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 復刻版第三弾。2000年8月~10月、二か月に渡る中南米縦断の旅。2020年時点、自分の人生の中で二番目に長い旅。当時は都内某私立大学政治学科の大学生で、一応は卒業論文(ゼミ論)の現地調査。もっとも私の学部は、別に書かなくても規定単位あれば卒業できます(当時は)。今はどうかは知りません。ちなみに国際行政学のゼミで、卒論のタイトルは「ラテンアメリカの開発政策」でした。今考えるとこの頃から旅が手段ではなく目的になってきた気がします。<br /><br /> マレーシア航空の2カ月OPENチケットの成田~ロサンジェルスだけであとは完全に行き当たりばったり。最終的にはアメリカ、メキシコ、ベリーズ覗く中米五か国とペルーの訪問でした。最初はパナマからコロンビアに入り、エクアドル、ペルー、ボリビア、パラグアイ、ブラジル、ベネズエラと回り、カリブに飛びキューバ行って戻ろうという構想だったのですが、さすがに日数足りませんでした。<br /><br /> デジカメやSNS、スマホなんてなかった時代ですが、何気に旅行記を自作のHPにアップしていました。1999年に独学でhtml勉強して、個人的に開設したジオシティーズのホームページですが、2019年3月をもってサービス終了で閉鎖になりました。ひっそりと移転はしたのですが、一部をフォートラの写真付旅行記として復刻版として再作成します。誤字脱字等は修正し、表現も一部改めますが、なるべく当時のままの文章でと思っています。写真は、APSフィルムで撮った当時の写真をデジカメで撮影しています。<br /><br /><br />帰って来た旅立ちの地(「ただいま」、思わずそう呟く)~USA編~<br />(26/08/2000-29/09/2000)<br /><br />テキーラのアミーゴ達に捧げる唄~Mexico編~<br />(29/08/2000-09/09/2000)<br /><br />マヤ民族の国とスペイン語語学学校~Guatemala編~<br />(09/09/2000-19/09/2000)<br /><br />中米街道只今疾走中~El Salvador, Honduras, Nicaragua編~<br />(19/09/2000-23/09/2000)<br /><br />軍隊なき花と緑と民主主義の楽園~Costa Rica編~<br />(23/09/2000-28/09/2000)<br /><br />世界の十字路、運河の国、そして新たな旅立ちへ~Panama編~<br />(28/09/2000-30/09/2000)<br /><br />フヒモリ大統領と悠久のアマゾンの大地~Peru, Lima, Iquitos編~<br />(30/09/2000-06/10/2000)<br /><br />謎の地上絵と湖上に浮かぶ葦の島々~Peru, Nazca, Alequipa, Puno編~<br />(07/10/2000-10/10/2000)<br /><br />古代インカ帝国の栄華と謎の空中都市~Peru, Cuzco, Machu Pichu編~<br />(11/10/2000-16/10/2000)<br /><br />遥かなる母なる大地日本を目指して~Cuzco, NARITA編~<br />(17/10/2000-20/10/2000)<br /><br />【スケジュール】<br />2000年<br />08/26 成田空港~ロサンジェルス・ハリウッド(USA)泊<br />08/27 ロサンジェルス~サンディエゴ泊<br />08/28 サンディエゴ泊<br />08/29 サンディエゴ→ティファナ(メキシコ)~<br />08/30 ~ラパス泊<br />08/31 ラパス~<br />09/01 ~マサトラン~グアダラハラ泊<br />09/02 グアダラハラ~<br />09/03 ~メキシコシティ泊<br />09/04 メキシコシティ泊<br />09/05 メキシコシティ~テオティワカン~メキシコシティ泊<br />09/06 メキシコシティ~タスコ~メキシコシティ泊<br />09/07 メキシコシティ~<br />09/08 ~オアハカ・モンテアルバン~<br />09/09 ~タパチュラ~グアテマラシティ(グアテマラ)泊<br />09/10 グアテマラシティ~アンティグア泊<br />09/11 アンティグア泊<br />09/12 アンティグア泊<br />09/13 アンティグア泊<br />09/14 アンティグア泊<br />09/15 アンティグア泊<br />09/16 アンティグア泊<br />09/17 アンティグア~パナハッチェル泊<br />09/18 パナハッチェル~グアテマラシティ泊<br />09/19 グアテマラシティ~サンサルバドル(エルサルバドル)泊<br />09/20 サンサルバドル~テグシガルパ(ホンデュラス)泊<br />09/21 テグシガルパ~マナグア(ニカラグア)泊<br />09/22 マナグア泊<br />09/23 マナグア~サンホセ(コスタリカ)泊<br />09/24 サンホセ泊<br />09/25 サンホセ~モンテベルデ泊<br />09/26 モンテベルデ泊<br />09/27 モンテベルデ~サンホセ泊<br />09/28 サンホセ~パナマシティ(パナマ)泊<br />09/29 パナマシティ泊<br />09/30 パナマシティ~リマ(ペルー)泊<br />10/01 リマ泊<br />10/02 リマ泊<br />10/03 リマ泊<br />10/04 リマ~イキトス泊<br />10/05 イキトス泊<br />10/06 イキトス~リマ~<br />10/07 ~ナスカ~<br />10/08 ~アレキパ~<br />10/09 ~プーノ泊<br />10/10 プーノ泊<br />10/11 プーノ~クスコ泊<br />10/12 クスコ泊<br />10/13 クスコ泊<br />10/14 クスコ~マチュピチュ泊<br />10/15 マチュピチュ~クスコ泊<br />10/16 クスコ泊<br />10/17 クスコ~リマ~パナマシティ~サンホセ泊<br />10/18 サンホセ~ヒューストン~ロサンジェルス泊<br />10/19 ロサンジェルス~<br />10/20 ~成田空港

【復刻版】ラテンアメリカ縦断日記 10 謎の地上絵と湖上に浮かぶ葦の島々 ~Peru, Nazca, Alequipa, Puno編~

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2000/10/07 - 2000/10/10

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Miyatan

Miyatanさん

 復刻版第三弾。2000年8月~10月、二か月に渡る中南米縦断の旅。2020年時点、自分の人生の中で二番目に長い旅。当時は都内某私立大学政治学科の大学生で、一応は卒業論文(ゼミ論)の現地調査。もっとも私の学部は、別に書かなくても規定単位あれば卒業できます(当時は)。今はどうかは知りません。ちなみに国際行政学のゼミで、卒論のタイトルは「ラテンアメリカの開発政策」でした。今考えるとこの頃から旅が手段ではなく目的になってきた気がします。

 マレーシア航空の2カ月OPENチケットの成田~ロサンジェルスだけであとは完全に行き当たりばったり。最終的にはアメリカ、メキシコ、ベリーズ覗く中米五か国とペルーの訪問でした。最初はパナマからコロンビアに入り、エクアドル、ペルー、ボリビア、パラグアイ、ブラジル、ベネズエラと回り、カリブに飛びキューバ行って戻ろうという構想だったのですが、さすがに日数足りませんでした。

 デジカメやSNS、スマホなんてなかった時代ですが、何気に旅行記を自作のHPにアップしていました。1999年に独学でhtml勉強して、個人的に開設したジオシティーズのホームページですが、2019年3月をもってサービス終了で閉鎖になりました。ひっそりと移転はしたのですが、一部をフォートラの写真付旅行記として復刻版として再作成します。誤字脱字等は修正し、表現も一部改めますが、なるべく当時のままの文章でと思っています。写真は、APSフィルムで撮った当時の写真をデジカメで撮影しています。


帰って来た旅立ちの地(「ただいま」、思わずそう呟く)~USA編~
(26/08/2000-29/09/2000)

テキーラのアミーゴ達に捧げる唄~Mexico編~
(29/08/2000-09/09/2000)

マヤ民族の国とスペイン語語学学校~Guatemala編~
(09/09/2000-19/09/2000)

中米街道只今疾走中~El Salvador, Honduras, Nicaragua編~
(19/09/2000-23/09/2000)

軍隊なき花と緑と民主主義の楽園~Costa Rica編~
(23/09/2000-28/09/2000)

世界の十字路、運河の国、そして新たな旅立ちへ~Panama編~
(28/09/2000-30/09/2000)

フヒモリ大統領と悠久のアマゾンの大地~Peru, Lima, Iquitos編~
(30/09/2000-06/10/2000)

謎の地上絵と湖上に浮かぶ葦の島々~Peru, Nazca, Alequipa, Puno編~
(07/10/2000-10/10/2000)

古代インカ帝国の栄華と謎の空中都市~Peru, Cuzco, Machu Pichu編~
(11/10/2000-16/10/2000)

遥かなる母なる大地日本を目指して~Cuzco, NARITA編~
(17/10/2000-20/10/2000)

【スケジュール】
2000年
08/26 成田空港~ロサンジェルス・ハリウッド(USA)泊
08/27 ロサンジェルス~サンディエゴ泊
08/28 サンディエゴ泊
08/29 サンディエゴ→ティファナ(メキシコ)~
08/30 ~ラパス泊
08/31 ラパス~
09/01 ~マサトラン~グアダラハラ泊
09/02 グアダラハラ~
09/03 ~メキシコシティ泊
09/04 メキシコシティ泊
09/05 メキシコシティ~テオティワカン~メキシコシティ泊
09/06 メキシコシティ~タスコ~メキシコシティ泊
09/07 メキシコシティ~
09/08 ~オアハカ・モンテアルバン~
09/09 ~タパチュラ~グアテマラシティ(グアテマラ)泊
09/10 グアテマラシティ~アンティグア泊
09/11 アンティグア泊
09/12 アンティグア泊
09/13 アンティグア泊
09/14 アンティグア泊
09/15 アンティグア泊
09/16 アンティグア泊
09/17 アンティグア~パナハッチェル泊
09/18 パナハッチェル~グアテマラシティ泊
09/19 グアテマラシティ~サンサルバドル(エルサルバドル)泊
09/20 サンサルバドル~テグシガルパ(ホンデュラス)泊
09/21 テグシガルパ~マナグア(ニカラグア)泊
09/22 マナグア泊
09/23 マナグア~サンホセ(コスタリカ)泊
09/24 サンホセ泊
09/25 サンホセ~モンテベルデ泊
09/26 モンテベルデ泊
09/27 モンテベルデ~サンホセ泊
09/28 サンホセ~パナマシティ(パナマ)泊
09/29 パナマシティ泊
09/30 パナマシティ~リマ(ペルー)泊
10/01 リマ泊
10/02 リマ泊
10/03 リマ泊
10/04 リマ~イキトス泊
10/05 イキトス泊
10/06 イキトス~リマ~
10/07 ~ナスカ~
10/08 ~アレキパ~
10/09 ~プーノ泊
10/10 プーノ泊
10/11 プーノ~クスコ泊
10/12 クスコ泊
10/13 クスコ泊
10/14 クスコ~マチュピチュ泊
10/15 マチュピチュ~クスコ泊
10/16 クスコ泊
10/17 クスコ~リマ~パナマシティ~サンホセ泊
10/18 サンホセ~ヒューストン~ロサンジェルス泊
10/19 ロサンジェルス~
10/20 ~成田空港

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  • 10月7日(土)<br /> 早朝にナスカに到着した。あの「ナスカの地上絵」で有名なナスカである。ナスカ文化が栄えたこの地域に200平方キロメートルにも及ぶ、この乾燥した大地に描かれた謎の地上絵。一体誰が何のために…その謎は殆ど解明されていないといっていいだろう。地上絵はナスカの空港にあるセスナ機に乗って観覧する。よってバスを降りた瞬間ツアーの客引きがどっと押し寄せてくる。空中遊覧は、影の関係で地上絵がくっきりと見える午前中の早い時間帯に見るのが一般的である。夜行バスで疲れていたので、「イタリア人の友達がいるから、君がくれば人数的に丁度いい」といってきた人についていった。だがこれは失敗だったとはこの時点では全く気付かなかった。<br /><br /> やがてセスナ機は地上を飛び立った。結構酔うと聞いていて心配だったが、その心配は不要だった。なかなか快適な空の旅であるが、エンジン音がかなりうるさかった。セスナ機は右に左に旋回して、これが何の地上絵か説明してくれた。だけど地上絵自体あまり鮮明ではなく、また砂漠の風紋もあって、どれが地上絵だかよくわからなかった。だけど、ハチドリとか木とか、猿とかはよくわかった。これだけ広いエリアに一体誰が何のために地上絵を書いたのだろうか。謎は深まるばかりである。時間はあっという間に過ぎていった。地上に降りると日本人男性に会った。南半球に来て初めて日本人にあった気がした。彼もまた観覧飛行の順番を待っていた。<br /><br /> 次の目的地アレキパへ行くバスは全て夜行便なので、かなり暇であった。一体夜まで何をしてすごそうか。などと思いつつもセントロでボーッと椅子に腰掛けていたら、観覧飛行の勧誘の人が話し掛けてきた。別に乗り気でもなく適当に話していて、ある事実に気付いた。空港税をぼられていたのだ。本当は5ソルのところを、5ドル取られていた。(3ソル=1$くらい) そう考えるとたいした額でないと割り切ってしまえばそれまでなのだが、なんか腹立たしかった。勧誘の人が勧めていたホテルに行って、いろいろと聞いてみると、その犯人の名前がわかった。オーナーに勧められて飛行場に戻る。飛行機会社の人にクレームをつけると、バス乗り場で犯人を探すように勧められた。そしてなんと意外や意外、さっき会った彼はまだ順番を待っていた。あまりにも長い時間待たされていたので、ついにしびれを切らせて飛行機会社の人に相当文句を言っていた。というよりもはたから見ていると、ペルー人ってかなりいいかげん。バス乗り場に行くものの、結局見つからずに、飛行場に戻ると、丁度さっきの彼が遊覧飛行を終えたところだった。ついでだったので一緒に戻り、その車の中でボッタクリのことを懸命に話した。セントロに戻ってから数時間後、犯人捜索隊(?)が結成され、ボッタクリ犯の奥さんまで出陣して捜索が開始された。犯人はそうやってぼったくったお金で、麻薬をやっているという、かなり救いようのない奴である。だが結局見つからず。飛行機会社の人も、今から友達と飲むからといって10ソル渡してきて、一応の決着はついた形であった。やはりこういうところも習慣の違いだろうか。<br /><br /> 仕方がなく、警察に訴える。警察官は全く英語が話せないので、スペイン語で必死に説明する。だが相手にされなかった。ペルーの警察組織が腐敗しているのか、田舎町だから騒動を起こしたくないのか、あまりにありきたりの事件なのでいちいち相手にするのが面倒くさいのか、それとも騙される奴が悪いという感覚で動いているのかはよくわからない。だがこの教訓からいえることは、この国の動いているベクトルは日本とはまた違ったものであり、結局は公権力には頼らず自分自身の力で生き抜くしかないということである。その後犯人検挙のためにバスの到着時刻を見計らってバス停で犯人の出現を待つものの、結局あらわれなかった。かなり嫌な思いをした一日だった。だけど先ほど会った日本人男性には、ずっとその間中付き添ってもらって、少し悪い気もした。彼の名前はUさん。二年前の中国を皮切りに夫婦で世界一周の旅をしていたが、奥さんは途中でカルチャーショックが溜まって先に帰国してしまい、彼は単独で南米を南下している途中だった。恐らく30代後半くらいで、帰国後は夫婦で地元愛媛で世界の民芸品店を開業するつもりらしい。同じく次の目的地がアレキパだったので、これまでの旅のことについて語り合いつつも、夜行バスに乗る。ペルーの大地は何処までも乾ききっていた…。

    10月7日(土)
     早朝にナスカに到着した。あの「ナスカの地上絵」で有名なナスカである。ナスカ文化が栄えたこの地域に200平方キロメートルにも及ぶ、この乾燥した大地に描かれた謎の地上絵。一体誰が何のために…その謎は殆ど解明されていないといっていいだろう。地上絵はナスカの空港にあるセスナ機に乗って観覧する。よってバスを降りた瞬間ツアーの客引きがどっと押し寄せてくる。空中遊覧は、影の関係で地上絵がくっきりと見える午前中の早い時間帯に見るのが一般的である。夜行バスで疲れていたので、「イタリア人の友達がいるから、君がくれば人数的に丁度いい」といってきた人についていった。だがこれは失敗だったとはこの時点では全く気付かなかった。

     やがてセスナ機は地上を飛び立った。結構酔うと聞いていて心配だったが、その心配は不要だった。なかなか快適な空の旅であるが、エンジン音がかなりうるさかった。セスナ機は右に左に旋回して、これが何の地上絵か説明してくれた。だけど地上絵自体あまり鮮明ではなく、また砂漠の風紋もあって、どれが地上絵だかよくわからなかった。だけど、ハチドリとか木とか、猿とかはよくわかった。これだけ広いエリアに一体誰が何のために地上絵を書いたのだろうか。謎は深まるばかりである。時間はあっという間に過ぎていった。地上に降りると日本人男性に会った。南半球に来て初めて日本人にあった気がした。彼もまた観覧飛行の順番を待っていた。

     次の目的地アレキパへ行くバスは全て夜行便なので、かなり暇であった。一体夜まで何をしてすごそうか。などと思いつつもセントロでボーッと椅子に腰掛けていたら、観覧飛行の勧誘の人が話し掛けてきた。別に乗り気でもなく適当に話していて、ある事実に気付いた。空港税をぼられていたのだ。本当は5ソルのところを、5ドル取られていた。(3ソル=1$くらい) そう考えるとたいした額でないと割り切ってしまえばそれまでなのだが、なんか腹立たしかった。勧誘の人が勧めていたホテルに行って、いろいろと聞いてみると、その犯人の名前がわかった。オーナーに勧められて飛行場に戻る。飛行機会社の人にクレームをつけると、バス乗り場で犯人を探すように勧められた。そしてなんと意外や意外、さっき会った彼はまだ順番を待っていた。あまりにも長い時間待たされていたので、ついにしびれを切らせて飛行機会社の人に相当文句を言っていた。というよりもはたから見ていると、ペルー人ってかなりいいかげん。バス乗り場に行くものの、結局見つからずに、飛行場に戻ると、丁度さっきの彼が遊覧飛行を終えたところだった。ついでだったので一緒に戻り、その車の中でボッタクリのことを懸命に話した。セントロに戻ってから数時間後、犯人捜索隊(?)が結成され、ボッタクリ犯の奥さんまで出陣して捜索が開始された。犯人はそうやってぼったくったお金で、麻薬をやっているという、かなり救いようのない奴である。だが結局見つからず。飛行機会社の人も、今から友達と飲むからといって10ソル渡してきて、一応の決着はついた形であった。やはりこういうところも習慣の違いだろうか。

     仕方がなく、警察に訴える。警察官は全く英語が話せないので、スペイン語で必死に説明する。だが相手にされなかった。ペルーの警察組織が腐敗しているのか、田舎町だから騒動を起こしたくないのか、あまりにありきたりの事件なのでいちいち相手にするのが面倒くさいのか、それとも騙される奴が悪いという感覚で動いているのかはよくわからない。だがこの教訓からいえることは、この国の動いているベクトルは日本とはまた違ったものであり、結局は公権力には頼らず自分自身の力で生き抜くしかないということである。その後犯人検挙のためにバスの到着時刻を見計らってバス停で犯人の出現を待つものの、結局あらわれなかった。かなり嫌な思いをした一日だった。だけど先ほど会った日本人男性には、ずっとその間中付き添ってもらって、少し悪い気もした。彼の名前はUさん。二年前の中国を皮切りに夫婦で世界一周の旅をしていたが、奥さんは途中でカルチャーショックが溜まって先に帰国してしまい、彼は単独で南米を南下している途中だった。恐らく30代後半くらいで、帰国後は夫婦で地元愛媛で世界の民芸品店を開業するつもりらしい。同じく次の目的地がアレキパだったので、これまでの旅のことについて語り合いつつも、夜行バスに乗る。ペルーの大地は何処までも乾ききっていた…。

  • (セスナ機)

    (セスナ機)

  • 10月8日(日)<br /> 朝にアレキパに到着。Uさんと一緒に朝食を摂る。バス会社の人が「フリアカ、プーノ」とか大声で叫んでいたので、どのバス会社でも別にかまわなかったので、そのバスチケットを購入し、ついでに荷物を預けてもらう。Uさんはコンドルが出現する谷、カニョン・デル・コルカへ行くツアーに明日から参加したいそうなので、今日はここアレキパに宿を取るそうである。バスターミナルからタクシーに乗って宿泊するホテルを探す。宿が決まったら今度はツアー会社選び。全てが終了してから昼食を摂り、それから街へと繰り出す。

    10月8日(日)
     朝にアレキパに到着。Uさんと一緒に朝食を摂る。バス会社の人が「フリアカ、プーノ」とか大声で叫んでいたので、どのバス会社でも別にかまわなかったので、そのバスチケットを購入し、ついでに荷物を預けてもらう。Uさんはコンドルが出現する谷、カニョン・デル・コルカへ行くツアーに明日から参加したいそうなので、今日はここアレキパに宿を取るそうである。バスターミナルからタクシーに乗って宿泊するホテルを探す。宿が決まったら今度はツアー会社選び。全てが終了してから昼食を摂り、それから街へと繰り出す。

  •  ここアレキパはペルー第二の都市で、人口90万人、標高2380mであり、比較的気候もよく産業も発達している。ただ標高が少し高いところにいきなり来てしまったので、少し体調に異変が出ている気もした。第二の都市の割にはリマと比較しても高いビルなど全くと言っていいほどなく、のんびりとして地方都市という感じである。<br />

     ここアレキパはペルー第二の都市で、人口90万人、標高2380mであり、比較的気候もよく産業も発達している。ただ標高が少し高いところにいきなり来てしまったので、少し体調に異変が出ている気もした。第二の都市の割にはリマと比較しても高いビルなど全くと言っていいほどなく、のんびりとして地方都市という感じである。

  •  サンタカレリナ修道院を見学する。入場料が異常に高く入るべきかどうか少し迷ったが、結局入ることにした。中に入ると迷路のような回廊が続く。つい最近までここで外界との接触を断ち、修道生活が営まれていた。寝室や調理場や浴室だけではなく、内部には中庭や庭園や噴水まであり、まるで一種の町のように完結された世界であり非常に美しかった。<br /><br /> ここくらいしかそれほど興味のひかれるところがなく、ただぶらぶらと町中を歩いていたら、中央広場で偶然Uさんが知り合いと再会。なんとその彼もまた世界一周放浪の旅をしていたらしく、イスラエルやヨルダンやらで何回か会ったらしい。一緒にいた女の子と四人で近くの喫茶店に入る。<br /><br /> 彼女は大学休学中で、メキシコからゆっくりと南下しているそうである。僕の全然知らないような国々の話し、ジンバブエとかシリアとかタンザニアとかヨルダンとかの話題で盛り上がる。Uさんは帰国後に世界各地の民芸品を売る店を地元で開きたいそうなので、その話題でも盛り上がる。夜行バスでプーノに向かうので、時間が近づいてきたので三人と別れる。最後にわかったことだが、彼女は僕と同じ大学の文学部だった。世界は狭い。<br /><br /> バス乗り場に着いたものの、預けた荷物が見つからない。急いで会社の人に問い合わせたら他のバスターミナルに行ってしまったといわれ、とにかくバスに乗れという。一部の人が、「おい、チノ」とかしつこく馬鹿にしたように言ってくる。「チノ」というのは中国人のことだが、どうも中南米地域の人は中国人と思える人に対しては馬鹿にした態度をとってくる。しかも日本人と中国人の区別がつきにくいので、途中であった日本人とも話が一致するのだが、ひたすら一部の人は日本人にまで馬鹿にした態度をとる。そういった人に限って英語を全く話せない。教養レベルというものをひしひしと感じた。<br />

     サンタカレリナ修道院を見学する。入場料が異常に高く入るべきかどうか少し迷ったが、結局入ることにした。中に入ると迷路のような回廊が続く。つい最近までここで外界との接触を断ち、修道生活が営まれていた。寝室や調理場や浴室だけではなく、内部には中庭や庭園や噴水まであり、まるで一種の町のように完結された世界であり非常に美しかった。

     ここくらいしかそれほど興味のひかれるところがなく、ただぶらぶらと町中を歩いていたら、中央広場で偶然Uさんが知り合いと再会。なんとその彼もまた世界一周放浪の旅をしていたらしく、イスラエルやヨルダンやらで何回か会ったらしい。一緒にいた女の子と四人で近くの喫茶店に入る。

     彼女は大学休学中で、メキシコからゆっくりと南下しているそうである。僕の全然知らないような国々の話し、ジンバブエとかシリアとかタンザニアとかヨルダンとかの話題で盛り上がる。Uさんは帰国後に世界各地の民芸品を売る店を地元で開きたいそうなので、その話題でも盛り上がる。夜行バスでプーノに向かうので、時間が近づいてきたので三人と別れる。最後にわかったことだが、彼女は僕と同じ大学の文学部だった。世界は狭い。

     バス乗り場に着いたものの、預けた荷物が見つからない。急いで会社の人に問い合わせたら他のバスターミナルに行ってしまったといわれ、とにかくバスに乗れという。一部の人が、「おい、チノ」とかしつこく馬鹿にしたように言ってくる。「チノ」というのは中国人のことだが、どうも中南米地域の人は中国人と思える人に対しては馬鹿にした態度をとってくる。しかも日本人と中国人の区別がつきにくいので、途中であった日本人とも話が一致するのだが、ひたすら一部の人は日本人にまで馬鹿にした態度をとる。そういった人に限って英語を全く話せない。教養レベルというものをひしひしと感じた。

  • (Uさんとツーショット)

    (Uさんとツーショット)

  • 10月9日(月)<br /> 隣りのおばちゃんはすごい親切だったけど、それ以外の乗客は最悪だった。荷物紛失未遂事件のときも「チノ、チノ」とか陰口を叩く人が多くて本当に嫌だった。隣りの人や近くのおばちゃんのぬくもりに触れていた。少しだけお話もした。なんともフリアカには泥棒が多く危険らしい。<br /><br /> どれくらい時間がたったのだろうか。なんとなく気分が悪い。腹の調子が悪いのに加えて、次第に空気が薄くなってきたのに加えて、バスが舗装されていない道を行き、さらに窓ガラス越しに寒気が流れ込む。かなり最悪の状態であった。外を眺めるとかすかに雪も積もっている。時折舗装されているものの、道は殆ど舗装されておらず険しい道を何処までも行く。それでもやっとプーノに到着。まだ暗かったが、とりあえず何とか休みたかったので客引きの言うままに、「Virgen de las Nieves 」という宿を取り、午前中のウロス島ツアーの申し込みを行った。午後からのツアーの申し込みはなぜかためらった。そのまま眠りにつく。<br /><br /> やがてウロス島ツアーが始まる。まずはボートに乗って島に向かう。途中トトラという葦が生えた地帯の横を通る。ボートに乗ったインディヘナの人たちがそれらを刈っている。やがて島に到着。本当に何から何まで葦で出来ていて、少々驚いた。島の大地は足を踏みしめるたびに揺れてまるでトランポリンのようだった。少女たちが自分たちで描いた絵を見せて「私の働いているところよ」なんて誇らしげに教えてくれるところが可愛らしい。さらに幼い子供たちが、たまたま港で買った林檎を見て、「マンサナ、マンサナ」と必死にねだる。なんともいじらしかった。織物売りのおばちゃんが、何処で日本語を覚えたのか「お姉さん、コンプラ(買って)」なんて話し掛けてくる。島と島を結ぶ小船もトトラ製である。小さな島ではあるが、学校もあり、病院もありで一つのコミュニティーが完結しているようだった。インディヘナの人たちは顔が赤くて頬があかぎれている気がする。やはり標高が高いゆえの紫外線の強さと、夜間の冷え込みが主たる要因であろう。ここもまた電気も水道も電話もガスもないような文明とはかけ離れた村ではあるが、それでも立派にコミュニティーを形成していると思えた。<br /><br /> 帰るとしばらく休む。なんか何処となく体がだるくて気分が悪い。というよりも息苦しい。湖畔ある簡易診療所へ向かう。ここプーノの町は前方に座席をつけて後方に自転車を付けてこぐタクシーが多い。しかし簡易診断所は閉まっていた。偶然あのリマでであったドイツ人集団に再会。彼らの勧められるままに病院に行く。病院はまったくといっていいほど英語が通じなかった。仕方なく必死にジェスチャーで息苦しいということをアピールしたら、運ばれてベッドの上に寝かされて、鼻から酸素吸入器をあてがわれた。隣りに何人かよくわからないけど(ドイツ人ぽかった)、英語と西語が達者な人がいたおかげでだいぶ助かった。発熱もあるとかで注射も打たれた。しばらく寝ていたんだと思う。気がついたら日が暮れていて、辺りには誰もいなかった。生まれて初めての入院生活が始まろうとしているのだろうか…。<br /><br />10月10日(火)<br /> 気がついたら朝になっていた。まだ少し息苦しいけど、確かに体調は少しよくなってきていた。以前と比べると調子はいいようだ。女医さんが来て、薬の処方箋と治療費の請求書を渡された。持ち合わせがなかったので後で払うといったら、了承してくれた。とにかく今日中は食事はスープだけにして、明日から普段通りにするように言われた。薬を買おうとしたら17ソルで、また持ち合わせがなかったので一旦宿に戻った。<br /><br /> 帰って事情を話すと、宿の人や向かいの売店のおばちゃんが心配してくれた。昼頃にまた病院に行くものの、さっきの女医さんが見つからない。困ってうろうろしているとたまたま英語が話せる医者がいたので事情を話す。たまたま今日いる女医さんは一人だったので、何とか彼女に会うことが出来た。今度は食事は普段どおりにとっていいといわれ、薬はまた違ったのになっていて12ソルだった。こんなにコロコロ変わるペルーの医療に少し疑問を覚えた。ペルーの病院の患者はやや貧しそうな人々に思えた。自分が病気になって初めての医療、特に途上国の医療の大切さを感じた。どんなに貧しい人たちでも平等に、そして高度な医療を受けることができるようになって欲しい、そう願った。何かあったらと連絡先を教えてくれて、必死に自分のことを励ましてくれた女医さんのぬくもりがありがたかった。<br /><br /> 結局体調を崩して、精神的に疲れたのと、時間の都合と、ボリビア国内の情勢がかなり悪化しているので、ボリビア行きはあきらめた。明日の列車でクスコに向かうことにした。あまりやることもなく町中をぶらぶらしていた。ペルーは非常に日本車のお下がりの多い国である。タクシーもたまに日本の業務用の車がそのまま使われており、○○商店とか○○会社といった文字が目に付く。コレクティーボに使われている車両には、○○幼稚園とか○○自動車学校なんて文字が目に付く。そう言えば中米はアメリカのバスのお下がりが多かった。路線バスにはアメリカの旧式のボンネット式スクールバスが使われており、乗る際に少し戸惑ったくらいである。町中を歩いていると青色でJRという文字が入ったバスがあった。恐らくJR西日本バスのお下がりをデラックスバスとして使われているのであろう。日本人からすれば非常に滑稽な姿である。ペルー人はうけをねらっているのか、なんとなく格好いいと思っているのか、それとも単に消すのが面倒くさかっただけなのか。車なんて動けばいい、そう考えてしまえば高級車を買うことが馬鹿らしく感じてくる。<br /> <br /> それにしてもここの宿のオーナーは最悪だった。「チノ」とか馬鹿にしたような態度をとりつづけたと思えば、何か苦情を言って手伝ってもらうと、プレゼントを要求してきたり、ちょっと待てといいつつ三十分~一時間も待たされたりと、恐らく国内外今まで利用してきた100箇所以上の宿の中でもワースト1だろう。

    10月9日(月)
     隣りのおばちゃんはすごい親切だったけど、それ以外の乗客は最悪だった。荷物紛失未遂事件のときも「チノ、チノ」とか陰口を叩く人が多くて本当に嫌だった。隣りの人や近くのおばちゃんのぬくもりに触れていた。少しだけお話もした。なんともフリアカには泥棒が多く危険らしい。

     どれくらい時間がたったのだろうか。なんとなく気分が悪い。腹の調子が悪いのに加えて、次第に空気が薄くなってきたのに加えて、バスが舗装されていない道を行き、さらに窓ガラス越しに寒気が流れ込む。かなり最悪の状態であった。外を眺めるとかすかに雪も積もっている。時折舗装されているものの、道は殆ど舗装されておらず険しい道を何処までも行く。それでもやっとプーノに到着。まだ暗かったが、とりあえず何とか休みたかったので客引きの言うままに、「Virgen de las Nieves 」という宿を取り、午前中のウロス島ツアーの申し込みを行った。午後からのツアーの申し込みはなぜかためらった。そのまま眠りにつく。

     やがてウロス島ツアーが始まる。まずはボートに乗って島に向かう。途中トトラという葦が生えた地帯の横を通る。ボートに乗ったインディヘナの人たちがそれらを刈っている。やがて島に到着。本当に何から何まで葦で出来ていて、少々驚いた。島の大地は足を踏みしめるたびに揺れてまるでトランポリンのようだった。少女たちが自分たちで描いた絵を見せて「私の働いているところよ」なんて誇らしげに教えてくれるところが可愛らしい。さらに幼い子供たちが、たまたま港で買った林檎を見て、「マンサナ、マンサナ」と必死にねだる。なんともいじらしかった。織物売りのおばちゃんが、何処で日本語を覚えたのか「お姉さん、コンプラ(買って)」なんて話し掛けてくる。島と島を結ぶ小船もトトラ製である。小さな島ではあるが、学校もあり、病院もありで一つのコミュニティーが完結しているようだった。インディヘナの人たちは顔が赤くて頬があかぎれている気がする。やはり標高が高いゆえの紫外線の強さと、夜間の冷え込みが主たる要因であろう。ここもまた電気も水道も電話もガスもないような文明とはかけ離れた村ではあるが、それでも立派にコミュニティーを形成していると思えた。

     帰るとしばらく休む。なんか何処となく体がだるくて気分が悪い。というよりも息苦しい。湖畔ある簡易診療所へ向かう。ここプーノの町は前方に座席をつけて後方に自転車を付けてこぐタクシーが多い。しかし簡易診断所は閉まっていた。偶然あのリマでであったドイツ人集団に再会。彼らの勧められるままに病院に行く。病院はまったくといっていいほど英語が通じなかった。仕方なく必死にジェスチャーで息苦しいということをアピールしたら、運ばれてベッドの上に寝かされて、鼻から酸素吸入器をあてがわれた。隣りに何人かよくわからないけど(ドイツ人ぽかった)、英語と西語が達者な人がいたおかげでだいぶ助かった。発熱もあるとかで注射も打たれた。しばらく寝ていたんだと思う。気がついたら日が暮れていて、辺りには誰もいなかった。生まれて初めての入院生活が始まろうとしているのだろうか…。

    10月10日(火)
     気がついたら朝になっていた。まだ少し息苦しいけど、確かに体調は少しよくなってきていた。以前と比べると調子はいいようだ。女医さんが来て、薬の処方箋と治療費の請求書を渡された。持ち合わせがなかったので後で払うといったら、了承してくれた。とにかく今日中は食事はスープだけにして、明日から普段通りにするように言われた。薬を買おうとしたら17ソルで、また持ち合わせがなかったので一旦宿に戻った。

     帰って事情を話すと、宿の人や向かいの売店のおばちゃんが心配してくれた。昼頃にまた病院に行くものの、さっきの女医さんが見つからない。困ってうろうろしているとたまたま英語が話せる医者がいたので事情を話す。たまたま今日いる女医さんは一人だったので、何とか彼女に会うことが出来た。今度は食事は普段どおりにとっていいといわれ、薬はまた違ったのになっていて12ソルだった。こんなにコロコロ変わるペルーの医療に少し疑問を覚えた。ペルーの病院の患者はやや貧しそうな人々に思えた。自分が病気になって初めての医療、特に途上国の医療の大切さを感じた。どんなに貧しい人たちでも平等に、そして高度な医療を受けることができるようになって欲しい、そう願った。何かあったらと連絡先を教えてくれて、必死に自分のことを励ましてくれた女医さんのぬくもりがありがたかった。

     結局体調を崩して、精神的に疲れたのと、時間の都合と、ボリビア国内の情勢がかなり悪化しているので、ボリビア行きはあきらめた。明日の列車でクスコに向かうことにした。あまりやることもなく町中をぶらぶらしていた。ペルーは非常に日本車のお下がりの多い国である。タクシーもたまに日本の業務用の車がそのまま使われており、○○商店とか○○会社といった文字が目に付く。コレクティーボに使われている車両には、○○幼稚園とか○○自動車学校なんて文字が目に付く。そう言えば中米はアメリカのバスのお下がりが多かった。路線バスにはアメリカの旧式のボンネット式スクールバスが使われており、乗る際に少し戸惑ったくらいである。町中を歩いていると青色でJRという文字が入ったバスがあった。恐らくJR西日本バスのお下がりをデラックスバスとして使われているのであろう。日本人からすれば非常に滑稽な姿である。ペルー人はうけをねらっているのか、なんとなく格好いいと思っているのか、それとも単に消すのが面倒くさかっただけなのか。車なんて動けばいい、そう考えてしまえば高級車を買うことが馬鹿らしく感じてくる。

     それにしてもここの宿のオーナーは最悪だった。「チノ」とか馬鹿にしたような態度をとりつづけたと思えば、何か苦情を言って手伝ってもらうと、プレゼントを要求してきたり、ちょっと待てといいつつ三十分~一時間も待たされたりと、恐らく国内外今まで利用してきた100箇所以上の宿の中でもワースト1だろう。

  • (チチカカ湖で地元の少女と)<br />

    (チチカカ湖で地元の少女と)

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この旅行記へのコメント (2)

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  • らびたんさん 2020/10/25 19:08:12
    チナ
    Miyatanさん、こんばんは^^

    ペルーはイキトスも行かれたんですね。
    うらやましい。
    蚊に刺されやすいんですが、やっぱそういうの気にしてたら難しい場所ですか?
    もちろん化学兵器をたくさん持って行きますが。

    チナチナうるさかったです。
    あの頃(2008)はまだそういうの慣れてなかったし、旅行者のこちらから弱み?手の内?を見せるようなこともやってしまったり、ペルーでは旅の経験値を積んだと思います。

    ナスカもアレキパも行ってないです。
    9連休ってやっぱり短いもんですね。

    ところでカメラは水没後どうされたんでしょうか?
    現地で新しく調達でしょうか。

    らびたん

    Miyatan

    Miyatanさん からの返信 2020/10/25 23:51:41
    Re: チナ
    らびたんさん、こんばんは^^

    イキトスも行きました。蚊はもう虫よけスプレーかけて、蚊取り線香焚くしかないでしょう、電気式でもいいかもしれませんが。

    ちなみにこの時乗ったリマからのタンス航空ですが、2004年にプカルパ(今回の経由地)で40名死亡の墜落事故を起こしていて、その後経営破綻して消滅しています。怖いです。。。

    確かに、ペルーに限らないのですが、この当時はチノチノうるさかったです。ただ、今年行ったコロンビアとか3年前に行ったエクアドルでは、ほぼチノチノ言われませんでした。時代の変化なのか、場所によって違うのかわかりません。

    ナスカはもしかしたらリマから遊覧飛行行けたかもしれません。日本から一週間程度でリマ、クスコ、マチュピチュ、チチカカ湖となるとアレキパは時間的に厳しいかもしれません。

    カメラは水没後、イキトスの町で現地調達しました。一応帰国後保険おりました。いま改めて文章読み返したら、カメラ現地調達したこと書いていなかった。。。ピンクイルカとかピラニアの写真がないのが残念です。

    Miyatan@一年ぶりの映画館で「鬼滅の刃」をレイトショーで観てきました

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