2019/10/06 - 2019/10/06
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frau.himmelさん
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私は一体何をしにツヴィッカウに行ったのか?
何も楽しい思い出を残さないまま、ウィーンに向かいます。
その前に・・・。
そうだった!途中でニュルンベルクに寄ったのでした。
前から、ニュルンベルク裁判が行われたフュルト裁判所に行きたいと思いつつも、何故だかこの裁判所は日曜日のガイドツアーでしか見学できないと思いこんでいました。
そしてたまたまツヴィッカウの3日目がその日曜日だったため、3泊のところ2泊に短縮してツヴィッカウを後にしたのでした。それで計画が狂ったのでした。もう一日、ツヴィッカウに滞在していたらシューマンハウスもトラバント博物館にも行くことができました(たぶん・・・)。
今はニュルンベルク裁判法廷は、火曜日が休館で、その他の日も入ることができるようになったのですね。
ナチスドイツの戦争責任と戦争犯罪を裁いたニュルンベルク国際軍事裁判所、行ってまいりました。
私の博物館鑑賞は、まず写真を撮って、それを見ながら後日詳しく勉強するやり方なので、なるほどなるほど・・・と、いろんなことを雑多に書き連ねた、まるで雑記帳のような旅行記です。
私の勘違い間違いなどありましたら、ご指摘くださるとうれしいです。
なお、残酷な写真も出てまいりますので、ご気分が悪い方はスルーしてください。
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10月6日(日)
2日間滞在したツヴィッカウからオーストリアのウィーンに移動します。
国境越えのチケットは早割がお得。
2回乗換て7時間の旅、指定席込みで2人分88ユーロです。
私たちは途中どうしてもニュルンベルクで訪れたいところがあり、9:27分のRE(地域快速)に乗りました。 -
ところが購入したチケットはツヴィッカウ13:27発のREです。
大丈夫だとは思いましたが、少々の不安を抱えて4時間も早い列車に乗り込みました。チケットを買い直さなければならないようだったら、いざとなったらジャーマンレイルパスが1日分余分に残っていますので、それを使えばいいかっと。 -
列車はツヴィッカウの駅を発車しました。
案の定、検札にやってきた女性車掌さん、厳しい顔をして、
「これは時間が違う!新しくチケットを買い直しなさい」と。
そこで私と打ち合わせをしていた夫が
「レギオナル(地域列車)は大丈夫ですよね?」と言うと、じっくりチケットの注意書きを見て、「アレス・オッケー、アレス・OK!」。
照れ隠しに女性車掌さん、「お昼にニュルンベルクで美味しいソーセージでも食べて行ってね」なんて・・・。 -
実は早割チケットのことは研究していたのです。
私たちの今回の場合、重要なことはニュルンベルクからウィーン行のICE29(日本の新幹線)には乗らなければならないが、後のRE(地域列車)はコースさえ同じなら何時のに乗ってもOKだと言うことを。
しかし今までそんな使い方をしたことがなかったので、一度試してみたかったのです。
中には知らない車掌さんもいるのですね。
ちなみにHofからニュルンベルクまでのREの車掌さんは何も言わずに頷いて返してくれました。 -
私たちが乗ったREは今まさに、昨日訪れた世界最大のレンガ橋ゲルチュタール橋の上を走っています。
逆光で写真がうまく撮れません。 -
列車はフォークトラント地方では大きい街プラウエンを過ぎ、ホーフで乗り換えて、ニュルンベルクへ向かいます。
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ニュルンベルク中央駅到着。
コインロッカーに荷物を預けて・・・。 -
地下鉄U1でベーレンシャンツェで下車。
目的のニュルンベルク裁判記念館は近くのようですね。(上赤○) -
地上に出ると、手入れの行き届いた花壇、歴史的な建物の美しい装飾・・・。
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そんな中を数分歩くとありました。ニュルンベルク裁判記念館。
建物の角には大戦後ドイツを統治したアメリカ・イギリス・フランス・ソ連の4か国の国旗がはためいていました。 -
ニュルンベルク・フュルト地方裁判所です。
ここで第二世界大戦でナチスドイツが犯した戦争犯罪を裁くためのニュルンベルク裁判が行われました。
ロンドン会議により、ここニュルンベルクで国際軍事裁判が開催されることに決定したのは、この裁判所がほとんど戦災を受けていなかったからだそうです。 -
ニュルンベルクはナチスのメッカとも言われたヒトラーお気に入りの都市。1929年以降毎年ナチスの党大会が開催され、ヒトラーの権力はゆるぎないものになりました。
またユダヤ人絶滅を宣言したニュルンベルク法が制定されたのもニュルンベルクでした。
この地で、ナチスの前代未聞の重大犯罪を裁く軍事裁判が開催されたのも、必然的なことだったのでしょうね。 -
4か国の国旗。
第二次世界大戦後、アメリカ、フランス、イギリス、ソ連の4か国によって統治されることになったドイツ。
ニュルンベルク裁判でもこの4か国から選ばれた裁判官により進行されました。 -
1945年11月20日から1946年10月1日までの約1年間にわたり軍事裁判が行われた裁判所。
入場者も結構多いですね。 -
では私たちもニュルンベルク裁判を傍聴しましょう。
チケット代1人6ユーロを払って中に入ります。
2時のガイドツアーまでまだ1時間ほどあります。ちょっと空き過ぎですね。
ウィーン行きの列車の時間も気になりますし、ツアーは止めて自由に見学することにしました。 -
この部屋が実際、軍事裁判に使われた600号法廷です。
旅行前に、映画「ニュルンベルク裁判」でも、またネットでも目にしていましたので、初めてとは思えない懐かしい感じの部屋です。
入り口の重厚な木彫りの装飾、豪華な天井、4つのシャンデリア。 -
前方が裁判席です。
思ったより狭い感じです。
ここで歴史的に名高いあのニュルンベルク裁判が行われたのですね。 -
当時の法廷の写真です。同じですね。
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これも展示してあった写真。
遠くから見ると、大変広く感じます。 -
あそこに座っている白鬚のおじ様は監視の方でしょうか?
さっきからじっと同じ姿勢のまま、身動きなさいません。
威厳のある裁判官のようなお顔立ちからマネキンを座らせているのかと、一瞬勘違いしてしました。(笑) -
600号法廷の模型。
傍聴席はずいぶんたくさんあるのですね。
それで広く見えたのですね。 -
さて、それでは博物館の中を見学しましょう。
戦争への道。
ここには戦争にいたるまでの出来事が年表としてまとめてあります。
まずはそれで勉強を。
・1933.2.3:ヒトラー率いるナチ党が台頭し、ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に任命。
・1938.3.12:ますます勢いをつけたヒトラーはオーストリアを併合(アンシュルス)
・1938.9.30:その勢いでドイツは、ミュンヘン会議でズデーデン地方を獲得。
・1939.8.23:独ソ不可侵条約締結。 -
・1939.9.1:ドイツは、宣戦布告なしにポーランドに侵攻。第二次世界大戦の勃発。
・1940.4.9:ヒトラーのドイツ、ノルウェー・デンマークに侵攻。デンマーク降伏。
・1940.5.10:フランス・オランダ・ベルギー・ルクセンブルクに侵攻を開始。ルクセンブルク併合。
・1940.9.20:日・独・伊三国同盟締結。
・1941.6.22:ドイツ、不可侵条約を破りソ連に侵攻。
・1941.12.7:日本、ハワイの真珠湾攻撃。
・1941.12.11:日本が英米に宣戦布告をしたことを受け、ドイツ・イタリアも米に宣戦布告。
(主要なところのみ拾いました。話の流れで追加したところもあります。)
こうして世界中を巻き込んだ第二次世界大戦は始まったのです。 -
戦争が末期に近づき連合国の勝利が見えてくると、それぞれの思惑を持った米・英・ソの三巨頭会談が開かれた。
1945年2月、ヤルタ会談。
左から英・チャーチル、米・ルーズベルト、ソ:スターリン -
上:戦後のドイツ経済を弱体化させる「モーゲンソー・プラン」の立案者、米国財務長官ヘンリー・モーゲンソー(左)と、ルーズベルト大統領。
下:ヘンリー・スティムソン、当時の国務長官、陸軍長官。
日米戦争で、真珠湾攻撃や原爆投下に驚くほど大きくかかわった人物なのですね。日本からの先制攻撃、むしろラッキーだった?
ニュルンベルク裁判にも大きな影響を与えています。 -
そして終戦。
ナチスドイツの戦争犯罪を指導した重要人物が裁かれるニュルンベルク裁判が開かれることになった。
しかしもっとも責任ある総統アドルフヒトラー、宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッペルス、SS最高責任者ハインリッヒ・ヒムラーは自殺しており起訴は不可能でした。 -
戦争犯罪の被告人となったのは24名。
そのうち、ヒトラーに次ぐナチ党の実力者マルティン・ボルマンは行方不明のため欠席裁判。(写真)
また、ナチスの実力者ロベルト・ライは獄中で自殺。
そしてドイツ重工業企業家で軍需商人のグスタフ・クリップは体力的に裁判に耐えられず訴追されなかった。 -
ニュルンベルク裁判の被告席。
前から1列目2列目は弁護士や検事(たぶん)、3列目の一段高くなったところが被告席。
3列目左より、ヘルマン・ゲーリング(後ろ向き)、ルドルフ・ヘス(カメラ目線でこちらを見ている)、ヨアヒム・フォン・リッベントロップ、ヴィルヘルム・カイテル(腕組み)、エルンスト・カルテンブルンナー、アルフレート・ローゼンベルク、ハンス・フランク、ヴィルヘルム・フリック、ユリウス・シュトライヒャー、ヴァルター・フンク、ヒャルマン・シャハト。
4列目左より カール・デーニッツ、エーリヒ・レーダー、バルドゥール・フォン・シーラッハ、フリッツ・ザウケル、アルフレート・ヨーデル、フランツ・フォン・パーペン(立っている)、アルトゥール・ザイス=インクヴァルト、アルベルト・シュペーア、コンスタンティン・フォン・ノイラート、ハンス・フリッチェ -
そうそうたるメンバーです。
私が気になる被告を紹介します。
(左)ヘルマン・ゲーリング:ヒトラーに次ぐナチスのNo.2.空軍総司令官、国家元帥、
(下右)ルドルフ・ヘス:ナチ党総統代理、
(その後ろ)カール・デーニッツ:ヒトラー自殺後の後継大統領。海軍総司令官。 -
(前列左)ヨアヒム・フォン・リッペントロップ:外務大臣、日独伊三国同盟、独ソ不可侵条約の立役者。
(中)ヴィルヘルム・カイテル:国防軍最高司令官、陸軍軍元帥。
(右)エルンスト・カルテンブルンナー: 国家保安本部長官 秘密警察の最高責任者。ヒムラーに次ぐ親衛隊の最高幹部。 -
(左)ユリウス・シュトライヒャー:反ユダヤ主義新聞『シュテュルマー』の発行者
(その後ろ)アルベルト・シュペーア:ヒトラーに個人的に可愛がられた建築家、軍需大臣。ニュルンベルク党大会広場や総統官邸などの設計。
(前右)ヴァルター・フンク: 経済大臣・ライヒスバンク総裁 。
(右)コンスタンティン・フォン・ノイラート:1938年までの外務大臣 -
こんな感じで並んで審議を受けていた。
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座っていたのは木製のベンチ。
裁判で被告人たちが実際座っていたオリジナルのベンチが展示してありました。 -
それらのナチスの重要戦犯たちは、ニュルンベルク裁判所に隣接した刑務所に収監されました。
4か国の兵士が、被告の監視にあたっていました。 -
その監視たるや、まさに1匹のアリも逃さないと言った厳重な体制、各個室の外には各々1名以上の監視者が張りついていました。
下の写真はアメリカ軍が監視しているところ。上はフランスの軍でしょうか? -
ここで刑務所独房の部屋割を。
5号室(右列下から6番目)にはゲーリング、その隣4号室はルドルフ・ヘス、カイテル将軍は8号室、ヒトラーの後にドイツ大統領となったカール・デーニッツは13号室、そしてヒトラーの腰ぎんちゃくシュペーアは17号室。全て右列です。
×印は死刑判決を受けた受刑者たち。 -
彼らの収容生活は質素なものでした。
独房の広さ約9.5m2、机とトイレと粗末なベッド、そして粗末な食器。
被告たちは一緒に食事をしていたそうです。
しかしシュペーアはゲーリンクと獄中では大変仲が悪かった。
ある時シュペーアは、「被告人が一緒に食事や散歩をするのはいかがなものか、ゲーリングに被告が一致団結する機会を与えてしまう」と告げ口しました。
その後ゲーリングは一人で食事をさせられることになりました。 -
被告たちは1日20分ほど運動と称して中庭を散歩していました。
右の人物はニュルンベルク刑務所の所長バートン・C・アンドレアス。
カイテル将軍やヨードル(国防軍最高司令官・後に死刑)などを起立させ、「お前たちはもう軍人ではない、犯罪者だ!」と言って階級章をもぎ取り、凌辱したそうです。
管理能力はお粗末で、死刑執行日の前日、ヘルマン・ゲーリンクにまんまと自殺されました。裁判が始まる前にも獄中でレオルド・コンティとロベルト・ライに自殺を許しています。 -
さて、再びニュルンベルク裁判所600号法廷です。
裁判官は、戦勝国の米・英・仏・ソ連より各2名ずつ選ばれました。
裁判官席にはそれぞれの国の国旗が掲げられています。 -
写真は英・仏の正副判事。
①ジェフリー・ローレンス(裁判長、イギリス正判事)
②ジェフリー・ローレンスとノーマン・バーケット(イギリス副判事)
③アンリ・ドヌデュー・ド・ヴァーブル(フランス正判事)とロベール・ファルコ(フランス副判事) -
①フランシス・ビドル(アメリカ正判事)
②イオナ・ニキチェンコ(ソ連正判事)
③アレクサンドル・ヴォルチコフ(ソ連副判事)
④ジョン・J・パーカー(アメリカ副判事) -
主席検察官のロバート・ジャクソン
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弁護人たち。
法廷では被告たちの前列「弁護人席」に待機している弁護士たち。
弁護士は全てドイツ人でなければならなかったそうです。 -
上はアルベルト・シュペーアと弁護人。
ヒトラーと密接な関係にあったシュペーアは、彼への尋問を行う検事などへ根回しをしてうまく立ち回り、死刑を免れた。
下の写真には、カイテル元帥、ルドルフ・ヘス、それにアルフレート・ヨードルの姿が見える。 -
ニュルンベルク国際軍事裁判所では、通訳、翻訳者、速記者、記録者など大勢の裏方が働いていました。
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この裁判は世界各国で注目され、傍聴席は400人を超える人々で埋まったそうです。
また世界23カ国からジャーナリストが取材に押し掛け、その中には著名人のレポーターも大勢いました。 -
左より ウォルター・クロンカイト(アメリカのジャーナリスト、テレビのニュース番組でもアンカーとして活躍)、マルグリート・ヒギンス(米国の戦争従軍記者、ピューリツァー賞女性初の受賞者)、一人置いて、ジョン・スタインベック(ノーベル賞作家で「怒りの葡萄」)。
なんとノーベル賞作家のスタインベックもいたのです。 -
左より、アルフレート・デーブリン(ドイツの作家、私もどこかで聞いたことがある名前)、
満席のジャーナリスト席、
レベッカ・ウェスト(アメリカのジャーナリスト、従軍記者) -
左より、
・ジョン・ドス・パソス(米国の作家・画家)、
・エーリッヒ・ケストナー(えっこの人も?ドイツの有名な作家、「エミールと探偵たち」、ドレスデンの彼の博物館には私も訪れた)、
・エリカ・マン(女優・作家、トーマス・マンの娘)、
・イリヤ・エレンブルク(ソ連の作家)。
ここには写真がありませんが、ヘミングウェイもジャーナリストとして傍聴席にいました。 -
ジャーナリスと言ったらこの人を忘れてはいけません。
ヴィリー・ブラント。
後の西ドイツ首相です。
ヒトラーの台頭により、反ナチス運動をやっていた彼は、ナチスに睨まれてノルウェーに亡命し、そこでジャーナリストとして活動していました。
ニュルンベルク裁判にはノルウェーの記者として訪れました。
その後西ドイツ首相となったブラントは、ワルシャワを訪れワルシャワゲットーの英雄記念碑前でひざまずき、ナチス・ドイツが起こしたユダヤ人虐殺について謝罪の意を表しました。有名な出来事です。 -
記者たちにはニュルンベルク近郊のシュタインベルク城を宿舎として割り当てられました。
アメリカ80名、イギリス50名、フランス40名、ソ連35名の記者。
この宿舎で2人のノーベル賞作家、スタインベックとアーネスト・ヘミングウェイは顔を合わせました。
ヴィリー・ヴラントもノーベル賞受賞者でしたね。 -
目撃者と証拠。
裁判では多くの証人が尋問されました。
そしてナチスによる戦争犯罪、残虐行為、「人道に対する罪」などの審議が行われた。
左の女性は、1946年1月28日、アウシュヴィッツとラーフェンスブリュック両強制収容所での犯罪を証言している女性ジャーナリスト。 -
ナチスによるユダヤ人迫害は重要な議題でした。
証拠として提出された写真、地図、遺物(人体で作られたもの?)など。 -
証拠として提出されたワルシャワ・ゲットーの写真
-
600号法廷ではユダヤ人虐殺の記録映像も流されました。
何百万人という亡霊を前にして、俯く被告たち。
風刺漫画家、デヴィット・ロウ作。
彼の描く風刺漫画はナチスの焚書の対象でもありました。 -
「カティンの森事件」
1946年7月1,2日、第二次大戦中に、ソ連軍によるポーランド将校や兵士など22,000人の大量虐殺事件「カティンの森事件」は、ナチスドイツによる大量殺害であるとして、ソ連から提議されたが、証拠不十分で裁判から除外された。
事件から50年近く経った1990年4月13日、ソ連政府は「スターリンの犯罪であった」と表明しました。 -
そして1946年10月1日、ニュルンベルク国際軍事裁判の最終日。
被告たちに判決が下されました。
12人に死刑、3人に終身刑、4人に長期の禁固、3人に無罪。
ニュルンベルク国際軍事裁判が始まって約1年後のことでした。
写真は1946年10月1日の南ドイツ新聞に掲載された判決記事。 -
無罪判決を受けた、左よりフランツ・フォン・パーペン、ヒャルマン・シャハト、それにハンス・フリッチェの3人は記者会見に応じました。
1946年10月1日 -
死刑判決を受けた11名は、1946年10月16日、ニュルンベルク刑務所の体育館で絞首刑に処されました。
その後火葬に賦され遺骨はイザール川に流されました。
(注:残酷な写真が含まれます。見たくない方はスルーしてください。)
これで4か国によるニュルンベルク軍事裁判は終結しましたが、これですべてが終わったわけではありませんでした。 -
ニュルンベルグでナチスドイツへの国際軍事裁判で主要戦争犯罪人の裁判が行われた後、米国はさらに12件の戦犯裁判を行いました。
これはニュルンベルグ継続裁判と呼ばれています。
ニュルンベルク継続裁判は1946年12月9日から1948年10月28日までの約2年間にわたり、183人の被告、その中で12名が死刑、8人が終身刑、77人が懲役刑になりました。 -
12の裁判を見ていきましょう。
1.医師裁判:身体障害者や精神障害者の安楽死など殺害に加担したり、強制収容所で人体実験などを実施した医師や看護師が裁判にかけられました。
2.エアハルト・ミルヒ裁判:エアハルト・ミルヒはドイツ空軍No.2の人物
3.法曹裁判 :指導的な立場にあった裁判官・検察官、司法行政の関係者などの法律家に対して行われた裁判。 -
4.親衛隊経済管理本部裁判
強制収容所に労働力としてユダヤ人や囚人を集め、働けない囚人は即ガス室行きの采配をしたり、収容所に到着したユダヤ人たちから金銭、宝石、金時計、金の入れ歯を取り上げていた。 -
写真は継続裁判にかけられている親衛隊本部長官のオズヴァルト・ポール。死刑判決が下された。
-
12件の中には3件の経済裁判がありました。
5.フリードリヒ・フリック裁判:フリックコンツェルン、ナチスに財政支援をした実業家
6.IG・ファルベン裁判:IGファルベン社はユダヤ人大量虐殺に使用したチクロンBガスを製造した会社。多くの囚人を使った。
10.クルップ裁判:クルップ社はドイツの重工業企業。大量のユダヤ人収容者を使い軍需品を製造した。 -
7.捕虜裁判:バルカン戦線で多くの捕虜やパルチザンの殺害などを行ったとして、軍の指揮官が裁かれた。
8.アインザッツグルッペン裁判:国家保安警察が組織する、ユダヤ人や、捕虜となった有識者を虐殺するいわば殺人部隊。
9.親衛隊人種及び移住本部裁判 :この中には、チェコ・プラハでのハイドリヒ暗殺の報復として村全体が壊滅させられたチェコのリディツェ村事件も入ります。 -
11.大臣裁判 (1948年1月6日 - 1949年4月13日)
12.国防軍最高司令部裁判 :ドイツ軍や国防軍最高司令部で高位にあった元帥や将軍たちを裁いた。 -
第二次世界大戦終戦から10数年。
ニュルンベルク裁判、ニュルンベルク継続裁判の国際軍事法廷で、ナチスの主要な指導者たちは裁かれ既に刑も確定していた。
しかし逃亡した人物、証拠不十分、うまく言い逃れたホロコーストにかかわった人物は他にも大勢いた。
人々の心の中には過去の古傷を忘れたいと思う人や、ホロコースト裁判はもうたくさんだと思う人々もいた。
しかしそんな風潮の中、追及の手を緩めない人々がいた。 -
アドルフ・アイヒマン。親衛隊隊長。
アイヒマンの命令により逮捕され、強制収容所で殺されたユダヤ人は数百万人に及ぶといいます。
アルゼンチンに逃亡していたアイヒマンを、エルサレムの法廷に立たせて死刑判決を勝ち取ったのも、そういう彼らの手柄だった。 -
1963年12月に、アウシュヴィッツで大量殺人にかかわった強制収容所の職員(副官・看守・医師・衛生兵など)に対する裁判がフランクフルトで開廷した。(フランクフルトアウシュヴィッツ裁判)。
彼らを起訴したのはユダヤ人の血を引くバウアー検事長。
写真下は、強制収容所の医師フランツ・ルーカス(中央の帽子の人物)。ホロコーストに関係した罪で起訴され、1964年に実地検分でアウシュヴィッツに連れてこられたところ? -
マイダネク裁判。
ポーランドのマイダネク強制収容所で、少なくとも25万人が殺害された。ホロコーストにかかわった職員に対する裁判。
デュッセルドルフ裁判所で、1975年に始まり1981年に閉廷した。
西ドイツで最長のナチス戦争犯罪裁判でした。
写真は1981年判決前のマイダネク裁判のデモンストレーション。 -
二大国際軍事裁判である東京裁判も展示してありました。
皆様もよくご存知のことなので、よく知らない私は写真だけの掲載に留めておきます。 -
東京裁判
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東京裁判
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東京裁判
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深刻な展示を見て、頭が疲れました。
裁判所の窓から外を眺めます。 -
フュルトからニュルンベルク中央駅に戻ってきました。
裁判所のガイドツアーをパスしたので、時間ができました。
もう1か所行ってみたいところがあります。 -
職人広場です。
-
急いで錫職人のゲオルクさんのお店に行ってみます。
ニュルンベルクを訪れるたびにここによって、ゲオルクさんの作品をひとつづつ揃えていました。 -
4トラの会員さんが私にメッセージをくださって、ゲオルクさんが亡くなられたことを教えてくださいました。
2019年7月24日に亡くなられたそう。2か月半前ですね。
ご冥福をお祈りいたします。 -
今日は日曜日でお店は閉まっているので買い物はできません。
ゲオルクさんの作品を写真に残しました。 -
職人広場。
懐かしい~~。
次回はいつ訪れることができるのだろう。
(コロナ禍の2021年3月現在) -
職人広場入り口。
-
ニュルンベルク駅のホームにはあっちにもこっちにも警官の姿が。
何かあったのでしょうか。
さて、私たちは時間通りのICEに乗ってウィーンに向かいます。
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この旅行記へのコメント (2)
-
- salsaladyさん 2021/04/22 10:49:06
- ツビッカウよりニュールンベルグ裁判!
- ☆時々拝見しますが。。。いつも歴史に詳しい真面目な旅を続けられて感心致します。
☆ニュールンベルグには私も最初のドイツ訪問で行ったのですが。。妙に新しいホテルとクリスマス前の静かな市場しか想い出が無く。。。そこでトイレの報告に初めてフラウさんがコメントくれたのでした。(isn't it?)~
☆private matterでは、外資系商社の秘書仲間に”ニュールンベルガーさん”が居て、日本人ながら英語ばかりかドイツ語まで堪能な故にドイツ人と結婚してしまった?関西人でしたが、とても几帳面な旦那から「着替えた服をそのまま置くな」と言われるらしく?何処へ仕舞う?と聞かれた事が。。。その後ニュールンベルグへの帰省について帰ると、ジャガイモばかり食べさせられた?と丸々ふくよかになって戻った彼女!今でも「ニュールンベルガー女史」なのかな?多分離婚するはず~等と想像を逞しく~お粗末~
- frau.himmelさん からの返信 2021/04/22 21:44:47
- RE: ツビッカウよりニュールンベルグ裁判!
- salsaさん、こんばんは。
コメントありがとうございます。
私の方はいつも読み逃げでごめんなさい。
>・・・・そこでトイレの報告に初めてフラウさんがコメントくれたのでした。(isn't it?)~
え〜っ、どんなコメントしたんだろう?
気になって今見て参りました。そして旅行記、面白くて改めて最後まで拝見してしまいました。
それにしてもニュルンベルガーさん。salsaさん、いろんなお友達ご存知ですね。
一度袖を通したものは・・・。私も一瞬どこに仕舞えばいいのかな?考え込んでしまいました。
本当にドイツ人は几帳面なのですよね。
ジャガイモもサラダ用のジャガイモ、ジャーマンポテト用のシジャガイモ、○○○用のジャガイモ・・・、と何種類もあって、キャベツもサラダ用、煮物用、○○用と種類があって、日本のように一種類だけではない。そこまでするか、って感じです。
ところで、今もニュルンベルク女史がニュルンベルクのままなのか、私もとても気になります。
いつも楽しいコメントありがとうございます。
himmel
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