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安乗埼灯台資料館で灯台の歴史をまなびました。<br />GPSの時代になって,大変化ですね。現在,世界中の船がどこにいるのかインターネットで分かるのをご存知ですか。(飛行機も同じ。)

安乗埼灯台資料館で灯台の歴史をまなびました。灯台の役割も変わりましたね。

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2020/06/08 - 2020/06/08

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nomonomo

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安乗埼灯台資料館で灯台の歴史をまなびました。
GPSの時代になって,大変化ですね。現在,世界中の船がどこにいるのかインターネットで分かるのをご存知ですか。(飛行機も同じ。)

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
交通
1.5
交通手段
自家用車
旅行の手配内容
個別手配

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  • 資料館があります。

    資料館があります。

    安乗埼灯台 名所・史跡

  • 入りましょう。

    入りましょう。

    安乗埼灯台資料館 美術館・博物館

  • みおつくし<br /><br />灯台は、夜の目じるしとなるものだが、昼間の航海の目じるしも必要である。<br />奈良時代には、すでに木の杭を水路にうちこんだ「水尾津串(みおつくし)」 と呼ばれるもの<br />があったという。<br />天和、貞亨年間(1681-7) 大阪安治川を改修した時,下図のような「みおじる<br />し」を立て水路を示した。この時代には、みおつ<しは「水尾木」と変化し,ま<br />た「水深木」「澪標」の字が用いられるようになった。<br />現在の大阪市の市章は、このみおじるしに由来するものである。

    みおつくし

    灯台は、夜の目じるしとなるものだが、昼間の航海の目じるしも必要である。
    奈良時代には、すでに木の杭を水路にうちこんだ「水尾津串(みおつくし)」 と呼ばれるもの
    があったという。
    天和、貞亨年間(1681-7) 大阪安治川を改修した時,下図のような「みおじる
    し」を立て水路を示した。この時代には、みおつ<しは「水尾木」と変化し,ま
    た「水深木」「澪標」の字が用いられるようになった。
    現在の大阪市の市章は、このみおじるしに由来するものである。

  • 改税約書(江戸条約)により、剣埼、観音埼等、十カ所に<br />灯台を設置することを要求され、それを受け入れる<br /><br />外国人による灯台建設<br />開国後、下関事件の賠償問題とからんで幕府 <br />が米仏英蘭と結んだ改税約書には11条に、灯台 <br />設置が要求されていた。<br />幕府倒壊後、横須賀製鉄所首長フランス人技 <br />術者ヴエル二ーらは,明治2 年初の西洋式灯台 <br />である、観音埼灯台を完工させた。<br />しかし、フランス人技師による灯台の設置は  <br />4 基のみで、それ以後はブラントン率いるイギ <br />リス人技術団があたつた。ブラントンは、幕府 <br />軍艦やイギリス軍艦を用い明治2 年以後は、専 <br />用の業務用船「燈明丸」「テーボール号」等で調 <br />査測量を行い,安乗埼灯台(明治6 年4 月)を <br />はじめ8年間に28基を完成させた。<br />また政府は灯台の保守要員(灯台守)育成の <br />ためイギリス人指導員を,灯台に配属した。<br />おかげで、明治10年代には、全ての灯台事業<br />が日本人の手によつて行えるようになつたので <br />ある。<br /><br />日野吉三郎が石川県の福浦港に燈明台を設ける<br />九州小倉の藩主細川氏が、大分県姫島に篭火を使った燈明台を設ける<br /><br />近世海運の発達<br />江戸時代、急激な人口増加のため、糧米は欠 <br />乏した。そこで幕府は陸奥に糧米を求め幕臣河 <br />村瑞賢に、下関、大阪を経て江戸へ至る西回り <br />の漕運を開かせた。<br />瑞賢は,大阪を経て江戸へ至る間に,佐渡小 <br />木、能登福良、但馬柴山,石見温泉、長門下関, <br />摂津大阪、紀伊大島、伊勢万坐、志摩安乗、伊 <br />豆下田に避泊の港を定め、役人を置いて船の出 <br />入を管理させた。<br />そして難所だった志摩国菅島の白埼山に篝火 <br />灯台が設けられたことにより,江戸―上方間の <br />海運に非常な便宜を与えることになった。

    改税約書(江戸条約)により、剣埼、観音埼等、十カ所に
    灯台を設置することを要求され、それを受け入れる

    外国人による灯台建設
    開国後、下関事件の賠償問題とからんで幕府
    が米仏英蘭と結んだ改税約書には11条に、灯台
    設置が要求されていた。
    幕府倒壊後、横須賀製鉄所首長フランス人技
    術者ヴエル二ーらは,明治2 年初の西洋式灯台
    である、観音埼灯台を完工させた。
    しかし、フランス人技師による灯台の設置は
    4 基のみで、それ以後はブラントン率いるイギ
    リス人技術団があたつた。ブラントンは、幕府
    軍艦やイギリス軍艦を用い明治2 年以後は、専
    用の業務用船「燈明丸」「テーボール号」等で調
    査測量を行い,安乗埼灯台(明治6 年4 月)を
    はじめ8年間に28基を完成させた。
    また政府は灯台の保守要員(灯台守)育成の
    ためイギリス人指導員を,灯台に配属した。
    おかげで、明治10年代には、全ての灯台事業
    が日本人の手によつて行えるようになつたので
    ある。

    日野吉三郎が石川県の福浦港に燈明台を設ける
    九州小倉の藩主細川氏が、大分県姫島に篭火を使った燈明台を設ける

    近世海運の発達
    江戸時代、急激な人口増加のため、糧米は欠
    乏した。そこで幕府は陸奥に糧米を求め幕臣河
    村瑞賢に、下関、大阪を経て江戸へ至る西回り
    の漕運を開かせた。
    瑞賢は,大阪を経て江戸へ至る間に,佐渡小
    木、能登福良、但馬柴山,石見温泉、長門下関,
    摂津大阪、紀伊大島、伊勢万坐、志摩安乗、伊
    豆下田に避泊の港を定め、役人を置いて船の出
    入を管理させた。
    そして難所だった志摩国菅島の白埼山に篝火
    灯台が設けられたことにより,江戸―上方間の
    海運に非常な便宜を与えることになった。

  • 誕生までの歴史<br /><br />安乗港は,もと畔乗とも記し志摩国府に近い港であり,<br />周囲には暗礁が多<、古<は、安乗埼、大王埼、鎧埼をも<br />つて志摩三埼と称し、海の難所とされていた。<br /><br />寛文12年(1672) 河村瑞賢の西回り航路開設にあたり,<br />安乗に風待ち港としての重要性を認め、幕府直轄の船番所<br />と篝火を設置した。<br /><br />また、それとは別に、宝永年間(1704-10)には船問屋<br />衆が管理する燈明台があり、これは入港船から灯費を徴収<br />していた模様で明治14年まで続いた。<br />

    誕生までの歴史

    安乗港は,もと畔乗とも記し志摩国府に近い港であり,
    周囲には暗礁が多<、古<は、安乗埼、大王埼、鎧埼をも
    つて志摩三埼と称し、海の難所とされていた。

    寛文12年(1672) 河村瑞賢の西回り航路開設にあたり,
    安乗に風待ち港としての重要性を認め、幕府直轄の船番所
    と篝火を設置した。

    また、それとは別に、宝永年間(1704-10)には船問屋
    衆が管理する燈明台があり、これは入港船から灯費を徴収
    していた模様で明治14年まで続いた。

  • 洋式木造灯台の建設<br /><br />安乗埼灯台は明治6 年和式の燈明台を取りこわし,この<br />地に建てられた。<br />イギリス人技術者ブラントンが監督にあたつた16番目の灯<br />台で、けやきによる堅固な白い八角木造であつた。<br />開設当初ゆるやかだった岬も海食により地盤が崩れたた <br />め、昭和5 年に南方に約6 メートル(21尺)後退させ、さ<br />らに昭和23年場所を移し鉄筋コンクリートで新築された。<br />初代の木造灯台は、その後、浜離宮公園、第三管区本部 <br />構内へと移設され、現在、東京都品川区の「船の科学館」<br />に保存されている。

    洋式木造灯台の建設

    安乗埼灯台は明治6 年和式の燈明台を取りこわし,この
    地に建てられた。
    イギリス人技術者ブラントンが監督にあたつた16番目の灯
    台で、けやきによる堅固な白い八角木造であつた。
    開設当初ゆるやかだった岬も海食により地盤が崩れたた
    め、昭和5 年に南方に約6 メートル(21尺)後退させ、さ
    らに昭和23年場所を移し鉄筋コンクリートで新築された。
    初代の木造灯台は、その後、浜離宮公園、第三管区本部
    構内へと移設され、現在、東京都品川区の「船の科学館」
    に保存されている。

  • 軍艦『春雨」沈没事件<br /><br />明治44年11月24日早朝、安乗埼灯台看守から,安乗崎の<br />対岸鳥羽市相差(おうさつ)沖で船が難破しているとの急報を受けた安<br />乗村では、地元民が救助のため現場に急行した。<br /><br />遭難した春雨艦は,明治36年進水した,排水量381 トンの<br />日本海軍でもっとも早<建造された駆逐艦で、日露戦争に<br />も活躍した軍艦であつた。<br /><br />遭難地点は、相差の東南端に突して安乗崎とともに的矢 <br />湾を囲む、菅崎の海岸を距てた90メートル余の暗礁で、海 <br />の難所とされていた。<br /><br />この事故の際、2 週間余り安乗村全村民は、家業をさて<br />おいて、救助、たき出し、そして遺体の収容は安乗・相差<br />の海女の献身的な潜水作業により行われるなど、その適切<br />な処置は海軍大臣の感謝状とともに、のちの村民にも語り<br />つがれている。

    軍艦『春雨」沈没事件

    明治44年11月24日早朝、安乗埼灯台看守から,安乗崎の
    対岸鳥羽市相差(おうさつ)沖で船が難破しているとの急報を受けた安
    乗村では、地元民が救助のため現場に急行した。

    遭難した春雨艦は,明治36年進水した,排水量381 トンの
    日本海軍でもっとも早<建造された駆逐艦で、日露戦争に
    も活躍した軍艦であつた。

    遭難地点は、相差の東南端に突して安乗崎とともに的矢
    湾を囲む、菅崎の海岸を距てた90メートル余の暗礁で、海
    の難所とされていた。

    この事故の際、2 週間余り安乗村全村民は、家業をさて
    おいて、救助、たき出し、そして遺体の収容は安乗・相差
    の海女の献身的な潜水作業により行われるなど、その適切
    な処置は海軍大臣の感謝状とともに、のちの村民にも語り
    つがれている。

  • レンガ造灯台<br /><br />フランス人ヴェル二ーによつて建設されたわが国初の洋式<br />灯台は、レンガ造,四角形白塗りの観音埼灯台だった。(ヴエ <br />ル二ーの作った4基の灯台は全てレンガ造)<br /><br />レンガは,量産可能で施工が容易な点をかわれ,重用され  <br />たが、耐久性や強度、製造上の問題から、明治30年以降衰退 <br />し始めた。<br /><br />灯台建設も明治33年、沖縄県三重城灯台を最後に,レンガ  <br />造は、新設されなかった。<br /><br />さらに後年の関東大震災によつて、ヴエル二ーによつて建 <br />設されたレンガ造4 灯台のうち、観音埼、野島埼、城ケ島の <br />3 灯台が倒壊し,残存した品川灯台は現在、愛知県犬山市の <br />明治村に保存されている。

    レンガ造灯台

    フランス人ヴェル二ーによつて建設されたわが国初の洋式
    灯台は、レンガ造,四角形白塗りの観音埼灯台だった。(ヴエ
    ル二ーの作った4基の灯台は全てレンガ造)

    レンガは,量産可能で施工が容易な点をかわれ,重用され
    たが、耐久性や強度、製造上の問題から、明治30年以降衰退
    し始めた。

    灯台建設も明治33年、沖縄県三重城灯台を最後に,レンガ
    造は、新設されなかった。

    さらに後年の関東大震災によつて、ヴエル二ーによつて建
    設されたレンガ造4 灯台のうち、観音埼、野島埼、城ケ島の
    3 灯台が倒壊し,残存した品川灯台は現在、愛知県犬山市の
    明治村に保存されている。

  • 写真。

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  • 石造灯台<br /><br />日本初の石造灯台は、イギリス人技師ブラントンによって<br />明治3年につくられた樫野埼灯台で基礎上の灯高4. 5mとい<br />う、低いものであつた。<br /><br />明治初期の石造灯台で最も難工事であつたものは、神子元<br />島灯台である。<br />工事は明治2年に開始され,約I年9カ月を要した。<br />高さ22メートルで建設以来幾多の風浪に耐え,1 世紀を経<br />過した今日においてもなお現役としての大役をはたしてい<br />る。<br /><br />建築用の石材は,輸送の都合上,主に建築地付近から産出<br />するものが使用された。<br />日本は古来、築城等の経験から,伝統的な石工技術を有し<br />てはいたが、灯塔のような高層建築物は,ブラントンらの技<br />術指導に得るものが多く,塔高40 m前後を誇る出雲日御碕灯<br />台(明治36年)や水ノ子島灯台(明治37年)のような大灯台<br />の建設が実現したのである。

    石造灯台

    日本初の石造灯台は、イギリス人技師ブラントンによって
    明治3年につくられた樫野埼灯台で基礎上の灯高4. 5mとい
    う、低いものであつた。

    明治初期の石造灯台で最も難工事であつたものは、神子元
    島灯台である。
    工事は明治2年に開始され,約I年9カ月を要した。
    高さ22メートルで建設以来幾多の風浪に耐え,1 世紀を経
    過した今日においてもなお現役としての大役をはたしてい
    る。

    建築用の石材は,輸送の都合上,主に建築地付近から産出
    するものが使用された。
    日本は古来、築城等の経験から,伝統的な石工技術を有し
    てはいたが、灯塔のような高層建築物は,ブラントンらの技
    術指導に得るものが多く,塔高40 m前後を誇る出雲日御碕灯
    台(明治36年)や水ノ子島灯台(明治37年)のような大灯台
    の建設が実現したのである。

  • 鉄造灯台<br /><br />鉄造灯台の最初のものは、長崎港外伊王島灯台である。こ<br />れは明治4 年7 月初点の鉄造六角形である。<br /><br />当時わが国において使用された鉄材は,ほとんどヨーロッパ<br />からの輸入品であり,非常に高価なものであつた。<br /><br />従って,鉄造灯台が最も多<採用されたのは,国内の鉄工<br />業が興隆し始めた明治18年ごろ,北海道宗谷岬灯台からだっ<br />た。<br /><br />その後大灯台が相次いで建設されたが,所在地が海岸地方<br />のため,発錆がひどく、保守に費用と労力がかかつた。<br /><br />しかし,最近高張力鋼の進出により,耐食性が著しく向上<br />したため、これを用いた主要防波堤灯台,海上の大型灯台(灯<br />標)が相次いで建設されている。

    鉄造灯台

    鉄造灯台の最初のものは、長崎港外伊王島灯台である。こ
    れは明治4 年7 月初点の鉄造六角形である。

    当時わが国において使用された鉄材は,ほとんどヨーロッパ
    からの輸入品であり,非常に高価なものであつた。

    従って,鉄造灯台が最も多<採用されたのは,国内の鉄工
    業が興隆し始めた明治18年ごろ,北海道宗谷岬灯台からだっ
    た。

    その後大灯台が相次いで建設されたが,所在地が海岸地方
    のため,発錆がひどく、保守に費用と労力がかかつた。

    しかし,最近高張力鋼の進出により,耐食性が著しく向上
    したため、これを用いた主要防波堤灯台,海上の大型灯台(灯
    標)が相次いで建設されている。

  •  コンクリート造灯台<br /><br />コンクリート造灯台の始まりは,明治17年竣功の鞍埼灯台である。<br />しかし、当時はまだ、要所の補強には石材が使用されていた。<br /><br />明治20年代になり、セメントの品質向上から、新しい施行 <br />法が、続々と生み出された。そして、コンクリートの一般普 <br />及にともなって,明治末期から大正にかけて、30基以上の無<br />筋コンクリート造灯台が建設された。<br /><br />明治45年,日本初の鉄筋コンクリート造の清水灯台が点灯。 <br />その後、サンフランシスコ大地震や関東大震災を経て、鉄 <br />筋コンクリートは価値を認められ、灯台建設に技術革新をも<br />たらした。

    コンクリート造灯台

    コンクリート造灯台の始まりは,明治17年竣功の鞍埼灯台である。
    しかし、当時はまだ、要所の補強には石材が使用されていた。

    明治20年代になり、セメントの品質向上から、新しい施行
    法が、続々と生み出された。そして、コンクリートの一般普
    及にともなって,明治末期から大正にかけて、30基以上の無
    筋コンクリート造灯台が建設された。

    明治45年,日本初の鉄筋コンクリート造の清水灯台が点灯。
    その後、サンフランシスコ大地震や関東大震災を経て、鉄
    筋コンクリートは価値を認められ、灯台建設に技術革新をも
    たらした。

  • 写真。

    写真。

  • 安乗埼灯台<br /><br />安乗埼灯台は、明治6 年4 月に建設された、 白色八<br />角形の総欅造りの木造灯台で、高さは約13メートルでした。<br />発器は第四等六面閃光レンズで、光源には,二重心石油火口を使用していました。<br />当時行燈の光しかしらなかつた人々は、驚愕の目を<br />見張るとともに、海難事故の減少を非常に喜び御燈明 <br />と呼んでいました。<br /><br />その後、大正12年には光源が石油蒸発白熱燈に変わ<br />り,昭和7 年電灯を使用する様になりまレたが、寄る <br />年波には勝てず昭和23年に現在の白色四角形のコンク<br />リート造に新築されました。<br /><br />この模型は、木造の安乗埼灯台を1/3スケールに縮小して復元したものです。

    安乗埼灯台

    安乗埼灯台は、明治6 年4 月に建設された、 白色八
    角形の総欅造りの木造灯台で、高さは約13メートルでした。
    発器は第四等六面閃光レンズで、光源には,二重心石油火口を使用していました。
    当時行燈の光しかしらなかつた人々は、驚愕の目を
    見張るとともに、海難事故の減少を非常に喜び御燈明
    と呼んでいました。

    その後、大正12年には光源が石油蒸発白熱燈に変わ
    り,昭和7 年電灯を使用する様になりまレたが、寄る
    年波には勝てず昭和23年に現在の白色四角形のコンク
    リート造に新築されました。

    この模型は、木造の安乗埼灯台を1/3スケールに縮小して復元したものです。

  • 1/3模型です。

    1/3模型です。

  • 安乗埼灯台の歴史<br /><br />一六八一年(延宝九年)<br />河村瑞賢,西廻り航路を開く<br />徳川幕府が船の道標として燈明台を建立<br /><br />一八七三年(明治六年四月一日)<br />灯台の父と呼ばれるリチャード・ヘンリー・<br />ブラントン設計による、木造八角形灯台建立(総ケヤキ造り)<br /><br />一九四八年(昭和ニ十三年八月)<br />海蝕等による地盤の崩れにより,現在のコンクリートになる<br />全国的にも珍しい四角い灯台<br /><br />一九五七年(昭和三十二年十月一日)<br />「喜びも悲しみも幾年月」映画公開 <br />八番目の赴任先として安乗埼灯台が登場する<br /><br />一九八八年(昭和六十三年十月)<br />無人灯台自動で点灯<br /><br />二〇〇四年(平成十六年四月ニ十九日)<br />参観灯台となり、一般般公開される<br />全国では十四カ所目の参観灯台<br /><br />二〇一三年(平成ニ十五年三月二十九日)<br />国の登録有形文化財となる

    安乗埼灯台の歴史

    一六八一年(延宝九年)
    河村瑞賢,西廻り航路を開く
    徳川幕府が船の道標として燈明台を建立

    一八七三年(明治六年四月一日)
    灯台の父と呼ばれるリチャード・ヘンリー・
    ブラントン設計による、木造八角形灯台建立(総ケヤキ造り)

    一九四八年(昭和ニ十三年八月)
    海蝕等による地盤の崩れにより,現在のコンクリートになる
    全国的にも珍しい四角い灯台

    一九五七年(昭和三十二年十月一日)
    「喜びも悲しみも幾年月」映画公開
    八番目の赴任先として安乗埼灯台が登場する

    一九八八年(昭和六十三年十月)
    無人灯台自動で点灯

    二〇〇四年(平成十六年四月ニ十九日)
    参観灯台となり、一般般公開される
    全国では十四カ所目の参観灯台

    二〇一三年(平成ニ十五年三月二十九日)
    国の登録有形文化財となる

  • 公園となっています。<br />いいところです。

    公園となっています。
    いいところです。

    安乗岬園地 公園・植物園

  • もらったパンフレット。

    もらったパンフレット。

  • 説明。

    説明。

  • 資料館の説明。

    資料館の説明。

  • 灯台の入場券。

    灯台の入場券。

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