2020/11/26 - 2020/11/26
31位(同エリア667件中)
bunbunさん
- bunbunさんTOP
- 旅行記178冊
- クチコミ0件
- Q&A回答0件
- 577,760アクセス
- フォロワー872人
雲一つない快晴でしたので、レンタカーで横浜の三渓園とその南にある本牧市民公園内の上海横浜友好園を見学してきました。
本旅行記は「晩秋の横浜 三渓園 上海横浜友好園 I」(https://4travel.jp/travelogue/11665575)の続きです。
三渓園と上海横浜友好園の概要につきましては前報をご覧ください。
-
南東に進んで管理事務所の前にやって来ました。
また三渓園の案内図です。
現在地は中央の赤枠に白字で「現在地」と書かれた位置です。この後大池沿いを南に三渓園茶寮前まで行ってから引き返し、大池北西側を途中鶴翔閣(かくしょうかく)に寄って右下の正門まで行きます。 -
大池沿いを南に移動してきました。
池の中に大きな鳥がいる。
アオサギです。
サギ科
アオサギ属 -
北東方向の大池。
カモさんもいるな。 -
少し南に移動しました。
北東方向の大池。
右に見えてきたのは涵花亭(かんかてい、あづまやです。)のある島です。
後で行きます。 -
また少し南に移動しました。
涵花亭が見えて来ましたね。 -
島と涵花亭
-
涵花亭、ズームイン。
-
池岸の紅葉したドウダンツツジ。
-
三渓園茶寮前のノコンギク
キク科
シオン属 -
北に少し戻って、「三渓園 昔 むかし」説明板
昔この辺りから北に見えた「原家の住居・鶴翔閣の全景」。
説明内容は以下に示す三渓園HPの説明文とほぼ同じです。
詳細は写真を拡大して説明文をお読みください。 -
北に進んで睡蓮池脇に来ました。
北方に睡蓮池と松の木の向こうに鶴翔閣の屋根が見えます。 -
睡蓮池と大池の間の歩道を北東に進みます。
睡蓮池脇の紅葉したドウダンツツジ。 -
ドウダンツツジ、睡蓮池、松の木。
-
盆栽にしてもいいような松(https://4travel.jp/travelogue/11246438)、ドウダンツツジ、睡蓮の池、鶴翔閣の屋根。
-
鶴翔閣上り口までやって来ました。
鶴翔閣(旧原家住宅)横浜市指定有形文化財
「延べ床面積約950㎡と、三溪園にある歴史的建造物のなかでも際立って大きな規模を誇り、その名称は鶴が飛翔する印象の外観に由来するといわれています。
明治35年・1902年に原三溪が自らの住まいとして建て、以後20年にわたる三溪園造成の足がかりとなったほか、横山大観や前田青邨といった日本画家たちが集い、滞在し絵を制作するなど、日本の近代文化の発展にも関わった文化サロンとしての役割も果たした場所です。哲学者の和辻哲郎は、後に名著「古寺巡礼」として結実する京都・奈良への旅をここから出発したことが知られています。震災・戦災などをへて多くの改変がなされていましたが、平成10年・1998年から平成12年・2000年にかけて修復工事を行い、建築当初の姿に復元されました。」
―三渓園HPより―
ここに寄ります。 -
鶴翔閣の説明板
間取りと説明文(上の説明とほぼ同じ)です。
右下の斜めの格子部分が以下の写真で示す玄関です。 -
鶴翔閣入口です。
戸のガラスに見える緑は、後ろの景色が映ったものです。
ガラス戸の前に看板ある。なになに、「この建物は、貸出施設です。本日は、お貸出があるためご利用者以外はなかには、お入りいただけません!」ってか。結婚式なんかにもよく使われるらしい。 -
ということで、ガラス越しに1枚だけ。玄関です。
-
鶴翔閣の説明写真
「飾り過ぎないシンプルさ、和を協調とした、明治の新取性を持つ壮大な空間」
―説明文より― -
鶴翔閣の北西にやって来ました。
振り返って見た鶴翔閣入口部分。 -
西方。
奥の建物は蔵のようです。
右の建物は上の写真の鶴翔閣と渡り廊下でつながっていますが、上の間取り図には載っていません。この部分を含めた間取り図は三渓園HP hpps://www.sankeien.or.jp/facilities/outer_garden/kakushoukaku/をご覧ください。 -
右側の煉瓦造りの建物は旧ボイラー室です。
-
ボイラー室の説明板。
-
鶴翔閣を出ました。
-
「三渓園 昔 むかし」説明板
1つ上の写真を撮影した場所から南方に見えた「大正初期頃の園内」です。
遊歩道に左は大池、右は睡蓮池です。三重塔の建つ小山の裏側に先に見た海食崖があります。 -
空を見上げるとJALの旅客機だ。
機体番号からすると、Boeing 787-9です。
青空に白い機体が映えて綺麗ですねえ。 -
東に進みました。
また、「三渓園 昔 むかし」の説明板だ。
南方に見えた「明治末頃の園内」です。 -
さらに東に進んで、正門にやって来ました。
一旦外に出て撮影した正門です。
入園券があれば再入園できます。 -
また三渓園に入りました。
大池東端からみた見た南西方向の大池と山の上の三重塔。
逆光ですねえ。 -
三重塔ズームイン。
-
今度は大池南東側の遊歩道を南口に向かいます。
西方のさっき行った鶴翔閣。 -
大池と鶴翔閣。
-
遊歩道脇のサザンカ。
-
黄葉の木(イヌビワかも知れません)とサザンカ。
-
遊歩道脇のサザンカ。
-
三渓園天満宮
-
三渓園天満宮の説明板
-
三渓園天満宮の西にある観心橋(かんしんばし)を渡って、先程三渓園茶寮前から見た涵花亭のある島に来ました。
島から見た観心橋。
橋の向こうは三渓園天満宮です。 -
「三渓園 昔 むかし」の説明板
説明文に読みにくい部分がありますので、以下に全文を示します。
「楠公社と観心橋
楠公とは、南北朝時代の武将・楠 正成のこと。社殿の建物は、もと大阪・観心寺にあったもので、楠 正成が建武元(1334)年に建立、自らの守護神・牛頭明王を祀ったと伝えられた。三渓園への移築後は、高村光雲門下の彫刻家・米原雲海作の楠公の木彫像が安置されていたが、空襲の爆撃により社殿と楠公像はともに失われた。現在の天満宮の鳥居脇にある首の欠け落ちた狛犬は、楠公像があった頃からのもので空襲の痕が生々しく残されている。手前にかかる橋は観心橋で、その名は楠公社の由緒(観心寺)による。」 -
島から見た大池と鶴翔閣。
-
涵花亭
-
観心橋を引き返しました。
三渓園天満宮の南にある「杉の茶屋」址。 -
「三渓園 昔 むかし」の説明板
「杉の茶屋」 -
南に移動して来ました。
旧燈明寺本堂【重要文化財】です。
「三重塔と同じ京都・木津川市の燈明寺にあった室町時代の建物です。明治時代以降、燈明寺は衰退し、第二次世界大戦直後の台風の被害を受けたあと解体され、再建できないままとなっていました。その後、三重塔が移築されていた縁により三溪園に寄贈され、昭和62年・1987年に移築が完了しました。
燈明寺はたびたびの衰退・復興によって宗派が変わり、この本堂の建物も大きな改造が加えられていましたが、三溪園への移築の際に当初の中世密教寺院の様式に復原されました。」
―三渓園HPより― -
旧燈明寺本堂の説明板
間取りと説明文(上の説明とほぼ同じ)です。 -
境内に入って正面から、旧燈明寺本堂。
絵の展覧会をやってますね。
入って見て行こう。 -
旧燈明寺本堂を後にします。
-
大池に注ぐ小川の橋を西に渡ります。
橋の上から見た林洞庵。
「昭和45年・1970年に宗徧流林洞会から三溪園に寄贈された茶室で、八畳の広間と四畳半の小間から構成されています。水屋と小間の境の鴨居には宗徧流の祖・山田宗徧筆の額が掲げられています。山田宗徧は忠臣蔵で知られる吉良上野介と茶を通した友人であった人物です。」
―三渓園HPより― -
林洞庵の説明板
間取りと説明文(上の説明とほぼ同じ)です。 -
「三渓園 昔 むかし」の説明板
「寒月庵」
「・・・
昭和26(1951)年伊豆山の旅館に移され、現在跡地にここの林洞庵が建てられた。」 -
東側から、林洞庵。
-
北側から、林洞庵。
-
大池に注ぐ小川と、さっき渡った橋。
-
南に戻って、「初音茶屋」。
「かつて三渓園を訪れたインドのノーベル賞文学者タゴールや芥川龍之介らによって書きしるされた茶屋。当時はいつでも麦茶がふるまわれたという。
芥川は大正4年(1915)の初秋、ここでの印象を
[ひとはかり うく香煎や 白湯の秋」]
と俳句に残しています。」
―説明板より― -
「三渓園 昔 むかし」の説明板
「初音茶屋」
詳細は写真を拡大して説明文をお読みください。 -
「三渓園 昔 むかし」の説明板
「初音茶屋と寒月庵」 -
初音茶屋北側から見た紅葉のイロハモミジ。
-
東に戻って、待春軒の前に来ました。今はお食事処になっています。
写真がないので、「三渓園 昔 むかし」の説明板の「待春軒」を示します。 -
南に進んで、見上げた紅葉のイロハモミジ。
-
南に進んで、北から見た
旧矢箆原家住宅【重要文化財】
「飛騨白川郷の一部、現在の高山市荘川町にあった、江戸時代後期の入母屋合掌造りの民家で、御母衣ダム建設の水没地域にあったため、昭和35年・1960年に三溪園に移築されました。農民の家ながら、式台玄関や書院造の座敷など立派な接客の空間を備え、火灯窓が付けられるなど、飛騨の三長者の一人といわれた矢箆原家の格式の高さを伝える、現存する合掌造りでは最大級の建物です。屋内では、移築に合わせて蒐集された飛騨地方の民具が展示されているほか、囲炉裏では毎日火が焚かれています。黒光りした柱や梁、煙の匂いが白川郷の昔の暮らしを感じさせてくれます。」
―三渓園HPより― -
少し南西に移動した所にあった、
「三渓園 昔 むかし」の説明板
この辺に「月影の茶屋」があったそうです。 -
さらに南西に移動して南東方向に見た旧矢箆原家住宅。
-
旧矢箆原家住宅の説明板
間取りと説明文(上の説明とほぼ同じ)です。 -
北に少し移動して、
横笛庵
「茅葺屋根の土間と栩葺き屋根の小間からなる、素朴ながら趣のある草庵風の建物で、その名前はかつて内部に置かれていた横笛の像にちなみます。横笛は、平安時代の末に平清盛の娘で高倉天皇の中宮であった建礼門院に仕えた女性で、平重盛の従者・斎藤時頼との悲恋の話が平家物語や?山樗牛の「滝口入道」から知られています。
この横笛の像は時頼から送られた恋文で横笛自らが作ったものとされ、縁結びの像として祈願に訪れる人も多くにぎわいましたが、第二次世界大戦中の空襲により失われました。」
―三渓園HPより― -
横笛庵の説明板
間取りと説明文(上の説明とほぼ同じ)です。 -
「三渓園 昔 むかし」の説明板
今は無き「横笛庵内に安置されていた横笛の像」 -
横笛庵から南に見た旧矢箆原家住宅
-
西に移動しました。
ピンクと赤のサザンカ。 -
ピンクのサザンカ。
-
赤のサザンカ。
-
朝霧橋と横笛庵
-
大池に注ぐ小川と三渓園の滝(上部)
-
遊歩道を北に進んで山を上り、
旧燈明寺三重塔【重要文化財】の西側にやって来ました。
「室町時代の康正3年・1457年に建てられた、園内の建造物中、最も古い建物です。三溪園へは大正3年・1914年に、現在の京都・木津川市の燈明寺から移築され、小高い丘に建てられたその姿は三溪園を象徴する存在となっています。
三重塔の移築は、その後の庭園造成の上で大きな鍵となりました。臨春閣や聴秋閣などは、その室内から三重塔が美しく眺められるような配置の工夫が見られます。」
―三渓園HPより― -
旧燈明寺三重塔の説明板
間取りと説明文です。
詳細は写真を拡大して説明文をお読みください。 -
寺院建築を見ると屋根を支える組物(https://4travel.jp/travelogue/11315412)が気になります。
3階軒下部分をズームイン。
身延山久遠寺の三門は肘木と巻斗の組合わせが3段の三手先でしたが、この三重塔もの三手先ですね。 -
山の上から北東に見えた大池、島の上の涵花亭、観心橋等。
-
東に見えた旧燈明寺本堂。
-
山の上を南に移動しました。
松風閣(展望台)です。
もろ逆光だなあ。
左の階段を上ると展望デッキがあります。 -
「三渓園 昔 むかし」の説明板
「松風閣」
「・・・初代・善三郎が別荘として明治20年ころに築造した建物で、その名称は伊藤博文によるものである。・・・大正12年(1923)年の関東大震災により・・・消失した。」
詳細は写真を拡大して説明文をお読みください。 -
松風閣の説明板。
「・・・現在の建物は、昭和39(1964)年に建てられた展望台です。」
詳細は写真を拡大して説明文をお読みください。 -
階段を上って南側の展望デッキに来ました。
ここから見える「松風閣からの展望」の説明板です。
左右(南東-北西)に走る道路は首都高湾岸線です。 -
展望デッキから見た南東の風景。
逆光ですねえ。 -
展望デッキから見た南西の風景。
これも逆光だ。 -
松風閣(展望台)から下りて、来た道を引き返します。
途中で見えた東側の風景。
右下は林洞庵、中央やや右の木の陰は旧燈明寺本堂です。 -
山から来た道を東に下り(西に下りる遊歩道もあります。)、山を迂回するように北上しました。
茶屋床望塔亭です。 -
山の西側を南下し、海岸門を出ました。
紅葉したイロハモミジ。 -
とんぼ池に架かる橋を渡りました。
-
来るときにも見た上海横浜友好園の湖心亭と海食崖。
崖の上の松林の中にさっきまでいた松風閣(展望台)があります。 -
玉蘭庁(右)、曲橋(左)、とんぼ池、海食崖。
崖の上に松風閣(展望台)が少しだけ見えます。 -
海食崖。
これで、三渓園の見学は終わりです。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
90