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宝篋山は山頂に城趾があり、城趾探訪記にするかハイキング記にするか迷いましたが、城趾の遺構が、あまりにも少ないためハイキング記としました。なお、ハイキングの後に、茨城南部の大名の居城であった小田城趾を訪れたので、こちらも少し記載します。<br /><br />宝篋山はつくば市北東部にある標高 461mの山です。昔は三村山あるいは小田山と呼ばれ、山頂に宝篋印塔 ( 高さ 2.5m)が建立されて以来、宝篋山と呼ばれるようになり、周辺には歴史的石造物が数多く残っていて、麓には極楽寺という大きなお寺がありました。<br /><br /> 頂上は、360 度のパノラマを楽しむことができ、百名山である筑波山、赤城山、男体山をはじめとして、空気の澄んだ日には、遠く富士山を望むことが出来ます。今回は空気が澄んでいなかったため富士山は望めませんでした。<br /><br /> そして、春は、ヤマツバキ・コブシ・山桜・フジ・ツツジなど多彩な花々で飾られ、夏は新緑に覆われ、秋は山一面の紅葉と、登山者を一年中飽きさせない景観という、豊かな自然があり、ハイキング者を飽きさせない山で、最近では、休日は早く行かないと駐車場がなくなるというほどの人気の山になりました。<br /><br />参考:つくば市作成の宝篋山トレッキングマップによる<br /><br />宝篋山は、山口コース1、山口コース2、新寺コース、極楽寺コース、成願寺コースの6コースがあり、今回は一緒に行った人のお薦めで、一番変化があるという極楽寺コースを登ってみました。<br />

宝篋山の山歩き

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2021/12/10 - 2021/12/10

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自炊おやじさん

宝篋山は山頂に城趾があり、城趾探訪記にするかハイキング記にするか迷いましたが、城趾の遺構が、あまりにも少ないためハイキング記としました。なお、ハイキングの後に、茨城南部の大名の居城であった小田城趾を訪れたので、こちらも少し記載します。

宝篋山はつくば市北東部にある標高 461mの山です。昔は三村山あるいは小田山と呼ばれ、山頂に宝篋印塔 ( 高さ 2.5m)が建立されて以来、宝篋山と呼ばれるようになり、周辺には歴史的石造物が数多く残っていて、麓には極楽寺という大きなお寺がありました。

 頂上は、360 度のパノラマを楽しむことができ、百名山である筑波山、赤城山、男体山をはじめとして、空気の澄んだ日には、遠く富士山を望むことが出来ます。今回は空気が澄んでいなかったため富士山は望めませんでした。

 そして、春は、ヤマツバキ・コブシ・山桜・フジ・ツツジなど多彩な花々で飾られ、夏は新緑に覆われ、秋は山一面の紅葉と、登山者を一年中飽きさせない景観という、豊かな自然があり、ハイキング者を飽きさせない山で、最近では、休日は早く行かないと駐車場がなくなるというほどの人気の山になりました。

参考:つくば市作成の宝篋山トレッキングマップによる

宝篋山は、山口コース1、山口コース2、新寺コース、極楽寺コース、成願寺コースの6コースがあり、今回は一緒に行った人のお薦めで、一番変化があるという極楽寺コースを登ってみました。

  •  9:45<br /><br />小田休憩所を出発です。ここは案内所も兼ねていてトイレもあります。<br />なお、トイレは、ここと山頂直下の2カ所しかありません。

     9:45

    小田休憩所を出発です。ここは案内所も兼ねていてトイレもあります。
    なお、トイレは、ここと山頂直下の2カ所しかありません。

  • しばらくは、田んぼ道を歩きます。前方の田んぼのあたりは、極楽寺があったところのようです。

    しばらくは、田んぼ道を歩きます。前方の田んぼのあたりは、極楽寺があったところのようです。

  • 程なく行く手左側に、安産と乳が出ることを祈願するために地元の人々によって守られてきたの「湯地蔵」と呼ばれる石造りの地蔵菩薩像が見えてきます。<br /><br />このあたり一帯は、かつては。僧寺と尼寺を初めとして多くの伽藍が、立ち並んでいた三室山清冷院極楽寺があり、この地蔵様は、その遺趾の一つであります。<br /><br /><br />案内文<br /><br />石造地蔵荅薩立像(石造龕を含む)<br /><br />このあたり一帯は、三室山清冷院極楽寺の遺趾である。現在の小字名を<br />「尼寺入り)といい。かつては。僧寺と尼寺の多くの伽藍が、立ち並んでい<br />たことだろう。<br />建長四年『一二五二)奈良西大寺の僧忍性が来住し、以来十年間この地に<br />とどまって、律宗の布教と伽藍の整備に努めた。小田の地には、その足跡<br />が様々残り、結界石・宝篋印塔・石灯籠で五輪塔などが現存する。それら<br />は、忍性止住の間につくられたものかどうか確証はないが、西大寺系律宗<br />文化の介在とその影響のもとに、造営されたことは明らかである。<br />忍性は弘長元年(一二六一)鎌倉に去る。木像はその二十八年後の正応二<br />年(一二八九)に造立されたものである。仏龕奥壁の左右に、次の銘文が刻<br />まれている。<br /><br /> (右)右為法界衆生平等利益也 檀那左衛門尉<br /> (左)正應二年丑巳十一月十日造立 勧進佛子阿浄<br /><br /> 左衛門尉は小田氏の四代時知か、あるいは五代宗知に推定される。阿浄<br />は「西大寺有恩過去帳」にその名が見える。<br /> 本像は、約七〇センチ角の方柱状花崗岩を使って、その一石に。本体及<br />び蓮華座、そして錫杖・宝珠・頭光を高浮彫り風に彫出し、背面を残して<br />奥壁とする。この両側に幅約六〇センチ、厚さ約一六センチの側壁を立て、<br />上に屋蓋を乗せて龕を形づくる。惜しくも相輪を欠失するが、ほかは全て<br />当初のままである。<br /> 俗に「湯地蔵」といわれ、安産と乳が出るようにという祈願のために、<br />小田の人々によって守られてきたのである。<br /> 本像は鎌倉時代後期の在銘石造地蔵菩薩像として、また屋蓋付の石龕に<br />おさまる完好の遺物として、美術工芸史的にもきわめて重要な作品である。<br />  平成元年三月<br />                    つくば市教育委員会<br />

    程なく行く手左側に、安産と乳が出ることを祈願するために地元の人々によって守られてきたの「湯地蔵」と呼ばれる石造りの地蔵菩薩像が見えてきます。

    このあたり一帯は、かつては。僧寺と尼寺を初めとして多くの伽藍が、立ち並んでいた三室山清冷院極楽寺があり、この地蔵様は、その遺趾の一つであります。


    案内文

    石造地蔵荅薩立像(石造龕を含む)

    このあたり一帯は、三室山清冷院極楽寺の遺趾である。現在の小字名を
    「尼寺入り)といい。かつては。僧寺と尼寺の多くの伽藍が、立ち並んでい
    たことだろう。
    建長四年『一二五二)奈良西大寺の僧忍性が来住し、以来十年間この地に
    とどまって、律宗の布教と伽藍の整備に努めた。小田の地には、その足跡
    が様々残り、結界石・宝篋印塔・石灯籠で五輪塔などが現存する。それら
    は、忍性止住の間につくられたものかどうか確証はないが、西大寺系律宗
    文化の介在とその影響のもとに、造営されたことは明らかである。
    忍性は弘長元年(一二六一)鎌倉に去る。木像はその二十八年後の正応二
    年(一二八九)に造立されたものである。仏龕奥壁の左右に、次の銘文が刻
    まれている。

     (右)右為法界衆生平等利益也 檀那左衛門尉
     (左)正應二年丑巳十一月十日造立 勧進佛子阿浄

     左衛門尉は小田氏の四代時知か、あるいは五代宗知に推定される。阿浄
    は「西大寺有恩過去帳」にその名が見える。
     本像は、約七〇センチ角の方柱状花崗岩を使って、その一石に。本体及
    び蓮華座、そして錫杖・宝珠・頭光を高浮彫り風に彫出し、背面を残して
    奥壁とする。この両側に幅約六〇センチ、厚さ約一六センチの側壁を立て、
    上に屋蓋を乗せて龕を形づくる。惜しくも相輪を欠失するが、ほかは全て
    当初のままである。
     俗に「湯地蔵」といわれ、安産と乳が出るようにという祈願のために、
    小田の人々によって守られてきたのである。
     本像は鎌倉時代後期の在銘石造地蔵菩薩像として、また屋蓋付の石龕に
    おさまる完好の遺物として、美術工芸史的にもきわめて重要な作品である。
      平成元年三月
                        つくば市教育委員会

  • 10:05<br />極楽寺公園・猪よけのゲートをとおり、この先、極楽寺コースは、二手に分かれます。分かれると言っても、沢の左右に並んで通るだけで、距離的にはどちらも違いがありません。<br /><br />ここから本格的な山道になり、同行者(案内人)がいうには、左の方がより沢に近く滝の側をとおるというので五輪塔コースを進みます。<br />

    10:05
    極楽寺公園・猪よけのゲートをとおり、この先、極楽寺コースは、二手に分かれます。分かれると言っても、沢の左右に並んで通るだけで、距離的にはどちらも違いがありません。

    ここから本格的な山道になり、同行者(案内人)がいうには、左の方がより沢に近く滝の側をとおるというので五輪塔コースを進みます。

  • 10:08<br /><br /> 五輪塔に到着<br /><br />左の案内版には、次のことが書いてありました。<br /><br /> 石造五輪塔(花崗岩総高二七六・五cm)<br />                    つくば市文化財<br /> 三村山清冷院極楽寺奥の院の本塔は、石造基壇の上に辺長一四三センチ、<br />高四四・一五センチの基礎をすえ、その上にこの五輪塔が立つ。<br />基礎は側面を二区に分ち、各々に流麗な格狭間を作る。基礎上面は反花座<br />とし、中心五葉と両端に位一葉ずつの間弁のある単弁蓮華文を各面に彫出する。<br />地輪は幅一〇儿・五センチ、高七〇・五センチ、きわめて整美に彫成されている。<br />水輪は最大径九五センチ、高六九・五センチあり、やや扁平な形状ながら、満々<br />たる張りを示す。火輪は最大幅一〇四センチ、高六〇・五センチあり、軒は中央<br />一部で有るか無きかわずかに反り、端に至って鋭く豪快に反り上る。軒口は鮮やか<br />なまでに垂直に整えられ、屋根流れは少しのよどみもない。風・空輪は一石で<br />最大幅四七センチ、高七五・五センチ、風輪は重厚な曲線を描き、空輪ははちき<br />れんばかりの張りがある。全体として、均整のとれた、力強に作品であり、鎌倉<br />時代後期の全国的にも珍しい本格的な五輪塔である。<br />系石工による作品である。奈良西大寺の叡尊五輪塔、鎌倉極楽寺と大和郡山<br />額安寺の忍性五輪塔がそれであり、忍性ゆかりの三村山極楽寺の本塔もこの流れ<br />に属するものと考えられる。<br /><br />NPO法人小田地域振興協議会<br />つくばスタイル事業<br /><br />筆者注:<br />私のPCでは変なところで改行となっています。みなさんはどうでしょう。<br />これは案内板の行と同じところで改行したからです。

    10:08

     五輪塔に到着

    左の案内版には、次のことが書いてありました。

     石造五輪塔(花崗岩総高二七六・五cm)
                        つくば市文化財
     三村山清冷院極楽寺奥の院の本塔は、石造基壇の上に辺長一四三センチ、
    高四四・一五センチの基礎をすえ、その上にこの五輪塔が立つ。
    基礎は側面を二区に分ち、各々に流麗な格狭間を作る。基礎上面は反花座
    とし、中心五葉と両端に位一葉ずつの間弁のある単弁蓮華文を各面に彫出する。
    地輪は幅一〇儿・五センチ、高七〇・五センチ、きわめて整美に彫成されている。
    水輪は最大径九五センチ、高六九・五センチあり、やや扁平な形状ながら、満々
    たる張りを示す。火輪は最大幅一〇四センチ、高六〇・五センチあり、軒は中央
    一部で有るか無きかわずかに反り、端に至って鋭く豪快に反り上る。軒口は鮮やか
    なまでに垂直に整えられ、屋根流れは少しのよどみもない。風・空輪は一石で
    最大幅四七センチ、高七五・五センチ、風輪は重厚な曲線を描き、空輪ははちき
    れんばかりの張りがある。全体として、均整のとれた、力強に作品であり、鎌倉
    時代後期の全国的にも珍しい本格的な五輪塔である。
    系石工による作品である。奈良西大寺の叡尊五輪塔、鎌倉極楽寺と大和郡山
    額安寺の忍性五輪塔がそれであり、忍性ゆかりの三村山極楽寺の本塔もこの流れ
    に属するものと考えられる。

    NPO法人小田地域振興協議会
    つくばスタイル事業

    筆者注:
    私のPCでは変なところで改行となっています。みなさんはどうでしょう。
    これは案内板の行と同じところで改行したからです。

  • 登山道の脇には、何気なくうち捨てられた五輪塔があります。小田城趾を案内された河村(常陸小田城 親衛隊の会会員)さんがいうには、この宝篋山山麓一帯は、探せば家来の住居跡・五輪塔等の多くの遺構・遺物が出てくるそうです。それだけ、小田氏の長い支配の歴史と威光があったということでしょう。

    登山道の脇には、何気なくうち捨てられた五輪塔があります。小田城趾を案内された河村(常陸小田城 親衛隊の会会員)さんがいうには、この宝篋山山麓一帯は、探せば家来の住居跡・五輪塔等の多くの遺構・遺物が出てくるそうです。それだけ、小田氏の長い支配の歴史と威光があったということでしょう。

  • 10:17 慈悲の滝<br />この滝は、2m前後の滝です。このコースは、いくつかの滝がありますが、いずれも同じような落差です。<br />

    10:17 慈悲の滝
    この滝は、2m前後の滝です。このコースは、いくつかの滝がありますが、いずれも同じような落差です。

  • 程なくすると、ハートの形をした岩がありました。

    程なくすると、ハートの形をした岩がありました。

  • 下で分かれた五輪塔コースと山頂コースのほか、いくつかの分かれ道がありますが、いずれも離れたりくっついたりして、どの道をとおっても最終的には一緒になります。

    下で分かれた五輪塔コースと山頂コースのほか、いくつかの分かれ道がありますが、いずれも離れたりくっついたりして、どの道をとおっても最終的には一緒になります。

  • 10:46<br />白滝着<br />疲れていないので、そのまま登ります。<br />

    10:46
    白滝着
    疲れていないので、そのまま登ります。

  • 11:00着 11:10発<br /><br />ワニの形のような岩なのでワニ岩と呼んでいるようです。昔は、案内版があったそうです。ここまで、小田休憩所から2kmです。山頂まで約1.1kmです。<br /><br />見晴らしが良いので大休憩します。<br />

    11:00着 11:10発

    ワニの形のような岩なのでワニ岩と呼んでいるようです。昔は、案内版があったそうです。ここまで、小田休憩所から2kmです。山頂まで約1.1kmです。

    見晴らしが良いので大休憩します。

  • 純平歩道は常願寺コース合流まで1kmです。・・・・ということは、1km歩いたら常願寺コースに合流して、そこから、さらに山頂を目指さなければならないということです。<br /><br />それで、すなおに山頂を目指します。<br />

    純平歩道は常願寺コース合流まで1kmです。・・・・ということは、1km歩いたら常願寺コースに合流して、そこから、さらに山頂を目指さなければならないということです。

    それで、すなおに山頂を目指します。

  • この先、しばらくは岩がごつごつした急登で歩きづらいです。そして、どころどころ掘り返した跡があります。地元の人の言うことには、猪が根っこを食べるために掘り返しているのだそうです。

    この先、しばらくは岩がごつごつした急登で歩きづらいです。そして、どころどころ掘り返した跡があります。地元の人の言うことには、猪が根っこを食べるために掘り返しているのだそうです。

  • 11:35 富士岩<br /> 富士山のような形をした岩なので富士岩か。登山道はまっすぐ上りますが、富士岩によっても登山道に戻れます。<br />

    11:35 富士岩
     富士山のような形をした岩なので富士岩か。登山道はまっすぐ上りますが、富士岩によっても登山道に戻れます。

  • 11:48 空堀跡に到着<br /><br />途中、こぶしの路(道)という脇道がありましたが、こぶしが花開く時期ではないので、そちらには寄らず、また、もしかしたら郭があったかも知れない広いところもありましたが、脇目もふらず、ここまで登ります。<br />

    11:48 空堀跡に到着

    途中、こぶしの路(道)という脇道がありましたが、こぶしが花開く時期ではないので、そちらには寄らず、また、もしかしたら郭があったかも知れない広いところもありましたが、脇目もふらず、ここまで登ります。

  • 12:02<br /><br />頂上直下のバイオトイレです。このトイレの右に山口コース2、新寺コース、小田城コースが合流した道があります。ここでトイレ休憩して、いよいよ山頂です<br />

    12:02

    頂上直下のバイオトイレです。このトイレの右に山口コース2、新寺コース、小田城コースが合流した道があります。ここでトイレ休憩して、いよいよ山頂です

  • 12:07<br />鎌倉時代中頃に建立され、茨城県指定文化財の「石造宝篋印塔」がある山頂です。右の像はハンセン病の子供を背負う忍性像です。<br /><br />忍性像の説明文です。<br /><br />     【忍性菩薩像造立記】<br /><br /> 忍性(一二一七―一三〇三)は鎌倉時代の律宗の僧侶である。西<br />大寺叡尊のもとで修行し、その教えに従って、生涯を仏教を盛んに<br />することと、民衆を救済するために捧げた。若年より慈悲の心が<br />深く学問をして自己研鑽に努めるよりも、人力ため、とりわけ弱<br />い者・貧しい者・病む者のために力を尽くすことを志した。<br /> 忍性は建長四年(一二五二)三十六歳の時、奈良を離れて遠く東<br />国に下り、ここ小田の極楽寺に至りついた。 それは律宗の感化のま<br />だ及んでいない東国の人々に、釈迦の教えの功徳を伝えようとする<br />やむにやまれぬ思いに迫られたためであった。当時仏教界において<br />は、僧侶が守り実行しなければならないとされた規則(戒律)は全<br />く忘れ去られていた。 従って釈迦の教えを受け継ぐ僧侶は、本来は<br />民衆の救済を使命とすべきはずなのだが、そのことに関心を抱く僧<br />侶は東国には乏しかった。慈悲心の厚い忍性は単身この東国に乗り<br />こんで、釈迦の教えを再興することと、民衆の救済とを日指した。<br /> 釈如の枚えの根本は、もろもろの悪を為すことなかれ(諸悪作す<br />莫れ)、もろもろの善を実行せよ(衆善奉行せよ)に尽きる。律宗はこ<br />の悪は犯すな、善は行えという戒めを説いて、その実践が人々の救<br />済になることを約束した。<br />残念ながら、忍性が小田の地で果たした実績について、具体的に<br />伝える史料はわずかである。戒律の興隆、古寺の復興などを行った<br />のは確かである。小田に十年居て、それから鎌倉に移った忍性は、そ<br />こで貧しい人々や病者の救護に当たったことが知られている。これ<br />らの輝かしい功績により、嘉暦三年(一三二八)後醍醐天皇より菩薩<br />号を賜った。<br /> 今年二〇一七年は忍性生誕八百年になる。 その人の遺徳を偲び、<br />その社会福祉に徹した生涯を譛仰して、有志の者が集い、ここに忍<br />性菩薩像を造立した。像はハンセン病の子供を背負う姿である。<br />          二〇一七年十一月四日<br />                 宝篋山忍性像建立会<br />                 宝 篋 山  整 備 隊<br />                      文 井坂 敦実<br /><br />

    12:07
    鎌倉時代中頃に建立され、茨城県指定文化財の「石造宝篋印塔」がある山頂です。右の像はハンセン病の子供を背負う忍性像です。

    忍性像の説明文です。

         【忍性菩薩像造立記】

     忍性(一二一七―一三〇三)は鎌倉時代の律宗の僧侶である。西
    大寺叡尊のもとで修行し、その教えに従って、生涯を仏教を盛んに
    することと、民衆を救済するために捧げた。若年より慈悲の心が
    深く学問をして自己研鑽に努めるよりも、人力ため、とりわけ弱
    い者・貧しい者・病む者のために力を尽くすことを志した。
     忍性は建長四年(一二五二)三十六歳の時、奈良を離れて遠く東
    国に下り、ここ小田の極楽寺に至りついた。 それは律宗の感化のま
    だ及んでいない東国の人々に、釈迦の教えの功徳を伝えようとする
    やむにやまれぬ思いに迫られたためであった。当時仏教界において
    は、僧侶が守り実行しなければならないとされた規則(戒律)は全
    く忘れ去られていた。 従って釈迦の教えを受け継ぐ僧侶は、本来は
    民衆の救済を使命とすべきはずなのだが、そのことに関心を抱く僧
    侶は東国には乏しかった。慈悲心の厚い忍性は単身この東国に乗り
    こんで、釈迦の教えを再興することと、民衆の救済とを日指した。
     釈如の枚えの根本は、もろもろの悪を為すことなかれ(諸悪作す
    莫れ)、もろもろの善を実行せよ(衆善奉行せよ)に尽きる。律宗はこ
    の悪は犯すな、善は行えという戒めを説いて、その実践が人々の救
    済になることを約束した。
    残念ながら、忍性が小田の地で果たした実績について、具体的に
    伝える史料はわずかである。戒律の興隆、古寺の復興などを行った
    のは確かである。小田に十年居て、それから鎌倉に移った忍性は、そ
    こで貧しい人々や病者の救護に当たったことが知られている。これ
    らの輝かしい功績により、嘉暦三年(一三二八)後醍醐天皇より菩薩
    号を賜った。
     今年二〇一七年は忍性生誕八百年になる。 その人の遺徳を偲び、
    その社会福祉に徹した生涯を譛仰して、有志の者が集い、ここに忍
    性菩薩像を造立した。像はハンセン病の子供を背負う姿である。
              二〇一七年十一月四日
                     宝篋山忍性像建立会
                     宝 篋 山 整 備 隊
                          文 井坂 敦実

  • 写真は、霞ヶ浦です。<br /><br />山頂からの景色は素晴らしいものがありました。空気が澄んでいれば富士山も見られるそうです。<br /><br />

    写真は、霞ヶ浦です。

    山頂からの景色は素晴らしいものがありました。空気が澄んでいれば富士山も見られるそうです。

  • バイオトイレの下にある宝篋城趾の案内です。<br />ここからは、私の感想ですが、ここが本丸(本郭)とは思えないのです。私の考えでは、山城は、護るには易く攻めにくい山頂か稜線沿いにあると思っています。そうすると、ここはそのどちらでもないのです。<br /><br />山頂に「宝篋印塔」があるので、少し下に築いたのか。しかし、山頂の方から攻められたらどうするのだろう?山頂からここまでの間は、堀も土塁もなく、防御の設備が認められません。<br /><br />そのうち調査がすすめば、宝篋城の全貌が分かることでしょう。<br />

    バイオトイレの下にある宝篋城趾の案内です。
    ここからは、私の感想ですが、ここが本丸(本郭)とは思えないのです。私の考えでは、山城は、護るには易く攻めにくい山頂か稜線沿いにあると思っています。そうすると、ここはそのどちらでもないのです。

    山頂に「宝篋印塔」があるので、少し下に築いたのか。しかし、山頂の方から攻められたらどうするのだろう?山頂からここまでの間は、堀も土塁もなく、防御の設備が認められません。

    そのうち調査がすすめば、宝篋城の全貌が分かることでしょう。

  • 頂上を13:00頃出発して、14:25に駐車場の到着です。そこから車で小田城趾に移動して、常陸小田城 親衛隊の会会員である河村さんの案内で城趾見物です。<br /><br />なんと、ここは、外堀を含め完全な形で城の遺構がわかり、復旧に向けて取り組んでいるとのことでした。小田城の本丸跡は写真のとおり平城としては広大です。こんな大きな平城跡を見たことがありません。<br /><br />小田氏は、古くからこの地に根を張っていて、しかも藤原一族で足利氏とも縁戚関係があるとのことで、ここの城内も園地があり優雅な造りです。歴史にifがありませんが、仮に小田氏が戦上手でしたら、西の京都として栄えた周防の大内(大内 義隆)氏に対して、東の京都の小田氏と言われたことでしょう<br />

    頂上を13:00頃出発して、14:25に駐車場の到着です。そこから車で小田城趾に移動して、常陸小田城 親衛隊の会会員である河村さんの案内で城趾見物です。

    なんと、ここは、外堀を含め完全な形で城の遺構がわかり、復旧に向けて取り組んでいるとのことでした。小田城の本丸跡は写真のとおり平城としては広大です。こんな大きな平城跡を見たことがありません。

    小田氏は、古くからこの地に根を張っていて、しかも藤原一族で足利氏とも縁戚関係があるとのことで、ここの城内も園地があり優雅な造りです。歴史にifがありませんが、仮に小田氏が戦上手でしたら、西の京都として栄えた周防の大内(大内 義隆)氏に対して、東の京都の小田氏と言われたことでしょう

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