2020/06/12 - 2020/06/12
296位(同エリア759件中)
杏仁豆腐さん
特別展「奇才ー江戸絵画の冒険者たち―」が東京都江戸東京博物館で開催されています。
新型コロナウイルスのため、6月2日(火)~6月21日(日)に短縮されての開催です。北は北海道から南は九州まで、全国から35人の奇才絵師を集め、その個性溢れる作品を選りすぐり紹介しています。貴重な機会ですので、出かけました。館内は空いていて、ゆっくりと鑑賞できました。
江戸東京博物館を出て、人形町まで歩きました。気温も上がり、汗を拭きながらの散策。街はマスクをした人々がたくさん。昼時の人形町はランチを求めて、移動の時間でした。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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両国界隈はひっそりとした雰囲気。
江戸東京博物館も団体客がいないので、静かです。 -
江戸時代には、従来の常識を打ち破り、斬新で個性的な表現に挑んだ「奇才」と呼ぶべき絵師たちが、全国で活躍。
伊藤若冲、長澤蘆雪、曾我蕭白、歌川国芳ら、過激で強烈な個性を放つ絵師にとどまらず、従来の江戸絵画史において“主流派”として語られてきた尾形光琳、円山応挙らも新しい表現に挑み続けました。 -
入口で、検温、アルコールで手を消毒し、館内に入ります。
江戸時代に新しい表現に取り組んだ東西の絵師35人の個性的な作品を見ることができます。 -
音声ガイドのナビゲーターは、花江夏樹(声優)
特別解説は安村敏信(本展監修) -
これほどまでの奇異な作品を集めた展覧会は今までになかったのではないでしょうか。
葛飾北斎、丸山応挙、伊藤若冲、葛飾北斎などの王御所はもちろんですが、中村芳中や耳鳥斎の作品に引き付けられました。 -
とても貴重な作品を鑑賞することができました。
久しぶりの絵画鑑賞。この空間と時間を待っていました。 -
江戸東京博物館を出て、人形町まで歩きます。
回向院。 -
旧国技館跡
旧国技館は、天保4年(1833)から回向院で相撲興行が始まったことから、明治42年(1909)に、その境内に建設されました。建設費は28万円(現在の価値では75億円程度)です。
ドーム型屋根の洋風建築で、収容人数は1万3千人でした。開館当時は両国元町常設館という名前でしたが、翌年から国技館という呼び方が定着し、大鉄傘と愛称されました。
東京大空襲まで、三度の焼失があり、戦後は米軍に接収され、返還後は日大講堂などとして利用されていました。昭和58年(1983)に解体されました。
左手奥の両国シティコアビル中庭の円形は、当時の土俵の位置を示しています。 -
いのしし料理の「ももんじや」
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「日乃恩や忽ち砕く厚氷」と刻まれた石碑があります。
赤穂浪士の大高源吾が読んだ句です。
真ん中の碑は「両国橋」についての由緒書です。 -
右には「両国橋と百本杭」。
両国橋と百本杭
両国橋の風景を特徴づけるもののひとつに、百本杭があります。昭和5年(1930)に荒川不水路が完成するまで、隅田川には荒川、中川、綾瀬川が合流していました。そのため隅田川は水量が多く、湾曲部ではその勢いが増して川岸が浸食されました。
両国橋付近はとりわけ湾曲がきつく流れが急であったため、上流からの流れが強く当たる両国橋北側には、数多くの杭が打たれました。水中に打ち込んだ杭の抵抗で流れを和らげ、川岸を保護するためです。夥しい数の杭はいつしか百本杭と呼ばれるようになり、その光景は隅田川の風物詩として人々に親しまれるようになりました。
江戸時代の歌舞伎では、多くの作品の重要な場面に「両国百本杭の場」が登場します。「十六夜清心」でも、冒頭に「稲瀬川百本杭の場」がおかれています。稲瀬川は鎌倉を流れる川の名ですが、歌舞伎の中では隅田川に見立てられることがあります。観客は「百本杭」という言葉から、この場面が実は隅田川を舞台としていることに気づくのです。百本杭はそれほど人々に知られた場所だったのです。
また、明治17年(1884)に陸軍参謀本部が作成した地図には、両国橋北側の川沿いに細かく点が打たれ、それが百本杭を示しています。
明治35年(1902)に幸田露伴は『水の東京』を発表し、「百本杭は渡船場の下にて、本所側の岸の川中に張り出たるところの懐をいふ。岸を護る杭のいと多ければ百本杭とはいふなり。このあたり川の東の方水深くして、百本杭の辺はまた特に深し。こゝにて鯉を釣る人の多きは人の知るところなり」と富士見の渡の南側から見られた様子を綴っています。このほか、本所向島に親しんだ多くの文人が、百本杭と往時の記憶について書き留めています。
しかい、明治時代末期から始められた護岸工事で殆どの杭は抜かれ、百本杭と隅田川がおりなす風情は今では見られなくなりました。 -
両国橋を渡ります。
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隅田川
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御臨幸記念碑
中央区立日本橋中学校の脇にあります。
この記念碑は、大正12年(1923)の関東大震災で被災した東京が見事に復興したした様子を、昭和5年(1930)に昭和天皇が日本橋中学校(当時は千代田小学校)の校庭に立ち寄り視察した記念に、昭和8年(1933)に建立したものです。 -
御臨幸記念碑に記された当時の記録の現代語訳
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浜町藪そばに来ました。
こちらで昼食です。
明治37年に「かんだ藪」から日本橋浜町へ暖簾分けで開店し、現在の店主は13代目だそうです。 -
とろろそば(冷) をいただきました。
汗を拭き拭き、とろろと蕎麦をすすりました。 -
湯桶が老舗を表しています。
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勧進帳の弁慶像もマスク姿。
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甘酒横丁を歩きます。京菓子司 彦九郎。
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わらび餅
もちもちと弾力のあるわらび餅は、口に入れるとなめらかに溶ける、当店こだわりの逸品です。溶けた後に口の中に残る、きな粉の風味豊かな香ばしさは、一度食べたらやみつきになるリピート率No.1の商品です。
(HPより) -
現店主の祖父が京都で創業し、昭和26年に東京人形町に移店。その後兄弟分かれをして、平成16年に新大橋店を、平成17年にこの甘酒横町店をオープンしたそうです。
雰囲気のある箱入りです。 -
ぷるんぷるんのわらび餅。
みずみずしく、美味しい。程よい甘さです。 -
明治44年創業の鳥忠。
人形町に、来るとよく寄ります。
玉子焼きで有名です。 -
あぶり焼きチキンとむねナンコツを購入しました。
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あれこれと食べたくなる焼き鳥が並んでいます。
焼鶏も人気です。 -
人形町志乃多寿司總本店
明治10年創業、140年の歴史を持つ大阪寿司の専門店です。
1877年(明治10年)に屋台として始まり、その後、現在の地に店を構えました。歌舞伎の人情話「葛の葉子別れ」の場面に登場する古歌、“恋しくば尋ねてきてみよ和泉なる 信田(しのだ)の森のうらみ葛の葉”にちなんで、店の名をつけたそうです。 -
黄菊と押し寿司三色を購入しました。
美しい黄金色の茶巾寿司の黄菊。実に上品な仕上がりです。 -
押し寿司三色は、焼き穴子、バッテラ、紅鮭です。
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甘酒横丁は、老舗も多く、わくわくする通りです。
お土産を持ち、帰宅しました。
暑い日のマスクは苦痛です。
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