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総合建設コンサルタント会社では、土木技術者として 海外を含め(復帰前の沖縄?,リビア,インドネシア,台湾等に滞在) 建築技術者たちと協力しながら、公共・民間を問わず さまざまなプロジェクトの計画,調査,設計,施工監理業務などに携わった。<br />定年退職後には、JICA(国際協力機構)のシニア海外ボランティア(SV)として、カンボジア(教育機関で土木工学指導;2003~2005年)および南部アフリカのマラウイ(ダイヤモンド探査指導および宝石類や非金属鉱物の調査と、それらの同国経済への利用・発展への提言;2006年~2009年)に赴任した。 さらにサウジアラビア,ベトナム,ミャンマーで、土木技術者として 種々の施設の基礎地盤調査や開発業務に携わり、また中部アフリカの赤道直下の国 ウガンダで 南スーダンからの難民支援に携わり、自動車検査員養成事業の現地代表として、今世紀初めにインドネシアから独立した東ティモールにも滞在した。<br />ここでは、これらの開発途上の国々での活動概要と、生活を通して学んだこと それに帰国後の活動状況等を報告する(2021年12月現在)。<br /><br />*内容の詳細は、それぞれの旅行記,クチコミ等(随時更新中)を参照されたい。<br /><br />

開発途上の国々での活動体験(概要)

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2021/12/15 - 2021/12/15

37位(同エリア47件中)

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タケ

タケさん

総合建設コンサルタント会社では、土木技術者として 海外を含め(復帰前の沖縄?,リビア,インドネシア,台湾等に滞在) 建築技術者たちと協力しながら、公共・民間を問わず さまざまなプロジェクトの計画,調査,設計,施工監理業務などに携わった。
定年退職後には、JICA(国際協力機構)のシニア海外ボランティア(SV)として、カンボジア(教育機関で土木工学指導;2003~2005年)および南部アフリカのマラウイ(ダイヤモンド探査指導および宝石類や非金属鉱物の調査と、それらの同国経済への利用・発展への提言;2006年~2009年)に赴任した。 さらにサウジアラビア,ベトナム,ミャンマーで、土木技術者として 種々の施設の基礎地盤調査や開発業務に携わり、また中部アフリカの赤道直下の国 ウガンダで 南スーダンからの難民支援に携わり、自動車検査員養成事業の現地代表として、今世紀初めにインドネシアから独立した東ティモールにも滞在した。
ここでは、これらの開発途上の国々での活動概要と、生活を通して学んだこと それに帰国後の活動状況等を報告する(2021年12月現在)。

*内容の詳細は、それぞれの旅行記,クチコミ等(随時更新中)を参照されたい。

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  • [滞在国位置図]

    [滞在国位置図]

  • [復帰前の沖縄にて]<br /><br />1970年代に 現地踏査・土質調査を目的として、特別のビザを獲り 米㌦を持って 数回に亘り復帰直前の沖縄を訪れた。 滞在中 ときの琉球政府他の担当者や琉球大学の先生たちと協議して 各種資料を入手した(とくに沖縄本島南部に広く分布する島尻層群の土質工学的性質に関しては、当時 不明の点も数多く残されていて、地下水を含め 「沖縄の地盤」と題する報告を 土木学会誌 に投稿)。 分厚いT-ボーン・ステーキを格安で食べられることが いつも楽しみだった。 車の通行変更(右側→左側通行)の実施状況を 眺めていたことを覚えている。 <br />復帰後も 依然として本土と沖縄との間に横たわる断層はぬぐうべくもなく、沖縄のことをより深く学び 正しく理解したうえで、その開発に参加することの必要性 が痛感されたものである。<br />*復帰後の沖縄にも一度行ってみたいところ……!!

    [復帰前の沖縄にて]

    1970年代に 現地踏査・土質調査を目的として、特別のビザを獲り 米㌦を持って 数回に亘り復帰直前の沖縄を訪れた。 滞在中 ときの琉球政府他の担当者や琉球大学の先生たちと協議して 各種資料を入手した(とくに沖縄本島南部に広く分布する島尻層群の土質工学的性質に関しては、当時 不明の点も数多く残されていて、地下水を含め 「沖縄の地盤」と題する報告を 土木学会誌 に投稿)。 分厚いT-ボーン・ステーキを格安で食べられることが いつも楽しみだった。 車の通行変更(右側→左側通行)の実施状況を 眺めていたことを覚えている。
    復帰後も 依然として本土と沖縄との間に横たわる断層はぬぐうべくもなく、沖縄のことをより深く学び 正しく理解したうえで、その開発に参加することの必要性 が痛感されたものである。
    *復帰後の沖縄にも一度行ってみたいところ……!!

  • [最初に海外赴任したリビアにて]<br /><br />1980年に 最初に海外赴任した北アフリカのリビア(砂漠の入口部でセメント工場建設)は、情報が身近にほとんど無くて、当時参議員議員だった山口淑子さん(往年のスター 李香蘭-リコウラン- で、ご主人が外交官)がアラブ問題に造詣が深く 著書もある(「誰も書かなかったアラブ」等) ということで、知り合いを通じて参議院会館を訪ねて 幾つかの資料(フランス語版のカダフィ伝記 他)を借用したり、在リビア日本国大使宛の紹介状(現実には使うことは無かったが)を書いてもらったりした。 国土の9割が雨のほとんど降らない砂漠地帯で、カダフィ大佐(定礎式に来現)率いる厳格なイスラム圏。 私服の秘密警察等 いつも誰かに監視されている という感じがあり、反米一色の国のため 街中では 数字を含めてアラビア語しか通じない。 また 入国審査は異常なほど厳重をきわめ、1ケ月にもおよぶ断食(ラマダン)も体験した。 宿舎から10kmほど離れた現場へは 車を運転して通っていた。日本の常識とは全くかけ離れた 特殊な社会の中でのきゅうくつな生活の連続だったが、以降の海外滞在の貴重な原点となった。 <br />切手交換が縁で、政府間契約で近くの病院に勤務し 同じホテルに宿泊しているポーランド人の医者や薬剤師たちとも知り合いになり、現場には猛毒の黒サソリやヘビ,毒グモが居るので、痛み止めの錠剤を 彼らの勤める病院を訪ねて入手したり、のどを痛めた同僚を連れて行って診て貰ったりした(全て無料) 。そのうち、難解なアラビア語を覚えることはあきらめて、彼らにポーランド語を教わることにした(あいさつや簡単な文章,果ては発音練習用の早口言葉に至るまで、暇を見つけては ロビーや彼らの部屋で 東アフリカ産とかの美味しいお茶を飲みながら…)。 ロビーで ポーランド民謡 「森へ行きましょう娘さん♪… …」を 持っていたハーモニカで奏でたところ、大勢で歌い出したこともあった(ホテルのマネージャーには、イスラム圏では不可 とのことで、止められたが)。 休日には 彼らの車(ミニバス)に乗せてもらって、近くの地中海に泳ぎに行ったりもした(ビーチは遠浅で、水は暖かく泳ぎやすい。ちなみに イスラム圏社会のリビアでは 水泳という慣習が無い)。

    [最初に海外赴任したリビアにて]

    1980年に 最初に海外赴任した北アフリカのリビア(砂漠の入口部でセメント工場建設)は、情報が身近にほとんど無くて、当時参議員議員だった山口淑子さん(往年のスター 李香蘭-リコウラン- で、ご主人が外交官)がアラブ問題に造詣が深く 著書もある(「誰も書かなかったアラブ」等) ということで、知り合いを通じて参議院会館を訪ねて 幾つかの資料(フランス語版のカダフィ伝記 他)を借用したり、在リビア日本国大使宛の紹介状(現実には使うことは無かったが)を書いてもらったりした。 国土の9割が雨のほとんど降らない砂漠地帯で、カダフィ大佐(定礎式に来現)率いる厳格なイスラム圏。 私服の秘密警察等 いつも誰かに監視されている という感じがあり、反米一色の国のため 街中では 数字を含めてアラビア語しか通じない。 また 入国審査は異常なほど厳重をきわめ、1ケ月にもおよぶ断食(ラマダン)も体験した。 宿舎から10kmほど離れた現場へは 車を運転して通っていた。日本の常識とは全くかけ離れた 特殊な社会の中でのきゅうくつな生活の連続だったが、以降の海外滞在の貴重な原点となった。
    切手交換が縁で、政府間契約で近くの病院に勤務し 同じホテルに宿泊しているポーランド人の医者や薬剤師たちとも知り合いになり、現場には猛毒の黒サソリやヘビ,毒グモが居るので、痛み止めの錠剤を 彼らの勤める病院を訪ねて入手したり、のどを痛めた同僚を連れて行って診て貰ったりした(全て無料) 。そのうち、難解なアラビア語を覚えることはあきらめて、彼らにポーランド語を教わることにした(あいさつや簡単な文章,果ては発音練習用の早口言葉に至るまで、暇を見つけては ロビーや彼らの部屋で 東アフリカ産とかの美味しいお茶を飲みながら…)。 ロビーで ポーランド民謡 「森へ行きましょう娘さん♪… …」を 持っていたハーモニカで奏でたところ、大勢で歌い出したこともあった(ホテルのマネージャーには、イスラム圏では不可 とのことで、止められたが)。 休日には 彼らの車(ミニバス)に乗せてもらって、近くの地中海に泳ぎに行ったりもした(ビーチは遠浅で、水は暖かく泳ぎやすい。ちなみに イスラム圏社会のリビアでは 水泳という慣習が無い)。

  • [リビアからの帰途 立ち寄ったポーランドのポズナニにて]<br /><br />おかげで 帰途 彼らの家族を訪ねて、当時社会主義国だったポーランドへ寄らざるを得なくなり(ワルシャワ,ポズナニ,ビアウイストク;街中では英語が通じなかったが、リビアで学んだポーランド語が随分役立った…)、以降 40年以上に亘り、お互いに 子供たちを含めて家族ぐるみで、行ったり来たりの付き合いが続いている。 <br />現在、家族会員として 「日本ポーランド協会」 の運営を長年に亘りお手伝い中(ポーランド人の留学生たちと交流するのが楽しみ-温泉や宝塚歌劇にのめりこむ人も居り-/彼らは流暢な日本語をしゃべる←ポーランドは往時から親日的で、古くから日本語教室が普及していた)。

    [リビアからの帰途 立ち寄ったポーランドのポズナニにて]

    おかげで 帰途 彼らの家族を訪ねて、当時社会主義国だったポーランドへ寄らざるを得なくなり(ワルシャワ,ポズナニ,ビアウイストク;街中では英語が通じなかったが、リビアで学んだポーランド語が随分役立った…)、以降 40年以上に亘り、お互いに 子供たちを含めて家族ぐるみで、行ったり来たりの付き合いが続いている。
    現在、家族会員として 「日本ポーランド協会」 の運営を長年に亘りお手伝い中(ポーランド人の留学生たちと交流するのが楽しみ-温泉や宝塚歌劇にのめりこむ人も居り-/彼らは流暢な日本語をしゃべる←ポーランドは往時から親日的で、古くから日本語教室が普及していた)。

  • [ポーランドの若い家族が来日]<br /><br />オーストラリアに滞在中のポーランド人の若い家族4人が 2009年に来日。 太秦(ウズマサ)映画村,金閣寺,嵐山,天竜寺他を 数日間案内した。昼食は和食店で!! <br />(右上の写真は、成長した娘さんたち)<br />* 長女の名前はMaja(マヤ)で、ポーランドでもTV放映されていた「みつばちマーヤの冒険」から採ったとのこと。<br />

    [ポーランドの若い家族が来日]

    オーストラリアに滞在中のポーランド人の若い家族4人が 2009年に来日。 太秦(ウズマサ)映画村,金閣寺,嵐山,天竜寺他を 数日間案内した。昼食は和食店で!!
    (右上の写真は、成長した娘さんたち)
    * 長女の名前はMaja(マヤ)で、ポーランドでもTV放映されていた「みつばちマーヤの冒険」から採ったとのこと。

  • [インドネシア・アチェに滞在]<br /><br />1982年1月から一年間あまり、日本および韓国向けのLNG(液化天然ガス)プラント施設地盤改良工事他の施工監理業務で、インドネシア・スマトラ島北端のアチェに滞在した(オランダからの独立に際して日本政府が助力を惜しまなかったため、対日感情は良好。 当地には、先の第二次世界大戦終戦後も 帰国出来なかった元日本軍人も少なからず滞在しており、また &quot;見よ東海の空明けて……(^^♪-愛国行進曲-&quot; を歌いだす年配の現地人もいた)。 <br />当地は 特に厳しいイスラム圏で治安が悪いため、現場に隣接した広大なパイオニア・キャンプ(世界の各地から集まった建設担当者やその家族等が 当方を含め1,000人ほど居住)内には、学校や映画館,プール,テニスコート,スーパー それに散髪屋等も含めて 種々の娯楽施設やutilityがあって、キャンプ内で自活出来るようになっていた。 キャンプ生活者を募って、日曜日にはよく近くにあるジャングル内で催された10kmほどのクロスカントリー(Hash)に参加して、村民と覚えたてのアチェ語(インドネシア語の方言)で会話を交わしたりして楽しんだ。 初めての参加者は 氷水の洗礼を受ける。 一年間も住んでいると、必要上 アチェ語をかなり話せるようになり、ジャカルタから来たインドネシア人に アチェ語の通訳をしてあげたこともあった。 帰途時に家族を呼び寄せた際には、キャンプ内で親しくしていたカナダ人の計らいで、キッチン付きの宿舎を用意してくれたおかげで、数日間 楽しく過ごすことが出来た。 <br />さらに マレーシアのペナン島で、大学院時代に同じ研究室に居た インドネシアからの留学生(漢字混じりの日本語で修士論文を執筆/北海道での研修に同行)アリさん(当時 マレーシアのイポーにあるスズ鉱業会社に勤務中 ; 奥さんは カナダのトロント大学に留学していたインドネシア人)と久し振りに再会し、双方の家族も含めて談笑。

    [インドネシア・アチェに滞在]

    1982年1月から一年間あまり、日本および韓国向けのLNG(液化天然ガス)プラント施設地盤改良工事他の施工監理業務で、インドネシア・スマトラ島北端のアチェに滞在した(オランダからの独立に際して日本政府が助力を惜しまなかったため、対日感情は良好。 当地には、先の第二次世界大戦終戦後も 帰国出来なかった元日本軍人も少なからず滞在しており、また "見よ東海の空明けて……(^^♪-愛国行進曲-" を歌いだす年配の現地人もいた)。
    当地は 特に厳しいイスラム圏で治安が悪いため、現場に隣接した広大なパイオニア・キャンプ(世界の各地から集まった建設担当者やその家族等が 当方を含め1,000人ほど居住)内には、学校や映画館,プール,テニスコート,スーパー それに散髪屋等も含めて 種々の娯楽施設やutilityがあって、キャンプ内で自活出来るようになっていた。 キャンプ生活者を募って、日曜日にはよく近くにあるジャングル内で催された10kmほどのクロスカントリー(Hash)に参加して、村民と覚えたてのアチェ語(インドネシア語の方言)で会話を交わしたりして楽しんだ。 初めての参加者は 氷水の洗礼を受ける。 一年間も住んでいると、必要上 アチェ語をかなり話せるようになり、ジャカルタから来たインドネシア人に アチェ語の通訳をしてあげたこともあった。 帰途時に家族を呼び寄せた際には、キャンプ内で親しくしていたカナダ人の計らいで、キッチン付きの宿舎を用意してくれたおかげで、数日間 楽しく過ごすことが出来た。
    さらに マレーシアのペナン島で、大学院時代に同じ研究室に居た インドネシアからの留学生(漢字混じりの日本語で修士論文を執筆/北海道での研修に同行)アリさん(当時 マレーシアのイポーにあるスズ鉱業会社に勤務中 ; 奥さんは カナダのトロント大学に留学していたインドネシア人)と久し振りに再会し、双方の家族も含めて談笑。

  • [台湾にて]<br /><br />また 1986年7月から10月にかけて数回にわたり、台湾の最南端にある墾丁(ケンディン)国家公園での開発業務に携わった。 <br />その後 家内と二人で台湾を訪れた際には、業務時に知り合った知人(1995年の関西淡路地震時には 心配して我が家に電話をしてくれたり-年配の彼は日本語を話せた-、逆に台湾南部が地震で被害を受けた際に マスクを送付したところ、大層感謝された)が、家族共々歓待してくれた。 <br />なお家内は軽度のひざ痛で「障碍者手帳」を持っていて、台湾では 鉄道や美術館等ほとんどの公共施設が付き添い者を含めて大幅な割引料金に(時には無料に)なるので、重宝した。 <br />台湾には、銘茶,カニ肉入り小籠包,日本では高価なカラスミ,マンゴーが載ったかき氷,夜市での臭豆腐 等々 美味しい飲食物がいっぱいあり、行く度に堪能している。 <br />現地で協働していた台湾人の娘さんが大の宝塚歌劇ファン(特に天海祐希の大サポーター;台湾でも宝塚歌劇は人気があり、彼女たちは日本語が話せた)で、観劇のため友人と二度来日(宝塚と東京)。 私事ながら、当時 長女が宝塚歌劇団の月組に在籍しており(後年発足した宙組の一期生)、ちょうど東京公演は天海祐希のトップ舞台があり、観劇してもらうとともに、事務所で彼女のために天海祐希のポスターを入手することが出来た。 その後 彼女は結婚し、子供の件で時々台北から東京を訪れ、東京に住んでいる我が娘と会食をしたりして 交流を続けている。<br />

    [台湾にて]

    また 1986年7月から10月にかけて数回にわたり、台湾の最南端にある墾丁(ケンディン)国家公園での開発業務に携わった。
    その後 家内と二人で台湾を訪れた際には、業務時に知り合った知人(1995年の関西淡路地震時には 心配して我が家に電話をしてくれたり-年配の彼は日本語を話せた-、逆に台湾南部が地震で被害を受けた際に マスクを送付したところ、大層感謝された)が、家族共々歓待してくれた。
    なお家内は軽度のひざ痛で「障碍者手帳」を持っていて、台湾では 鉄道や美術館等ほとんどの公共施設が付き添い者を含めて大幅な割引料金に(時には無料に)なるので、重宝した。
    台湾には、銘茶,カニ肉入り小籠包,日本では高価なカラスミ,マンゴーが載ったかき氷,夜市での臭豆腐 等々 美味しい飲食物がいっぱいあり、行く度に堪能している。
    現地で協働していた台湾人の娘さんが大の宝塚歌劇ファン(特に天海祐希の大サポーター;台湾でも宝塚歌劇は人気があり、彼女たちは日本語が話せた)で、観劇のため友人と二度来日(宝塚と東京)。 私事ながら、当時 長女が宝塚歌劇団の月組に在籍しており(後年発足した宙組の一期生)、ちょうど東京公演は天海祐希のトップ舞台があり、観劇してもらうとともに、事務所で彼女のために天海祐希のポスターを入手することが出来た。 その後 彼女は結婚し、子供の件で時々台北から東京を訪れ、東京に住んでいる我が娘と会食をしたりして 交流を続けている。

  • [東ベルリンヘ]<br /><br />1989年8月には 家族旅行でベルリンを訪れた(ポーランド西部のポズナニから 列車で国境を越えて移動)。 西ベルリンで東ベルリンへの一日旅行券を入手して、東側から 閉じられたブランデンブルク門や それに連なる壁を眺めたり、ウンター・デン・リンデン(「菩提樹-ボダイジュ-の下」の意)の大通り周辺を散策したりして、東ベルリンの雰囲気を味わった。 賑やかな西ベルリンとは対照的に、東ベルリンの街並みは静かで薄暗く、ビール等も格安だった。 3ケ月後の11月9日には、ベルリンの壁が28年振りに崩壊した。

    [東ベルリンヘ]

    1989年8月には 家族旅行でベルリンを訪れた(ポーランド西部のポズナニから 列車で国境を越えて移動)。 西ベルリンで東ベルリンへの一日旅行券を入手して、東側から 閉じられたブランデンブルク門や それに連なる壁を眺めたり、ウンター・デン・リンデン(「菩提樹-ボダイジュ-の下」の意)の大通り周辺を散策したりして、東ベルリンの雰囲気を味わった。 賑やかな西ベルリンとは対照的に、東ベルリンの街並みは静かで薄暗く、ビール等も格安だった。 3ケ月後の11月9日には、ベルリンの壁が28年振りに崩壊した。

  • [家族旅行で バルト海沿いの諸国ヘ]<br /><br />2000年12月から翌年1月にかけて3週間ほど、家族旅行で 真冬のバルト海沿いのドイツ,ポーランド,フィンランド,ロシア,エストニアを周回した。 <br />大晦日の夕刻に着いたベルリンでは、着陸前に ライトアップされたブランデンブルク門の上を旋回するサービス飛行があった。 ポーランド西部にあるポズナニでは、新年が明けたばかりだったが、旧知の現地人に いつものように美味しいポーランド料理(赤カブスープ-バルシチ Barszcz- 等)をご馳走になり、数日間泊めてもらい、旧交を温めることが出来た。 ロシアのサンクトペテルブルクでは、バレーの殿堂マリインスキー劇場で「ジゼル」を特別席で鑑賞したり、ロマノフ朝時代の王宮跡のエルミタージュ美術館で ダ・ヴィンチやラファエロ他の諸作品をゆっくりと観て廻ったりした(*買い物や路を訪ねたりする時に、大学で単位を採ったロシア語が役立った)。

    [家族旅行で バルト海沿いの諸国ヘ]

    2000年12月から翌年1月にかけて3週間ほど、家族旅行で 真冬のバルト海沿いのドイツ,ポーランド,フィンランド,ロシア,エストニアを周回した。
    大晦日の夕刻に着いたベルリンでは、着陸前に ライトアップされたブランデンブルク門の上を旋回するサービス飛行があった。 ポーランド西部にあるポズナニでは、新年が明けたばかりだったが、旧知の現地人に いつものように美味しいポーランド料理(赤カブスープ-バルシチ Barszcz- 等)をご馳走になり、数日間泊めてもらい、旧交を温めることが出来た。 ロシアのサンクトペテルブルクでは、バレーの殿堂マリインスキー劇場で「ジゼル」を特別席で鑑賞したり、ロマノフ朝時代の王宮跡のエルミタージュ美術館で ダ・ヴィンチやラファエロ他の諸作品をゆっくりと観て廻ったりした(*買い物や路を訪ねたりする時に、大学で単位を採ったロシア語が役立った)。

  • [エストニアのタリンにて]<br /><br />また 中世の面影を濃く残しているエストニアのタリン(旧市街はUNESCO の世界遺産に登録)では、先生に連れられた小学生たちに2回すれ違う(お誕生日会の帰りだろうか、手に手に黄色い風船を持ち、鼻のてっぺんを黒く塗ったり、ヒゲを描いたりしている)。 小さなソリに子供を乗せて引っ張って歩く家族の姿もよく見かけた。

    [エストニアのタリンにて]

    また 中世の面影を濃く残しているエストニアのタリン(旧市街はUNESCO の世界遺産に登録)では、先生に連れられた小学生たちに2回すれ違う(お誕生日会の帰りだろうか、手に手に黄色い風船を持ち、鼻のてっぺんを黒く塗ったり、ヒゲを描いたりしている)。 小さなソリに子供を乗せて引っ張って歩く家族の姿もよく見かけた。

  • [JICAのSVでカンボジアヘ]<br /><br />定年退職後には、それまで培ってきた技術や知識,経験を積極的に開発途上国に移転することで、かの国の発展(人づくり,国づくり)に寄与でき、かつ自分の専門が現地で活かせる悦びを実感することができる との思いで、JICA (国際協力機構)のシニア海外ボランティア(SV)に応募して、カンボジア(教育機関で土木工学指導;2003~2005年)および南部アフリカのマラウイ(ダイヤモンド探査指導および宝石類や非金属鉱物の調査と それらの同国経済への利用・発展への提言;2006年~2009年)に赴任した。 なお カンボジアとマラウイでのSV活動の状況を、土木学会誌および大学の学術機関誌に投稿した。<br />カンボジア滞在時には、2年間 首都プノンペンで バス・トイレ付きの6部屋を持つ3 階建ての一軒家(敷地面積≒500m2)を借り、二人のメイドや銃を持ったガードマンを雇って、家族とともに生活した。 メイドには「Japanese cooking」等の料理本を手渡して、茶わん蒸しや天ぷら,バラ寿司,味噌汁 他の日本食をよく作ってもらった。毎食後のココナッツ・ミルクをたっぷり使った 手作りのカンボジア・スイーツも絶品だった。 家計簿を毎日つけてもらって チェックすることにした。 家事を手伝おうとすると、これは自分たちの仕事だからと メイドには丁重に断わられる始末。 カンボジアでは 手に入る日用品の種類が限られているので、家族とともに タイのバンコクやベトナムのホーチミンへは 買い出しによく出掛けた。<br />

    [JICAのSVでカンボジアヘ]

    定年退職後には、それまで培ってきた技術や知識,経験を積極的に開発途上国に移転することで、かの国の発展(人づくり,国づくり)に寄与でき、かつ自分の専門が現地で活かせる悦びを実感することができる との思いで、JICA (国際協力機構)のシニア海外ボランティア(SV)に応募して、カンボジア(教育機関で土木工学指導;2003~2005年)および南部アフリカのマラウイ(ダイヤモンド探査指導および宝石類や非金属鉱物の調査と それらの同国経済への利用・発展への提言;2006年~2009年)に赴任した。 なお カンボジアとマラウイでのSV活動の状況を、土木学会誌および大学の学術機関誌に投稿した。
    カンボジア滞在時には、2年間 首都プノンペンで バス・トイレ付きの6部屋を持つ3 階建ての一軒家(敷地面積≒500m2)を借り、二人のメイドや銃を持ったガードマンを雇って、家族とともに生活した。 メイドには「Japanese cooking」等の料理本を手渡して、茶わん蒸しや天ぷら,バラ寿司,味噌汁 他の日本食をよく作ってもらった。毎食後のココナッツ・ミルクをたっぷり使った 手作りのカンボジア・スイーツも絶品だった。 家計簿を毎日つけてもらって チェックすることにした。 家事を手伝おうとすると、これは自分たちの仕事だからと メイドには丁重に断わられる始末。 カンボジアでは 手に入る日用品の種類が限られているので、家族とともに タイのバンコクやベトナムのホーチミンへは 買い出しによく出掛けた。

  • [カンボジアにて]<br /><br />大学と高専,職業訓練校を合わせたような王立の工学系教育施設で、カンボジア人にとって心の拠り所と言われる アンコール遺跡群を取り上げて、「アンコール遺跡と土木工学」というテーマで ビデオCDを教材にしたところ、非常に好評だった。 <br />旧宗主国がフランスだったので、フランス料理をはじめ各国(ロシア,ネパール,メキシコ等も含めて)の料理も 手頃な値段で味わえた(カンボジアの通貨は米㌦;日本食レストランも数軒あり、中でも 香川県高松市出身の料理人が営む店の 「讃岐うどん」 の味は忘れられない)。 日本国大使館で時折開催される 日本映画の会や音楽会等のイベント に参加することでも、随分癒やされた。 <br />毎年 シエムリアップで開催されているアンコールワット国際ハーフマラソン(五輪メダリストの有森裕子さん支援)にも、SV仲間と誘い合って参加し、幾つかのアンコール遺跡群の中を走って(終盤に 観光客を乗せた象に追い越されたりしたが)、良い気分転換となった。

    [カンボジアにて]

    大学と高専,職業訓練校を合わせたような王立の工学系教育施設で、カンボジア人にとって心の拠り所と言われる アンコール遺跡群を取り上げて、「アンコール遺跡と土木工学」というテーマで ビデオCDを教材にしたところ、非常に好評だった。
    旧宗主国がフランスだったので、フランス料理をはじめ各国(ロシア,ネパール,メキシコ等も含めて)の料理も 手頃な値段で味わえた(カンボジアの通貨は米㌦;日本食レストランも数軒あり、中でも 香川県高松市出身の料理人が営む店の 「讃岐うどん」 の味は忘れられない)。 日本国大使館で時折開催される 日本映画の会や音楽会等のイベント に参加することでも、随分癒やされた。
    毎年 シエムリアップで開催されているアンコールワット国際ハーフマラソン(五輪メダリストの有森裕子さん支援)にも、SV仲間と誘い合って参加し、幾つかのアンコール遺跡群の中を走って(終盤に 観光客を乗せた象に追い越されたりしたが)、良い気分転換となった。

  • [北朝鮮レストランにて]<br /><br />家の近くにあった北朝鮮レストラン 「平壌(ピョンヤン)」 にはよく出掛けた(来客がある度に案内)。 ウエイトレスたちによる喜びエストニアのタリン組の踊りや楽器演奏等 それに日本語でのカラオケやダンスもできる。 ユッケ-生肉-が安くて美味しかった。 彼女たちは基本的に敷地内で生活していて、外出は認められていない とのことで、もちろん国の体勢や生活状況等に関する話しをすることは、当時も今ももってのほか。

    [北朝鮮レストランにて]

    家の近くにあった北朝鮮レストラン 「平壌(ピョンヤン)」 にはよく出掛けた(来客がある度に案内)。 ウエイトレスたちによる喜びエストニアのタリン組の踊りや楽器演奏等 それに日本語でのカラオケやダンスもできる。 ユッケ-生肉-が安くて美味しかった。 彼女たちは基本的に敷地内で生活していて、外出は認められていない とのことで、もちろん国の体勢や生活状況等に関する話しをすることは、当時も今ももってのほか。

  • [ネパールにて]<br /><br />また、カウンターパートを伴って、ネパールで開催されたJICA主催の自然災害削減セミナーに参加して、カンボジア恒例の“洪水被害の実態および対応策等”について報告するとともに、地元の地質学者たちの率いる 野外セミナー にも参画して、万年雪を戴く八千m級のヒマラヤ山系のひとつ アンナプルナ山(通称 アンナ)を眺めながら、ポーターや馬を帯同して 2週間ほど 氷河流の堆積層や褶曲構造他の地質現場を 生で見て廻り(アンモナイトの化石等を採取)、ネパールが地質学上の宝庫であり、インド大陸移動による造山運動によって 未だに隆起しつつある ということを実感した。 <br />ネパールはヒンドウ-教が国教で、マニ車を回しながらお参りするチベット仏教徒や、街中でも五体投地する信徒たち をよく見かける。<br />

    [ネパールにて]

    また、カウンターパートを伴って、ネパールで開催されたJICA主催の自然災害削減セミナーに参加して、カンボジア恒例の“洪水被害の実態および対応策等”について報告するとともに、地元の地質学者たちの率いる 野外セミナー にも参画して、万年雪を戴く八千m級のヒマラヤ山系のひとつ アンナプルナ山(通称 アンナ)を眺めながら、ポーターや馬を帯同して 2週間ほど 氷河流の堆積層や褶曲構造他の地質現場を 生で見て廻り(アンモナイトの化石等を採取)、ネパールが地質学上の宝庫であり、インド大陸移動による造山運動によって 未だに隆起しつつある ということを実感した。
    ネパールはヒンドウ-教が国教で、マニ車を回しながらお参りするチベット仏教徒や、街中でも五体投地する信徒たち をよく見かける。

  • [任国外旅行で ニュージーランドとオーストラリアヘ]<br /><br />任国外旅行で、家族と ニュージーランド南島のフランツ・ジョセフ氷河 や、西オーストラリア・パース近郊の奇岩帯 ピナクル(砂丘で車がスタックして 動けなくなったりした), ストロマトライト(25~30億年ほど前に 大量の酸素を造り出した と言われる藍藻類)の化石の残る湖沼 等を訪ねた。

    [任国外旅行で ニュージーランドとオーストラリアヘ]

    任国外旅行で、家族と ニュージーランド南島のフランツ・ジョセフ氷河 や、西オーストラリア・パース近郊の奇岩帯 ピナクル(砂丘で車がスタックして 動けなくなったりした), ストロマトライト(25~30億年ほど前に 大量の酸素を造り出した と言われる藍藻類)の化石の残る湖沼 等を訪ねた。

  • [JICAのSVでマラウイヘ]<br /><br />一方 マラウイでは、鉱物調査のため 現地鉱山局の担当者たちと共に ほぼ全国を踏査して廻ったリ、ダイアモンド探査に際しては、事前に ダイアモンド王国ボツワナの地質調査所を訪れて、磁気探査等による探査方法・解析要領等の実施資料を入手し、山中で 現地の地質調査所の職員たちと何度かテント生活をして、決して満足とは言えない食事(白いトウモロコシを団子状に蒸した「シマ」が彼らの主食)等 彼らの日常生活の一端を体験した。 <br />

    [JICAのSVでマラウイヘ]

    一方 マラウイでは、鉱物調査のため 現地鉱山局の担当者たちと共に ほぼ全国を踏査して廻ったリ、ダイアモンド探査に際しては、事前に ダイアモンド王国ボツワナの地質調査所を訪れて、磁気探査等による探査方法・解析要領等の実施資料を入手し、山中で 現地の地質調査所の職員たちと何度かテント生活をして、決して満足とは言えない食事(白いトウモロコシを団子状に蒸した「シマ」が彼らの主食)等 彼らの日常生活の一端を体験した。

  • [マラウイにて-1]<br /><br />はるかに水平線を臨む壮大なマラウイ湖(かのリヴィングストンが「星の湖」と称えた)や、毎年 9~11月に鮮やかな紫色の花を付けるジャカランダの姿 は忘れられない。 また サン・テグジュベリの「星の王子さま」で知られるバオバブの樹(その実は 油やジュースの原料となる)は 至る所で見られる。

    [マラウイにて-1]

    はるかに水平線を臨む壮大なマラウイ湖(かのリヴィングストンが「星の湖」と称えた)や、毎年 9~11月に鮮やかな紫色の花を付けるジャカランダの姿 は忘れられない。 また サン・テグジュベリの「星の王子さま」で知られるバオバブの樹(その実は 油やジュースの原料となる)は 至る所で見られる。

  • [マラウイの宿舎にて]<br /><br />宿泊していたホテルの部屋は、だだっ広い芝生の中庭(よく結婚披露宴が催された)に面した平屋建てで、ちょうど夕食後 停電時の、足の踏み場も無いほどに乱舞する 無数の蛍の群れには感動した。 夜空には サザンクロス(南十字星)が輝いていた。 部屋の前にはよく 近くの草原に住むヒヒの母子が遊びに来ていた。 <br />また サバンナの真っ只中で、走る車の中から見えた周囲 360°地平線より上の天空にひしめき合う 星々の輝きも忘れられない(天然のプラネタリウム?)。

    [マラウイの宿舎にて]

    宿泊していたホテルの部屋は、だだっ広い芝生の中庭(よく結婚披露宴が催された)に面した平屋建てで、ちょうど夕食後 停電時の、足の踏み場も無いほどに乱舞する 無数の蛍の群れには感動した。 夜空には サザンクロス(南十字星)が輝いていた。 部屋の前にはよく 近くの草原に住むヒヒの母子が遊びに来ていた。
    また サバンナの真っ只中で、走る車の中から見えた周囲 360°地平線より上の天空にひしめき合う 星々の輝きも忘れられない(天然のプラネタリウム?)。

  • [マラウイにて-2]<br /><br />マラウイに来訪した歌手 MISIA(今回の東京五輪開会式で 君が代 熱唱)からは、JICAを通じて「Child AFRICA」と記されたT-シャツを受け取った。 <br />ここでは、収集した各種宝石類の原石を含むマラウイ鉱物の 「標本箱」および「鉱物図鑑」 を作成・提出した。

    [マラウイにて-2]

    マラウイに来訪した歌手 MISIA(今回の東京五輪開会式で 君が代 熱唱)からは、JICAを通じて「Child AFRICA」と記されたT-シャツを受け取った。
    ここでは、収集した各種宝石類の原石を含むマラウイ鉱物の 「標本箱」および「鉱物図鑑」 を作成・提出した。

  • [マラウイでの任国外旅行]<br /><br />任国外旅行では、大河ザンベジ川の中流域にある世界遺産 ヴィクトリアの滝(ザンビア;高さ≒108m,幅≒2km)を空中から眺めたり- Microlight-、ダイアモンド王国ボツワナで チーターの兄弟やミーアキャットと戯れたり、南アフリカでは アフリカ大陸最南端のアガラス岬を訪れたり ペンギン &amp; ホエール・ウォッチングを楽しんだりして、リフレッシュメント(気分転換)を図った。<br /><br />

    イチオシ

    [マラウイでの任国外旅行]

    任国外旅行では、大河ザンベジ川の中流域にある世界遺産 ヴィクトリアの滝(ザンビア;高さ≒108m,幅≒2km)を空中から眺めたり- Microlight-、ダイアモンド王国ボツワナで チーターの兄弟やミーアキャットと戯れたり、南アフリカでは アフリカ大陸最南端のアガラス岬を訪れたり ペンギン & ホエール・ウォッチングを楽しんだりして、リフレッシュメント(気分転換)を図った。

  • [SVのOV会]<br /><br />JICAのSVから帰国後、「JICA近畿シニアボランティアOV会」の世話役として活動した(JICAの国際親善への参加,海外体験発表会の開催,出前講座講師の派遣 ,JICAのSV志願者に参考情報を提供,機関紙の作成, 会員同士の親睦,…の業務に従事)。

    [SVのOV会]

    JICAのSVから帰国後、「JICA近畿シニアボランティアOV会」の世話役として活動した(JICAの国際親善への参加,海外体験発表会の開催,出前講座講師の派遣 ,JICAのSV志願者に参考情報を提供,機関紙の作成, 会員同士の親睦,…の業務に従事)。

  • [中国旅行]<br /><br />2010年には、一人旅で 中国内のシルクロード-絲綢之路-の一部(西安,嘉峪関,敦煌-ドウンフウアン-,トルファン,それに 上海,蘇州,北京 他)を二週間あまり訪れた。 <br />往時に思いを馳せる印象深い旅で、改革開放後の目覚ましい中国の発展振りや、日本の常識とは異なる 中国人の人となりや考え方をかい間見る よい機会でもあった。

    [中国旅行]

    2010年には、一人旅で 中国内のシルクロード-絲綢之路-の一部(西安,嘉峪関,敦煌-ドウンフウアン-,トルファン,それに 上海,蘇州,北京 他)を二週間あまり訪れた。
    往時に思いを馳せる印象深い旅で、改革開放後の目覚ましい中国の発展振りや、日本の常識とは異なる 中国人の人となりや考え方をかい間見る よい機会でもあった。

  • [サウジアラビア,ベトナムに滞在]<br /><br />さらに、在籍していた建設コンサルタント会社からの委託で、サウジアラビア,ベトナム,ミャンマーで、土木技術者として 種々の施設の基礎地盤調査や開発業務に携わった。

    [サウジアラビア,ベトナムに滞在]

    さらに、在籍していた建設コンサルタント会社からの委託で、サウジアラビア,ベトナム,ミャンマーで、土木技術者として 種々の施設の基礎地盤調査や開発業務に携わった。

  • [ウガンダ,東ティモールに滞在]<br /><br />またNPOとの委託契約によって、中部アフリカの赤道直下の国 ウガンダで 南スーダンからの難民支援に携わり(2017年;彼らはごく質素な生活を営みながらも 明るく陽気なふるまいで過ごしているように 感じられた)、また 自動車検査員養成事業の現地代表として、今世紀初めにインドネシアから独立した東ティモール(2018年)にも滞在した。

    [ウガンダ,東ティモールに滞在]

    またNPOとの委託契約によって、中部アフリカの赤道直下の国 ウガンダで 南スーダンからの難民支援に携わり(2017年;彼らはごく質素な生活を営みながらも 明るく陽気なふるまいで過ごしているように 感じられた)、また 自動車検査員養成事業の現地代表として、今世紀初めにインドネシアから独立した東ティモール(2018年)にも滞在した。

  • [ミャンマーに滞在]<br /><br />2013年から14年にかけて6 ケ月あまり滞在したミャンマー(旧 ビルマ)では、日麺両政府による経済特区開発プロジェクトに携わった。 ときの大統領や副大統領 それに日本の経産省他の政府関係者の視察が相次ぎ、またNHK TVの取材等もあって、当該プロジェクトへの期待の大きさがうかがわれた。

    [ミャンマーに滞在]

    2013年から14年にかけて6 ケ月あまり滞在したミャンマー(旧 ビルマ)では、日麺両政府による経済特区開発プロジェクトに携わった。 ときの大統領や副大統領 それに日本の経産省他の政府関係者の視察が相次ぎ、またNHK TVの取材等もあって、当該プロジェクトへの期待の大きさがうかがわれた。

  • [スーチーさん事務所にて]<br /><br />ヤンゴンにあるアウンサンスーチーさん率いるNLD(国民民主連盟)事務所では、T-シャツ,ティーカップ等 種々のスーチー関連グッズが販売されている(1月4日の独立記念日に訪れた際には、党員による演説が行われ ご飯がふるまわれていた)。

    [スーチーさん事務所にて]

    ヤンゴンにあるアウンサンスーチーさん率いるNLD(国民民主連盟)事務所では、T-シャツ,ティーカップ等 種々のスーチー関連グッズが販売されている(1月4日の独立記念日に訪れた際には、党員による演説が行われ ご飯がふるまわれていた)。

  • [ミャンマーにて]<br /><br />多民族国家で、少数派イスラム教徒ロヒンギャへの圧迫や、軍政色が強い憲法 等の問題があるが、同国は敬虔な仏教国で 人々の心根は優しい。 物価は総体的にかなり安い。 <br />ヤンゴンにある 「OISHII SUSHI(おいしい寿司)」という店名の寿司店は、いつもミャンマー人の家族やカップルで賑わっている。 店長は10 数年 日本で修行してきたミャンマー人で、にぎる職人も 注文を取る女性たちも全てミャンマー人。 壁には 黒木瞳のカレンダーが架かっていた。 にぎりや天ぷら,みそ汁をはじめとする数十種類のメニューがあって、日本の半額ぐらいで食べられる。<br />

    [ミャンマーにて]

    多民族国家で、少数派イスラム教徒ロヒンギャへの圧迫や、軍政色が強い憲法 等の問題があるが、同国は敬虔な仏教国で 人々の心根は優しい。 物価は総体的にかなり安い。
    ヤンゴンにある 「OISHII SUSHI(おいしい寿司)」という店名の寿司店は、いつもミャンマー人の家族やカップルで賑わっている。 店長は10 数年 日本で修行してきたミャンマー人で、にぎる職人も 注文を取る女性たちも全てミャンマー人。 壁には 黒木瞳のカレンダーが架かっていた。 にぎりや天ぷら,みそ汁をはじめとする数十種類のメニューがあって、日本の半額ぐらいで食べられる。

  • [マラソン大会に参加]<br /><br />2014年1月には、「ヤンゴン・インターナショナル・マラソン大会」に参加した。 事務所の同僚(ミャンマー人の家族や女性事務員たちも含めて)10数名も参加して、フルマラソンとハーフマラソンと合わせると全部で2000人を越える(?)盛況さだった。 レース後、会場でミャンマーの伝統的なダンスやパフォーマンスがあり、近くの中華レストランで ミャンマー人の同僚(当プロジェクトの出資者の一人で、奥さんがマラソンに参加)に昼食(?)をご馳走になって、昼前にホテルに帰ってきた。 ちょっと汗をかいたぐらいで、良い気分転換になった。

    [マラソン大会に参加]

    2014年1月には、「ヤンゴン・インターナショナル・マラソン大会」に参加した。 事務所の同僚(ミャンマー人の家族や女性事務員たちも含めて)10数名も参加して、フルマラソンとハーフマラソンと合わせると全部で2000人を越える(?)盛況さだった。 レース後、会場でミャンマーの伝統的なダンスやパフォーマンスがあり、近くの中華レストランで ミャンマー人の同僚(当プロジェクトの出資者の一人で、奥さんがマラソンに参加)に昼食(?)をご馳走になって、昼前にホテルに帰ってきた。 ちょっと汗をかいたぐらいで、良い気分転換になった。

  • [街中にて]

    [街中にて]

  • [ミャンマー人カップルが来日]<br /><br />ミャンマーに滞在していた時の仕事仲間で、ヤンゴン・マラソンにも一緒に参加した 若いミャンマー人カップルが、2015年4月に 水かけ祭りの休暇を利用して来日した。 京都では お茶会を経験してもらったり、祇園甲部歌舞練場での「都をどり」を観劇(「曽根崎心中」の場面が理解出来なかったよう)してもらったりした。 彼らが通常 寺院で長時間お祈りする時は 横座りする(男女で逆方向)が、長い間正座していたのは驚きだった。 また、太秦(ウズマサ)映画村や 京都の台所 錦市場 それに スーチーさんが留学していた京都大学等 も案内した。 和食を含めた日本の食事も楽しんでもらえたよう(回転寿司店では 生魚はダメだったが、いか,たこ,貝はO.K.。 サケは何とか食べられるようになった)。 <br />当方が学童保育のアルバイトをしている小学校で、約50人の保育生と交流してもらった際は あいにくの雨天だったが、前もって教えておいた「ミンガラーバ (=こんにちは)」で迎えられ、歌やけん玉,折り紙,あやとり他で歓待された。 逆に 保育生たちには、二人が ミャンマーの子供たちの生活の様子や ミャンマー語のあいさつの仕方を教えたり、ロンヂー(伝統の男女腰巻き)の着方やタナカ(日焼け止めの頬塗り)の実演を見せたり、同時に 保育生たちにタナカを付けてあげたり と、予定時間を大幅に上回る 楽しいコミュニケーションの場を持つことができた。 <br />旧首都ヤンゴンに住むこのカップルは 帰国後に結婚し、昨年男子が生まれた とのことで、出来れば 今年 両親と一緒に日本を訪れたい というメールが入っている。 楽しみにしているが、先の見えないコロナ禍と 今回のクーデター事件(2021年2月1日 ミャンマーで国軍が突然クーデターを起こし、スーチー国家顧問-75才-らが拘束されて、国民民主連盟-NLD-の政権が覆された。 以降 各地で大規模な人民デモや不服従運動が続いており-国軍の発砲により多数の死者も発生-、インターネットや報道機関等の情報規制もなされている とのこと)で どうなるか ?  気になるところである。

    [ミャンマー人カップルが来日]

    ミャンマーに滞在していた時の仕事仲間で、ヤンゴン・マラソンにも一緒に参加した 若いミャンマー人カップルが、2015年4月に 水かけ祭りの休暇を利用して来日した。 京都では お茶会を経験してもらったり、祇園甲部歌舞練場での「都をどり」を観劇(「曽根崎心中」の場面が理解出来なかったよう)してもらったりした。 彼らが通常 寺院で長時間お祈りする時は 横座りする(男女で逆方向)が、長い間正座していたのは驚きだった。 また、太秦(ウズマサ)映画村や 京都の台所 錦市場 それに スーチーさんが留学していた京都大学等 も案内した。 和食を含めた日本の食事も楽しんでもらえたよう(回転寿司店では 生魚はダメだったが、いか,たこ,貝はO.K.。 サケは何とか食べられるようになった)。
    当方が学童保育のアルバイトをしている小学校で、約50人の保育生と交流してもらった際は あいにくの雨天だったが、前もって教えておいた「ミンガラーバ (=こんにちは)」で迎えられ、歌やけん玉,折り紙,あやとり他で歓待された。 逆に 保育生たちには、二人が ミャンマーの子供たちの生活の様子や ミャンマー語のあいさつの仕方を教えたり、ロンヂー(伝統の男女腰巻き)の着方やタナカ(日焼け止めの頬塗り)の実演を見せたり、同時に 保育生たちにタナカを付けてあげたり と、予定時間を大幅に上回る 楽しいコミュニケーションの場を持つことができた。
    旧首都ヤンゴンに住むこのカップルは 帰国後に結婚し、昨年男子が生まれた とのことで、出来れば 今年 両親と一緒に日本を訪れたい というメールが入っている。 楽しみにしているが、先の見えないコロナ禍と 今回のクーデター事件(2021年2月1日 ミャンマーで国軍が突然クーデターを起こし、スーチー国家顧問-75才-らが拘束されて、国民民主連盟-NLD-の政権が覆された。 以降 各地で大規模な人民デモや不服従運動が続いており-国軍の発砲により多数の死者も発生-、インターネットや報道機関等の情報規制もなされている とのこと)で どうなるか ? 気になるところである。

  • [滞在して学んだこと]<br /><br />これらの開発途上国での業務に際しては、文化や風習等の違いで つまずきかけた時も当然あったが、現地の人たちの考えを尊重しながらも 主張すべきことは譲らず、あきらめずに辛抱強く話し合い、思い切ってやってみれば それ相当の成果が得られる ということが分かった。 一日にひとつのことが出来ればO.K.と割り切って、「アワテズ,アセラズ,アナドラズ そして アキラメズ」という教訓を学んだ。<br />      <br />*  ともあれ これらの国々で生活するためには、治安と医療-自分の身は自分で守る(予防)-が課題で、物事を処理する際には、好奇心と集中力を持って ポジティブ(前向き)に考える ということも学んだ。 <br />また 我が日本は、彩り豊かな四季(春夏秋冬)に恵まれている という有難さを 改めて認識した(「折ふしの移りかはるこそ 物ごとにあはれなれ」 兼好法師)。<br /><br />開発途上国に滞在していると、毎日のようになんらかの発見が有り(それがまた楽しみでもあるが)、時にはリフレッシュメント(気分転換)が不可欠となる。 現地人の結婚式に招かれたり、マラソン大会やテニスの試合に参加したり、地元の大学等でのイベントに出席したりした。 休日には、趣味のパソコン・ミュージックに興じて 時の経つのを忘れるほどのこともあった。 また、日本人はおろか白人にも滅多に出逢わない中で 黒人たちに囲まれて過ごしていた際には、日本語に飢えることもあったが、日本語の挨拶や応対方法(ただいま-おかえりなさい 等々)を教えるなどして、地元住民の気さくで人なつっこいふるまい、それに 何よりも 子供たちの純真な目と屈託の無い笑顔には 随分癒やされた。

    [滞在して学んだこと]

    これらの開発途上国での業務に際しては、文化や風習等の違いで つまずきかけた時も当然あったが、現地の人たちの考えを尊重しながらも 主張すべきことは譲らず、あきらめずに辛抱強く話し合い、思い切ってやってみれば それ相当の成果が得られる ということが分かった。 一日にひとつのことが出来ればO.K.と割り切って、「アワテズ,アセラズ,アナドラズ そして アキラメズ」という教訓を学んだ。

    * ともあれ これらの国々で生活するためには、治安と医療-自分の身は自分で守る(予防)-が課題で、物事を処理する際には、好奇心と集中力を持って ポジティブ(前向き)に考える ということも学んだ。
    また 我が日本は、彩り豊かな四季(春夏秋冬)に恵まれている という有難さを 改めて認識した(「折ふしの移りかはるこそ 物ごとにあはれなれ」 兼好法師)。

    開発途上国に滞在していると、毎日のようになんらかの発見が有り(それがまた楽しみでもあるが)、時にはリフレッシュメント(気分転換)が不可欠となる。 現地人の結婚式に招かれたり、マラソン大会やテニスの試合に参加したり、地元の大学等でのイベントに出席したりした。 休日には、趣味のパソコン・ミュージックに興じて 時の経つのを忘れるほどのこともあった。 また、日本人はおろか白人にも滅多に出逢わない中で 黒人たちに囲まれて過ごしていた際には、日本語に飢えることもあったが、日本語の挨拶や応対方法(ただいま-おかえりなさい 等々)を教えるなどして、地元住民の気さくで人なつっこいふるまい、それに 何よりも 子供たちの純真な目と屈託の無い笑顔には 随分癒やされた。

  • [日本文化の紹介]<br /><br />業務の合間を見つけて、現地の大学等で、持参していた写真や舞妓の踊りの動画,ポスターなどを使って、日本文化の紹介に努めた(天皇の男系世襲制度の話しをした時に、それはおかしい という意見のあったのが印象的)。 <br />いずれの業務でも、現地人との日頃の挨拶や簡単な会話(買物や乗り物の値段交渉等)はそれぞれの現地語で対応するようにして 彼らに親しみを感じてもらうよう努めた。 実際の業務での主体は英語で、コミュニケーションや日常業務に特に支障が出るようなことは無く、幸いにも 危ない目や疾病に罹ったことも皆無で、業務は滞りなく遂行できた。

    [日本文化の紹介]

    業務の合間を見つけて、現地の大学等で、持参していた写真や舞妓の踊りの動画,ポスターなどを使って、日本文化の紹介に努めた(天皇の男系世襲制度の話しをした時に、それはおかしい という意見のあったのが印象的)。
    いずれの業務でも、現地人との日頃の挨拶や簡単な会話(買物や乗り物の値段交渉等)はそれぞれの現地語で対応するようにして 彼らに親しみを感じてもらうよう努めた。 実際の業務での主体は英語で、コミュニケーションや日常業務に特に支障が出るようなことは無く、幸いにも 危ない目や疾病に罹ったことも皆無で、業務は滞りなく遂行できた。

  • [京都の四季]<br />

    [京都の四季]

  • [お話し会 「世界で暮らす」]<br /><br />在日中は、居住市内の小学校で 学童保育指導員のアルバイトを続けており、滞在した国々で入手した現地語版の日本の漫画本(ドラエモンやワンピースなど)を それぞれの教室の図書室に寄贈したり、同時に 「世界で暮らす」 と題して、訪れた海外各地で撮った写真や動画映像,音楽 それに誕生石・星座石一覧、現地で入手した各種宝石類の原石やアンモナイト等の化石を見せたりしながら紹介する お話し会 を継続的に実施中(我が国とはひと味もふた味も異なる 海外の様子や外国語に興味を持ってもらうため)。 「同じ地球なのに、いろんな暮らし方や文化があることを知ってびっくりした」とか、「色々な宝石の原石を触れてよかった」、…の感想があり、大いに楽しんでもらい また重宝されている。 <br />いきいきセカンドライフを実践する「長岡京市民大学」にも参画し、滞在した開発途上国の様子や学んだ教訓などを紹介して、好評を博している。 <br /><br />*所用で プノンペン(カンボジア)には毎年のように訪れている。<br /><br /><br />

    [お話し会 「世界で暮らす」]

    在日中は、居住市内の小学校で 学童保育指導員のアルバイトを続けており、滞在した国々で入手した現地語版の日本の漫画本(ドラエモンやワンピースなど)を それぞれの教室の図書室に寄贈したり、同時に 「世界で暮らす」 と題して、訪れた海外各地で撮った写真や動画映像,音楽 それに誕生石・星座石一覧、現地で入手した各種宝石類の原石やアンモナイト等の化石を見せたりしながら紹介する お話し会 を継続的に実施中(我が国とはひと味もふた味も異なる 海外の様子や外国語に興味を持ってもらうため)。 「同じ地球なのに、いろんな暮らし方や文化があることを知ってびっくりした」とか、「色々な宝石の原石を触れてよかった」、…の感想があり、大いに楽しんでもらい また重宝されている。
    いきいきセカンドライフを実践する「長岡京市民大学」にも参画し、滞在した開発途上国の様子や学んだ教訓などを紹介して、好評を博している。

    *所用で プノンペン(カンボジア)には毎年のように訪れている。


  • [余談]<br /><br />開発途上国に関しては 以前から大きな関心と興味を持っている。 現地に入り込んでの草の根的な模索活動を通じて、そこの実情に見合った 被支援者の自助努力を促すような要件を見出し、確実に効果のある支援を実施する という行動が 必要かつ大きな課題 だと考える。これまで培ってきた知識やインフラ整備等の実体験を踏まえて、今後とも さらなる支援,協力活動を続けたい と思っている。<br />* 座右の銘;可能な限り 自分の足で歩いて、眼で見て、耳で聴いて、鼻で嗅いで、手で触って (時には口で舐めて)、体験として確かめる。<br /><br />「ひと言」:<br />1942年6月に 大阪市大正区で誕生(現在79才)。 日頃口ずさんでいたのは 「若鷲の歌」(通称 予科練の歌;若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨 …♪ -作詞 西条八十,作曲 古関裕而?)らしい。 家の前に幼稚園があったが、入園はしなかった(昼食時によく一人で遊びに行っていて、その度に 先生に我が家に連れられて来た とのこと)。 小学校では 放課後によく担任の女教師の家を訪れて、紙芝居を作ったりしていた。 近くに 尻無川を渡る無料の渡し舟があり(現在も運行中)、自転車とともに乗って 向かい側へよく遊びに行ったものである。 1950年(昭和25年)9月に 死者・行方不明者計500名あまりという暴風雨のジェーン台風で 街中が1m以上に浸水した際には、友達と筏を組んで、浮かんでいる樹木を集めて家に持って帰り、貴重な薪にしたことを覚えている。 小学5年時に、当時の堺市の南側にあった泉北郡高石町(現在の高石市)の府立住宅に引っ越した。 転入した村立の取石小学校は 中学校と運動場が共有で、校長が夫婦同士、春秋の農繁期になると 数日間休校となり、また各村にはダンジリがあって 秋のお祭り時には賑やかに引き廻す,運動会時には 村中の人たちが集まって弁当を囲む というのどかな環境だった。 当時はハーモニカに興じており、学校では器楽部に所属。 当時 ランドセルはあまり普及していなかったようで、父が戦時中に使っていた 国防色(黄土色?)の肩掛けカバンで通学していた。 進学した高石中学校は 海のすぐそばにある大きな博物館跡で、教室の真中に 複数の太い柱がデーンとあった。 クラブは野球部に所属し、海際の運動場のすぐ横に 米進駐軍の家族が住むきれいに整備されただだっ広い芝生群があった。 ファウルボールがよく垣根を越えて中に飛びこみ、覚えたての英語で 子供たちに投げ返してもらったりした。 朝夕に砂浜を走りまわって 練習に励んだ。 2年生になると 軟式庭球(現 ソフトテニス)部に入り、砂混じりのコートで毎日 日が暮れるまで練習していた。 海は自宅から歩いて行ける距離にあったので、夏休みには毎日のように泳ぎに行って 貝を取ったりしていた。 海に川が流れ出している所では、放課後にアサリを掘り出して、食べ終った弁当箱に詰めて 持って帰ったものである。 堺市内の府立高校に入学後も 軟式庭球部に所属して、年中 練習・試合に明け暮れた。 練習後、重い鉄製のローラーを引っ張って コートを敷き均すのが日課だった。 体育の時間には、大阪府内随一の堺刑務所の高い塀の周りを、畑で作業する収容者たちの姿を横目に見ながら走っていた。 2年生時には、学校の行事の「海での10kmの遠泳」を泳ぎきり、「和歌山までの6時間半以内での60kmのウォーキング大会」で 二番で走ったこともあった(終盤の 孝子-キョウシ-峠での5kmほどは ほとんど歩いたが)。 3年生の一学期には 授業を休んで 大阪府の大会に参加(担任の先生にはその旨ことわっていたが、何故か数学の女教師に「何を考えているのか?」と叱られる)。 <br />大学では 入学式の数日前に軟式テニスコートを訪れて、何の迷いも無く 則入部手続きをした。 教養部では、年中 練習や各地での試合に明け暮れたおかげで 複数の数学の単位を落とし、学部ヘ行ってから 後輩たちとともに再授業を受ける ということもあった。 2年生からは、ESS(英会話クラブ)に入って 信州に合宿に行ったりした。 安保闘争に端を発する全共闘大学紛争で 大学が封鎖され 試験が中止されたりした際にも テニスを継続。 高石小学校で行なわれた成人式では、東京五輪を控えた 大松監督率いる「東洋の魔女」女子バレーボール の苛酷な練習風景(回転レシーブ 等)を撮った映像が披露され、蔭山,岡本,森下の南海ホークス三選手のスピーチがあった(蔭山選手の豪邸が我が家の近くにあり、監督就任直後に急病で死去)。 <br />在学中 初めて人工衛星で地球を一周したソ連(現 ロシア)のガガーリンが来学(ハラショ ハラショ ガガーリン …の歌で歓迎),ソ連ブームもあって ロシア語に興味を持ち 単位を取得した(授業の初めには ロシア民謡「バイカル湖のほとりで」をロシア語で歌うのが通例だった。後年 ロシアのサンクトペテルブルグを家族旅行で訪れた際に、町なかで 路を尋ねたり 買物をしたりするのに役立った)。 学部では「探査工学研究室」を選考。 学科内での「比叡山登山競争」では三位で完走。 大学院の修士課程時の夏休みには、日本海沿いの列車と青函連絡船を乗り継いで、北海道/士別での一カ月間の 電気探査による銅鉱床探査に参加した(インドネシアからの留学生を含め4~5人で)。 終了後、宿泊先の農家(4km四方に隣家無し,NHK TVを観るのと たまに用意してもらえるジンギスカン焼きを食べるのが 唯一の楽しみだった)で入手したビニール布を持って、旭川~摩周湖~網走~根室~苫小牧~札幌等を10日間ほど 屋外で泊まり歩いた(道中 乗り合わせたバス内で、発表されて間もない森繁久彌 作詞,作曲,歌の「知床旅情」を 外国人が歌っているのを初めて耳にした<br />)。 <br />就職した建設コンサルタント会社には あいにく軟式庭球部は無かったので(硬式はあった)、野球部に所属し ピッチャーを志望した。 二年目には 大阪府の設計会社部門の大会で優勝(優勝戦とのダブルヘッダーであった準決勝戦で ノーヒット・ノーランを達成)したが、グアム島への新婚旅行日と重なって、近畿大会は残念ながら欠席。 <br />海外では、時間があると リフレッシュメント(気分転換)を兼ねてよくテニスを楽しんだ(海外では硬式がほとんどで、ボールやラケットが軟式とは異なる; ラケットの持ち方やボールの打ち方も異なるが、軟式をしていると容易に対応できる → 逆は難しい ?)。 幸いにも、開発途上の国々に滞在中も、病気にかかったり 落ちこんだりすることはほとんどなく、安全かつ安心に過ごせたのは、飽きもせず テニスを長年続けたことによって、身体的に肩,腕,腰,足などが強く鍛えられると同時に、精神的に 心も大きく鍛えられたから と自負している次第である。<br />

    [余談]

    開発途上国に関しては 以前から大きな関心と興味を持っている。 現地に入り込んでの草の根的な模索活動を通じて、そこの実情に見合った 被支援者の自助努力を促すような要件を見出し、確実に効果のある支援を実施する という行動が 必要かつ大きな課題 だと考える。これまで培ってきた知識やインフラ整備等の実体験を踏まえて、今後とも さらなる支援,協力活動を続けたい と思っている。
    * 座右の銘;可能な限り 自分の足で歩いて、眼で見て、耳で聴いて、鼻で嗅いで、手で触って (時には口で舐めて)、体験として確かめる。

    「ひと言」:
    1942年6月に 大阪市大正区で誕生(現在79才)。 日頃口ずさんでいたのは 「若鷲の歌」(通称 予科練の歌;若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨 …♪ -作詞 西条八十,作曲 古関裕而?)らしい。 家の前に幼稚園があったが、入園はしなかった(昼食時によく一人で遊びに行っていて、その度に 先生に我が家に連れられて来た とのこと)。 小学校では 放課後によく担任の女教師の家を訪れて、紙芝居を作ったりしていた。 近くに 尻無川を渡る無料の渡し舟があり(現在も運行中)、自転車とともに乗って 向かい側へよく遊びに行ったものである。 1950年(昭和25年)9月に 死者・行方不明者計500名あまりという暴風雨のジェーン台風で 街中が1m以上に浸水した際には、友達と筏を組んで、浮かんでいる樹木を集めて家に持って帰り、貴重な薪にしたことを覚えている。 小学5年時に、当時の堺市の南側にあった泉北郡高石町(現在の高石市)の府立住宅に引っ越した。 転入した村立の取石小学校は 中学校と運動場が共有で、校長が夫婦同士、春秋の農繁期になると 数日間休校となり、また各村にはダンジリがあって 秋のお祭り時には賑やかに引き廻す,運動会時には 村中の人たちが集まって弁当を囲む というのどかな環境だった。 当時はハーモニカに興じており、学校では器楽部に所属。 当時 ランドセルはあまり普及していなかったようで、父が戦時中に使っていた 国防色(黄土色?)の肩掛けカバンで通学していた。 進学した高石中学校は 海のすぐそばにある大きな博物館跡で、教室の真中に 複数の太い柱がデーンとあった。 クラブは野球部に所属し、海際の運動場のすぐ横に 米進駐軍の家族が住むきれいに整備されただだっ広い芝生群があった。 ファウルボールがよく垣根を越えて中に飛びこみ、覚えたての英語で 子供たちに投げ返してもらったりした。 朝夕に砂浜を走りまわって 練習に励んだ。 2年生になると 軟式庭球(現 ソフトテニス)部に入り、砂混じりのコートで毎日 日が暮れるまで練習していた。 海は自宅から歩いて行ける距離にあったので、夏休みには毎日のように泳ぎに行って 貝を取ったりしていた。 海に川が流れ出している所では、放課後にアサリを掘り出して、食べ終った弁当箱に詰めて 持って帰ったものである。 堺市内の府立高校に入学後も 軟式庭球部に所属して、年中 練習・試合に明け暮れた。 練習後、重い鉄製のローラーを引っ張って コートを敷き均すのが日課だった。 体育の時間には、大阪府内随一の堺刑務所の高い塀の周りを、畑で作業する収容者たちの姿を横目に見ながら走っていた。 2年生時には、学校の行事の「海での10kmの遠泳」を泳ぎきり、「和歌山までの6時間半以内での60kmのウォーキング大会」で 二番で走ったこともあった(終盤の 孝子-キョウシ-峠での5kmほどは ほとんど歩いたが)。 3年生の一学期には 授業を休んで 大阪府の大会に参加(担任の先生にはその旨ことわっていたが、何故か数学の女教師に「何を考えているのか?」と叱られる)。
    大学では 入学式の数日前に軟式テニスコートを訪れて、何の迷いも無く 則入部手続きをした。 教養部では、年中 練習や各地での試合に明け暮れたおかげで 複数の数学の単位を落とし、学部ヘ行ってから 後輩たちとともに再授業を受ける ということもあった。 2年生からは、ESS(英会話クラブ)に入って 信州に合宿に行ったりした。 安保闘争に端を発する全共闘大学紛争で 大学が封鎖され 試験が中止されたりした際にも テニスを継続。 高石小学校で行なわれた成人式では、東京五輪を控えた 大松監督率いる「東洋の魔女」女子バレーボール の苛酷な練習風景(回転レシーブ 等)を撮った映像が披露され、蔭山,岡本,森下の南海ホークス三選手のスピーチがあった(蔭山選手の豪邸が我が家の近くにあり、監督就任直後に急病で死去)。
    在学中 初めて人工衛星で地球を一周したソ連(現 ロシア)のガガーリンが来学(ハラショ ハラショ ガガーリン …の歌で歓迎),ソ連ブームもあって ロシア語に興味を持ち 単位を取得した(授業の初めには ロシア民謡「バイカル湖のほとりで」をロシア語で歌うのが通例だった。後年 ロシアのサンクトペテルブルグを家族旅行で訪れた際に、町なかで 路を尋ねたり 買物をしたりするのに役立った)。 学部では「探査工学研究室」を選考。 学科内での「比叡山登山競争」では三位で完走。 大学院の修士課程時の夏休みには、日本海沿いの列車と青函連絡船を乗り継いで、北海道/士別での一カ月間の 電気探査による銅鉱床探査に参加した(インドネシアからの留学生を含め4~5人で)。 終了後、宿泊先の農家(4km四方に隣家無し,NHK TVを観るのと たまに用意してもらえるジンギスカン焼きを食べるのが 唯一の楽しみだった)で入手したビニール布を持って、旭川~摩周湖~網走~根室~苫小牧~札幌等を10日間ほど 屋外で泊まり歩いた(道中 乗り合わせたバス内で、発表されて間もない森繁久彌 作詞,作曲,歌の「知床旅情」を 外国人が歌っているのを初めて耳にした
    )。
    就職した建設コンサルタント会社には あいにく軟式庭球部は無かったので(硬式はあった)、野球部に所属し ピッチャーを志望した。 二年目には 大阪府の設計会社部門の大会で優勝(優勝戦とのダブルヘッダーであった準決勝戦で ノーヒット・ノーランを達成)したが、グアム島への新婚旅行日と重なって、近畿大会は残念ながら欠席。
    海外では、時間があると リフレッシュメント(気分転換)を兼ねてよくテニスを楽しんだ(海外では硬式がほとんどで、ボールやラケットが軟式とは異なる; ラケットの持ち方やボールの打ち方も異なるが、軟式をしていると容易に対応できる → 逆は難しい ?)。 幸いにも、開発途上の国々に滞在中も、病気にかかったり 落ちこんだりすることはほとんどなく、安全かつ安心に過ごせたのは、飽きもせず テニスを長年続けたことによって、身体的に肩,腕,腰,足などが強く鍛えられると同時に、精神的に 心も大きく鍛えられたから と自負している次第である。

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