造であり、近在においても類例が少なく大変貴重である。
     毎年六月三十日、七月一日には、この一年の間に生まれた赤ちゃんの成長を祈願する初山行事が行われている。

    平成二十五年六月
       北本市教育委員会

  • 鴻巣駅前の旧中山道そばにある鴻巣宿の案内図です。鴻巣宿では、一里塚・八幡神社・鴻巣市産業観光館「ひなの里」・願勝寺山門・東照宮を訪れました。<br /><br /><br />鴻巣の由来(引用:https://www.koujinja.or.jp/legend/index.html)<br /><br /> 「こうのす」という地名は、古代に武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)である笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が現在の鴻巣市笠原のあたりに居住したとされ、また、一時この近辺に国府関連の施設があり、荒川や元荒川などを利用した水運も盛んだったと推測されることから、「国府の洲 こくふのす」が「こうのす」となり、後に「こうのとり」の伝説から「鴻巣」の字をあてるようになったと思われます。<br /> 国府のことを「こう」と呼ぶのは、他の地名(国府台[こうのだい]、国府津[こうづ]など)からも類推され、国府のお宮を国府宮(こうのみや)と呼ぶのは、愛知県稲沢市にある尾張大国霊神社、別名国府宮(こうのみや)など、全国でも例があります。<br /> このことからこうのとりのお宮「鴻の宮」は「国府の宮(こうのみや)」であったのではないでしょうか。<br /><br />※笠原直使主(かさはらのあたいおみ)<br /> 6世紀に活躍した豪族で行田市の埼玉古墳群の中の稲荷山古墳にまつられています。そこから出土した大和朝廷から拝領したとされる金象眼銘の鉄剣は国宝に指定されています。<br /><br /> 鴻神社は氷川社・雷電社・熊野社をはじめ、多くの神々をまつる鴻巣総鎮守で社殿の脇にそびえる大いちょうの下、四季折々に様々な祭りが行われます。

    鴻巣駅前の旧中山道そばにある鴻巣宿の案内図です。鴻巣宿では、一里塚・八幡神社・鴻巣市産業観光館「ひなの里」・願勝寺山門・東照宮を訪れました。


    鴻巣の由来(引用:https://www.koujinja.or.jp/legend/index.html

     「こうのす」という地名は、古代に武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)である笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が現在の鴻巣市笠原のあたりに居住したとされ、また、一時この近辺に国府関連の施設があり、荒川や元荒川などを利用した水運も盛んだったと推測されることから、「国府の洲 こくふのす」が「こうのす」となり、後に「こうのとり」の伝説から「鴻巣」の字をあてるようになったと思われます。
     国府のことを「こう」と呼ぶのは、他の地名(国府台[こうのだい]、国府津[こうづ]など)からも類推され、国府のお宮を国府宮(こうのみや)と呼ぶのは、愛知県稲沢市にある尾張大国霊神社、別名国府宮(こうのみや)など、全国でも例があります。
     このことからこうのとりのお宮「鴻の宮」は「国府の宮(こうのみや)」であったのではないでしょうか。

    ※笠原直使主(かさはらのあたいおみ)
     6世紀に活躍した豪族で行田市の埼玉古墳群の中の稲荷山古墳にまつられています。そこから出土した大和朝廷から拝領したとされる金象眼銘の鉄剣は国宝に指定されています。

     鴻神社は氷川社・雷電社・熊野社をはじめ、多くの神々をまつる鴻巣総鎮守で社殿の脇にそびえる大いちょうの下、四季折々に様々な祭りが行われます。

  • 「一里塚」<br /><br /> 北本の東間浅間神社とは線路を挟んで反対側にあります。ただ、住所は鴻巣市でした。この直前に訪れた東間浅間神社で掃除をしていた人に、この場所を聞きました。当然、駅からハイキングの訪問スポットではありません。<br /><br /> この一里塚は、埼玉県の中山道中で、現存する唯一のものだそうです。そして、 ここに一里塚があるということは、現在の旧中山道といわれているとことは、江戸時代と違うと言うことになりますね。<br /><br /><br />案内板の内容<br />埼玉県指定史跡    昭和二年三月三十一日指定<br />   一里塚<br /> 徳川幕府は参勤交代を契機として、街道の整備、宿駅の制、伝馬の制を定めた。一里塚は、街道整備のひとつで、主な街道に設けられた距離の目印である。<br /> 江戸の日本橋を起点として、一里(約四キロメートル)ごとに道の両側に五間(約一〇メートル)四方の塚を築き、その頂上に榎や松などが植えられた。中山道の一里塚は、慶長十七年に築かれた。<br /> この一里塚は、当時の中山道を挟み両側に築かれた一対のうち西側のもので、旧中山道の道筋が分かる貴重な資料である。なお、東側の塚は明治十六年の高崎線敷設の際に取り壊された。<br /> 明治維新以降交通手段の変化と発達にともない、一里塚のほとんどが取り壊されて現存する例は少ない。<br /><br />参考:慶長十七年(一六一二)<br />   明治十六年(一八八二)<br /><br /> 平成二十四年二月       埼玉県教育委員会<br /> 文化財を大切にしましょう 鴻巣市教育委員会

    「一里塚」

     北本の東間浅間神社とは線路を挟んで反対側にあります。ただ、住所は鴻巣市でした。この直前に訪れた東間浅間神社で掃除をしていた人に、この場所を聞きました。当然、駅からハイキングの訪問スポットではありません。

     この一里塚は、埼玉県の中山道中で、現存する唯一のものだそうです。そして、 ここに一里塚があるということは、現在の旧中山道といわれているとことは、江戸時代と違うと言うことになりますね。


    案内板の内容
    埼玉県指定史跡    昭和二年三月三十一日指定
       一里塚
     徳川幕府は参勤交代を契機として、街道の整備、宿駅の制、伝馬の制を定めた。一里塚は、街道整備のひとつで、主な街道に設けられた距離の目印である。
     江戸の日本橋を起点として、一里(約四キロメートル)ごとに道の両側に五間(約一〇メートル)四方の塚を築き、その頂上に榎や松などが植えられた。中山道の一里塚は、慶長十七年に築かれた。
     この一里塚は、当時の中山道を挟み両側に築かれた一対のうち西側のもので、旧中山道の道筋が分かる貴重な資料である。なお、東側の塚は明治十六年の高崎線敷設の際に取り壊された。
     明治維新以降交通手段の変化と発達にともない、一里塚のほとんどが取り壊されて現存する例は少ない。

    参考:慶長十七年(一六一二)
       明治十六年(一八八二)

     平成二十四年二月       埼玉県教育委員会
     文化財を大切にしましょう 鴻巣市教育委員会

  • 「八幡神社」<br /><br /> ここも駅からハイキングの訪問スポットではありません。<br /><br />鴻巣の町中に入ると直ぐに八幡神社がありました。案内(八幡神社御由緒)よると、隣の金剛院との神仏習合であったことが分かります。北本の多聞寺と天神社といい、ここと言いこの辺は神仏習合が多かったのでしょう。それはとりもなおさず豊かだったからではないでしょうか。<br /><br />八幡神社御由緒<br />  鴻巣市人形四-一-十八<br /><br />口 御縁起 (歴史)<br />上谷新田は中山道沿いの新田村落で、天保年間(一六四四‐四八)以前に上谷村から分村したという。<br /> 江戸期の当社は『風土記稿』上谷新田村の項を見ると、浅間社・天王社・ 稲荷社と共に、金剛院の境内に祀られていたことがわかる。金剛院は京都 智積院末の真言宗の寺院で、中興の海栄が元禄三年(一六九〇)に没したと伝えている。当社はこの海栄によって勧請された社で「八幡社存置二付願(写し)」によれば、創立は文禄元年(一五九二)八月十五日で、海栄が豊前宇佐八幡社に参拝して分霊を頂戴し、その帰途神灯をともし続け、当地に奉斎したという。<br /> 当社は神仏分離により金剛院の管理下から離れ、社格制定に際しては無格社とされた。明治四年に下谷新田村は下上谷村と共に上谷村に合併となり、それ以前から上谷村の鎮守であった氷川神社が村社に列した。<br /> その後の政府の合祀政策により当社を村社氷川神社に合祀する旨の論達があったことから、氏子により再三協議が持たれた。その結果合祀を回避するため、明治四十一年二月二十五日付で社掌伊藤保・氏子惣代酒巻竜次郎・関口国太郎・石井源次郎の連名で、北足立郡役所に先の「八幡社存置二付願)が出された。この願いは聞き届けられた模様で、合祀を免れて、現在に至っている。<br /><br /> 祭神は誉田別命で、本殿には騎乗の八幡大明神像を奉安している。<br /><br />口 御祭神と御神徳<br /> ・誉田別命・・・交通安全、厄除開運、家内安全<br /><br />口 御祭日<br />・元日祭(一月一日)・道饗祭(五月七日)・浅間社祭(七月一日)<br />・夏祭り(七月十五日に近い日曜日)・例大祭(陰暦八月十五日)・大祓(十二月末)

    「八幡神社」

     ここも駅からハイキングの訪問スポットではありません。

    鴻巣の町中に入ると直ぐに八幡神社がありました。案内(八幡神社御由緒)よると、隣の金剛院との神仏習合であったことが分かります。北本の多聞寺と天神社といい、ここと言いこの辺は神仏習合が多かったのでしょう。それはとりもなおさず豊かだったからではないでしょうか。

    八幡神社御由緒
      鴻巣市人形四-一-十八

    口 御縁起 (歴史)
    上谷新田は中山道沿いの新田村落で、天保年間(一六四四‐四八)以前に上谷村から分村したという。
     江戸期の当社は『風土記稿』上谷新田村の項を見ると、浅間社・天王社・ 稲荷社と共に、金剛院の境内に祀られていたことがわかる。金剛院は京都 智積院末の真言宗の寺院で、中興の海栄が元禄三年(一六九〇)に没したと伝えている。当社はこの海栄によって勧請された社で「八幡社存置二付願(写し)」によれば、創立は文禄元年(一五九二)八月十五日で、海栄が豊前宇佐八幡社に参拝して分霊を頂戴し、その帰途神灯をともし続け、当地に奉斎したという。
     当社は神仏分離により金剛院の管理下から離れ、社格制定に際しては無格社とされた。明治四年に下谷新田村は下上谷村と共に上谷村に合併となり、それ以前から上谷村の鎮守であった氷川神社が村社に列した。
     その後の政府の合祀政策により当社を村社氷川神社に合祀する旨の論達があったことから、氏子により再三協議が持たれた。その結果合祀を回避するため、明治四十一年二月二十五日付で社掌伊藤保・氏子惣代酒巻竜次郎・関口国太郎・石井源次郎の連名で、北足立郡役所に先の「八幡社存置二付願)が出された。この願いは聞き届けられた模様で、合祀を免れて、現在に至っている。

     祭神は誉田別命で、本殿には騎乗の八幡大明神像を奉安している。

    口 御祭神と御神徳
     ・誉田別命・・・交通安全、厄除開運、家内安全

    口 御祭日
    ・元日祭(一月一日)・道饗祭(五月七日)・浅間社祭(七月一日)
    ・夏祭り(七月十五日に近い日曜日)・例大祭(陰暦八月十五日)・大祓(十二月末)

  • 「ひなの里」<br /><br />駅からハイキングの訪問スポットである鴻巣市産業観光館「ひなの里」です。ここでは、観光案内等を行っています。<br /><br />観光案内板の写真があるのですが、ここで撮ったのか次の「願勝寺」で撮ったのか覚えていません。案内板の文章を記載します。<br /><br /> 江戸から京都間の中山道は、東海道より距離が長いものの、大河や海がなく安全であるため、古来より重要な街道として往来されていました。<br /> 江戸の日本橋から京都のコー条大橋までは一三五里二町余(約五三四㎞)、滋賀の草津宿までは一二九里一〇町余(約五一七㎞)の距離でした。<br /> 宿駅は板橋宿から守山宿まで六七宿あり、「鴻巣宿」は、慶長七年(一六〇二年)六月に、本宿(現北本市)から移動して成立しました。<br /> 江戸から数えて七番目の「宿」であり、天保十四年(一八四三年)にはヽ人口二二七四人戸数五六六軒のうち本陣一軒脇本陣一軒旅籠五八軒(街道平均二五軒)との記録があります。<br /><br />近代関東三大ひな市(鴻巣・越谷江戸十軒店)のひとつに数えられ。特に、着物の着付けは「関東一」と大評判でした。<br /> 明治になると「鴻巣雛」の製作はますます盛んとなり、「県内では越谷六軒、大沢三軒、岩槻一二軒に比べ、鴻巣の人形業者は三〇軒、職人三00人」という記録があり、その活況ぶりを伝えています。   <br />

    「ひなの里」

    駅からハイキングの訪問スポットである鴻巣市産業観光館「ひなの里」です。ここでは、観光案内等を行っています。

    観光案内板の写真があるのですが、ここで撮ったのか次の「願勝寺」で撮ったのか覚えていません。案内板の文章を記載します。

     江戸から京都間の中山道は、東海道より距離が長いものの、大河や海がなく安全であるため、古来より重要な街道として往来されていました。
     江戸の日本橋から京都のコー条大橋までは一三五里二町余(約五三四㎞)、滋賀の草津宿までは一二九里一〇町余(約五一七㎞)の距離でした。
     宿駅は板橋宿から守山宿まで六七宿あり、「鴻巣宿」は、慶長七年(一六〇二年)六月に、本宿(現北本市)から移動して成立しました。
     江戸から数えて七番目の「宿」であり、天保十四年(一八四三年)にはヽ人口二二七四人戸数五六六軒のうち本陣一軒脇本陣一軒旅籠五八軒(街道平均二五軒)との記録があります。

    近代関東三大ひな市(鴻巣・越谷江戸十軒店)のひとつに数えられ。特に、着物の着付けは「関東一」と大評判でした。
     明治になると「鴻巣雛」の製作はますます盛んとなり、「県内では越谷六軒、大沢三軒、岩槻一二軒に比べ、鴻巣の人形業者は三〇軒、職人三00人」という記録があり、その活況ぶりを伝えています。   

  • 「願勝寺」<br /><br />願勝寺山門です。駅からハイキングの訪問スポットであります。<br /><br />先の案内板の続きです。<br /><br />勝願寺は十六世紀末期、清厳上人によって中興されました。鷹狩の際に勝願寺を訪れた徳川家康は、中興二世住職円誉不残上人に帰依し、「三ッ葉葵紋」の使用を許可しました。<br /> 慶長十一年(一六〇六年)、円誉不残上人は後陽成天皇から僧の最高位である紫衣を与えられ、やがて浄土宗関東十八檀林(浄土宗僧侶の養成機関・学問所)のひとつとなりました。<br /> 境内には丹後田辺藩主牧野家や関東郡代伊奈氏、真田氏に嫁いだ小松姫、仙石秀久などの墓もあり、毎年十一月には、関東三大十夜に数えられる十夜法要や人形供が行われます。

    「願勝寺」

    願勝寺山門です。駅からハイキングの訪問スポットであります。

    先の案内板の続きです。

    勝願寺は十六世紀末期、清厳上人によって中興されました。鷹狩の際に勝願寺を訪れた徳川家康は、中興二世住職円誉不残上人に帰依し、「三ッ葉葵紋」の使用を許可しました。
     慶長十一年(一六〇六年)、円誉不残上人は後陽成天皇から僧の最高位である紫衣を与えられ、やがて浄土宗関東十八檀林(浄土宗僧侶の養成機関・学問所)のひとつとなりました。
     境内には丹後田辺藩主牧野家や関東郡代伊奈氏、真田氏に嫁いだ小松姫、仙石秀久などの墓もあり、毎年十一月には、関東三大十夜に数えられる十夜法要や人形供が行われます。

  • 「日本一小さな東照宮」<br /><br /> 駅からハイキングの訪問スポットではありません。<br /><br />鴻巣宿の案内図に東照宮が描かれていたので寄ってみることにしました。日本一小さい東照宮がうたい文句です。もともと家康様が、鷹狩りの時使用した鴻巣御殿の跡地に当てられたそうです。<br /> そんなことは知らず、神君家康を祀っているのですから、さぞ大きな敷地に立派な建物と思い探しますが、どこにも見当たりません。ランニングをしている人に声を掛けると、親切にも案内していただきました。なんでもボランティアで観光案内をしている人です。はっきりいって、この人の案内なしでは、東照宮は探せなかったと思います。<br /> なお、鴻巣御殿のミニチュアが、駅そばの鴻巣市市民活動センターに展示してあります。<br /><br />これを最後の見学として、鴻巣駅から電車に乗って帰りました。<br /><br /> この企画の残念だったことは、鴻巣駅には完走した人を出迎える人がいなかったことです。あとで知ったのですが、コロナの影響で大々的なことをすると、この企画自体がなくなると言うことでしたので仕方が無いことだと感じました。

    「日本一小さな東照宮」

     駅からハイキングの訪問スポットではありません。

    鴻巣宿の案内図に東照宮が描かれていたので寄ってみることにしました。日本一小さい東照宮がうたい文句です。もともと家康様が、鷹狩りの時使用した鴻巣御殿の跡地に当てられたそうです。
     そんなことは知らず、神君家康を祀っているのですから、さぞ大きな敷地に立派な建物と思い探しますが、どこにも見当たりません。ランニングをしている人に声を掛けると、親切にも案内していただきました。なんでもボランティアで観光案内をしている人です。はっきりいって、この人の案内なしでは、東照宮は探せなかったと思います。
     なお、鴻巣御殿のミニチュアが、駅そばの鴻巣市市民活動センターに展示してあります。

    これを最後の見学として、鴻巣駅から電車に乗って帰りました。

     この企画の残念だったことは、鴻巣駅には完走した人を出迎える人がいなかったことです。あとで知ったのですが、コロナの影響で大々的なことをすると、この企画自体がなくなると言うことでしたので仕方が無いことだと感じました。

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この旅行記へのコメント (2)

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  • 黒田(温泉)さん 2022/02/18 16:14:36
    お世話になりました。
    自炊おやじ様

    JR上尾~鴻巣駅間の「駅からハイキング」、お誘い頂き、ありがとうございました。
    お世話になりました。
    素晴らしい「ウォーキングレポート」ですね!
    一緒に歩いていた私には、どのようにしたらこんなに詳しく、コンパクトでありながら要領よくまとめることができるのか、ただただ驚くばかりです。

    私は、「4トラ」のネタがまだあるので、少し先のアップになります。
    先に詳しいレポートを拝読しましたから、2番手は「作り易いようで、難しさ」を感じます。

    自炊おやじさん からの返信 2022/02/19 00:11:44
    Re: お世話になりました。
    こちらこそお世話になりました。

    要領よく纏めるというより、今回、感想を書くのが面倒だったので、案内文(案内看板文)を掲載しただけです。

    黒田様のレポートを楽しみにしています。

自炊おやじさんのトラベラーページ

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