2020/11/16 - 2020/11/16
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naoさん
大阪市内を流れる大川(旧淀川)一帯の紅葉が見頃を迎えたので、この日は都島橋から、上流側の淀川と大川の分流部にある淀川河川公園辺りまでぶらり散歩してきました。
この稿では、淀川河川公園辺りの旅行記を綴ります。
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毛馬橋の北側に、淀川と大川の分流部にある毛馬閘門、毛馬水門、毛馬排水機場など、水位調整や治水機能を担う一連の施設が見えています。
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写真では構造物が前後に重なって見えるので判りにくいんですが、右側が予備閘門、中央が毛馬閘門、左側が毛馬水門になります。
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陽の光を浴びたナンテン実が、より一層赤味を増しています。
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こちらは淀川側にある構造物で、右側のえんじ色が毛馬閘門、左側の水色が毛馬水門になります。
ちなみに、毛馬水門は淀川と大川間の水の流れを制御する機能だけなので、ゲートはこの1ケ所のみになります。 -
こちらは大川側にある構造物で、右側が毛馬閘門、左側が予備閘門になります。
毛馬閘門は、淀川の中に淀川大堰が設けられている関係で生じる水位差を解消し、淀川と大川の間を船が行き来できるようにする、水位調整機能が必要なことから、淀川側と大川側の両方にゲートが設けられています。
話は大きくなりますが、いわゆるパナマ運河やスエズ運河のような機能になります。 -
右側のえんじ色が毛馬閘門で、左側の水色が毛馬水門です。
写真では判りにくいんですが、毛馬閘門の淀川側のゲートを境に、淀川の水位が2m程度高くなっているのが見えます。 -
こちらが大川側にあるゲートで、ゲートで挟まれた運河のような閘室の水位を調整して船が行き来できるようにしています。
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淀川の堤防にやって来ました。
堤防上には、摂津国東成郡毛馬村(現在の大阪市都島区毛馬町)に生まれた江戸時代の俳人、与謝蕪村の「蕪村生誕地碑」と「句碑」が、淀川改修100年を記念して昭和53年(1978年)に立てられています。
句碑には、「春風馬堤曲」に収められた十八首の中の、『春風や 堤長うして 家遠し』の句が刻まれています。 -
堤防上から見える淀川の光景。
河川敷には淀川河川公園が整備され、川の中には、淀川の水を堰き止めることで多様な治水機能の向上が図れる淀川大堰が設けられています。 -
堤防上から淀川河川公園に下りてきました。
こちらは淀川の上流側の光景です。 -
淀川河川公園側から見た、毛馬閘門、毛馬水門、毛馬排水機場など、水位調整や治水機能を担う一連の施設。
なお、前稿の『2020 大川の紅葉散歩(都島橋から蕪村公園にかけて)』で紹介した城北抽水所から大川に流された寝屋川の洪水の一部は、右側の毛馬排水機場のポンプで淀川に放流されます。 -
のんびりと淀川の水面を泳ぐ鴨。
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淀川大堰の設置により多様な治水機能の向上が図れることについては前に触れましたが、詳しく調べたところ、治水機能はもちろんなんですが、勾配のゆるい淀川の上流まで大阪湾の海水(塩水)が遡るのを防ぎ、できるだけ水量の多い河口付近で大阪の人々の生活用水が取水できるようにするのが最大の目的だったようです。
行政や専門家の皆さんは、いろんな事に気を配っているんですね。 -
毛馬閘門の淀川側のディティールです。
ゲートを境に、反対側の水位は2m程度下がっています。 -
では、これらの施設の管理用道路を通って、大川の右岸側へ向かいます。
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管理用道路から見た淀川です。
それぞれに目的のある取水口が設けられています。 -
鴨の一群が水面に群れています。
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管理道路の掲示板に一帯の概略図があったのでアップしておきます。
これまで一連の施設について文章で説明してきましたが、これを見れば一目瞭然だと思います。 -
淀川大堰の下流側には、阪急千里線の鉄橋や長柄橋が架かっています。
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大川の右岸側へ来ました。
淀川大堰の堰板が白く見えていますが、その高さが上流側と大川を含めた下流側の水位差になります。
ここまでが現在の治水施設の状況でした。 -
古くから幾度となく繰り返されてきた淀川の洪水ですが、ここからは明治時代に造られた歴史遺産とでもいうべき施設を見て廻ります。
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淀川の洪水の中でも、明治18年(1885年)の大洪水は、近代的な発展を遂げようとする大阪に甚大な被害をもたらしました。
そのため、明治政府は明治29年(1896年)に、瀬田川洗堰の建設、宇治川の付け替え、毛馬閘門と毛馬洗堰の建設、毛馬より下流の川幅を広げて直線的に大阪湾に流入させるための新淀川の開削など、琵琶湖から大阪湾にまで及ぶ流域全体を見据えたスケールの大きい斬新な考え方に基づいて、日本で最初の本格的な治水工事となる淀川改良工事に着手し、途中、日露戦争の影響を受けながらも、明治43年(1910年)までの約14年にもわたる歳月をかけて完成しました。
こちらは、その改良工事において明治43年(1910年)に完成した毛馬洗堰です。 -
毛馬洗堰は、延長18.4mの煉瓦造とコンクリート造を併用した構造物で、翼壁が附属しています。
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新淀川の開削と併せて毛馬洗堰が設けられことで、洪水時に大阪市内に流入する水量の遮断・調節が可能になりました。
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煉瓦造とコンクリート造を併用した構造物であることが見て取れます。
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翼壁に絡まる蔦の紅葉。
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次は、同じく淀川改良工事で造られた毛馬第一閘門へ向かいます。
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瓜二つと言ってもいいくらいよく似た猫ちゃんたち。
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こちらは、明治43年(1910年)に完了した淀川改良工事を記念して建てられた淀川改修紀功碑です。
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ここでも猫ちゃんたちが寝そべっています。
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淀川改修紀功碑の周囲に置かれた「毛馬の残念石」。
これらの石は、江戸幕府が大坂城を再建する際、廃城となった伏見城の城石を再利用するために運んだものの、実際に大坂城には使われなかった残念な石なんだそうです。 -
伏見から運搬する途中で川に落ちて沈んでいた石が、淀川改良工事の際に引き上げられて、ここに置かれたのではないかと考えられています。
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こちらは淀川改修紀功碑の横にある毛馬北向き地蔵の祠。
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こちらは、毛馬第一閘門の閘室に架かる橋上から見た、淀川側のゲートです。
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こちらは眼鏡橋です。
淀川改良工事で掘削した土砂を毛馬から海老江まで運ぶため、明治35年(1902年)に長柄運河が掘られ仮橋が架けられていましたが、大正3年(1914年)に正式な橋としてこの眼鏡橋が架けられました。 -
その長柄運河は埋め立てられたため、橋としての役目は終わりましたが、眼鏡橋は修復したうえで保存されています。
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さて、明治40年(1907年)に完成した毛馬第一閘門へ来ました。
今もきれいな状態で保存され、一般に公開されています。 -
船の航行ができるように水位を調整する毛馬第一閘門は、長さ105.7mの煉瓦造とコンクリート造を併用した構造物で、ゲートと閘室で構成されています。
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こちらは壁に埋め込まれた係船環です。
この係船環で、ゲートとゲートの間の閘室に停泊する船を安全に繫ぎとめていました。 -
係船環が上下2段に設けられているのは、水位の変化に応じて繋ぐ高さが変化するためだそうです。
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これは先ほど見た淀川側のゲートです。
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開閉するゲートや、上下するゲートが付いていますが・・・
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これらのゲートが「どのように機能していたのか」を、現在の状態から推察してみましたが、私の能力では理解できませんでした。
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上下するゲートのレールには、動きをスムーズにするためのローラーが取り付けられています。
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閘室の側壁を繋ぐトラスにアールが付いているのは、航行する船の高さを考慮したためでしょうね。
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こうしていろんな施設を見てくると、日本で最初に行われた本格的な治水工事となる淀川改良工事の歴史的価値の高さに感銘を受けました。
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幼稚園のフェンスで泳ぐアヒルさんも、毛馬閘門を通って来たんでしょうか。
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こちらは、大川右岸側の毛馬桜之宮公園の北端部になります。
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木道が組まれた一帯も・・・
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桜の紅葉で満たされています。
最後は『淀川の歴史散歩』のような旅行記になってしまいましたが、これで今年の大川の紅葉散歩を終えます。
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