2021/03/31 - 2021/03/31
38位(同エリア379件中)
ガッサンさん
この旅行記スケジュールを元に
NHK大河ドラマ「青天を衝け」の放送が始まって、一ヶ月半、行ってみようと思いつつ実現出来なかった。漸く日程が取れ、3月31日(水)にマイカーで深谷市血洗島の渋沢栄一生地へ向った。
「渋沢家・中の家(なかんち)」の観光客用駐車場に車を止め、中の家(なかんち)へ向うと正門前に人垣が出来ていた。地元ボランティアガイドさんにその理由を尋ねると、NHK番組「ブラタモリ」の撮影をしている為、今は中に入れないとのことだった。
ブラタモリがロケした模様は、5月1日(土)ブラタモリ「埼玉・深谷~?近代日本経済の父?はなぜ深谷で生まれた?~」で放送されます。
旅行記では、血洗島の神社の撮影ロケ地、モデルとなった大変由緒ある「鎌形八幡神社」も紹介します。神社での祭りのシーンや尾高千代が考え込むシーン、栄一が千代にプロポーズしたシーンなどに使われました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
この屋敷は、渋沢家の住宅等として使われてきたもので、通称「中の家(なかんち)」と呼ばれている。
正門前に人垣が出来ていた。門に立つボランティアガイドさんに尋ねるとNHK番組「ブラタモリ」の撮影中の為、中に入れないとのことだった。「肖像権があるので、タモリさん、女子アナの写真は撮らないで欲しい」と呼び掛けていた。渋沢栄一生地 (中の家) 名所・史跡
-
ブラタモリでお馴染みの黒子さんが正門に向って歩いて来ます。
渋沢栄一生地 (中の家) 名所・史跡
-
主屋前には何名かのNHK取材クルーがまだいます。
正門のボランティアガイドさんに話しかけました。「星野リゾート青森屋に渋沢栄一親子の銅像、田園調布にあった渋沢栄一の邸宅が何故青森にありますか」と聞きました。すると「古牧温泉のことを聞いていますか」と聞かれた。「そうです」と応えました。
渋沢栄一生地 (中の家) 名所・史跡
-
主屋前にNHKブラタモリ取材クルーはいます。
ボランティアガイドさんは応えた。「渋沢栄一の秘書だった杉本行雄氏が、アメリカのGHQからの摂取を免れる為、三沢の地に移し守った」と応えた。そんな経緯があったとは知らなかった。渋沢栄一生地 (中の家) 名所・史跡
-
正門前で待つ時間は長く感じた。主屋前にNHKブラタモリ取材クルーはいます。
「東京へ移築するようです」とボランティアガイドさんが応えた。「ニュースで知りました。清水建設が移築するみたいですね」と返答した。渋沢栄一生地 (中の家) 名所・史跡
-
NHKブラタモリ取材クルーの人々は取材が終わり正門に向ってきます。結構取材人数がいました。
渋沢栄一生地 (中の家) 名所・史跡
-
イチオシ
漸く、ブラタモリのロケが終わり、旧渋沢邸「中の家(なかんち)」に入ることができました。
正面の建物は「主屋」です。この主屋は、明治28年(1895)、市郎により上棟されたものです。市郎と言うのは、栄一の妹てい(貞)の夫です。ていは栄一に代わり、夫の市郎とともに中の家をよく守った、そうです。渋沢栄一生地 (中の家) 名所・史跡
-
主屋前の庭です。市民大学で「渋沢栄一記念館」の館長の講義を受けてから、五年の歳月が過ぎていました。これも「青天を衝け」からの贈り物だと思います。
渋沢栄一生地 (中の家) 名所・史跡
-
前庭に立つ「若き日の栄一」像です。
渋沢栄一生地 (中の家) 名所・史跡
-
イチオシ
大きな志を目指す、熱い眼差しを感じました。
渋沢栄一生地 (中の家) 名所・史跡
-
主屋前の庭園の池です。
渋沢栄一生地 (中の家) 名所・史跡
-
室内の見学は、縁側から覗いて室内を見学します。部屋に上がって見学することは出来ません。
渋沢栄一生地 (中の家) 名所・史跡
-
梁間(はりま)建物の短手方向は、5間(約9m)。桁行(けたゆき)建物のけたが渡されている長さが9間(約16m)の切妻造(きりづまづくり)の2階建、西側に3間(約5.5m)×3間(約5.5m)の平屋部分等を持っています。
渋沢栄一生地 (中の家) 名所・史跡
-
縁側から見た室内の様子です。
渋沢栄一生地 (中の家) 名所・史跡
-
土間側から縁側を進み、一番奥の部屋に渋沢栄一のアンドロイドを見ることが出来ます。渋沢栄一アンドロイドは80歳頃の和装姿です。
公開期間
日程 令和3年2月13日~令和3年12月26日
時間 午前9時30分~午後4時渋沢栄一生地 (中の家) 名所・史跡
-
主屋を出て、土蔵Ⅳ、土蔵Ⅲ方面に歩いて行きました。
土蔵Ⅳ、土蔵Ⅲの呼称は深谷市教育委員会、旧渋沢邸「中の家」が採用している呼称です。土蔵Ⅲは、道具蔵だったそうです。土蔵Ⅳは、1階を奥座敷、2階を宝蔵に使ったと考えられるそうです。渋沢栄一生地 (中の家) 名所・史跡
-
主屋の裏側に廻りました。石碑とその案内板を見ることが出来ます。
渋沢栄一生地 (中の家) 名所・史跡
-
「渋沢平九郎追懐碑」です。
慶応4年(1868)5月23日、飯能で官軍に敗れた渋沢平九郎は、顔振峠から黒山村へ下りてきた。官軍の斥候隊と遭遇し、孤軍奮闘後、路傍の石に座して自決した。渋沢平九郎、享年22歳であった。渋沢平九郎は渋沢栄一の妻千代の弟である。渋沢栄一生地 (中の家) 名所・史跡
-
渋沢平九郎追懐碑の説明文です。追懐とは過去のことを思い出してなつかしむことです。
渋沢栄一生地 (中の家) 名所・史跡
-
「晩香 渋沢翁招魂碑」の説明文です。
渋沢栄一生地 (中の家) 名所・史跡
-
向かい合って、対面にも石碑があります。「晩香 渋沢翁招魂碑」と「先妣渋沢氏招魂碑」が立っていました。
渋沢栄一生地 (中の家) 名所・史跡
-
「先妣渋沢氏招魂碑」の説明文です。
渋沢栄一生地 (中の家) 名所・史跡
-
「青淵(せいえん)公園桜植樹記念碑」が立っていました。
渋沢栄一の雅号「青淵(せいえん)」は、従弟で栄一にとって学問の師でもある尾高惇忠(じゅんちゅう)が、渋沢の生家の裏手に水が湧き出る美しい淵があったことにちなんで名付けたと伝えられる。渋沢栄一生地 (中の家) 名所・史跡
-
清らかな湧水の淵はなく、清水川が流れています。清水川は旧渋沢邸「中の家(なかんち)」の裏手を流れ、清水川に沿うように東西1km以上に渡って広がる「青淵公園」が整備され、市民の憩いの場となっています。
渋沢栄一生地 (中の家) 名所・史跡
-
「渋沢栄一の言葉」の看板が立っていました。
今、日本に必要な精神、「未来のあるのがすなわち若い人」とあり、下に説明文がありました。渋沢栄一生地 (中の家) 名所・史跡
-
清水川沿いに「旧渋沢邸「中の家(なかんち)入口」の看板があり、「青淵公園」側からも入ることが出来ます。
渋沢栄一生地 (中の家) 名所・史跡
-
土蔵Ⅱと土蔵Ⅰです。
土蔵Ⅰは、内部には落とし板が使われ、米蔵等だったと考えられる。土蔵Ⅱは、大谷石を積んだ半地下室を持ち、藍玉の製造・貯蔵場として使用されていたと伝えられる。渋沢栄一生地 (中の家) 名所・史跡
-
旧渋沢邸「中の家(なかんち)」土蔵Ⅱの案内板です。
渋沢栄一生地 (中の家) 名所・史跡
-
旧渋沢邸「中の家(なかんち)」副屋の案内板です。
渋沢栄一生地 (中の家) 名所・史跡
-
奥の建物が副屋です。現在の副屋は、明治44年に上棟。それ以前には藍玉の取引きに使われたのか、「お店」と呼ばれていた。
副屋の前にシンボルツリーのような木があった。「論語の里」ご視察 天皇皇后両陛下行幸啓記念樹 平成二十九年九月二十一日 の立札がありました。渋沢栄一生地 (中の家) 名所・史跡
-
一応、旧渋沢邸「中の家(なかんち)」を一周してみました。
渋沢栄一生地 (中の家) 名所・史跡
-
旧渋沢邸「中の家(なかんち)」の案内板です。
渋沢栄一生地 (中の家) 名所・史跡
-
旧渋沢邸「中の家(なかんち)」の正門です。
門はともに薬医門の造り。正門の扉は欅の一枚板で作られているが、これは市郎がこの地方の大木を探し求め、時間をかけ一枚ずつ集めたものという。渋沢栄一生地 (中の家) 名所・史跡
-
正門の隣りに見える建物は副屋です。外側から見ると、やはり藍玉の取引きに使われた「お店」のようにも見えます。
渋沢栄一生地 (中の家) 名所・史跡
-
駐車場近くに「論語の里 観光案内」の看板が立っています。
渋沢栄一生地 (中の家) 名所・史跡
-
「論語の里 観光案内」の看板の隣りに「我が人生は、実業に在り」 渋沢栄一の案内があります。
渋沢栄一生地 (中の家) 名所・史跡
-
旧渋沢邸「中の家(なかんち)」の観光客用駐車場の向いにある御手洗です。
渋沢栄一生地 (中の家) 名所・史跡
-
イチオシ
旧渋沢邸「中の家(なかんち)」の正門です。中の家は、代々農業を営んでいたが「名字帯刀」を許され、市郎右衛門(元助)のときには、養蚕や藍玉づくりとその販売のほか、雑貨屋・質屋業も兼ねてたいへん裕福であった。その風格がこの門構えからも感じ取れます。
渋沢栄一生地 (中の家) 名所・史跡
-
イチオシ
尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)の生家です。尾高惇忠は天保元年(1830)、下手計村に生まれました。通称は新五郎、諱(いみな)は惇忠、藍香(らんこう)と号しました。
写真は尾高惇忠生家の専用駐車場側から撮影しました。駐車場には5台くらいしか駐車出来ません。尾高惇忠生家 名所・史跡
-
玄関前に、「渋沢栄一の師 尾高惇忠生家」の看板が立っていました。
尾高惇忠生家 名所・史跡
-
尾高惇忠生家に入るとボランティアガイドさんが来て詳しく説明してくれました。尾高惇忠は渋沢栄一の従兄弟にあたり、栄一は少年時代からこの惇忠のもとに通い、論語をはじめ多くの学問を惇忠に師事したことが知られています。
尾高惇忠生家 名所・史跡
-
尾高惇忠生家は江戸時代後期に惇忠の曽祖父磯五郎が建てたものと伝わっています。当時は「油屋」の屋号で呼ばれ、この地方の商家建物の趣を残す貴重な建物です。この家で栄一の妻となったちよ見立養子となった平九郎、惇忠の娘で富岡製糸場伝習工女第一号となるゆうが育ったそうです。
見立養子はどうゆう養子ですか、とボランティアガイドさんに尋ねると、「渋沢栄一が武士になったので、跡取り息子がいない場合、取りつぶしになるので見立養子が必要だった」と説明してくれました。尾高惇忠生家 名所・史跡
-
尾高惇忠の肖像写真です。眼光鋭く精悍な顔立ちです。
渋沢栄一記念館の館長の系図を使った講義で、NHK大河ドラマ「青天を衝つけ」のテーマ音楽を演奏するNHK交響楽団を指揮する尾高忠明さんは、渋沢栄一のひ孫と習った。また、渋沢家系図を使った説明では、多くの妾の話を聞きました。と、尋ねると財力があるから女性から依頼されれば、大部認知したらしいですよ。と応えた。そうなんでしょうね、と相槌を打った。尾高惇忠生家 名所・史跡
-
イチオシ
主屋を通り抜けると裏に出る。裏に煉瓦倉庫がある。「上敷免製」の刻印を残す煉瓦が使われており、日本煉瓦製造株式会社ができた明治21年(1888)以降の建築であることがわかるそうです。
尾高惇忠生家 名所・史跡
-
ボランティアガイドさんの説明によれば、この辺りは水田に適した土地が少なく、各農家は小規模な畑で大麦や小麦、大豆などを耕作していた。藍の栽培、藍玉の製造方は阿波徳島から伝わり、豊かになったそうです。利根川はこの付近(血洗島)まで水深が深く、舟運(しゅううん)も栄えた、と語っていました。
尾高惇忠生家 名所・史跡
-
尾高惇忠生家主屋の側面です。ボランティアガイドさんは余談も含め、30分近く説明をしてくれました。本当にお世話になりました。
尾高惇忠生家 名所・史跡
-
「旧渋沢邸「中の家(なかんち)」の隣りに「麺屋 忠兵衛 煮ぼうとう店」があります。古風な建物に惹かれ、ここで昼食をとることにしました。
麺屋 忠兵衛 煮ぼうとう店 グルメ・レストラン
-
午前10時頃です。店先に店の人がいました。営業時間を聞くと「午前11時から営業します」と答えた。「その頃、また来ます」と言うと「お待ちしております」と返って来た。
麺屋 忠兵衛 煮ぼうとう店 グルメ・レストラン
-
「麺屋 忠兵衛 煮ぼうとう店」の店先にある案内板です。営業時間は11:30~14:00となっていました。しかし観光客が多いので、営業時間を早めた、と思った。
麺屋 忠兵衛 煮ぼうとう店 グルメ・レストラン
-
「麺屋 忠兵衛 煮ぼうとう店」に11:00頃入ると、もうお客さんが入っていた。あっという間に満席になった。座敷に上がり、奥に席をとった。
床の間に渋沢栄一書の掛け軸があった。麺屋 忠兵衛 煮ぼうとう店 グルメ・レストラン
-
掛け軸の説明があった。
青淵(せいえん)の書
「天意夕陽(せきよう)ヲ重(おもん)ジ、人間晩晴(ばんせい)ヲ貴(たっと)ブ」とあった。意味はどこかで聞いたことがあるような内容であった。
「少年老い易く学成り難し」と同様の意味であった。麺屋 忠兵衛 煮ぼうとう店 グルメ・レストラン
-
ここは埼玉県比企郡嵐山町鎌形1993の鎌形八幡神社です。参道には木曾義仲公の多くの旗がはためいています。嵐山町は通称木曾義仲、源義仲の生誕地です。従って、大変由緒ある八幡神社です。ここでNHK大河ドラマ「青天を衝け」の数々の場面の撮影が行われました。
鎌形八幡神社 寺・神社・教会
-
鎌形八幡神社の案内板が立っていました。案内板の前で地元嵐山町のボランティアガイドさんの説明を聞きました。
鎌形八幡神社
鎌形八幡神社は、平安時代初期、延暦年間に、坂上田村麻呂が九州の宇佐八幡宮の御霊をここに迎えて祀ったのが始まりであると言い伝えられている。武門、武将の神として仰がれ「源頼朝及び尼御前の信仰ことのほか厚く」と縁起の中にもある。
源義賢、義仲、義高 三代に関する伝説がこの地には多く、源氏の氏神として仰がれていたという。鎌形八幡神社 寺・神社・教会
-
鎌形八幡神社へ入る鳥居です。鳥居前の道路は「流鏑馬の馬場」です。春、桜祭り時、流鏑馬が披露されます。
鎌形八幡神社 寺・神社・教会
-
一の鳥居を過ぎると二の鳥居です。
鎌形八幡神社 寺・神社・教会
-
境内には八坂神社があります。
鎌形八幡神社 寺・神社・教会
-
尾高千代(おだかちよ)役の橋本愛さんが「神門」の板敷の床に座り、考え込むシーンが印象的でした。
鎌形八幡神社 寺・神社・教会
-
石段の上の建物が本殿です。この景色は「青天を衝け」のいろんな場面に登場しました。
鎌形八幡神社 寺・神社・教会
-
鎌形八幡神社の手水舎は「木曽義仲産湯の清水」と言われています。
鎌形八幡神社 寺・神社・教会
-
手水舎の近くに「木曾義仲産湯清水」の石碑が立っています。
鎌形八幡神社 寺・神社・教会
-
嵐山町大蔵には源義賢の墓や屋敷跡と伝えられている大蔵神社があります。源義仲の父である源義賢はもともとは上野国を本拠としていたが、兄源義朝と内輪揉めがあり、久寿2年(1155)源義朝長子の当時15歳であった悪源太義平によって大蔵の地で討たれた。とボランティアガイドさんが説明した。長野県木曽地方へ旅行に行き、宿泊施設で住所欄に嵐山町大蔵と書くと宿泊料金が半額になる、と言っていました。絆は今も続いているようです。
-
源義賢の御廟堂は広い道から農道のように狭い道に入ります。鳥居が立っているので道は分かり易い。
-
鳥居の前に石碑が立っています。
-
正面の建物が源義賢公の御廟堂です。
-
源義賢公の御廟堂です。
-
「源義賢の墓」埼玉県が立てた案内板があります。
-
近くに大行院が立てた「源氏三代供養塔」の案内板があります。案内板には悲劇の三代が綴られています。
いつの日か、源氏三代(源義賢・源義仲・源義高)に光が差し、大河ドラマで取り上げられるに違いない。三代の悲劇は鎌倉時代初期を描いた大河ドラマに少しだけ取り上げられたが、完結していない。大河ドラマで明らかにして欲しいものである。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
この旅行で行ったスポット
この旅行で行ったグルメ・レストラン
深谷・寄居(埼玉) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
67